デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.393-407(DK420088k) ページ画像

明治45年5月26日(1912年)

是ヨリ先、是月十六日、当社評議員会、築地精養軒ニ於テ開カレ、栄一出席ス。次イデ是日、当社第四十七回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第二八八号・四五―四六頁明治四五年五月 ○竜門社評議員会(DK420088k-0001)
第42巻 p.393-394 ページ画像

竜門雑誌 第二八八号・四五―四六頁明治四五年五月
    ○竜門社評議員会
竜門社にては、五月十六日午後五時より、築地精養軒に於て、評議員会を開きたり、当夜の出席者は左の如し。
  青淵先生       渋沢社長
   (いろは順)
  石井健吾       服部金太郎
  土岐僙        尾高次郎
  大川平三郎      高根義人
 - 第42巻 p.394 -ページ画像 
  八十島親徳      山田昌邦
  明石照男     男爵阪谷芳郎
  佐々木勇之助     佐々木清麿
  清水一作       諸井恒平
  杉田富
評議員中欠席せられたるは、穂積陳重・星野錫・日下義雄・佐々木慎思郎・桃井可雄諸君にして、軈て渋沢社長は、是れより評議員会を開き先づ前年度の会計報告を為さしむべしと告げ、次いで幹事八十島親徳君起ちて、明治四十四年度の収支計算明細を報告して承認を得、次に特別会員及普通会員入社の件は別項記載の人々に対して承認を与へ次に本月二十六日午後一時より、本社春季総集会を曖依村荘に於て開くの件は原案通り可決し、設備其他の事は総て社長及び幹事に一任することに決し、是れにて総会を終りて晩餐会に移り、此席へは青淵先生・渋沢社長を始めとし、前記評議員の外、左記前評議員諸君も出席せり。
  原林之助       堀越善重郎
  田中栄八郎      植村澄三郎
  山口荘吉       斎藤峰三郎
    外
  増田明六       矢野由次郎
食後更に以前の談話室に移り、新旧評議員諸君は青淵先生を中心として種々談話を交換し、殊に青淵先生には、在郷軍人会に就て懇切に説示する所あり、其他宗教統一問題等話題となりて、打解けたる世間話に時の移るを覚えず、軈て一同散会したるは午後十一時頃なりき。
○本社評議員改選 本社評議員阪谷芳郎・佐々木勇之助・佐々木慎思郎・服部金太郎・土岐僙・大川平三郎・山田昌邦・清水一雄・桃井可雄・杉田富諸君は任期満了に付き、五月十六日開会の評議員会に於て社則第十六条第二項に拠り、留任評議員が無記名投票を行ひたる結果左記十名の諸君が投票の多数を得たるにより、乃ち渋沢社長は社則第十六条第二項の規定に基きて之を後任評議員に選定し、而して各自に通牒を発し、其同意を得て評議員と定りたる諸君は即ち左の如し。
  阪谷芳郎君(再選)    佐々木勇之助君(再選)
  高松豊吉君(新)     郷隆三郎君(新)
  井上公二君(新)     原林之助君(新)
  堀越善重郎君(新)    植村澄三郎君(新)
  田中栄八郎君(新)    渋沢義一君(新)


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK420088k-0002)
第42巻 p.394 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年         (渋沢子爵家所蔵)
五月二十六日 晴 暖
○上略 午後一時ヨリ竜門社春季総会アリ、来会者約五百名許リナリ、瀬川総領事、広東地方及支那革命ニ関スル見聞談アリ、原熙氏、花ノ配色ニ関スル講演アリ、最後宗教統一ノ事ニ付意見ヲ述フ、畢テ余興アリ、又園遊会ヲ開キ、一同歓ヲ尽シ夕六時頃散会ス○下略
 - 第42巻 p.395 -ページ画像 

竜門雑誌 第二八九号・第八六―九〇頁明治四五年六月 ○竜門社春季総集会(DK420088k-0003)
第42巻 p.395-399 ページ画像

竜門雑誌 第二八九号・第八六―九〇頁明治四五年六月
    ○竜門社春季総集会
新緑濃に、初夏の雲蒸す五月廿六日午後一時、青淵先生の別邸、王子飛鳥山曖依村荘に於て、竜門社第四十七回春季総集会を開かれたり。定刻社長渋沢篤二君開会の辞を述べ、幹事八十島親徳君、左記の如き社務及会計報告を為して満場の承認を得、次いで講演会を開き、頃日広東の任地より帰朝せる総領事瀬川浅之進氏の「清国革命談」、農科大学教授原熙氏の「花」と題せる演説(以上次号掲載)、最後に青淵先生の「宗教統一に就て」の講演(演説欄参照)あり、是れにて講演会を終り、次いで園遊会を開けり。此の日稍蒸し熱かりしが、樹の葉茂れる曖依村荘、園遊びには誂へ向きの好日和にて、何れの露店も千客万来、青淵先生にも甘酒一杯召上られ、誰れ彼れの別なく打解けて語らふ声や賑はしく、和気靄々として実に一門団欒の風情なり、軈て散会したるは午後五時過なりき。前年度社務及会計報告並に当日来会諸君は左の如し。
