デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.640-658(DK420108k) ページ画像

大正7年4月14日(1918年)

是日、当社第五十九回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三五九号・第五九―六六頁 大正七年四月 ○本社春季総集会概況(DK420108k-0001)
第42巻 p.640-645 ページ画像

竜門雑誌 第三五九号・第五九―六六頁 大正七年四月
    ○本社春季総集会概況
 竜門社に於ては、四月十四日を卜し、飛鳥山なる曖依村荘に於て、第五十九回春季総集会を開きたり。今その概況を記さんに、時維れ桜花爛漫の好日和、朝まだきより参集せる会員引きも切らず、既に十一時頃には三百余名に達し、振鈴一振、講演場を開きて、幹事八十島親徳君開会を宜し、引続き大正六年度に於ける本社の事務及び会計報告をなしたり、即ち左の如し。
  大正六年度 竜門社社務及会計報告
社則第二十二条に依り、前年度の社務及会計の報告をなすこと、左の如し
    社務報告
一会員
 入社{特別会員 九名 通常会員 弐拾五名}合計参拾四名
 - 第42巻 p.641 -ページ画像 
 退社{特別会員 八名 通常会員 拾六名}合計弐拾四名
 外に通常会員より特別会員へ編入者 壱名
      名誉会員 壱名
 現在会員{特別会員 四百拾参名}合計九百七拾四名
      通常会員 五百六拾名
一現在役員
 評議員会長     壱名
 評議員(会長幹事共)弐拾名
 幹事        弐名
一集会
 総集会       弐回
 評議員会      参回
一雑誌発行部数
 毎月一回   平均 約壱〇八五部
 年計        壱参〇弐〇部
    会計報告
      収支計算
        収入の部
 一金千九百参拾四円八拾六銭 配当金及利息
 一金弐千六拾七円九拾銭 会費収入
 一金六百五拾八円也 寄附金収入
   合計金四千六百六拾円七拾六銭
        支出の部
 一金千七百四拾九円四拾六銭 集会費
 一金千五百参拾円弐銭    印刷費
 一金九百弐拾四円也     俸給及諸給
 一金弐百七拾円四拾六銭   郵税及雑費
 一金参千五百九十九円拾七銭 論語年譜編纂費
  合計金八千七拾参円拾壱銭
 差引
  不足金参千四百拾弐円参拾五銭
            但積立金より塡補したり
      貨借対照表
        貸方の部
 一金参万九千百五拾壱円也    基本金
 一金壱万四千弐百七円六拾弐銭  積立金
 一金四千五百円也        借入金
 合計金五万七千八百五拾八円六拾弐銭
        借方の部
 一金五万五千九百参拾五円四拾銭  有価証券
    (内訳)
  一金四万参拾八円拾五銭    第一銀行株五百株(一株金八拾円七銭余ノ割)
  一金壱万五千円也       第一銀行新株五百株(一株金参
 - 第42巻 p.642 -ページ画像 
拾円ノ割)
  一金八百九拾七円弐拾五銭   四分利公債額面壱千円(額面ニ付八拾九円七拾弐銭余ノ割)
 一金五百九拾壱円拾壱銭     仮払金
 一金七拾壱円拾銭        什器
 一金千百八拾五円五拾壱銭    銀行預金
 一金七拾五円五拾銭       現金
  合計金五万七千八百五拾八円六拾弐銭
   備考
   本年度期間に於て基本金七百参拾八円弐拾銭を増加せり
   内訳
   金四百参拾八円弐拾銭      服部金太郎君より
   金参百円也           酒井正吉君より
                        寄付に依る
                           以上
 右了りて講演会に移りて、工学博士・薬学博士、高峰譲吉氏の「青淵先生をこがれ慕うて」と題する一場の演説あり、最後に青淵先生の講演ありて講演を了り、次いで園遊会に移り、生麦酒・煮込・燗酒・天麩羅・蕎麦・寿司・団子・甘酒等各模擬店の殷賑は、歳毎に財界の繁栄を語るに似たり。緑濃に花紅なる、彼方此方の樹蔭に旧を語り、新を談じ、友情綿々興の尽くるを知らず。折柄垣根一重を隔てたる飛鳥山公園には、数千百の花見客此処に一団、彼処に一塊、思ひ思ひの鬱晴らしは、百鬼夜行の態なきにあらねども、人生歓楽の極真に是れ活ける余興にして、我が園遊会に一段の興を添へぬ。此方の余興場にては、若松若太夫の説教節、天玉斎天竜一座の西洋手品あり。日頃の労苦を飛鳥山の風雲に一洗し、やがて帰途に就けるは日脚西山に傾ける頃なりき。当日高峰博士、青淵先生講演の大要は左の如くなり。
   ○講演筆記後掲。
当日来会者諸君は左の如し
△来賓
 青淵先生  工学博士 薬学博士 高峰譲吉君
△特別会員(イロハ順)
 石井健吾君   一森彦楠君   伊藤幸次郎君
 伊藤新作君   伊藤登喜造君  同家族一名
 原簡亮君    原胤昭君    西田敬止君
 星野錫君    星野辰雄君   穂積男爵
 同令夫人    穂積重遠君   同令夫人
 堀江伝三郎君  堀井宗一君   土肥修策君
 戸村理順君   豊田春雄君   利倉久吉君
 大原春次郎君  沖馬吉君    大葉久吉君
 尾崎哲之助君  脇田勇君    神谷義雄君
 川田鉄弥君   神谷十松君   川島良太郎君
 横山徳次郎君  吉野浜吉君   横田清兵衛君
 吉池慶正君   横山正吉君   横田好実君
 - 第42巻 p.643 -ページ画像 
 米倉嘉兵衛君  高根義人君   多賀義三郎君
 高松豊吉君   田中徳義君   滝沢吉三郎君
 高橋波太郎君  竹山純平君   田中元三郎君
 高橋金四郎君  田中太郎君   田辺淳吉君
 竹田政智君   曾和嘉一郎君  坪谷善四郎君
 永野譲君    中村鎌雄君   植村金吾君
 内山吉五郎君  野口半之助君  久万俊泰君
 山田敏行君   山下亀三郎君  矢野由次郎君
 山口荘吉君   山本久三郎君  矢木久太郎君
 八十島親徳君  町田豊千代君  松平隼太郎君
 増田明六君   同令息     古田錞治郎君
 昆田文二郎君  越野三蔵君   江藤厚作君
 手塚猛昌君   浅野泰治郎君  明石照男君
 同令夫人    安達憲忠君   斎藤艮八君
 坂田耐二君   阪谷男爵令夫人 阪谷希一君
 佐藤正美君   斎藤精一君   佐々木清麿君
 同家族三名   佐々木勇之助君 佐田左一君
 斎藤峰三郎君  同家族三名   斎藤章達君
 木村雄次君   宮下清彦君   渋沢治太郎君
 清水釘吉君   芝崎確次郎君  渋沢元治君令息
 渋沢武之助君  同令夫人    渋沢正雄君
