デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.469-484(DK420094k) ページ画像

大正4年4月4日(1915年)

是日、京阪神在住竜門社会員臨時総集会、大阪ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK420094k-0001)
第42巻 p.469 ページ画像

渋沢栄一日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
四月四日 半晴
〇上略一時二十分住吉発汽車ニテ大坂ニ抵リ○中略大坂ホテルニ抵リ、同地ニ開催スル竜門社員会ニ出席ス、来会者約八十名許リナリ、野口弥三氏ヨリ開会ノ趣旨ヲ述ヘラレ、尋テ阪谷評議員長ノ演説アリ、余モ政争ニ対スル実業者ノ態度ト題スル趣旨ニテ一場ノ演説ヲ為シテ開会《(閉)》シ、後食堂ニ於テ上領純一氏ノ挨拶、尾高次郎氏ノ竜門社創設ニ付テノ懐旧談アリ、食事後雑談ニ時ヲ移シ、夜十一時住吉○明石照男寓居帰宿ス


竜門雑誌 第三二四号・第五五―五七頁大正四年五月 ○京阪神在住竜門社会員臨時集会(DK420094k-0002)
第42巻 p.469-472 ページ画像

竜門雑誌  第三二四号・第五五―五七頁大正四年五月
    ○京阪神在住竜門社会員臨時集会
京都・大阪・神戸在住の本社会員は青淵先生の来阪を機とし、四月四日午後三時より、大阪ホテルに青淵先生及び本社評議員会長阪谷男爵を主賓とし招待して、臨時総集会を開きたり、抑も大阪に於て本社会員の集会を催したるは本回を以て嚆矢とすべし、其の動機なりとして在阪社員の報ずる所を挙ぐれば、即ち左の如し
 明治十八・九年の交、渋沢家の書生部屋に呱々の声を拠げし竜門社も、今日に於ては会員の数一千名に垂んとする盛況に達せり、而して在京会員の多数は少なくとも毎年二回、曖依村荘の園遊会に臨みて親しく青淵先生の高風に接するを得るも、地方在住のものは単に竜門雑誌々上に於て訓音又は高見の一端を窺ふに過ぎず、去秋大阪在住会員の四・五が一堂に会したるあり、談偶此事に及び、先生の御来阪あるを機とし此地方在留会員の集会を開きなば、如上の憾の幾分かを補ふを得べく、復た同時に会員相互の親睦を厚うするを得べく、惹いては竜門社の主義綱領が益社会に拡布し、先生の徳風が愈関西方面をも風靡するに至るべしとて、試に此地方の会員数を取調べしに六十名許りなりき
 此儀は兎も角も一応幹部の意見を聞糺してと、其内の一人程経て上京の際、かくかくの談話の交換せられたることを述べたるに、先生は素より阪谷評議員会長始め其他重なる人々何れも双手を挙げて賛
 - 第42巻 p.470 -ページ画像 
成せられ、殊に阪谷男爵の如きは、当時未だ市長の劇職に在るに拘らず、若しかくの如き会合の開催せらるゝあらば、如何様にも繰合はして下阪すべしと激励せられ、凡そ陽春四月の交を卜し、之が実行を期することゝせり
 三月初めつ方、青淵先生が国産奨励会の用務を兼ね、令夫人同伴、此地方に来遊せらるゝことの碓定するや、京阪神の三市より各二名若くは三名の発起人を定め、愈四月四日の日曜日を期し、京阪神竜門社会員臨時集会の名称を以て、午後三時大阪ホテルに開会の議を決しそれぞれの手続を運びたり、云々
開会前旭堂南陵の講談あり、午後四時半野口弥三君は発起人を代表して、左の如き開会の趣旨を述べたり
      開会の挨拶
 私は発起人の一人として一寸御挨拶を申上げます。
 此の竜門社には、私は明治三十四年頃に入つた者でございまして、充分此の会の成立ちの事に付ては不案内でございまするが、竜門社雑誌の報ずる所に依りまして承知しますると、明治十八・九年頃に此の竜門社と云ふものが成立ちまして、その当時は定めて少数の会員であつたらうと考へます、然るに今日では既に千人近くの会員が出来て居ります、その中で凡そ百人内外の人が、此の京阪神に御在住になつて居るやうでございます、東京に於きましては、春秋二回竜門社の大会がありまして、青淵先生の御講話が毎度ございまするし、又会員の先輩諸君並に此の会に御縁故の深い方が毎度御講話になりまして、東京に於ける会員は始終然う云ふやうな御便宜があるのでございます、然るに遠方に居りまする者は、未だ竜門社の会に御出席になるやうな機会もございませなかつたのは、誠に我々遺憾と思つて居りましたのでございます、何時か昨年の冬頃、大分此京阪神に沢山の御会員がございますから、一遍此の竜門社の臨時会を京阪神で開いたらどうかと云ふやうなお話がございましたので、それを我々有志の者が東京の方に打合はせ致しました所が、誠に夫れは至極賛成である、是非それは或る機会を以てやつたが宜からふと云ふやうなお話でありまして、その機会を俟つて居りました所が、恰も好し今回青淵先生が御夫人を連れられまして、此の京阪神に御旅行に為りましたのを機会と致しまして、本日の会を開くことになつたのでございます。
 蓋し、只今では千人近くの人がございまするけれども、併しこの会は何等会員となることをお勧めしたのでもなく、殆んど成行きの儘に放任して居りまするにも拘はらず、斯く多数の人が此の会員となつて一つの会を組織するやうになりましたのは、偏に青淵先生の御徳望を慕ひ、又青淵先生と共に事業をなした人が相集つて、斯う云ふ会になつたのでございまする。
 本日は東京より特に阪谷男爵が多忙の御身にも拘はらず、東京に於ける竜門社会員を代表して、此に御出席下さつたことは、誠に我々会員として感謝の至りでございます、又最も此の竜門社の会に古くから御縁故のございまする東洋生命の社長の尾高次郎氏が、当地に
 - 第42巻 p.471 -ページ画像 
御旅行の序で特に此の会に御出席下されたことは、誠に我々一同感謝に存じます、又本日は当地の主なる新聞社の記者で、教育並に経済に関することを御担当になつて居る方が多数御出席下されたことも誠に有難く存じます。
