デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
3款 神宮御造営奉賛有志委員会
■綱文

第41巻 p.514-529(DK410105k) ページ画像

大正元年8月9日(1912年)

是ヨリ先、栄一、東京市長阪谷芳郎・東京商業会議所会頭中野武営・近藤廉平等ト東京市民ノ熱望ニヨリ、明治天皇ヲ奉祀スル神宮ヲ都下ニ建設センコトヲ首唱シ、是日、東京商業会議所ニ東京市各公共団体主脳者ト会シ神宮御造営奉賛有志委員会ヲ組織シ、委員長ニ推サル。爾後数次会合ヲ催シ、覚書ヲ作成、首相以下各大臣ニ提出、更ニ各委員ト共ニ首相・宮相ヲ歴訪シテ陳情ニ努メ、翌二年八月、重ネテ請願書ヲ内務大臣ニ提出セリ。大正二年十月二十八日、神宮創建ノ議ハ閣議決定ヲ見、神宮奉祀調査委員会設立ス。即チ当会ハ其目的ヲ達シタレバ大正三年十二月十四日解散セリ。


■資料

明治神宮外苑志 明治神宮奉賛会編 第一頁 昭和一二年八月刊(DK410105k-0001)
第41巻 p.514 ページ画像

明治神宮外苑志 明治神宮奉賛会編  第一頁 昭和一二年八月刊
  第一篇 造営
    第一章 明治神宮奉賛会の創立
      第一節 趣旨
 明治四十五年七月三十日、曠世の聖天子 明治天皇の崩御し給ふや億兆挙げて慟哭せざるなく、帝徳の窮り無きを追懐して已まず、越えて二日、大正元年八月一日、在京の有志は協議会を東京商業会議所に開き委員二十名を選定して、帝都に御陵御造営の議を請願することに決し、男爵渋沢栄一・東京市長男爵阪谷芳郎・東京商業会議所会頭中野武営の諸氏は官民有志を代表して請願書を当路に致したるも、御陵は 大行天皇御在世中既に伏見桃山に御内定ありたるを知り、此に神宮奉祀の議起り○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第六〇〇―六〇四頁 自昭和二年一一月―至昭和五年七月(DK410105k-0002)
第41巻 p.514-515 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六〇〇―六〇四頁 自昭和二年一一月―至昭和五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十一回 昭和三年一月三十一日 於渋沢事務所
    一、明治神宮の建立を主唱せられしに就て
先生「これには長い因縁がある。此企ては決して遇然ではないが、其動機の出処は意外の人にあつた。明治大帝が七月三十日に崩御になると、其翌日だつたか、当時日本橋区の区会議長をして居つた先代柿沼谷蔵氏が、突然兜町の私の事務所に訪ねて来て『大帝の崩御は申すも畏いことであるが、それについて御陵墓を是非関東に御とどめ申し度い。之れは日本橋全区民の希望であるから、誰か重立つた人に奔走をお願し度いと思つて居つた処、幸貴方が此区に御出になるからと思つて参つた』との事を頼まれた。成程さう云はれて見
 - 第41巻 p.515 -ページ画像 
ると尤もである。今迄関東には御陵墓がない。歴代皆大和・山城・近江等に限られて居る。そこで日本橋区ではどうでもして 明治大帝の御陵墓は関東に御据え願はなければならぬ。若し望みがかなわなければ、御柩の列車の通る線路に轢死してゞも御引止め申すと迄云つて居たさうである。当時西園寺さんが総理大臣で、宮内大臣は渡辺千秋さんであつた。『総理大臣も宮内大臣も、私が懇意の方だから一応日本橋区民の意向を申して見やう』と柿沼氏に答へて、先づ渡辺さんに会つて此事を伝へ、それから西園寺さんにも同じ事を頼んだ。すると西園寺さんは此事に就て其翌日私に返答して『最早御陵墓は桃山にきまつて居るとの事である』と云はれた。そこで私から更に此旨柿沼氏に伝へて『我々としては誠に残念ではあるが、桃山と定まつて居る上は如何とも致方ない。此上御列車を御止め申す等の事は却つてよくないから、何か外に良い思考を計画した方がよからう』とすゝめた。それから私は東京商業会議所会頭の中野武営氏と東京市長の阪谷に『今日本橋区で斯んな話がある』と相談した。すると御社の御造営は如何であらうかと云ふ話が出た。之に就ては弁護士の角田真平氏が頻りに骨を折つて中野氏等と相談した。そして東京市民三百人ばかり集つて明治神宮奉賛会を組織し、種々話を具体的に進めた。此時には斯うした事件がもう内務省関係に移つて居つたから、早速内務大臣の原敬さんに奉賛会の計画を陳情して見ると、原さんが『其事なら暫く待つて呉れ。必ず貴方々の満足の行く方法を執るから』との返事だつた。○下略
  ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


明治神宮奉賛会通信 第四号附録 大正五年四月 明治神宮奉賛会経過(大正五年三月四日 麻布区役所楼上にて演説) 副会長 男爵 阪谷芳郎氏談(DK410105k-0003)
第41巻 p.515-516 ページ画像