  ○社務報告 (明治四十四年度)
一本年度会員異動
      特別会員 弐拾壱名
 一入社員
      通常会員 六拾名
      特別会員 拾七名内死亡拾名
 一退社員
      通常会員 拾壱名内死亡参名
一年度末会員現在数
 一名誉会員     壱名
 一特別会員     参百六拾五名
 一通常会員     四百五拾八名
  合計       八百弐拾四名
一年度末現在役員
 一社長       壱名
 一評議員      弐拾名 内幹事弐名
  但評議員の内十名は、四月二十六日社則第十六条に依り改選せられたるものなり
一本年度集会の数
 一総集会      弐回
 一評議員会     弐回
一雑誌発行部数
 一毎月一回     凡九百部
 一本年度発行総部数壱万八百拾部
  ○会計報告(明治四十四年十二月三十一日現在)
    貸借対照表
      貸方(負債)
一金参万六千五拾円也       基本金
一金参千参百四拾五円七拾五銭   積立金
一金千四百拾弐円参拾四銭     収入超過金
 合計金四万八百八円九銭
 - 第42巻 p.396 -ページ画像 
      借方(資産)
一金参万弐千六百壱円拾五銭 第一銀行株式四百参拾参株
一金四百七拾五円也    四分利公債額面五百円
一金四拾弐円也          保証金
一金弐百四拾六円弐拾壱銭     仮払金
一金参拾参円拾銭         什器
一金七千参百九拾参円五拾参銭   銀行預金
一金拾七円拾銭          現金
 合計金四万八百八円九銭
    収支計算書
      収入之部
一金弐千参百七拾九円七拾四銭   配当金及利子
一金千七百八拾弐円八拾銭     会費収入
一金千百五拾七円五拾銭      寄附金
一金五円弐拾銭          雑収入
 合計金五千参百弐拾五円弐拾四銭
      支出之部
一金千五百五拾弐円四拾九銭    定時総集会費
一金拾七円八拾四銭        集会費
一金千六百七拾四円六拾五銭    雑誌印刷費
一金百拾五円四拾銭        郵税
一金五百五拾弐円五拾弐銭     報酬及雑費
 合計金参千九百拾弐円九拾銭
差引
 金千四百拾弐円参拾四銭 収入超過金積立金に編入
当日来会者左の如し
一名誉会員
 青淵先生     同令夫人
一来賓
 原熙君      瀬川浅之進君
一特別会員(いろは順)
 井上金治郎君   井上公二君    石井健吾君
 伊藤登喜造君   同令夫人     石川道正君
 池田嘉吉君    一森岩楠君    萩原久徴君
 萩原源太郎君   西田敬止君    穂積陳重君
 同令夫人     穂積重遠君    同令夫人
 堀越善重郎君   星野錫君     本間竜二君
 堀井宗一君    利倉久吉君    土岐僙君
 土肥脩策君    沼崎彦太郎君   織田雄次君
 岡本銺太郎君   尾高幸五郎君   尾高次郎君令夫人
 尾川友輔君    大川平三郎君   同令夫人
 大塚磐五郎君   脇田勇君     河村徳行君
 神谷十松君    加藤為次郎君   神田鐳蔵君
 同令夫人     吉岡新五郎君   米倉嘉兵衛君
 - 第42巻 p.397 -ページ画像 
 米田喜作君    竹田政智君    田中元三郎君
 田中太郎君    田中忠義君    田中二郎君
 田辺為三郎君   高橋波太郎君   高松録太郎君
 高根義人君    高橋金四郎君   田中栄八郎君
 竹山純平君    多賀義三郎君   早乙女昱太郎君
 曾和嘉一郎君   鶴岡伊作君    塘茂太郎君
 角田真平君    中井三之助君   中村鎌雄君
 成瀬仁蔵君    村井義寛君    棟居喜九馬君
 内海三貞君    内山吉五郎君   上原豊吉君
 野崎広太君    野口弘毅君    倉沢粂田君
 山田昌邦君    山中譲三君    山中善平君
 八十島親徳君   八十島樹次郎君  矢野由次郎君
 山口荘吉君    矢野義弓君    山内政良君
 松本常三郎君   松平隼太郎君   松谷謐三郎君
 増田明六君    福島甲子三君   福島令夫人
 古田錞次郎君   郷隆三郎君    小林武次郎君
 古田中正彦君   明石照男君    同令夫人
 安達憲忠君    麻生正蔵君    朝山義六君令夫人
 佐々木慎思郎君  佐々木勇之助君  佐々木清麿君
 佐々木興一君   佐藤毅君     佐藤正美君
 男爵阪谷芳郎君令夫人        坂倉清四郎君
 斎藤章達君    斎藤峰三郎君   木村清四郎君
 木村喜三郎君   木戸有直君    南貞助君
 三俣盛一君    渋沢市郎君    渋沢元治君