 同令夫人    渋沢秀雄君   清水一雄君
 白石喜太郎君  島原鉄三君   白石元治郎君
 清水揚之助君  白石甚兵衛君  肥田英一君
 平岡利三郎君  平田初熊君   弘岡幸作君
 諸井時三郎君  森岡文三郎君  桃井可雄君
 関直之君    鈴木紋次郎君  鈴木善蔵君
 鈴木金平君   鈴木善助君
△通常会員(イロハ順)
 伊藤美太郎君  石井与四郎君  家田政蔵君
 石田豊太郎君  市川武弘君   家城広助君
 伊沢鉦太郎君  井田善之助君  井戸川義賢君
 磯村十郎君   猪狩庄平君   磯野孝太郎君
 林広太郎君   蓮沼門三君   原久治君
 早川素彦君   馬場鯛次郎君  橋本武昭君
 林弥一郎君   春名喜四郎君  西正名君
 西尾右三郎君  堀内歌次郎君  友田政五郎君
 友野茂三郎君  東郷一気君   都丸隆君
 大島勝次郎君  奥川蔵太郎君  岡田能吉君
 大井幾太郎君  太田資順君   岡崎寿市君
 大畑敏太郎君  岡田少三郎君  小田島時之助君
 岡崎惣吉君   織田磯三郎君  小倉槌之助君
 織田槙太郎君  落合太一郎君  渡辺福松君
 金子喜代太君  神谷新吾君   河崎覚太郎君
 - 第42巻 p.644 -ページ画像 
 上倉勘太郎君  兼子保蔵君   河見卯助君
 河村桃三君   金沢弘君    金井滋直君
 川口一君    鹿沼良三君   神谷祐一郎君
 吉岡慎一郎君  吉岡仁助君   高橋俊太郎君
 横尾芳次郎君  高山仲助君   俵田勝彦君
 田中鉄蔵君   田島昌次君   高橋森蔵君
 玉江素義君   武沢顕二郎君  武沢与四郎君
 高橋毅君    田子与作君   曾我部直之進君
 田淵団蔵君   竹下虎之助君  永田市左衛門君
 塚本孝二郎君  蔦岡正雄君   成田喜次君
 中西善次郎君  長井喜平君   村上外次郎君
 中村新太郎君  村山革太郎君  臼井俊三君
 生方裕之君   梅沢鐘三郎君  野口米次郎君
 内海盛重君   上田彦次郎君  野村茂君
 野村鍈太郎君  野島秀吉君   国枝寿賀次君
 久保田録太郎君 熊沢秀太郎君  黒川武雄君
 山村米次郎君  山口虎之助君  山本宜紀君
 山田直次郎君  八木仙吉君   矢崎邦次君
 松本幾次郎君  松園忠雄君   松村五三郎君
 松田兼吉君   松村修一郎君  藤巻太一君
 福本寛君    古田元清君   藤井信二君
 福島三郎四郎君 福田盛作君   古作勝之助君
 河野間瀬次君  小林徳太郎君  小島鍵三郎君
 小林茂一郎君  小林梅太郎君  小林武之助君
 小平省三君   江原全秀君   有田秀造君
 赤木淳一郎君  綾部喜作君   荒川虎男君
 斎藤亀之丞君  佐々木道雄君  座田重孝君
 斎藤真容君   斎藤又吉君   猿渡栄治君
 北脇友吉君   木村金太郎君  湯浅泉君
 御崎教一君   塩川薫君    新庄正男君
 清水景吉君   清水松之助君  平塚貞治君
 昼間道松君   鈴木源次君   鈴木順一君
 住吉慎一郎君  鈴木富次郎君  鈴木勝君
 鈴木正寿君   須田武雄君
 因に当日は前記会員諸君の外、第一銀行支店次席者会議の為め上京せられたる本社会員
 田中猛君    飯塚八平君   大橋悌君
 国松半三郎君  岸上光君
及び
 竹内善造君   甘泉豊郎君
も臨席せられたり
 尚ほ当日総集会に対し、会員諸君其他より左の如く寄附を辱うせり依て玆に厚く諸君の御芳志を感謝し、併せて之を誌上に録す。
 一金参拾円也    山下亀三郎君
 - 第42巻 p.645 -ページ画像 
 一金弐拾円也 男爵 穂積陳重君
 一金弐拾円也    佐々木勇之助君
 一金拾五円也    白石元治郎君
 一金拾円也     中井三之助君
 一金拾円也     浅野総一郎君
 一金拾円也     大川平三郎君
 一金拾円也     平田初熊君
 一金拾円也     小池国三君
 一粟おこし百個   大日本米穀会


竜門雑誌 第三六〇号・第四九―五七頁 大正七年五月 ○青淵先生をこがれ慕うて 工学博士 薬学博士 高峰譲吉(DK420108k-0002)
第42巻 p.645-651 ページ画像

竜門雑誌 第三六〇号・第四九―五七頁 大正七年五月
    ○青淵先生をこがれ慕うて
                  工学博士 薬学博士 高峰譲吉
 本編は、四月十四日、飛鳥山曖依村荘に於て開催したる、本社春期総集会の講演会に於ける、高峰博士の演説速記なりとす
                        (編者識)
 男爵閣下並に竜門社会員諸君、唯今八十島さんから大層御鄭寧な前触がありましてございまするが、皆様お聞及びもありますか、私の一生の半分或は半分以上は、外国の土地に住つて居りました所から、もう日々のやうに日本語も忘れて行き居るやうな次第でありまして、皆様の前に立ちまして講演などゝいふやうな立派な事は申上兼ねるのでございます。それで実はお断りを申上げたいと思ふて居りましたが、此竜門社の成立のお話を、八十島さんから伺つて見まするといふと、言葉が上手だの下手だのといふことに依つて、此会へ出る出ぬを決める問題ではありませぬので、私は心の底から、願つてもどうか此処へ立たせて戴きたいといふ考を起しました。唯さういふ精神が心の底にありまする所から、今日は押強く諸君の前へ立ちました次第でございます。其訳は、私一生の間の仕事に付きましては、殆ど一から十までと申しても宜しい、私が一人前の人間になりましてから、今日迄やりました仕事の重立つたるものは、大概皆な渋沢男爵の尻押と、男爵の指導とに依つて、私が働いたのでございます。そこでマア一から十まで渋沢男爵の御世話になつた一人である。私は渋沢男爵の門人であると自分免許で許して居る次第でございます。此処にお集りの皆さんの少くとも大部分は、男爵の教訓を受けられた方と承つて居ります。どうか一つ今日仲間入をさせて戴きたいと思ふのであります。今日皆様にお話を申上げやうと思ひまする事柄は、唯今申した通り、私の過ぐる三十年そこそこの間にやりました仕事の経歴を摘んでお話を申上げまするといふと、一から十まで、男爵の御世話にならないものはないのであります。それですから、会員諸君が、亜米利加に三十年も居るやうな人間でも、斯の如く強い男爵の働きが響いて居るといふ事を、お聴になるといふことは、或は御聴になる方も面白くお感じにならうと考へて、罷出ました次第でございます。
 それから私の演題が「青淵先生をこがれ慕うて」といふ標題であります。是は此通りでありまする。先日不意に電話で、何方でしたか知
 - 第42巻 p.646 -ページ画像 
