デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.593-610(DK420104k) ページ画像

大正6年3月18日(1917年)

是日、京阪神在住当社会員第三回臨時集会、京都、万養軒ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正六年(DK420104k-0001)
第42巻 p.593 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年         (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 晴 寒
○上略 午後三時頃一洋食店ニ抵リ、竜門社ノ総会ニ出席ス、当日ノ幹事ヨリ開会ノ趣旨ヲ述ヘ、後ニ田島錦治氏ノ道徳経済一致ニ付テ詳細ノ学説演説アリ、次テ思ヘ出多キ京都ト題シテ懐旧談ラ為シ、更ニ実際上ヨリ道徳経済ノ一致ヲ説明ス、夜飧後青柳氏ノ幻灯ヲ以テ実地ヲ示シタル欧米視察談アリ、一同満足シテ夜十時頃散会ス、此日会スル者百五・六十人許リナリ、夜十時過帰宿ス


竜門雑誌 第三四七号・第七七―七八頁 大正六年四月 ○京阪神在留竜門社員第三回臨時集会(DK420104k-0002)
第42巻 p.593-595 ページ画像

竜門雑誌  第三四七号・第七七―七八頁 大正六年四月
○京阪神在留竜門社員第三回臨時集会 青淵先生が、聯合国傷病兵慰問会其他公私の御用務を以て、西下せられたるを機とし、三月十八日午後三時より、京阪神在留竜門社員第三回臨時集会を、京都市四条万養軒に於て開く。当日定刻に至るや、明石第一銀行京都支店支配人は、発起人一同を代表して開会の辞を述べ、特に多数来賓の為めに、竜門社の綱領とする処を叙し、青淵先生の終始一貫自ら実行せらるゝ論語算盤主義に就き一場の説明を試みられ、次で田島法学博士は経済行為と道徳とに就て、学理上より経済行為は道徳の一部ならざるべからずとの前提の下に、約一時間に亘り懇切精緻なる講演をせられ、次で青淵先生は御旅中御疲労の御様子も無く、莞爾として壇上に立たせられ、別項の如き維新前後に於ける御経歴に就き、一時間半に亘る御講演あり、志望遠大意気旺盛なる壮時の先生の面目躍如として、一同に深き感動を与へたり。
 午後七時食堂を開き、一同晩餐を共にす、デザート・コースに入るや、明石氏の乾盃の辞と共に一同盃を挙げて、先生の健康を祝し、次で山下亀三郎氏・池田寅次郎氏の卓上演説あり、九時更に別室に移り青柳工学博士の欧米視察談あり、幻灯を以て欧米の科学的利用の偉大なるを紹介し、誠意と科学的研磨の二要素が広義に所謂道徳的大本なる旨を熱心に且理路整然として細叙し、或は武士道を批判し、或は日支親善の必要を極言し、更に日本人の科学的研磨に迂なる事を例示して、日本の現状を痛嘆し、最後に商業道徳は英国に学ぶべく、科学的研究は遺憾ながら独逸に習はざるべからずと結べり。博士の熱心に感
 - 第42巻 p.594 -ページ画像 
ぜられし青淵先生は則ち起ちて更に所感を述べられ、博士の説に同意の旨を附言せらる。
 十一時頃、明石氏の散会を宣すると共に、一同和気靄々の裡に解散せり。
 当日は近来稀なる盛会にして、京阪神に於ける会員の来会する者多く、又京都市内支店は特に其取引先中少壮実業家と目せらるゝ人々数十名を招待し、以て我竜門社の綱領を紹介する所ありたり。
 来賓及会員の出席者左の如し。(イロハ順)
来賓
 仁保亀松君    西彦太郎君    大沢渚君
 田辺朔郎君    難波正君     青柳栄司君
  (以上教育家)
 池田寅次郎君   五十嵐蔵三郎君  伊藤俊二君
 乾康平君     磯部喜助君    池田松之助君
 岩田又四郎君   西方幸次君    星野琢磨君
 隍順三君     外村専五郎君   富岡栄七君
 岡田瀞君     奥村寅次郎君   小野保太郎君
 大橋安次郎君   尾崎哲之助君   渡辺三津治君
 桂貞陽君     吉川平兵衛君   高橋通君
 津田幸二郎君   鍋田鍵三郎君   中小路久太郎君
 野橋作次郎君   黒野徳三郎君   八木辰之助君
 山田九一郎君   山田九蔵君    安盛善吉君
 前川弥助君    前川直之助君   馬淵久次郎君
 藤野佐吉君    舟阪八郎君    木村卯兵衛君
 木村卯之助君   絹川太一君    三浦豊二君
 柴田藤次郎君   新門陽三君    島津常三郎君
 清水耕作君    桃木民蔵君    鈴木清作君
 角谷藤三郎君(以上実業家)
 石井賚三君    橋本豊吉君    堂本弥太郎君
 大久保作次郎君  神崎憲一君    田中左門君
 高橋真一君    桜田文吾君    八木敏一君
 山崎房造君    儀満栄三郎君(以上新聞記者)
特別会員
 飯塚八平君    井上金治郎君   大橋悌君
 大川英太郎君   片野滋穂君    田中一馬君
 田中猛君     田島錦治君    武田信政君
 田中二郎君    武川盛次君    中田忠兵衛君
 野口弥三君    熊谷辰太郎君   山下亀三郎君
 古橋久三君    小財宗一君    越野三蔵君
 明石照男君    浅川真砂君    佐々木清磨君
 平田益三郎君   杉田富君
普通会員其他
 稲田康次郎君   原田駒三郎君   二宮裕造君
 西野慎治君    西代喜雄君    大西卯雄君
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 河田重太郎君   金谷可美男君   谷哲三君
 高山慥爾君    高木岩雄君    高木勝君
 武田楢三郎君   武内三次郎君   曾志崎誠二君
 根岸綱吉君    中古賀晴太君   中田庄三郎君
 野村小一郎君   野々村芳蔵君   熊谷福次郎君
 山内保彦君    松村守一君    普門栄三郎君
 福井源三郎君   藤田嘉兵衛君   藤井真次郎君
 後藤謙三君    菰淵三蔵君    寺林作治郎君
 荒木正迪君    浅木兵一君    佐伯武雄君
 阪谷俊作君    菊地市太郎君   木村耕造君
 北川乕之助君   三戸寿君     柴山譖君
 広瀬市太郎君   鈴木謹之助君


竜門雑誌 第三四七号・第四一―五八頁 大正六年四月 ○青淵先生関西旅行 随行員 白石喜太郎記(DK420104k-0003)
第42巻 p.595-596 ページ画像

竜門雑誌  第三四七号・第四一―五八頁 大正六年四月
    ○青淵先生関西旅行
                随行員 白石喜太郎記
 青淵先生には、旧臘以来熱心御尽力中なる、聯合国傷病兵罹災者慰問会に対する寄附金勧誘の要務を帯び、三月十四日朝出発西下せられ、神戸・大阪・京都及び名古屋を経て、同月二十二日夜帰京せられたるが、序を以て、昨秋御病気の為め中止となりし、第一銀行引退御披露の宴をも各地に於て催されたり。此旅行に随従する事を得たれば、玆に余白を借りて御動静の一斑を録し、諸賢の劉覧に供ふることとしたり。
    一 日程
○中略
