デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.668-681(DK420111k) ページ画像

大正8年6月1日(1919年)

是ヨリ先、五月十三日、当社評議員会帝国ホテルニ於テ開カレ、栄一出席ス。次イデ是日、当社第
 - 第42巻 p.669 -ページ画像 
六十一回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK420111k-0001)
第42巻 p.669 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 曇 軽寒
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ、竜門社評議員《(会脱)》ニ出席ス、夜食後米国ヨリ来レルストラント氏ニ会見ス、夜十一時散会○下略


竜門雑誌 第三七二号・第三五頁 大正八年五月 ○竜門社評議員会(DK420111k-0002)
第42巻 p.669 ページ画像

竜門雑誌 第三七二号・第三五頁 大正八年五月
    ○竜門社評議員会
本社に於ては、五月十三日午後五時より、帝国ホテルに於て、第二十五回評議員会を開きたり。評議員会長男爵阪谷芳郎君、会長席に着きて開会を宜す。幹事石井健吾君、大正七年度会計其他諸般の報告を為したるに、何れも承認に決し、次いで第一号議案評議員半数改選の件は会長指名一任に決したり、因つて会長は直に左の諸君を指名せり。
 石井健吾君    八十島親徳君   田中栄八郎君
 渋沢元治君    服部金太郎君   尾高次郎君
 高根義人君    清水一雄君    白岩竜平君
 増田明六君
次に阪谷会長曰く、幹事は社則第十五条に依り評議員の互選に依り之を定むべき筈なれども、便宜上前幹事石井健吾・八十島親徳両君に依頼しては如何と諮りたるに、是又異議なく即決し、次に第二号議案春季総集会の件は、六月一日午前十時より飛鳥山曖依村荘に於て開会すること、会場諸般の設備一切は幹事一任に決し、第三号議案入社申込の件其他亦原案通可決し、是れにて評議員会を終り、別室に於て晩餐会を催したる後、萩野文学博士の曲阜に於ける孔子廟参拝談ありて、散会したるは午後十時過なりき、当夜の来賓及出席者は左の如し。
    来賓
 青淵先生 文学博士萩野由之君
    現評議員
 石井健吾君    土肥脩策君     大川平三郎君
 脇田勇君     植村澄三郎君    山口荘吉君
 明石照男君    男爵阪谷芳郎君   佐々木勇之助君
 清水釘吉君    白石元治郎君
    前評議員
 男爵穂積陳重君  斎藤峰三郎君    清水一雄君
 服部金太郎君   佐々木慎思郎君   佐々木清麿君
 田中栄八郎君
    会員
 渋沢武之助君   渋沢正雄君     渋沢秀雄君
 八十島樹次郎君  利倉久吉君     増田明六君
 白石喜太郎君   矢野由次郎君


渋沢栄一 日記 大正八年(DK420111k-0003)
第42巻 p.669-670 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年          (渋沢子爵家所蔵)
 - 第42巻 p.670 -ページ画像 
六月一日 晴 軽暑
○上略 午前十一時ヨリ、竜門社総会ヲ広庭ニテ開設ス、稲垣農学博士ノ糧食問題ニ付テ講演アリ、午後一時頃ヨリ、余モ一場ノ講演ヲ為ス、畢テ晩香廬ニテ、来客中ノ十数名ト午飧ヲ共ニス、食後余興ヲ一覧ス午後四時過ヨリ正雄・河野・三溝氏等ト会話ス○中略
当日ノ竜門社総会ニ於ル演説ハ、稲垣氏ノ糧食問題ニ関スル講演ニ対スル意見ト共ニ、過般病気ニ罹リタル際ノ感想、及目下ノ時勢ニ関スル意見ニ付テ縷述スル所アリタルナリ


竜門雑誌 第三七三号・第四七―五一頁 大正八年六月 ○竜門社春季総集会(DK420111k-0004)
第42巻 p.670-674 ページ画像

竜門雑誌 第三七三号・第四七―五一頁 大正八年六月
    ○竜門社春季総集会
