デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.59-93(DK430004k) ページ画像

大正10年3月15日(1921年)

是日、当社評議員等発起ニヨル、当社功労者故尾高次郎及ビ八十島親徳ノ追悼会、帝国ホテルニ於テ開カル。栄一出席シテ追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK430004k-0001)
第43巻 p.59-60 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一〇年        (渋沢子爵家所蔵)
 - 第43巻 p.60 -ページ画像 
三月十五日 晴 軽寒
○上略 五時半帝国ホテルニ抵リ、尾高・八十島二氏ノ追悼会ニ出席ス、蓋シ竜門社ノ開催スルモノニシテ、来会者数百名、頗ル盛会ナリ、阪谷男ノ開会辞、佐々木・藤村二氏ノ尾高・八十島二氏ノ追悼辞アリテ後、余モ亦一場ノ感想ヲ述フ、八時頃食卓ヲ開キ、卓上演説等アリテ夜十一時散会帰宅○下略


竜門雑誌 第三九五号・第四九―五一頁大正一〇年四月 ○故尾高次郎及八十島親徳両君追悼会(DK430004k-0002)
第43巻 p.60-62 ページ画像

竜門雑誌 第三九五号・第四九―五一頁大正一〇年四月
    ○故尾高次郎及八十島親徳両君追悼会
 昨春、疾を以て相踵で逝去せられたる、本社評議員尾高次郎君及び同評議員兼幹事八十島親徳君が、生前、本社の為に尽されたる功労を追懐すれば、哀悼の情、一入切なるものあり。玆に、本社新旧評議員及藤村義苗君等三十八名発起人となり、本社会員有志相会し、両君の追悼会を催して、往事を追懐すると共に、併せて両君の遺族を招待して、聊か其心事を慰むべく、阪谷男爵主宰の下に、去三月十五日午後四時三十分より、帝国ホテルに於て、其追悼会を催したり。
 当日、会場には金屏風を以て囲まれたる前面の祭壇に、黒布を以て四囲を蔽はれたる両君の写真を安置し、一段下りたる台上には、新鮮なる供物を奠へ、更に芳香馥郁たる清淡の盛花を、祭壇の左右に近く饗ふ所あり、喪色極めて濃かなる一堂の光景は、会する者をして、そぞろ故人の追懐を新たならしめたるが、定刻、阪谷男爵起つて開会の辞を述べ、更に両君に対する追懐の辞あり、次で尾高次郎君の友人総代として佐々木勇之助君、八十島親徳君の友人総代として藤村義苗君の追悼辞あり、最後に青淵先生の両君追悼の辞ありたるに対し、尾高君の嗣子尾高豊作君及び八十島親徳君の嗣子八十島誠之君並に令弟八十島樹次郎君の鄭重なる謝辞ありて、玆に阪谷男爵閉会の辞を述べ、それより来会者一同食堂に至りて宴を開き、其デザート・コースに移るや、土岐僙君は尾高次郎君の為めに、高根義人君は八十島親徳君の為めに、更に福島宜三君は尾高次郎君の為めに、植村澄三郎君は八十島親徳君の為めに、各々追懐の辞を述ぶる所ありて、一堂、感慨無量の裡に散会せるは、十時を過ぐる半なりき。因に当日旅行中の井上金治郎君は、本会に出席する事能はざるを遺憾とし、京都より電報を以て、両氏追悼の意を表せられたり。尚当日来会の遺族及会員諸君左の如し。
    △遺族
                    尾高豊作君
                    同母堂
                    尾高幸五郎君
                    八十島誠之君
                    同母堂
                    八十島樹次郎君
    △主催者側
  青淵先生    同令夫人
  石田豊太郎君  石田友三郎君  井上公二君
 - 第43巻 p.61 -ページ画像 
  井上徳治郎君  磯村十郎君   磯野孝太郎君
  石井健吾君   今井又治郎君  石川道正君
  一森彦楠君   服部金太郎君  林武平君
  原簡亮君    原胤昭君    西村道彦君
  西田敬止君   西村暁君    西村直君
  西野恵之助君  二宮行雄君   穂積男爵
  穂積男爵令夫人 穂積重遠君   堀内明三郎君
  堀田金四郎君  星野辰雄君   土肥脩策君
  戸村理順君   利倉久吉君   土岐僙君
  土肥東一郎君  尾上登太郎君  大沢省三君
  小畑久五郎君  大橋新太郎君  織田雄次君
  大沢正道君   大川平三郎君  渡辺得男君
  脇田勇君    金井滋直君   川田鉄弥君
  神谷義雄君   川島良太郎君  神田鐳蔵君
  吉岡新五郎君  横山正吉君   米倉嘉兵衛君
  竹村利三郎君  竹田政智君   田中太郎君
  田辺淳吉君   高橋毅一君   高根義人君
  高松録太郎君  高橋波太郎君  田中元三郎君
  高橋俊太郎君  竹山純平君   高橋金四郎君
  田中栄八郎君  中沢彦太郎君  中村鎌雄君
  成瀬隆蔵君   中井三之助君  永田甚之助君
  中野時之君   内藤太兵衛君  村木善太郎君
  村松秀太郎君  武藤忠義君   上田彦次郎君
  植村澄三郎君  上原豊吉君   内山吉五郎君
  野口半之助君  日下義雄君   久万俊泰君
  久保田録太郎君 山中譲三君   山口荘吉君
  山田昌邦君   簗田𨥆次郎君  山内政良君
  山下近重君   山下亀三郎君  馬越幸次郎君
  前原厳太郎君  増田明六君   松平隼太郎君
  福島宜三君   藤田英次郎君  藤村義苗君
  福島三郎四郎君 古田錞治郎君  藤田好三郎君
  河野正次郎君  古田中正彦君  小池国三君
  小林武之助君  小畔亀太郎君  昆田文次郎君
  江藤厚作君   江藤甚三郎君  手塚猛昌君
  明石照男君   明楽辰吉君   浅野総一郎君
  阿部吾市君   佐々木慎思郎君 坂田耐二君
  佐々木哲亮君  斎藤精一君   佐々木修二郎君
  斎藤章達君   佐藤正美君   阪谷男爵
  阪谷男爵令夫人 佐々木清麿君  佐々木勇之助君
  阪谷俊作君   佐田左一君   木村雄次君
  木村清四郎君  木村弘蔵君   木村弥七君
  湯浅徳次郎君  白石甚兵衛君  清水釘吉君
  清水一雄君   清水揚之助君  白石元治郎君
  渋沢武之助君  渋沢正雄君   同令夫人
 - 第43巻 p.62 -ページ画像 
  渋沢秀雄君   渋沢義一君   渋沢信雄君
  白岩竜平君   白石喜太郎君  柴田愛蔵君
  品川瀞君    渋沢元治君   芝崎確次郎君
  白石重太郎君  弘岡幸作君   桃井可雄君
  諸井四郎君   諸井六郎君   持田巽君
  瀬下清君    関直之君    杉田富君
  鈴木勝君


竜門雑誌 第三九六号・第二七―五〇頁大正一〇年五月 ○故尾高・八十島両君追悼会に於て(一) 開会の辞 阪谷男爵/故尾高次郎君追悼の辞 佐々木勇之助君/故八十島親徳君追悼の辞 藤村義苗君(DK430004k-0003)
第43巻 p.62-79 ページ画像

竜門雑誌 第三九六号・第二七―五〇頁大正一〇年五月
    ○故尾高・八十島両君追悼会に於て(一)
      開会の辞
                      阪谷男爵
 閣下並諸君、唯今より、我が竜門社の為めに多年最も功労の深かりし、故尾高次郎君並八十島親徳君、此御両君の為に、竜門社に於きまして、玆に追悼会を催します次第であります。御多用の所を、斯く御遺族の方々並に青淵先生、其他会員諸君の多数に御集りを得ましたことは、深く感謝致します。
 尾高次郎君は、殆ど我が竜門社の創業中の創業の時代より、竜門社の為に尽力せられましたのでありまして、或は此竜門社を創設すると云ふ、最初の御考も尾高次郎君の頭に宿つたのではないか、敢て前後を論ずる必要もないのでございますけれども、恐らくはさう云ふ訳ではなかつたらうかと思ひます。竜門社の起りは、深川福住町渋沢家の本邸に産れ出ましたのでございますが、其時代は明治十九年の頃で、一番の始まりと云ふものは極く確かには分りませぬ。斯う云ふ事と云ふものは誰が言ひ出してどうしたと云ふことでなく、自然と起りますもので、渋沢家の所謂玄関に書生として居られた若い人々の発起に依つて、一には渋沢家の御相続人たる、渋沢篤二君の教育上の目的も意味して居つたと云ふやうなことを、聞及んで居ります。即ち演説を致して互に知識を磨ぎ、演説の稽古をすると同時に、名家又先輩の人々に色々話を聴く、又文章を練る為に論文を書いたりして、雑誌を発行する、斯う云ふ訳でありました。最初の中はホンの書生集りで、雑誌と申しても鉛筆なり筆なりで書いた、若くはそれを蒟蒻版にして刷つたと云ふやうな事が始まりであつた、其時代から尾高次郎君は関係して居られたのであります。それで、初めは子供なり書生なりの会であつたのが、其子供なり書生なりが段々偉くなり、社会の枢要の位地に立つと云ふことになつて来る、又渋沢家は段々繁昌を加へて大きくなる、又渋沢青淵先生の薫陶に預る人も次第々々に数が増すのみならず又日本の実業界に於て非常に有力なる人々が多くなると云ふことから勢ひ竜門社も亦規模を大きくせざるを得ぬ、斯う云ふことになつて、遂に今日の竜門社の盛大を致すに至つたのであります。其竜門社が唯だ従来の如く、書生のみの集りと云ふのでは、どうしても満足し能はぬと云ふ事を、竜門社員が初め考へ出した時代から、故八十島君が幹事として尽力せられたのであります。唯今の竜門社に評議員の制度を設けるとか、或は青淵先生に一夕お話を乞ふて、竜門社の綱領を定め
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るとか、又春秋の二回に総会を開くとか云ふやうに、総て完全なる学術会若くは研究会として、組織を完全に致すことに与つて力あつたのが、八十島親徳君であります。其時代には尾高次郎君は、或は朝鮮の方の御在勤となつたり、若くは日本内地に在られても遠方の御在勤となられたりしたと云ふやうなことで、東京には御居でがなかつたので勢ひ八十島君が主として世話をせられなければならぬ、又篤二さんも段々大きくなられて専ら斡旋せられる、斯う云ふ訳であつたのでありますけれども、主として八十島君が幹事の任を尽された。勿論竜門社の今日になりましたのは、尾高君・八十島君のみの力であると申すのではありませぬ。多数の有力なる竜門社会員、殊に青淵先生を初め、穂積男爵、評議員の有力なる方々、即ち皆様の御尽力に依つて、今日の盛大を致したことは当然でございますが、其中に於て或は竜門社の大に刷新すべき機運を促したり、或は規則の既に時代に後れたのを大に改正して進歩を図ると云ふやうな事の始まりに就て注意を与へ、機運を促し、又それ等の事柄に順序を立て経営の方法を定めて、之を完成すると云ふやうな事に就ては、最も両君の力が多きに居つたのでありますから、両君の竜門社に対する功労と云ふものは、久しき年限の間、最も深かりしと云ふことは、御同様認めざるを得ないのであります。
 殊に両君は、単り竜門社に対して功労あるばかりでなく、御同様の友人と致して、或は同僚と致して、洵に優れた方であつた、友人としては之を益友と言はねばならぬ、又同僚たり其他の関係に於ては、洵に得難き性格の人であつたのであります。尾高君は至つて物事を綿密に考へられる中に、随分大胆な考を有して居つた人であつて、同君の仕事が朝鮮に、殊に朝鮮興業会社――其当時未だ日本の内地に於ける実業家資本家が余り着目せず、或は着目致しても多少尻込んで、どうだらうかと云ふやうな時代に於て、朝鮮に着目して、朝鮮興業会社の仕事を始められた。日本の今日の発展したる跡から考へますると、達見であつたと言はなければならぬ。又内地其他に於ても、主として同君の唱道に成つて大なる成績を挙げて居る会社、即ち東洋生命其他幾多もあるのでありまして、同君の世を去られる際に於て、同君の勢力同君の信用に依つて活動して居つた事業は少なからなかつたのであります。即ち同君の国家に対する功労も亦大なるものであつたと言はなければならぬのであります。殊に同君の郷里たる埼玉県方面の事に対しましては、青淵先生の御援助の下に、又御監督の下に、幾多の仕事を進められたのである、即ち国家社会に於て惜しむべき得難い人物であつたのであります。又友達としては誠に益友で、愉快で、常に人の記憶に存する人であります。同君は尾高惇忠君の御子息であつて、私は詳しくは存じませぬけれども、蓋し尾高家の久しき歴史の中に於て尾高家には盛衰もあり、又惇忠先生の如き人物も出たのでありますけれども、家道を盛にせられたのは、蓋し尾高家歴代の人々の中でも、先づ第一に指を屈しなければならぬ人であつたらうと思はれる。今日尾高家の家道の盛なることは、主として尾高次郎君の力に依るものと考へられるのであります。
 - 第43巻 p.64 -ページ画像 
 八十島君は是亦得難い益友である、性質の極めて温和にして、思慮周到で、親切で、忠実にして、最も青淵先生の人と為りを慕はれて、幼少の時より篤二さんと学友となり、業を卒へて後、青淵先生の下に終始従事されて、渋沢家の事業を援けられたのであります。同君は青淵先生の指導監督の下に、始終忠実に終始せられたのでありますから尾高次郎君の如くに、別に離れて社会国家に活動せられたとは申されぬのでありますけれども、青淵先生は追々老年になられて、其従来従事せられて居つた仕事を、段々八十島親徳君に譲られたので、日本に於ける有力なる会社の重役は幾多勤められたのであります。又青淵先生の仕事を為さる上に就て、八十島親徳君の周密にして、親切にして忠実なる働きと云ふものが、如何に青淵先生の御活動を援けたであらうかと云ふことは、想像に難からぬのであります。例を引いては甚だ其当を得ぬかも知れませぬけれども、団十郎と云ふ日本の古今に珍らしい名優が、幾多の吾々の記憶に存する有名なる芸を致しまして、吾吾は尚ほ記憶致して居るのでありますけれども、其場合に於て、新蔵其他の良き弟子が、師匠と共に舞台に立ちました時には、一層に団十郎の芸が栄えて見えました。所が新蔵の如き有力なる弟子が去りましてからは、何となく団十郎が芸をするのに、甚だ困つたと云ふやうな様子が見えたのであります。社会国家の事は劇場の芸道とは違ひます殊に青淵先生の如き精力御旺な御活動に於て、八十島君が居りましても居りませぬでも、少しも違つた点は目には見えませぬのでございますが、併ながら、青淵先生御自身の御活動なさる場合に於て、八十島君の居られた時は、非常に楽に感じられたであらう、斯う思はれるのでございます。併し八十島君去つて後に、又段々立派な人材が、青淵先生の御監督の下に従事せられるやうになりましたから、青淵先生に於かれましても、定めし御活動の上には不自由は感ぜられませぬと思ひますが、併ながら、八十島君の事は蓋し御忘れのない事であらうと想像に難からぬのであります。
 八十島君は、伊予宇和島の藩士であつて、名家の御子孫でありました、其話は穂積男爵より先年承つたのであります。而して尾高次郎君と同じやうに、八十島家の長き歴史の中に於て、八十島親徳君の如きは蓋し最も傑出したる御人ではなかつたらうか。是は徳川時代と今日とは違ひますから、先祖と八十島君とを明瞭に比較すると云ふ訳には参らぬのでありますが、八十島家の家道を盛んならしめ、又国家社会の実業上に尽された点、殊に青淵先生を輔佐して日本に尽された事柄と云ふものは、宇和島の一角を超越して、日本帝国と云ふ広い区域に於て働かれた事でありますで、第一に八十島家に於ては指を屈すべき人であらうと思ひます。而して私はさう申すことを八十島家の祖先の人は、蓋し満足せられるであらうと私は考へるのであります。
 斯の如くに、尾高君と云ひ、八十島君と云ひ国家社会から見て最も優等なる人が、偶然にも我が竜門社の為に心血を注がれたと云ふことは、実に竜門社の幸ひであつたのであります。然るに残念な事には、昨年の二月四日、又三月十八日と云ふ日に、未だ春秋に富み、将来大に働かるべき、又其才能が段々と鍛錬を加へて、最も世の信用を博し
 - 第43巻 p.65 -ページ画像 
て是から大々的活動を期待する場合に於て、如何なる風の吹廻はしであつたか、無情の風に花の散つたと云ふことは、吾々友人として実に残念に堪えざるのみならず、又国家社会の為に、惜みても尚ほ余りあることでございます。斯かる訳でございまして、今日此追悼会を催す場合に於て、皆様が少しも御多用を御厭ひなく、御集り下さいました事は、又以て両君の功績徳行の諸君に深く認められて居ると云ふことを、証明されると思ふのでございます。私が唯今竜門社の評議員会長を致して居りまする関係上より、玆に尾高次郎君、又八十島親徳君の御写真の前に、是だけの自分の考を申述べることを得まするのは、甚だ光栄とする所である、のみならず又、斯く多数の両君を慕はれる親友諸君の前に、十分私の心の底より考へて居りますことを申述べる機会を得ました事を、両君の友人として深く満足する次第でございます是より尚ほ追悼の御詞を願ひます方がございますので、私はまだ胸中には言ふべき事は充満ちて居ります、もう少し申上げたいのでありますが、一人で時間を費しましては相済みませぬ。開会の辞に併せまして、追悼の辞を申述べます。