明治神宮奉賛会通信  第四号附録 大正五年四月
    明治神宮奉賛会経過(大正五年三月四日 麻布区役所楼上にて演説)
             副会長 男爵 阪谷芳郎氏談
      一 明治神宮奉建事情
御承知の通り、明治四十五年の七月、私が東京市長を拝命致しますと間も無く、実に今から思ひましても涙の種である処の明治天皇の御大患と云ふ非常な出来事が起りましたので、其当時の東京市中の有様又市民の様子は今から想像致しましても、所謂足が地に着かぬと云ふやうな、殆んど茫然自失と云ふ有様でありました、私も市役所の方から度々宮城の方に伺ひに出ましたが、二重橋の外には実に数万の市民が夜昼集つて、或は炎天に照され、或は雨露に曝され、偏へに御回復を祈つて居つた有様は、今も尚目に残つて居りまして、実に其時の事を考へますと覚えず涙の落つるやうな次第でございます。然るに市民の此熱誠なる祈願も其甲斐なく、段々御様子が御悪く成りまして遂にお崩れになりました、其当時東京市中の熱心な方々が段々御相談に御出でに成りまして、又日本橋区はじめ各区では色々決議があつて、長年御恩を蒙つた処の天子様であるから、何うぞ、御陵を是非東京に造つて、責めて先帝の御遺骸を永世御護りするやうにしたい、其事を何うか宮内省なり政府の当局なりへ市長から申し上げて呉るやうに、と云
 - 第41巻 p.516 -ページ画像 
ふ切なる御依頼もありましたので、渋沢男爵又商業会議所会頭の中野武営さんなどへ私から市長として相談を致しまして、之等の方と一緒に市民の切なる請願を申上げましたが、其当時の御話では、既に先帝の御陵は先帝御在世中から桃山に略々御極めになつてある、ハツキリ先帝が御明言あつた訳ではないが、桃山は好い処だ、アレは是非取つて置けと云ふ事を、曾て宮内大臣に御話があつた、其時の御心持は先帝百歳の後は御遺骸を此地に葬むれと云ふやうな御意味に察せられたそれで宮内省では桃山を神地として残してあると云ふやうな事でありまして、言はゞ既に御陵墓の場所は先帝自ら御極めに成つて居ると云ふやうな話を承りました、又其時に宮内大臣の御話に、先帝は非常に京都が御好きであらせられたから、時には京都の方へ行幸に成つたら如何でございますかと伺ひましたら先帝の御言葉に、己は京都に生れて又京都で育つたから京都は大変好きだ、京都へ行くと東京に帰りとも無い気持ちがする、夫故に己は京都へ行かぬ、東京は帝都にして大切の地だから東京の地は離れない、国家の為めにも離れてはならぬ、どうも京都へ行き度いが夫れ故京都へは行かぬと仰しやつたので、宮内大臣も返す言葉も無く、夫れ程迄に東京を思ふて頂くかといつて落涙したと云ふやうな御話もありました、私も渋沢・中野両氏も此話を承りまして、それぢや何うも致方が無い、左程迄に京都が御好きであつて御陵地も京都に暗に御極めになつて居られる、さうして御在世中は斯く迄お好きの京都へ御出でにならないで東京に居つて頂いたのであるから、此上御願申上ぐる次第も御座いませぬと云ふやうな事で引退りましたのであります、扨然る上は何とか御陵墓の代りに先帝の御遺物御紀念《カタミ》として、永世に伝ふるよき方法は無いであらうかと云ふ事を又段々申し上げました、其時分には未だ明治神宮と云ふ考は定つては居らなかつたので御座いますが、何とか御陵に次ぐやうな物で大恩を受けた先帝の御紀念になるよい方法は無いものであらうかと云ふ話がありまして、段々其話が進んで行くに従つて、是は何うか東京の真中に一つ御宮が出来たら如何であろう、さうして先帝を御祭りする事に成つたら一番よい方法ではあるまいかと云ふ事に成りました、其処で此趣を政府当局・元老・宮内省等にも申し上げました処が、夫は誠に殊勝な考だ、併し唯今は御諒闇中であるから、それが済んだ上で詮議を進めやうと云ふ事に成りました○下略


各個別青淵先生関係事業年表(DK410105k-0004)
第41巻 p.516-517 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表       (渋沢子爵家所蔵)
    明治神宮奉建
 明治四十五年七月三十日
明治天皇崩御
 大正元年八月一日
青淵先生・阪谷市長・中野会議所会頭ハ御陵墓ヲ東京ニ御治定ニナルヤウ当局ニ陳情スルコトヲ協議ス
 大正元年八月二日
協議ノ結果、青淵先生・阪谷市長・近藤男爵・中野会頭ヲ臨時委員トシテ当局者ニ請願運動ヲ行フ、青淵先生ハ直ニ西園寺首相及渡辺宮相
 - 第41巻 p.517 -ページ画像 
ヲ訪フ(但シ御陵ハ先帝御在世中ヨリ伏見桃山ニ御内定アリ)
 大正元年八月七日
青淵先生・阪谷市長・近藤廉平男・中野会頭ハ会議所ニ会合シテ、神宮奉建ノ事ヲ議ス
 大正元年八月九日
実業家・代議士・市当局者等百余名ハ会議所ニ会合シ、青淵先生座長ニナリ、神宮奉建ヲ協議ス、委員ノ選定ヲ行フ、青淵先生ヲ委員長ニ推ス
 大正元年八月十四日
会議所ニ於テ委員会ヲ開キ、青淵先生始メ委員列席シ且市当局者ノ出席ヲ求メ、覚書ヲ作成ス、覚書ニハ神宮ノ内苑・外苑ノ奉建等具体策ヲ示ス
 大正元年九月九日
青淵先生ハ西園寺首相・原内相ヲ訪フ、神宮建設委員会ノ希望ヲ述ベ議会ニ神宮建設案ヲ政府案トシテ提出セラレタキ旨ヲ伝フ
 大正元年九月二十七日
青淵先生ヲ始メ委員等ハ首相・宮相ヲ訪問シ覚書ヲ提示シ意見ヲ求ム○下略


中外商業新報 第九四三八号 大正元年八月七日 明治神宮建立協議会(DK410105k-0005)
第41巻 p.517 ページ画像

中外商業新報  第九四三八号 大正元年八月七日
    明治神宮建立協議会
渋沢・近藤両男及び中野武営氏等主唱、曩に第一回会合を催ふせる明治神宮建立の件に就き更らに来る九日午前九時より、東京商業会議所に東京市関係主脳者と重なる実業家と協議会を開く事に決定、六日左の諸氏に対し夫々通牒を発したり
 豊川良平・早川千吉郎・池田謙三・安田善次郎・大倉喜八郎・高田慎蔵・加藤正義・浜口吉左衛門・佐竹作太郎・高松豊吉・男爵郷誠之助・角田真平・星野錫・大橋新太郎・日比谷平左衛門・根津嘉一郎・杉原栄三郎・浅野総一郎・朝吹英二・村井吉兵衛・園田実徳・牟田口元学・阿部泰蔵・男爵武井守正・森村市左衛門・佐々木勇之助・前川太兵衛・志村源太郎・古河虎之助・服部金太郎・松方巌・原六郎・菊池長四郎・清野長太郎・末延道成・福原有信