らぬが、今日の演題は何といふのだといふお問がありました。薩張私は考へて居ませなかつたのですけれども、電話が待つて居ると、斯う云ふ話でありましたので、そこで私の心に直ぐ浮んだ事が、即ち是れであります。私はもう昔から男爵に憧憬れて居る。さうして今迄、且つ只今も、又将来もお慕ひ申すといふのが、私の心の底にありまする次第で、もう苦もなく出て参つたので、是が本統の事実であります。何だか白髪で禿頭の人間を御覧なさるといふと、少し題が副はないやうに思召すかも知れませぬが、私が女なら屹度男爵に惚れて居る訳であります。(笑)
 そこで男爵閣下に初めてお目に懸りましたのが、明治二十三年頃であります。私は当時農商務省に奉職を致して居りまして、此日本の工業の模様を、調査致して居る最中でございました。さうして此人造肥料といふものは、殊に過燐酸石灰――燐酸肥料といふものは、日本に欠くべからざるものであらうといふ所から、米国からして其品物を少量ばかり持帰りまして、農商務省の手を経て、彼方此方の勧業課あたりに配つて試して貰ひましたところが、大変に其効果が宜しいといふことでありました。其試験をも確か二期三期に渉つて致しました。ところが益々好結果であるといふことであります。時の農商務次官の吉田清成さんの御紹介を以ちまして、神戸でありましたか大阪でありましたか、渋沢男爵閣下に初めてお目に掛つて其お話を致したところが先見の強い方であるので、直ぐ肥料の事は日本国農民の基礎となるべきものであるから、それは一つ出来るだけの尽力をしやうといふのが本となりまして、数日を経ずして、東京の以前の第一銀行の楼上に於きまして、集会を開いて戴きました。当時知名の実業家諸君をお呼び下されて、僅か一時間余、二時間足らぬ間に、其話が纏つて、二十五万円の資本で、東京人造肥料会社といふものを起すといふことに、決しましたのでございます。それは唯今からして丁度三十一年程前の事でございます。其会社の設立の三十年祭が、昨年の丁度今頃あつた次第であります。それで、其人造肥料の製造は、今日になつて見まするといふと、如何でありませうか。或は三千万円に近き資本金が、此過燐酸並に人造肥料の製造の資本金に使つてあると思ひまする。其当時に使ひました所の資本金、即ち半額払込で十二万五千円の資本金で建築を致しましたのでございますが、それと比較を致しますると、資本に於て二百何十倍といふ大なる増加を来して居ることである。即ち此事業といふものは大当りであつたといふことを、今日証明することが出来る事業でありました。斯の如き農業の為めに必要なる事業を起されたといふのも、畢竟男爵閣下の先を見らるゝ力の強いことに因りまするので、下らない私の発意を容れられまして、今日の結果を来した次第でございます。故に私が技術者と致しまして出来上つた仕事をやつて下された方が男爵である。其当時から始終敬服を致して居りまするのは、男爵は先が能く御見えになるといふ事ばかりでなく、一つ其目的を達しやうといふのには、良いと見たならば何処々々までもやるといふ此御精神、お力が非常に強く現はれるやうに、実地に於て私は感じて居るのであります。此人造肥料が今日になつて見ますると、拵
 - 第42巻 p.647 -ページ画像 
へさへすればドシドシ売れるといふので、訳が無いやうな具合に、彼方此方に出来て居りますけれども、其一番初めの皮切といふものは、中々容易でなかつたのであります。私が亜米利加からして材料も買ひ機械も買ひ、肥料の製造を始めたのは宜しいが、サアそれを農家に見せてやるといふと、極く少数の所謂農業篤志家などといふ人は、使つて見て是は良いものである。是は是非ともなければならぬものであるといふことを、口にされまするけれども、大体の農家に於ては、斯んな灰みたやうな物はどうなるものか。利くか利かぬかは一年経つて見なければ判らない。又一年経つて利いたとしても、それが気候の為めであるか、肥料の為めであるか是も判らぬ。マア三年位やつて見なければ判らぬといふのが、肥料の性質なのでありますから、サアやつて見るといふと、中々誰も買つて呉れないといふやうな話になりましたので、此処に佐々木君もお見えになりますが、其初めの苦しかつた事は、皆御承知の訳であります。初めの年は全損。二年目に確か漸く売高と収入とトントン位。三年目に至つて漸く初年の損を塡めることは出来ましたが、三年経つても、未だ株主へは一文も配当することが出来ない。さう斯うする中に火事に遭つて工場は焼けてしまつたといふやうな、非常な困難の有様でありました。それで大概の人なら、どうも高峰にえらい目に遭つてしまつた、酷い目に遭つたと言はれるでありましたらうが、男爵閣下は決してさうではないのである。己れは三年ぢやない五年経たなければいけぬと、初めから言つて居つたのだと言はれました。マアさういふ訳で、中々苦しかつたのであります。それにも拘らず撓まず尻押をして下されて、私にまでそんな事ではいかぬと言つて励まされて、今日になつたやうな次第で、思へば思ふ程、私は勿論、此日本の農業の進歩といふものは、渋沢男爵の余程厚い恩を荷つて居るものと思ふて居ります。さういふやうな次第で、私は三十年前に、男爵の御世話になつて居つた次第でございます。
 其後私は私の下らない発明――醸造上に付ての改良法を工夫致しましたといふ点から、亜米利加の方へ出掛けることになりまして、まだ配当も無い肥料会社でありましたが、其事情を男爵首め其他の方にお話を致して、私は亜米利加の方へ参りました。続いて亜米利加に居りますることが十四年間。色々苦しんで居りましたのでございます。故に其間は男爵にお親み申す機会が無く、十五年そこそこ経過致しましたが、十四年目に此方へ帰りまして、又ぞろ男爵のお世話を求めることになりました次第で、丁度其年に――あれは何年でありましたか、男爵が欧米の方へお出になりました時に、丁度私も同じ船でお供をして、彼方へ帰るやうなことになりました。其次に男爵にお目に懸りましたのは、彼の実業家団として御渡米になりました時であります。其時にデトロイト或は紐育辺で出迎ひに出て親しくお話を伺ひ、色々の御教訓を受けた次第でありました。それで暫く年数が途切れまして、大正の二・三年頃に、私は帰朝致しました。其時分のことで思付ました事が一・二ありまするが、其一例を申上げますると、唯今国際通信社といふ万国通信の社が出来て居りまするが、其時分迄は、日本には其万国通信の機関といふものが備つて居りませぬのでございました。
 - 第42巻 p.648 -ページ画像 