 斯くの如きやうな次第で此の会が成立ちましたのでございまして、真個な打寛ろいで互に親睦を図り、又旧を談じ新を語ると云ふに過ぎませんでございますから、どうか充分に一夕の歓をお尽し下さらんことを、発起人一同に代つて御挨拶申上げた次第でございます、是れから両男爵の御講話がございまするからどうぞ御清聴あらんことを御願ひ致します。(拍手)
玆に於て、阪谷男爵は登壇して、本号講演欄に掲げたる如き一場の演説を為し、次に青淵先生は「政争に対する実業家の覚悟」(先生の検閲済み次第本誌掲載)と題し、一時間に渉りて講演を為し、是れにて演説を終りて午後七時晩餐会を開きたり
席上、発起人総代上領純一氏の挨拶、尾高次郎君の「竜門社の沿革」(講演欄参照)山下亀三郎氏の「次会開会に就ての希望」及来賓大阪毎日新聞記者川瀬俊継氏の竜門社に対する希望演説ありて宴を撤し、別室に移りて、青淵先生・阪谷男爵を中心として興味ある会談に時の移るを知らず、漸く散会したるは十時半過なりしといふ、当日の来賓及び来会者氏名と会計報告は左の如し
(名誉会員)
 青淵先生 同令夫人
○は発起人
 伊藤与七君・飯塚八平君・井上徳次郎君・○堀切善次郎君・尾高次郎君・同令夫人・大川英太郎君・同令夫人・○上領純一君・田中猛君・○中川知一君・中田忠兵衛君・水田甚之助君・同令夫人・○野口弥三君・同令夫人・熊谷辰太郎君・同令夫人・○山下亀三郎君・山本淳吉君・前原厳太郎君・藤森忠一郎君・古橋久三君・小林秀明君・○明石照男君・同令夫人・阪谷男爵・蘆田順三郎君・佐々木興一君・同令夫人・北村耕三君・門多頭敏君・瀬下清君・入江銀吉君磯部亥助君・池島新太郎君・馬場鯛次郎君・原田駒之助君・本間譲三君・尾崎秀雄君・岡田元茂君・加藤良雄君・金倉栄吉君・谷哲三君・高木岩雄君・武田楢三郎君・中古賀晴太君・矢野幸二君・山田進君・松下喜一郎君・普門栄三郎君・福井源三郎君・秋田豊君・柴田愛蔵君・末松鳳平君
(会員外臨時出席)
 稲田康治郎君・片野滋穂君・国井岩次郎君・古谷勇君・後藤謙三君江守清太郎君・有川金吉君・平田益三郎君
(来賓)
 鋳谷正輔君・岩本栄之助君・栃内健夫君・金谷加美男君・栗山寛一君・倉田和平君・高野進君・湯浅竹之助君・越野三蔵君・同令夫人
(招待新聞記者)
 大阪朝報 岡島松二郎君・大阪毎日 川瀬俊継君・日々 増茂隆君大阪時事 牧野秀介君・大阪朝日 富士沢信隆君・関西日報 榎本
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歓一郎君・大阪新報 塩沢正二君
    京阪神在留竜門社会員臨時集会々計報告
      収入
 一金弐百円也         本社よりの補助金
 一金六拾四円也        来会者会費
 一金五拾七円五拾五銭也    寄附金及醵金
  合計金参百弐拾壱五拾五銭也
      支出
 一金弐百七拾円九拾五銭也   大阪ホテル支払
 一金参拾参円也        手当及祝儀
 一金拾五円也         余興費
 一金弐円六拾銭也       通信費
  合計金参百弐拾壱円五拾五銭也
 猶ほ寄附者の芳名は左の如し
 一金弐拾円也         山下亀三郎
 一金拾円也         東洋生命保険株式会社
此外大日本人造肥料株式会社は当日速記者一名を差遣はされたり、玆に謹んで謝意を表す


竜門雑誌 第三二三号・第四三頁大正四年四月 ○青淵先生の関西旅行(DK420094k-0003)
第42巻 p.472-473 ページ画像

竜門雑誌  第三二三号・第四三頁大正四年四月
    ○青淵先生の関西旅行
青淵先生には○中略四月二日午前七時二十分東京駅発汽車にて関西地方に向はれ○中略京阪神各地新聞紙の伝ふる所の概要は即ち左の如し
○中略
△大阪朝日新聞 渋沢男の薫陶誘掖を受けたる人士を以て組織せる竜門社員の在阪者は、今回同男の来阪を機とし、四日午後四時より、大阪ホテルにて集会を催せり、来会者約百名、開会に先だち旭堂南陵の講談一席あり、発起者を代表し野口弥三郎氏挨拶を為し、夫より阪谷男起つて得意の財政談を為し、結局竜門社の綱領たる正直と勤勉とを以て帝国の前途に幸多からしむべしと結び、引続き渋沢男は立ちて、兎角政治と実業との調和を欠くを頗る遺憾とすと前提を置き、男が維新の際政治に志しながら、心機一転して実業に身を委ぬるに至れる径路を述べ
  是れ畢竟政治と産業と互に相扶翼すべきに拘らず、兎角実業者は政治家の足下に服する有様なるを慨き、微力ながら実業の光輝を発揚せんと思ひ立ちたる結果に他ならず、爾後数十年の変遷を経て、近頃に至り実業者は稍々勢力を得るに至れるも、尚予の理想を距る頗る遠し、予は真に国富を増進せんとする内閣ならば、何人が組織したりとて敢て好悪を抱かず、然れど官尊民卑の風未だ消えずして、実業家は稍々もすれば官吏の軽蔑を被ること甚だし殊に下級の官吏に至るほど傲慢を極む、斯の如くにして如何にして帝国の富強を望むべき、此官尊民卑の弊風を打破するこそ目下の急務なるが、実業家も此際竜門社の綱領たる正直と勤勉とを以て各其業務に精勤せんには其地位の向上は従うて得るべし云々
 - 第42巻 p.473 -ページ画像 
 食卓に就き了りて晩餐を共にして、午後九時散会せり



〔参考〕竜門雑誌 第三二四号・第一六―三一頁大正四年五月 ○時局と経済 法学博士男爵 阪谷芳郎(DK420094k-0004)
第42巻 p.473-484 ページ画像

竜門雑誌  第三二四号・第一六―三一頁大正四年五月
    ○時局と経済
                  法学博士男爵 阪谷芳郎
   本篇は、本年四月四日大阪に於ける、竜門社臨時総集会席上に於ける、阪谷男爵の演説なりとす (編者識)
 閣下並に諸君 本日は竜門社あつての初めての催しでございまして関西在住の社員諸君が、集会をお開きになると云ふことでございます私は委員長の資格を以て、在東京の社員一同の代表者として、特に此会に出席するために参りましたので、此の使命は私にとりましては、愉快に且つ光栄と存じます、改めて申上げる迄もなく、在東京の社員一同は関西に於ける社員諸君の此の会を開かれると云ふことに付て、満腔の歓喜と同情を表し、併せてその御成功を祈り、又諸君の御健康をも祈りまする次第でございます。