三月十八日 午前十時第一銀行東洞院支店に赴かれ、特に来集したりし同行京都及伏見支店員に訓言を与へられ、午前十一時半之を辞し、途に府知事を御訪問の上、明石○照男邸に赴かれ、午後三時同邸を辞し直に万養軒に開会の竜門社臨時集会に臨席せられ、午後十一時過帰宿○玉川楼せらる
○中略
三月二十二日 午後零時四十七分名古屋発の汽車に搭し、午後八時三十分帰京せらる
  ○「二 神戸まで」ヨリ「四 法隆寺と畝傍」マデ略ス。
    五 京都
○中略
      (二)滞京第一日
 三月十八日は薄墨の如き空に明けたり。先生には午前十時宿を出で自働車にて第一銀行東洞院支店に向はる、明石氏と共に随従す、銀行につき、行員諸氏の出迎を受け、階上応接間に入られて小憩の後、広間に一同を集め、銀行員の本分に付き熱心に訓示せられ、且融和協同の必要を懇切丁寧に説かれたり。午前十一時半頃銀行を出で府知事官舎に木内知事を訪問せられ、聯合国傷病兵罹災者慰問会の件につき打合せられ、約四十分にして辞し、明石氏邸に向はる、此日は明石氏三
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男正三殿の御宮参りに当り、御内祝のため午餐会の催しありしにつき之に列席せられんためにして、同邸につけば、高嶺俊夫氏夫人及び阪谷俊作氏既に来邸せられたり。
 庭前の白梅今を盛りに咲き匂へるを美しと見ながら午餐の饗を受けられ、閑談時余にして大川英太郎氏来訪せられたれば、話題更に改まり、いつ果つべしとも見えざりしが、竜門社臨時集会の時間も迫り来りし事とて、午後三時少しく前、同邸を立出でられ、会場なる万養軒に向はれぬ。
 会場に到れば既に来会者多数見えたるが、先生には一先づ休憩室に入られたり。其内熊谷辰太郎・野口弥三・杉田富の諸氏も見え佐々木清麿氏も来会せられたり、かくして午後四時会場なる階上広間に一同着席し、明石照男氏発起人を代表して、竜門社の主義綱領を陳述して開会の辞とせられ、之より講演に移り、先づ京都大学法科大学教授田島博士の講演あり、其専攻の経済学の見地より、真の経済は道徳と相一致するものならざるべからずとの前提の下に、道徳を基礎として商工業を営むに於ては、国家の経済は自ら発達して、国家を富強に導くを得べしと論結して、最も趣味ある講演を試むる所あり、次で青淵先生には満場の拍手に迎へられて演壇に起たれ、徐ろに口を開かれぬ、今其概略を掲げんに、
  ○栄一演説後掲ニツキ略ス。
 一語は一語より熱を帯び、一句は一句より力を増し、音吐愈朗々、約百五十の聴衆寂として声なく、只酔へるが如くなりき。かくて約一時間半の後、先生を送る拍手の音、堂も破るゝ計りに起りし頃は、薄暮漸く窓に迫りて、夕風の稍寒きを覚えたりき。
 之より直ちに食堂を開き、一同晩餐を共にし、デザート・コースに入るや、明石氏は立つて挨拶をせられ、終りに例により三分間演説の提議あり。此日特に来会せられし山下亀三郎氏は直ちに起つて熱弁を振はれ、次で来賓たる奥村電機商会の池田寅次郎氏にも所感を述べられたり。かくて食堂を閉ぢ、更に室を更へて、京都大学工科大学教授青柳博士の欧米視察談あり、幻灯を使用し、実況を示しつゝ「科学的研磨」の必要につき、約二時間に亘り力説せられ、一同に多大の感動を与へられたるが、博士の熱心に感ぜられし先生には、直ちに起ちて所感を述べられ、博士の説に同意の旨を附言せらる。かくて午後十一時過、明石氏散会を宣しぬ。熊谷・野口・杉田其他の諸氏は十時過ぎ・退京せられたり、山下氏は先生と同車、玉川楼に至り一泊せらる。
○下略


青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本 【(別筆) 大正六年三月十八日於京都万養軒 在関西竜門社臨時集会御演説】(DK420104k-0004)
第42巻 p.596-608 ページ画像

青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
            (別筆)
            大正六年三月十八日於京都万養軒
            在関西竜門社臨時集会御演説
                  渋沢男爵 講演
 只今竜門社の幹事に代つて明石理事が此会の催された理由を御述べになりましたが、私の関西に旅行致しましたに就きて、臨時に竜門社
 - 第42巻 p.597 -ページ画像 
総会が是で三度開かれたといふことである、而して三度共に出席致しまして、諸君に御目にかゝることを得ましたことを、深く喜ぶのであります、殊に私は、此京都とは余程深き縁故を持つて居ります、御集りの青年諸君には、大概の事を申しても、皆御知りなさらぬ位古い事でありますから、何を言ふかと思はれるかも知れませぬ、前席に田島先生からも御述べになりました通り、私は微力ながら道徳経済一致説を主張して居りますから、如何に古い事と雖も、其意味に於て、所謂英雄人を欺くといふやうなることなく、勿論私は英雄でありませぬから、欺くことはありませぬが、此思出多き京都で、斯く一身が変化したといふ自身の経歴談と、商工業に従事してから其商工業が道徳観念に及して来た次第とを陳情致して見たいと思ふのであります。
 前席に田島博士が、道徳と経済の関係を学問的に詳しく御述べ下さいまして、私などは唯其感想上から左なければならぬと論じましても或場合には説明が行詰るやうな嫌ひがあつて、整然たる論理、確固たる順序に依つて申上げることは出来ぬのは残念に思ひますが、今経済学者として先生の如く、欧羅巴人の細かに説かれる論理から経済道徳の位置をお述べ下さいましたのは、寧ろ自ら先生の道徳経済合一説以上に動かぬ道理と、甚だ感佩して拝聴致しました、私の今申述べますことは、決して左様な学理で無くて、己れ自身の経歴談でありますが此経歴談中に唯一身の小い心小い経歴に於て、多少夫れに触れ得ることがあつたなれば、宜しく御批評又御教示を請ひたいと思ふのでございますから、中々以て斯くある可き筈とか、斯様な道理だといふことを定めて申上げる訳ではありませぬ、併し洵に昔古郷を去つて、此地に四・五年居つたことで、斯かる竜門社の如き私を中心として居る会に、斯ういふお語を申上げることは、自身所謂老後の思出此上も無い愉快でありまして、先づ夫からしてお話申上げたいと思ひます。
 元来埼玉県の農家に生れた私ですから、偉い修めた学問もありませぬ、併し少年若くは青年迄、先輩に漢学を少々学び得て、其主なる趣意は所謂道徳説で、仁義孝悌忠信、夫婦相和し、朋友相信じといふ教育勅語に在る言葉も、恐れ多い事でありますが其通りであります、先づ田舎の百姓にならうとして、刻苦経営致しました、其時に文学或は八大家文章を読むとか、文章軌範を読むとか云ふことからして、漢学の余暇ある場合には、余芸になりますが聊か文学を好みました、是も一種の唯慰みで、以て大家にならうといふ趣意ではありませぬ、所謂田舎に於ける一村の長になれば、もう能事足れりといふ考へを以て、生ひ立つて来ましたのでございます。