それで其当時亜米利加のアツソシエーテツド・プレシデント代表者のケネデーといふ人が、満期になつて帰るといふ際でありました。此ケネデーといふ人は、万国通信の事に数年来従事して居る人でありますが、其人の申しまするには、日本にも是非斯ういふ一の機関がなければならぬ。何処の国でも開化国では、必ず一の機関を持つて居るといふやうな話がありまして、寔に尤な事と存じましたから、例に依りまして、早速男爵閣下に其話を申上げました。どうも私共外国に久しく居りまするが、どうか斯う云ふ機関は、是非一つ日本になければならぬものと考へます。幸にして其事に経験を得、日本の事情にも大略通じた人が居りまするから、どうか之を一つ御利用なさつて、通信の機関をお設け下されては如何であるか、国家の為めに極く大切な事でありますから、といふお話を致しましたところが、早速にもそれが宜からうといふ所から、直様其相談が男爵閣下の指導の下に纏りまして、さうして今日の国際通信社といふものが出来、又其上に加ふるに、数年来出来て居りました所のルーターの通信をも、それと合併を致して仕事をするやうなことになつたのであります。それが為めに、殊に時局の今日に当りましては、其効力の著しいことは皆さんの御承知の通り、申すまでもない次第。斯の如き有益なる一の機関の出来ましたのも、偏に男爵閣下の御尽力に依る所で、男爵閣下が如何に明かに先の事までも御覧に為られるかは、之を以ても証するに足る次第でございます。
 それから又其節に、私は此日本の是迄の進歩と申しまするものは、即ち当世風の開化《シヴイリゼイシヨン》と申すものは殆ど悉く輸入致したものである。独創的のものは甚だ稀である。それで人の尻にくつ附いて真似をして行くといふことも宜しうございませうけれども、そればかりでは到底人の先へ追越すといふことは出来ないのである。日本も世界の開化の程度までに肩を比べる位に至つたのであるから、是から先き肩を上げやうといふには、どうしても独創的の考を起さなくてはいけないのである、と言ふのは、他の外国が進んだといふ其原因は、銘々独創的の学問をやつたから進んだといふことは明かでありますから、日本でもどうか一つやりたいものである、殊に私共の専門と致して居りまするこの理化学の研究の如きは、物質的開化の基礎を造るべきものであるから、サア直ぐと言つて間に合ふものではありませぬ。極く気長に安心して研究をしなければならぬ事業であらうと思ひまするので、是も亦相変らず是非一つ御尽力を御願ひ申したいと言つて御願を致しました。ところが是も御聴届になつて、実は私は単にかういふやうな事柄を申上げたばかりで、亜米利加の方へ帰つて往きました。然る所爾後撓まず御尽力になりまして、独創的の研究の出来る所謂理化学研究所といふものは 御上の賜金もあり、国庫からも二百万円の金を出され六・七百万円の基本金が今日迄集つた。さうして永久に研究して行くことの出来るやうな研究所の基礎が、もう今日出来ました。是も全く男爵閣下の御尽力に依つて出来ました事で、是は日本の為に賀すべき事であり、又竜門社の会員たる即ち渋沢男爵の門人各位が、吾々の尊敬して居る青淵先生の賜であると喜び且つ誇るべき事柄であると思ひ
 - 第42巻 p.649 -ページ画像 
ます。それから其間に又大正四年でありましたが、御忙しくあり且つ御老体であるに拘りませず御渡米になりまして、さうして日米の実業上の提携――実業上のコーポレーシヨンといふものをやらねばいかぬといふ事を、亜米利加で彼方此方に於てお話になり、即ち其日米提携――日米コーポレーシヨンの種子を、其時分にお播きになつたのであります。丁度其時分に私は紐育に居りまするので、数度御指導を受け又紐育の吾々が、両手を挙げて歓迎致しました次第でございまする。其時に申上げた事を一寸思付ましたから、皆様に申上げて置きたいと思ひます。或る代表的日本人の宴会でありましたが、私は丁度其時に座長を致して居りましたので、其時に申上げました事を思ひ出しましてございます。其時分に青淵先生に、金米糖といふ尊称を差上げたことを覚えて居ります。男爵閣下を金米糖と言ふのは怪しからぬなぞといふ話もありましたが、其理由は斯ういふ訳であります。大勢の中でも一の事業に就て、何か他より秀でる、何か他よりは優れた事をやつた人のことを、彼の人は一の頭角を現はした人である、といふことを申します。角が生へて居る。それで大勢在る同胞の中で一本角を出して、彼の男は斯ういふ事に偉いといふ角を、人よりは高く見せるといふことは、お互の為に嬉しく感ずる次第である、中には一本の角でなく、二本の角位の人はチヨイチヨイあります。併ながら、渋沢男爵の如くに、何も彼も、何れの方面に於ても、他に優れて居る、何れの方面に向ふても、角を現はして居るといふ方は、私は男爵閣下の外には無いと思ふのであります。それで其角の出し加減が、恰も金米糠のやうに角を出されて居るといふことであります。(拍手)それから金米糖といふのは第一、日本銀行の元祖の親玉であられる方で、金の方に大変縁が近い、それが「コン」です。さうして世界のポリチツクスに通じて居られて、シヴイリゼイシヨンに対して成るべく平和を唱へて居られる方である、それが「ペイ」です。それで何をやられても甘いといふので、そこで金米糖と斯う来た。(笑声起る)さういふやうな次第でありまして、是はマア戯談でありまするが、其時に男爵が播かれた種子が、今日丁度芽を出し掛けて居るのであります。
 そこで其後近年に至りましては、石井特派大使がお出になつて、日米間の感情といふものを外交上、極く滑かに旨く途を開いて戴きました。又近くは目賀田男爵の一行、経済界の諸君がお出になつて、金融の事に付て、或は聯合銀行を拵へやうとか、或は商業会議所を設けたらどうであるか、といふやうな途も著き掛けて居ります。それで外交界と経済界の方が、其処に立派な道路を拵へて呉れられましたけれども、其道路たるや、使ふ者がなければ一向益が無いのである。其道路は何の為めに開かれたかといふと、男爵閣下が数年前に御出になつて御主張になりました所の、日米両国の実業家が手に手を取つて、何か事業をやるといふことがなければ、其道路も草が生へるといふやうな次第であります。幸にして其種子が段々実を結び掛けて居りまするので、私も此点に於きましては、復た渋沢男爵の御指導に基きまして、此数年来どうかして、実業上殊に今私が多少知つて居りまする所の応用化学、之に関係致しまする所の仕事をどうかして、日米両国の実業
 - 第42巻 p.650 -ページ画像 
家が手を結ばれるやうな工合に、私が仲人となつて進めて行きたいものであると、努めて居る次第でございます。