 で唯今野口君のお話の通り、明治十八・九年に極めて簡単なる小数の社員の寄合ひであつて、雑誌の如きも寒天版で刷つたものを出すと云ふやうな会が、斯の如く千人も社員を有し而も最も有力にして志望の堅固な社員を有するに至りましたのは、本社の為め慶賀に堪えませぬのでございまして、斯くの如く大阪に於きまして、此の会を開くに至つたと云ふことは、特に此の竜門社の歴史に於ては紀念すべきことと考へまするが、同時に日本の実業全般の進歩の上から考へましても此の竜門社の隆盛に赴きまするのは、即ち日本の実業上、即ち日本の経済的発展が、一新紀元を劃すると申しても、差支なからうと考へまするのです、此の竜門社と云ふ名称を附けましたのは、第一銀行の盛岡に支店のありました頃に、その支店長の尾高惇忠氏が命名されたのでございます、惇忠氏の命名されたのには、色々の理由がございますやうでございますが、一番私の耳に残つて居りまするのは、支那の黄河には鯉が沢山居りまして、その鯉が黄河の流れを数千里溯り、激流を冒し、艱難辛苦、奮闘努力して、遂に此の激流を溯り終せると、夫れが竜になると云ふので、竜門と云ふ名が出たのであります、吾々社員は、奮闘努力、艱難辛苦を冒して、遂に竜となることを期せなければならぬと云ふことを、私は善く記憶して居ります、而して明治十八九年の頃から今日に至る日本の実業界経済界の発展を考へると、恰も支那の黄河と云ふ河は(私は未だ其河を見ませぬけれども)大きな河であるさうですが…濁流滾々として流れて居る処の流れに溯つて段々発展しつゝある今日は、即ちその登竜門、日本が将に竜となるかならぬかの境に来て居るのではないかと考へまするのです、故に私は此の機会に於きまして、日本の今日の時局と、将来に如何なる経済的発展をしなければならぬであらうかと云ふ関係に就いて、話して見たいと考へます、竜門社の社員としても今日は竜門に達して居るのである、日本の全体の実業上経済上の地位としても、竜門に達して居るのである、此の竜門の難関を打越へて、竜となることが出来るであらうか、
 - 第42巻 p.474 -ページ画像 
遂に登り切ることが出来ずして矢張止まるであらうか、今日は頗る大切な時機と考へて居りますのです、で此の度の大戦争に付いて申上げることは、実に沢山あります、又此の大戦争の結果としては、色々なる方面に変化が来るのでありますから、その来るべき変化を予め達観して、さうしてその将来に資すると云ふことが、個人としても国家としても大切な時である、恰度今より五十年前、徳川氏の勢力が没落して王政維新となりました時に於て、日本の人が将来は何うなるかと考へた、その善き思案善き考へを有つた人が、自分も発達し国家をも扶けたに相違ない、又その時に間違つた考へを有ち、間違つた思案をした人は自分も没落し、その人のしたことが国家に害を与へたに相違ないのである、今日は恰度一段上つて、世界に御維新が来たのである、世界が今大なる御維新に遭遇して居るのでありまするからして、此処で善き働きをなし、善き思案を立る人が必ず将来成功する人である、善き思案をつけた人が、此の国家を善き方面に導いて呉れたならば、則ち日本が一段の進歩をすると云ふことになつて来る訳であります、例へば、昨年の八月から唯今迄、既に八ケ月乃至九ケ月の戦争を継続して居るのでありますが、今日に於ては、段々先づ前途の見えるのは世界地図がどうしても変るであらうと云ふことは、今日に於ては判断される、即ち唯今若し此の儘で平和を結ぶと云ふことになつたならば何う云ふ条件で平和になるであらうと云ふことは、何人も考へなければならぬが、第一に、過去二百年間の欧羅巴の大問題たるダーダネルス海峡、露西亜の国境から地中海に出る処のダーダネルス海峡問題は二百年来の問題が遂に落着したやうに見えまする、即ち、此の英吉利や仏蘭西が、露西亜がダーダネルス海峡を通過して地中海に出ると云ふことは認めると云ふことに、外交上明言して居るのである、又埃及は英吉利の領分と云ふことは、仏蘭西が既に認め、その他の国々も認めて居る、青島は日本の勢力に落ち、南洋諸島も、又日本の勢力に落ち、亜弗利加に於ては、独逸の大部分の領分は英吉利の手に帰す、で現状の儘で平和と云ふものが出来ました時の地図は、既に大分に変つて居る、又白耳義はどうなると、独逸の立場から謂へばどうしても、白耳義は離さぬと云ふ、又場合によれば和蘭も領分として置きたいと云ふ考へであるらしい、仏蘭西はどうしてもアルサス・ロートリンゲンを返して貰はなければならないやうである、露西亜はガリシヤを占領して居る、是もなかなか離さぬであらう、若し今の儘平和が成立てば、世界の地図はどうなるかと云ふことは、略ぼ考へられるのであります、さうなつた場合に於て、世界の経済がどうなるかと云ふことは変化した状況の下に於て、諸君が見るより他仕方がないのであります夫れから経済がどうなるであらうと云ふことは、まア此の何方が勝つか負けるかと云ふことが定らぬ今日であるから、何方が勝つであらうかと云ふことは、次第々々に今後の形勢を以つて測つて行かなければならぬ訳合ひであるが、既に今日迄に費した処の軍費と云ふものは大変なものである、是が一ケ年にどうしても三百億は要ると云ふ計算であります、夫れにもつて行つて色々兵器を壊す、市街村落を焼く、色色なものを壊してしまうのでありますから、その損害と云ふものは大
 - 第42巻 p.475 -ページ画像 