    故尾高次郎君追悼の辞
                     佐々木勇之助君
 閣下並諸君、私は御承知の如く学問もございませぬで、斯く多数の御集りの席でお話を申上げるとか、演説を致しまするとか云ふことは甚だ不得手でございますので、是迄も常に御断りを致し、又人様もこれを御許し下すつて居りましたから、実は今日も成べく御免を蒙りたいと思ひましたのでございますが、併し今日此会に於て追悼さるゝ、尾高次郎君と八十島親徳君には、私も別して御懇親を蒙つて居りましたから、縦令申上げることが拙くとも、自分の知つて居ります事、又感じました事を申上げませぬでは故人に対して相済みませぬと心得ましたので、甚だ不束を省みず、此処に立ちました次第でございます。尚ほ八十島君の事に就きましては、藤村君からお話がございまする筈でありますから、私は尾高君とは三十年間、第一銀行に共に業を執つて居りました関係より、尾高君の御事績に就て私の知つて居ります所又感じました所を申上げまして、追悼の意を表したいと存じます。
 故尾高次郎君は、皆様も御承知の通り、明治二十四年七月に、東京高等商業学校を御卒業になりまして、直に私共の従事致して居ります第一銀行に、御入行になつたのであります。其当時はまだ第一国立銀行と申した時代でありますが、入行せられて帳面方と云ふ係になり、簿記及計算の事を習得せられ、翌二十五年七月には、秋田支店の計算方となり、支店長の次席となられました。二十八年三月には、名古屋支店の計算方に転任し、其翌二十九年八月には、四日市支店の支配人となられ、三十一年三月、朝鮮の釜山支店の支配人に転任せられ、翌三十二年十一月、仁川支店の支配人になられ、三十五年には、仁川支店支配人で釜山と京城及び木浦の支店を監督すると云ふ、重大なる任務を負はれたのであります。さうして、三十六年六月に、故清水泰吉君が京城支店の支配人となられました節に、野口弥三君と交代して本
 - 第43巻 p.66 -ページ画像 
店に帰任せられ、同年八月本店の検査課長となられ、其以来其職に鞅掌せられて居りましたが、三十八年一月の株主総会に於て、監査役に選任せられまして、それより昨年二月謙倉に於て御逝去になりまするまで、其職に尽されたのでございます。
 右申上げます如く、尾高君は第一銀行に入行せられましてから、三十六年、本店に帰られまする迄十二年間、各地の支店に在勤せられまして、実に席暖になるに暇あらず、と云ふやうな有様でございました去りながら、尾高君は渋沢子爵を御学びになつた為でございますか、又は先人の藍香先生の御系統的の御性質でございますか、義侠的の所もあるし、且つ活動的の御方のやうに私は存じました、それ故に何処支店に御出でになつても地方の有力者と御交際になり、且つ地方の産業の発達に就て、色々助力もせられ、御世話も為すつたと云ふ為に随て此銀行の業務の上に於ても、裨益する所が多かつたと思ふのでございます。それで同君が銀行の勤務中に最も力を致されましたのは、仁川支店の支配人として同地に在勤せられました時の事でございます是より少しく其事柄を申上げます。
 朝鮮の海関税と云ふものは、明治十六年以来、韓国の総税務司と第一銀行の契約に依つて、其収入を第一銀行で取扱ふことになつて居りました。所が元来朝鮮には、葉銭と云ふ孔のあいて居る銭、韓銭とも申しますが、其銭の外には貨幣と云ふものは無かつたのであります。それ故に海関税を納める時に一時、(初めは釜山・仁川の両支店でありましたが)、韓銭の預り手形を発行して、其手形を以て海関税を納めたと云ふ時代もありました。併し開港以来段々日本の商人は勿論、支那人・欧米人等が入込んで参りましたから、此海関税は支那の例に依つて、墨西哥銀か、若くはそれと同種同量の日本の一円銀貨を以て納めると云ふことになりましたのであります。随て日本の一円銀と、其一円銀に代るべき日本銀行の兌換券も段々通用するやうになりました。所が日清戦争後、我が政府では金貨本位の制を布かれて之を採用せられ、明治三十年十月以後、是まで貿易市場に流通して居つた一円銀と云ふものは、一切之を引揚げられると云ふ事になつたので、朝鮮に於ては忽ち貿易上の通貨を失ひました次第であります。夫が為めに朝鮮に居ります我が商人は、再び不便なる韓銭を通貨として用ゐなければならぬ様な事になると云ふ事を、非常に心配致しましたので、当時我が第一銀行の頭取たる渋沢子爵は、我が政府で引揚げられました一円銀に一定の刻印を捺して、此刻印銀貨を一時朝鮮の通貨としたらどうだらうと云ふ案を御立てになつて、大蔵省及日本銀行に御話になりました所が、其同意を得られまして、当時の朝鮮の総税務司のブラウンと云ふ人にも相談をした所、同氏も同意をしましたので、右の刻印銀貨と日本銀行の兌換券とを以て、一時朝鮮に通用させると云ふ事になりました。然るに其頃から、露国で朝鮮の財界に勢力を拡張しやうと云ふ考がございまして、新に露韓銀行を興すと云ふ計画を立てまして、三十年十一月に、露西亜人のアレキシーフと云ふ人が、其当時の韓国政府の財務顧問となつて、さうして、総税務司のブラウンの上に居ると云ふ事になりました。それで、此アレキシーフが朝鮮の財界
 - 第43巻 p.67 -ページ画像 
の有様を見るに、日本の貨幣が段々朝鮮の国内に流通する勢が盛になるので、頗る之を不快に感じまして、刻印銀貨を通用させると云ふ事は、第一に国の体面を汚す、第二には韓国の利益を奪はれると云ふ説を唱へまして、自ら其流通を妨げやうとしたのであります。韓国政府は之に動かされまして、何等の成算もなく、日本の貨幣条例の真似をして、新たなる貨幣条例を作つて之を頒布すると同時に、刻印銀貨の通用を禁止すると云ふ事を布告したのであります。斯の如くアレキシーフの勢力は一時韓廷を圧しまして、其勢を以て露韓銀行を設立して朝鮮の財界に其威力を張らうとしたのでありますが、如何なる都合でございますか、露西亜の政策が俄かに変つて、三十一年三月に突然、アレキシーフを始め朝鮮に来て居つた軍務顧問、其他総ての露西亜人が解任せられると云ふことになつて、随て露韓銀行は一時店を開きかけましたが、閉止すると云ふことに立至りました。
 右の如く露西亜の勢力が薄らぎました為に、三十一年五月、渋沢子爵は韓国に態々出張せられまして、韓国の当路者と内談せられて、日本の刻印付きの円銀を従来の如く通用させて用ゐたらどうか、と云ふ事を段々御説明になりました為に、同年七月に至つて、漸く刻印銀貨の通用禁止と云ふものが解かれたのであります。然るに一方では朝鮮の貨幣条例を布き、丁度一時一円銀が排斥されると云ふ事になつた為に、通貨が欠乏して居りましたから、其当時の典圜局長、日本の造幣局長のやうなものでありますが、其局長の柰容翊と云ふ者が、大阪から原料を輸入して白銅貨の鋳造を企て、頻に之を濫鋳・濫発を致したのであります、或は私鋳をも許しましたから、私鋳の貨幣もあり、贋造も出来まして、さう云ふものが非常に多く通用することになりましたから、貨幣の価格は段々下落致しまして、朝野とも非常に其害毒を受けたのであります。所が又一方に於ては、刻印付きの円銀の通用禁止は、今のやうな都合で漸く解除されましたが、明治三十三年の北清事変の為に、段々又銀貨は其方に流出しまして、朝鮮には其跡を止めないやうになりました。それが為に、居留地に在る支那商人或は日本商人も一向準備もなく、韓銭の預り手形を発行して商売上に用ゐましたので、其為に手形の不渡りが頻々として起り、取引上の危険と云ふものは、実に少なくなかつたのであります。其場合に於て、尾高君は非常に其事を憂慮せられまして、貿易上の障碍と海関税の収入の不便を除却する為に、どうしても第一銀行で銀行券を発行するが宜からうと云ふ案を、本店に持つて来られたのであります。本店に於ても色々調査を致した所が、実際それは必要であると云ふことで、明治三十四年十月に、丁度まだ阪谷男爵が大蔵省に御在勤の時分でありました、無記名式の一覧払の手形、即ち銀行券発行の事を政府に御願ひ致しまして、其許可を得ると同時に、朝鮮に駐箚して居られる林全権公使に意見書を提出して、其承諾を得ました。一方には総税務司のブラウン氏にも話し、其許可を得ました為に、印刷局に注文して、渋沢子爵の肖像を入れました銀行券を印刷して、明治三十五年五月から、釜山・京城・仁川の支店で之を発行する事になりましたが、是等は実に尾高君の大なる御尽力であります。且之を発行するに当りまして、尾高君
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は銀行券の見本を仁川・釜山・京城の三箇所の商業会議所に送付せられて、今日の場合朝鮮の金融を都合好くするには、銀行券を発行するより外に途が無いと云ふやうな理由を述べられ、さうして今度外務・大蔵の両大臣の認可を得て、金貨と日本銀行の兌換券とを引換の準備として、此銀行券を発行するから、在留の我が商人は疑念なく之を受理して、其流通を図つて貰ひたいと云ふことを申されたのであります幸に彼地の商業会議所も、成程それは御尤もであると云ふので大に賛成せられ、満場一致を以て此議を可決して、在留の商人に告知しましたから、一般に差支なく其流通を見るに至りました。是等は全く尾高君の朝鮮に於ける大なる功績と云ふて宜しいと思ひます。
 然るに韓廷即ち朝鮮政府に於ける一種の偏見は、前に露西亜人に言はれた為でありますか、なかなか其偏見が去りませぬで、同年八月、今度は銀行券の排斥を始めたのであります。丁度九月に至つては、形勢が益々不穏になりまして、同月十一日に、遂に銀行券の授受を禁止したのであります。乍併第一銀行から出しました銀行券は、日本の外務・大蔵両大臣の監督を受け、十分準備を置いて、総税務司の同意を得て発行したものでありますから、斯の如き禁令を受くるものでないのであります。当時林公使が韓廷に対して、非常に厳重なる交渉を為されました結果、三十六年一月になつて初めて、其禁令を取消したのでありますが、一方に於て柰容翊一派は甚だ不平でありますから、諸所に檄文を廻したり、貼札をしたり、種々の妨害を致しました為に、銀行券の引換、即ち其取附が大分ございましたので、一時大に心配を致しましたが、幸に官憲の保護と、尾高君始め当面の人々に由りて何等差支なく引換に応じたのと、林公使から八釜しく言はれた為に、七月三日朝鮮の漢城判尹と云ふ府知事のやうな者から告示を出して、一般に訓戒を致しましたので、漸く人心が落着いて、其以後銀行券は追追流通を見ると云ふことに至りました。此間に於ける尾高君の苦心と云ふものは、実に容易ならぬ事でございまして、其措置宜しきを得ました為に、一方には公使あたりの御尽力もありましたが、都合好く銀行券に対するさう云ふ妨害も排除せられて、通用を見ることになりましたのは、全く尾高君の第一銀行に於ける功績の最も大なるものであると存じます。
 尚ほ申上げますれば、第一銀行の朝鮮に於ける事業は、単り海関税の取扱ひばかりではありませぬ。日露戦争後には、丁度朝鮮の中央銀行みたやうな風に、元の韓国政府の財政も掌り、貸上ケ金もする、国庫金の出納も取扱ふ、併せて同国の貨幣整理の事、目賀田男爵あたりが最も御骨折りでありましたが、貨幣整理の事も取扱ひましたのであります。是等の事は、単り朝鮮に於て第一銀行の事業を増大しましたのみならず、国家に貢献したことも少なくなからうと思ひます。其後統監府を置かれるやうになりましてから、新たに朝鮮銀行が設立せられ、第一銀行の朝鮮に於ける事務の一切は、総て朝鮮銀行に引渡すことになりましたから、唯今では僅かに釜山・京城の二箇所に支店を存して居るだけでありますが、それ迄の間は、第一銀行の支店は実に朝鮮唯一の中央金融機関と申して宜しいので、一般にも左様に認められ
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たのでございます。而して斯の如く朝鮮の事業を進めました事に就て最も尽力せられ且つ功労のある人は、尾高君と共に都合三名居られましたのであります。其人は誰かと云ふと、丁度尾高君の前に仁川支店長でありました故西脇長太郎君、それから尾高君の後に京城支店の支店長になりました故清水泰吉君、此御三人が非常に骨を折られました為に、右の如く大なる効果を収めたのであります。而して此御三名の御方は、今日は悉く故人となられたのでありますから、実に私と致しましては千載の遺憾と存ずる次第であります。
 少々余談が長くなりましてございますが、尾高君は前にも申上げます通り、至つて活動的の御方でありましたから、東京に帰任せられまして、本店の検査課長とか云ふやうな仕事は、余り好まれなかつたのではなからうかと思ふのであります。然るに丁度明治三十七年の春、今阪谷男爵から御話がありました朝鮮興業会社、是は明治三十七年の春に、京城支店の清水泰吉君が丁度公用で出て参られました時分に、色々な話から、朝鮮の農業が甚だ振はない、目下地価も非常に安いから、農業会社を起して朝鮮の土地を買入れて、農事の改良をしたらどうだらう、と云ふ話がございました。其時尾高君は、元と朝鮮に居られました時分から頻に其の考があつたと云ふので、直に賛同せられて是非之をやらうではないかと云ふ話がありまして、私共も最も面白からうと云ふので、渋沢子爵に伺ひました所が、子爵も大に之に御賛成下されましたから、それでは先づ、農事会社を設立しやうではないかと云ふ事に決しまして、御懇意の服部金太郎君・大橋新太郎君等にも御賛助を願ひ、さうして尾高君をして其任に当らしむと云ふことになつて、三十七年の九月に設立せられましたのが、今の朝鮮興業会社でございます。創立当時は資本金僅かに百万円でございましたが、其後段々資本を増して、今は資本金も三百万円、朝鮮に於て一万二千町歩と云ふ大なる土地を持つ大会社となりました。是も亦尾高君の功績と言はなければならぬと思ひます。元来第一銀行では支配人其他実務に当つて居ります者は、特別の事情がございましても、重役会の許しを得ませぬければ他の職業に従事することは出来ない、と云ふ内規があります為に、尾高君も朝鮮興業会社の事業をやられると云ふことになると、第一銀行を罷めなければならぬと云ふことになります。併し同君は前にも申上げました通り、朝鮮に於て第一銀行の為に大なる功労のあつた御方でありましたから、翌年三十八年一月の株主総会に於て監査役に選任せられましたのでございます。監査役と云ふのは皆様御承知の通り至つて閑職でございますので、一週間に一度の重役会に御出でになれば宜いのであります。さう云ふ閑職に就かれましてから、唯今申しました朝鮮興業会社・東洋生命保険会社、其他の種々の会社に御関係になりましたのでございます。
 東洋生命保険会社を御引受けになつた事に就て、一寸申上げたいと存じますが、是も最初は仁川支店に居られました時、仁川支店の引取先に秋田毅と云ふ人がありました、其人が僅か五十万円かそこらで生命保険会社を起して、初めは都合が良かつたが段々悲況に陥つた。其当時尾高君は唯だ取引先の関係で懇意であると云ふ事から、一つの株
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主となられたに過ぎなかつたのでありますが、其秋田と云ふ人が失敗して、保険会社の維持が非常に困難になりました為に、其会社の重役及び関係者たる西谷金蔵君とか、古城管堂君とか、或は是も歿くなられましたが、第百に居りました本庄清彦君とか云ふやうな人達から、尾高君に同社を引受けて整理して呉れと云ふ事を、頻に懇請して居られたのであります。丁度私共も相談を受けましたが、併し如何にも資本も少なく、基礎も薄弱でありますから、此整理は非常に困難だと思ひまして、私共も望みませず、尾高君も初めは御引受けにならなかつたのであります、然るに西谷君なり、古城君なり、其他の関係者からも非常に熱心に勧められた為に、遂に尾高君は之を御引受けになつて社長として整理すると云ふことになつたのであります。此整理を愈々引受けられた後に、どうも拠ろなく引受けたと云ふことを、私共の所へ来て御話になつた、私共大に驚いたのでありますけれども、既に御引受けになつた以上は仕方がない、十分に御遣りになつたが宜からう吾々も及ばずながら力添へを致しませうと申上げたのでございます。是は明治四十二年でありまして、丁度渋沢子爵が亜米利加から御帰りの途中位の所であります。それでありますから私共は子爵が御帰になつて御相談になつて其上で、緩つくりやつたら宜からうと思つて居つたのでありますが、頻に勧められた為に御引受けになつたと云ふやうなことであります。是等は尾高君の義侠心とでも申すべきで、迚も他人の真似ることの出来ない、好い御精神と申して宜いのであります。そんな事情で御引受けになつた会社でありますから、なかなか急速に発展することは出来ないと思つて居りましたのに、十年後の今日に於ては、資本金も二百万円となり保険契約高も一億円以上に上ると云ふ好成績を挙げられたのは、渋沢子爵の後援もありますが、尾高君の経営宜しきを得たる結果であると同時に、同社に従事して居らるゝ福島君・古田君の御尽力に依ることゝ思ふのであります。
 もう一つは、埼玉県の中央銀行と称せらるゝ武州銀行を御引受けになつたことであります。是も設立当時、岡田知事から頻に其当任者を選んで、是非寄越して呉れと云ふことを、渋沢子爵にも御依頼になり私共にも御依頼がありましたが、なかなか其人を得るに苦みまして、お断り致して居りました所、尾高君は勿論御郷里の関係もありますが同氏及び地方の有力者から頻に懇請せられて、遂に武州銀行の頭取を御引受けになつたのであります。然るに此銀行も創立以来まだ幾許も年月を経ませぬが、今日では相応の成績を挙げ、確実に営業をせられると云ふことは、此銀行に対して尾高君の施設経営其宜しきを得たる結果と申さなければなりませぬ。其他城東電気とか、或は南洋殖産とか、東京煉瓦とか、共同精米とか、東洋電気・千代田護謨・東京土地運河とか、同君の関係して居られる会社は少なくないのであります。是等は総て尾高君の性格を現したものだと思ひます。之に依つて見ますれば尾高君は、少し批評するやうでありますが、銀行家と云ふよりは寧ろ事業家と申上げた方が適当ではないかと思ひます。
 是までは、尾高君の事業に就ての御功績の一端を申上げましたが、同君は皆様御承知の通り、一面に於ては非常に多才多芸の人である、
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書も能く御書きになりますし、文章も上手に御作りになり、演説も亦人に譲らず上手である、其上に撃剣を能く御使ひになつた、或は囲碁とか、義太夫とか云ふやうな事は、殆ど素人の域を脱して居られた位で、且つ御当人も深く之を楽まれたやうであります。同君の如く、事業上にも社交上にも活動せられた御方は珍らしいと思ひます。まだ春秋に富んで居られたのでありますから、天若し年を仮して、是から先きに志を成さしめたならば、此上に尚ほ社会に貢献せられたことは、少なくなかつたらうと思ひます。然るに壮年の身を以て中道にして逝去せられましたのは、実に惜みても尚ほ余りある次第であります。
 以上は、私が承知して居ります同君の御功績の一端を述べましたに過ぎませぬので、其他の事柄に就ては、同君に御関係の深き皆様よりどうぞ御話のあるやうに願ひたうございます。之を以て同君に対する追悼の辞と致します。