 所が世の中が、少し私から申訳に説明すれば、私の身体をして誘ひ出したので、自身が殊更に駆出したと云はれたくない位であつたのでありますが、ズツト田舎に居つたら、誰も縛つて出しはしなかつたらうと云ひますけれども、夫は或は心得違ひで今東京へ出て、行路病者となつて養育院に這入る人さへある、況や其頃は、国家が亡びはせぬかといふ程の有様であつたから、中々今日の政党騒とか若くは民権論者が藩閥打破位の小な有様では無かつたのであります、知らぬ人は、何夫は御役人様があるから、其為に征夷大将軍もある、天子様もある
 - 第42巻 p.598 -ページ画像 
といふて居りましたけれども、天子様は決して政治は御執りにならず時の将軍は暗愚、幕府の役人は皆惰弱無智極まるといふ、若し然ういふ場合であつたなれば、決して今日の政治家は、如何にも悪政治であつたなれば、必ず私は振つて出掛るに相違ないと思ふ、之は国を思へば拠ないことで、其時に私共は田舎から駆出したのであります、之は然ういふ時代であつたと申上げても、決して何に夫は今日の事だから彼が誇張して申すのだと、若し仰しやるなれば、夫は憂国の観念の薄い御方だと、私は反対したい位である、故に田舎に居る間は、小い範囲の道徳経済を百姓で一致させると、其時は左様な考へを持つ訳ではありませぬけれども、努めて孔孟の教に遵ひ、孝悌忠信仁義道徳を失はんで、一村の良民たらんと思つて居つた、其良民を田地も荒蕪させぬやうに小作人にも難儀をさせぬやうに、地方の教育も事業も進歩を計るやうにと考へましたから、洵に微々たる一村の経営ではあるけれども、道徳経済と合致して進めたい、敢て論理上から思つたのではありませぬが、心に然う感じたのに相違ございませぬ、不身持とか或は不埒な事を働いて、古郷に居られなかつたのではありませぬ、夫は、其当時の事を知らない人は、何をしたか知れぬといふ者があるか知れませぬが、私は真実に告白するのであります、但し其場合は、今から云へば或は乱民とも云ひ、或は国を憂るの余り若くは討幕になるか知れませぬが、外国に対して大に物議を起し、物議といふ所では無い、大騒動を起して、攘夷の先鋒をつけやうといふやうな企が、遂に古郷に居ることが出来なくて京都に来つたのであります、丁度京都に居つたのが、文久三年の一月《(十一)》であります、今より五十余年以前の事であります、一橋慶喜公が幕府の後見職になられて居りました、尤も其前に種々政治の波瀾曲折種々なる事がありますが、其変化から又追々錯綜した有様を玆に述べると、中々一寸申上げては、如何に能弁の人が申しても、容易に分らぬやうなことで、又其事実も一朝一夕に尽すものではありませぬ、兎に角時の十三代将軍は逝くなつて、十四代将軍は未だ至つて幼稚で、一橋公が後見といふ位置に立つて、政治の紛糾から、幕府が朝廷に対して職に奉ずるといふことは宜しくないといふやうなことで、種々な物議を惹起しまして、一橋が京都に来たといふのが文久三年の九月である、私共田舎で不揆を図つたといふやうな企をなしたのが成らぬ為に、京都に身を転じたのが其時のことである、今思つて見ますと、多分其時に、慶喜公は本願寺に宿泊されて居りました為に、私共は数珠屋町の附近へ参りまして、宿を取つて居りました併し未だ其京都に参りたてには、家を出ます時親から多少の旅費を貰つて来ましたから、未だ所謂懐が暖かい、出掛けた時は二十四でありました、其翌年廿五の春は、三条の小橋の側に佐久といふ旅籠屋がありました、其数珠屋町の旅宿に暫く==多分半月若くは一月位も居りましたか==一橋様が三条の若州屋敷に居りましたから、其所に旅館が定つたに就て、四条の方では余り遠方だと思つて、成る丈け近く便宜の地に宿を取りたいと思つて、佐久といふ宿に替へました、乍併、其場合は一橋に懇意な人があるに就て、其れを頼つて来たので、敢て一橋の家来でも無かつたのであります、所謂浪人で、頻りに憂国の士
 - 第42巻 p.599 -ページ画像 
で、若し之を漢語でゝも云ふと、慷慨悲歌の人と謂ふやうな勢で頻りに国事を談ずるを唯一の楽みとして、或は藩士の有力なる人を訪問し時に余計な事を騒いで歩いたのであります、夫が転じて、一橋の家来にならねばならぬといふ必要を生じた、之も一時の窮迫から起つたので、夫は何ういふ理由かといふと、関東に居りました時分に、前に述べました通り不揆を図る、其友達の二・三の或人が、江戸に於て捕縛された、其捕縛は不揆の為では無かつたけれども、私共が京都に迷つて来て、送つてやつた手紙を持ちつゝ捕縛された為に、私と喜作と申す両人が家を出たのでありますが、両人の身の上に嫌疑を受けて、為に幕府から何も直接な罪科は無いけれども、甚だ幕府に対して不穏当なる注意人物といふことに相成つたのであります。
 其頃一橋の政治上に筆頭平岡円四郎といふ人と其前から至つて懇親であつたもので、一橋へ対して幕府の方から、浪人の渋沢といふものが一橋を頼つて居るが、其方で召抱へでもした人かといふ尋が来た、其事は私共直接に承知せぬが、平岡氏から聞きました、文久三年の翌年元治元年正月末でありませうか、一月許り京都に憂士として頻りに慷慨悲憤を洩して居ると、中々夫こそ一身の動くことも出来ないやうな窮迫な立場に至りました、玆に初めて大に一身を変化して、一橋の家来とならなければならぬ、然らざれば浪人として、事に依れば死に就く程の窮地に陥ります、遂に種々熟慮の末に、どうも今謂はれ無く身を切つて見た所が、其人一人の為政治改革が出来る訳でも無い、又腹を切るのは一策ではあるけれども、之は余り褒めた話で無い、夫より幾らか一身を粉にしたならば、世に功を著すことが出来るであらう折角家を去つて、国家の為に尽さうとした以上は、唯右様の事をするよりは、是迄の暴戻なる考へを打捨てゝ、先づ賢君を扶けて、其人の政治を庇護して、幾らか効力を表すやうに致したいと、玆に初めて、先づ頗る火急な変化をした訳でありますけれども、百姓が政治家の位置に身体を変へた、兎に角一橋の家来と相成つたといふことになります、夫が丁度元治元年の二月の事であります、之も京都に於ける私の行動、一橋の家来となりましてから、ヘボ乍らも政治家の位置に立つた積りであります、至つて卑官ではありますが、自分を知つてくれる人と屡々説を考案して、遂に所謂歩兵を組立てるといふ考案を立てゝ一橋の領分を巡回して、百姓の子弟の二男・三男を募集して、歩兵を募集致しましたなどは、最も私の一橋家に奉公して、洋式体操を十分に行り得るやうに着手した仕方であります、続いて地方の領分を廻りまして、其地方の様子を見ると同時に、聊か自分も経済観念があつたかも知れませぬが、今思ふと余程笑ふに堪へない次第でありますけれどもいきなり考へを起したのは、播州に木綿を産出する所で、此木綿を大阪へ持つて来て、播州の農家の人々が売りますのを、是に依つて紙幣を発行して、其紙幣に依つて木綿の製造を増させると藩の利益も大に生ずるし、経済を助ける、又備中には古い岩が多くて、硝石が其時分は土から分析して採れますが、夫が為に一の事業経営になるとして、然ういふ考へを自分が起しましたが、硝石の事などは一寸今思つても分りませぬが、誰からか勧められたやうに思ひます、兎に角行政
