デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
2款 世界日曜学校大会後援会
■綱文

第42巻 p.175-192(DK420051k) ページ画像

大正4年6月28日(1915年)

是日、第八回世界日曜学校大会後援会評議員会、総理大臣官邸ニ開カレ、栄一出席ス。同大会会期及ビ経費等決定セラレシガ、栄一、此後モ屡々会議ニ出席シ、同大会ノ開催ニ尽力ス。然ルニ第一次世界大戦ノタメ同大会延期セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK420051k-0001)
第42巻 p.175 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
六月廿八日 晴
○上略 腹部平愈セサルニヨリ、事務所ニテ午飧シ、午後二時永田町総理官舎ニ抵リ、日曜学校協会ノ事ニ付協議会ヲ開ク、牧師ヨリ提出セル方法ヲ審査スル為メ委員三名を指名ス○下略


集会日時通知表 大正四年(DK420051k-0002)
第42巻 p.175 ページ画像

集会日時通知表 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
二十八日○六月 月 午後二時 日曜学校協会河澄明敏氏報告会(首相官邸)


竜門雑誌 第三二六号・第七五―七六頁 大正四年七月 ○日曜学校後援者の協議(DK420051k-0003)
第42巻 p.175-176 ページ画像

竜門雑誌 第三二六号・第七五―七六頁 大正四年七月
○日曜学校後援者の協議 日曜学校後援会にては、明年秋季を期し東京に於て開催さるゝ日曜学校世界大会準備の為め、六月廿八日午後二時より、首相官邸に於て、評議員会を開きたり。出席者は会長大隈伯・副会長青淵先生・評議員阪谷男爵・同中野武営以下左記評議員諸氏にして、大隈伯会長席に着き、先づ昨年六月米国市俄古に於て開かれたる日曜学校国際大会に出席せる川澄明敏・鵜飼猛の両幹事より、同大会に於ける経過の報告あり、次で来年十月十八日より二十六日迄我国東京に於て開かるゝ世界大会の準備に関し、種々凝議する所あり、大隈会長よりも一場の意見を開陳し、終つて茶菓の饗応あり、五時過ぎ散会せり、当日決定せる重なる要項左の如し
 △会期 大正五年十月十八日より同月廿六日迄△経費 開会に伴ふ経費は総て五万円と定め、後援者にて之が醵集に当ること△参列者 会長サーレードロー氏(英人)を始め、世界日曜学校代表者三千名△附属事業 此機会を利用し、各種の会合を催し、尚我風光を参観せ
 - 第42巻 p.176 -ページ画像 
しむ
尚ほ前記の外出席せる評議員の氏名左の如し
 八十島親徳・林愛作・生野団六・桜井彦一郎・久方俊泰・白石重太郎・井阪孝・松野菊太郎・田中次郎・田川大吉郎・阪井徳太郎・井上友一・山脇房子・頭本元貞・安藤彪雄・箕浦勝人・木下淑夫・倉知誠夫・山本邦之助、フイツシヤー、ボールス、熊野雄七・岡本英太郎・小崎弘道


渋沢栄一 日記 大正四年(DK420051k-0004)
第42巻 p.176 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
七月廿六日 晴
○上略 午前十時事務所ニ抵リ、木下淑夫氏・生野団六氏等ノ来訪アリ、日曜学校ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
七月廿八日 曇
○上略 午後三時過事務所ニ抵リ、日曜学校ノ事ニ付、生野・川澄二氏来訪セラル○下略
   ○中略。
七月卅一日 曇
○上略 午後二時帝国ホテルニ抵リ、日曜学校大集会ノ事ニ付、関係者ノ種々ノ協議ヲ為ス、議決ニ至ラサルヲ以テ、九月ニ至リ更ニ一会ヲ開キテ決定スヘキ事ヲ約シテ散会ス○下略
   ○中略。
八月廿一日 曇
○上略 午飧後米国人コールマン氏及小崎弘道・川澄氏等来訪、明年開催スヘキ日曜学校大会ノ事ニ付、其接待準備ニ付意見ヲ交換ス、近日帰京スルニ付、来月早々大隈伯ノ都合ニヨリ、一会ヲ開キテ諸事ヲ議定スヘキ事ヲ約シテ去ル○下略
   ○栄一、八月十五日ヨリ箱根小涌谷ニ滞在。
   ○中略。
九月十七日 曇又小雨
午前○中略米人コールマン及鵜飼・川澄ノ三氏来リ、日曜学校大会ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
十月十二日 曇
○上略 朝飧後多数ノ来客ニ接ス、米人コールマン氏、鵜飼・川澄氏等ト共ニ来リテ、日曜学校ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
十月十六日 曇
午前○中略米人コールマン・小崎弘道・川澄明敏氏等来リ、日曜学校ノ事ヲ協議ス○下略


集会日時通知表 大正四年(DK420051k-0005)
第42巻 p.176-177 ページ画像

集会日時通知表 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
二十八日○七月 水 午後二・三時 日曜学校ノ件、生野氏・川澄氏来約(兜町)
 - 第42巻 p.177 -ページ画像 
   ○中略。
卅一日○七月 土 午後二時 日曜学校開会講演会評議員会(帝国ホテル)
   ○中略。
廿八日○九月 火 午後一時半 日曜学校ノ件(首相官舎)


各個別青淵先生関係事業年表(DK420051k-0006)
第42巻 p.177 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表        (渋沢子爵家所蔵)
 大正四年十一月
青淵先生ハ、桑港ニ開催ノパナマ運河開通記念博覧会へ出席ノ序ニ第八回世界日曜学校後援会副会長トシテ、幹事ブラウン博士、ハインツワナメーカー等ノ有力委員ト会見シ、大会準備ニ就キ詳細ナル打合セヲナシ力メテ遺漏ナカラシメンタメ、船舶ノ不足、旅館ノ欠乏等ニ就イテ苦心ノ存スルコトヲ語リ、相互奨励理解ノ上ニ大ナル貢献ヲナス
   ○本資料第三十三巻所収「第三回米国行」大正四年十一月八日、同十一月三十日、大正五年一月十四日ノ各条参照。
 大正四年六月二十八日
大隈首相官邸ニテ大会ノ会期・費用等ノ打合セヲ行フ
 大正五年十月十八日
首相官邸ニテ協議会ヲ行フ、青淵先生ハ後援会ノ事業ニツキ詳細ナル説明ヲ行フ


東京日日新聞 第一三九七五号 大正四年九月三〇日 ○日曜学校大会打合(DK420051k-0007)
第42巻 p.177 ページ画像

東京日日新聞 第一三九七五号 大正四年九月三〇日
    ○日曜学校大会打合
二十八日午後三時より、永田町首相官邸に於て、明年十月十八日東京に開かるべき第八回万国日曜学校大会に関する協議会開会、大隈首相渋沢男、其他数十名出席、首相より一場の挨拶あり、実行方法として左の各項を協定し、五時過ぎ散会
 (一)経費は六万四千円とする事(二)会場は青年会館を以て之に充て、現在の講堂を拡張し、約三千人を容るゝに足る会堂を造ること(此建築費中に七千円を補助として青年会館に支出する事)(四)実行委員として、東京市助役高橋要次郎、鉄道院運輸局長木下淑夫三井合名会社秘書課長阪井徳太郎、帝国ホテル支配人林愛作、郵船会社重役小林政吉、生野団六、コールマン、川澄明敏、鵜飼猛諸氏を推す事