 本社第六十一回春季総集会は、予報の如く六月一日午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり。軈て振鈴を合図に、幹事石井健吾君登壇、大正七年度の社務及会計報告を為し、次で講演会に移り、先づ農学博士稲垣乙丙氏の『食糧問題に就て』の講演あり、最後に青淵先生の講演(追て掲載)ありて会を閉ぢ、夫れより園遊会に移り、例に依り生麦酒・煮込燗酒・天麩羅・蕎麦・寿司・団子・甘酒の各模擬店は孰れも満員の盛況を呈し、初夏の香濃かなる彼方の樹下、此方の丘上に、三々伍々、野外の趣味を味ひつゝ、新を談じ旧を語らふ和気靄々の光景、左ながら一幅の画図を展ベたるに髣髴たり。興酣なる頃此方の会場に於ては、尺八・太神楽・西洋奇術の余興あり、会員各自充分歓を尽して、帰途に就けるは午後五時前後なりき。大正七年度社務、同年度会計報告、及当日来会諸君は左の如し。
    大正七年度社務報告
 社則第二十二条に依り社務報告をなすこと左の如し
一会員
 入社{特別会員 拾七名 通常会員 参拾壱名}合計四拾八名
 退社{特別会員 六名 通常会員 弐拾名}合計弐拾六名
 外ニ通常会員ヨリ特別会員へ編入者 参名
      名誉会員 壱名
 現在会員{特別会員 四百弐拾七名}合計九百九拾四名
      通常会員 五百六拾六名
一現在役員
 評議員会長     壱名
 評議員(会長幹事共)弐拾名
 幹事        弐名
一集会
 総集会       弐回
 評議員会      参回
一雑誌発行部数
 毎月一回 平均 約千百部
 年計     壱万参千部
    同年度会計報告
     収支計算表
 - 第42巻 p.671 -ページ画像 
       収入之部
一金四千七百参拾九円四拾銭  配当金及利息
一金弐千拾五円拾銭      会費収入
一金百九拾四円也       寄附金収入
一金五千七拾八円八拾五銭   雑収入
 合計金壱万弐千弐拾七円参拾五銭
        支出之部
一金千六百六拾五円弐拾八銭  集会費
一金千七百六拾壱円六拾九銭  印刷費
一金千五拾九円也       俸給及諸給
一金四百六拾参円五拾五銭   郵税及雑費
 合計金四千九百四拾九円五拾弐銭
差引
 超過金七千七拾七円八拾参銭
           但積立金ニ編入シタリ
      貸借対照表
        貸方之部
一金参万九千四百六拾五円拾九銭 基本金
一金弐万千弐百八拾五円四拾五銭 積立金
一金九百五拾円也 借入金
 合計金六万千七百円六拾四銭
        借方之部
一金五万弐千八百九拾七円弐拾五銭 有価証券
 (内訳)
 一金参万弐千円也       第一銀行株四百株(一株金八拾円ノ割)
 一金弐万円也         同新株五百株(一株金四拾円ノ割)
 一金八百九拾七円弐拾五銭   四分利公債額面壱千円(額面ニ付金八拾九円七拾弐銭余ノ割)
一金五百九拾壱円拾壱銭     仮払金
一金七拾壱円拾銭        什器
一金八千百参拾六円参拾銭    銀行預金
一金四円八拾八銭        現金
 合計金六万千七百円六拾四銭
  備考
   本年度期間ニ於テ基本金参百拾四円拾九銭ヲ増加セリ、之レ服部金太郎君ヨリノ寄附ニ依ル
  以上

△来賓
 青淵先生    同令夫人    稲垣乙丙君
△特別会員(イロハ順)
 伊藤登喜造君  岩崎寅作君   入谷春彦君
 - 第42巻 p.672 -ページ画像 
 石井健吾君   伊東祐忠君   一森彦楠君
 井田正忠君   今井晃君    石川道正君
 板野吉太郎君  井上徳次郎君  伴直之助君
 原胤昭君    長谷川粂蔵君  西尾豊君
 西村道彦君   西田音吉君   西田敬止君
 堀田金四郎君  堀江伝三郎君  堀内明三郎君
 星野辰雄君   土肥修策君   戸村理順君
 豊田春雄君   利倉久吉君   小田精吉君
 大橋光吉君   尾高幸五郎君  岡本忠三郎君
 大野富雄君   小田川全之君  大原春次郎君
 渡辺得男君   脇田勇君    川島良太郎君
 柏原与次郎君  神谷義雄君   神谷十松君
 片岡隆起君   川田鉄弥君   金井滋直君
 金子喜代太君  横山徳次郎君  米倉嘉兵衛君
 吉池慶正君   横山正吉君   田中太郎君
 高橋波太郎君  竹田政智君   田中徳義君
 多賀義三郎君  高松録太郎君  高橋金四郎君
 曾和嘉一郎君  坪谷善四郎君  仲田慶三郎君
 中田忠兵衛君  武藤忠義君   村井義寛君
 村木善太郎君  植村澄三郎君  植村金吾君
 浦田治平君   野村清臣君   野口半之助君
 倉田亀吉君   山田敏行君   矢野義弓君
 山中譲三君   八十島樹次郎君 矢野由次郎君
 山口荘吉君   前原厳太郎君  丸山誠之助君