中外商業新報 第九四三九号 大正元年八月八日 ○明治神社御建設協議(DK410105k-0006)
第41巻 p.517 ページ画像

中外商業新報  第九四三九号 大正元年八月八日
    ○明治神社御建設協議
七日午後三時東京商業会議所に於て、渋沢男・中野会頭・阪谷市長・近藤男の四氏参集し、九日午前十時より会合し明治神社建設の協議会を開くべきに付其順序の下相談をなしたるが、先づ当日は市内重なる実業家・在京代議士・市当局者三百余名集合する筈なれば、座長として渋沢男を推すことに決し、夫れより阪谷市長より御陵を東京に御設定の哀願を宮中に為し、其他当局者を歴訪したる旨の経過を報告し、又青山御式場を以て明治神社を建設することを哀願の件を協議することとし散会せり

 - 第41巻 p.518 -ページ画像 

竜門雑誌 第二九一号・第七三―七六頁 大正元年八月 ○明治神宮奉建の議(DK410105k-0007)
第41巻 p.518-520 ページ画像

竜門雑誌  第二九一号・第七三―七六頁 大正元年八月
    ○明治神宮奉建の議
△東京市民の熱誠 先帝陛下の御陵墓を東京に御治定あらせられたる《(衍)》ことは、東京二百万市民の挙つて熱望せし所なるが、其筋に於て詮議の結果、愈々京都桃山と決せられ、大葬の御儀式のみ東京青山に於て営ませらるゝ旨仰出されたるを以て、此上は東京附近に荘厳なる明治神社を建立し、先帝陛下御遷都以来僅々四十五年間に、我帝国をして斯くの如く世界列強と伍して毫も遜色なき迄に、泰山の安きに置かせ給ひたる御聖徳御鴻業を追慕し奉ると同時に、国民に活ける教訓を垂れさせ給はんことこそ願はしけれとは、二百万市民の熱望して已まざる所なるが、七月一日青淵先生《(八)》には阪谷市長・近藤男爵・中野武営氏等と東京商業会議所に相会し、凝議の結果、各々要路の人々に対し、希望を開陳する事とし、即日より手分して歴訪せられたるが、越て
△二日の協議会 青淵先生・近藤廉平男・中野武営・早川千吉郎其他諸氏は、翌二日午後東京商業会議所に会合し、東京市長・警視総監も出席協議の結果、取敢えず宮内省其他の当局者を歴訪して請願を為すに就ては臨時委員を設くるの必要ありとして、青淵先生・阪谷市長・近藤廉平男・中野武営氏に臨時委員を嘱託したり、玆に於て青淵先生等は直に西園寺首相及渡辺宮相を訪問して市民誠意の存する所を陳情する所ありしに、首相及宮相等は其意を諒として、大体に於ては異存なき旨を言明せられたる由
△七日の協議会 越えて七日午後三時青淵先生・阪谷市長・近藤廉平男・中野武営氏は東京商業会議所に参集し、九日午前十時より開会せらるべき明治神社建設協議会に付、其順序及議事整理等の下相談を為したり、九日には市内の重なる実業家・在京代議士・市当局者等百余名参会する筈なれば、座長には青淵先生を推し、夫れより阪谷市長より市長及臨時委員が宮内省其他の当局者を歴訪して、東京に先帝の御陵御設定の御許可あるやう請願を為したる経過を報告し、次で青山御式場を以て明治神社御建設地と為すの哀願の件に就て協議を遂ぐることに決して、午後五時散会せり
△九日の聯合協議会 予定の如く各団体聯合協議会は九日午前十時より東京商業会議所に開催せらる、一同着席するや、中野武営氏は開会の挨拶に次いて座長推薦の提議を為し、衆議を以て青淵先生を推すに決す、即ち青淵先生座長席に着く、先づ阪谷市長より霊廟建立に就て各方面に対する交渉顛末の報告あり、次で角田真平氏は臨時委員として奔走尽力せられたる青淵先生・阪谷市長・近藤男・中野武営氏に対し、斡旋の労を謝し、次で青淵先生は粛然起つて述べて曰く
 予は先帝崩御以来御来会者中未だ御目にかゝらざる諸君もあれど、実に崩御の事は御同様遺憾の極みにして何とも申上ぐ可き言葉無し(此時涙潸々たり、場場寂として声なし)扨て本日此の会合を致すに至りしは、最初日本橋区会議長柿沼谷蔵氏より、同区会が御陵墓安置の希望より転じて神宮建立の希望となり、其熱情の程言語に尽し難し、併し斯る状態は独り本区のみならず、全市一般に恐らく当区以上なる者あらん、足下は当路の大官に知己も有れば、何卒右の
 - 第41巻 p.519 -ページ画像 
希望を達すべく奔走されたしとの事なりしを以て、去一日阪谷市長近藤・中野両氏と当会会議所に会して凝議の結果、各夫々要路の人人に対して希望を開陳する事となり、予は先づ井上侯に面会して其希望を述べたるに対し、侯は神宮奉祀の大体に就ては何処迄も賛成なるも、其方法を如何にするかは当局者たる西園寺首相或は渡辺宮相に計られたし、然し乍ら当局より予に協議ありし場合には、東京市民の至情左もある可き事なれば、其実行に努められたき旨勧説すべしと述べられたり、次で松方侯に面会して同く希望を述べたるに侯は井上侯と略ぼ同様の答なりき、次で山県公に面会して希望を開陳したるに、公は希望の大体には賛成なるが斯る事を遂行せんとするには充分将来を考慮したる上ならざれば種々なる害を生ずる事なきにしもあらず、臣民の例を引き奉るは恐れ多き事なれども、曾て毛利家にて忠誠社を建立せんとせし時の如き事もあれば、当初充分注意を要すべしと述べられたり、而して渡辺宮相には既に前日も次官を経て希望を上申し置きしが、昨日再び面会し改めて其希望を述べたるに、宮相は個人としては固より賛成なるが、未だ何等の詮議無きを以て、其実行方法を如何にすべきかは考へ居らず、頃日来東京市民其他各団体の希望協議等ある由なれば、兎に角其実行方法等に就き纏りたる事項を覚書として示されなば之を参考とす可しとて極めて懇篤に述べられ、尚ほ西園寺首相に面会せしに、首相も大体賛成せられしも、青山の位置は地勢樹木等適当なりとは思はれず」
との意見なりと報告し、次で近藤男よりも山県公其他訪問の経過報告あり、之れに次で肥塚竜氏より曩に委任せる前記四委員の外、更らに区会議長・市選出代議士・市会議員及府会議員中より、各一名宛の委員を出して之れに加へん事を提議して、異議なく之を可決し、尚ほ此新委員選定は旧委員に一任する事とし、更に青淵先生より神宮建設に関する事は此等委員に於て主として取計ふべきも、若し又協議を要する事ある時は参集せられん事を求むとの挨拶ありて散会せるが、引続き旧委員は別室に会して関直彦(代議士)・江間俊一(市会議長)・杉原栄三郎(府会議長)・柿沼谷蔵(区会議長)の四氏を新委員に選任し、且つ委員の互選にて、青淵先生を委員長に推選して散会せり、当日の来会者は青淵先生・松方侯・三島子・高橋・近藤男、武井男・土方伯・土屋大将(以上二氏斯道会代表)・徳川伯(日本弘道会代表)・長谷場文相・大岡衆議院議長・大倉喜八郎・志村源太郎・早川千吉郎・池田謙三・村井吉兵衛・加藤正義・服部金太郎・佐竹作太郎・清野長太郎氏百十四名なりしと
△十二日の委員会 九日の協議会に於て選定せられたる特別委員会は十二日午前九時より東京商業会議所に於て開会せらる、青淵先生・阪谷市長・近藤男・中野武営・関直彦・江間俊一・杉原栄三郎・柿沼谷蔵諸氏の八委員及び角田真平・星野錫両氏も加はり、種々協議の結果神宮奉建に関する具体的成案の作成は阪谷市長・中野武営の両氏に一任する事を議決して散会したり。
△十四日の委員会 越えて十四日午後二時半より東京商業会議所に於て委員会を開かれたり、出席者は青淵先生・阪谷市長・近藤男爵・中
 - 第41巻 p.520 -ページ画像 
野武営、関・星野両代議士、角田真平・柿沼谷蔵諸氏及び東京市役所より原田助役・田島営繕課長・日下部技師長の三氏陪席し、先づ起草委員阪谷市長・中野武営氏の報告に係る覚書の報告あり。
      覚書
神宮は内苑外苑の地域を定め、内苑は国費を以て、外苑は献費を以て御造営の事に定められ度候、神宮内苑は代々木御料地、外苑は青山旧練兵場を以て最も適当の地と相し候、但内苑外苑間の道路は外苑の範囲に属するものとす
外苑内へは頌徳紀念の宮殿、及臣民の功績を彰すべき陳列館、其他林泉等の設備を施し度候、以上の方針定つて後、諸般の設計及経費の予算を調製し、爰に神宮御造営奉賛会を組織し、献費取纏めの順序を立て度候
国費及献費の区別及神苑造営の方針は速に決定せられ、其国費に関する予算は政府より帝国議会へ提案せらるゝ事に致度候
青山に於ける御葬場殿は或る期間を定め之を存置し、人民の参拝を許され候事に致度候
前項の御葬場殿御取除けの後も、該地所の清浄を保つ為め、差向東京市に於て相当の設備を為して之を保管し、追て神苑造営の場合には、永久清浄の地として人民の参拝に便なる設備を施し度候
前文の覚書を以て先づ其筋へ交渉をなし、其方針の決定を待つて諸般の準備に着手すべき事。
右の覚書は満場一致を以て是認せられたれども、委員中当日欠席者ありしを以て、其人々の意見を徴する為め廿日午前九時より更めて委員会を開きて確定することに決して散会したり、因に実業家側の会合は翌十六日午前九時より東京商業会議所に開催する筈なりと。
                     (八月十五日起稿)