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官の位置に、小い官乍ら立入りましたから、其様なことに力を入れて当時幕府対諸藩との関係、幕府が朝廷に対する関係が、段々日を逐つて困難になつて来る、夫に対して注意を、一橋に於ける要路の人に、我力の及ぶ限りは入れましたけれども、自分等の思ふ程に、上級の人は応じてくれませぬ、よしや一橋が応じても、幕府が応じてくれませぬから、日を逐ふて幕府が日に非なりといふ有様で、一橋家は幕府に日に擯斥されて居るやうな、明日を保たんやうな有様であります、如何にも其説は可いけれども、幕府の嫌疑を受けて擯斥せられて仕舞ふから、寧ろ廃めた方が好いといふやうな事が大分ある、例へば武田耕雲斎の一統が、敦賀から京都に出て来やうとする、之を防ぎ、彼等は一橋の軍門に降伏した、兎に角彼等は乱民でも無ければ、其儘幕府に引渡すのは宜しくないといふことを、主張しましたけれども、其当時其説が通らぬ為に、一橋は泪を呑んで武田なり藤田なりといふ人々を敦賀で三百幾人屠腹させました、中には打首になつた人もございます右様な事で、一橋が如何に思つても、幕府の政治を改良することは出来ない為に、屡々政変が移変つて、何うも幕政地に落つといふやうな有様に相成つた、此間に一橋内では、愚説も多少採用されるやうな有様であつたから、喜んで先づ何うぞ此有様に依つて挽回したいと苦心して居りましたが、一橋十四代の将軍が大阪に於て死なれた、夫は慶応二年七月であります、丁度今申上ましたのは、元治元年から翌年の慶応元年ですから、三年目である、聊か一橋に於て自己の職務も進め得るやうになつたと思ひますと、今申上げたやうな又一の将軍薨去に就て、大なる変化を惹起しました、遂に他に立つ人が無くて、一橋家が宗家の統を継ぐといふことに相成つた、此時私共は甚く憂ひて、殊に私は絶対に夫は可かぬと思つて、実際には君公にも御諌めを申上げんとしたが、丁度大阪に行つて御座るので、其頃には無理にも願へば御目に懸る位置に上つて居りましたが、敢て近臣といふやうな位置には進んで居りませぬから、将来の利害に就て、膝を交へて相談に与るといふやうなことはありませぬから、十分な意見を提出することは出来ませぬ、其時分に専ら謀臣として任じたのが、原市之進といふ人であります、是に就て頻りに統を継ぐことの間違であるといふことを建議致しましたが、其説は到頭成らずに、遂に幕府の相続をするといふことに相成つた、余儀無く私共は、一橋から連れられて幕臣に相成つたのであります、是位間違つた話は無いので、日本が何うも大変だと思つて、階級制度が可けないから之を倒さなければ可かぬといふやうなことで、百姓を捨てるといふ観念であつた、其観念で出掛けた者が事に窮して一橋が名君であるといふので、一橋の家来になつた、所が其一橋が、私から云へば不幸にも、将軍になつた、其将軍に連れられて幕臣になる、丸で全く反対な有様に変化して参りました、殊に此時に自身の考へは、到底之は世に無き者といふ位に覚悟を定めざるを得ぬ位になりました、或は大阪に参つたり、又京都に来たり、其間を屡屡往来しましたが、丁度夫は一橋に奉公して数年を経た後で、今思つて見ると二十七の年であります、慶応二年の夏頃である。
 何うも外にもはや策が尽きまして、一橋を辞して復、元の浪人にな
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らうとした所が、唯突飛な思案なら出来ますけれども、計画的な事を為すといふことは、何も道が無いし、然ればとて此儘居れば、倒れるやうな感じが致しました、詰り自分の頭初の考へとは全く反対して仕舞ひました、如何にせんかといふ時、欧羅巴行を命ぜられた、慶喜公のズツト後の弟で、水戸の公子で御ゐでになつたので、之は矢張り清水・田安・一橋といふ三卿の一家の方を相続されて居つた人で、ナポレオン三世が仏蘭西に於て博覧会を催されて、其博覧会に大使といふやうな位置で派遣されるといふやうなことになつた、其公使の用事を仕舞つて後は、未だ極く少年の人でありますから、仏蘭西に於て数年短くても五年位留学して、然うして学問を修めて、欧羅巴式人間にして帰るやうにさせたいといふ為に、民部公子が海外に派遣された、其随行員を申付けられた、但し外交関係は、江戸の奉行其他の人が命ぜられて行くので、京都で命ぜられたのは、民部公子につくので、長く留学す可き位置の数名は、医者で高松凌雲、俗吏では私、夫から水戸から随ひて居られた数名の人、七人が命ぜられました、其他法律家では木村某等総体で十余人ありました、私一身では、殆ど再生の恩を蒙つたやうな思をした、今も其場合を記憶して止まぬのであります、何故なれば、到底凝つとして居られぬといふので、殆ど今や死ぬといふ窮地に陥つて居つた時に変化して、海外旅行といふことに依つて、先づ是に依つて死んだ気になつて、海外で修業して来たら好からう、但し未だ此時、攘夷論者は全く純然たる開国主義者にはならない、又攘夷といふのは何ういふ意味から躊躇したかといふと、丁度今田島博士が道徳経済の一論を叮嚀に御述べ下さいましたが、私共欧羅巴に対して、其時の観念は、経済といふ方には勝れて居つたには相違ないが、物質文明は頗る上進した国柄には相違ないけれども、道徳といふものは仁義といふことは無い、所謂弱肉強食で勝れた者が富を得る、劣つた者は倒れる、斯ういふ国風だと想つて居りました、夫で、彼等は縦令何事が進んで居つても、之を野蛮だと思つて、道徳を専らにする国が真正な華である、彼等は夷である、華夷の別は玆に在りといふ観念を玆に持つて居つた、其初めの攘夷といふ一点張りの時よりは、数年の間海外の事情に多少通じかゝつたから、昔の如く欧羅巴人を見ると直ぐ様切るといふやうな心は止みましたけれども、前に申しました、欧羅巴人は真正な道理至極な道徳経済一致の国民である、国風であるといふことは、夫は教へる方の学問は然うでなかつた、敢て私許りが然うで無いとは云へなかつたのであります。
 其時分例へば吾々の文学儒者側からは、藤森□□《(弘庵)》の外交時論を記いて頻りに海外の事を論じました、又広庭□□が□□論といふものを記いて外国の事情を書きました、大橋□□《(訥庵)》が西洋の事を細かに論じて、仁義を知らざるを論じたもので、甚敷は西洋は仁義道徳は全く離れた国民であるといふて居る、夫れを私共は金科玉条として読んだから、智識は勝れて居るが仁義道徳の観念は無いと感じて居つた、去乍ら、例へば蒸気船の構造と謂ひ、迚も海外に接触して此事情を詳にしなければ、到底孔孟の道徳丈けでは、今日の世は何うもならぬといふ事で民部公子の随行を命ぜられたのが慶応三《(二)》年二《(十二)》月のことである、即ち京
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都を其時に離れた、丁度文久三年の十一月に京都に参つて、慶応三《二)》年二《(十二)》月に京都を去つて出発する迄、今の如き有様で、或は浪人、或は役人、其役人も一橋の役人、若くは幕府の役人で経過しましたから、京都に居る間の種々な断片の話もございます、逸話といふ程の話はありませぬが、縮尻話は沢山ございます、乍併夫は今日必要がありませぬから、又いつかの時に廻すことに致しませう。