 それで夫等の関係の第一例を申上げますると、丁度此御近所であるから申上げまするが、此王子の関東酸曹。彼処では先日以来、電気力を使つて苛性曹達と晒粉を製造し始めましてございます。其方法は亜米利加でも最新式であつて、最も経済に最も余計造る方法を使用されたのであります。私は丁度幸にも、其フーカーと云ふナイヤガラのフオールに在ります所の会社の連中を能く知つて居ります所から仲人になりまして、今日此王子に於きまして、日米協同の事業が此処に起つた次第であります、四・五日前に米国大使と御一緒に其工場を拝見に往つて伺ひますると、もう工場が出来上つたばかりでやつて見ると非常に能く出来る。それですから是では足らない、此倍にしたいといふので、一昨日の船で技術者が、尚ほ工場を倍にする計画を行ふ為めに二人向ふへ立つて往かれたといふやうな次第であります。それが若し良かつたならば、此工場は大変狭いから、別に何処か分工場を起す積りであると、斯ういふ話でありました。それで是等は即ち亜米利加の最も新しい最も良い方法、亜米利加中でも撰びに撰んだ其方法を、此日本の王子に持つて来て植付けたといふやうな次第。則ち男爵の播かれた種子が、此処で今実を結びつゝありまするのであります。
 又さういふやうな事柄で、まだ幾つも私が此頃考へ中のものがございます。其中にも、此アルミニユームといふ金属の製造でございまするが、此アルミニユームといふ品物は、是はどうしても日本になければならない、非常に重法な金属であります。其需要も私の考に依りますると、将来鉄に次での金属であると考へますので、そこで私が今此アルミニユームの将来を予言することが、丁度人造肥料を三十年前に予言した如くに、若し中るものとしますれば、此アルミニユームといふ金属は三十年経つて御覧なさい、それはモウ非常な産額になるべきものだと私は考へて居ります。そこらの点から、男爵も是非此点に尽力をして、出来得るだけの便宜を図つて、さうして日米協同の事業を此処で起さねばならないと言はれて、人造肥料・国際通信・理化学研究所、さういふやうなものゝ尻押をして戴いたと同様に、亦此アルミニユームの事業に付きましても、男爵の尻押を戴いて居る次第でございます。
 そこでモウ一つ申すことを忘れましたが、昨年私が帰朝致しました時分に、日米協同といふ方の考に基きまして、此日本に居りまする亜米利加人と日本人との交際の工合が、是迄思ふやうに交際する機関を持つて居なかつたやうに思はれるといふ所から、日米協会といふやうなものを起したら如何であらうかといふことを、亜米利加人の側にはフラシヤーといふ人と話を致しまして、是亦男爵にお諮りを致しましたところが、至極結構である、己れは一つ日本人の側を受持たうと言はれたので、是も忽ちにして昨年日米協会といふものが、東京に起りました次第でございます。一年経つて帰つて来て見まするといふと、中々盛んで会員も殖え、又知名の人が亜米利加人並に日本人側から集つて、さうして始終寄合をし意見の交換をやる機関が出来ました。是
 - 第42巻 p.651 -ページ画像 
も専ら渋沢男爵の御尽力に依りまする次第でございまする。
 それで単に多く亜米利加に居る私の如き一個人に致しましても、唯今掻摘んで申上げたやうな次第で、もう三十年以来、今お話申した日本国家の為めになるやうな仕事が玆に五つ六つもありまするが、夫等は皆男爵のお蔭で成立つて居る次第であります。亜米利加に居る者ですら、斯くの如くであります。皆さん此処に始終御出になる方々に男爵がお与へになりました所の、教訓教導の方法といふものは、如何に国家の為めに有益であるかといふことは、私が、私自身が関係して出来ました事柄に照しても、其男爵の国家の為めに御尽しになつた事が如何に偉大であるかといふことは想像するに易い次第でございます。私は此竜門社の益々御盛んになり、竜門社会員諸君が男爵の教訓に基いて、是から末永く国家の為め、世界の為め、国交の為めに、発達されんことを希望致しますると同時に、吾々が恩人でありまする所の、渋沢男爵―青淵先生の万歳を此処に祈る次第でございます。(拍手)


青淵先生演説速記集(一)自大正六年三月 至大正七年十月 雨夜譚会本 【(別筆) 竜門社春季総会席上ニて 大正七年四月十四日】(DK420108k-0003)
第42巻 p.651-658 ページ画像

青淵先生演説速記集(一)自大正六年三月 至大正七年十月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
               (別筆)
               竜門社春季総会席上ニて
                 大正七年四月十四日
    青淵先生の演説
春期の竜門社総会が幸に降りませぬで、園遊会も聊か興を添へ得るであらうと、御同様喜ばしく感じます。例に依つて一言を申上げます訳でざいますけれども、特に取立てた演題がございませぬで、或る感想を述べるに止めますが、是より先只今高峰博士の従来の関係に依つて古い昔を数へ来つて、数々私を御賞讚下すつたことは、寧ろ甚だ恥入るとお答する外はございませぬ。併ながら、決して同君が私に対するお意味は、所謂真情実話、お心に在ることをお口に発せられたと深く存じ上げまするので、唯或点に所謂過賞溢美と言はざるを得ぬかも知れぬけれども、お心から左様御信じ下すつて、それが言語にお発しになつたと深く感じて、此お申聞を私は拝承致すのでございます。
実業界に身を投じましてから四十――もう今年になると五年になりますが、元来自己の世に立つ主義は、今申すと余程可笑しいけれども、是でも政治家になつて、国を治め天下を平かにすると云ふことを予想したものではあるのです。不図方針を変へて、寧ろさう云ふ自分の長ぜぬ事に齷齪するよりは、幾らか我身に相応しい事に於て、世の為めに尽すが宜からうかと、玆に其境遇が私をして、どうしても此政治界に立つ能はざる場合に立至らしめたものですから、明治の始めに治国平天下主義を止めて、生産殖利、国を富す方針に微力を致さうと覚悟を変へた訳であります。而して根が右やうな趣意で世に立つた身柄でございますから、例へば東京に出て大金持にならうとか、世界の事業――少くも日本の主なる商工業に対して、雄飛して見たいとか申すやうなる覚悟はなくて、唯政治上から国を治め天下を平かにすると云ふ我思案を変へて、実業界に尽さうと覚悟したのであるから、自己を主義とせずに、社会、広く言ふたら国家を主義として、世に立つて見た
 - 第42巻 p.652 -ページ画像 
いと云ふのが、私の本願であつたので、どうぞ其本願を尽し遂せたいと思うて、今尚ほ其本願中の一部の残余を経営致して居ると云ふ次第であります。