 同令夫人     芝崎確次郎君   清水釘吉君
 清水一雄君    清水揚之助君   清水百太郎君
 肥田英一君    弘岡幸作君    平田初熊君
 諸井恒平君    関誠之君     鈴木紋次郎君
 鈴木清蔵君    鈴木善助君
一通常会員(いろは順)
 井田善之助君   石井健策君    石井与四郎君
 石田豊太郎君   石川竹次君    伊藤英夫君
 伊藤美太郎君   伊沢鉦太郎君   板野吉太郎君
 猪飼正雄君    井出徹夫君    五十嵐直蔵君
 原直君      長谷川謙三君   秦乕四郎君
 早川素彦君    原久治君     林興子君
 蓮沼門三君    堀内良吉君    堀内歌次郎君
 友野茂三郎君   富田善作君    東郷一気君
 千葉重太郎君   小沢清君     大平宗蔵君
 大庭景陽君    大畑敏太郎君   岡本亀太郎君
 岡原重蔵君    岡本謙一郎君   大木為次郎君
 大原万寿雄君   太田資順君    大島勝次郎君
 和田巳之吉君   脇谷寛君     河瀬清忠君
 金子四郎君    金沢弘君     金井二郎君
 - 第42巻 p.398 -ページ画像 
 兼子保蔵君    笠間広蔵君    唐崎泰助君
 金古重次郎君   上倉勘太郎君   吉岡鉱太郎君
 横田半七君    横山正吉君    横尾芳次郎君
 横田晴一君    田中七五郎君   田中一造君
 俵田勝彦君    田村叙郷君    高橋俊太郎君
 高橋森蔵君    高橋耕三郎君   武笠政右衛門君
 武島章二君    武沢顕次郎君   武沢与四郎君
 高橋毅君     高山金雄君    田子与作君
 堤真一郎君    塚本孝二郎君   蔦岡正雄君
 根岸綱吉君    中島徳太郎君   永田帰三君
 滑川庄次郎君   長井喜平君    中古賀晴太君
 村田繁雄君    村山革太郎君   村木友一郎君
 生方祐之君    宇治原退蔵君   上田彦次郎君
 宇賀神万助君   氏家文夫君    野村喜十君
 野村喜一君    野村鍈太郎君   野村修三郎君
 久保幾次郎君   黒沢源七君    滝沢秀太郎君
 久保田録太郎君  山崎英之助君   山崎豊治君
 山本鶴松君    山田仙三君    八木安五郎君
 八木仙吉君    安田久之助君   安井千吉君
 柳熊吉君     山内篤君     松村五三郎君
 松村修一郎君   松本幾次郎君   松井方利君
 町田乙彦君    槙安市君     松園忠雄君
 藤木男梢君    藤浦富太郎君   福島三郎四郎君
 福島元朗君    福本寛君     福田盛作君
 小森豊参君    小林武彦君    小林武之助君
 小林梅太郎君   小林茂一郎君   小林森樹君
 小島順三郎君   河野間瀬次君   近藤良顕君
 後久泰治郎君   小山平造君    高妻俊秀君
 赤木淳一郎君   赤萩誠君     相沢才吉君
 綾部喜作君    阿部久三郎君   粟生寿一郎君
 粟飯原蔵君    阿南次郎君    佐々木哲亮君
 阪田耐二君    斎藤又吉君    沢田清寿君
 木村弘蔵君    木村益之助君   岸本良二君
 北脇友吉君    行岡宇多之助君  御崎教一君
 三上初太郎君   宮谷直方君    宮川敬三君
 水野克譲君    三宅勇助君    渋沢秀雄君
 芝崎保太郎君   芝崎徳之丞君   塩川誠一郎君
 清水松之助君   東海林吉次君   柴田房吉君
 下条悌三郎君   渋沢長康君    平岡五郎君
 平井伝吾君    森茂哉君     門馬政人君
 瀬川光一君    鈴木豊吉君    鈴木正寿君
 鈴木旭君     椙山貞一君    住吉慎次郎君
 須山荘造君
玆に当日会費中へ金品を寄贈せられたる各位の芳名を録して、謹で厚
 - 第42巻 p.399 -ページ画像 
意を謝す
 一金参百円也        青淵先生
 一金五拾円也        第一銀行
 一金参拾五円也       渋沢社長
 一金弐拾五円也       東京印刷株式会社
 一金弐拾円也        穂積陳重君
 一金弐拾円也        男爵阪谷芳郎君
 一金拾五円也        佐々木勇之助君
 一金拾五円也        東洋生命保険会社
 一金拾円也         堀越善重郎君
 一金拾円也         大川平三郎君
 一金拾円也         神田鐳蔵君
 一金拾円也         田中栄八郎君
 一金拾円也         諸井恒平君
 一金拾円也         紅葉屋商会
 一金五円也         原林之助君
 一金五円也         星野錫君
 一金五円也         尾高幸五郎君
 一金五円也         尾高次郎君
 一金五円也         山中譲三君
 一金五円也         佐々木慎思郎君