 仏蘭西に参りました後に、博覧会を仕舞ふと、他の各国を、民部公子が締盟国を廻らなければならぬ、其伴をする、夫が殆ど其年の一杯の仕事で、瑞西・和蘭・白耳義へ参りまして、一度仏蘭西に帰つて来て、更に伊太利に行き、又伊太利を旅行して帰つて来て、英吉利に行き、英吉利の方面を終つて帰つて来たのが、慶応三年の十二月末で、是から明治元年即ち慶応四年は学問に専心するといふ場合に相成ると此時は既に幕府は倒れたといふ変化に出遭ふた、私は京都の事情を大略は知つて居つたが、此変化が生ずるであらうといふことは、青年乍らも幾らか他の幕府の役人よりは能く知つて居つた、奈何となれば、薩摩や長州其他の事情が、幕府の方では分らなかつたが、分る丈けの智恵が無かつた、私も智恵があつたのではありませぬが、幸に浪人の地位に居つた事もありまして、之は所謂天子を戴き、幕府を倒すといふことは、諸藩の行動に出づるに相違ない、未だ其時は長州と薩摩が一致しなかつた、文久三年八月十八日堺御門の騒動も、夫は薩摩と長州と一致せぬからである、其薩摩は会津藩と一致した、其会津藩は即ち幕府である、其翌年の元治元年七月十九日の蛤御門の騒動は、夫は長州が仕返しをしたので、夫は会津が力に依つて退けましたが、斯の如き有様で、幕府は小康を保つたのでありますが、若し之が強藩が一致して、幕府に向ふ場合になれば、御老中政治の諸藩が、皆是に逡巡して、是に刃向ふ力の無いことは、鏡に懸けて見るより明かである、左すれば幕府の抵抗は、実力は持たぬから、廃滅するは明かである、で、将軍になることは可かぬといふて、私は一橋家で主張しましたけれども、之は行れぬのでありますが、青年の至つて卑官の私ではあつたが、之は必ず一両年の間に、国の政変は殆ど予期して居つたのであります、果して慶応四年、即ち明治と改まつた正月三日に、伏見鳥羽の騒動があつて、其前から慶応三年の初めから、薩長が一致して、芸州が応援して、諸藩の内にも、甚しきは越前・備州などが是に賛同したのを知らずに、未だ徳川の御老中の命令が達するものと心得違ひをして居つたから、慶喜公も堪まらなくなつて、老中より早く知られたから、余儀無く京都に居つてはならぬと大阪に引上げた、併し多数から要せられて、鳥羽伏見の騒乱を起した、一時慶喜公も弁解もしました、例へば兵を率ゐて伏見鳥羽に戦端を開いたのは全く千慮の一失とも申上げて宜からうと思ひますが、之は他に要せられたのであります斯かることは欧羅巴に居つたら分らぬ筈であるが、必ず変乱が起るといふことを予知しましたから、幕府が倒れて慶喜公は江戸に引上げ、有栖川征討宮が下られるといふやうな有様でありましたが、当時私共は、民部公子を擁して仏蘭西に留まつて、切めては学問を修めて、何か一の相当な課目を修めて得る所があつて、帰つて何等かの方面に働
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かう、其時分の心は民部様を軍人に仕立て、自分は経済上の学問を微力乍ら修めて帰らうとして、頻りに留学を企図して居りましたが、仏蘭西其他の国々の様子を見ると、初めに信じて居つたのは何うも間違であると考へたのである、自分の智恵が足らぬので、今日の如く哲学上の事を何等知るべき筈はありませぬ、然う云ふ方面から一向智識が得られなかつたけれども、併し唯不道理な、智識・富だけで此国を守るといふ訳では無い、欧羅巴に相当な先づ支那で云へば仁義道徳を修め行れる国風である、といふことを多少考へて見ました、又然う思はざるを得ないやうな有様で、大に物質文明の実に劣つて居るのを見て之は大変だ、此姿では日本は迚も可かぬといふので、寧ろ政治とか云ふ方には、知らぬ勝ちに目が付かなかつたが、実業上に就ては多少趣味を有つて居りましたから、其方の関係を知つて国に帰つたならば、此等の方面には力を尽して見やうと感じました、況や前に申したやうな訳で百姓が浪人になり、浪人が変じて一橋の家来になり、又更に幕府に転じて海外を旅行したといふやうな有様で、其幕府が倒れて、而して一橋公が逆賊といふやうな有様に至つて、幽閉同様な位置にござるといふことを聞いて、もはや政治上名誉心の起る可き筈は無い、未だ年は三十にならぬ身体であります、所謂活気は昔日とチツトモ変りませぬけれども、四・五年政治界の変化の苦心は、殆ど私をして真実に匙を投げしめたのでございます、未だ乍併、海外に居る時は、其観念は左迄強くなかつた、前に申す通り、何うか止まつて、多少は学問を修めて帰りたいといふ一念で、縦令政変の為に幕府が倒れても、民部様を御留め申すことが出来ると思ひました、未だ聊かの金が残つて居つたから、節約すれば数年の留学をしやうと思つて居りました、所が思ひきや、慶喜公の兄様、中納言様が早く死なれた、御子さんがあるに拘らず、又水戸の藩が藩の党派の争からして、其御子さんを相続させないで、弟の反対派の人を相続させるといふ藩論になつて、民部様は仏蘭西から連帰られて、為に私の希望は其点に於ても失敗しまして、帰りましたのが慶応四年十一月の末、即ち明治元年幕府は全く倒れ、自分の主人たる慶喜公は一旦水戸に行つて再び転じて駿河に参り或るお寺に実に情け無い御有様で蟄居して居る所へ帰つて来ました、世の中の変化といふものは、前々から人の一身の昔は斯うであつたと思返す場合は誰にも屡々ありますが、一昨年の春仏蘭西に向つて立ちました時は、兎に角プリンスプリンスといはれて、皇族が海外に派遣されるといふやうな有様で、他の藩中から使を以て行を送りました人もある、幕府残らず相競ふて民部公子を送つたのであります、其他所謂晏子の御者のやうな人も意気揚々として出掛けて行つたが其翌々年十一月横浜に帰つて来た時は、民部公子すら実に訪ふ人が無く、水戸から唯二・三人の人が迎へに来て、吾々の如きは甚しきは横浜の船場に着くと、何者かと調べられて、斯様な者ですといふ御届をして、夫で宜しい通れと云はれた位であります。夫ですから、若い時分は憤慨せざるを得ぬ、実に桑田変じて海となるといふのは斯の如き有様かと、実に暗涙を催す程の有様であつたのであります、夫から軈て東京の用事を仕舞ひまして駿河に帰り駿河の宝台院といふ寺で主君に御目にかゝ
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りまして、此所で始めて三年許り一橋に御奉公して居る内に一年に三度か四度でありますけれども拝謁することが出来ましたが、将軍となられてからは吾々が拝謁することが出来ない、殊に吾々は海外へ二年許りも居りましたから丁度三年程御目にかゝりませぬが、其見すぼらしい有様で御目にかゝつて聊か鬱憤を洩したといふやうなことで、私は政治といふ観念を全く断念したのは其時でございます。