中外商業新報 第九四四八号 大正元年八月一七日 ○神宮奉祠内協議 実業家側と区会側(DK410105k-0008)
第41巻 p.520-521 ページ画像

中外商業新報  第九四四八号 大正元年八月一七日
    ○神宮奉祠内協議
      実業家側と区会側
渋沢・近藤両男を始め中野武営氏及び左記神宮奉祠に関する実業家側の各委員諸氏は、十六日午前九時半より東京商業会議所に参集し、本紙前々号所載の覚書を議題として内協議会を開きたるが、何れも原案に異議なく、唯覚書第四項中の「神宮御造営云々」とあるは、前項に於て「内苑は国費を以て」とし「外苑は献費を以て御造営云々」とあるに対し稍々明瞭を欠くの嫌ひあれば「外苑御造営云々」とする事に修正する事とし、来る廿日開会の各方面代表者聯合会に提議する事と決して十二時散会せり、尚ほ当日は未だ其地域も定まらず御造営方針も定まらざる事とて、経費・予算等に関しては更に話題にすら上らざりしと、当日参集の諸氏左の如し
  早川千吉郎   豊川良平   志村源太郎
  古河虎之助   高田慎蔵   加藤正義
  浜口吉右衛門  菊池長四郎  佐竹作太郎
  高松豊吉    角田真平   清野長太郎
 - 第41巻 p.521 -ページ画像 
  杉原栄三郎   朝吹英二   園田実徳
  福原有信    伊藤幹一   三村君平
  渡辺対三    関根親光   山科礼蔵
尚ほ市内十五区会議長一同も、同日午前十時より日本橋倶楽部に相会し、同じく覚書を原案として内協議をなしたるが、何れも原案通り異議なきより、一同は各区会に之を謀り、また廿日の聯合会までに全部意見を取纏むる事に決して十一時過散会せり


渋沢栄一書翰 佐々木和亮宛 大正元年八月一五日(DK410105k-0009)
第41巻 p.521 ページ画像

渋沢栄一書翰  佐々木和亮宛 大正元年八月一五日   (佐々木哲亮氏所蔵)
(謄写版)
拝啓、陳ハ先帝陛下御神霊奉祠ノ件ニ付、其後委員会ニ於テ種々協議ヲ重ネ委員会案ヲ協定致候間、右案ニ就キ来ル廿日午前九時ヨリ東京商業会議所ニ於テ御協議会相開候条、御繰合御来会被下度此段御通知申上候
  大正元年八月十五日
                  委員長
                     渋沢栄一
    佐々木和亮殿


中外商業新報 第九四五六号 大正元年八月二五日 ○神宮奉建委員会 更に委員を増加(DK410105k-0010)
第41巻 p.521 ページ画像

中外商業新報  第九四五六号 大正元年八月二五日
    ○神宮奉建委員会
      更に委員を増加
市及各団体の大行天皇神宮造営に関する委員会は廿四日午前十時東京商業会議所に開会、渋沢・近藤両男爵、中野武営氏以下各委員出席渋沢男爵より渡辺宮内大臣及西園寺総理大臣訪問過般総会に於て決定せる覚書を提出せる次第を報告し、更に今後の活動に便するがため委員十二名を増員し、其人選は追て渋沢男より指名することとし散会せり