    故八十島親徳君追悼の辞
                     藤村義苗君
 尾高・八十島両君の為に、竜門社で追悼会を御催しになりますから八十島君の為に私に追懐の辞を述べるやうにと云ふことを、幹事の石井・増田の両君から数日以前に御話がありました。段々御顔振れを伺ひますと、諸大家の御演説があります。中に私のやうな末輩が、さう云ふ席上で追懐の辞を述べると云ふことは、甚だ不釣合の事でありますから、是非お断りしたいと、再応御辞退申上げたのでありますが、今回の演説は可成故人に交りの深き人に托する訳であつて、敢て年輩や地位で極めたのではないから、其辞退は遠慮に過ぎるといふ、両君再度の御勧告でありました。私は八十島君とは三十年来の友達でございまして、公私ともに平素親密に交際して居りました、私は兎角能く人と事を争ふ癖がございますが、八十島君とは三十年来の交友でありながら、事業上の相談を致しましても、亦私の上の話に就きましても一回も顔を赤らめ合つたことすらないと云ふやうな、誠に私の身に取りましては、不思議な交際でありました。右様の次第で、長い間の友達であるから、一言述べたら、定めし八十島君も地下に喜ばれるであらうと云ふ両君の御親切なる御勧めに依つて、甚だ不当の事とは考へましたが、八十島君の為に追悼の辞を述べることに致しました。
 昨年三月二十一日に、故八十島君の葬儀が広尾の祥雲寺に行はれた時に、青淵先生は霊前に於て弔詞を述べられたのでございます。其御弔詞には、色々の御言葉がございましたが、其一節に、八十島と云ふ人は人格に於ても、教育に於ても、知識に於ても、寔に欠点の無い人であつた、唯だ強いて其欠点を捜せば、蒲柳の質であつたと云ふことである、今日まで足下は能く私を援けて呉れたが、不幸にして早世したと云ふことは、如何にも残念なことである、八十の老翁が玆に四十八歳を以て早世したる若き友の棺前に慟哭する、と云ふ御言葉がございました。此時に式場に集つて居つた多数の人々は、粛然として襟を正し、青淵先生と八十島君との平素の御親しみ日頃の御鐘愛の程も思ひ遣られまして、満座御同情の涙に咽びました次第でございました。
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私が今玆に追懐の辞を述べるに当つても、矢張り是れ以上の辞はない是で総てを尽して居ります。是れ以上に私が此処で述べますのは、唯だ青淵先生の御言葉を拝借して、幾分之を敷衍するに過ぎませぬ。併ながら、弔詞や追懐の辞にはそれぞれ形式もございますことでありますから、多少玆に私の思ふ所を附加へて、申上げることに致したいと思ひます。
 先年故八十島君の御長女の御結婚御披露の際に、御媒酌たりし穂積男爵が、八十島家の系統を詳しく述べられました。其後昨年三月下旬故人の初七日法要晩餐の席上、再び同男爵より八十島家の系図に係ることを伺ひました。併しながら今は能く記憶に存しませぬので、玆に或る人の編纂した書物に依つて、八十島君の伝記の一端を抜萃して参りましたから、朗読致します。
 君は旧伊予国宇和島藩士八十島行蔵の長男にして、明治六年四月九日を以て、宇和島富沢町に生る、家代々伊達侯に仕ふ、祖先親隆は郡奉行として封土拡張の事を決し、藩の功臣として顕はる、祖父崇副武術全般に亘りて精通し、名声嘖々、実に一藩に冠たり、父行蔵亦槍術・砲術を以て名あり、君幼にして郷黌に学び、更に愛媛県第三中学校及第一中学校に学び、年十六歳笈を東都に負ひ商業素修学校に入り、翌年高等商業学校に入学、明治二十七年之を卒業す、先是、同郷の先輩法学博士穂積陳重、深く君の人と為りを信じ、君を渋沢男爵に薦む、故を以て君は、卒業後直に渋沢家に入り、男爵の秘書役となり、後同家の理事に進み、更に渋沢同族株式会社の組織成るに及び其専務取締役に挙げられ、同家内外一切の経営を総管す同三十五年、渋沢男の行に加はりて、欧米を漫遊視察を為し、智見を弘むる所あり、爾来二十余会社の重役に挙げられ、尚竜門社幹事及如水会の常務理事たり
とございます。之に私が附加へますれば
 大正九年三月十八日病を以て逝かる、享年四十有八。同月二十一日広尾祥雲寺に葬る、法名明徳院大道是親居士。
 是が八十島君一代の歴史の大略であります。尚ほ其他八十島家の御親戚の方に就いて伺ひますれば、同君は明治二十一年十月、十六歳の時に東京に出られた。其頃同藩の人々は、多くは家産豊かならず、所謂貧乏士族であつて、なかなか親が許して東京に学問に出すと云ふ力も無し、又さう云ふ例も多く無かつたので、同地方では当時青年の間に「脱走」と申して、如何なる苦学をしても身を立てたいと云ふ志から、親の許しを受けずして、密かに家を遁出すと云ふ風が、頻に流行して居つたさうであります。併し八十島君は、元々天資温厚の人で、親孝行でありましたから、決して親に断はらずに、勝手に家を飛出すと云ふやうな無分別はしなかつた。一夕行蔵氏に就て、頻に東都に遊学したいと云ふ事を乞ふた所が、父上も非常に此事に就て考を起され八十島家を興す為に、是非お前には相当の学問を修業させたいけれども、奈何せん、家貧にして十分の学資を給することが出来ない、到底長く東都に留まると云ふことは出来ぬけれども、一年だけ留学することを許してやらう、併しさう云ふ苦しい事情であることを、深く念頭
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において貰ひたい、お前の成敗は実に八十島一家の浮沈に関することである、と懇々諭されまして、僅かに一年間を支ふるに足るや否や誠に覚束ない位の学資を以て、東京へ出る事を許されたのださうであります。右様な次第で、出京されてから、旧藩の学生の寄宿舎たる明倫館と云ふ所に身を寄せて、其処に寄宿して、当時の商業学校の予備校たる商業素修学校に入られました。此素修学校へ入るに就ても、同郷の先輩である所の不破文学士から、君は到底官立学校の中でも大学を卒業する程の資力はないから、兎に角一年でも早く卒業の出来る商業学校を修めたら宜からう、と云ふ指図に依つて、其処へ入つたのださうであります。所が素修学校へ入つて勉強すること幾何もなく、其内に都合能く高等商業学校の入学試験に合格するし、而かも選抜再試験の結果、図らずも、一級を飛超えて上級に進入出来たと云ふ上々吉の首尾でありました故、国許の御両親を始め、親戚知人一同誠に大喜びであつたと申します。其当時より官立学校在学の学生は、旧藩主伊達侯爵家より学資貸与の恩典があつたさうであるが、八十島君も早速学資拝借を願出で伊達家の貸費生となつて、之によつて毎月学費の補助を得て、修学を継続して居られたのであります。其後明治二十四年に初めて穂積男爵の邸を御訪ねして、同博士の邸に寄食することを許されたのださうであります。其時日は能く分りませぬが、昨年穂積男爵が八十島君の経歴を御話になつた時に、明治二十四年三月二十一日に私の家に来られた様に日記には書いてある、と云ふ御話があつた様に覚えて居ります、其事に付先刻同博士に伺ひましたら、今一寸空には記憶して居らぬと云ふことでございますが、明治二十四年三月二十一日と云へば、昨年の三月二十一日、八十島君を茶毘に附して恩人穂積男爵等が葬送せられた其日が、丁度満三十年目に当り、其の月日まで同じであるといふのは、如何にも奇蹟と云へば奇蹟でありまして、何等かの暗示でもあるかの様に不思議の感が致すのであります。此三十年前に初めて穂積男爵家に御訪ねをして、同博士の御援助を願ふと云ふことになりました。爾来の事は先刻阪谷男爵からお話がありました如く明かな事でございまして、後年に至つて、渋沢子爵が万事同君に御信任なされまして、手とも足とも御恃みになり、内外公私の仕事を御托しになつたと云ふ事は、皆様の御承知の事であります。
 同君の事業の事に就ては申上げるまでもございませぬ、種々な事業に関係されて居りました。それで、私は先刻申上げました通り、八十島君とは、まだ学生時代に、共に金釦を附けて同じ校門に出入して居りました、尤も私の方が年も上で、時代も二・三年先きでございましたので、其頃はまだ左程親友と云ふ程でもありませんでしたが、お互に知り合でございました。其後同君が渋沢家に仕へるやうになつては私は渋沢子爵の御関係のございました日本鉄道会社に勤めて居りました関係から、折々子爵に何か御用伺ひに出ると云ふやうな事から、同君とも学生以来の懇親を重ぬる機会が多く、種々な事の取次ぎ其他を頼むと云ふ便宜を得て居りました。然るに、其後図らずも、既に十数年前故人になられました工業の大家西村勝三翁の下に、私は支配人として使はれる事になりました、其西村家の令嬢が八十島君の先夫人で
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あります。先夫人は西村勝三君の次女でありました。さういふ次第で八十島君からは其配偶者となるべき人の人格性行等を聞かれ、又一方西村家からも八十島君の人と為りを私に聞かれると云ふやうな、双方に関係がございましたので、其の縁談が纏まりまして、一家を構へらるゝ事になりましてからは、私は家を持たれる事其の他に就ても、何暮れとなく公私御相談になりました。其以来先夫人の御不幸の時、後の夫人を迎へられる事、其他家庭の事など、万事に就て御相談に乗つて居りましたと云ふやうな関係から、私に於ては私交上殊に御懇親に致しました。公の事に於ても、西村翁が経営されて居りました旧桜組(後日本皮革会社に合同す)の取締役として二人共此事業に任じました、其後品川白煉瓦会社の重役として、又其の他公共の事に於ても、社団法人如水会・高等商業学校同窓会と云ふやうな事に就て、同君は能く親切に世話をして呉れられまして、私も共々働き来つたのであります。品川白煉瓦会社の如きは、従来渋沢子爵と故西村勝三翁との御関係に依り、当初より浅からず子爵の御庇護を蒙りて居りました次第でありますが、其後は八十島君の仲介に依り、一層其御関係を厚くし得たのでございます。先刻御話のありましたやうに、八十島君は思慮極めて周密であつて、信義に厚い人でありますから、私は同君と相談を致して事を為すときに、同君が同意して呉るればそれで間違ひがない、と云ふ決心が出来るといふ程に、常に信頼して、又其助けを乞ふて居りました。今や御承知の通りの経済界の状況で、諸般の事業が甚だ振ひませぬ時に方つて、幸に同君の如き人があつたならば、定めし良い智慧を貸して呉れるであらう、立派な分別を与へて呉れるであらう、と君と共に為して居つた事業の処置に苦心する毎に、同君の亡くなられた事を一層痛切に思出さずに居られぬと云ふやうな次第であります。
 竜門社の事に就ては、私が申上げるまでもなく、今日御来会の会員諸君の御記憶に新たなることでもあり、且つ雑誌等にもそれぞれ記録が残つて居る所でありますが、竜門社は明治十九年四月に、初めて竜門名簿と云ふ様なものが出来て居ります。と云ふのは、先刻も御話がありました如く、最初尾高次郎君等が寄つて拵へられた、渋沢家の御子弟並に同門の方々の演説の稽古場と云ふ様なものでございました。其頃尾高君と私とは、同じ学校、同じ寄宿舎に居りました関係から、同君の御誘引に依つて、私共同学の者数名も、時々渋沢邸に参つて、竜門社で演説討論を闘はした事がございました。其頃の討論演説と云ふやうなものは、面白い遣方でありました、例へば汽車と汽船はどつちが便利か。又は男女果して同権なるかと云つたやうな、他愛の無い問題ばかりを、討論致して居りました、今日から見れば誠に不思議の感が致しますが、其当時の社会問題は、概してこんなものでありまして、夫等に就て口角泡を飛ばして、突飛の議論をするのが、学生等には、甚だ興味ある楽しみでありました、殊に竜門社の集会では、毎会後に於てお煎餅を頂戴するとか、弁当を戴くとか云ふやうな、書生相当のおもてなしがありましたから、之を一つの喜びとして大勢集まつた等も、今更考へて見れば幾昔前の懐旧の情趣があります。其頃尾高