 松谷謐三郎君  松平隼太郎君  増田明六君
 古田錞治郎君  福島宜三君   昆田文次郎君
 小林武彦君   河野通君    古田中正彦君
 小池国三君   小林武之助君  小西安兵衛君
 江藤甚三郎君  麻生正蔵君   明石照男君
 安達憲忠君   阪谷芳郎君   佐藤正美君
 桜井寅之助君  佐々木慎思郎君 佐田左一君
 佐々木清麿君  斎藤精一君   斎藤峰三郎君
 清水揚之助君  白石元治郎君  渋沢武之助君
 渋沢正雄君   渋沢秀雄君   芝崎確次郎君
 渋沢義一君   白岩竜平君   白石喜太郎君
 島原鉄三君   平田初熊君   肥田英一君
 平岡利三郎君  弘岡幸作君   持田巽君
 桃井可雄君   関直之君    鈴木善助君
 鈴木金平君   鈴木清蔵君   杉田栄次君
△通常会員(イロハ順)
 伊藤英夫君   石井与四郎君  井田英一君
 石田豊太郎君  市川武弘君   伊沢鉦太郎君
 板倉甲子三君  池田友一郎君  伊藤美太郎君
 石井竜一君   石田千尋君   家城広助君
 - 第42巻 p.673 -ページ画像 
 井田善之助君  石橋新蔵君   磯村十郎君
 浜口嘉一君   蓮沼門三君   萩原英一君
 原田駒之助君  秦虎四郎君   西正名君
 堀口新一郎君  本多勝君    豊田喜重郎君
 友田政五郎君  斗ケ沢純也君  時田友次君
 都丸隆君    東郷郁之助君  織田槙太郎君
 大畑敏太郎君  大井幾太郎君  恩地伊太郎君
 岡田能吉君   奥川蔵太郎君  太田資順君
 岡崎寿市君   小倉槌之助君  大平宗蔵君
 小川銀次郎君  小倉平一郎君  岡本亀太郎君
 岡崎惣吉君   渡辺雄馬君   川島正次君
 金沢求也君   上倉勘太郎君  笠間広蔵君
 河崎覚太郎君  河見卯助君   神谷岩次郎君
 神谷善太郎君  笠原孝三郎君  川口寛三君
 金子四郎君   吉岡慎一郎君  吉岡仁助君
 吉田升太郎君  田村叙卿君   俵田勝彦君
 高山金雄君   竹島安太郎君  竹島憲君
 田中鉄蔵君   田中一造君   高橋俊太郎君
 高橋毅君    田島昌次君   高橋森蔵君
 高橋耕三郎君  武笠達夫君   滝本真一郎君
 田子与作君   高島俊助君   玉江素義君
 田宮鈆三郎君  高橋毅一君   曾志崎誠二君
 堤真一郎君   蔦岡正雄君   鶴岡伊作君
 中島徳太郎君  永田市左衛門君 中正一郎君
 中山輔次郎君  長井喜平君   長宮三吾君
 中村新太郎君  村山革太郎君  村松秀太郎君
 上田彦次郎君  上野政雄君   宇野芳三君
 野島秀吉君   久保田録太郎君 熊沢秀太郎君
 黒沢源七君   久保幾次郎君  桑山与三男君
 九里真一君   八木安五郎君  八木仙吉君
 山本宣紀君   山口虎之助君  山下三郎君
 山本鶴松君   山田直次郎君  山村米次郎君
 山本繁松君   松村修一郎君  松村五三郎君
 松本幾次郎君  松田兼吉君   町田乙彦君
 古田元清君   福田盛作君   藤木男梢君
 福島三郎四郎君 深沢真二郎君  藤井信二君
 近藤進君    小林茂一郎君  小林徳太郎君
 小松永太郎君  小島鍵三郎君  河野間瀬次君
 小山平造君   近藤良顕君   小宮善一君
 遠藤千一郎君  江口百太郎君  相沢才吉君
 有田秀造君   阿部久三郎君  綾部喜作君
 赤萩誠君    明楽辰吉君   荒川虎男君
 荒井円作君   阪谷俊作君   佐藤金三君
 佐野金太郎君  桜井武夫君   斎田銓之助君
 - 第42巻 p.674 -ページ画像 
 沢隆君     木村弘蔵君   木村金太郎君
 北脇友吉君   湯浅孝一君   御崎教一君
 三上初太郎君  柴田房吉君   塩川薫君
 新庄正男君   重野逸次郎君  清水景吉君
 東海林吉次君  清水貞三郎君  芝崎猪根吉君
 平賀義典君   平形知一君   平岡道雄君

 平塚貞治君   橋木良清君   平岡五郎君
 瀬川太平次君  関口児玉之輔君 鈴木房明君
 鈴木源次君   杉山斎五君   鈴木順一君
 鈴木豊吉君   鈴木富次郎君  鈴木正寿君
 鈴木勝君
 尚ほ当日会員諸君其他より左の如く寄附を辱うせり、依て玆に厚く各位の御芳志を感謝し、併せて之を誌上に録す
 一金弐拾円也           穂積男爵殿
 一金弐拾円也           阪谷男爵殿
 一金拾五円也           白石元治郎殿
 一金拾円也            神田鐳蔵殿