 麦酒百弐拾五リーター    大日本麦酒会社
 シトロン拾弐打       植村澄三郎君


竜門雑誌 第二八九号・第一八―二八頁明治四五年六月 ○竜門社春季総集会に於て 青淵先生(DK420088k-0004)
第42巻 p.399-407 ページ画像

竜門雑誌 第二八九号・第一八―二八頁明治四五年六月
    ○竜門社春季総集会に於て
                      青淵先生
 本篇は、五月二十六日、曖依村荘に於て開催せられたる本社第四十七回春季総集会講話会に於て、青淵先生が講話せられたるものなり
                       (編者識)
幸に今日は快晴でございまして、竜門社の総会は誠に好都合を得ましたのを諸君と共に喜びます、段々時間も迫つて参りましたから、長いお話は見合はせに致しませう、併し何時も此の会には私の愚見を述べるのを例としてございまするで、玆に一場の新案を申述べて、諸君の御参考に供して置きたいと思ひます。
前席の瀬川君から支那の現況を詳細に拝聴致しまして、お集りの諸君と共に支那四百余州の地を親しく踏んだやうな感が起りました、殊に会同の中には此情を同じうする方もありませうが、お若い方にはお覚えが無いでせう、けれども戊辰一月の伏見鳥羽の争乱から引続いで維新の初に於ける国家の経営には、唯今お話のありました広東の紙幣の如き不体裁は無かつたでありませうが、併し種々なるドサクサがあつたと申さねばなりませぬ、現に朝廷の方より戸田大和守と云ふ人を以て、金が無いから、どうか工風はなからうかと当時大坂城に御座つた将軍に相談された、然るに大坂の幕軍は恐しい勢で今や兵端を開かう
 - 第42巻 p.400 -ページ画像 
と云ふ場合であつたから、それに対して金の相談をするなどゝ云ふことは為し得られぬ、去りとて京都の希望も斥ける訳にいかぬので、将軍は余儀なく小堀数馬に内々申し付けて、さうして京都辺で収納した租税の内凡そ金五万両を以て維新政府の建設の資に供したと云ふことは、明かに表はれた話ではありませぬけれども、故岩倉公爵が前の左大臣から聴き居られて、慶喜と云ふ御人は実に勤王の心の深いお方であつたと云ふことを称讚されたことがある。但し五万両で維新を成したではありませぬけれども、其時五万両の金を幕府当局の人に知らさずに、供給したといふことがあつたのであります、それから愈々総督が関東に下ると云ふ頃ほひに、金が無いと云ふので、三井・小野及京都・大坂の金持から漸く十八万円の金を作つたと云ふことが、其頃の記録にあつたやうです、其後例の五千万円の太政官札が出来てから、多少融通は付いたのでありませうけれども、何処の国でも動乱には似た有様があるものと言はねばならぬ、幸に帝国は国体が外国と異りて有難いために、其統一が早く行はれたのです、又当時幕府の重臣が勤王の心の深かつた為に、騒動を早く治めて、直に一致して国運を進める方に力を注ぐやうになりましたのは、帝室の御稜威を感佩すると同時に、其隠れたる苦衷を、私共は窃に称讚したいと思ふのでございます、支那の現況を説かれた瀬川君のお話に付て、四十五年前を思ひ出しますると、深き感情を催すのでございます。
原先生の花に就ての詳しいお話がございましたが、花其物が単に庭園に於てでなくして、此遷り変る社会に於て、過渡の時代を統一することが困難である、動もすると人事唯雑駁になつて何れに帰一するか分らぬ、甚しきは猫も杓子も盆も正月も一緒になるやうな弊があるからそれが大に時代の損を来すことになります。旁々以て此方面を看破されたる御見識を以て、社会問題に説き及ぼした花に就ての御演説は、頗る興味あるやうに伺はれたのでございます。
然るに私が今此処にお話したいと云ふのは詰り此竜門社の社員の参考として述べて見たいと思ふまでである、蓋し人の能く言ふことでありますが、段々に世の中の人情が浮薄になる、徳義が頽廃すると、既に此間も或る講釈師が言つて居りましたが、二十年前にも世は澆季であつた、五十年前にも同じことを言つた、して見ると何時真に純朴の時代があつたであらうか、又古歌に「偽りのなき世なりせば如何ばかり人の言の葉うれしからまし」是は千年も昔の歌でありませう、其時分にもやはり偽りが多かつたに違ひない、此席にて斯様なことを私が申すのは甚だ悪うございますけれども、或る新聞を見ると、此程の衆議院議員の選挙に対して其人に投票すると請負ふて置て事実は入れない君に投票したと特に通知して、其投票は入れなんだと云ふ人が沢山にあつたとの事である、固より此会同の中にさう云ふ人がある気遣ひはありませぬけれども、千年の昔でなく「偽の無き世なりせば」と云ふ歎声を今日も繰返したいやうに思ひます、さう考へますると世が文明に進むと同時に人は誠実の心が向上して、浮薄とか譎詐とか云ふやうなことがなくなるとも申されぬ、故に拠なく何時も何時も支那人的の世が澆季になると云ふ慨歎をするのであります、果して社会が追々に