したものである、夫れで今平和になつて、互に賠償金を取らぬとして平和を締結しても、既に起した処の大なる負債と云ふものは、どうして始末を附けるかと云ふことは、英吉利も仏蘭西も露西亜も独逸も墺太利も、皆大なる問題であります、既に聯合側に於ても、財政上六ケ敷い問題も起つて、過日巴里に於て英吉利・仏蘭西・露西亜の大蔵大臣が三人寄つて、財力を聯合しやうと云ふやうな相談もあつたのであります、夫れくらい此の財力と云ふものは、既に業に非常なものを費して居る、今日唯今戦争が済んでも、三百億以上の負債が残るのである、之を何う始末するか、是はどうしても、租税に依つて始末を附けるより他はないから、その結果として是等の先進国が、重き税を課すると云ふことになつて参りまして、随つて夫れ等の国々の工業は、余程税の軽き国の工業と競争する上に於て、困難を感ずることになると云ふ問題が、其処に生じて来るのであります、さう云ふやうな訳で、世界の将来の有様と云ふものは、色々な其処に変化が生じて来るのであります、其処で、此の日本の立場から考へて見ますると云ふと、何う云ふ影響を受けるであらうかと云ふことを考へれば、全体戦争と云ふものは経済上に禁物である、と云ふのは、戦争と云ふものは財力を毀すと云ふことになる、経済は財を生ずるのであるから、財を生ずると云ふことは、破壊すると云ふことの正反対の行為になる、故に此の今日の大戦争は、世界の経済の上から観れば不幸である、大なる不幸であつて、非常なる経済上に一大打撃を加へるのである、何処の公債が殖えても、何処の租税が殖えても、世界の共通の経済上から謂へば大なる損であります、事実既にその損害が起つた以上は、その国に影響する処はその戦争に関係する程度如何、又地形如何に依り、幸・不幸がある、即ち日本は今日此の点から観れば、幸福な地位に立つて居るのであります、幸福な地位に立つて居ると云ふのは、日本は即ち戦争に加入して居るけれども、大した金の要る戦争はなしに済んだ、而して日本は世界に向つての供給者の位地に立つて居るのであります、
例へば、今日本で非常に造船の業が盛んなやうで、先刻も聞けば、大阪鉄工所で造船は来年の十二月迄は約束済みになつて居ると云ふやうな、非常に造船の注文が来る、是は何の為とも言へば、世界の船舶の噸数約五千万噸ある中で、仏蘭西・英吉利・露西亜の船舶と云ふものは、もう大抵御用船となるとか、或は欧羅巴の戦争に関係する方面に使用されて居る、独逸・墺洪両国が有つて居る船は、或は中立国の港に逃げ込んでしまつたり、或は英吉利・仏蘭西の海軍の為めに取り抑へられると云ふやうな訳で、約千万噸の船は減つて居るのである、即ち五分の一です、五千万噸の約五分の一の千万噸の船が世界の運搬力に欠乏して居るのである、而して年々世界で以て造る船が、三百万噸づゝ年々世界の工場で造つて居るのが、今日は三百万噸の新しき造船力がなくなつた上に、現在千万噸の船がなくなつたのであるから、何処かに運搬力の不足を補はねばならぬから、日本へぞくぞく船の注文を持込むと云ふやうになつたのは当然で、又運賃を上げるのも当然であるから、今や日本の造船業は長崎・神戸・大阪は勿論浦賀あたりも非常な繁昌で、尚ほ此の以上の船の注文があれば、政府の造船所を開
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放しても造らなければならぬと云ふやうな域に達して居る、而も日本の船の評判は、世界に於て英吉利・独逸に次いで、日本の船が大変具合が好いと云ふ評判を受けて居りますのであります、先日承る所に依れば、大阪鉄工所で昨今造つて居る船は、所謂仕様書きを使はぬ船を造つて居る、日本の造船界では記録であります、御承知の通り船を注文するには、一艘毎に必ず仕様書を作つたものでありますが、大阪鉄工所に於ては注文が多数来るから、同じ型の船を何艘も造るから、船一艘毎に仕様書きを作ることは要らない注文も来る、即ち吾々が斯う言つた話をするにも、説明する言葉が要るやうな訳になつて来ますが店に列べてある船を造るのですから、自然廉く出来る訳である、一言の注文で直ぐ出来る、是は日本の蒸汽船を作る上に於て、初めてのことであります、さう云ふことがある、又先日も新聞に載つて居りまする通り、東京の服部金太郎と云ふ人の時計製造店へ、目覚時計の注文が倫敦から来て居ります、今迄は倫敦の方へ独逸から輸入したのが、今度は倫敦から日本へ目覚時計の注文が参つて居る、一つが一円以内と云ふ極く安いのであるが、夫れが一万個からも注文を受けたと云ふことであります、即ち時計の如き精巧な品物、又船舶の如き技術を要する品物が、日本へ注文されるやうになつて、而も世界で三番と云ふ地位を占めると云ふやうになつたことは、世界全体から観れば経済上甚だ不幸の境遇に立つて居るけれども、日本の現在を言ふとさう云ふ都合の善いことになつて居る、又戦争の始りました当時に、吾々東京に居りますものゝ心配をしたのは、倫敦と日本の間の為替が行詰るであらうと云ふことを心配した、即ち日本銀行の兌換がどうあらうか、此の戦争が始つてから大分の金が出たやうである、約二千万円近くの金を取られましたやうですが、その後列国の出師準備の品物が欠乏するに随つて、日本に向つて軍用品の補給を求めるやうになつて来た、露西亜なり、仏蘭西から日本に持て来た鉄砲なり、或は靴なり、羅紗なりの補給を求めるやうになつて来たから、その代価と云ふものは、六・七千万円以上の金が、日本へ入つて来るやうになつたから、倫敦と日本との間の為替が心配なくなつて来て、正貨準備は減らぬ形になつて居る、是は世界の経済から云へば大分損耗をして居るのであるが同じく損耗の度合の上から論ずると、日本は経済上都合のよい位置に立つて居ると云ふ有様であります、それから又此の各国の戦争の始まつた当時の財政の遣口はどうかと云へば、悉く皆兌換の方を停止して紙幣を非常に激増して居るのです、一方に紙幣をウンと出して、出した紙幣を直ちに人民に向つて公債の募集に使つて居る、英吉利だけが此の兌換停止をやらずに済んだ、殆ど兌換停止に近い所まで行つたが兌換停止をやらずに済んで居ります、で昨今亜米利加の輸出が激しくなつて来て、一ケ月の輸出超過が一億五千万円位にもなつて、それが幾月も継続したなら、紐育の為替が通常四弗八十仙のものが、四弗七十仙となり、即ち我が十円に付て二十銭の差が生じて居ります、是は日本も警戒しなければなりませぬ、既に先刻も日本銀行の人に会つて取引に変りはないかと云ふと、多少日本の金貨を輸出したと云ふことを耳にして居ります、倫敦と紐育との間に、一磅に付て十仙の差とす
 - 第42巻 p.477 -ページ画像 