 一金九円也            小池国三殿
 一金九円也            平田初熊殿
 一金九円也            植村澄三郎殿
 一金四円也            岡本忠三郎殿
 一金四円也            曾和嘉一郎殿
 一生ビール百弐拾五リーター 瓶詰一ダース、シトロン一箱半 大日本麦酒会社殿


竜門雑誌 第三七五号・第一一―一九頁 大正八年八月 ○春季総集会に於て 青淵先生(DK420111k-0005)
第42巻 p.674-681 ページ画像

竜門雑誌 第三七五号・第一一―一九頁 大正八年八月
    ○春季総集会に於て
                      青淵先生
  本篇は、本年六月一日、曖依村荘に於て開催されたる、本社春季総集会講演会に於ける、青淵先生の講演即ち是れなり(編者識)
 時間が大分経過致しましたから私は短いお話をしやうと思ひます。唯今稲垣博士の米に対するお演説は、先般来頻りに研究されつゝ世間に唱道して御座るのでありまして、最後のお言葉の通り、此事を世間に宣伝して、大に同情を起させるやうな方法を、或は鼓吹もし或は教授もしなくてはならぬ。それには費用を要する事であるから、大学に職を奉じて御座るのではあるけれども、政府で其費用を供給して貰ふこともむづかしいから、有志者から相当の資金を醵出して貰つて、是に依て鼓吹宣伝をやつて見たいといふ御希望である。本年の五月四日に、私が大磯に転地療養中御訪問を受けて、只今程に詳しくは伺ひませぬが、稍々鄭寧なる御説明を承り、如何にも食糧問題は大に注意せねばならぬ事と思ひましたので、是迄も各種の人々から、或は米を廃する日を設けるとか、又は大豆を加へる食料法をやらうとか、若くは麦飯を奨励しやうとか、色々の企画に御案内を得て、其趣旨を承つたことがありましたけれども、中に就て最も筋立つた御意見でもあり、
 - 第42巻 p.675 -ページ画像 
殊に充分なる研究をなされた稲垣博士の御説でございますから、今日の竜門社の会合は誰も米を食ふ人だけである、但し竜門社の人だけが米を食ふのではないけれども(笑)幸に極く懇親な人々の集りでありますから、今日の集会に御紹介申したら宜からうと思ふて、幹事に其事をお勧めして、乃ち前席の博士のお話があつたのであります。
 大体から観察しても、余程心配せねばならぬ事である。内閣も更り施政も違つて来たから、少しは工合善くならうかと思ひきや、昨今の有様は米価が段々高くなつて来たといふのは、蓋し事実米が少いといふことに原因して居るだらうと思ふのでありまして、前内閣の取締令が余り強かつた為めに、穀物の出廻りが延滞したとばかり、小言を云ふ訳にはいかぬ。帰する所は、食む者が衆くして、之を生ずる者が寡ければ、財恒に足らずで、大学の「生財有大道」といふ原則と丁度反対に、之を用ゐる者が激しくして、之を生ずる者が舒であると云ふ有様が行はれて居るのである。是は甚だ憂ふべき事であつて、お互ひ竜門社員だけで憂ふる事ではない、それこそ全国民共に憂慮せねばならぬと思ひます。斯く言ふ中にも時間が経過して、御同様に米を食べることが大分遅れましたけれども、既に稲垣君から副食物は無かつたにせよ、吾々に、百点の上等米から三十点の下等米まで提供されて、充分に諸君のお腹が張つて居ります、少々昼飯が遅れる位のことは、御我慢が出来るだらうと思ひますから(笑)私の話をも暫時聴いて戴きたいと思ふのであります。
 私は稲垣君から、貴所が斯く米を不足にせしめたといふて、攻撃を受けるかも知れませぬ。又私も其罪を自覚して居りますけれども、決して悪い気でしたのではない、而して是は私ばかりではない、竜門社員は概ね米を少くする方に努めて居る人である、如何となれば社員の多数は工業従事の人々である。但し人造肥料会社の諸君だけは、米を余計にするやうに努められるから、米を消費する所の罪人ではないけれども(笑)工業を盛にする諸君は、米の食ひ手を増して、米の耕作を減ずるのであるから、何うしても其罪は免れませぬ。更に一歩進めて、富を増すといふことは、或る場合には食糧を限局せしめて農作の人を減ぜしめるやうになると言はなければならぬ。米の多くあるのも富でありますが、米や粟だけを余計にしても富とは言へぬのである。論語に「粟あれば以て足れり」とありますが、此粟は玄米の事を云ふので、それは春秋時分の富であつて、今日の富とても白米を数へぬことはないが、計算の数字が他の貨財よりは少い。而して他の貨財を増す為めには、勢ひ食糧を減ずることになりますから、私抔は其富を増すに努めた一人として、米を減ずることが往々あつたらうといふ虞を持つて居ります。工業を盛大にせねばならぬ、金融を調達せねばならぬ、運輸を便利にせねばならぬ、斯の如き行為は総て農民をして工業に移させる。而して其移るといふは、耕作を減ずるのと反比例に、食べる分量が多くなつて来る、甚しきは都会に出て、働かないで食ふ事だけをする種類の人が、大分出来ましたから、随つて米が不足になるのは免れないのであります。併し私は一方に爾う言はれるけれども、単に罪ばかりは、作つて居りませぬ。只今稲垣博士が、人は其食糧の