竜門雑誌 第三二九号・第八三―八四頁大正四年一〇月 ○世界日曜学校万国大会準備(DK420051k-0008)
第42巻 p.177-178 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第八三―八四頁大正四年一〇月
○世界日曜学校万国大会準備 大正五年十月十八日より廿六日まで東京に於て開催さるべき第八回世界日曜学校大会準備に付て、日曜学校後援会会長大隈伯は、九月廿八日午後三時より、永田町首相官邸に京浜の重なる実業家其他知名の士を招待して協議会を催したり。当日出席者の重なる者は
 青淵先生・中野武営・近藤廉平男・安田善次郎・松方巌・大倉喜八郎・早川千吉郎・阪谷男・益田孝・加藤正義・添田寿一・荘田平五郎・志村源太郎・志立鉄次郎・堀越善重郎
 - 第42巻 p.178 -ページ画像 
諸氏三十余名にして、先づ大隈伯は一場の挨拶に兼ねて、来賓諸氏一同今後後援会々員として応分の助力を与へられむことを希望し、次に同会副会長たる青淵先生より、同会の事業に関する詳細なる説明あり之れに対し、日本日曜学校協会々長小崎弘道氏の謝辞あり、次で此程米国より帰朝せるコールマン氏は、米国に於ける同会の実況に就て報告する所あり、夫より右協議会開催に先だち、同会準備委員会長大隈伯、副会長青淵先生・同阪谷男・同中野武営、小崎弘道、コールマン諸氏の間に於て協議内定したる左記事項を提出して、来会者諸氏の賛同を求めたり
 一、明年十月十八日より東京に開かるゝ世界日曜学校大会の場所は神田美土代町青年会館とし、約三千名の参列者を収容すべき永久的の会場を建設すること(場所は現在建築物の裏手に増築することゝし、右の経費は渋沢男主として之を醵集すること)
 二、世界日曜学校大会開催に要する経費総額六万四千円とす
右は孰れも来会者諸氏の賛同する所となり午後五時過散会せりといふ


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛大正四年一〇月三〇日(DK420051k-0009)
第42巻 p.178 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛大正四年一〇月三〇日 (八十島親義氏所蔵)
○上略
  十月三十日                   渋沢栄一
    八十島親徳様
          梧下
○中略
国際病院寄附金之取纏め方、及日曜学校之大会ニ係る寄附金募集之事、阪井氏へ御打合被成、阪谷・中野両氏ニ承合之上、相運候様御申通し可被下候
○下略
八十島親徳様 直展 渋沢栄一
春洋丸船中に於て 十月三十日 (朱書) 「大正四年十一月廿六日入」


第八回世界日曜学校大会記録 第六頁大正一〇年三月刊(DK420051k-0010)
第42巻 p.178 ページ画像

第八回世界日曜学校大会記録 第六頁大正一〇年三月刊
    後援会委員の世界日曜学校協会幹部訪問
大正四年十一月、渋沢子爵は桑港に開催せられしパナマ運河開通記念博覧会へ出席の序を以て、遥々東行せられ第八回世界大会後援会副会長として、幹部ブラウン博士およびハインツ、ワナメーカー、ランデス、キニヤー等の有力なる委員諸氏と会見せられ、大会の準備に就き詳細なる打合せをなし、力めて遺漏なからしめんために、船舶の不足旅館の欠乏等に就いて苦心の存することを語られ、相互の奨励理解の上に大なる貢献をなされた。
 - 第42巻 p.179 -ページ画像 


第八回世界日曜学校大会記録 第五頁大正一〇年三月刊(DK420051k-0011)
第42巻 p.179 ページ画像

第八回世界日曜学校大会記録 第五頁大正一〇年三月刊
○既に欧洲の天地には戦乱が起つて居たけれども、世界識者の予測はいづれも数ケ月にして終熄すべしと為せる故、大正五年に於ては無論平和の裡に世界大会を迎へ得ベしと信じてゐたのである。然るに戦乱は益々拡大し、欧洲全土は殆んど悽惨たる兵馬の集合地となり砲烟弾雨の巷となつたので、最早や何時終熄すべしとも予し兼ぬる有様になつた。依つて大正五年に於ては到底開催の望なきこと故、米国なる世界日曜学校協会幹部に対し其旨を通じたところ、幹部に於ても同様の事情を以て之を延期するの意響あり、旁々遂に平和克復後迄延期することになつたのである。事の玆に至りしは止を得ないことゝは言ひながら、後援会に於ても日本日曜学校協会に於ても、一方ならぬ失望と心労とを禁じ得なかつたのである。是に於てか日本日曜学校協会は、各派教会より選出せられた総委員会を一先づ中止し、時期を見て再び組織する事にした。
   ○コノ時以後モ会合ハ継続サレタルモノヽ如ク「集会日時通知表」ヨリノ資料ヲ次ニ掲グ。


集会日時通知表 大正五年(DK420051k-0012)
第42巻 p.179 ページ画像

集会日時通知表大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
二十三日○一月 日 午後二時 日曜学校大会ノ件ニ関スル報告(青年会館)、引続同校大会ニ関スル懇談会(同処)
   ○中略。
六日○五月 土 午後一時半 日曜学校協会城北部会主催児童宗教々育講演会(神田区三崎町〔水道端ノ近処〕三崎会館)
   ○中略。
九月十七日 日 午後二時 フレデリツク・コールマン氏来約(兜町)


集会日時通知表 大正六年(DK420051k-0013)
第42巻 p.179 ページ画像

集会日時通知表 大正六年       (渋沢子爵家所蔵)
廿八日○三月 水 日曜学校協会委員会(大隈侯邸)
   ○中略。
二十日○一一月 火 午前九時 世界日曜学校ノ件(日本クラブ)


集会日時通知表 大正七年(DK420051k-0014)
第42巻 p.179 ページ画像

集会日時通知表 大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
廿二日○六月 土 午後二時半 日曜学校ノ件ニ付御会合(兜町)
   ○中略。
三日○一二月 火 午後二時半 日曜学校委員会(早稲田大隈侯邸)


実業之日本 第一九巻第一一号・第一七―二一頁 大正五年五月一五日 米国の二大実業家と会見して人間の本分を語る 男爵 渋沢栄一(DK420051k-0015)
第42巻 p.179-184 ページ画像