 夫で自分は家へ帰つて、以前の百姓をするより仕方が無い、慷慨悲歌の士も時節柄可けない、明治政府に仕へる事も出来ないと思ふと、他に身体の遣り場が無い、玆に始めて、十分な学んだ事は無いけれども、幾らか欧羅巴式事業界に力を尽し、商工業に働いて、之を天職として尽して見たいといふ考へを起しました、帰る早々駿河に参つて、慶喜公に御目に掛かると共に、駿河に於て一の商工業を企てて、夫れに依つて一身を夫れに投じ、聊か乍ら其れが国に報ゆることが出来ましたならばと思ふ心を以て、経営致しかけました、駿河で官民合同の合本会社のやうなものを作りました、其時分商法会社と名けました、然うして駿河の静岡藩の主な資本を主として、夫に静岡町の人々から資本を出させて、官民合同の商会を造つて、是に依つて、自身は幾らか合本組織の事業を起して見たいといふ考へを持つて見たのであります、併し其事は纏りまして、十ケ月許り経営しましたけれども、遂に又再び、明治政府から大蔵省へ勤めなければならぬやうになつた、但し夫は私の本志で無いから、是非辞退して御免を蒙らうと思ひましたが、朝廷から召されたのを駿河で拒むといふことは出来ない、自己が行つて御免を蒙つて来るは好いが、藩から夫れを断ることは出来ぬといふので、余儀無く自分で行かなければならぬといふことになつた、自分で行つて申訳をして帰るやうにしなければならぬといふので、明治二年十一月、東京に出て来て、そこで一旦拝命しましたけれども、其事を御免蒙つて帰らうと思つて、大隈さんに始めて御目にかゝることが出来ました、之は大隈さんに説諭されて丁度役人を三・四・五・六、殆ど四年許りの間、大蔵省の役人を勤めました、其時に、或は思返して役人になつたのは、商工業になるには幸ひ大蔵省であるから、大蔵省に務めるのは、即ち経済界の初歩の経営といふても宜しいといふ考へから、頻りに或は銀行の組織をするとか、或は貨幣の制度を直すとか、或は予算を立てるといふやうなことを、在官中に努めたことは、甚だ申すと大蔵省を学校として、自分が後に商工業に働かうと思う地盤を造つたと申しても、過言では無からうと思ふ、政府に対して後暗い勤め方をしたと云はれるか知れませぬが、若し夫が国家の為に公益を得たなれば、後暗い所で無く、甚だ後明るい勤め方をしたと云はれるかも知れない、自分は、明治六年に私を深く引立てゝくれた井上公爵が大蔵省を退きましたに就て、自分も一旦辞さうと考へて居つたのだから、到頭井上さんと共に行動を決しなければならぬと思つて私は其時内閣の人即ち太政官の人と喧嘩したのでは無いけれども、何でも切に辞しまして、商売人になつたといふのが、即ち明治六年の五月であります、丁度其年の八月に銀行の役人となつた、私が家を出て慷慨家となり、変じて幕府の役人に迄なつて、夫から続いて政府の役
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人になつて、商工業者に相成るといふ経歴は左様な訳であります。
 銀行者になる時に、私自身に祈念する、然う深く覚悟を定めたといふ程の訳ではありませなんだけれども、之も或人から云はれて、自然覚悟を定めざるを得ぬ境遇を、私は来したのである、夫は大蔵省に居ります時分に、之も死なれて大分年月を経ましたが、人様は記憶を去つたでありませうけれども、名判事と云はれました玉乃世履と云ふ人があります、丁度其人は岩国の人で、民部省の方に居つた、相並んで追々に幾らか良吏と云はれ、先生も私を信用され、私も先生を信じて居りました、先生は法律家で、私は経済家でありましたが、至つて懇意でありまして、何事も能く謀り合ひ、事に依ると説が違つて大に論じましたけれども、決して相排擠するのでは無い、先生は、洵に私の辞職することを其所迄の関係を知らぬものですから、甚どく惜しんでくれて、切実に私を諌めてくれた、要するに何うも商売人といふものは、事業が堅実で無い、お前一人正当な道理を以て経営せんと思ふけれども、他が然うで無い以上は、遂に朱に交れば赤くなるから、お前は正義を以て国家を救ふといふ心を持つて居つても、今の商売人は後暗い汚ない行動があるやうな人間になれば、遂にお前の常に唱導する事に反対するやうになるではないかと、玉乃君は切実に諌めてくれました、或は一応の理窟と思つて私も躊躇したのでありますけれども、再び考へて、夫は玉乃の云ふことは、洵に一を知つて二を知らぬことである、商工業者が左様に卑劣な者と彼が思つて居るのは、今現在の人である、現在の人は卑劣な事は、玉乃の云はれるやうに相違ないが此商工業者が、此社会を完全に強くすることは出来ない、社会を富ますといふことは出来ない、洵に微力烏滸がましい申分ではあるが、自己が商工業者になつた以上は、其商工業の人を立派な者にして、玉乃に感心せしめて三拝九拝せしめるやうにしたい、之が出来なければ日本を進めることは出来ない、道理を以て商工業を進めることは出来ない、国家の富を進めることは出来ない、道徳と経済とは一致するものであると以前から私は思つて居る、玆に深き観念を以て玉乃に答へて洵に忠告してくれるのは親切で忝けないけれども、貴君は一を知つて二を知らぬ、商売人は卑屈である、野卑であるが、夫をお前が満足することが出来ないならば、其商売人を野卑で無く、卑屈で無くしなければならぬ、然うするには、請ふ隗より始めよで、私が其中に投じて行つて御覧に入れる、夫で可けないならば倒れて後止むのである、御覧なさい、数年の後には思う云ふやうな人間にして見せる、夫が出来ぬ位なら倒れて後止むといふ覚悟を以て行るから、長い眼を持つて御覧なさいといつたのは、確に其時で、玆に始めて論語を以て商売をしやうといふ覚悟を定めたのであります、其時は明治六年の六月で無かつたか知らぬが、五月に職を辞して、五月の三日の日に辞表を出して二十六日に許可を得ましたが、夫から八月一日に、第一銀行といふものが許可を得たのでございます、兎に角其頃、今のやうな考へで心を定めて、微力乍ら実業界に従事したのでございます。
 そこで私の心に期する所は、最初此の東洋哲学、即ち支那の孔孟の教へが、洵に人生に於ては先づ以て誤が無い、但し孟子の説などに就
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ては、日本の国体に就て考へると、全然同意することの出来ない点もありますが、唯国を治め天下を平にするとか、或は友に交るとか、己を守るといふやうな点から、私は欠点が無いと信じ、而して夫が完全であるが、日本でも其事は相当に行はれて居るけれども、物質文明の事は何も進んでゐない、進んでゐない所で無い、殆ど物を知らない、富を得るといふことは更に知らぬ、資本を程好く合せ、使ふといふことは幾んど無い、論語で商売をすると口では云ふて居つても、何うしても其方法だけは出来ない、之は合本組織にするより外仕方が無いと覚悟しました、夫から銀行制度が布かれて、銀行者になる事を自ら許しましたから、是に依つて会社を組織し、追々拡張して、唯其事業の大きくなる許りで無く、其道理に依つて物質文明を進めたい、同時に人格を是非進めて行くやうにしたい、即ち道徳と経済と一致せしめるといふことは必ず出来ることであらう、先刻田島さんが、道徳たらざれば真の経済で無い、経済といふものは何うしても道徳に依つて働かなければならぬといふ経済上の緻密な御講義は、実に私共は然ういふ方の素養がございませぬから、更に反覆して商売人側から云へば斯うでなければならぬといふ対照した説明を、玆に申上げることは出来ない、私は唯其感想的しか述べられぬのは甚だ遺憾に存じます。