れば、日本の金貨を輸出して充分金利が引合ふから、是は当局は注意しなければならぬ、従つてモルガンが紐育から倫敦に出懸けて行つたと云ふことであるから、何等か其処に、為替の激変を防ぐ方法を講ずるのであらうと思ふと云ふ話を聞きました、斯う云ふやうな訳で、非常に紙幣を出したのでありますが、その紙幣を酷く出したが為に、日本人が考へると直ぐに金紙の差が生じて、物価が暴騰するのですが、平素の二倍も出すのですから、必ず金紙の差を生ずる訳ですが、独逸あたりでは非常に市場の相場を制限して、物価を制限するばかりでなく、物資の供給迄制限して、一人に付て小麦を何程消費させると云ふ所まで、独逸では調査をして、又消費すべき物価を併せて調査をして紙幣と正貨との間の差を生じないやうに、予防して居ります、此の独逸に対しては、外国為替は金紙に差を生じて居りますが、之も成るべく差を生じないやうに予防して居りますが、政府の力で金紙の差を予防するのは、どうも出来にくいのであります、又大変に私共が教訓を受けましたのは、戦争に付て手形と紙幣の関係であります、手形交換所の大会が、大阪でも十五・六日頃に開かれると云ふことですが、その節は話がございませうが、その紙幣をウンと俄かに増したら、どうしても日本の経験に依ると、金紙の差を生じ、兌換に困難を来すのであります、それが今度欧洲諸国では、都合よく増発されたのは、近来手形と云ふものは非常に発達して、通貨の代用をして居る、今日の手形の為めに、世界の融通をつけて居る働きは大なるものである、若しこの事が手形がなかつたならば、今日の紙幣の発行高だけでは取引きが出来ない、然るに戦争の勃発と共に、一時凡ての手形が通用しなくなつた、その凡ての手形が紙幣の代用をしなくなつたから、そこに大変な紙幣の需用が殖へて来た、随つて紙幣の激増が手形不流通の欠陥を補ふことになつた、最初我々が想像した如くに、紙幣増発に伴ふ紙幣の下落の弊害と云ふことが多少避けられた、それは英吉利も仏蘭西も露西亜も独逸も墺洪も同様でありまするが、みんな小さい紙幣を出して、極く小さい額面の紙幣を出して、民間の金貨を取集めると云ふ政策をやつた、是は又研究しなければならないので、私が嘗て大蔵省に居た時分にも、屡々銀行家と論じ、又銀行家から屡々大蔵省に建白があつて、その建白には吾々は反対したのですが、即ち一円紙幣と云ふものを政府が引上げるのを止して呉れと云ふ請求で、どうも一円紙幣は大変便利である、その一円紙幣を引上げられては困ると云ふのであります、日本には前には十銭紙幣もあり、御維新頃には旧藩の一銭一厘紙幣もあつたが、段々整理をして十銭・二十銭・五十銭・一円・二円・五円と云ふ種類があつたが、段々引揚げて今日は五円・一円紙幣は出して居りますが、此内一円紙幣はなるべく引揚げ様と云ふ方針になつて居りました、之れはなるべく正貨を民間に流布するの考で、又一般人民は紙幣を粗末にし、正貨を大切にする習慣があるからで、大蔵省は一円紙幣を止めやうとしたが、それは銀行家諸君の中に多少の異論があつて、尚約二千五百万円の一円紙幣は流通致して居ると思ます、或は其後多少殖えて居るかも知れませぬ、併しながら、此度列国が採りました国家万一の時の策として、小さな紙幣を出したのは、
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皆紙幣の増発が正貨吸収の助けをして居りまして、それが紙幣増発が物価に影響することを減少し、一面民間の銀貨金貨を政府へ吸収することが出来ると云ふ、二つの効果を現はしたのであります、将来斯くの如き戦争が再びあつてはならないが、日本の財力が大くなければ大きくなるほど、一つ考へを加へなければならぬ、で吾々は決して眼の前のことばかり言ふのではありませぬ、国家百年の大計は、余程諸君の働くべき舞台が大くなればなるほど、広く大きく深く考へなければならぬのであります。
 今一つの是も私が大蔵省に居りました時分論があつて、民間に金貨を使用さして置いた方が宜しい、今悉く日本銀行へ吸収する策を採つて金貨を人民の手に渡さない、よくよく物好きの人が日本銀行へ行つて、交換をして貰つて使ふ位なことである。民間に於ては殆と金貨を使ふ人はない、之をも少し誰れでも使はれるやうにするが宜しい、それには、金貨の小さいのを出した方が宜からふと云ふ話ですが、戦争があつてはならないが、若し今後戦争があると云ふことを考へると、日本銀行ばかりでなく、民間にも金貨の貯蔵があるやうに、今後は日本も考へなければならないことゝ思ひます、それから何れの国の制度が宜いとか悪いと云ふやうなことは、国に依つて事情が違ふが、独逸が只今殆ど国の四面を敵国に封鎖されて、物資の供給も絶たれ、為替も止まつて、尚ほ五十億・百億と云ふ公債を出して居る遣方は、全く独逸の銀行と大蔵省との聯絡が善く付いて居るからで、恰も独逸の銀行が、独逸の大蔵大臣に依つて指導されて居るその有様は、殆ど全独逸帝国の銀行が一つの銀行になつた形になつて居る、近頃独逸の中央銀行の中へ、その建物の中へ、法律上の関係は別ですが、独逸帝国銀行の建物の中に、貸付の銀行が出来て、その銀行はドンドン民間の銀行に向つて金を貸し、又一方にはドンドン公債に応じさせるやうに仕向けて居る、それだから日本銀行担保品の種類に就て善く論があつたが、独逸の今日は戦時財政策として、何でもこいと担保品を増したのである、銀行の基礎の危いもの若しくは信用の如何かはしきものに対しては、貸付は勿論しないけれども、今の貸付銀行が見て以て之は相当の貸付なりと見たものには、ドンドン貸付ける、さうして政府は一方から紙幣を払出して、人民はその払出して貰つた紙幣で、大蔵省の公債に応ずると云ふことにして居ります、一面には独逸帝国銀行が紙幣を発行する、一面には貸付銀行が大胆に一般銀行に貸付をする、それで人民が金を銀行から引出したら、その金で公債に応じさせると云ふ政策を採つて居ります、何度それが繰返されたかと云ふことは甚だ疑問で、今日一百億の公債が成立したと聞きますが、その公債が出来たのもさう云ふ訳であるから、それが何度も繰返されることは出来ない、人民の財力の尽きる時がある、又銀行の財力にも限りがあり、担保にも限がある、けれども、とにかく独逸帝国がまだ著しい襤褸は見せないが、恰ど独逸の陸海軍が組織されてある如くに、実業界を誠に綿密叮嚀に組織して、その聯絡と云ふものが密接に保たれて居りますさうしてさう云ふやうな驚ろくべき国家危急の際に運用したと云ふことは、我々竜門社の会員として、大いに研究して見たいと考へて居り