 - 第42巻 p.401 -ページ画像 
左様に堕落して往くものか、又は進歩するものか、進歩の間に堕落あり、堕落の間に進歩あり、堕落と進歩とが始終循環して往くのが、先刻原君のお話の如く西洋の花もあり、日本の花もあり、椅子もあれば座蒲団もあると云ふやうな、有様に見受けますが是も今日過渡時代の已むを得ぬ次第ではありませうが、何時迄も斯くありたいとはお互ひに思はぬのでございます。
それに付てのお話ではございませぬが、玆に私が次の如く申すと、少し他人の頼みに依て広告的なお話をすると云ふ嫌がありますけれども近頃或る書林から勧められて、私の申述べた意見が、近々一冊子となつて社会に出るさうでございます、蓋し諸君も御覧下さるやうな場合が生ずるだらうと思ひますが、私から言ふと甚だお恥かしい訳で、自分が著書をするなどと云ふ第一余暇も無く、亦学問も無い、決して自ら任じた訳ではありませぬが、或る書林が頻に懇望するによりて、各種の事物に付て愚説を述べたのであります、其述べた説を取集めて、曾て福沢先生が百話と云ふのを出しましたが、それに倣ふて一の書籍にして世に公にすると云ふことになりまして、近々に其拙著が世間の批判を受けるやうに相成るだらうと思ひます、此百話の中に頗る烏滸な説とも言ふべきでありますが、若し出来得るならば斯くあれかしと思ふことを一つ申してございます、其事を玆に諸君にお話して置いて是が果して真理であるか又遂には世に行はれ得るものであるかと云ふことを、追々に御熟考を請ひたいと思ふのである、これを極く簡単に申せば段々に科学の進歩する世の中で総て事物は理屈の上で解釈されて往くのでありますから、不思議と云ふものは無い訳である、況や宗教家の所謂奇蹟などゝ云ふものは信ずべきことで無い、而して私は従来少しも信じないのであります、殊に子供の時分から仏法も嫌ひ神道も解らぬ、解らぬと云ふよりも寧ろ嫌ひであつた、それで儒教と云ふものに趣味を持ちまして、霊的の事は孔子の教へて居る天と云ふものだけを思うて、其外は阿弥陀を拝むとか、不動を信心するとか、聖天を祈ると云ふやうな観念は一つも持たなかつたのです、是は極く少年時分からの私の支持するところの主義であつた、併しそれが果して結構だといふ訳では無い、唯論語に「不語怪力乱神」と書いてあるから奇蹟などは思はぬが宜い、況や柳の木が祟るとか、狐の穴が御利益があるとか云ふことに至つては、誠に迷信である、邪説であると考へて信仰と云ふ心が、頗る薄くて今日に至つたのであります、故に詰り無宗教と云ふ側の者であります、自分はさう思うて居りますけれども、果して古人がどうであつたかと云ふことに至ると、鄭寧に調べた訳ではありませぬが、昔から有名な人に就て考究すると私以上の信仰心があつたやうに見受けられる、況や欧羅巴の宗教信者は、如何に理学が進んで往き、科学が発達して参つても、決して私のやうな無信仰者では無いかも知れぬ、斯う考へますると、此事がどう云ふものであらうかと、居常心に自問自答があつたのであります、そこで私がズツと昔此席に大川氏が居られますが、独逸から亜米利加に留学して帰り掛けに大川氏と共に日本に寄つた紳士があつた、其紳士は唯紙漉事業を稽古した位であつたから、決して学者でもなければ、哲理を攻究した人
 - 第42巻 p.402 -ページ画像 
でも無い、亦政治を説く人でも無かつたやうである、併し妙な質問を発する人で、私が一夕其人と種々なる問答をしたことがあります、其時に深く前陳の観念を惹起した、是れは二十余年以前のことであるが自分も専門者で無いから、唯心に多少の疑を持つて居つたに過ぎなかつた、其後松平定信即ち白河楽翁公が天明七年に老中に為られて、八ケ月過ぎた後に、本所の吉祥院の聖天に起請文を上げて、己れの一身及眷族総ての身体を犠牲として、幕府の善政を回復して見せますと云ふが如き精神を籠めて祈誓を為したことがある、其起請文を見て、私は更に疑念を増した、楽翁公の如き道理の解つた学問の研究の積んで居るお人が、斯く迷信ともいふべき観念を以て祈誓をされたと云ふことに付て、自分も大に再考の余地を生じた、「獲罪於天無所祷也」或は「天生徳於予桓魋其如予何」抔と語り孔子とても霊的の事を言はぬことはないけれども其の言ひ方は甚だ平凡冷静である、果して是だけで宜いものかと云ふ疑を起したのであります、爾来各種の学者連中と其疑を討論しつゝあるのです、依て此の事を諸君にお話して向後能くお考を願ひます、而して前に申す一節が、近々に出版される百話の中に書いてありますから、併せて新著を御披露するやうに相成りましたのです。今其時の問答の一節をお聴きに入れて見せまう、是は此の席に大川氏がお出になりますから或は記憶もありませう、決して故造したお話ではない、年は忘れましたが、斯う云ふ事であつたのです、其お話の標題が「統一的大宗教」といふ大層大きいことであるが、果して是が事実行はれるであらうか、斯う言はぬと攻究の種にならぬと思ひますから斯様な大問題を立てたのであります。