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君は年上で、竜門社の音頭取でありました、渋沢篤二君を社長とし、桃井君(石井健吾君)・故布施藤平君と云つたやうな人達が重に集り、私なども能く参つて色々な話もし、雑誌などにも書きました。承れば雑誌も最初の中は、蒟蒻版であつたと云ふことでありますが、それは私は見た事はありませぬが、活版で印刷された第一号の発刊は、二十一年以後のことであります、最初の中は専ら尾高君が筆を執られた、私共も同君に頼まれて手伝ひました、最初の数号の中を調べたら、多分私共の迷論も載つて居る筈で、慙愧の至りであります。尤も最初の内は、私は客員格で正会員ではありませんから、会の内容は能く存じませんが、側面から観察した私の記憶では、会は別に会費を徴収するでもなく、是は篤二君のホンのお小遣ひで、支弁し来つたことのように考へて居ります。然るに、其後には段々青淵先生は勿論のこと、穂積男爵・阪谷男爵・佐々木勇之助君、其他の諸大家が続々参加せられて、盛んに御演説抔があり、遂には故伊藤公爵なども御出席なされてお話があるようになつてから、会の面目は全く改まりまして、書生の演説会ではなくなりました。此の如く、初めは渋沢家の子弟並に門下等の書生の集りであつたものが、段々と大人が殖え、随て社長篤二君のポケツトのお小遣丈けでは足らないと云ふことになつて、一般会員を増し、会費を取るといふ様に、組織が変じて来たのであります。其頃は八十島君は無論会の一員ではありましたらうが、余り深き関係がなかつた様に思ひます、と云ふのは其年代は、同君が初めて学校に入つた頃でありますから、渋沢家との縁故も浅く、まだ余り重きを置かれて居らなかつたのであらうと思はれます。其後明治二十四年の雑誌には、委員として同君の名が載つて居りますから、まだ学生で居られた頃から、既に役員として竜門社の事に関係せられたものと見えます越えて二十九年には、竜門雑誌第百号を発行するに当つて、委員の連名があつた、其連名には矢張り委員として同君も載つて居る、今居られる人では、石井健吾君なども載つて居られると云ふやうな訳でありました。これに依りて見ますると、少くとも明治二十四年以後は、竜門社の事に大に斡旋せられたことは明らかでありますが、同君が最も力を本会の為めに尽されたのは、先刻阪谷男爵の御演説にありました如く、明治四十二年に竜門社の改革を行はれまして、詰り従来は渋沢御一家御一門を主としたるお集りでありましたものが、青淵先生を中心として、同先生と主張を共にし、商業道徳の啓発と云ふことに同趣味を持つて居る人の集団として、一つの社交的団体にする計画であつて、この計画に対する定款規則の改正とか、其他総て其後のことに就て、同君が専ら骨を折られたと云ふことは、記録に現存するところであります。其後竜門社は益々盛大になつて、現今に於ては千名以上の会員を有する有数なる著名の社交的団体の一つとなつて居られるのであります、これ全く創立者尾高君の功労と、其後に維持改良拡張に熱心せられたところの八十島君の功労でありまして、此二大功労者を玆に表彰せられて、追悼会を開かれると云ふことは、竜門社に於ける誠に適当なる結構の御企であると考へます。八十島君が竜門社に尽されたことは、大略右申述べた通りでございますが、更に八十島君が国家
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社会の為に尽され、殊に渋沢家に尽されて居つたと云ふことは、其事例寔に沢山あることでございますが、其他に母校たる東京高等商業学校に関したる事柄に、非常に尽瘁せられたることは、同門の一人として、私より大に推賞致したいと思ひます。申すまでもなく、青淵先生は我国の商業教育の殆ど創始者として、微々たる東京商法講習所の昔から、東京高等商業学校となり、更に大学になつたと云ふ事に就ては先生年来の御希望でもあり、又熱心に御尽し下すつた御蔭であります嘗ては世に軽んぜられた商業教育が、遂に大学になります迄の間に、青淵先生の御骨折り下すつた事は、同門の出身者等が心から感謝致して居る次第でありますが、之に就ても、先生の股肱たりし八十島君が自分の母校の事でもあり、常に先生の側に在りて、影になり日向になり、色々其間に御周旋になり、又自身でも奔走して、御骨折り下すつた功労は決して少なからぬのであります。其中でも、明治四十二年に予て高等商業学校に設けてある所の専攻部を廃すると云ふ議が、文部省側に起つて、既に実行せらるばかりに進んだとき、同校の学生は其驚き一方ならず、果ては大に激昂致しまして、一大騒動を起しました今日では、諸方に昇格問題とか云ふことが大分八釜しくなりましたり又は校長・教職員の異動などから、学生のストライキとか、或は同盟退校とか云ふやうな事は、殆んど月並みで別に珍しからぬ事で、当り前のやうに思つて居る人もございますが、其当時はまださう云ふ事は余り多く無かつた時でございますから、此騒ぎが甚だ重大の事に考へられました。無論青淵先生を始めとして、同校商議員諸氏、学生の父兄・保証人等も色々心配して、其間に御斡旋なさいましたが、学生はいづれも総退学を期して、騒動はなかなか鎮まりませんでした、そうして其間に、同校の同窓会なるものがあつて、是も其鎮撫方並専攻部維持等に就ては非常に骨を折りました。其時八十島君は、同窓会の幹事の一人で居られて、昼夜となく学生の間に就き、或は保証人に就き或は当局に就き、総ての間に交渉して、之を鎮撫し、又文部省に対しては、専攻部を引続き存置して、追つては古き歴史ある此東京高等商業学校を、第一に商科大学に上げて貰ひたいと云ふ希望を方々に、勧誘して歩かれました、唯今の新らしき言葉で申しますれば、所謂宣伝して廻られたのであります。此の如く、同君が非常に斡旋せられて、昼夜となく東西に駈廻られたのは、丁度明治四十二年の春であつたのですが、寒き夜雨の日などにも余り熱心に奔走せられた為めか、其頃より大に健康を害せられた様に思ひます、恰も其騒動の際に当りて、偶然にも学校の校舎の或る一角から火を失して、火災を起したといふ出来事がありましたので、種々の疑惑を生じ、何か学生が不穏な事をしたのではないかと云ふやうな噂も起り、又所々方々に学生が集合して相談をするので、警視庁にてもそれ等の行動に注意し、八十島君の如き其間の斡旋者にも、角袖巡査を附けて尾行せしめたと云ふ有様であつた、私共も其相談の為めに、偕楽園あたりで集会をすると、何時も障子の外には、角袖巡査が附いて隠れて居る、又八十島君の家は其頃聖坂辺にありましたが、其処にも刑事巡査が附いて居ると云ふ様な有様でありました。それで双方の斡旋をする為めに、同窓者の間に委
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員が選ばれて、各方面の有力者、当局の大臣等を訪問すると云ふことになりまして、八十島君は委員の一人として、時の総理大臣桂公爵邸を訪問する任に当つたので、八十島君は数人の委員と共に公爵を訪ねられた、其時公爵は快く面会せられましたさうであります。応接所に暫らく待つて居ると、公爵は湯上りの浴衣掛けといふ姿で極めて打解けた態度で御合ひになり、さうして黙して八十島君等の言ふ所を詳しく聴取られました上「其事に就ては、君等が幾らさう云ふ事を言つても迚も取上げる訳には行かぬ、と云ふのは其事は既に閣議で決定してさう取計らふ事になつて居るのだから、理窟はどうであらうとも取上げる訳には往かぬ」と断然云はれて、ニべもない返答でありました。其時八十島君は憤然色を作して、是はどうも国家の重職に任ぜらるゝ総理大臣閣下の御言葉とも覚えない、私等の申すことが国家に不利益であるとか、弊害があるとか云ふ事ならば、一同の得心の参るやうに如何様にも御諭し下すつて然るべきである、然るに、どう云ふ道理のあらうとも、一度内閣で定めた事は動かすことが出来ぬと云ふのは、普通俗吏の申すことなら兎も角も、閣下の御言葉としては甚だ諒解に苦しむ所であります、閣議で極めたと云はれるのは、詰り閣下等の御評議が勝手に御定めになつたのではありませんか、それに就いて私共の申すことが多少なりとも理由ありとすれば、之を御採用になるに於て何の差支もなささうに考へます。只今の御言葉は、苟くも国家の枢機に任ずる総理大臣閣下の仰しやる事とも覚えませぬ、と云ふ意味のことを懇々として述べられたさうであります。無論八十島君の事でありますから、巧妙なる辞令を以て、巧くみに陳情されたのであつて、斯の如き愛嬌の無い、慳突くを食はした訳ではないと思ひますけれども、さう云ふ意味の事を縷々熱心に述べられました。けれども其席で公爵が其事を直に採用してやらうと、軽々しく仰しやる筈はなし、先づさう云ふ訳で別れて辞去つたのであります。それで此事は後から承つたのでありますが、八十島君等が辞し去つた後に、桂公爵は今頻に議論した若い人は何と云ふ人かと言はれたので、近侍の者に尋ねられたさうで、其人より「あれは渋沢家の秘書役の八十島親徳といふ人である」とお答すると、公爵はどうも良い秘書役を持たれた、渋沢家はお仕合せである、と言はれたと云ふ事を、其後秘書官の方から承りました。勿論八十島君等の言議のみの為に、一旦閣議で極まつたことを翻したと云ふのではありませんが、是等諸方面の運動並に青淵先生等有力なる先輩諸氏の御尽力に依りまして、専攻部廃止の議は撤廃せられ、現に今日迄存続して居りまするのみならず、東京高等商業学校が他に卒先して商科大学に昇格致しましたに就きましては、八十島君等の功を忘れることは出来ません。只今申述べました柱公爵との会見の例の如きは、一方に於ては少壮なる実業家が、忌憚なく自分の意見を吐露し、又一方に於ては之に対して子僧生意気な事を言ふと云ふやうな御態度でもなく、寧ろ其人を称揚せられると云ふのは、誠に一代の大政治家たるの襟度雅量を発揮せられた訳で、両々相対して誠に美談であります。八十島君の逸事としては、特に話すに足りる事柄であると思ひます。
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 右の如く八十島君は誠に温厚の人で、見るからに顔もやさしく、愛嬌のある好個の紳士でありました。而も思慮は極めて周密で、苟くも事をせぬと云ふ人であつた。さうして意思は斯の如く強く、或る場合に於ては如何なる権門にも媚びず、如何なる富貴にも諂らない、阿らないで、正々堂々と正道を履んで行くと云ふ人格の人でありました。而して又己れの母校たる高等商業学校の為には、先程も申しましたやうに常に力を尽して労を辞せず、現に同校出身者の団体たる如水会の如きも其設立に就いて同君の功労は誠に顕著なるものでありました。之等の事蹟を今更追懐して涙に堪えぬやうな次第であります。先年青淵先生が段々お年を召さるに付いて、実業界を御退隠になりましてより、八十島君は是迄先生の御経営になつて居つた事業、若くは御関係のあつた事業を徐々に引受けられて、遂には三十余の会社の重役を兼ねられるやうになりまして、追々各方面に活動されました、若し長く生きて居られたならば、無論一家の富も作り、又国家の為に非常に重要な仕事を為されて、青淵先生の後継者として、立派に世の中に称揚せられたのでありませう。然るに一昨年来大患に罹られ、昨年に於ては遂に起たざるに至つて、僅か四十八歳の若き年を以て逝かれたと云ふことは、呉々も残念な事で、今更考へまして感慨に堪えぬ次第であります。思ふに其当時は一番番頭を失はれた渋沢家に於ても、亦俄に家長を失はれた八十島一家に於かれては尚更の事、何かにつけて御困惑なされ、一時は途方に暮れられたと云ふやうな御都合でもございましたらうとお察し申ますが、併し既に一年経つた今日に於ては、それぞれ之に対する御準備も整ひ、秩序も立てられて、幾らか御愁傷の御歎きも減ぜられた事と考へますが、併ながら、斯様な有為な人材が早く世を去つたと云ふ事は、八十島家・渋沢家又は竜門社等の不幸であるばかりでなく、実に国家の大なる損失であります。況して永年直接関係のあられた渋沢子爵が葬儀の当時「八十の老翁早世したる若き友の棺前に慟哭する」と申されたのは、実に御尤千万の御悔みと存じます。而かも棺前に慟哭したる同感者は、他にも非常に多かつた事を申上げて憚らぬのであります。
 要するに、八十島君は、其天稟の美質に加ふるに、夙に高等教育を受け、青年に及んでは青淵先生の如き一代の偉人の側に常侍し、先生が商工業及び政治・外交・教育其他社会各般の事業に寄与せらるゝに際して、一々之れが調査研鑽の助手となり、時ありては又先生の代理として実務の衝に当り、而かも其間終始「至誠」を以て一貫し、恰も大先生が其愛弟の為めに一々手を取りて、実物教育を施されたるが如く、八十島君も亦能く其蒙りたる教訓の秘訣を理解実行して、漸く将に円熟の境に入られんとするに際して、忽然として長逝せらる。我々が遺憾の極なりとして、追悼の情に堪えぬものは実に之が為めであります。
 私は三十年来の友達として、色々まだ感想も多い事でありますが、余り冗長に亘りますから、聊か所感の一端を述べて追悼の辞と致します。甚だ不秩序に不束の事を申上げて相済みませんが、若し朧気にも髣髴として、八十島君の在世の時の面影を御追悼下さるの一端ともな
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りますれば、幸甚でございます。