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ます、仏蘭西なり英吉利の政策に於きましても、財政の手腕ある者が夫々長所を発揮して、国の事情に応じて余程善くやつて居ります、けれども日本も斯う云ふ場合に遭遇したなら、どうなるかと云ふことを考へて見ねばならぬ、今後戦争があつてはならぬが、若し万一大なる戦争が起つて、大なる財政上の運用をしなければならぬと云ふ時機が来たならば、日本の学ぶべき方法は、先づ独逸の遣り方より外にないと思ふ、英吉利の如く余所の国へ沢山金を貸して、余所の国から利足の入つて来る国、仏蘭西の如き貸金市場の中心となつて居る国は、日本のやうな貧乏国とは財政の運用上自ら異なり、従つて危急の際に断乎として処すべき覚悟を持たなければならぬのであります。
 でさう云ふ訳になつて居りますので、今度の戦争と云ふものは、世界経済上不幸であるが、日本の国の位置を考へると、世界中の不幸であるから日本も分担しなければならないが、日本の国の立場だけを考へると、日本は比較的にさう損をして居らぬ、前に申上げるやうに、日本銀行の兌換準備は今日は安心になつて居ります、而して日本に向つて、戦争国が物資の供給を仰ぐやうになつて来たから、大変都合が善い地位に立つて居ります、而して是から先きに、日本の立場と云ふものは、どうしても日支関係、即ち日本と支那の関係と云ふものが非常に大切であります、世界の地図が如何に変つても、今後に於ける経済上の大なる問題になるべき場所は支那であります、今日政府が如何に談判をして居るか、そのことは未だ与り知ることは出来ないが、今日日支の談判を遣つて地歩を占めると云ふことは必要であり、又地歩を占むべき時運が到来して居るのであります、尤も日本は日英同盟の協約があり、日仏協商、日露の協商がある、又米国と日本とには宣言があつて、度々繰返して、支那の保全・機会均等・門戸開放と云ふ三主義を宣言して居りますが、此の宣言に悖ることは万々してはならぬことである、同時に又日本の経済的発展すべき勢力を、今後各国が妨げるやうな今日禍根を遺すことはならぬ、此の際には、日本は今日迄列国と協約して宣言して居る処の主意に悖るやうな結果を遺してはならぬと同時に、将来日本の大いに発展すべき勢力を作るを妨げんとするが如き種子となるべきものは、此の際是非とも除いて置かなければならん、夫れが今日日支問題の大切なる所以である、吾々はどう云ふ風に談判して居るか判らないが、詰る処は世界が平和になつて来ると矢張り支那の問題は今後必ず起るべき問題であるが、その問題が起ると云ふことは、世界に不幸であるから、今後さう云ふ不幸の起らぬやうに、又日本の当然為すべき、公平にして公明正大なる主義の下に於て門戸開放・機会均等・領土保全の主義の下に、日本が当然為すべきことを妨げられぬと云ふことの土台を作つて置くだけの必要があると思ふ、夫れは多少困難のことであると思ひますが、さうなつて行けば戦局が如何に変つても、日本と云ふものゝ経済的発展の目的は動かないことになる、而して玆に尚ほ一つ考へなければならぬのは、今此の日本の資本と云ふものは、今日まで何処に仰いだかと云ふと、欧羅巴の市場から仰いだ、仏蘭西なり英吉利なりから仰いだが、仏蘭西・英吉利の市場は、今後暫くは他国に供給すると云ふことは出来ぬ、自分
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の国の整理を附けると云ふことが急務になる、三百・四百・五百億と云ふ借金があるから、是が恢復には重い税を掛けなければならぬ、恰度日本は日露戦争の結果重い税を掛けたが為めに苦んだが、その苦しい位置を英吉利や仏蘭西其他の国が取るやうになる、さうすると日本と英吉利なり仏蘭西其他の国なりの地位は五分々々になるから、日本の工業が非常に都合が好いことになる、兎に角重い税を掛ける、随つて東洋に対して多くの資本を掛けると云ふことは、当分出来ないから今後直接日本との資本関係を保たれるのは、亜米利加でなければならぬ、日本に向つて資本を供給し得る国は、当分独り米国ばかりになつて来る筈である、他の国は戦争の為め非常に傷むので、随つて重い税を掛けなければならぬと云ふことになるから、他を省みると云ふ暇がなく、詰り日本とは工業上五分々々になつてしまう訳である、故に若し今後米国が今度の戦争に参加せぬと云ふことならば、米国は非常に善い地位にあるから、既に現在富んだ国であるから、その余力を東洋に及ぼすことが出来るのでございます、而して日米の商売は互に共同して仲善くする方が双方の利益であると云ふ、充分明かな道理が存在して居る、或は支那問題に就いて日本と衝突するが如く唱ふるものもあるが、支那の経済上のことは日本と米国が一緒になつて、その経済上の発展を図ると云ふ地位に立てば、少しも衝突すると云ふことは起り得ない、日本は地形上の便利と種々の勢力を以て、米国は豊富なる資本を以て、両々相俟て、支那の将来の経済の発達を図つて行くことが出るのであります。
 夫れから将来、此の戦争と共に如何なる思想が、世界に起りつゝあるかと云ふことを二・三お話して見たいと思ひますが、既に戦争以前にも、戦争に対する反対論は大分起つて居つた、戦争と云ふものは人道に反する、戦争は文明主義に反する、今日の如くに進歩した文明国人民の間には、成可く戦争に依らずして、国と国との間の争ひを解決するの方法を見出さなければならぬ、と云ふ議論が進んで居りましたが、現在に於ては、その主義は余程益々進んで来たと思ふ、今度の戦争の結果として、愈々軍国主義が増長するであらうと云ふ説と、平和主義が増長するであらうと云ふ二つの説がある、先日東京の大学教授井上博士や中島博士、その他の博士の案内で、東京に於ける有名なる教育家その他百名ばかりの人が会して、さう云ふ討議を遣つたのであります、今後戦の結果として軍国主義が増長すると云ふ説と、平和主義が、即ち万国主義が増長する、万国主義と言つても国が亡るのぢやないけれども、国と国との間が互に平和的に成立して行くと云ふ主義が増長すると云ふ二説がある、欧羅巴あたりには、段々国と国とが銘銘海陸軍を有つから斯う云ふ戦争が起るから、陸海軍を一つにするが善いと云ふやうな論者もあると云ふことである、是は有名の人が其論を書いて居ると云ふやうな訳で、欧羅巴の方にも、軍国主義になると云ふことを考へる人と、平和主義になると云ふことを考へる人もあるが、夫れは此度の戦争が如何に落着するかに依つて、現れて来る議論の結果は違ふであらうと思ひますが、然し是だけは吾々の承認しなければならないのは、さう云ふ両様の論のあると云ふことを承認しなけ