    統一的大宗教
余が自ら安心立命とする所は、孔子教即ち仁義道徳を分に応じて踏み占めてゆくことである。これ実に余が守本尊であるが、運とか命とかいふ如き、人の智力以外に、応報が来るといふことは疑問である。例へば智の勝れた働きの十分なる人でも、それに応ずるだけの報酬なき場合もある。又それに反して智も働きも劣つて居る人でも、存外に立身出世をすることもある。斯かる場合は其の人の運と不運とに因るもので、之を天命と見なければならないが、仁義忠孝の心を以て道理に背くことが無ければ、此の天運を全く度外視し、心を動かさずに世に処するといふことが余の安心立命である。故に此処に立脚地を置いてよりは、別に他に向うて宗教的信仰心も起らず、全然孔子教に安心立命を得て今日に至つたのである。
世に所謂信仰も其の極端なるものになると、動もすれば迷信に陥りて或は奇蹟を唱へ、或は淫祠を祀るやうになるは一般世俗の風習である而して余は年来斯の如き愚昧の仕方を直し度いと思ふが、因襲の久しき、容易に之を矯正することは出来ない。科学思想の発達した文明の今日すら、尚断食する者もあれば、厳寒に水垢離を取る者も沢山にある。併し一面から見れば、之も信仰の一種であるから悪くないかも知れぬが、道理を踏み外して極端に走つたり、其の弊習が延いて社会を誤る様なことが有つては困る、特に弊害の多く兆する所は、迷信を利用して愚夫愚婦を欺く妖僧悪修験者の徘徊することである。此等の陋
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習を見るにつけても、余は迷信ほど嫌ふべく憎むべきものはないと思ひ、一途に怪力乱神を語らざる孔子教を守るべきものとして、今日まで経過して来たのである。
それと共に余は一般に宗教といふものに対して疑念を挟み、今日の如き宗教にて真の信仰を繋ぐに足るものであるか、君子賢人もこれに依つて安心立命を得らるゝか。例へば現在の儒教・仏教・耶蘇教等あらゆる宗教の長所を折衷綜合したる、統一的の一大宗教は出来ぬものであらうかと、心に希望して久しい間これを考へて居つた。併し乍ら如何にして各宗派を統一してよいか、それ等の点に就いての成案が立つた訳ではなかつたが、幸に左様いふものが出現したとすれば、啻に愚夫愚婦の信仰を繋ぐに足る許りではなく、賢人君子も等しく之を尊崇するに至るではあるまいかと、折があれば哲学者や宗教家と談論したこともあつたが、未だ別に一個の意見として世に発表するまでには至らなかつた。
而して余が此の事柄を深く感ずるに至つた動機がある。それは今より二十余年前、独逸人某氏と談話した時に余は深く啓発されたので、其の折のことは今日に至るまで尚歴然として記憶に遺つて居る。独逸人は誰であつたか、今は名さへも忘れて仕舞つたが、何でも其の人が米国に遊学しての帰途東洋をも歴遊して帰るとかで、日本へ来て余に会見を求められた。当時余は未だ深川福住町の家に住居して居た頃であつたが、此の会見を諾し、余の友人二三と昼餐を共にしながら種々の談話を交換した。然るに某氏は別に哲学宗教を修めた人と謂ふではなく、米国では紙漉業の研究をして来たといふ工業家であるにも拘らず其質問する所が変つて居たので、日本人なる余には珍しく感じて、同時に宗教問題に就いて啓発する所があつた。左に其の時の問答の一斑を述べて見よう。
某氏問ふ。『自身は哲学者でも歴史家でもないが、一般の事柄に渉つて読書したから世の中の道理だけは解る積りである。而して日本に就いては余り深くを知らぬけれども、長い歴史を持ち、又幾多の変化を経来つた国柄であるといふことは承知して居る。けれども維新以後政治を欧米諸国に傚つて、商工業もそれと共に発達しつゝある有様が、俄に海外諸国と交際を始めた国としては開明の度が非常に敏速であるやうに見受ける。余は東京へ来て各種の人々に会見して見たが、それ等の人々は皆生々して居て、楽んで事を執る様子であるのは誠に末頼母しい国であると思ふ。併し乍ら玆に一つの疑問といふのは、自国の聯邦に就き、或は欧洲諸国の歴史に徴して想像するに、日本は維新の改革期に於て何故斯く短い騒擾で平和となり、其の後差したる争乱もなく文明に進んで来たか。実に不可思議である。此の原因は抑々何であらうか。凡そ世界の通例は、大革命の後に於ては、徐々に其の争乱が鎮定して、秩序も回復するものであるが、日本はこれと全く其の軌を一にせず、維新後一回の戦争(西南役を指していふ)はあつたと聞いたが、それも忽ち戡定して、世は太平となり、人心は一に帰向し、殆ど争乱の後を継いだ様な感もなく、国富み兵足り、人文の盛んになつたのは何が故か。これ余が聞かんと欲する疑問の第一である』との
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質問であつた。