人の身の立方は色々あるので、或は大なる発明を以て、世に其事を押立て、遂に末世末代まで其効果を及ぼしたいと云ふ本願も、勿論甚だ必要であらうと思ふ、高峰博士が是から先如何なるお考を立てられるか知らぬが、蓋し先づ独創的の発明を追々に開くと云ふことに就ては御自身が開かぬでも、既に此理化学研究所の事に就ては、同君の発意が私をしても、将来に甚だ必要と思はしめましたので、洵に深く感じ所謂共鳴して、頻りに今其成立を努めて居りますが、只今既に成立つた如くに、高峰博士は仰しやつたけれども、未だ却々に日本の全体の社会が、是に向つて甚だ賛同の心が薄うございます。東京の多数は大に力を添へて下さいましたが、未だ其他の方面は、詰り其事柄の知方が遅いのか、若くは私等の声が足らぬのか、徳望が少いのか、未だ満足なる力添を得る場合に至つて居りませぬ。少くも八百万位の金を集めなければならぬといふのが、漸く未だ六百万円に足らぬ金額であつて、尚ほ二百万ばかりの金の募集を、今托鉢中でございます、此貧僧甚だ勧化に苦んで居ると云ふ次第でございます。尚ほ此程から伺ひましたアルミニユームは、博士は今三十年の後はどう云ふ有様になるか或は明治二十年の頃の窒素肥料の如き観を将来のお人々は持ちはしないかと思ふと仰しやられたが、世の進歩から云ふたら、或は更にそれに何倍するかも知れぬと言ひ得るでありませう。未来は分らぬが、丁度今博士の仰しやる事業上の進歩と、日米の関係と云ふ二つを能く結付けるには、右等の事業は甚だ所謂好材料、又時も最も可なりと斯う思うて、私は頗る同情を寄せて、是非共に成立たせたいと思うて、今聊か微力を尽して居りますが、果して是も、彼の人造肥料の如く、若くは国際通信事業の如く、仮令未だ満足でないにも致せ、果して玆に形を表はし得るや否やは、明言し能はぬやうな訳でございます。それで左様な事物に対して、良いと思ふ事には全力を注ぎて、仮令今実業を御免を蒙つたにもせよ、力を入れますと云ふことは、前にも申しました通り、唯国の富強繁盛を、政治上から求めたのを経済上に移したと云ふのですから、一己の思案は殆ど私には無いので、平たく申せば二十四・五歳の頃、明治の前に或る場合には、此身は固より骨になるべき筈であつた。さう云ふ考から割出しますると、実は家も身も我眷属も私の無い以上は無くても互い筈である。甚だ斯う申すと、妻子や親戚には冷酷の申分でありますけれども、一家と云ふものよりは、私の身が一国の為めに、今日あるものと致しますれば、先づ己れの経営は死ぬまでどうぞ国と云ふものを、甚だ烏滸がましい申分だが、我不断の目的として此世を終りたいと、斯う考へて居る。故に今日此実業界を去りましても、矢張実業の事に就き、若くは実業界の精神に就て頻により良かれと云ふことに苦心して居るのでございます。高峰博士は私の今日あるに対して、御自身の御関係から、亜米利加との事柄に就て、又同君の御心配の事柄の私との関係に就て、好成績を挙げたと云ふことを、細かに御申聞け下さいましたが、其他の方面にも――私
 - 第42巻 p.653 -ページ画像 
の亜米利加に於てすら、渋沢に斯様な関係があるからして、定めて諸君は尚更然らんと、此竜門社諸君に自分の想像を申述べるのである、故に必要な渋沢であると頻に痛入りたる御賞讚の言葉でありますが、何等左様な諸君を益する事を、私が総ての方面には為し得ませぬけれども、既に此実業界を去りました今日に、私の是非共希望することは実業界の是から先に経営が、どうも今の一身上を主として、公共の観念の乏しい所より、道理の進むと共に争を増すと云ふことに行走りはせぬが、六ケ敷い仁義道徳などゝ言はいでも、極く平たい俗な思案にしても、さう傾きはしないかと思ふのでございます。そこを考へますと、知識の進歩と云ふからして、物質の文明を進める。物質の文明を進めるのは個人々々の利益を増すのである。個人々々の利益を増すと云ふと、個人同志の間が、必ず自己を余計利益したいと云ふからして他を凌ぐ。甚だしきは他を圧迫する。一歩進むと他を妨害すると云ふやうにまで走ると云ふことは、どうも此物質文明の進歩を求める間に免れぬやうにある。斯の如くして、詰り生産殖利と六ケ敷い言葉で云ふと、仁義道徳の不一致を来す訳になる。今日ではどうしても、此辺に一般の観念を強く持たせたいものだ、一般の観念に其希望を持つ以上は、所謂近きより遠きに及ぼし、私を信ずるの厚き、仮令充分たらざるも、私の指導誘掖に依つて立つ諸君からして、其覚悟が強く、其行動が著しくなければ、自己はさうでないけれど、世間へ求めると云ふことは言ひ得ざる訳であつて、孟子の所謂刑于寡妻。至于兄弟以御于家邦。先づ己れが我身柄若くは我親戚、我地方、それから段々上に発展して行かねばならぬと考へますると、今の道徳経済の一致を唱へる私の主義は、どう致しても、先づ竜門社諸君から強く其事実が現れて来るやうに、致さねばならぬと思ふのでございます。私は更に進んで、若しそれが行けるものならば――此個人道徳が国際にまで普及したならば、斯の如き日々新聞に見る程の、世界の惨禍を取除けることが出来さうなものではないかと思ふ。此点から考へますると云ふと、実に情ない訳で、知恵が進んだと云ふ欧米人は何事であるか。詰る所唯利得に属する己れの都合を図るから、斯の如くに日々何万、何十万の人を殺し物を焼き、相競うて見た所が、落る所は唯利益に帰する。丁度二千四・五百年以前の孟子の言ふた「上下交征利而国危矣」「万乗之国弑其君者必千乗之家、千乗之家弑其君必百乗之家」。洵に明瞭に言表はして居るやうでございます。斯う考へますると其国際的道徳と云ふものは、幸に個人道徳が進んで行つたならば、どうかして之を唯利益のみに進まずに道理に依つて事物の進歩を図ると云ふことが為し得られぬものではなからう。丁度先達、亜米利加のベリーと云ふ人が訪ねて参りました。此人は宗教家であつて、何か宗教の聯合組合から日本へ派遣されたと申すことであります。明治の初めから日本に来られて二十年ばかり居られた。亜米利加の多分マツサチユーセッツ州の人であるとか云ふことであります。宗教家で大分学説等も持つてござるやうに承知しました、日本に来られた時分に勧化救済の事などを執られたが、より多く監獄制度に就て、若い身柄に似合はず意見を持たれて、拷問廃止の事なども、是等の人に依つて行はれ、大分日本の
 - 第42巻 p.654 -ページ画像 
陋習を進化せしめたやうに承ります。右やうなお人を、私の会長の名を持つて居る中央慈善協会と云ふものが、東京に組立てられて居る、多くは内務省のお方などゝ申合せて、取扱つて居る一種の救済事業を世話する会であります。其会へ今のベリー氏を歓迎しやうと云ふので二月の末に一度お招した。其お招した後に、先月の初めに、同君が中国の方の旅行に立つ前に、一度私を訪問して呉れた。丁度其訪問の場合に、偶然ベリー君ばかりでなしに、監督のハリスといふ人が私の家へ来られたから、一向耶蘇趣味の無い、又宗教上の学問も知識も持たぬ私であるけれども、丁度今懸念して居る国際道徳、欧羅巴の余りに利慾に行走つて、斯の如き大戦乱にまで至つたと云ふことが、実に歎はしく思ふた為めに、少し余分の話でありましたが、談之に及んで、頻りに宗教家に、悪く申せば攻撃の説を試みたのです。