中外商業新報 第九四六六号 大正元年九月四日 ○神宮奉祠会委員嘱托(DK410105k-0011)
第41巻 p.521 ページ画像

中外商業新報  第九四六六号 大正元年九月四日
    ○神宮奉祠会委員嘱托
実業家・市会其他聯合の明治神宮奉祠会にては、従来阪谷市長、渋沢近藤両男及中野武営の四氏専ら委員として各方面への交渉等に当り居りしも、愈々具体的に協議の進捗するに従ひ、委員増員の必要生じ、今回更に左の諸氏を推挙する事に決定し三日夫々移牒したりと、右委員は一両日中協議会を開き万般の打合を為す可しと也
 豊川良平・大倉喜八郎・早川千吉郎・添田寿一・安田善次郎・朝吹英二・浜口吉右衛門・星野錫・中島行孝・志村源太郎・肥塚竜・森久保作蔵


竜門雑誌 第二九二号・第五三―五四頁 大正元年九月 ○明治神宮奉建協議の経過(DK410105k-0012)
第41巻 p.521-522 ページ画像

竜門雑誌  第二九二号・第五三―五四頁 大正元年九月
    ○明治神宮奉建協議の経過
明治神宮建立の儀に就ては八月十四日迄の経過は前号に掲載したりしが、其後の経過概要は即ち左の如し。
△十六日の協議会 青淵先生・近藤男・高橋男・中野武営其他の委員
 - 第41巻 p.522 -ページ画像 
諸氏は、八月十六日午前十時より東京商業会議所に参集して、神宮創設に関する協議会を開き、中野武営氏より特別委員に於て起草せる覚書(前号参照)に就き協議したるに、既に原案通り之を可決し、神宮創設の場合に対し、献金方法及び神宮奉斎会の設置等に関し申合をなし、正午散会。
△二十日の協議会 予定の如く二十日午前十時より東京商業会議所に於て協議会を開きたり、当日の来会者は特別委員及各方面の代表者六十有余名にて、青淵先生座長席に着き、中野武営氏の報告ありて、直に委員起草の覚書を附議したるに、満場異議なく之を承認し、尚ほ稲茂登三郎氏の提議により「将来委員増員の必要ある場合は現任委員に於て任意決定の件」を可決して散会したり。
△二十四日の協議会 青淵先生・阪谷市長・近藤男・中野・関・柿沼諸氏六委員は二十四日午前十一時より東京商業会議所に参集し、席上先づ青淵先生より「二十日協議会の決議に基き、其覚書を以て宮内大臣及総理大臣に面接して協議総会の決議の趣意を陳述し、更に委員一同打揃うて両大臣と会見したき旨申出でたるに、何れも期日を定めて面会すべしとの承諾を得たり、尚ほ不日内務、大蔵両大臣にも同様の申出を為す筈なりとの報告あり、次に委員十二名増員の件は一応候補者の内諾を得て指名すること、次に神宮奉建候補地は参考書として覚書に添付して申請すること、名称は単に奉賛会として他日適当の名称を冠する事等の打合せを為して散会せり、因に目下神宮奉建候補地として其希望を発表したるものは左の如しと。
 戸山学校所在地△陸軍士官学校中央幼年学校所在地△上野公園△駿河台△目白台△小石川植物園△芝三光坂附近△豊多摩郡和田堀内村大宮△鴻ノ台△埼玉県大宮△神奈川県箱根△静岡県富士山
△特別委員の増員 神宮奉祠の件愈々具体的に協議の進捗するに従ひ委員増員の必要を生じたるを以て、現任委員は左の諸氏の内諾を得て委員を嘱託することに決して、九月三日夫々移牒したりと、新任委員は即ち左の如し。
 豊川良平・大倉喜八郎・早川千吉郎・添田寿一・安田善次郎・朝吹英二・浜口吉右衛門・星野錫・中島行孝、志村源太郎・肥塚竜・森久保作蔵


竜門雑誌 第二九三号・第六四―六五頁 大正元年一〇月 ○明治神宮其後の経過(DK410105k-0013)
第41巻 p.522-523 ページ画像

竜門雑誌  第二九三号・第六四―六五頁 大正元年一〇月
    ○明治神宮其後の経過
△委員の報告会 前号所報後九月六日には午前九時より商業会議所に於て委員会を開きたり、委員長青淵先生を始め阪谷男・中野商業会議所会頭・関代議士・杉原府会議長・柿沼区会議長・其他の諸氏参集し青淵先生より山県公・桂公・井上侯・松方侯、並に西園寺首相を始め各大臣大隈伯等を訪問し、神宮建設に関する覚書を提出したる顛末を詳細に報告する所あり、尚ほ種々協議の上同十時半散会したり。
△青淵先生の首相訪問 委員長青淵先生には同月九日西園寺首相及原内相を訪ひて神宮建設委員の希望を披瀝して、是非今期議会に神宮建設案を政府案として提出せられたく、之れに就ては委員一同は微力な
 - 第41巻 p.523 -ページ画像 
りと雖も極力尽瘁すべく、神宮御造営の附帯事業等は東京市及有志者の寄附に依り十分完全なる施設をなすことを得べしと信ずる旨を縷述したるに、首相・内相は趣意に於ては勿論同感なるも、今期議会に政府案として提出すべきや否やは即答する能はずと答へられたる由。
△青淵先生の宮内省訪問 委員長青淵先生には同月廿五日午前十一時宮内省に出頭し、宮相不在の為め岩倉書記官に面会し、神宮建設委員中の重立ちたる者数名渡辺宮内大臣に面陳したき希望を有するを以て予め会見の期日を指定せられたしと懇談し、正午退出せられたり。
△各委員の首相及宮相訪問 右懇談の結果、委員諸氏は同月廿七日午後首相及宮相に面会することゝなり、委員長青淵先生・阪谷市長・中野武営・関直彦・中島行孝・江間俊一・朝吹英二・柿沼谷蔵諸氏は同日午後二時東京商業会議所に落合ひたる後、打ち揃ふて先つ西園寺首相を訪問し、予て提出せる覚書に就て首相の意見を糺したるに、之に対し首相は
 御大葬儀執行後間も無く大喪事務も未だ整理せず、旁々宮内省と交渉するに至らず、殊に諒闇中は 御上に於ても神事御遠慮の御思召あり、進ん相談するも如何かと多少差控へたるも、御一同尽力の次第は充分諒察し居るを以て遠からず宮内省と交渉の上、何分の挨拶をなすべし
と述べ、一同退出、更に渡辺宮相訪問、前同様其意見を問ひたるに、宮相は之を歓迎する意味に於て
 自分に於ては可成諸君の希望に副へたしと考ふるも、未だ政府当局と打ち合はす遑なく其儘となれり、併し度々の訪問に接し居る事故取り急ぎ政府当局者と会見の上何分の御挨拶をなさん
と答へられ、何れも満足して退出せりと


