デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
7款 日光東照宮三百年祭奉斎会
■綱文

第41巻 p.599-600(DK410126k) ページ画像

大正4年4月17日(1915年)

是日、上野寛永寺、東照宮三百年遠忌法要ヲ執行ス。栄一参列ス。


■資料

集会日時通知表 大正四年(DK410126k-0001)
第41巻 p.599 ページ画像

集会日時通知表 大正四年           (渋沢子爵家所蔵)
十七日○四月 土 午前十時 東照宮御法会執行(寛永寺)


渋沢栄一 日記 大正四年(DK410126k-0002)
第41巻 p.599 ページ画像

渋沢栄一日記 大正四年            (渋沢子爵家所蔵)
四月十七日 稍晴
○上略 十時半上野寛永寺ニ抵リ、東照公ノ遠忌ニ参列シテ焼香ノ礼ヲ行フ、後午飧ノ饗アリ○下略


日光東照宮三百年祭奉斎会報告書 第五三頁刊(DK410126k-0003)
第41巻 p.599 ページ画像

日光東照宮三百年祭奉斎会報告書 第五三頁刊
○第六 一、収支計算書
    □寄贈金収支計算書
○上略
備考
 一、上野東照宮三百年祭補助金 奉斎会ニ於テ上野東照宮ニ対シ祭典補助金ヲ寄贈セシハ、宮内省御下賜金並東京府・東京市補助金御下附ノ趣旨ニ基クト、又祭典中日光東照宮ニ参拝シ能ハサル寄附者ニ対シ、同宮ニ参拝シ、相当ノ待遇ヲ得ルノ便宜ヲ開キタル等ノ為ナリ
○下略


竜門雑誌 第三二四号・第一一―一二頁大正四年五月 ○徳川家康公 青淵先生(DK410126k-0004)
第41巻 p.599-600 ページ画像

竜門雑誌 第三二四号・第一一―一二頁大正四年五月
    ○徳川家康公 青淵先生
 本篇は青淵先生が読売新聞記者の訪問に対し語られたるものゝ由にて、四月十八日の同紙日曜附録に掲載せるものなり(編者識)
△近古史中の大政治家 徳川家康公は日本近古史中の大政治家であると言へやう。武門政治の基礎は源家の大将頼朝に依て築かれたのであるが、所謂鎌倉殿家庭が修まらぬのみか、猜疑心の為めに其の子孫を不遇に陥らせ、源家の代は短かつた。其後、足利・織田・豊臣と相次いで起り、足利の時代は相当に長かつたが、更に見るべき物は無かつた。これに引き換へ家康公は天下の覇を握ると同時に其永続すべき策を樹て、徳川の流れは二百五十年続いたのみならず、政治の上にも見るべきものが多々ある。即ち治国平天下の大より、将軍歴代相続の方法・形式、譜代の臣下に対する待遇等、挙げ来らば枚挙に遑が無い。
 - 第41巻 p.600 -ページ画像 
△教育方針 家康公はまた文政に就いても非常な努力を払つてゐた。林羅山の如き儒者を抜擢して高い位置に置いた如き、善く其間の消息を証明してゐる。さうして公自身も日常の文章には、頗る俗化したものを用ゐてゐたが、文学に対して相当に深い造詣を有つてゐたのである。さうして教の基礎を仁義忠孝に置いた。公の教育主義は論語主義を採用してゐたのであると思ふ。彼の有名な『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し』の名言は論語から出てゐるのである。其の他『勘忍は無事長久の基』等、論語に源を発した名言が沢山にある。一方にまた公は仏教に対しても熱心な研究者であつた。晩年、駿府に在つた際、屡々天海上人を呼ばれた事は、天海上人の伝に見えてゐる。さうして最初、浄土宗で授戒されたが、後に天台宗の戒を受けたやうである。当時、駿府では一日置に各宗の法壇が開かれ僧侶の教旨に対する議論が盛んに戦はされ、公自身も屡々其の法壇に臨んで議論を傾聴された事もある程だ。
△人情にも厚し 人情といふことに関しては家康公に就いて種々世評はあるけれど、概して公は人情にも厚かつたと想ふ。それは無論、英雄的な残忍な所業も無いではなかつた、彼の長子信康が武田方に内通して居るとて切腹を強ひ、淀君を煽動して不条理な理窟を以て大阪方を倒したなどは、実に残忍なことで、この点では奸雄の嫌ひがあるがこれとて公自身の意中より発した策略では無いかも知れない、殊に政治の移り変る混沌たる時代に際しては已むを得なかつた事であるかも知れない。それ故に此の事柄に対して強い非難を加へるのは酷であらうと思ふ。公の欠点は寧ろ公卿法度なぞを制定したりしたことで、皇室崇敬の念が薄かつた処にあると思ふ。それからこれは公の歿後の事であるが、鎖国と云ふ事も後世から観て政治上の欠点であると思ふ。此の二点に就いて私は家康公に遺憾の点を認めるが、他に於ては稀有の大政治家と推奨するを惜しまない。