青淵先生演説速記集(二)自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本(DK430004k-0004)
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青淵先生演説速記集(二)自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本
                 (財団法人竜門社所蔵)
            (別筆)
            大正十年三月十五日於帝国ホテル
            故尾高・八十島両氏追悼会
    追悼の辞
                      青淵先生
 今日は竜門社に於ける尾高次郎・八十島親徳両氏の追悼会でございまして、私は実に感慨ニ堪へぬのでございます。自己が存在して斯の追悼の詞ヲ述へますと、諸君は私の健在を喜んで下さるでありませうけれども、私は又自身が若し死亡したならば、斯る厭忌すへき事を申さぬで済むであらう、と云ふやうな感じを起すのであります。けれども斯く相成りましたことは已むを得ませぬ。私の尾高に対し、又八十島に対する関係は、唯今藤村君から詳しく御話になりましたから、最早余り申上げる必要もございませぬけれども、特に私の関係に於て、又私自身が今の御話以外に、多少記憶して居る事を申述べて、追悼の辞と致さうと思ふのでございます。
 唯今藤村君は、八十島の葬儀に於て、私が斯く斯く申したと云ふ事を御記憶下すつて御述べなさいましたが、如何にも其通りであつて、実にさう云ふ場合は、丁度前にも申上げます通り、自己の健全が寧ろ何だか心苦しいやうな感じがする、さらばと云つて、自分がより先きに死ぬを望むと云ふ訳にも参らぬので、年を取つて居る者は、斯かる場合に如何に解釈して宜いか、幸と言はうか、不幸と言はうか、甚だ其品隲に苦しむ位であります。次郎氏に対する話は、どうしても先づ尾高藍香と云ふ人からお話をせぬと、私の心が済みませぬのであります。私は埼玉県の八基村の成長で、尾高藍香とは従兄であつて、而して其妹が私の先妻である、且つ支那の学問に於ては、少年から師として学びましたに依つて、厚い親戚で、而して師匠であり、且つ総ての薫陶を受けたと云ふ間柄であります。皆様も御承知下さる通り、次郎は其次男に生れましたので、兄が家を継ぎ、次郎は分家の方を相続しました、それで、丁度其本家の幸五郎氏が、此追悼会に出席されて居る、家の関係は左様でございます。此尾高惇忠と云ふ人は、私の親戚であり、又最も尊ぶ師匠であります。斯う云ふ事を申上げますと、皆様は余談であると申さるゝかも知れませぬが、併し此人は隠れた君子で、是位の人は稀に見る人物と申して宜い。第一に誠に品行方正であつた、少年から親孝行に厚く、而して身持の頗る良かつた人であつたさらば左様に漢学を好み、品行方正で、親孝行だと云ふからして、学究的の人ででもあるかと思ふと、決してさうではない、文雅もありますし、又至つて撃剣を好み、世に対する観念の最も強い人であつた。水戸学問を多少加へました為に、青年から所謂尊攘の説を強く主張されたのであります。私共も其薫陶を受けて、遂に攘夷論まで致したのも、多くは皆な家庭の教育に依つたと申しても宜いのであります。而して其漢学は、田舎の師匠からの稽古ではありますけれども、所謂天
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稟とも申すべく、今日其書いたもの、又論説などを色々調べて見ても決して恥かしからぬ、立派な学者の説に譲らぬと申しても宜い位であります。さうして私共故郷を出まする時分に、自身はどうも今家を棄てる訳に往かぬ、幸にお前方は親がまだ健かであり、且つ家政も温和である、自分は親も無し、家政も甚だ困るから拠ろない、家に踏止つて家政に勉める、君達は何処かへ行くが宜からうと云ふて、私共を送つて呉れた間柄であります。此次郎は前に申す通り次男に生れて、新宅の方の相続を致したのでありますが、右様の関係から、後には父藍香翁も東京に生活するやうになりました。前に申上げたのはまだ維新前の事であります、次に申上げますのは、維新後の私が大蔵省に勤め若くは銀行者になつた後の事でございます。経歴を詳しく申しますと段々長くなりますけれども、至つて概括的に玆には申すのでございます。東京に出られてからは、遂に藍香翁は私を援けて、諸君も御承知の通り第一銀行に入られて、殆ど十数年の間、第一銀行員として各地の支店長まで勤められたのでございます。左様に極く非凡な人格、又変つた人格を持つて居られましたが、併し事業界に於ては、余り優れた才能があるとは申兼ねたのであります。実務に処するに於ては、理想程は届かぬと云ふ嫌ひがあります為に、詰り隠君子に了られた。第一銀行に相当なる歳月を費されましたけれども、其事業に於ては前に述べる如き有様で、十分に才能を発揮されたとは言ひ得なかつたのであります。
 然るに次郎は之に反して、文学其他に於ては、或は父に大に譲ると申して宜いでせうが、事業界に於ては、其実父に優れて自身も大に発展致しましたし、又発展するだけの能力を持つたと申して宜からうと思ひます。最初高等商業学校へ入りましてから、学問をひどく厭ふ嫌ひがあつて、幾つの年であつたか記憶しませぬが、どうも卒業までやるのを迷惑に思ふやうでありました、或時宜い加減にして、実務に就きたいと云ふ考を述べた事があります、私は大に諫めた。今二年で学校を卒るのではないか、折角学問に就いて其学問を卒らずに中途で罷めると云ふことは、蓋し意思の不鞏固と云ふことを表すものである、是非続けてやつたが宜からうと云ふて諫めたのは、多分卒業の一・二年前であつたらうと思ひます。蓋し、多少の覇気とは申しませぬけれども、順序的に仕事をすると云ふ方ではなくて、自ら振つて変つた仕事に従事したい、と云ふ考を持つて居られた。佐々木君の先刻の銀行者と云ふよりは、寧ろ事業家と称して差支へなからうと思ふ、と云ふやうな御評論は、寔に其当を得た、能く次郎を知つた御言葉と私は存ぜられます。先刻も佐々木君から次郎に就て、朝鮮に於ける第一銀行の艱苦を、余程叮嚀に御述べになりましたが、私もあれ程詳しくは記憶して居りませぬでした、佐々木君の御演説に依つて、さうであつたあの時は斯う考へた、と云ふやうに想ひ返して、古い感じに打たれたのであります。特に仁川で銀行券を発行した時分に、取附に遭ふた其苦みは、余程ひどかつたと見えて、あれ位私は今日まで困苦した事はない、如何にしたら宜からうか、海にでも飛込みたい、或は身を殺してまでも行きたい、と思つたと云ふ苦心の話を後からされた事がござ
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います。蓋し次郎と云ふ人は余り物事に屈托せぬ性質の人であつた、是は藍香先生がさうであつて、諦めの好い人であつた。始終天だ、天だと云つて、余り屈托してクヨクヨ考へぬ方の流義でありましたが、次郎氏も亦其方であつた。其人でありながら、今の仁川の銀行券の取附に出遭した時には、余程の困難であつたと見えて、時々其苦しかつた話をされたと云ふことは、如何に其困難さが強かつたか、と云ふことは想像するに足るやうでございます。蓋し朝鮮の金融を改良し、疏通せしめたと云ふことは、唯単に尾高次郎の大なる働きを持つたとは決して申されませぬ、幸に其時分に、どうしても其処まで進んで行かなければならぬと云ふ、政治上からの援けがあり、又第一銀行として丁度今御述べになつたやうに、佐々木君などの御力の大なる発露の結果でありまして、朝鮮に銀行券を発布せしめたと云ふことは、朝鮮に於ける金融上の著しい歴史と申しても決して過言ではない。貨幣制度を改良し、金融の方法を直し運輸の途をつけたと云ふことは、朝鮮に於ける経済界の特筆すべき事であらうと思ひます。其特筆すべきものの中に、次郎が大に与つて力あると申しても、決して差支へなからうと思ふのでございます。次郎の其事の為し得られたのは、モウ一歩進んで言ふならば、第一銀行が決して其効果なしとは申さぬのでございます。今日私が其事を申すと、自己を論ずるやうに聞えますけれども半島の金融界が是だけに力を進めた、此金融の改良はさう云ふ順序から出来得たのであると云ふ事は、どうぞ皆様の御記憶に存したいと思ひます。若し朝鮮の金融が発達せず、運輸が続かなかつたならば、縦令三十七・八年の露西亜との戦争に十分に勝つたにした所が、経済界の発達は矢張りいけなかつた、と言はねばならぬと思ふのでございます。
 何だか話が横に外れて、政治談のやうになりましたが、前にも述べます通り、尾高次郎は藍香翁に比べて、文学上若くは修身上に修まらぬ人とは申さぬ、又非常に才が優れて居るとは申さぬけれども、併し事業界に於ては、親父は伸びずに其子が伸びたと云ふやうな所はある所謂経験の世の中で、自然に事に長じて進むと云ふこともありませうが、誠に或る事柄に就て、特に特長もなくて何れの方面にも能く手を伸べ得られた所は、甚だ嘉すべき事であらうと思ひます。佐々木君の御述べになりました東洋生命保険会社の事などに就ては、私は明治四十二年に、亜米利加から帰ると其事を聞いて、どうも治まりのつかぬ事をする、是は困ると云つて、多少不同意を申したのでありますが、既に定つた事は今更言ふても仕方がない、極めた以上は已むを得ない其事に向つて進む外はない、併し是から先きの進路に誤りのないやうにして呉れなければならぬと云ふので、爾来私が大なる力を添へたとは申されませぬけれども、尾高としては十分に丹精されて、佐々木君の御述べになつた通りの働きをせられたのであります。又朝鮮興業会社の経営などに就ても、特に取立てゝ非凡な事があるとは申しませぬが、大に雅量もあり、又世間から見てさう熱心にコツコツと働く様子の無い間に、十分勉励注意されると云ふことは、蓋し次郎の一特長と申して差支へなからうかと考へるのでございます。藍香なり、次郎な
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り、幸ひと各方面に於て、大に諸君から御推賞を受けるやうに相成つたと云ふ事は、殊に私としては感慨に堪えぬと同時に、又皆様に対して、次郎が斯くまでに竜門社員御一同から追悼をして下さることを厚く感謝せざるを得ないのでございます。
 八十島君に就ては、唯今藤村君から詳しく御述べがありましたが、其初め私は何等知る所はなかつたのであります。丁度明治二十四年でありましたか、其時も審かに記憶はしませぬけれども、穂積男爵が、どうしても渋沢の家を幾らか世話をするに、相当な能力のある人を追追育てゝ行くやうになすつたら宜からう、自身だけで唯だ一途に仕事が出来るものではなからう、丁度八十島と云ふ人がある、まだ青年で高等商業学校に居られるが、後に大に有望な人と思ふ、而して当人は此人と見たならば、必ず動かずに一心に遣り通す人と思ふから、之を育てるやうにと云ふ薦めを受けました。それから私は直接に当人と会見を致して、色々と談話を致したのであります。其日は忘れましたが其時の有様は今も尚ほ歴々と覚えて居ります。左様な話合をしてから模様が変ると直きに動くと云ふことは、能くある人間の常である、蓋し智識の進み、世の変化、是は免れぬ事であるから、一概に悪いとも言はれぬけれども、私が今お前に相談することは、必ず動かぬと云ふ覚悟を以てやつて貰ひたいと思ふ、自身も色々喧嘩もした、けれども或る事に就ては喧嘩はせぬ、どうぞ人はさうありたいと思ふがどうか若し渋沢の家に働いて呉れると云ふ事になると、或はお前は優れた才能があつても、其才能をして真に社会的に発展せしむることが出来ぬやうになるかも知れぬ、それだけは覚悟をしてやつて呉れぬと云ふと折角是から先き渋沢の家に従事すると云ふ覚悟と齟齬する訳になるが其処は如何であるか、斯う申して、まだ二十ソコソコでありましたが私は叮嚀に相談をしました所が、必ず間違ひませぬ、キツと遣り遂げます、斯う言ふて呉れた。其意思は至つて鞏固であつて、又其返事は至つて温和であつた。其時の風采も、其時の言語も能く記憶して居りますが、但し其時にはまだ誠に青年でありまして、果して如何に成行くかと云ふことは、十分に知り得るまでには行かなかつたのであります。それから追々学成つて、私の秘書と云ふ位地に立つて仕事をして呉れましたが、蓋し誠に緻密な性質、至つて温厚な人で、真直な考を有して居つた。或る場合に、若し私の考が正当な道理を失ふと云ふことがあつたならば、必ずそれに対して、余り抵抗した事は言はなくても、其説に唯だ服従はせぬと云ふことだけは、誠に能く踏み耐へてやる人であつた。而して文筆と申し、又計算と申し、所謂筆もあり、口もあり、どちらも通ずると云ふ人であつた。如何にも遺憾に存じますのは、若し其時に私の家に働くと云ふ約束をしなかつたならば、経済界にモウ一層――一層ではない、数層雄飛し得られる能力は持つて居つたと思はれますけれども、不幸にして唯だ渋沢の家に直属せしめたのは却て当人をして雄飛の力を減ぜしめたかと恐れるのであります。果して然らば、穂積男爵が私に世話をされたのは、八十島君の為には余り仕合せでなくて不幸であつたかも知れぬ。而して是が五十にならずに死ぬと云ふことは、天道是か非かと、寔に遺憾に堪えぬのであり
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ます。且つ藤村君の御話のやうに、若し果して四十二年の専攻部の廃止に就て起つた商業学校の騒動が、八十島君の病を重らしめた原因となつたと云ふならば、洵に慨かはしい話である。商業学校は八十島君の智識を進むると共に、又一方には八十島君の命を縮めた、学校も甚だ情けない仕方ではないかと云ひたい位であるが、是も何れを恨む訳にも往かぬのであります。詰る所私は洵に残念な事を致したと、唯だ遺憾に思ふ外はございませぬ。
 阪谷男爵の開会の御言葉に、竜門社に対しては、尾高と申し、八十島君と申し、最も深い関係を持つて居ると云ふ事、其沿革の御話も段段ございましたが、是も私の身に就いた事であるが故に、私は能く其当時の有様を記憶して居ります。尾高は先づ此竜門社の創業者と申して宜しい、又八十島は此竜門社をして形造り、筋合を正しくして、今日の竜門社たらしめる働きに、与つて力あると申して宜しいのであります。此二人を失ひました事は、実に竜門社として残念でありますが併し其竜門社が斯の如く盛大になり、此追悼会に於ても斯く多数の有為な御方が御集りになつて、故人に対し、其創業に於ては尾高あり、其中興に於ては八十島あり、此人を喪つたのは惜むと云ふ追悼の御辞のあると云ふことは、定めて尾高・八十島の英霊が真に有り難く諸君に対して御礼を申上げるであらうと思ひます。果して此霊が何を申すかは分りませぬけれども、必ずさう申すに相違ないと思ひますが、暫く霊でない現在の私が、両君に代つて厚く皆様に対し、此御厚意を感謝致すのでございます。死んだ者は致方がない、追悼は飽くまでしなければならぬが、唯だ追悼で世の中は已む訳に往かぬ、斯く老衰しても、私は余命のある間は、世に尽さねばならぬと考へて居ります。況や御集りの皆様は、青年とは申さぬでも、老年の方は余り在らつしやらぬ。唯だ単に竜門社ばかりではございませぬけれども、幸に斯かる一団体が出来て居ります以上は、竜門社をして更に堅固に更に盛大ならしめて下さるのが、即ち故人を御追悼下さるに、一層意義ある事と私は存じ上げるのでございます。
 両人の霊に代つて、此御追悼を感謝すると同時に、尚ほ未来に対して、皆様が竜門社員として、此時世に対して十分に御力入れあり、御奮励ある事を希望致します。
   ○右記事冒頭五行「……感じを起すのであります。」マデ栄一検閲済。