余答へて曰ふ『維新後禍乱の少かつたのは国体の然らしむる所で、これは他国と比すべからざる点であらう。由来我国は天子を尊崇すること殆ど人間以上で、長い歴史は総て天子を中心として居るのである。又国民は其の子孫であるから天子に対しては、国民の全部が何物をも犠牲とするの観念を持つて居る。維新前武家が政治を執つたのは凡そ七百年間であつたが、其の以前より藤原氏が跋扈して実際の政権は臣下に移り、権勢を自家に擅にするよりして世に変乱を起すやうになり之を平ぐるに武力を要するので、其の要求に応じて起つたものが、即ち武家である。此の武家は当時藤原氏の政策にて之を二派に分ち、源氏平氏と称へたのであるが、源氏が跋扈すれば平氏をして討たしめ、平氏が跳梁すれば源氏に命じて平げさせるといふやうに、藤原氏は此の武臣を使うて互に相篏制せしめた。
斯かる間に権勢は次第に武家に移りゆき、遂に藤原氏は平家の跋扈を制する能はず、一度は権勢平家に移つたが、次いで源氏が興つて平家を亡し、自ら覇府を開いて天下に政を施いた。武家政治の起因は実に此処にあると謂つてよい。併し乍ら斯かる間にも天子を尊崇することは渝らなかつた。其の後斯の如き現象が永続し、甲が起れば乙が之を亡して代り、乙が代れば更に丙が之を倒すといふ様に、武家の間に政権が転化し来り、徳川氏に至りて遂に三百年の治世を保つた。而して維新の変革は此の武家政治を覆して天子の制度の古へに復らしめた迄で、謂はゞ逆を順にかへしたに過ぎぬ訳である。此の国体を知らぬ局外者から見る時は、恰も天子の政権を武家の為に犯された如くに見えるけれども、一般国民が天子を尊崇する観念には些の変化もなく、且永い武家政治に嫌厭の情を起し、殊更外国関係が生じて、一国に二個の主権者あるが如きは事態が許さぬことになつたから、王政維新は其の気運の向ふ所に従つて決行したもので、それに伴ふ所の争乱の早く消滅したのも寧ろ当然と謂はねばならぬ。要するに国体が之を然らしめたのである』と語つた。
某氏更に問うて曰く『維新の事実は貴説に依つて明瞭に知ることを得たが、然らば日本国民が協心一致天子に奉ずるの心を維持することは如何なる宗教心に因るか、政治上の気運として天子を尊崇することはあらうけれども、一般の人民が家庭にも社交にも常に忠君愛国を主とするは、何等か宗教的信仰に依らなければならぬ筈である。願くは之に対する解釈を聞き度い』と切り込んで来た。
余答へて曰く『それは天子尊崇の主義に起因するは勿論であるが、一般には神・儒・仏三教の感化が其の多きに居ると思ふ。余は其の道の学者でないから王朝時代の教育を詳細に説くことを得ぬのを遺憾とするが、徳川幕府時代に入りては、孔子の学、即ち儒教なるものが盛んに日本に行はれ、武士は専ら之に拠つて身を立て、百姓町人も武士と交り得る程度の人は、同じく儒教を以て一身の指針とした。而して其の教ふる所は孝弟忠信とか、仁義道徳とかいふものであつたけれども此の教は多く士大夫以上の者を教育するに止り、広い社会を指導した所のものは寧ろ仏教であつた。併し仏教もそれ等の社会に行はれた所
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は極めて抽象的のもので、決して詳細に説いたのではない。例へば寺院へ参詣し、叩頭して頼めば幸福が来るといふ様に浅薄に教へたものだが、これが存外広く人を指導した様に見受けられる。又神教は日本の皇祖を尊奉する教だがこれも広く一般国民の頭脳に宿つた所であつた。而して更に此等の教を事実に示して人を教化誘導したものは、娯楽の方面の芝居・講談等であつた。それ等のものゝ作意には必ず勧善懲悪の意を加へ、神や仏が示現して悪人亡び善人栄ゆるの意を具体的に示したものであるが、教育の卑い人々には亦これが少からず感化力を持つて居たものである。要するに孔子の直なる教と、神仏の指導的の教とに依りて人心を維持して来たものである』と語つた。
某氏三度問ふ『貴説に依りて日本に各種の階級に応じたる教育の仕方のあることは之を審かにするを得た。然れども更に疑問とする所は左ばかり人心を左右せる儒教は今日猶盛んに拡張せられつゝありや。神道仏教は政治上、或は学者社会に攻究せられつゝありや。聞く所に由れば近時クリスト教も伝来して、日本の宗教界は錯雑して居るらしく而して従前の教は今や衰運の兆があるとのことであるが、若し従来の教が衰頽して仕舞うても日本人は何等痛痒を感ぜざるか。其の時に到らば、如何なるものをか必要とするであらうか、旧来の教に代るべき何物か他にこれありや。神・仏・儒の力が次第に減退するとせば、別に之に代るものを需めざれば将来の人心を繋ぐことが出来ないであらう。それ等に対する高説を請ふ』と押詰められた。