 - 第42巻 p.676 -ページ画像 
三分の一は米を食つてはいけぬといふことでありましたが、私は常に其通りを履行して居るのである。先づ朝食はオートミルと麺麭だけである。現に今朝も其食事であつて(笑)一日に必ず一度は米を食ひませぬ。即ち稲垣博士の教旨を、十数年前から励行して居るのでありますから、一方に米を作ることを減ぜしめた罪は、自分が一度米を食はぬやうにして、多少補ひ居るといふことを御承知を願ひたい(笑)。兎に角に此食糧問題は、竜門社員のみで評議すべき事ではない、大に研究をせねばならぬと思ひますが、果して稲垣君の希望に副ふやうに、他の有力なる人々が、此研究に要する費用、若くは鼓吹宣伝の費用を醵出して呉れ得るか、まだ其辺に付ては私の考案も定まりませぬが、再度詳しいお話を承りまして、洵に良い方法と思ひます。澱粉を加味する趣向などは、其炊き方に付て、広くそれを一般に亘らせるのに、多少研究を要すると思ひますけれども、一方には人造米も出来ませうが、先づ其炊き方に於て、一の便法が行れて参つたならば、前途幾許か上等米の消費を調和し得べき事でありますから、是は頗る有益の方法と考へます。今稲垣君に御約束的に申上げることは出来ませぬけれども、竜門社員一同は、成るだけ此に注意して、米の消費を減ずることに努めると同時に、其の炊き方を世間に広く宣伝し得るやうに、私も努めて見やうと思ひますから、諸君も成るだけお力添へを願つて置きます。
 私が此機会に一言お話して置きたいのは、此春流行感冒に罹りまして、諸君は必ず御案じ下すつたらうと思ひます。其感冒が肺炎にならんとしましたから、自身では八十を一期として、諸君に線香を立てられるかと思うたのであります。然るに是は自身の少し早まり過ぎた覚悟であつて、実はそれ程大病ではなかつたやうであつた。故に医師又は近親の人々からは、少し慌て者だと言はれました、或は慌て者であつたか知れませぬが、此慌て方は、私は決して不理窟ではなかつたといふことを、此場合一言御申訳をして置きたいと思ふのであります。
 私が農民から世の中に出て、種々なる方面に微力を致したことは、今喋々申上げぬでも、此会同の諸君は皆御知り下すつて居るが、殊に七十七を機会として、大正五年に凡ての生産殖利の事務を罷め、俗に謂ふ給金取を一切お断りして、今後の数年を精神的に努力しやう。頽齢の時期を此方面に送つて見やうと考へた、而して其精神的といふも唯々漠然たる意味でなく、三つの目的を有して居つた。此事は竜門社員諸君には、度々お話したのでございますが、玆に再言すれば、第一には道徳と経済の調和といふ事柄でございます。之を私は極く簡略に論語と算盤と申して居りますけれども、詰り、算盤の計数を重んずれば、自然と論語の道徳を軽蔑し、偏に仁義道徳にのみ抱泥すると、生産殖利が疎くなつて、そんな功利の事は卑しい、下品であるといふことになつて、富力の進歩が闕如する。それはどちらもいけない、双方共に進まなければならぬといふことは、過去も然り、現在も左様であり、将来も亦益々必要なりと思ふのであります、けれども此両輪の車は、兎角片転りのするものであつて、一方が進むのに、一方は同じく走らぬことがある。詰り、富を増すがためには、道理は少しく悖つて
 - 第42巻 p.677 -ページ画像 