竜門雑誌 第三九七号・第三二―四五頁大正一〇年六月 ○故尾高・八十島両君追悼会に於て(二) 謝辞 尾高豊作君/謝辞 八十島誠之君/閉会の辞 阪谷男爵/追懐談 土岐僙君/追懐談 法学博士高根義人君/追懐談 福島宜三君/追懐談 植村澄三郎君(DK430004k-0005)
第43巻 p.83-93 ページ画像

竜門雑誌 第三九七号・第三二―四五頁大正一〇年六月
  ○故尾高・八十島両君追悼会に於て(二)
    謝辞
                     尾高豊作君
 今夕は、此竜門社の大成致します上に、最も御功労の御有りなさいまする故八十島親徳氏の追悼会に、私の父の追悼の意をも兼ねられまして、斯くの如く多数の皆様方から厚い思召を蒙りますと云ふことは故人に取りまして無上の光栄でありまする計りでなく、私共遺族の衷心感謝に堪えませぬ次第で御座います。先刻佐々木様からは特に父の為めに追懐の御言葉がございましたし、又青淵先生・阪谷男爵からも
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父の在世当時に於ける色々の御話を承りまして、今更乍ら此竜門社の皆様方と、父との浅からぬ御関係を思ひまするにつけても、何となく今晩も、尚此席にいつもの様な父の姿が見えますやうな気が致して実に感慨無量で御座います。先程からの御話で詳しく承りましたが、父が竜門社を発起したと申しましても、それはまだホンの学生時代のことで、当時深川の渋沢邸に於きまする、青淵先生の門下生の寄り合ひに過ぎなかつた頃の事で御座います。其書生時代の懇親会が幾星霜を経た今日に至り、斯くの如く我が国実業界有数の御方々の御集りにまで発達致しまして、而もかやうに厚い思召を以つて、故人の為めに思出多き御話をなされまする事は、晩年当社の発展を心から喜んで居りました父の霊として、必ずや一層地下に於て嬉し涙にむせぶことゝ私共も真に有難く存じまする次第で御座います。而して父の病中又なくなりました後も皆様方から常に一方ならぬ御同情に預り居り乍ら、私はまだ染々その御礼をも申上げてないやうな気が致しまするのに、斯くも御親切な御とり設けをして戴きまして、誠に有難く重ねて御礼を申上げます。甚だ簡単では御座いましたが、これを以て遺族一同に代り御挨拶の言葉と致します。

    謝辞
                    八十島誠之君
                    八十島樹次郎君代述
 青淵先生、会長の君、並満堂の皆様に御礼を申上げます。此度は、竜門社の創設に関して多大の功労の御有りなさいました故尾高氏の御追悼と同時に、亡父親徳の御追悼をも賜はり、有り難い思召を以ちまして斯かる盛大なる会を御催し下さいまして、先刻来誠に鄭重なる追悼の御詞に預りました、或は故人の生前の徳を頌せられ、或は微少の功労に対して多大の御讚辞を賜はり、或は又思出多き昔の物語やら、青淵先生の特別の深い御関係に就ての御感想でありますとか、吾々の遺族の為には、実に何とも御礼の申上げやうのない、有り難い御言葉に預りまして、今更御厚情の御篤いのに、一方ならず感謝申上げるのであります。故人は元来渋沢家の御厄介に預りましたもので、青淵先生の御膝下に侍すること彼此三十箇年、其間青淵先生は大切なる御主人でありましたが、同時に、故人は先生を見る恰も我が師の如く、或は又我が父の如くに仕へ奉りまして、先生の優渥なる御教訓を受け、御懇篤なる御薫陶に預りますし、又海岳も啻ならざる所の御鴻恩に浴するとか、或は洪大無辺なる御高徳に感化せられたるなどは、今更申すに及ばず、此長き歳月の間、竜門社の会員諸君よりは、常に絶へず御親切なる御指導を蒙りましたが、即ち是等の御蔭を以て、先づ大なる過もなく御奉公相勤めましたのでありますが、不幸にして中道に倒れ、先生の御鴻恩に対しては、其万分の一をも報ゆるに至らず、且又満堂の皆様の御厚志に対しては、何等の御恩返しも出来なかつたと云ふことは、寔に千載の恨事でございまして、何とも申訳のない次第と存じます。然るにも拘らず御咎めもなく、病中を初め昨年不幸後に及びましても、多大の御同情を以て御慰問を下さいますし、又今回は斯
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の如き盛大なる御手向けを以て、故人の早世を悼むと云ふ事に就て、先刻来寔に有り難い御言葉に接し、私共遺族は何とも御礼の申上げやうのない程、感激の至りに堪えないのであります。故人もさぞや地下に感泣致しまして、其御厚情の篤き、又御鴻恩の広大なる事を、感謝致して居る事と、私は固く信じます、不束でありますが、之を以て御礼の辞と致します。