実業之日本 第一九巻第一一号・第一七―二一頁 大正五年五月一五日
  米国の二大実業家と会見して
    人間の本分を語る       男爵 渋沢栄一
      ○近く我国に開かるべき日曜学校大会
 昨冬私が渡米した目的の一は、近く我国に開かるゝ世界日曜学校大会に就て、彼地の幹部と打合せする為であつた。この大会は二十年以前頃に開始せられ、既に七、八回を重ねてゐる。一昨年瑞西に於て大
 - 第42巻 p.180 -ページ画像 
会を開かれた時に、米人の間に次回は日本で開会したいといふ意見があり、我宗教家にも幸に出席者の意向が次会を日本に開くにありとすれば、之を引受けたいといふ希望があつた。併し大会を開くとすれば二千人に近い会員が米国及び欧洲より来るから、是れ等の出席者に満足を与へるのは容易なことでない。先づ彼等を宿泊せしむる旅館、数日間開会すべき大公会場、大会を終つた後、各地に行楽するに就ては交通機関の設備も必要であるし、殊に出席者中には婦人も少くない予定であるから、之が待遇に就ては力めて不体裁のことなきを期せねばならぬ。又之を開くに就ては約六・七万円の金が要る。この金と開会の設備方法等に就ては、宗教家だけの力では不充分であるといふので政治家・実業家方面に依頼することになつた。私も当初よりその相談を受け、瑞西の大会が次会を日本に開くといふならば引受けたら宜からう、実業家も申合せて応分の助力を吝まぬと答へたのである。
      ○余か渡米した目的の一
 瑞西の大会では、日本が流行つ児で、人気を集めてゐるだけに、次会を日本に開くことに決議した。然るに其後欧洲に大戦争が起つたので、開会期を変更し、平和克復後半年か一年を経過して、秩序の回復した後に開くことにした。
 既に日本で開くとすれば、宗教家のみの責任とせずして、実業家からも応分の助力を与へ、設備待遇に於て出席者に満足を与へなければ大会当事者の失態たるのみでなく、我日本の恥辱であると思ひ、日曜学校大会後援会といふものを組織し、大隈伯を会長に推し、私も幹部の一人となつて、事に当ることになつた。既に後援するとなれば、審に其実状を知悉し、適当な方針を立て、不体裁なき様にしなければならぬ。殊に最も困難なことは宿泊の設備である。東京・横浜を通じて概略八百人を収容するに過ぎぬ。横浜を詳細に吟味すれば、或はも少し多く宿泊されるかも知れぬが、兎も角不足する。不足すれば各自の私宅を宛てもよいといふ説もあつたが、外人を宿泊せしむるには相当の道具設備も要り、殊に婦人に対しては浴室・便所等の用意も、習慣の異なる為めに困難であるから、終に大船を雇用て、六・七百人を宿泊せしむることを米国よりの来会者に建議した。
 内地の設備が前に述べた有様であるから、米国の重立つた人々と打合せて、渡来の人数を節減せしめ、一面には内地の真相を告げて滞在中の不便を諒とせしめ、渡来後の苦情を少なからしむることは、主人側としての注意であると信じたので幸ひ私が渡米するから、途中二・三日の暇を割いて、米国日曜学校の幹部連と打合せることに決し、幹事ブラオン氏、一昨年日曜学校大会に出席の途次、我国に立倚られたるピツツブルグ市のハインツ氏・キニヤー氏及び費府のワナメーカー氏に手紙を出して、私の渡米と共に万事隔意なく打合せして貰ふことにした。
      ○缶詰王ハインツ氏
 是より先、我国でこの大会を開催することに決するや、米国より我国の代表的人物に、米国の日曜学校五・六ケ所を視察して呉れといふ申越があつたが、誰も行くものがなかつたから、私が其来請の一部に
 - 第42巻 p.181 -ページ画像 
応ずることにした。
 十一月八日に桑港に上陸すると、ハインツ氏より派遣したる人が出迎ヘ着後の予定などを聞かれた。私は未だ行程を確定しなかつたから早速調査して、其月二十五日にピツツブルグに着し、両日を同市に過し、二十七日費府に赴き、翌二十八日は日曜なれば、費府の日曜学校を参観することゝ定めて、その旨をハインツ、ワナメーカーの両氏に通達した。シカゴでも日曜学校関係者の歓迎を受け、二十五日朝愈々ピツツブルグに着いた。ハインツ氏は一代で缶詰王と称せらるゝに至つた大実業家で、主に野菜を原料として其缶詰の数が五十八種類あるさうで、総て機械の作用で製造される。
 氏はあらゆる誠意を尽して私の一行を款待された。ピツツバーグ滞在中は是非自分の家に泊つて呉れといはれた。成程其家は宏壮なものであるが、私は既にホテルを定めて置いたから謝絶すると、ホテルの仕払は自分に任せて呉れといはれる。そんな道理はないと断つたが、氏はなかなか肯きいれぬ。依つて私は様々に力説して、厄介になるまじきことに厄介になるのは困る、それでは私を苦めるといふものだと殆ど喧嘩する様にして陳謝した。氏は特に私の為に一夜盛んな宴会を開催して歓迎された。その夜は有力なる学者諸名士三十余名を招き、各自に得意の演説をして聞かされた。
      ○余が二大実業家に打明けた心底
 私はハインツ及びワナメーカーの両氏が通俗的なる商売人でありなから何うして斯様に熱心に日曜学校の為に尽力してゐるのであらうかと疑ひ、ハインツ氏も亦私が銀行家であるのに、何の為に日曜学校大会の為に後援するのであるかと、相互の心中を訝つてゐたが、数回の会話より何時しか互の心底を打明けて話合ふことになつた。話の順序は大体相同じく、私は『基督教を信ずる者ではない、平生孔子の教を守つてゐる。東洋には古来仁義道徳の道行はれ、経世済民は人の世にある限り務めねばならぬことゝしてある、之を守らなければ人として世に立つ甲斐がない。博く愛するが仁、之をよく行ふのが義、真直に行くのが道、己れに足りて他に恃まぬのが徳であるといふことより、東洋哲学の要領を談話し、私は銀行者即ち俗人であるが、商業道徳を普及するに微力を尽してゐると、実業家になつた私の経歴を説き、道徳と経済とを一致させることが、私の方針である、富を致すには経済によらねばならぬが、同時に又道徳を離れてはならぬ。明治以前の日本の実業は科学の基礎の上に成り立つて居らぬ。学問は武士以上のものであつて、商人は関係せぬ、商人には教育がなかつた。故に富の発達を進むる為には、商業教育を進めねばならぬと信じて、鋭意之が為に力を尽したのである。かくして数十年の間に物質的には余程発達したのであるが、富を致すを主とする時は自ら道徳が傷られ易い、富を得る為には如何なる手段を弄しても差支ない、所謂目的の為には手段を選ばぬといふ弊が起り、一方が進むと一方が後れて、片廻りとなり双翼両輪共に進ましめることは出来ぬ。詰り従来の東洋哲学が衰へて新なる道徳教が興らず、国民の信念が確立せぬからであると思ふ。是に於て、宗教の甲乙を問はず、耶蘇教でも孔子教でも神道でも仏教で
 - 第42巻 p.182 -ページ画像 
も、我国民に確乎たる信念を与へ、これは為さねばならぬ、これは為してはならぬといふ覚悟ある貴い人格を造りたいのである。儒教の所謂五倫五常も結局は信念の問題で、この信念を欠けば人は何も為し得られぬ。日曜学校大会は此点に於て最も便宜が多く、若しこの大会が日本国民の精神的方面に資する処があらうかと思ひ、一分の力を添ヘるのであると答へた。
      ○ハインツ氏の人間本分論
 ハインツは私の此説を聞き、東洋にもさういふ篤志の人があるか、自分は東洋にかゝる哲学があるとは思はなかつた、それでは耶蘇の教と少しも違はぬと、深く私の説を喜び、更に言はるゝには、動物ですらも自分で自分を養ふてゐる。人が若し自己の為にのみ生活するならば、毫も動物と選ぶ所はない。故に人は他人の為、社会の為、国家の為に尽す所がなければならぬ。此点に達するは政事家でも、軍人でも教育家でも、商工家でも一向に変つたことはない。而してこの本分を尽すには、宗教によつて自己の信念を堅むるの外ない。私が微力を日曜学校に尽すに至つたのも、自己の本分を尽すに出たので君と出発点は異なるとも、帰することは同一であると、真情を打明けて語り合つたのである。
 ハインツ氏は、私が日曜学校大会の際の待遇に就て打合せをせんとすると、そんなことは心配することはない。行くといふものがあるなら、敢て制限する必要はない、ホテルが不足したら天幕生活をさせてもよい、それは別として、お互に精神的のことを語らうぢやないかと直ぐに話頭を精神方面に向けるのであつた。
      ○美しからぬ所が原動力
 ワナメーカー氏はハインツ氏よりも高齢で八十歳に近い。費府の外に紐育にもデパートメント・ストワを所有し、米国中でさへも最大と称せられるのであるから、その大規模なること以て想像すべしである氏はこの大商店を経営し、日々の劇務に当りながら、綽々として余裕あり、沈着にして用意頗る周到である。
 私が費府に着いたのは二十七日午後六時頃であつたが、氏は直ぐに自分の店を観て呉れといふので、旅装を解く暇もなく大商店を訪ふた私が来るといふので夕方でも来客の帰るを止め、店の入口には両国の大国旗を掲げて、装飾を施し、イルミネーシヨンを点じ、氏自ら入口に出迎へ、手を引いて店内を巡廻し、店員の教育室、コツク場、秘密会議室等を一時間余り自身で説明しながら案内し、而して今日は時間がないから全部御案内することが出来ぬ、又華麗なる陳列所などは取立て御案内する必要もないので、今日は特に美しからぬ所のみを御目にかけた。併しこれが店の原動力となるべき所で、店の心臓、肺臓といふが如き大切の場所である。来観者によりて案内の方法が異るといふて、極めて経済的に時間を活用して案内された。
      ○ワ氏との精神的款話
 翌日は私の起床と食事の済める頃を見計つて、八時四十五分に私を訪ねるといふ約束であつたが、果して一分も違はずにキチンと来られた。而して十一時迄互に胸襟を披いて快談したのである。商売人とし
 - 第42巻 p.183 -ページ画像 
て何うして宗教に熱心であるか、といふ私の問に対しては、殆どハインツと同じやうなことを答へたが、氏は十歳の時、日曜学校の教育を受け、貧賤より今日の域に達したことを説き、私も亦ハインツ氏に対したと同じく、実業家でありながら宗教の為に奔走せることを語り、二人は殆ど時の移るを忘れたのである。
 氏は十一時に帰り店の用務を果たし、更に二時にホテルに私を迎へに来られ、私は氏の案内で会堂に行つた。堂は頗る宏壮にして、氏等の醵金に成つたものであらう。来会者二千余名、頗る盛会であつた。ワナメーカー氏の紹介の辞あり、私は起つて東西の差、耶蘇孔子の別はあるとも、その説く所は一に帰することを述べたるに、ワ氏は続いて起立し、私はこの珍客に対し一言希望したきことがある。只今御述べになつた如く、東西共に哲理に差はない、男爵は孔子教を主とせられ、私は耶蘇教を奉するも、その帰着する所一なるは、最も愉快に感ずる所である。此際一言を呈したきは、男爵は何故耶蘇教信者にならぬのであるか、孔子の教は貴いけれども、支那の現状に徴すれば、其教義は既に死んでゐる。之に反し、耶蘇の教は益々活躍しつゝある。男爵の如き思想家が、何故死んだ孔子の教に満足して、耶蘇教を信ぜられぬのであらう、切に御改宗を祈ると述べられた。この勧告には私も困却してその儘に聞流して来た。
 同会堂内には、聖書研究の老婦人の会合と、労働者の会合とがあり私は会員と手が痛くなるまで握手を交換した。
      ○今一度握手の時
 ワ氏は其夜自宅に是非一泊せよと勧められたが、私の旅程が変へられぬので、氏は非常に失望した。併し此儘に別れるのは如何にも残念に堪へぬ、何とかして再び会ふ工夫はあるまいか、紐育には何日御滞在であるかといはれ、十一月三十日に着して、十二月四日まで滞在する予定であると答へると、氏は『私も十二月二日には紐育に行く筈になつてゐる。多忙であらうが、其日に会見することは出来まいか』、『紐育に於ける銀行家の午餐会が十二時半よりの予定であるから、二時半頃から、訪問が出来ませう』、ワ氏も『三時後の汽車で費府に帰らねばならぬが、それでも一時間の余裕がある。今一度その時に握手致しませう』といひ、午後六時に費府で告別した。
 十二月二日の午餐会が手間取れて時刻が後れ、大急ぎにワ氏の店に馳け着けた時、氏は痛く待ちわびてゐたらしく、私の姿を見るや、御忙しいのだから或は会話することも出来まいかと想つてゐたが、まだ二十分間談せるといつて、短い時間を利用して種々の談話を交換したワ氏は自分が平素崇拝するリンコン及びグラント将軍の伝と、聖書、工業に関する書籍などを沢山に私に寄贈されて、これを読んで呉れとのことであつた。
 後に開かるゝ日曜学校大会には、私も必ず貴国を訪ふから、その時重ねて御目にかゝるといひ、互に別れを惜みて手を別つた。
      ○真の国交は人民相互の交り
 ワ氏と対談してゐる中に、氏は、今回は何を目的として渡米せられたかと問はれたので、私は日米問題の解決に微力を尽したい意念であ
 - 第42巻 p.184 -ページ画像 
ると答へたるに、氏は大に之を喜び、かくてこそ日米の平和も長に繋がるゝてあらうと、私の旅行を賞讚せられた。私は『日米の国交は独り政治家に一任することは出来ぬ。政治家の交際は糊で張つた様なもので、外観は美はしくも、雨天には湿ふて剥げ易い。真実の国交は人民相互でなければならぬ。国民的交際は漆か膠で固めた如く、原質は破れても剥げも離れもせぬのである。私は言語は通ぜぬけれども常に微力を此点に注ぐのである』といふと、ワ氏は私に答へて『君は実業家だといふが、その説くことから見ると詩人ではないかと疑はれる』といふて、笑語の間に分袂した。