中外商業新報 第九四八八号 大正元年九月二六日 ○明治神宮と渋沢男(DK410105k-0014)
第41巻 p.523 ページ画像

中外商業新報  第九四八八号 大正元年九月二六日
    ○明治神宮と渋沢男
渋沢栄一男は明治神宮建設の要件を帯び二十五日午前十一時宮内省に出頭し、渡辺宮相不在の為め岩倉書記官に面会し懇談を為し、正午退出せり


中外商業新報 弟九四九〇号 大正元年九月二八日 ○神宮奉建の陳情(DK410105k-0015)
第41巻 p.523-524 ページ画像

中外商業新報  弟九四九〇号 大正元年九月二八日
    ○神宮奉建の陳情
      委員連首相宮相訪問
渋沢男・阪谷市長・中野武営・関直彦・中島行孝・江間俊一・朝吹英二・柿沼谷蔵の市其他各団体の、明治神宮奉建に関する各委員は、廿七日午後二時東京商業会議所に落ち合ひたる後、打ち揃ふて西園寺首相を訪問し、予て提出せる覚書に就て同首相の意見を糺したるが、之に対し首相は
 御大葬儀執行後間も無く、大喪事務も未だ整理の運びとならず、旁旁宮内省と交渉するに至らず、殊に諒闇中は 御上に於ても神事御遠慮の御思召とあり、進んで相談するも、如何かと多少差控へたるも、御一同尽力の次第は充分察し居るを以て遠からず宮内省と交渉
 - 第41巻 p.524 -ページ画像 
何分の挨拶をなすべし
と述べ、一同退出、更に渡辺宮相訪問、前同様其意見を叩きたるが、宮相は稍々之を歓迎する意味に於て
 自分に於ては可成諸君の希望に副へたしと考ふるも、未だ政府当局と打ち合はす遑なく其儘となれり、併し度々の訪問に接し居る事故取り急ぎ政府当局とも会見何分の挨拶に及ぶべし
と答へられ何れも満足して退出せりと


竜門雑誌 第二九九号・第五二―五三頁 大正二年四月 明治神宮奉建に就て(DK410105k-0016)
第41巻 p.524 ページ画像

竜門雑誌 第二九九号・第五二―五三頁 大正二年四月
    明治神宮奉建に就て
日本臣民が崇敬追慕の念禁じ難き明治神宮奉建の儀は、先頃帝国議会に於て、衆議院は明治神宮建設の建議を為し、貴族院は之れが請願書を政府に取次ぎたるも、内務省に於ては事重大にもあり、目下折角調査中に属し未だ決定の運に至らず、之に就て国民新聞記者が明治神宮建設委員長たる青淵先生を訪ひて聞き得たる直話なりとし、四月八日の同紙に掲げたる先生の意見は即ち左の如し。
 畏くも明治神宮を建設し奉る可き土地は、市民の希望通り青山練兵場又は代々木御料地二箇所の内なるが、建設費の如きは非常なる巨額を要するを以て、万一民間にて奉献せる金額所要の額に達せずして、粗笨なる建築を為し奉るが如き事ありては洵に恐懼の極みなれば、神殿の建築費の大部分は国庫の支出に竢たざる可らず、而して一般臣民よりの奉納金を其補助と為し、神殿以外諸般の費途に充つる筈なり、斯の如き次第なれば建設地其他費用等は第一着に内務省神社局に於て之を決定して、宮内省よりの御沙汰を待つて始めて吾等民間建設委員の活動に移る訳なり、然れども目下諒闇中にして何に依らず神事を行ひ難き事情あるを以て、愈々明治神宮奉建の儀は来る七月大喪期の明くるを待ち凡て確定を見るに至べし。


明治神宮造営誌 内務省神社局 復興版・第九―一〇頁 昭和五年三月刊(DK410105k-0017)
第41巻 p.524-525 ページ画像

明治神宮造営誌 内務省神社局  復興版・第九―一〇頁 昭和五年三月刊
 ○第一章 明治天皇奉祀神宮創建の起原
    第二節 請願並建議
○上略
 国民が英霊の奉祀を熱望すること、斯の如く切なるものありしと雖も未だ諒闇中に属するを以て、当局は猶ほ其の審議を慎みしに、国民の至情は日に切なるものあり。中にも曩に神宮建設に関する協議会を組織せし人々は再び渋沢男爵を明治天皇神宮御造営奉賛委員長となして左の陳情書を提出したり。
 上略《(原註)》 御諒闇一年ノ光陰モ実ニ矢ノ如クニ経過致シ申候、唯々片時モ忘レ難キハ 先帝ノ御事ニ御座候
 昨年 先帝御崩御ノ報伝ハルヤ僅カニ一日ヲ間シ八月一日市民有志期セスシテ相集リ、異口同音相談ノ末御陵墓ノ地ヲ東京ニ定メラレ度若シ此事不相叶ハ責テハ我々市民 先帝ヲ追慕シ奉ルノ熱情ヲ御推量アリテ神宮奉祀ノ儀ヲ御採納相成度旨ヲ総理大臣・内務大臣・宮内大臣其他諸元老ニ陳情懇請ニ及ヒ候次第ニ有之候、当時不肖栄一誤リ推
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サレテ委員長トナリ、他ノ有志者ト共ニ奔走致シ、数次諸公ヲ訪問ニ及ヒ候処、毎次御懇情ヲ以テ御傾聴ヲ蒙リ候、又今春ノ帝国議会ニ於テ本件ニ関シ、貴族院ハ全会一致請願ヲ可決シテ之ヲ政府ニ送リ、衆議院ハ全会一致ヲ以テ政府ニ建議致シ候儀ニ御座候、今ヤ 先帝御一年祭ト相成リ、栄一等ノ熱情抑止シ難ク玆ニ書中ヲ以テ重ネテ陳情申上候、何卒市民一同ノ願意速カニ貫徹致候様御詮議ノ程偏ニ奉願上候○下略《(原註)》
  ○右請願書ハ、栄一外二名ヨリ内務大臣原敬ニ提出サレタルモノニテ、大正二年七月三十日以降ノ発送ナレドモ提出月日不詳。内務省神社局ニ問合セタルモ判明セズ。恐ラク同年八月カ。