    閉会の辞
                      阪谷男爵
 私は今日の追悼会に対しまして御演説を賜はりました青淵先生並佐佐木・藤村両君に厚く御礼を申上げます。尚ほ追悼会は甚だ湿つぽい会でございますが、併し今日の追悼会は、尾高家と云ひ八十島家と云ひ、寔に立派な御相続人が御出でになりますことは、吾々旧友の深く喜びます所であります。どうか御二人の御相続人が十分に健康を保たれ、尚ほ八十島君の御相続人は就学中であると云ふことであります、学業を卒へて、御二人ともお父さんの御名を辱かしめないやう、国家社会の為に尽されんことを期待致して置きます。之れは甚だ目出度い事であります。之を以て今日の追悼会は了ります。皆様、是よりどうか食堂の方へ御移りを願ひます。尚ほ食卓に於て、友人中より二・三追懐談もございます、御承知置きを願ひます。

    追懐談
                     土岐僙君
 閣下並諸君、今晩の此結構なる御席に於て一言感想を述べることの御許しを得たのは、甚だ光栄と致します。時間のおくれて居るのに、愚説を申上ぐるのは別けて御聴苦しい事でありませうが、私に取つては光栄でございますで、少しの間御辛棒を願ひます。
 尾高君並八十島君とは、共に御懇意に願つて居つたのでありますけれども、私には主として尾高君に就ての感想を申上げるやうにと云ふことであります。尾高君とは、私も丁度福住町時代に矢張り竜門社に出ました一人でありますから、大分古ひお馴染でございます。其後始終碁を打ちましたけれども、御交情を得ました年月も、大分数が重なつて居るのであります。申上げれば申上げることはなかなか多いのであります、その内、唯だ一つ、皆様に是非御聴きを願ひたいのは、吾吾が御世話になります青淵先生が、銀行を始め、紡績でも、製紙でも、水力電気でも、総て日本の新しい事業は御始めになつたと云つて宜い位でありまして、利物上是等の業務は永続して段々発展することは明かな事であります、併し青淵先生の精神上の御考、御志に就ては、物質上の御事蹟の通りになるかならぬかと云ふことは確信を持つことが出来ないのでありまして、甚だ遺憾である、論語と算盤を一緒にする実業家の地位を、賤む土百姓や素町人でなく、もつと上げたいとの御熱心、其他論語関係等の事で、精神上の向上と云ふ事に就ては、世の効果に於て多少遺憾な事がなからうか、此事は嘗て特に一会を催して青淵先生の御世話になります若い方々と御相談したこともあるのであ
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ります。其点から申しますと、尾高君並に八十島君が、実業界事業の事に就て御尽しになつた事は、皆様が御話になりました通り、先生を補助なされた事尠からぬのでありますが、又私の申上げます精神上の方に尽された点に於ても、御門下の方々の中にて、有数な御人であらうと思ふのであります。別けて尾高君は、碁の対手として猛烈である通りに、此方に於てもなかなか猛烈であつて、陰徳論と云ふものを主張せられたのであります。是は道徳精神の主張からは、釈迦も孔子も決して満足が出来ない、と云ふ猛烈なる意気込で始つた陰徳論であります。諸君今日の世界の模様は如何でありますか、人類は万物の霊長なりといふことが出来ませうか、世界は姑く措いて、我が帝国も実に痛ましいやうな有様になつて居る。斯の君子国と称したい日本に、仁義・道徳・正義・廉恥などはどうなりました。其中で実業家の一人たる尾高君が、陰徳論と云ふものを御主張になつたと云ふことは、実に目醒しい事であると思ふのであります。富国強兵を唱へる人は沢山にあります、科学の万能を唱へる人も沢山にあります。併ながら、道徳上・精神上の事に於て斯の如き抱負を似て呼号した人は左程に多くはない、呼号しても実行した人は少ないのであります。武人も高官も学者も宗教家も、猫も釈子も、一体同様であります。それで其陰徳論の事は御遺稿の中にありますから、御承知でありませうが、今ゆるゆる申上ぐる時間はありません。尾高君は、釈迦でも孔子でも満足は出来ないと言つて御出でであります。而して其主体は、先帝陛下の教育勅語を以てすると言つて居らつしやるのでありますから、その大体は御わかりでせう、別段さう申上げるにも及ぶまいと思ふのであります。併しそれも矢張り尾高君の流儀で少しづゝ変つて居る所があるのであります。数十年前、摂津大掾が越路太夫の時分に、初めて東京の猿若町へ文楽座を持つて参つた事があります。年は忘れましたけれども其時の第一の出し物は御殿場でありました。私は二・三度も行きましたが、其時の語り口などに就ては能く覚えて居りませぬ。九代目団十郎は深妙なるのみでなく、広い芸で色々女形などもやりましたが、女形の中では八重垣姫などもやつた、八重垣姫などは暫く評を止め、団十郎の御殿の政岡と云ふものは非常な評判でありまして、私も政岡は所謂千両役者の演じたのを、十人以上のものを見て居りますが、団十郎の政岡も少くとも五・六度は見て居ります。お古ひお方は団十郎の政岡は非常に好かつたと皆様も御考へでありませうが、其政岡の何処が好かつたかと云ふ事になりますと、皆様は何処でありましたらうか、私は九代目が他の役者よりも政岡として好かつた所は、千松も死んでしまひ、栄御前も退いてしまひ、舞台の上のゴタゴタが治つてしまつて、自分一人が残つて、アヽ宜い塩梅に済んだなアと、斯う安心したやうな風で、ヒヨツと側を見ると千松の死骸があります。見るなり、早く二・三間とある其千松の死骸の所へ、気抜けしたやうに、ヒヨロヒヨロツと夢中にひきつけられ、死屍の上にのしかゝつて行く其模様です、是は他のどの役者のを見たよりも、私は非常に感動した、迚も彼の所は団十郎の外には出来ないのであります。団十郎の政岡の他の点に於ては、他の役者が優つて居るか知らぬが、あの点だけは、迚も
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他の役者は及ばなかつたと感じて居るのであります。それで尾高君は義太夫をやられたけれども、其中で矢張り御殿が一番六つかしいし、一番上品であるし、一番理想的であると言ふて居られました。それで摂津大掾が来た時にも、初めに御殿場をやつたのでありますが、どう云ふ点が好いかと云ふと、矢張り九代目のやつた所に似た点があつて私も大に感じたのであります。それで尾高君は陰徳論の中で、母と云ふことを非常に重んじて居られる、お釈迦様もチツと母を重んじ過ぎて居られる、私は男ですから申します、余りお釈迦様が母を贔負せられると、少し不平に思ふ位であります。併し尾高君の陰徳論の中には母と云ふことを非常に重んじて居られるのであります。さうして尾高君は、御殿場があの位の事になると云ふのは、無論小説ではあるけれども、千松が母の感化に依つて、十歳位のあの子供心にも、どうか母を安心させたい、喜ばせたいと云ふことを思ふた其為に、毒でも何でも食ふと云ふ孝心を発こし、其刹那の心で以て、仙台一藩の人をして忠義の心に所存の臍を固めさせたのであると、斯う言つて居られる、九代目の妙所と対照して頂きたい、陰徳論の中に単り其事で言ふて居られるのみならず、御自分が志を立てられたのは、君が十四・五の時に、お母さんと一緒に養蚕の手伝をして居られた時分、お母様がお前も三十円の月給を取るやうな人になつたら嬉しいがなアと言はれた、それが心に染みて、それでは一つ三十円の月給取にならうと奮発したそれが奮発の動機である、斯う云ふ話であつた。ですから、母の感化に依つて千松が毒を嚥んで死んだばかりではない、御自分も其心を以つてやられたと云ふ訳であります。此陰徳論に於て、さう云ふやうな特色がある、此事は余り長く申しますと、既に五分を脱線したかも知れませぬから申しませぬが、先程申しました通り、私は碁を度々願つた、願つたと云ふけれども、実は私の方が下手であつて、三目にされて大分長く掛つて居つたのが漸く二目になり、其二目で遂に勝てないで終つたのであります。碁は二目であるが、外の事に掛つたら二目どころでない。尾高君は名誉と財産とを非常に重んぜられて居りましたが、其名誉に於ても資産に於ても、私は井目風鈴付であります。唯一つ上なのは年だけであります。年は私の方が上であつて、まだ生きて居ります。所で尾高君の説に、青淵先生の七十七の御祝の席上で、先生が百五十何人の前で、お前等に長生の途を教へてやらうかと仰しやつた、(私は其席に居りませぬでしたが)、其長生の途と云ふのは外ではない。長生をするには一生懸命に勉強して昼夜働くことである、さうすれば怠けて十年生きて居るよりは、一年生きて居る方が長生である、斯う云はれた。どうもそれに限ると。其点から云ふと、生きる年月は長くても私は始終怠けて居ります、尾高君は始終働いて居られました、私共は碁を打つことは盛にやつて居りましたが、尾高君は碁を打つのは一つの趣味であつて、生の緊張である、其他の事に始終大に働かれたのであります。五十五年と申すと、今から見ても私は尾高君より五・六年長生きはして居りますけれども、吾々のやうな馬齢を加へる者は、此先き十年や七年は生きて居るかも知れませぬけれども、其仕事の点に於ては問題にならぬ。此点に於て尾高君は吾々よりもズ
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ツと長生されたと同じ事であらうと思ひます。それだけではない、陰徳論の極致は安心立命と云ふことと、不老不死と云ふことであるさうです。陰徳を行つて居れば不老不死である、果せる哉、尾高君は其担任して居られた事業の上に於て、不老不死であるが、又御家門も繁栄して立派な後継者もあらせられ、更に永遠に不老不死の実を挙げられる訳であります。さうして見れば、何の点でも遂に私は尾高君に負けてしまつた次第であります。一言感想を申上げます。