竜門雑誌 第三三八号・第一五―一七頁 大正五年七月 ○実験論語処世談(十四) 青淵先生(DK420051k-0016)
第42巻 p.184-185 ページ画像

竜門雑誌 第三三八号・第一五―一七頁 大正五年七月
    ○実験論語処世談(十四)
                      青淵先生
○上略
      △万国日曜学校大会
 私が昨年渡米致したる際に、日本に万国日曜学校大会を開催する件に関し、米国に於て専ら斯の件の肝煎を致し居るピツツバーグの缶詰王ハインヅ及びフヰラデルフヰアのデバートメント・ストーア主ワナメーカーの両氏に面会せる顛末は、帰朝後の談話中にも詳細申述べおける如くであるが、欧洲戦争でも終結したら、日本で万国日曜学校大会を開催するやうに致さうとの議は、一昨年瑞西に開かれた同大会で決せられた事なさうで、耶蘇教側は熱心に其実現を希望し、大隈首相なぞも之に同意して開かせることにしやうとの意見を持たれて居る。然し愈よ日本に於て開催することになれば、米国からばかりも一千人の来会者があり、それに欧洲からの二千人を加へると総計三千人許りの来会者を見る予定である。之れ丈け多数の外国人に一時に押しかけられたんでは、折角日本に万国大会を開いても、第一に来会の外国人を悉く収容し得る丈けのホテルの設備が無い。又、三千人の多数を一堂に集め得る丈けの会堂も無い。麺麭だとか牛乳だとかいふものも、三千人の来会者をして充分満足せしめ得るまでに供給し得らるゝや否やさへ疑問である。
 殊に、万国日曜学校大会の来会者には、男子よりも婦人が多いといふことである。婦人は何処の邦でも同じことで、却々取扱方の六ケしいものである。それ等の人々が大会を終ヘて各其本国に帰つてから、日本に往つて見たが碌々眠ることも能きず、パンも噛ぢれず、牛乳も飲めなかつた、なぞと土産話の序に言ひ伝へられでもしたら、折角、骨を折つて万国大会を日本に開いても、之によつて日本を世界に紹介する便を得るどころか、却て従来贏ち得た日本の評判までも悪るくする事になる。それでは甚だ困るから、日本に万国大会を開く事だけは御引受けするが、来会者の数を制限して成るべく少数とし、又来会者は之を買切りの汽船に搭乗せしめて、日本来着後もホテルに宿泊せず其汽船を宿泊所とし、それから東京の大会に出席するやう取計つてもらひたいものだといふのが、私よりハインヅ及びワナメーカの両氏へ依頼に及んだ件である。これに対して、両氏とも承諾の旨を答へられ
 - 第42巻 p.185 -ページ画像 
たが、同時に又私共の間にいろいろと道徳上に就ての談話もあつたのである。
      △孔耶両教の相違点
 ハインヅ及びワナメーカー両氏より、何故私が耶蘇信者でも無いのに、万国日曜学校大会のことに就き斯くまで斡旋するかとの質問を受け、之に対し私が孔子教の立場より、国民道徳向上の一助にもならうかと、日曜学校大会を日本に開く事に就て斡旋しつゝある次第を答へたことは、米国より帰朝後談話したうちに詳しく述べてあるが、ワナメーカーの如き私と談話をした始めの間は、耶蘇教を信ぜぬ東洋人には到底道徳の事なぞは解らぬもの、信念なぞといふものゝ無いものと心得居られたらしく、談話の間に稍々当方を侮辱したやうな意味の言葉をすら、漏らしたほどである。然し、私が物質文明の進歩と共に精神文明の必要なる所以を説き、目下の急務は道徳の向上を計るにあるを論じ、私の奉ずる孔子教も耶蘇教と等しく、一身一家の利益のみを念とせず、他人の利益幸福をも図らねばならぬと教へるものであると述ぶるや、漸く私の意のある処を諒解し、両氏とも其期するところが私と同一であるのを知つて、大に悦ばれたのである。要するに古今東西何れの時代何れの邦にあつても、人は自分の利益幸福のためにのみ働かず、他人の利益幸福の為めにも働かねば、人は決して栄へるもので無い。此の点に於て、私もハインヅもワナメーカーも皆な同意見である。青年子弟諸君は、篤と此の消息を心得られて、私利私慾にのみ走らず、他人の為め国家の為めにも、力を尽すやうにして戴きたいものである。
 ワナメーカーが、その際、私に改宗して耶蘇教信者になれよと勧め私が之に対し何の返答をも致さずに帰つたことは――これも、私が帰朝後の談話中に申述べ置いた処であるが、私は最近に於て、その際の改宗勧告に対する返辞の手簡を、ワナメーカーに送つたのである。その趣旨は――私も今では既に相当の老人であるから、これから強ひて殊々しく耶蘇教に改宗するでもあるまい。貴卿の信奉する御宗旨は、「己れの欲する処を他人に施すベし」と教へるので、貴卿が其の可しと信ずる耶蘇教を私へ御勧めになるのも尤もの次第だが、私の信ずる孔子教では「己れの欲せざる処を人に施す事勿れ」と教へる。こゝに貴卿と私との立場に相違がある――といふやうな意味のもので、私より送つた斯の手簡を受取つたワナメーカーは、果して如何な感じを起して居るだらうか知りたいものである。
○下略