も已むを得ぬ、我が富の増進に努めたいと思ふから、是が真正の道理であるといふ攻究が後になる。即ち致富の企望が先になると、道理を疎外にする、之に反して余りに道理に抱泥して、高尚の事を好むと、事業には成るだけ手を著けぬが宜い、商工業の経営は自然と人と争ふことが生ずる故に、会社事業も商売も面倒といふて、清貧に安んずるやうになる。其人はそれで満足であらうけれども、生産殖利は大に闕くる所が生ずる。甚しきは、武士は食はねど高楊枝といふ古諺の如く食べた装ひをして、楊枝を使ふといふこともある。是はなかなか一朝一夕にして完全に改善し得がたきものではあるが、第一に吾々実業界の有力者も、小さい仕事をする人も、共に此観念を進めて行きたいのであります。殊に私に極く接近する、竜門社員の如きは、別して此主義を強めて、常に其事を攻究し、又実際意を留めて、此主義の一から二になり、二から四になるやうに拡張し、独り竜門社員ばかりでなく日本全体の人が皆此観念を持やうにしたい。是は決して私の宗旨宣伝の意味ではございませぬけれども、善事を世の中に拡めたいといふのは、例へば日蓮・親鸞の如き宗教家でなくても、誰人も思ふが当然である、私が思ふと共に諸君も思うであらう。蓋し此主義は、一朝一夕に普及することではない、詰り、畢生の力を注がなければ、其端緒を開くことも出来ぬと思ふのであります。
 故に私は向後更に十年位は生存して、其宣伝に尽力したいと思うたのに、今や其終りを告げないで死ぬかと思うたから、生命が惜いのではなかつたが、それが頗る残念であつた。さればとて、私の末期の意見を悉く諸君に伝へるには、何等の方法を以てしたら宜しいか、それから又現に私の関係して居る事柄、例へば各男女の学校又は慈善事業其他種々の公共団体の維持に付ても、私が如何なる手段方法を以て、善後の策を講ずる意志であつたといふ事が、判らずに死去するのは、人として意義なき最後であると思ひましたので、若しも数日の中に人事不省になりはせぬか、果して然らば真に残念の事であると思ふて、主治医の入沢博士に頻りに強請したのであります。然るに、それが私の死を畏れ、疾を厭ふて強く煩悶した如くに評判され、諸君にもお聴做しを受けたか知れませぬが、固より死を喜ぶ人は無い。私も矢張り同じである。併し私は比較的に死を畏れぬ方であつて、青年の頃は寧ろ死を以て国家への報効と心得、事に当りて身を致すのを、人生最上の愉快と思ふた。故に死といふことに対しては、左程に恐怖もしませねば、又哀惜もせぬのであります。けれども前に述べた理由から、今日此儘に人事不省に陥つては、実に遺憾の極であると思ふて、頻りに苦悶したのであります。此病中の苦悶は、仁義道徳と生産殖利の合一を宣伝するの一事に就て為したのでありますが、私は尚ほ他に二つの企望を持つて居ります。
 其一は資本と労働との調和であります。是も多くは工業に従事の諸君ですから、管々しく申上げぬでもお判りでありませうが、是亦なかなかの重要問題であります。問題が時代の要求たるゆゑに、それ程中心に憂慮しない人でも、此問題を唱へるやうになつたのは、一方から言ふと片腹痛いことだけれども、又此問題が如何に重要かといふこと
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が、察し得られるのであります。此事に付ては、既に欧洲に於て、国際聯盟の問題ともなつて居りますが、本年の十月には、華盛頓で会議が開かれるとのことであります。此等の内容までも、今諸君に詳しくお話することは出来ませぬが、我邦に於ても、相当な施設がなければならぬといふことは、政事界の人も、学者も、実業者も共に苦心して居る。私も亦其一人として、近く玆に一の組織を見るやうに相成つて居ります。其事に就ては、昨冬からの懸案になつて居りまして、先頃の私の病気の時に未だ帰決せずに居りましたから、是も煩悶の一であつたといふことは、蓋し諸君もお察し下さるであらうと思ふのであります。軈て此懸案が或る形式で現はれるだらうと思ひますから、今は其詳細を申上げませぬ、但し此一方のみに依て、此問題が解決されるものではありませぬ。此の先き紆余曲折、種々なる紛擾もありませうが、どうか順当の径路を踏んで、成るべく善い方に進めたいと、私の老後の務として微力の及ぶ限り尽して見たいと思うて居ります。
 更にもう一つは貧富の懸隔を融和するといふ、即ち済貪恤救の事務であります。此救済の事は、動もすると仏説の喜捨となりて、只物を捨てゝ窮乏の人に施すを主義としますけれども、人道的若くは経済的に言ふならば、単に喜捨ばかりではいけない、先づ第一に防貧を努めねばならぬと思ひます。斯く論ずると所謂社会政策となつて、学者・政事家の領分に立入るかも知れませぬが、貪しき人を救護し又は防貧の措置をすることは、人道上から言つても、政治上から考へても、経済上から観ても、必要欠くべからざることではないかと思ひます。故に私は殆ど五十年に近い歳月を、東京市の養育院の事務に関係し、其初めは唯一の財政の管理であつたが、爾来色々に変化して、今日は当局者と成つて居ります。而して相手変れど主更らず、幾多の市長又は参事会員は更迭しても私は今尚ほ従事して居ります。独り養育院のみでなしに、中央慈善協会又は慈恵会及び和泉橋の慈善病院にも、会長又は副会長となつて居ります。斯く数多の慈善団体に関係して、斯くあつたら宜からうと、種々思ひつゝも、未だ其最善を尽さぬ間に、遂に無き人の数に入るかと思ふと、遺り惜い感じがしたのであります。