    追懐談
                法学博士高根義人君
 尾高・八十島両君の追悼会で、追悼の為めに一言せよと云ふ御話でありました。多くの先輩又親しい御友人の御出での中で、左様な御指図がありましたのは、恐らく沢山の御方々の中で、私も大分旧くから存じ上げて居る一人であると云ふ所からの御指名であると思つて、敢て辞退致しませぬで御承け致しましたが、唯今時間も迫つて居るので五分間に止めよと云ふ御話でございました、或は五分が少し位ゐ超過するかも知れませぬ、予め御許しを願つて置きます。
 私は八十島君が学校を卒業せられました時分に、丁度私も大学を出て漸く二年目かでありましたが、渋沢子爵の事務所で初めて御目に懸つた訳であります。一寸一遍御目に懸つただけで、其態度、其物の言ひ方は、実に老成のやうな風に見えました、どうも立派な有望な青年――私達と大した違ひはありませぬが――が、此度渋沢子爵の御秘書になられたと云ふことを承つたのであります。其後長い間地方に参つたり西洋に行つたり致しまして、御面会の機会が少くなりましたが、十四・五年前東京に参りましてからは、始終御目に懸りましたが、其御人格が益々円熟せられて、実に感服に堪えない筋が数ありました、それは既に皆様が詳しく仰しやいましたから、唯今私が事別けて申上げる程の事もないと思ひます。唯だ私が故人を偲ぶに就て、吾々はどうか其人格を感じて、さうしてさう云ふ風に考へて総てをやつて行くと云ふ事をしたならば、定めし八十島君を偲ぶやうになつて、八十島君も御喜びにならうかと思ふのであります。
 人の最も尊ぶべき事は人柄、所謂人格であります。次には其人の技倆と云ふものがなくちやならぬ、此人格と技倆と云ふものは申すまでもなく、其人を全くさせる所のものであると思ふのであります。私が思ふに、人格は正直と云ふことが其基礎であらうと思ひます。正直と云ふことは詰り誠と云ふことである。君に誠なれば忠となり、父母に誠なれば孝となり、朋友に誠なれば信となる。総て誠と云ふものが一貫せねばいかぬのであつて、それが人格の本となると思ふのであります、即ち正直でなければならぬ。それから技倆は詰り智慧である。さかしい、賢いと云ふ事がなければならぬ、さうして物を分別し、適当に事を判断して能く行つて行くと云ふことが必要である。さうすると人格と云ふものは、正直が本であつて、技倆と云ふものは賢ひと云ふことが本である。此二つのものが円くなればなる程人が立派になると云ふことは、玆に私が申すまでもない事と思ふのであります。所が正
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直と云ふには、時々ある事で、又能くある事であります、馬鹿正直――正直に馬鹿がつくのです。賢い方には「悪る」がつく、悪る賢ひ。正直が最も人格の基礎であつて、賢ひと云ふことが技倆の基礎であるが、それに「馬鹿」がつき、「悪る」がつくといかぬ。どうも是が時時ある。賢いけれども正直でない、賢くないけれども正直である、斯う云ふ事がある。其処に悪るがつかないで、馬鹿がつかないで、正直と云ふことゝ、智慧・賢いと云ふことが旨く揃つて行けば、それの多少に依つて異常なる人物ともなれば、又郷党に於て愛せられ、時代なり社会に於て愛せられ、善い事をする人となると思ふのであります。所で私が此事を申上げたら、恐らく諸君の琴線に触れて、必ず私に御同意に相成るであらうと思ふのであります。八十島君は人格に於て正直であり誠であつた、而して正直に馬鹿と云ふことはつかない、絶対に無いと申して宜い。而して賢くあつて悪るなんと云ふことは、それこそ想像も出来ない。実に態度と云ひ、御様子と云ひ、それから諄々として抑揚のない、平たい言葉で以て、痛切に物を御話しになる所などは、先刻御話がありました、桂公爵の所で、どう云ふ風に説明せられたかと云ふことは、もう少し私に時間を藉して戴いたならば、本当の真似は出来ぬけれども、申上げることが出来るかと思ふ位であります、斯う云ふ風に言はれたであらうと云ふ想像はつく、殆ど見るが如くである。さう云ふやうな穏健な方である。さうして今の世の中は澆季になつたと申しますが、それは昔から言ふことである。私はさう澆季ではない、益々進んで行くのであると云ふ希望を以て世の中に立つて居る、又日本と云ふ国に就ても、大に楽観して居るのであります。此八十島君を偲び、正直・誠・誠意と云ふことゝ、智慧・賢いと云ふことを益々円満に発達させ、銘々が総ての事に携はるやうに致したならば、国家社会に大に貢献せらるゝと同時に、故人の趣意にも適ふことであらうと思つて居るのでありまして、皆様も恐らく御同感であるかと私は思ふのであります。それで此事を行つて参りましたならば、個人は勿論の事団体に於ても、又国に於ても、国内のことでも、又外部に対して国と国との交際に於ても同様であらうと思ひます。賢い方は勇の方か智の方か、智勇と云ふのは寧ろ賢い方で、無暗に戦争の用意をすると云ふことは、或る意味に於ては悪る賢い方ではないかと思ふやうな事がある。又正直に真面目に行つたならば、青淵先生の所謂王道、商売にも王道、個人の行ひにも王道、団体にも王道、国にも王道、国と国との交際は無論王道、斯う云ふ事で行きましたならば、故人を偲ぶ趣意に適ふと思ふ。此際吾々は大に其覚悟を以て、更に進んで行つたら宜いかと思ふのであります。私共は御同席の中では、年の上からは中以上ですが、まだ非常に春秋に富んで居る方も、沢山に御出でになります、前途洋々たる方々で、既に八十島君の趣意を御行ひになり、又主義として居られませうが、更に之に共鳴してやられると云ふことは、今日故人を偲ぶ大なる趣旨ではあるまいかと思ふのであります。併し是は唯だ吾々が自分一個で出来ることではありませぬ。一つは自分の人柄にも依る、人柄の範囲内でなければいけませぬから賢いと云ふても無暗に賢くはならない、元来人間は賢く生れて居る人
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と、それほど賢くなく生れて居る人とある、程度があるから已むを得ぬ、正直に生れて居る人と、正直の程度の低い人とある、是は天賦であるから、其足らざる人は之を磨いて足して行かなければならぬ、私共は其覚悟を以て進まなければならぬ。国にしても其通りで、非常に良い地位に居る人と、下の方の地位に居る人とある。一寸顔を見ると其色が変つて居ると云ふやうに、それぞれ人は違つた天分を持つて居る。併し其持つて居る所に依つて之を磨き発達させて行けば、或る程度までは行けるものであると云ふ事を知らなければならぬ。そこで良い天賦の人は益々励んで進み、不幸にして少ない天賦の人は之を段々発達させて行いくと云ふことに、ならなければならぬと思ふのであります。現に故尾高君の如き、八十島君の如きは、良い天分を持つて居られ、それを尚ほ益々発達せられたのである。それは何であるかと云ふと、尾高君の事に就ては私共は屡々青淵先生から伺つた事がある、明治二十七年頃でありましたが、福住町の御邸で篤二さん其他四・五人の方々と一夕二時間ばかり、青淵先生の御自伝のやうな事を伺つた事があつて、其時に已に尾高君の先大人は実に立派な御方であることを知りました。それから八十島君のお祖父さんに当る御方は、先程も穂積男爵の御話を承つた事でありますが、文武に通じて居られ、総ての事に皆伝を得られた御方である。又ずつと御先祖である方は、宇和島の伊達家に仕へて二代目の時代に藩政の御改革をなされ、勇断を揮はれた、それに従はない者を四人も斬られて、さうして租税の改革、検地等を断行せられたのでありますが、其後自分の財を御棄てになつて自ら一切経を買ふて蔵を建てられ、自分は浜辺に草庵を営んで前の四人の菩提を弔はれたと云ふ事である。君に非常に忠であつて、其為には一身を顧みず、又果断である、事を行ふに当つては、之に従はない村の四人の者を斬ると云ふやうな断を持たれた。さうして後には、其四人の菩提を弔ふ為に、一生を御送りになつたと云ふやうな、非常な同情を持つて居られたので、百五十年も経つても其御祭りが絶えざるが為に、八十島君の御祖父に御当りになる方が、再び八十島氏を継がれた、其お孫さんに当る方が八十島君であると云ふことを伺ひました実に極くの御先祖から、又現にお祖父さんに当られる方、先考の方と云ふやうに承継がれて、八十島君に至つたのであります。而して先程阪谷男爵の仰せられた通り、御二人の御相続の方も、其血を御承けになりまして、見上げます所、矢張り先人を偲ぶやうな心持が致されるのであります。必ず今後有望なる生涯を御送りになり、益々御進みになる事と思つて、吾々は喜んで居るのであります。
 尚ほ最後に、故人を偲ぶ意味に於て、青淵先生に申上げたい事がございます。先程は或は初めから親しき御親類として、或は極く若い時から殆ど子のやうにして御育てになつた御二人が、自分よりも先きに夭逝せられたと云ふことで、非常に御歎息でありました、誠に御尤もな事と、御同情に堪えない事でございました。が今両君を偲ぶ意味に於て、青淵先生に申上げますことは、甚だ烏滸がましうはございますが、先程申しました正直・誠・賢いと云ふこと、智慧と云ふこと、王道といふこと、此両方が殆ど同じやうに併行すると云ふことは、神様
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でなければ完全とは申されぬかも知れませぬが、どうも吾々は青淵先生に於ては、人間として殆んど完全の程度に御出でになるかと思はれます。先程長生きをして斯う云ふ苦みに遭ふと云ふ御話でありましたが、私は地下の御両君に代られてどうか長生をなすつて戴きたいと云ふことを申上げたならば、地下の両君の霊は大に喜んで居られはしないかと思ひます。尾高さんは五十五、八十島君は四十八であります。私が思ひますのに、人生は七十古来稀だと云ひましたが、今日の時代に於ては七十は先ず一寸普通でありはしないか、健康にして相当なる人物には七十位は普通であつて、稀ではないと思つて居ります、尤も私の如きはさうは生きまいし、又た生きたいとも思ひませんが、健康も智慧も揃つて居る方は、七十は稀ではあるまいと思ひます。然るに亡くなられた御二人の年は、七十までには尚ほ各約二十年あります、御二人の年を合せると四十年でございますから、青淵先生が向ふ四十年寿を御保ちになりましたならば、百二十となります、大隈侯に比べますると五つ程足りませぬけれども、是は御幸棒を願ひたい。左様に長生きをなさいましたならば、御両人の地下の霊は非常に喜ばれるであらうと思ひます。又両人の霊は私の此演説に喜んで共鳴して居る、大本教から云ふと感じて居る様な心持がする、私の声を聞いて居る様な心持が致します。斯様にして吾々は個人としても進んで行きたい、而して竜門社をして益々盛ならしめ、我国をして益々盛ならしめ、同時に竜門社に於ける御恩人である青淵先生の寿の非常に長からんことを切望致す次第であります。

    追懐談
                     福島宜三君
 東洋生命保険会社の立場よりして、故尾高君の為めに、私が一言の追悼辞を述ぶべき指名に預つたのであります。先刻来段々御追悼の辞が続きましたから、或は蛇足であらうかと存じますが、御指名に預りました上から、一言申述ぶべく御許しを願ひたいと思ひます。
 故尾高君は常に大を好むと云ふ性情を持つて居られました。何事でも好い加減に止め置かず、大成功を期待し、之が為めには大努力・大奮闘を辞されないのでありまして、東洋生命保険の如きも、先刻子爵閣下の御話又は佐々木君の御言葉の通り、当時多数の反対的忠告もあるのでありましたが、一旦引受けた以上は、日本一番の保険会社にしなければならぬと覚悟せられ、常に此言葉を公唱せられて居られたのであります。又東洋生命の建築の如きも、未だドウスルか分りませんが、尾高君は東京一番大きく高い家を造らなくてはならぬと云ふて、既に図案も出来て居るやうな始末であります。即ち尾高君は大を好みさうして必ず大を成すと云ふことを、生涯の本領とし、主義とせられて居りましたものと、私は確信致すのであります。而して其大を成すと云ふことを、東洋生命に於て著々成功せられて居ります。該会社御引受けの当時、即ち十年前には、殆ど明日をも危ぶまれたやうな保険会社で、御引受けになつた明治四十二年末には、僅かに三百万円内外の契約高しか持つて居なかつたのでありますが、僅々十年の間に一億
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三百万の多きに上つたのであります。又明治四十二年末の責任準備金は、僅かに十五万五千円を有するに過ぎなかつたのが、十年目の歿せられた昨年末に於ては、七百六十七万円に上つて居ります。総資産の上から申しましても、十年前には七十万円であつたものが、九百余万円になつて居るのであります、是は他の同業会社に余り例のないことで、即ち故尾高社長が大を成すと云ふ主義を実現せられたと申すことが出来るだらうと存じます。而して其大を為すが為めに、尾高君は朝から晩まで一人で一生懸命に其事務に勉強せられたかと申しますと、さうではない。沢山な事業に関係せられて居られました為め、東洋生命の如き日々御出勤にはなりましたが、僅々一時間か或は三十分位居られるに過ぎなかつたのであります。而も此大を成して居るので、是れは常に大を成す所以の計画に付きて、周密なる注意を払つて居られた為めで、殊に同君が代理店中心主義を取り、代理店に対して多大の注意を払はれましたので、勿論他の会社でも代理店を粗末にする所はありませぬが、尾高君が代理店に対して、特殊の優遇方法を設けられましたのは、全く他の会社には全然其例の無いことであるので御座ります。保険会社には各々種々の長所を持つて居りますが、代理店に対して特別な待遇法を設けて居るのは、此会社一つであります。僅々十年前には、現に子爵閣下を初め各方面の人々が、其前途を危ぶまれた此東洋生命が、今日の大を成したのは、全く尾高君の努力の結晶で、而かも平生の事務の如きは、一旦人に託した以上何等容喙せず、所謂信じて疑れなかつたので、此れ君が胆量の大なる所で、事業大成の原因だらうと存じます。尚他に色々申上げたい事、又同君にあらざれば東洋生命の今日の大を成さなかつた所以など、申上げたい事が沢山ありますが、前来の御演説者が五分間の時限を屡々書き替えなされましたから、私は正確に御指定の時限を守りたいと思ふので、最早是れ以上何事も申上げません、唯だ尾高君が東洋生命の為に、十年間に大を成された其力を以て、一般保険界の為に将来大に大を為されべき事があらうと思ひますので、現に保険界は尾高君が東洋生命を引受けられた当時とは非常の相違で、今日は二十七億の契約高を持ち、三億五千万の責任準備金を有して居ります、然らば近き将来財界に一大勢力、一大権威を持つべき斯業の上に、君を煩はし、数年後に保険界を提げて大勢力・大権威を持ち、大に国家社会の為に貢献せられるには、手腕力量円熟せられたる尾高君の今後に期待し得られましたと思はれまのに、不幸天、寿を仮さずして、今日此追悼会を開かなければならぬやうになつたのは、実に遺憾とする所で、同君の大を好む性情を、唯だ東洋生命の小区域に於て大を成された事のみを挙げて、追悼辞と致すのは洵に千載の恨事と存じます。之を以て追悼の辞と致します。

    追懐談
                     植村澄三郎君
 唯今皆様から尾高・八十島君に対する追悼の御言葉がございました私は特に八十島君の為に一言致したいと思ひます。私が同君に御目に懸つたのは明治二十二年頃で、学校を出られて、夏北海道に巡回され
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る時に、札幌で御目に懸つたのが始めであります。考へて見ますと、三十年程昔の事でございます。爾来渋沢事務所へ出ます毎に、御目に懸かるのみならず、事業上に就ては、青淵先生の御意見を伺ふ度毎に先づ八十島君の御意見も聞くと云ふ位で、始終御厄介になつて居つたのであります。先刻来皆様から御話がございました通り、人格と云ひ智識と云ひ、総ての点に於て、間然する所なき御方で、私共常に敬慕致して居るのであります。殊に私共が一層感じました事は、随分技倆もあり、人格も立派な方であつても、若い血気の時には品行の悪い方もあるのでありますが、あの方に限つては実に品行も方正で、私共洵に敬服致して居つたのであります、此点は特に私共は、あの方の為に言ひ残して置かなければならぬ事と思つて居ります、八十島君の令嗣はまだお若くて、就学中で御出でになるのでありますが、御成人の上は、大人の如く人格・学識共に立派な方に御成りになり、其上に大人の如く品行方正で、一点の指される所も無いと云ふやうに御成りになることを、私共は希望致するのであります。五分間と云ふことでございますから、是だけ申上げて御免を蒙ります。
                           (完)
   ○尾高次郎葬儀ニ際シテノ当社ノ弔辞ニ就イテハ、本款大正九年四月十八日ノ条〔参考〕参照。



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK430004k-0006)
第43巻 p.93 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一〇年           (渋沢子爵家所蔵)
一月十日 快晴 軽寒
○上略 午前十時、銀行集会所員井口氏速記者友野氏ト同行来訪ス、其通信録ニ余ノ意見ヲ徴スル為メ来レルナリ、依テ○中略 終リニ思想問題ヲ詳述シ、自己ノ関係スル竜門社又ハ修養団ノ現況ヲ説明シ、専ラ道徳経済合一ノ趣旨ヲ力説ス、且其道徳ノ進化トシテ、今日ノ仁義道徳説ノ幾分昔日ト異ル所以ヲ詳述シタリ、正午頃ニ至リテ講演ヲ終ル○下略