竜門雑誌 第三三八号・第六四―六五頁 大正五年七月 ○渋沢男爵渡米の反響 頭本元貞(DK420051k-0017)
第42巻 p.185-186 ページ画像

竜門雑誌 第三三八号・第六四―六五頁 大正五年七月
    ○渋沢男爵渡米の反響
                      頭本元貞
○上略
 モウ一つ反響がある、此れは悪い方の反響ではないが、渋沢男爵の漫遊に就て起つて来た一つの問題がある。夫れは日本の社会でも充分理解して貰ふ必要がある。殊に渋沢男爵に密接の関係ある竜門社の諸
 - 第42巻 p.186 -ページ画像 
君抔には、能く了解して貰つて、渋沢男爵に一臂の力を仮さるゝことを切望する問題である。夫れは戦後に東京で開かれる事に為つて居る世界日曜学校大会の事である。昨年渋沢男爵が亜米利加に行かれる時に此大会に関係ある人々から委託があつて、亜米利加の大会関係者の重なる人々に直接に会つて、さうして能く其の準備等の事に就て打合せをして来て貰ひたいと云ふことであつた。其の為めに男爵はわざわざピツツバーグのハインツ、夫れからヒラデルヒヤのワナメーカー両氏に会つて、篤と相談をされたんである。其の趣意は、日本では此大会に亜米利加から来る人々を充分に熱誠を以て歓迎する積りではあるが、何分にもホテルの設備、又鉄道の設備等が、米国のやうに行届いて居ないから、彼の多数の人に来られる事になると、自然宿をさせる処もないと云ふやうな始末である。東京に於てさへも然り、況や此等の人々が大会後に、日本の内地を旅行されると云ふことになると、尚更ら非常な不便を感じなければならぬ。ホテルと云つても非常に不完全なものであるから、予め其の覚悟を以て来て貰ひたい。日本に行つて愉快な旅行が出来るものと云ふお考へを持つて来られると、却て失望して、終には、折角我々日本人が誠意を以て歓迎しても、亜米利加のお客様には其の意思が徹底しないで、悪結果を及ぼすことがないとは謂はれぬ、と云ふやうな事で、凡ての設備の不完全なる事を説明するのが男爵の目的であつた。ハインツ氏にもワナメーカー氏にも、其他日曜学校大会関係の諸君には、紐育でも桑港でも、懇々と設備の不備なる事情を男爵から説明された。其点は能く了解されたやうであるが、併し男爵の説明を了解すると同時に、米国人の頭に残した印象は男爵の目的とは全く反対の印象ではないかと憂ヘて居るのです。夫れは何故かと云ふと、ワナメーカーにしてもハインツにしても、其他の有力者にしても、男爵から此説明を聞いた時にドウ考へたかと云ふと成程日本の鉄道・ホテル其他の設備は不完全であらう、けれども男爵の説明する所に依れば、日本の総理大臣大隈伯爵が会長となつて、さうして日本の実業界に於て最も勢力ある渋沢男爵を始として、其他重立つた実業家が夫れに加つて、さうして世界日曜学校大会の後援会を作られてある。渋沢男爵が、態々説明までされて熱心に遣られる位であるから、此れは必ず非常な歓待をして呉れるに違ひない、と云ふ印象を彼等に与へた事になつて、夫れだからして、欧羅巴からはドウか知らぬが、亜米利加からは却て多数の人を呼びつける結果を来たしはせぬか、亜米利加人が非常の希望を以て日本に来る人が却て多くなると云ふ、斯云ふ結果になつたと私は窃に憂ヘて居る。要するに渋沢男爵は之れに就て、エライ借金を背負つて帰つて来られた結果に終つたのである。故に其の責任を充分に遂げさせる為めには、我々は蔭ながら何処までも尽力せぬければならぬ。殊に竜門社の諸君に於ては、其のお積りで御助力あらんこと切望するのである。



〔参考〕竜門雑誌 第四一一号・第一九―二五頁大正一一年八月 ○信念の人ワナメカー 青淵先生(DK420051k-0018)
第42巻 p.186-191 ページ画像