其続きで、多分明日其先生方が此処へ来て下さる筈でありますから、少し宗門違ひの――宗教上此人心をして、余り利慾に行走る所謂虎狼の性質を取鎮める工夫は無いものかと云ふことを、もう今日は実業界の方の側でなしに、少し宗教家ではないけれども、哲学上の見地から、宗教家が何故さうお力が入れられぬものであるか。何とか始終さう奪合ひばかりを以て人の能とせずに、世の中に立つ工夫は無いものであらうか。若し此姿だけで行つたならば、人ほど賤しい者は無い訳になつて、虎は怪しからぬの狼はどうのと云ふけれども、虎や狼よりも人間は知恵のあるだけ尚ほ悪くなつてしまふ。人類と云ふ者はどう云ふ訳のものであるかと、斯くまで私共は恐れる。或は宗教家の力が鈍くなつたのか神の光が段々曇つて来るのか。若くは又或る場合には、所謂一張一馳斯の如き大惨禍を起して、さうして遂に此世界の人類をして、所謂自覚せしむる、是も矢張神の摂理であるか。さう言へば神が大層尊いやうであるが、それまでの摂理が出来るならば、さう苦します前に出来さうなものではないかと言ひたくなる。先づそれらの論をして見たのでありますが、流石のペリー、ハリス先生なども、神の力が無いとは言はつしやらぬけれども、然らば力があるから、是だけの効果を此処へ現はし得るとも、亦明答を与へて呉れませぬ。一寸私が其問答した事を此処に書いて置きましたから之をお聴に入れます。是は甚だ領分違ひのお話でありますけれども敢て皆様に満更の無用でもなからう。必ずさう云ふ考を持つお方もあるだらうと思ひますから――此ベリー氏は明治五年から二十六年まで、二十一年間宣教師として、日本に居つた人ださうです。それで監獄の改良――監獄行政等に大層力を尽して呉れた人である。二十六年に国へ帰られて、其後日本に来られなかつたけれども、丁度二十五年目に来られた。中央慈善協会で之を歓迎して色々談話を致したのです。丁度私の家を訪ねて呉れたのは、先月の二日でありました。ハリス監督と同時に来られて、共に宗教界の長老であり、且つ世人の尊敬する学者であるから、私は斯う云ふお方と胸襟を披いて閑談する機会に於て、私の胸中を往来する宗教に関する疑問を提出して、其解決を得たいと思うて、両氏に左の問を起したのであります。
   ○此間数行ノ空白アリ。
 - 第42巻 p.655 -ページ画像 
斯う云ふ問を発したのであります。之に対してハリス君は、此談話中に用があつて先へ帰られましたが、ベリー氏が、どうもお素人から宗教家へえらい厳しい質問を受けたが、果してさう云ふ問に対して、どうも神の力が無いとか、世の中が益々罪悪に傾いてしまふとか、さう貴方の問の如くならうとは思はぬ。思はぬけれども、併しそれは斯うしたら宜からうと思ふといふ答は、即座に申上げ兼ねる。但し宗教家は、決して今日のお問に対して思ふばかりでない、実にどうかせねばならぬと云ふことは、吾党の人々は頻りに屈托をして居る。唯併し、どうしても之に伴ふ力なしに、此社会を安穏にする、唯徳義心だけに依つて行くことは、六ケ敷からうと云ふことが、帰著する所の論旨になりはせぬか。だから良い種類が力を協せて、悪い者を防ぐと云ふやうに、結局はなりはしまいかと思ふが、併し其良い種類と云ふ者を、どう云ふ風にして集めれば宜いか、其方法に就ては、宗教家の果して言得る事でもない。宜しく攻究せねばならぬことゝ思うて、頻りに心配をして居る訳だ、未だ今日は其処までお話する時が無いから、何れ旅行をして、四月の半ばには東京へ帰つて来るから、もう一遍此談話を継続したい。斯う言はれますから、どうぞそれでは、貴方のお仲間中のお人数名と、斯うしたら宜いと云ふ、私の疑問に対する宗教上の存意を一つ、明答とまで行かいでも、幾らかお考を示して戴きたい。斯う云ふ事を申して別れて居ります。明日先生方が此処へ来て呉れる筈ですから――如何に名僧知識と雖も、斯る大禍乱を斯くすれば屹度人心が皆平和に帰し、世は黄金界になると云ふことを、答へることは出来ないでありませう。出来ないであらうけれども、私は自分が道徳説を主張すると同時に、此道徳説の基本とも申すべき宗教家が、斯の如き戦乱にボンヤリして居ると云ふことは、平素何の為めに神に仕へて居るか、斯う御質問申したい位でありますから、或は少し極端の議論か知れぬが、説を出して試みたのであります。是は多く国際に関したことであつて、今玆にお集りの竜門社諸君に、之に対しては斯う云ふ法があるといふ事のお答を、求める訳ではありませぬけれども、銘銘お考はあつて欲しい。其方面々々に於て各自に攻究すべきことであらうと思ひます。さりながら其根拠は矢張り小から大に及ぼす、大の本は小に在る、君子之道造端乎夫婦と云ふのが、中庸の教であつて、もう一家々々が仁であれば、必ず一国が仁に興つて来るのであるから先づ国際の道徳を思ふならば、個人道徳が充分に修つて来なければならぬ。個人道徳が修まらなければ、之を国際に望むことも出来ない。斯う考へますると、どうも此事物の進歩は、勿論是から先益々努めて丁度今高峰博士のお話のアルミニユームばかりではない、独創的発明を以て、是から先物質文明を進めて行くと云ふことも、お互の力に依つて或る所までは行きたいけれども、自己の進みと自己の慾望のみを主として行きますと、独り国際ばかりでなしに、個人の間にも相鬩ぎ相謗り、相陥穽すると云ふやうな事が生ずる。現に聴くも忌はしいやうな事が、屡々新聞などに現はれます。お互に国の品格を上げやう、人の徳義を進めやうと思ひつゝある世の中に、実業界にあるまじき事を耳に致すやうなことは、洵に歎はしき事でありますから、どうぞ竜
 - 第42巻 p.656 -ページ画像 
門社諸君は申す迄もなく、事物の進歩と此精神の修養と共に進めることのお心懸を、深く希望して已まぬのでございます。どうも此事物が凡て一を進めて行くと、其進みに就て生ずる弊害と云ふものが、他の例を以て云ふと、私が此処に殆ど四十年住つて居りますが、丁度此風景と物質の文明が、矢張等しく相衝突する。人間は自ら其住つて居る場所に対しては、所謂近きから遠きに及ぼす所存から、幾らか体裁好く、人が来ても道路も成ベく綺麗に、どうもお前の所へ行つたけれども其途中が困難であつたと言はれたくないと思ひます。何でも明治十三年であつたか、此処へ布哇の王様が来た。彼処の所を私が通つて見ると、道が斯う深い穴になつて居つて、其穴を埋めるのに畳を以て埋めてある。東京市の道路の繕ひ方は、畳を以て穴を埋めると云ふやうな有様であつたから、却々人間などの通れるものではなかつた。それで此処へ私が住つて、あゝ情ないものだ、是が人間の住居であるか、而も東京の側であると云うて、頻に道を苦難に思ふた。四十年後の今日を見ると、但し上も御覧下すつたのでせう、決して私が直したと言うて威張るではないが、併し道路の両側に桜が植つたり、彼処の二本榎でも、兎に角古跡ですから、あれを保存して置いたりすることなどは、余程面目を改めたと申して、私は決して自慢して申すではない。