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ればならぬ、既に両様の論があり、平和主義の論もある以上は、列国の人々の考へが如何に動きつゝあるかゞ分かる、即ち現在の軍国的の国家主義に依らずして、国家は現在の通りに国家として存在する其の組立てが、今日の如く、一歩誤れば国と国とが仇敵の如き関係を以て自分の国内さへ平和主義で遣つて居れば、他に向つては道徳を毀し、人道を破りても善いと云ふやうなことは道理が許さぬ、と云ふやうな議論が段々生じつゝあると云ふことを証明すべきものであります、殊に此の傾向の兆候として、宗教のことゝ云ふものは、今日迄は仲々一致が六ケ敷くあつた、耶蘇教とか仏教とか回教とか云ふ、その相互一致は六ケ敷い、又信者と信者との差別が強かつた、現に同一仏教でも各宗派間相争ふ有様であつた、処が近頃御承知の通り、帰一協会と云ふものが出来て、渋沢男爵・森村市左衛門君の如きは最も熱心にして会の費用を負担して非常に力を入れて働いて居られます会である、その帰一協会に行つて議論を聞いて見るに、その会には哲学者もあり、漢学・国学者もあり、武人もあり、政治家もあり、神道のものもあれば仏教のものもある、耶蘇教もある、何れも大家である、色々議論をして居られますが、夫れに依ると、各種の宗教も今日まで考へられた如く、互に相違のあるものでないと云ふことが解る、何れにか帰一の点がある、例へば信仰はどの宗教にもある、正直と云ふ教もどの宗教にもある、それから慈愛と云ふことも、どの宗教にもある、段々訊ねて行くと、宗教と宗教とは、互に他を邪宗のなんのと言つて居つたこともありますけれども、其の帰一する点に於ては、あまり意味は変らぬものであつて、どの宗旨にも一致して居る点があると云ふことを考へたのであります、そのことに就いては米国・英国・独逸あたりでも段々さう云ふことを研究する傾きになつて来て居る、既に宗旨が違ふと云ふことに依つて、互に戦争もし喧嘩もしたその宗教と云ふものにすら、玆に一致すべき点を考へると云ふやうな時代になつて来たのでありまして、信者間の固執の観念も段々と薄らいで来た、今度の戦争に依つて、英吉利の兵隊と日本の兵隊とが、人種と宗教を異にする者が、一緒に戦ふて見れば、日本の兵隊の強いと云ふことは欧羅巴人にも分かる様なもので、宗教の区別も昔程に重きを置かぬやうになつて来た、所謂宗教の相違が段々と近づいて来たと云ふことが分かる、右様なわけで、今日万国主義の増長は段々認められるのである、殊に経済の上から論じて見れば、戦争は経済の反対、戦争と経済とは反対であつて、戦争は破壊するもの、経済は生産するものである、人間の幸福は戦争に依つて破られ、経済に依て作られる、その経済をぶち毀すのは、人間の幸福を減却すると同様である、と云ふ考へが段々進んで参りますから、戦後に於ては思想界に大変化が来る、此の点も吾々が注目して、日本の今後の方針を考へなければならぬのであります。
 さて、さう云ふ風に種々の点を論じて見ると、大いに考へなければならぬ点があるが、併しながら結局認めなければならぬ道理は、竜門社の主義としては、正直と勉強と云ふことなのである、竜門社と云ふものゝ興つたのも、吾々が奮闘して千人の会員の出来たのも、又青淵先生が大阪に参られ、私が大阪に来たのも、正直・勉強と云ふ是より
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もう強いものはないと云ふ主義を、明かにするが為に過ぎないのであります、此の度の戦争が何方が勝つても、独逸が滅茶々々に負けても尚ほ将来恐るべきものは独逸であると思ふ、何となれば、独逸人は非常に勉強で、忠実の人民であるが故に、今日独逸が現在の儘で平和を締結することが出来たら、その国内は少しも侵されて居ないから国内に於ける製造工業会社工場はその儘存在して居る、職工や技師は戦争の為に大分死んで居るが、まだまだ若いものが生残つて居るから、是等が奮闘努力を始めたならば、その恢復の力は驚くべきものがあらうと思ふ、又日本が今日比較的善い地位に居るからと云ふので、傲奢に耽つて油断して居るやうなことであるならば、忽ち支那の市場から駆逐されてしまうと云ふやうなことになるのである、正直と勉強の他に自己に幸福を与へるものはないのである、玆に独逸人の倹約・勉強と云ふことに就きまして、私自らの経験がございます、明治四十一年に私は欧羅巴を廻りまして、伯林のアドルンと云ふホテルに宿まつて居つた、折から独逸帝国の外務大臣が留守で、次官が私の処に訪ねて見えた、シリンドルの帽子を被つて出て来られましたが、辻待ちの車に乗つて、辻待の馬車や自働車と云へば、恰度日本の人力車と云ふやうな格のものであるが、夫れに自分で賃銭を払つてホテルへやつて来られた、帰る時には又テクテク歩いて辻待ちの車に乗つて帰られた、どうも仲々偉い、独逸と云ふ処は上下押並で質素なもんだと思つて、或る人に話をした処が、夫れは独り外務次官ばかりではない、外務大臣が日本大使館を訪ねられた時なども、自分一人でテクテクと歩いて、辻待ちの自動車に乗つて、門前でちやんと自分で賃銭を払つて、又帰る時にはテクテク歩いて、辻待自動車で帰へられると云ふやうなことで、其様ことはなんでもない話であると云ふことであつた、日本の人と云ふのは、大変見え張る弊がある、見え