竜門雑誌 第四一一号・第一九―二五頁大正一一年八月
    ○信念の人ワナメカー
                      青淵先生
 - 第42巻 p.187 -ページ画像 
 本篇は「商業世界」五月号に掲載されたる青淵先生の談話なりとす
                        (編者識)
△私がワナメカーに初見参の動機 今回は、私が昨秋から今春にかけて亜米利加滞留中に観たる商業及商人に関する感想を述べて欲しいと云ふことであるが、生憎私の渡米した目的が、さう云ふ方面の観察とは縁遠いものであつたが為に、折角ながら其求めに応ずることが出来ない。そこで甚だ狭い個人同士の事柄ではあるが、彼の地商業界一方の立者として知られてゐる、ワナメカー百貨商店主のワナメカー氏と私の間に於ける思ひ出話を少しく言ふことにする。
 私がワナメカー氏と初めて会つたのは、大正四年であった。此の年は諸君も知らるゝ通り、パナマ運河の開通記念博覧会が桑港に開設された。私もその招待に接した一人であつたが、当時我が商業会議所等には、此の機会を有効なものにしたいと云ふ議が起つてゐた。それは米国加州に於ける我が国の移民問題が漸く難かしくなつて来て居り、又た彼の国西部の実業家が東洋に商権を拡張すると同時に、勢ひ支那に於ける我が商業と利害の衝突も起つて来ると云ふ心配もあり、かたがた彼の国有力の実業家達と親しく会つて意見を交換してその諒解を求める必要がある。それには此の記念博覧会には同国知名の士が悉く集る筈であるから、これを好機として我国からも相当の人を遣りたいと云ふのでその選に当つたのが私である、私がその任の相当者か否かは別問題として、その事柄は国際的の大問題であり、会議所側からも切なる勧説がある上に私には亦た別に此の機会を利用することが都合よき事情があつた。それは故大隈侯を会長とする世界日曜学校後援会の副会長を私と阪谷男爵とが引受けてゐた。此の日曜学校の大会は毎年一回づつ参加国中の何国かで行はれることになつて居り、先年の大会決議では、次回は日本で開催すると云ふことになつてゐた。(戦争の為め延引して漸く昨年東京丸の内に挙行されたことは諸君の御承知通り)日本で此の大会の開かれるのは至極結構なことであるが、各国から集つて来る参列員を何う取扱ふかと云ふことが一問題である。亜米利加からだけでも二千人からの参列者がある模様で、その中には夫人・令嬢も多数に含むことであり、その他の国の参列者を加へたならば、実に夥しき数に上るので、之れ等の人達を宿泊させるホテルさへ充分でない有様であるから、先づ、一番参列者の多い米国側に相談して、その人数を制限して貰ふやうに交渉しなければならぬと云ふ必要があつたのだ。それ等の用をかねて結局私が渡米を引受けることになつた。
△遠来の珍客待遇法 パナマ運河開通記念博覧会参列は型の通りで済み、それから日本日曜学校後援会副会長の資格で、彼の国同後援会の幹部と会見することになつたが、此の幹部に最も大勢力を有するのが本編の主人公たるワナメカー氏である。氏はその財力に於ても信望に於ても同国に重きを為す人で、特に日曜学校の事業には非常に大なる貢献をしてゐるところの、宗教に厚き信仰の所有者である。ブラオン氏やハインツ氏等と共に幹事の要職にあるので、私は先づハインツ氏に面会して、大体の打合せをなし、それから当の大立物たるワナメカ
 - 第42巻 p.188 -ページ画像 
ー氏をヒラデルヒヤに訪ねて行つた。此の時が一九一五年(大正四年)十一月二十七日であつた。私の同地に着いたのは灯頃に間もなき五時前後であつたが、かねて通知をしておいたので、氏は迎への自働車を停車場によこしてくれた。それに乗つてワナメカー百貨商店へ馳せつけたのであるが、同店は特に私を歓迎する為めのイルミネーシヨンに輝き、その日の閉店時間が来たので渦のやうに流れ出す客が、店頭に山のやうに群つて私の為めに拍手する。多分同店で日本の客の来ると云ふことを話したものと見える。而して主人のワナメカー氏は店の入口に立つて、私の到着を待ち受け、私が自働車を降ると、群集を押し分けて直ぐ握手を求め、非常な歓びに満ちた顔色で『よくお訪ね下された。サア何うぞこちらへお出で下さい』と私の手を曳いたまゝ店内のエレベーターに乗せ、何階であつたか記憶せぬが、何でも一番高い所だと思はれる広い一室へ私を案内された。と、そこは皿やら、茶碗やらを洗ふ場所があつたり、いろいろの食器なぞが積んである光景は先づ台所と云ふ趣きであつた。而して氏は『此所は食堂の仕事を整理する場所です』と説明した、私は此の言葉を開いて異様に感じた、イルミネーシヨンまで点じて歓迎してくれた私を案内する室は、嘸ぞや綺麗なものであらうと、予想せぬまでも、さうであるべき筈であるのに、食堂の整理室へ連れ込むと云ふのは一寸妙だと思つた。それからその室を出て、今度は少し階下の小じんまりとした室へ連れて往つて『此所は秘密会議をする室です』と説明された。いよいよ不思議の場所を見せることゝ思つてゐると、今度は新任の店員が店務を練習する室だといふ所を見せ、それから更に店員や来客の中で病気に罹つた者がある場合、その応急の手当をする救護室だと云ふのヘ案内された。その他いろいろの室を案内し終つてから氏の申されるには『遠来の珍客であるから、なるたけ立派な室へ御案内すべきであり、又た御案内すべきさうした室も沢山にある。併し綺麗な方の室を御覧になつても格別御利益がありますまいと思つて、それで故意と斯う云ふ裏面ばりお目にかけました。』と云ふことであつた。これで私の疑問は氷解した。成程美しい表面だけ見たのでは事業の真相が知れぬ。それをかうして裏面を開放して貰へば、世界的に有名なワナメカー・デパートメント・ストアーは如何なる組織、如何なる機関に依つて之れを経営するのであるかと云ふことが判明する。徒らに形式に重きを置く待遇よりは斯うした真実味の籠つたやり方が、何れ程仕合せか知れぬと感心した。
△基督教徒でない貴下の働きが疑問 それから氏は、氏の邸宅に来て宿るやうにと言つてくれられたが、氏の邸宅は店舗の所在地から自動車で凡そ一時間を要する住宅地帯にあるのであるし、それに宿も既に取つてあるのだから、その厚意だけはお受けするがと拒つた。『それでは明朝会ひたいが、幾時に起るか』と問はれたので、『七時には起床し、それから湯に這入つて八時には食事を済す』と答へた。『では八時三十分にホテルへお訪ねする』と云ふ言葉を諾して、その日は別れた。
 翌二十八日朝の食事を終つて、氏の来訪を待ち受けてゐると、時計
 - 第42巻 p.189 -ページ画像 