あれは東京市でやつて呉れたのですけれども、併しあの二本榎を保存したり、両側を植えた事などは、多少与つて力があるので、自分が住つて居れば、其場所には成ベくさう云ふやうな事に微力を尽すが勤めと思うて、頻に心配をして、是から近々に町役場も立派なものが出来るだらうと思ひます。そんな事にも尚ほ心配して居りますが、あゝ道が直つても、段々穴が明く、其穴の処置は東京市でして呉れぬ。此町でも届きませぬ、矢張私共住つて居る者が申合せて、雨でも降つたときは始終道を直すやうにして居る。為めに自動車がポツンと穴へ這入つて、えらい不愉快を感ずるやうな事のないだけの道が出来て居る。昔畳で以て穴を埋めた有様は、今日はお目に懸けないやうになつて居るやうです。それは大変結構だから自慢が出来ますけれども、反対に此方を見ると、黒煙暗々として居つて、実に夕立がして来たのか、天地が曇つて居るのか、と云ふやうな有様でありますが、之を防ぐことはどうしても出来ない。丁度取も直さず、物質を進めて行くと、慾張る根性が段々出て来て、相争ふと同じやうに、風致と云ふものを段々害して行くのであります。洵に好く似た有様で、風景の保存と物質の進展とはどうも相伴はない。さうして見ると云ふと、前に申す物質を進めながら、精神は成ベく相譲り、相思遣ると云ふことは、蓋し神でも為し得られぬことであるか、若し神で為し得られぬ事であるならば渋沢が如何に声を嗄らして論じて見ても、是は矢張出来ぬ事であると言はなければならぬ。併し又もう一つ反対に考へて見ると、屹度出来ぬ事ではなからうと思ふ。随分世の中にさう云ふやうに進んで行つた例が無いでもない。して見ると人の知恵がもう一層進んで行つたならば、遂に相進むことが出来る。所謂優勝劣敗に止めて相争はぬ、即ち如何に煙があつても、更に一歩進んで、是を水力電気にすれば、煙はなくて力は充分取れる訳になる。鉄道迄は水力電気でやれぬとした所
 - 第42巻 p.657 -ページ画像 
が、それは直に煙が飛散してしまふから、或は一方に広い範囲の道を直すとか――又此処は阪谷が頻に言うて居りましたが、権現を懸けてズツト広い公園にすると、市外公園の立派な場所になる、成程さう思ひます。小さな川がある彼処へ橋でも渡して、さうして権現飛鳥山、此辺を併せて一の遊歩地にしますと、却々好い場所になり得る地勢を持つて居るのです。併し今日は却々さうは相成りませぬけれども、何でも六百年少し余ですが、豊島平左衛門尉と云ふ人が、此権現を拓いて飛鳥山も其時に開かれたものである。併し足利の末に戦乱極つて殆ど頽廃した。熊野権現を移したのがあの権現である。それから徳川三代の家光と云ふ人が、此処へ再建した。其豊島の時には、飛鳥神社と王子権現と斯う二つあつた。王子権現の末社として、王子の稲荷などがあつたのであります。そこで此処は東京に附属する処の一の名所とされて居つたのである。然るに今申す足利の戦乱――長い間攻伐を事とした場合に、矢張それが衰頽してしまつたのを、徳川三代将軍が廃を興し衰へたるを復したのである。但し権現は其時に造つた。其時に確か神社だけを纏めて、王子権現に合祀して、さうして飛鳥山を一の遊歩地にした。然るに其後又頽廃して、徳川は長く続いたけれども、暫く世話する人もなくて、大変に其社が荒廃したのを、元文二年に吉宗と云ふ人が、又王子権現を再興した。其時から算へますと、百五十年も経ちますが、併し権現の今存して居る社は、吉宗時分の元文二年に出来た。其時に飛鳥山と云ふものを大層に直して現在の飛鳥山と云ふのは其時出来た。今の飛鳥山の碑と云ふものが真中にございます。それは成島鳳卿と云ふ人の書いた文章である。唯惜い哉六ケ敷文章で迚もどんな学者――どんな学者と云うては悪うございますが、中学者には読めませぬ。字は読めても事が解らない。えらい古文体の――徂来派の人であつて、極く古風な文章を書く人であるから――併し其意味は訓訳して見ると明瞭に解ります。私は自分では読めなかつたけれども、講義の文章があつたから、それで其事を覚えて居るのであります。斯の如き名所でありますから、私はどうかして此処に住つただけに、此飛鳥山其他の場所を、どうぞ東京の名所として伝へたいと、之を老後の一の希望として居ります。即ち此煙に対しての幾分のお申訳にならうと思うて、丁度物質文明を進めて同時に争奪の観念を防ぐのも物質文明を進めて風致の保存を図るのも、同じ意味にならうと思ひますので、之を老後の一の楽にして居ります。其時にはもう少し道も良くし、又皆さん竜門社のお寄りを増し得るやうな時期が――併し其時は私はお迎へ申すことは出来ませぬが、必ずさう云ふ時が無いでもなからうと思ふのでございます。
前に申したのは精神上のお話でありますが、必ず此総ての事が両者相共々進むと云ふことが困難で、一方が進んで行く為めに一方は其弊害を惹起すと云ふことは免れぬ、知識の進み物質文明の進むに従つて、必ず争奪の虞を生ずる。色々の事物の進歩すると同時に風景を害すると云ふことは、矢張同じ有様を持ちますから、一方を進めると共に他方の進みにも力を入れて行きたいと思うて、序でながら、王子の土地の考証及近郊其他飛鳥山の歴史をも、此処に住つて居るだけに、一応
 - 第42巻 p.658 -ページ画像 
皆様に御吹聴申したのであります。是で御免を蒙ります(拍手)


中外商業新報 第一一五〇八号 大正七年四月一五日 ○竜門春季総会 高峰博士講演(DK420108k-0004)
第42巻 p.658 ページ画像

中外商業新報 第一一五〇八号 大正七年四月一五日
    ○竜門春季総会
      高峰博士講演
竜門社第五十九回春季総会は十四日午前十時
 △渋沢男爵邸 たる飛鳥山曖依村荘に於て開会、八十島親徳氏の開会の辞に次で、講演会に移り、工学博士・薬学博士高峰譲吉氏は「青淵先生をこがれ慕ふて」と題し、三十年前人造肥料を高唱し、世の視聴を惹きたる当時を追懐し、渋沢男爵が国際通信事業と、又近く化学研究所の設立に砕身せられたる事より進むで、日米間の意思疎通に予め其溝渠を築きたる功績を称へ、男爵が先年老躯を提げて渡米せられたる当時、予は男爵に対し金平糖なる名称を捧げたり、金は富にして経済界の恩人なるを意味し
 △平は平和、糖 は甘きなり、男爵は何事にも通ぜられ又何事にも頭角を現し居る事、恰も金平糖の如しと結び、次で渋沢男爵は謙譲以て高峰博士の称賛の辞に酬ひ、少壮政治上の治国平天下を志したるを経済上よりの治国平天下に転じたるを陳ベ、更に物質上の進歩と共に精神上の進歩の必要なる所以を説き、事業と道徳の併行調査を図らざる可らず、上下利を秉つて国殆く、利是れ趁ふの結果は、欧洲戦乱の惨禍を現出せりと説き、終つて正午園遊会に入り、桜雲の下、三百の会衆嬉々として春色を愛で、余興にオーケストラ・説教節・西洋手品あり、四時散会せり