 今、私の病気の経過を換言すれば、本年三月一日から発病して、丁度一ケ月間病蓐に呻吟しました。殊に熱度の高かりしは、三月五日から両三日間であつて、四月の初旬から追々に回復しましたが、まだ床の中にも起坐することは出来ぬ位であつた。中旬頃からは少しく読書が出来るやうになりまして、其月末には病床を離れて外出し得るやうになつたから、後から思ふと格別でもなかつたやうですが、前に述べた如く、数年前に期念した三案件を、成就せずに死ぬることゝ思ひました故に、即ち家族には大層煩悶したやうに看做されて、それが伝つて世間のお笑を受けたのであります。是に於て、今日此機会に竜門社諸君に向つて、単に死を畏れた訳ではなかつた、斯る心事であつたといふことを、弁明するのも敢て無用の弁ではなからうと思ふのであります。
 終りに臨みて、更に一つお話したいと思ふ事は、世の中の思潮の変化であります。欧洲大戦争の勃発した初からして、時々の竜門社員の
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会合には、此行末を如何に考慮したら宜からうかといふことは、其一端を叩いて意見を述べたこともありました。要するに始あるものは終ありで、結局戦争は終熄するであらう、平和は克復するであらう、是は私が知るばかりではない、世間が皆さう思うて居る。只それが何時頃であるかといふことは、神ならぬ身の誰も知らぬ。そこで、私は此戦乱後の平和は、只武装平和でなく、道理に基く太平が望めるだらうと、斯ういふ感じがあつたので、度々或る機会に友人と談話したが、否な爾うではなからうとか、或は然らんとかといふて、戦争中に戦後の事を予想した。固よりウイルソン大統領が、国際聯盟案を発表しやうとか、独逸との講和条約が如何様にならうかといふ事にまで、考案の及ぶ筈はありませぬけれども、此戦争の終つた後も、武力主義の平和か、又は人道に基く国交か、といふ事は頗る興味ある問題として、攻究して見たい事である。此の大戦乱後に於ても、各国共に何処までも、武装を以て纔に平和を維持するといふのが、人類最上の務であるか、人は尚ほ是れ以上の知恵はないかと、篤と考へて見なければならぬ。恰も角力取が双方狙つて居ると同じく、又鶏の蹴合の如く、共に斃れるをも忘れて相争ふのは、真に人智の向上したものとは言へないのである。去りとて、人は皆孔子や釈迦のやうにはなり得ぬから、黄金世界といふことは出来ぬとしても、武装的平和以外に、一歩進んだ工夫がありはしないかと、私は左様に望んだ一人であります。時々会談の席上で、それは空想家の言であると、十遍の談話に十遍の冷笑を受けるといふ有様であつた。而して愈々休戦条約が成立して、忽ちに例の国際聯盟案が、ウイルソン大統領によりて提出された、是が私の空想に一寸相応ずるやうな感じがしたので、是に対しては、日本からも適任の人々が出て其会議に与り、充分の力を尽されるであらうから吾々の心配は要らぬが、それは政事上当面の話であつて、更に進んで私が前に述べた如く、戦争の熄んだ後、人智が更に進んで行つたら、世界は如何に成り行くであらうかと、所謂精神界の人は我邦から一人も出掛けぬ講和約条書は如何、それに付ての利害得失は如何と云つて幸に使節に随伴する実業家もあるから、従来の講和会議に例のない名案も出やうが、一歩進んで、此人類が相争はずして、生活の出来る社会とするは、如何なる道徳的国際法を要するか、是は西園寺侯・牧野男のやうな政事家でなくても、人道上、社会的に此会議に参列して、列強からも必ず其意見を持つて出席する者があるに相違ないから、是等の人々と折衝して見たいと思ふた。蓋し俗に言ふ岡目八目で、無責任なる言論であらう、所謂蟷螂の斧、蚊蛃山を負ひ、精衛海を塡めるといふ古諺の如くであらうけれども、私は、世界の将来は必ず左様の事があらうと夢想的に思ふのであります。前の意見に付ては、或る友人の方より、私自身の出張を促されましたが、自ら顧ふに、第一英仏の語学も出来ず、殊に頽齢の身で此重任を負ふべき柄でない。さりとて此種の人は、一人も此会には出席せず、精神界の攻究は、日本人には参与し得なくて、唯々政事的の会議、又は算盤上の得失談だけで、此講和会議が終つたといふことでは、日本人が余りに腑甲斐無いと、私は切実に考へたのであります。