張ると云ふのは自分自らを不正直ならしめるので、自分の一身に奉ずることに余り念虜が厚い、一国の大臣、一国の次官をする人が何も自宅の馬車に乗らんでも、夫れは乗るべき必要があれば乗るが、乗つて差支ないが、見へに無駄なことをして自分の一身に費ふことばかり考へるから、横着をして贅沢しやうと云ふのが、抑々国を亡す基である、自分は成可く倹約をして蓄めた金は国家に奉じやうと云ふことに、独逸人は心懸けて居るやうである、自分の友人に小島と云ふ人が居るが、夫れが独逸の軍隊に入つて居りました、戦争以前は独逸と日本とは互に軍隊に見習に士官を入れることの交換をして居りましたが、その時分に同じ隊に男爵と云ふ某中尉が居つた、その人が頻りに自分の宅に遊びに来いと言つて居られた、その男爵は甚だ質素にして居られたから、大した人と思はなかつた、けれども休暇には是非一遍宅に来いと言つて頻りに勧めるから、夫れではと言つて、或る日男爵と共に出掛けた、すると何とか云ふ田舎の停車場に到着した、さうすると日本で云へば皇族の乗るやうな立派な二頭立ての馬車に、立派な奥さんが着飾つて停車場に待つて居つた、大変なことゝ思つて愕いて行くと、着いた家は其土地の貴族であるから、実に立派なお城であつて、キヤツスルと云ふ大きなものであつた、大変驚いて夫れから中に這入つて見ると、その生活振りの
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質素なことは又驚くべき程で、召使の人々も少なく、さうして先きに着飾つて出て来た奥さんは、今度は平常の着物に着換へて男爵の処へ出て来て、なにくれと自分で世話をする、さうしてよなべには、中尉の破れた靴下を奥さんが直して継ぎをあてながら色々話をして居ると云ふことである、夫れで此方に帰つて来てつくづく感心して軍隊に居る時のことを考へて見ると、男爵に比べて自分の方が遥に贅沢であつた、男爵の処に訪ねて行つた時に、奥さんが立派な馬車に乗つて迎ひに来て呉れたのは、彼れは男爵の資格を以つて迎ひに来られたので、即ち男爵と云ふ地位に対してせられた礼儀であつたが、その家に行つて見ると、男爵の穿き潰した靴下やズボンの継ぎをあてゝ、自ら直し小島と云ふ人を待遇して呉れた、その奥床しい有様に感心して、独逸と云ふ国は驚くべき国であると云ふことを話しました、即ち此の勤勉努力、実に独逸の人に見習ふべき点は、人間が正直勉強、正直勉強であるから規律が能く守れる、或は独逸が白耳義を攻めるのに、万国条約に反いたとか、老人を殺し、女を辱しめ、乱暴なことをやつたと云ふが、それは今度の戦争に付てのことである、夫れを一々善いと褒めるのでないが、謂はゞ国の為にすると云ふ誠意誠心で、何処迄も万事を国に奉じて遣つて居る国民であつて、而も平素の質素なことは、上は大臣、次官、下は下士卒に至る迄、又男爵の奥さんが靴下を繕ふと云ふ処迄に至つて居ると云ふことは、如何に正直に国家の財を無益に費はぬと云ふことに心を用ゐてゐるか、又如何に勤勉であるかと云ふことは、窺はれるのであります、で独逸の皇室では、如何なる姫君でも一つの職業を覚えなければならぬ、婦人の身として、一朝事ある時に当つて、自分一人で喰つて行かなければならぬと云ふのが、独逸皇室の教へでありまして、皇后陛下であらうが、皇妃であらうが、必ず一芸を覚えてゐられる、多くは書物を綴ぢる業をお習ひになつて居るやうであります、若し皇室がどんなに零落しても、此の一芸で自分の口を養ふて行ける業を附けると云ふことが、根本の教へになつて居ります、独逸が必ずしも万事善いとは言はない、悪いこともある、悪いことは吾々は研究する必要はない、その正直に勤勉なることは、実に驚いた人民であります、縦令今日戦敗れ、城下の盟ひをなすに至つても、又数百億の借金を負はされるに至つても、今日独逸の正直勤勉の精神を維持する人があつたならば、独逸は必ず遠き未来を待たずして復活することが出来やうと思ふ、併しながら、是は皆な今後の未来記で、夫れより以上は事実になつて後でなくては考へが附かないが、今日迄の時局の変遷から観て、さう判断が附きます、で私は此の竜門社の主義は正直と勉強、此の二つを骨子として居りますが、長い演説を数日かゝつてしても夫れは役に立たない、言論だけでは不可ない、行はなければ何にもならぬ、今日の時局は日本の為めに都合が善くなつた、此の時期に於て、是非とも此の正直・勉強に依つて、必ず此の竜門社の主義を発揮しなければならぬ、千人の会員が、日本の実業界に雄飛して居るのである、此の人々が、今の決心を有つて遣つたならば必ず大成するであらうと私は思ふのであります、即ち日本の現状は決して楽観を許さない、政治上に於ては甚だ不味いことが多い、今度の
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総選挙なども不味いことがあるやうである、某県の知事が免職になつたやうなこともある、実業界にも不味いことが少なくない、大きな銀行の頭取が拘引されたと云ふやうなこともある、批難すると云ふ点から観れば、批難しなければならぬことが頗る多い、又若い人が遊惰に流れてゐる、又社界の悪い方面は遠慮会釈なく発展して居りますが、即ち夫れは批難の方面であつた、大局から達観すれば、矢張り正直と勉強は最終の勝利を享けるのであります、色々な暗黒面があつても、夫れは黄河の流れが泥土の為め濁つて居るが、その中には鯉が棲んでその鯉が段々激流を登つて竜門の流れを越えて、さうして鯉化して竜となると云ふことは、私は確信して居ります、夫れ故、今日は東京竜門社員全部の深厚なる敬意と深厚なる同情とを以て、私はそのお使ひとして、此処に参りましたのでございます、同時に、此の竜門社の主義綱領の骨子は、此の決心を以て何処迄も奮闘する、是に依つて行けば将来は悲観すべきものでない、是に打勝つものはないと、斯う云ふことを私は断言したいのでございます、終りに永く御清聴を煩しましたことを、深く感謝致します(拍手喝采)
  ○右臨時総会ニ於ケル尾高次郎ノ「竜門社の起源」ト題スル演説ハ、本資料第二十六巻所収「竜門社」明治十九年四月ノ条参照。