竜門雑誌 第三〇四号・第七六頁 大正二年九月 ○明治神宮奉賛会の上申書(DK410105k-0018)
第41巻 p.525 ページ画像

竜門雑誌  第三〇四号・第七六頁 大正二年九月
○明治神宮奉賛会の上申書 明治神宮の敷地に関しては、各地其の繁栄策に利用せん下心より、或は富士・筑波・立山・大宮・鴻の台・飯能等各その敷地を択みて当局に対して有志の建議し来れる者少からざるより、青淵先生・阪谷市長・中野武営氏等を中心とする明治神宮奉賛会は、此の程委員長青淵先生の名を以て関係大臣に対し、予算の内容は兎も角、東京は先帝の遷都其他の記念地なれば、速かに具体的の決定を急がれたき旨上申書を提出せり、同会は右敷地の決定と共に、神宮の造営費及び神苑築造費の醵集を発表し、正式発会式をも挙行する筈なりと。


竜門雑誌 第三〇五号・第五七頁 大正二年一〇月 ○神宮建立委員会(DK410105k-0019)
第41巻 p.525 ページ画像

竜門雑誌  第三〇五号・第五七頁 大正二年一〇月
○神宮建立委員会 明治神宮を東京に御造営あらせられたしとは昨年以来東京市民の熱心希望したる処なるも、時諒闇中にして運動がましきことは恐懼の至りなりとて見合せ居りしも、既に諒闇も過ぎ且つ政府の予算編成も迫りたるを以て、青淵先生を委員長とせる明治神宮御造営奉賛有志委員会にては、此際政府に請願する処あらんとて、十月六日午前十時商業会議所に会し種々協議する処ありて正午散会せり、尚出席者は左の如し
 青淵先生・阪谷市長・中野会頭・近藤男爵・中島行孝・杉原栄三郎星野錫・志村源太郎・柿沼谷蔵諸氏


竜門雑誌 第三〇七号・第七三―七四頁 大正二年一二月 ○明治神宮奉建の閣議決定(DK410105k-0020)
第41巻 p.525-526 ページ画像

竜門雑誌  第三〇七号・第七三―七四頁 大正二年一二月
    ○明治神宮奉建の閣議決定
 先帝陛下の御遺徳を千古に伝へ奉らん為め、東京市に明治神宮を奉建せんとの議は市民一般の熱望する所にして、曩に青淵先生・阪谷市長・近藤男・中野武営諸氏を始め其他実業界知名の人々協議の結果、覚書を作製して山県・井上・松方各元老に賛成を求め、政府に建議せし事ありし次第は当時の本誌に記載したるが、同案件は十一月二十八日の閣議に於て愈々奉建するに定まりたり。されど此議素より政府民間の希望に止りて、此れが奉建如何に就ては上御一人の御思召に依るものなれば、当局にては閣議に於て定めたる次第を近く畏き辺りに奏上し、御裁可を仰ぎたる上ならでは確定の運びに至らざるも、今同神
 - 第41巻 p.526 -ページ画像 
社奉建に就いて聞くに、政府は政府及び民間より適当の調査委員十数名を選定し、以て奉建位置、建築の様式其他の事項を明細に調査する由なるが、民間よりの委員は多分青淵先生・近藤男・中野武営氏及び阪谷市長其他数名ならんと。
 右の次第にて奉建すべき位置は未だ確定せざるも
 先帝御大葬の関係もあり、旁々周囲の状況もあるを以て、青山練兵場内に於ける葬場殿跡を中心として代々木御料地に渉る可く、建築の模様は木曾材其他の御料林の樹木を御使用あり、華美を避けて壮麗なる建築を旨とし、来る四年より工事に着手し、其の費用は内務省が来年度より向ふ十箇年毎年五万円宛を支出するものを始めとし、民間に於ける明治神宮奉賛会の募集金を以て之に当つる由なるが、奉賛会覚書に依るときは、奉建すべき位置は多分青山練兵場の葬場殿跡に外宮を設け、代々木御料地内に内宮を建設し、而して青山通に接せる場所に大公園を設けんとの計画にて、内宮苑の費用は国費、外宮苑其他は奉賛会よりの募集金に依り、又大公園は市費にて築造さる可く、尚同社御造営の御趣意は先帝の御遺徳を永く後世に伝へ奉るにあれば、明治年間に於ける先帝の御遺物其他を一般人民に拝観せしめんとの事にて、御遺物陳列館をも設けらる可しと承る。


東京日日新聞 第一三二七六号 大正二年一〇月三一日 ○明治神宮の御造営決す 内宮は代々木に外宮は青山に 華美を避けたる荘厳の建築(DK410105k-0021)
第41巻 p.526 ページ画像

東京日日新聞  第一三二七六号 大正二年一〇月三一日
    ○明治神宮の御造営決す
      内宮は代々木に外宮は青山に
      華美を避けたる荘厳の建築
昨年明治天皇御大喪儀の砌東京市民は御陵の地を帝都に定められたき希望を有し居たるも、桃山は先帝が御在世の時より愛でさせ給ひし処なりし為め、同地に御治定相成りしより、一般市民はいふに及ばず阪谷市長、渋沢・近藤両男、中野武営等の諸氏は是非とも先帝の御遺徳を千古に伝へまつらん為め、東京市に明治神宮を奉建せん事を望み、昨年八月十六日東京商業会議所に於て実業界の有力なる人々相会し協議会を開き、覚書を作成して山県公・松方侯・井上侯等元老の賛成を得てこれを時の政府に送致したるが、この事は現在の山本内閣に引継がれ、建設の方法・場所、維持費等に関して屡会議を開きしが、いよいよ廿七日の閣議に於て奉建の事に決定したれば、近日上奏御裁可を仰ぎたる上にて、経費一万五千円を以て官民合同の奉建方法の調査会を設けむことを決定したる上、改めて議会の協賛を経る筈なるが、明治神宮奉建の場所は青山練兵場より代々木御料地に亘る広大なるものにて、青山練兵場の葬場殿跡に外宮を建設し、内宮は代々木御料地となし、青山通りに接せる方は市費にて理想的の一大公園を作る可く、様式はすべて華美を避け質素にて壮厳なるものとなす可く、内宮苑は国費を以て建設し、外宮苑其他は商業会議所を中心として明治神宮奉賛会なるものを組織し、宮殿下を総裁に奉戴し、会長は田中伯若しくは土方伯を仰ぎ、市民の赤誠を致せる浄財を以て建設し、これを献納する事となる可しと