の針が丁度八時三十分を指すと同時に、氏の輝いた顔が扉の外から現はれて来た。その時の正確なるに驚く程だ。それから話は日曜学校の事柄になつたが、氏の胸中の疑問を露骨に打ち明けた。『日本では真実日曜学校大会を開く意思があるのか何うか。それに貴下は銀行家として日本の経済界及び事業界に重きをなす人だと云ふことは、亜米利加人の一般に信じてゐる所であるが然かも貴下はクリスチヤンではないさうだ。その基督教徒でなき人が日曜学校の仕事に係はると云ふことが、何うしても腑に落ちない。況してお互ひに急はしい体で、遠く亜米利加まで運んで来られると云ふのに就いては、別に何か有要な用件を帯びて来られたものとも考へられる。それよりは先づ、基督教徒でなき貴下の日曜学校の仕事に於ける立場は何う云ふものか。それ等についてお伺ひしたいと思ふが』と質問であつた。尤もの申し分であるから、私は先づ日曜学校の仕事に於ける我々の立場から説明することにした。『如何にも私は基督教徒でないけれども、此の事業の主旨に共鳴して之れを翼賛しやうと欲するものである。日本に於ける日曜学校後援会の大隈会長は、日本の政治界の長老であり、世界的にも多少知られてゐる人である。現に只今は日本政府の首班を占めてゐられるので、全く博愛と人道との為めに此の事業を扶けやうと云ふ意思の外はない。又た私の貴国へまゐつたのは、比の仕事の打合せの外に加州の移民問題に就いても、支那問題に就いても、貴下の如き有識有力の紳士と会談してその諒解を得て将来の葛藤を未然に防ぎたいと云ふ志望を併せて、博覧会参列を機会に立越した訳である』と説明した。氏は猶ほも解せぬ顔色で『それは解つたがクリスチヤンでなき貴下が縦令別の用件を帯同したとは申せ、日曜学校の仕事に斯くまで熱心に尽力されると云ふことが、少しく受取難い。我々は生れながらの信者であるから、それに尽力するのは当然だが。』と云ふのである。そこで私は此の疑問に対して更に弁明しなければならなくなつた。而して私は下のやうな話をした。
△ワナメカー氏の質問に儒道の説明 『私は元来支那の孔孟の教へを奉ずるものであるが、一度官を去つて実業界に入りて以来、亜米利加を始め、欧羅巴等の物質文明の大に学ばねばならぬことを知ると共に精神教育の忽諸に附すべからざることを深く信じ、如何なる事業も基調を信念の上に置かざれば、空中に楼閣を描かんとするも同様で、遂げて根柢を得る事能はざるが故に、精神の修養を重しとした。然して孔孟の所謂忠恕孝悌の道は、此の信念のコンクリートをなすものである。博施済衆は儒教の大眼目である。此の博く衆を愛し博く衆を救ふことは、基督教の博愛慈善の教旨に共通すべきものである。「夫れ仁者は、己れ立んと欲して、人を立つ。己れ達せんと欲して、人を達す。」即ち己れを空ふして人に接する仁慈的犠牲の観念こそ、人道最高の尊貴である。而してこの人道共通の大信念を生ぜしめやうと云ふ目的の下に行はるゝ運動には、境を設くる必要がない。是れ孔孟教旨である私が敢て日曜学校の仕事に歓喜しつゝ従はんと欲する所以である。且つ又た一方に於ては、斯くの如き信仰の集り、平和の催しの機会に於て日本を世界的たらしめたい。日曜学校の事業の如く日本を世界的に
 - 第42巻 p.190 -ページ画像 
向上させたい。況んやこれに依つて東西人の間に精神的の結合を見ることが出来るならば、その幸福の大なる実に測り知ることの出来ないものがあるに於てをや。』と。
 ワナメカー氏は不思議さうにして聞いてゐたが『私には未だ充分会得は出来ないけれども、自己を利さぬ事柄の為めに尽力するものは、基督教ばかりだと思つてゐたのに、孔子の教へもその様に立派なものか。』と、漸く私共の立場や意のある所を諒解してくれ、且つ『さう云ふ信念を有つてゐる貴下に、是非今日午後二時から私の教会へ来て貰ひたい。』と求められた。私は承諾して別れたが、此の時の会談は三時間の長きに亘つた事に驚いた。それから約束の二時に指定の教会へ往くと、ワナメカー氏は私を集りの人達に紹介し、且つ私に基督教徒になれと其の場に勧説されたのである。こゝが亜米利加式の何事も露骨に颯々と切出す流儀で、私も一寸面喰つたが、『信仰依帰の問題は早卒の間に決定すべきものでなく、只今即答する訳にはゆかぬから何れ熟考の上で』と切抜けた。それから更に聖書の研究会だの、婦人の講演会だのゝ会場へ案内されて別れることになつたが、氏は『何うか今一度会つて話す機会が欲しい。貴下はこれから何方へ往くか』と云はれたので『紐育ヘ』と答へたところ『それでは私も紐育ヘゆく用があるから、その時に再会しやう』と約束して別れた。
△貴下は学者か宗教家か 十二月二日に紐育で氏と再会した。此の時もいろいろと意見の交換をしたが、就中加州の移民問題と支那問題に関して私の所見を述べた。今日此の両問題に対して両国人の間に諒解を有してゐないと、国交上甚だ面白からぬ結果に逢着せぬとも限らぬこれは基督教的の博愛平等の信念を以て対せば、その解決必ずしも困難のことではない。殊に移民問題の如き人種的差別を超越して考慮すべき人道問題であると力説し、又た支那問題に就いても互に求めて飽く事を知らぬと云ふことでは、必ず両国人の間に面倒が出来る。これも今日から相互に最善の諒解を得ておく必要がある。政治家がいくら固い約束の証文を出したからとて、それがいつまで反古にならずにゐるものでない。証文や書附けを綺麗にするのは経師屋の仕事だ。併し何程綺麗に飾られた書附でも、一朝雨や風が起れば忽ち剥れたり破けたりして仕舞ふ。それよりはお互の心さへ確かに結合されてゐれば、縦令証文なぞがなくとも無法を張るやうなことはない。と云つたら氏は『貴方は学者か宗教家か、一体何方の人だ、感心のことを言つてくくれる』と云つて喜ばれた。
 その後私が帰朝して以来折々手紙をくれ、何うかいま一度会いたいと云ふことを毎時も言つてよこされ、日曜学校の大会には是非日本に往つて会ふやうにするからと云ふことであつたが、不幸にして夫人を失ひ、御自分も病気の為め昨年の大会に来朝することが出来ず、それを非常に残念に思ふと云ふことを代理の人を以て私に挨拶をされた。
 そこで昨年私が渡米した際、同氏を訪ねたらそれは非常な喜びで、是非にと云ふお勧めに氏の邸宅に一泊し、夜明しで話をする程の親しみと懐かしみを披瀝して歓待し、別に懇親の人達を集めて宴会まで開いてくれ、結構な記念品の寄贈にあづかり、翌日も是非にと引止めら
 - 第42巻 p.191 -ページ画像 
れたのであるが、そう云ふ訳にゆかなくつて辞去した次第である。
△此の信念の力 然し此のワナメカー氏の生立は、余り裕福な家庭に育つたのではない為めに、十歳の時から日曜学校に通ふてその教育を受け、その後小売店の店員となつて、僅に一週二弗位ゐの給与に甘んじてゐたのであるが、蛟竜は永く池中のものたらず、天来の英才と深き宗教的の信念とを有する氏は、早くも二十歳の頃から一小売商店を開き、其の基督教的の立場から、人類生活に貢献するを以て自己の任務となし、又たその立場から商業を革新せんと心掛け、遂に商界の一新紀元を劃したと称せらるゝデパートメント・ストアーを創始して、世界的の名声と信望をあつめるに至つた。今日はヒラデルヒヤと紐育とにその店舗があるが、何れも大規模で何れの点に於ても斯界の尤を誇つてゐる。斯くの如き新智識に依つて革新的の大事業を成就するには何うしても信念の力が無ければならぬものである。実に氏の如きは商界の先覚者であると共に、自己の信ずる宗教の自覚者でありその体現者である。
 談個人の社交に過ぎないけれども、その間商人として幾許の教訓を発見する事が出来やうと思ふ。



〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第三七―三九頁 昭和七年二月 東京市養育院の関係と添ヘて ワナメーカー氏の事 本協会理事田川大吉郎(DK420051k-0019)
第42巻 p.191-192 ページ画像

国際知識 第一二巻第二号・第三七―三九頁 昭和七年二月
    東京市養育院の関係と添ヘて
    ワナメーカー氏の事
                 本協会理事田川大吉郎
○上略
      五
 東京市養育院では、年々故白河楽翁公を記念する祭典を催された。その折には、故子爵は、ほとんど欠かさず、或年には病を推しても列席せられた。私は故子爵から楽翁公に関する話を幾度か承つた。それは、子爵のお話の中で私の記憶に存する最も顕著なものゝ一であるがこゝにはそれを略し、米人ワナメーカー氏と渋沢子との間の関係に就て一小節を加へることにする。
 米人ワナメーカー氏は、人も知る米国に有名の百貨店王である。米国には百貨店の仕組が早くから設けられ、盛んに発達して居るが、その中でも、ワナメーカー氏の百貨店は、その最初のもので、又最大のものと評判せられた――今日ではより大きなものがある――つまり氏は米国に有名な大資本家の一人である。
 所で、氏は、大資本家であるが上に大慈善家であられた。氏の名は大慈善家として全米国にとゞろいてゐた。例へば世界日曜学校大会といへば、その第八回目の大会を東京に開いたことがある――大正九年――誰も承知の基督教的博愛思想の一結晶であるが、その開会に当つて、渋沢子は非常に尽力せられた。停車場前に臨時に建築したその集会所が焼失して、集会の場所に困つた時、俄に帝国劇場を借り受けてそれに充てたのは、専ら渋沢子の尽力の賜物であった。ワナメーカー氏は、その日曜学校の指導者であり保護者であつた。渋沢子とワナメーカー氏は、その関係に於ても並々ならぬ親善の間柄であられた。
 - 第42巻 p.192 -ページ画像 
 渋沢子が米国にワナメーカー氏を訪はれた時の事、ワナメーカー氏は子爵に向ひ、これ程親しい両人の間柄に、尚飽き足らなく感ずることがある。それは子爵が基督教を信ぜられないこと、その信者であられないことである、基督教を信じて貰へないだらうか、敢てお勧めをする、どうぞ聴き納れて貰ひたいものと、ねんごろにすゝめられた。子爵は、それに対し、御厚意は感謝に余りある。けれども、私は論語を読みなれて居る。孔子が私の師である。私はそれを渝ヘたくない。折角のお勧めながら、人各々信ずる所がある。これを容されたいと申して断られたといふことである。これは、かなり広く知られて居る話であるが、私は、子爵に接した折、前後二回、これを承つた。
 その時子爵は申された。断るのが誠に辛かつた。それ程先方は親切で真剣であつた。断つた時、先方の失望の色は目に見えた。実に辛い辛い切ない感じを覚えたことであつたと。ワナメーカー氏は、それにも懲りず、復たすゝめられた。子爵は復た断られた。それに就て子爵は復た申された。先方の熱心と親切は、たゞたゞ感嘆の外はなかつたが、しかしながら、あまりにしつこ過ぎると思つた。他人の信念に対し、たとへ自ら信ずる所の厚いためとは申しながら、無礼じみた態度であるとさへ思つた。強ゐて怺へて、あなたは基督の信者として、私は論語の信者として、互に侵す所なく、渝らざる友誼を続けたいものであると申してその話を打ち切つたと。
 ワナメーカー氏も、渋沢子も共に慈仁博愛の人であつた。中外の人はこれを知つて居る。両君の間の論語と聖書の信仰に関する話は、永久に渋沢子から承つた当時の鮮かさを以て私の記憶に残るであらう。