然るに余は此の質問に対して明確なる答を与へるだけの考案を持つて居らなかつた。故に已むを得ず『此処に到ると宗教家・道徳家・哲学者などに請ふて其の最善最良の手段と方法とを攻究して貰ひ度いと思ふ。而して自分一人の理想としては神・仏・儒の別なく、それ等を統一した所の大宗教が出ればよいと希望して居る。言ふまでもなく宗教と謂はれる位のものなら、其の窮極の道理は一つであるから、此等を統一した宗教の出来ぬといふこともあるまい。よしそれ迄に至らずとも、道理は決して磨滅するものでないから、仮令・神・仏・儒の諸教が衰へたる如く見えても、此の中孰れかゞ興りて人心を繋ぐやうになるであらう』と答へたが、結局此の問には明解を与へることが出来なかつた。
余は此の時よりして、各宗教を合同統一したる大宗教は起らぬであらうかと祈念して居たのである。固より学者でないゆゑ、これに就いて人を感動させるだけの意見を述べることは出来ぬから、渋沢は空想論に耽るものであると人に非難されるかも知れないが、仮令余が唱道せぬ迄も何時かは此の説が社会に起りはせぬだらうか。平和論は政治上より行はれ言語統一の説も学者社会に依りて考へらるゝの時代となつた。平和も其の極に達すれば互に国家を設けて相争うたりすることは無くなり、遂には全世界を打つて一団とせねばならぬ。又言語も人種の変れる如く異つて居るのは黄金世界でない。何時かは彼の学者一輩に依つて研究されつゝあるエスペラントも、世界語となるの時代が来るかも知れぬ。斯の如く考ふれば、何時か宗教も一色となり、何人にも信仰を持ち得るの時代が来ぬとも言はれぬ。これは果して空想か、
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それとも実理か。斯く云ふ自分にすら論断することは出来ぬが、一の希望としては、之を何処までも継続して考へて見度いと思ふ。
此の事に関して余は頃日来二三の友人と語り合うたが、それ等の人も余の説を大に是なりと為し、何とか工夫が有りさうなものだと話し合つて居た。併し乍ら未だ之に確然たる論断を下すことは出来ないが、余が従来の希望として、何時か此の空想に等しい事柄の現実にならんことを欲して已まぬ。其の暁に於て余も始めて宗教的信仰を持つことが出来るであらう。
是れは今年の二月頃に述べたので、即ち百話の一つに入れたのであります、此事を述べたのは本年の二月でありますけれども、此話の始まりは廿余年前に独逸人との一場の雑談にあつたのであります、其後松平定信公の信仰心の強いのを見て、余りに霊的観念のないのもいけない、去りとて又迷信に陥るのもいけない、科学の完全に発達した今日に於て、霊的信仰心を維持し得る工風は無いものであらうか、若もそれが適当なる方法によりて行はれたならば、所謂賢人君子も一般の人人も共に、宗教心を持続することが出来るであらう、果してさうなつたならば、それこそ遂に偽りの無き世になり得るではないか、蓋し全国を挙げて一人も偽りを言ふ人無からしむることは、何時の世にも出来ぬでありませうけれども、より少くすることは必ず為し得ることでありはしないか、斯う考へますると、今日の場合、余り科学の進歩からして宗教心のなくなるのは宜しくない、さればと言つて是が迷信となると、一種の弊害が生じて或は一つの麺麭で五千人の人の生命が助かつたとか、ちよつと手が触れて盲の眼が癒つたと云ふやうなことになつて来る、果してさうなると邪説妄言至らざる所なく、それこそ水垢離も断食も盛に行はるゝことゝなる、但し水垢離断食はさまでの弊害なしとするもそれ以外に迷信から起る弊害は実に堪らぬ事になる、さればと言つて宗教はどうでも宜い、信仰心などは必要ないと云ふことになると霊的観念が全く無くなつて、所謂唯物主義になつてしまふ私はそれでは安心が出来ぬ、それで斯う云ふ説を起して学者諸君と大に講究して見たいと思ふ。此席に居らるゝ成瀬君とは度々此お話をすると同君は疾うからさう云ふ考を持つて居ると言はれる、それに付て他の学者諸先生方と種々討論致しつゝあるのであります、いまだ一定の論にはなつて居りませぬが、恰も其一節が近日百話の中に出ますからお親しい諸君に対して一言申上げて置きませぬと心苦しい訳でありますから、玆に一場の演説とした次第でございます、約めて申せば、耶蘇も仏も神も儒も皆併せた一の大宗教が起つて、霊的信仰は持つとも迷信に陥らぬ、而して其信仰は社会の最上流に居る者から最下級に居る者まで皆篤い信念を持つて所謂「父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」と云ふことになつて、偽りなどは人として為すべからざるものである、之を敢てすれば人にして人に非ずと云ふ制裁が果して社会に完全に行はれたならば、今日の人をして更に其品位をも向上せしめ、国の富も進み国の力も増して往くことが出来るではあるまいか、之を竜門社の諸君に告げて御攻究を願ひたいと思ふのでございます、但し今日斯うと云ふ具体的の方法はありませぬが、或は他日
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其方法が出るかも知れませぬ、今日は唯是だけ諸君に申上げて置くのであります。(拍手)