 - 第41巻 p.527 -ページ画像 

明治神宮奉賛会通信 第一号 大正五年一月一〇日 経過報告(DK410105k-0022)
第41巻 p.527 ページ画像

明治神宮奉賛会通信  第一号 大正五年一月一〇日
    経過報告
大正元年八月一日 有志総会ヲ開キ委員弐拾名ヲ選定ス
大正元年九月二六日 委員ハ西園寺内閣総理大臣及渡辺宮内大臣ヲ訪問シ、覚書ヲ差出シ陳状ス
大正二年三月二六日 明治神宮奉建建議案衆議院ヲ通過ス
○下略


明治神宮造営誌 内務省神社局編 復興版・第一四―一五頁 昭和五年三月刊(DK410105k-0023)
第41巻 p.527-528 ページ画像

明治神宮造営誌  内務省神社局編 復興版・第一四―一五頁 昭和五年三月刊
    第二章 奉祀に関する調査会設立の決議
        並明治天皇鎮祭の御治定
 大正二年七月明治天皇の御一年祭終了の後、当局は直に神宮創建の準備に著手し、左の趣旨を以て閣議を請ひ同年十月廿八日、神宮創建の調査機関として委員会の設立を決定せり。
  明治天皇奉祀ノ神宮創設ニ関シテハ別紙ノ通衆議院ニ於テ建議ヲ議決シ帝国教育会長男爵辻新次ノ請願ニ対シ貴族院ニ於テハ採択スヘキモノト議決シ衆議院ニ於テハ参考トシテ政府ニ転送スヘキモノト議決セリ、又東京市長男爵阪谷芳郎、商業会議所会頭中野武営、明治神宮御造営奉賛有志委員長男爵渋沢栄一等ヨリ本省ニ覚書又ハ陳情書ヲ提出シ、其他奉祀ノ位置選定ニ関シ衆議院ニ請願書ヲ提出セル等ノコトアリ、衆議院ハ政府ニ参考トシテ転送スベキモノト議決セリ
  按スルニ 明治天皇ノ盛徳鴻業ヲ奉体シ、永ヘニ崇敬追慕ノ誠ヲ致サンカ為メ其御神霊ヲ鎮祭シ神宮ヲ創設スルコト寔ニ適切ノ挙ナリト認ム、而シテ其創設ノ手続ヲ取運ハントスルニハ鎮座ノ地、規模並経費等ノ点ニ付慎重調査ヲ要スルモノアルニ依リ先ツ其調査ノ為メ 明治天皇奉祀ノ神宮創設調査委員会ヲ組織セント欲ス○下略《(原註)》
○下略
  ○明治神宮奉賛会ハ、其事務所大正十二年九月ノ大震火災ニ全焼シ、其所蔵セル創立当時ノ書類全部ヲ失ヒ、僅カニ大正五年以降同会ニ於テ編纂発行セル「明治神宮奉賛会通信」各号ヲ現存スルノミニシテ、其ノ初号ニハ創立以来ノ経過ヲ列記スレド記事簡ニシテ往々誤アリ。上掲八月一日ノ条ニ記セル事項ハ八月九日ノ総会及八月二日ヨリ九月三日ニ至ル間ノ委員選出ヲ総括記入セルモノナリ。九月二十六日ノ記事モ、二十七日ノ誤ナラン。猶同奉賛会編纂ノ「明治神宮外苑奉献概要報吉」大正一五年一〇月刊ノ巻頭所載ノ同会創立当時ノ記事亦右通信ニ拠リシ為同ジク之ヲ誤レリ。
  ○右ノ神宮奉建委員会ノ名称ハ一定セズ「明治神宮御造営奉賛有志委員会」「神宮建設委員会」「明治神宮奉祀請願会」等トモ称セルガ如シ。而テ右ノ運動ハ継続セラレ、一方貴族院ニ於テモ、大正二年二月二十七日明治神宮建設ニ関スル帝国教育会ヨリノ請願ノ採択ヲ決議シ、衆議院ニ於テモ同年三月二十六日政府ハ速カニ明治神宮建設ノ計画ヲタテ議会ノ協賛ヲ求ムベシトノ建議案ヲ可決セリ。政府亦諒闇明ケヲ待チテ慎重ニ之カ実現ヲ期セントシ、大正二年十月二十八日閣議ニ於テ神社奉祀調査会設置ニ決シ、翌三年十一月ソノ調査ヲ了ヘ、国費ヲ以テ神宮造営ニ決シタルヲ以テ、有志委員会ハ其ノ目的ヲ遂ゲタリトシテ、同年十二月十四日解散シ、更メテ明治神宮奉賛会創立ノ準備ニカカレルモノナリ。
 - 第41巻 p.528 -ページ画像 
  ○次款「神社奉祀調査会」大正二年十二月二十二日ノ条及ビ第五款「明治神宮奉賛会」大正三年十二月十四日ノ条参照。



〔参考〕伯楽渋沢翁 字野木忠著 第五六―六〇頁 昭和七年五月刊(DK410105k-0024)
第41巻 p.528-529 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕中外商業新報 第一〇二九二号 大正三年一二月一五日 ○神宮奉賛会設置(DK410105k-0025)
第41巻 p.529 ページ画像

中外商業新報  第一〇二九二号 大正三年一二月一五日
    ○神宮奉賛会設置
明治神宮奉建請願会員約六十余名は愈々初志を貫徹したれば、十四日午前十時商業会議所に会合し、渋沢男より経過報告の後ち、井上神社局長の御造営一般に関する説明ありて、先づ同会を解散し、神宮奉賛会を設立し、外苑奉建費三百万円を全国より募集するに決し、中野・渋沢・阪谷三氏より準備委員約二十名を指名する事とし正午散会せり