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 是に於て講和会議に直接なる任務はなくても、然るべき派出員を詮考致しまして、終に友人中の添田寿一君と姉崎正治君が出張することになつたのである。但し此両君も私が派遣したといふではなく、偶然自身の奮発で出掛けたのでありますが、姉崎君は仏都巴里の学校に講演を頼まれ、添田君は欧羅巴視察の後英国に用事ありて此旅行を決しました。而して私は従来懇親の間柄から、種々に協議しましたから、特に私から、お頼み申して派遣したと申しても、決して過言でないやうになりました。添田君は既に出立されて姉崎君が軈て発足といふ時に、私が大病に罹つたから、私の生命を惜みたるは、其模様が一向判らずに死去するのは、情ないといふ感じを持つたためであつて、諸君も御同情下さるであらうと思ふ。若し爾うでなく、渋沢が唯々生命が惜しかつたのだとお笑ひなさるならば、笑ふ方が御無理だと、私は言ひたいのであります。今日も判然と記憶して居りますが、三月の十七日に阪谷男爵と姉崎君とが病床に来られた時、私はまだ快方に向はなかつたけれども、疲労の身ながら姉崎君に向つて、君が往つて呉れるに付て、私の希望は斯様々々であると、病苦を忍んで約一時間ばかり氷を嘗めつゝ話をした。其希望に対しても其後の様子を聴きたい。それが甚だ未練である、詰り生命惜みであると、若し諸君が評するならば、諸君の方が冷酷であると私は言ひたいのであります。幸に病は平癒しましても、未だ玆に完全なる消息を得ませぬが、添田君からは二回の来書を得ました。姉崎君からも亜米利加からの書翰を得ました。又鈴木文治君は労働者の代表として往きました。是にも私は多少の希望を属して再度の書状を得ましたが、講和会議の内容はまだ端緒であつて、国際聯盟も終に斯様に結了するであらうといふ事は、果して諸君に御報告し得られるか、或は得られぬかも判りませぬけれども、此等二・三の親友が私の老後の熱心に対して、同情を持つて尽力して居る故に、夫等の行動に付其要領を得ましたならば、竜門社員の諸君に或る機会に於て、申上げるやうにしたいと思ふ。而して其時まで私は生存して居たいといふことを、今も尚希望して居るのであります。
 私が病気に罹つて大に苦悶したといふことは、強て弁解する必要もありませぬけれども、病気の経過をお知らせして、御安心を願ふと共に、病褥中に在て如何に心配して居つたかといふことを、此集会を機会に報告したのであります。但し最終にお話しました、完全なる平和の問題が、真に行れるかといふことは、或は期待し難いと思ひます。現に日本の新聞社などは、国際聯盟を提案したウイルソン大統領に向つて、公開状を以て詰問をして居るけれども、ウイルソン氏自身も亜米利加人残らずを、皆自分の意思と同じくすることは出来ない。それと同様に、此渋沢も日本人の心を皆同じくすることは出来ない。それと同様に、此渋沢も日本人の心を皆同じくすることは出来ない。斯う考へますと、ウイルソン氏を責めるのも、少しく冷酷に失しはせぬかと思はれます。此等は敢て目下必要の談ではありませぬけれども、総じて世の中は高速なる思想を持つ人から見ると、大体其度が低いのでありまして、容易に其高い線には達して来ぬものである。諸君もどうぞ、竜門社の主義として、向後、精神と物質と共に進めて行くといふ
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ことに、深甚の御注意を願ひます。諸君は平素物質上の事に御丹精なさると思ひますが、斯る機会に、精神上の事も少し心に御注入なさるのを必要と思ひまして、私は玆に其事を御勧めするのであります。是で御免を蒙ります。(拍手)



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正八年(DK420111k-0006)
第42巻 p.681 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
五月四日 快晴 軽暖
○上略 稲垣乙丙博士東京ヨリ来訪シテ、糧食節約ノ方法講究ノ事ニ付意見書ヲ示サレ、詳細ノ説明アリタリ○下略
   ○栄一、五月一日ヨリ大磯ニ転地療養中。