 私共は斯ういふやうに考へます、商売人といふものは、決して人を富まさなければ自分は富むもので無い、能く不断に商売は戦争と謂ふことを、雑誌や新聞で云ひますが、雑誌や新聞記者が私共の所に来ると、頻りに其事を申して居るが、私は是をいつでも言葉咎めをする、戦争と心得て商売をしては可かぬぞ、商売を戦争といふのは、取引所へ行つてやることで、あれば博打で、あれを商売と見たなれば全く可かぬ、あれは右を取れば左が無くなる、左が得をすれば右が損をするから、戦争と似て居るけれども、真の商売は然うで無い、売る者が利して買ふ者が利する、生産者は売るといふ為に損をする筈は無い、仲次になつた者が費消者に売るに就て、仲次も其が為に利益し、費消者も買つて利益する、従つて富を増すのである、然れば道徳と経済と一致するのである、若し不道徳をやつたなれば、経済は進んで行くものでは無い、唯単に積善の家に余慶ありといふやうな、漠然たる宗教的のことで、経済といふものは進むものでは無い、取引所の事は之は景気を買ふのである、景気が好くなれば株が上る、例へば露西亜に革命が起ると、何が高くなるとか廉くなるといふことで、損をするものがあれば儲けた者もあるけれども、夫は決して真正の道理正しい商売では無い、真の経済は然ういふ訳のものでは無い、売る人も買ふ人も生産者も消費者も共に利益を得る、故に曰く経済と道徳とは一致する、然るに今日の如く、費消の原理と生産の原理との学問的の御説は、更に自己の説を強めるやうになつて深く喜びます、右様な次第でありますから、私は経済と道徳と是非一致させなければならぬといふことを今も猶思つて居ります、而して今日から思ふと、玉乃君が偉い勢で、役人を廃めて商売人になるなと、殆ど罵詈的に云はれたことは、私に強い反抗心を起させたので、是非自己を誤らぬやうにしたいと考へまして、論語と算盤といふ事を云ひ出したのは、殆ど明治六・七年の頃
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からの事であります、而して物質文明を進めなければならぬといふこに就て、決して論語の方法では満足しられぬものだ、之は孔子が六芸を論じて、礼・楽・射・御・書・数を論じて、文明になつたかも知れませぬが、未だ其時分は物質文明が開けて居りませぬ、是に依つて今日の富を満足することは出来ないといふことは、私共は能く理解して居る、乍併、其富を進めるには、如何に欧羅巴式に依つても、前に申す精神的正義は何うしても道徳に依らなければならぬと、昔日思つて居ることは、今日決して思返すやうなことは無い、といふことを申上げるのであります。
 右のやうな考へから、微力乍ら、実業は何うしても道徳観念からで無ければ真正に発達するものでは無い、完全の富を維持するもので無いといふことを自然述べたのであります、或人から斯んな事を聞く、夫は損徳が先きでは無いが、富まなければ何事をすることも出来ぬ、理窟は後で富は先きである、甚しきは弱の肉は強の食であるといふやうに、商売人の中には論ずる者もありますが、私は夫に反対説を述べるものであります、欧羅巴主義が田島君の道徳経済論に就て、右の細かいお説を立てたといふことは、私の最も喜ぶ所である、但し私は道徳上のみを以て、物質文明を呪ふものではありませぬ、昨年タゴールが参りまして、此人と話をしましたが、何うもお前の説は悪くすると哲学的から物質文明を呪ふ人になると云ひますと、彼も然うではないと云ひました、少しく偏するやうに思ひました、二・三回話をしました、夫と反対なのは、亜米利加から来たジヤツチ・ゲリーと云ふ人は物質的の人でありますが、此人は正しい正義が無ければ、決して成立つものでは無い、といふことを口を極めて論じて居りました、故にタゴールは物質文明を呪ふが、ジヤツチ・ゲリーは物質文明の人でありますが道徳を呪ふ人ではありませぬ、斯の如く考へ来ると、現在に現れた欧羅巴の戦乱は、実に情け無い事と思ひますから、極く簡短に申しますと、昔京都に来た時の思出が、復た再び八十年に垂とする此私に繰返されて、少し攘夷論者になりたいといふ気が起る、今となつては、迚も暴挙を企てるといふた所が、此老人に参加してくれては無いから実に六ケしい話でありますが、実に嘆かはしいやうであります、五十年前の昔だと、も少し道理正しく、露西亜の如く攘夷の覚悟を持たなければならぬといふ気がします、英吉利・仏蘭西辺りは、私が誤つた文明である、更に其後亜米利加に行つても然う思つた、其思出を今日迄継続して行かなければならぬ、併し其隣りの独逸は何である、斯の如く弱肉強食の行はれる独逸が、欧羅巴の最も貴ぶべき国であるとすれば、私の二十四・五の東洋主義に依つて、何うしても夷狄膺懲す可しといふたことは、左迄誤はしなかつたと思はなければならぬやうになつた、其時分間違ひだと自分で後悔したといふことを、今度間違つたと後悔した事を、再び此節は後悔するやうになつたやうであります、但し之は未だ論断する訳ではない、悪い事もあれば善い事もあるから、分析しなければならぬから、然ういきなり攘夷するのではありませぬが、或部分は昔の若い時分の攘夷論が誤つてゐないといふことを今日弁解する、二十四・五の当時の慷慨悲歌の士も満更無用で無
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かつたといふことを、今日五十年立つて申上られる、即ち独逸に対して一例を申さなければならぬが、私は道徳経済一致といふ主張は、前に申したやうな理由から論じ起して、縦令微力乍ら終始一貫した積りである、今日は経済の方の側は、昨年七十七を機会として、いつ迄も限り無く従事して居つては思慮の無い人間のやうに思ひましたが、僧天海といふ人は百二十六迄生きたと云ひますが、実は百八歳でありますが、夫迄私が生きるとしたなれば、七十七で止めるといふことは余り早過ぎるやうであるが、兎に角僧天海で無いから、私はいつ迄も勤む可き者で無いと考へまして、経済界の方を退きましたから、私の責任は全く退けましたが、乍併、御集りの皆様は、全く経済界から渋沢だけ一人が退いたから、夫だけ諸君の肩は重くなる、夫で既に、竜門社の側の方面は、田島博士の如き人から全く裏書をして下さつたのである、此裏書ある以上は、道徳経済が一緒になつた為に富が減ずる憂は万々ありませぬ、寧ろ増しますから十分御勉強下さらんことを希望して止みませぬ、全く京都の思出を申上げるのが第一の主でありますから、道徳経済の論に至つては児戯に類することを申上げて御清聴を煩しました。(拍手)
  ○右演説筆記冒頭ヨリ十三行目マデ原本ニハ栄一自筆ノ訂正加記アリ。
  ○右ニ栄一大蔵省辞職ノ月日ヲ述ブルモ正シクハ明治六年五月四日願出、十四日ノ聴許ナリ。本資料第三巻明治六年五月四日ノ条参照。
  ○尚、「明治六年八月一日、第一銀行といふものが許可を得た」トアレドモ第一国立銀行ノ本免状ヲ下付サレタルハ七月三十一日ニテ、八月一日ハ株主総会ノ開カレタル日ナリ。本資料第四巻「第一国立銀行」明治六年八月一日ノ条参照。


竜門雑誌 第三四八号・第四四―四七頁 大正六年五月 ○開会の辞(於関西竜門社第三回臨時集会) 法学士 明石照男君(DK420104k-0005)
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竜門雑誌  第三四八号・第四四―四七頁 大正六年五月
    ○開会の辞 (於関西竜門社第三回臨時集会)
                法学士 明石照男君
 本日は青淵先生の入洛を機として、京坂神に在留する竜門社の会員の臨時総会を開きました処、有力なる方々が斯く多数に御光臨下さいましたことは、私共発起人一同の非常に光栄と致す所でございます、御案内申上げました通りに、竜門社は渋沢男爵を中心として、商工業者の智徳を進め人格を高尚にするといふ団体でございますが、本日は会員外の来賓のお方も数多くあることでございますから、此機会に聊か竜門社の目的とする所を述べ、開会の言葉に換へたいと思ふのでございます。
 此の竜門社は、渋沢男爵の家の門下生、即ち渋沢家の書生部屋から呱々の声を挙げたのでありますが、夫が明治十八・九年ださうでございます、夫から其時は極少数のホンの学生の会合に過ぎなかつたのでありますが、段々と其人方が実業界の有力な方面にも手を延ばすやうになり、其他渋沢男爵に関係の人々も這入つて来るやうになり、又実業家でなくとも、学者とか或は教育家とかも之に加はるやうになつて今日は、会員の数が殆んど千人に近くなつて居ります、夫で其事業は何をして居るかと云ふに、元は、学生の会合でありましたから、討論会をやるとか、蒟蒻版の雑誌を出すとか云ふやうなことになつて居つ
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たのでありますが、今日では、毎月一回づゝ竜門雑誌と云ふものを発行し、又東京に於ては、春秋二回に大会を開き、又折々会員の集会を催し、又名士の講演を乞ふといふやうなことをやつて居るのであります、而して関西方面に於ても、会員の数は相当多数あり、凡そ五・六十名から七十名にも垂んとして居りますにも拘らず、吾々共の会合する機会は少なかつたのでございます、甚だ之を遺憾としまして、此地方に居りますものが、一昨年発起して、青淵先生の此方にお出でになつた場合などに一堂に集つて、互に懇親を重ね、又先生の高風に接しやうではないかと思ひ付きまして、一昨年は大阪で第一回、昨年は神戸で第二回を開きまして、今度で第三回目であります、かくして追々は適宜の機会に於て、定時に開くことにしたいと思ふのであります、夫で先程申しました通りに、竜門社の目的とする所は、実業家・商工業者の智徳を進め、人格を高尚にするといふのでありますが、左う云ふ風に唯目的を漠然と申せば、他にも斯う云ふ風な会合は多々ありませうが、此会の特徴とする所は、青淵先生の平素唱道せらるゝ所の主義に基いて居るといふ点であります、余り吾々共関係の者からして、渋沢男爵の主義を誇張して言ふのは、聊か自画自讚に陥る嫌ひがあるかも知れませぬが、併し乍ら、先生の年来唱道せらるゝ所のものは、論語で算盤も撥くといふこと、論語を以て商売をやる、大義名分に依つて商工業を営むといふこと、覇道でなくして王道を以て世の中を渡るといふ、此主義を以て、商工業経営の骨子として居らるゝのであります、実業界の会合は多くあり、又色々の事業をして居る会も少くないでせう、又会員の数に於ても、竜門社が及ばない所のものは数少くありませぬでせうが、併し乍ら、竜門社の此主義綱領は、此会の最も特長とする所でありまして、而かも之が即ち主義である綱領であると口で言ふ丈でなくて、青淵先生が多年唱道して以て其れを実行せられ――四十有余年間実業界に於て終始一貫実行せられて居る所の主義を我会の主義綱領としてやつて行くのが、本会の特長であります、余り手前味噌を列べるのも如何でありますが、丁度一昨夜大阪に於ける或宴会で、三十四銀行の頭取、大阪の銀行界の最も有力なる一人であります小山健三氏が、渋沢男爵を称揚せられた言葉を以て、先生の主義の一端を此処に述べたいと思ふのであります、小山翁は、先生が多年銀行界、金融事業なり又一般商工業の事業、又財政の方面にも、直接間接に貢献されたこと、及び明治の初年大蔵省の役人となつて、時の政府と意見が合はなかつた為めに、井上侯と二人大蔵省を退いて、民間の事業に従事せられて以来、我実業界の所有方面に巨腕を振はれてさうして我国商工業の基礎を築かれたといふことを、口を極めて称揚せられた、小山翁は、此四十有五年の間に、渋沢男爵は唯商工業の繁栄を期せられたのみならず、此繁栄を齎す所の道程、其主義とする所は他に異つて居つたといふことを言はれたのであります、是れが即ち先程も申しました通り、大義名分を以て商業を営む、論語で算盤を撥くと云ふのであります、当時明治六年頃は、殊に官尊民卑の弊が強くあつて、昔は士農工商と云つて、商工業者は最も社会の下層に居り、又世間からも卑しめられて居つたにも拘らず、何うも之では可かぬ、
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一国の本当の富強を期するには、斯くの如き弊風が続いては可けない此弊風を何とかして打破しなければ可けない、といふことからして、自ら実業界に身を投じて、さうして此商工業者の位置を高める目的を以てやられたのである、併し唯だ商工業者の位置を高めるといふことのみならず、高めるには高める所の事情がなくてはならぬ、唯だ自ら高うしても駄目である、内に信ずる所があつて始めて、其人の位置が高められるのであるから、商工業者の智徳を進め、又人格の向上を期せなければならぬといふので、論語を以て一貫して夫で商工業を営むといふ風に覚悟せられ、又今日迄其主義を実行せられたのであるといふことを、懇ろに小山翁の雄弁を以て説かれたのであります、丁度私が説かむと欲する所を、小山翁は極く明確なる言葉を以て、先生の今日迄の主義綱領を善く説明されたのであります、此主義綱領に依つて商工業を営むといふことは、申す迄もなく、何れの時、如何なる国に於ても、必要なことでありますが、殊に我国に於ては、今も尚痛切に其必要を感ずるのでありますから、今後此会の主義が益々盛んになつて、此主義の益々広く行はれんことを希望するのであります、今日御来会の諸君も、皆斯の如き主義の方々であつて、仮令当社の会員ではなくとも、此主義に依りて始終私共と御交際致して居る方が多いのでありますから、仮令会員外の各位も亦、吾々共と手を携へて、斯くの如き目的、斯くの如き主義を以て、吾国商工業の為めに尽し、かくして以て国家真正の富強を実現したいと希望するのであります、今日の小集会の意味も全く之に外ならぬのでありまして、幸ひ丁度青淵先生――我が竜門社の主義綱領の実現者と仰いで居ります先生の入洛を機として、此会を開いた訳であります、尚精しいことは、後程竜門社の社員として吾々が敬愛する所の田島先生からも、亦青淵先生御自身からもお話があることゝ思ひますから、充分お聴き取りを願ひます、又会食後には、青柳博士が最近欧米からお帰りになりまして、自ら欧米を視て考へられた所も、矢張、右に述べる如き主義でなくては可けない、誠心誠意を以て、さうして科学の研磨に従事しなければならないといふことを、お話し下されますから、どうぞ御清聴を願ひます、之を以て開会の辞と致します。