デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.224-233(DK430021k) ページ画像

大正15年11月7日(1926年)

是日栄一、青淵先生八十寿並陞爵祝賀会ヨリ寄贈ヲ受ケタル、青淵文庫ニ対スル謝意ヲ表スルタメ寄贈者ヲ飛鳥山邸ニ招キテ、答礼園遊賀会ヲ催ス。


■資料

竜門雑誌 第四五九号・第七二―八四頁大正一五年一二月 青淵文庫寄贈答礼園遊会(DK430021k-0001)
第43巻 p.224-232 ページ画像

竜門雑誌  第四五九号・第七二―八四頁大正一五年一二月
    青淵文庫寄贈答礼園遊会
  十一月七日は曇り勝ちではあつたが、曖依村荘の秋色いよいよ、濃やかに、この美はしい園遊会を祝福するかに見られた。午後二時半までに早くも四百に余る出席の方々は、参々伍々青淵文庫を中心に歓談を交へられる。式が開会せられると、青淵先生の挨拶が始まる、終れば佐々木勇之助氏の答辞、それから大倉男の祝辞があり、更に水野錬太郎氏の謝辞があつて式を閉ぢ、次で園内にしつらへられた模擬店に釣瓶落しの秋の日ざしを忘れて楽しき時は過された。青淵先生の挨拶、佐々木氏の答辞、大倉男の祝辞、水野氏の謝辞は次の通りである。
      青淵先生挨拶
 閣下、淑女、紳士諸君。今日は遠方の拙宅に何の用意もなく尊来を乞ひましたのは、頗る失礼な取扱でございましたけれども、皆様から特別な御好意を賜つた青淵文庫のことに就きまして、特に御礼を申上げたいと心掛けました所から、即ち此の屋敷内に臨場を乞うたのでございます。実は昨日は朝から少し雲立ちましたので、今日は如何かと少からず心配し、悪い日を選んで何の用意もないのに皆様を煩して、困つた事になりはせぬかと頻に憂慮致したのでございます。然るに幸に此天候で御座います。臨場の皆様方の御精進の好き為めか雨も降らず風も吹かず、仮令接待は御粗末で御座いましても、御迷惑のない園遊会が開き得られたことは、寧ろ主人よりは来会諸君の賜物と厚く拝謝致します。
 嘗て皆様の御厚誼に依りまして此処に文庫をお拵へ下すつた事は、
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実に身に余る幸福感佩措く能はぬのでございます。其事に就きましてくだくだしう申上げることは御退屈を来す虞があるかと思ひますけれども、未だ以て此の文庫をして完全に効を奏させることの出来ぬ次第と、其手違の生じた経緯を諸君に申上げるよりは、寧ろ私としては此の文庫に対して一言の陳弁なかるべからずと考へる次第でございます斯かる時機に諄々しうはございますけれども、一言陳上致すのは必ずしも無用の弁でなからうと私は思ふのでございます。
 別に学問界に生長した者でもなし、特に歴史に就て何等考慮致したこともない私が、斯かる文庫に依つて云々するは、根本に於て違ふとお笑もございませうが、丁度数年前に御懇命を戴き、皆様方から八十の寿を保つたのと爵を進められたことの祝として、特に此処に書物を置くべき所を装置して下さると云ふことは、私は此の上もなく喜んだのでございます。前に申します通り別段学問界の人ではございませぬから、書物に対して深い興味は持たぬやうなものゝ、なぜ飛鳥山の宅に於ては文庫に左様に趣味を持つたかと云ふことは、後に述べることで御了解を願へると思ひます。私が前に申す文学上・歴史上、別に造詣のない身にも拘らず、二十有余年以前から、徳川慶喜公の伝記を編纂する為め力を尽しました。蓋し私の歴史でございますから、決して国家の公けの物とは申せぬのでございます。又私は身を慶喜公の家来に置いた関係からでございますから、或は主家に偏すると云ふやうな誹謗を受けるかも知れぬと思ふのでございます。殊に其の慶喜は六百年続いた封建の変化、大政変に際して、畏多い申分でございますが、王政を一新せしめた明治大帝、反対に武家の政治を葬つた徳川慶喜、之が相対しての国家の一つの主な役者であつたと云うて宜いのでございます。若し此の事柄が不幸にして自己の私、或る行掛りから、種々なる禍乱を惹起することとなつたならばどうでございませうか。或は今日までも其の禍乱が継続せぬとは申せませぬ。少くも新田・足利の有様などを御覧なさつても、南朝の維持したのは殆ど六十年でございます。其の間は殆ど禍乱窮りなし、臣として君を弑し奉る、子として父を追ふ、殆ど人倫の滅裂と云ふやうな有様が随分長い間続いたのでございます。六十年以前の政治は、国内関係にして然り、加ふるに外患があつたのでございます。甚しきは英吉利が薩摩・長州に力を添へ仏蘭西は旧幕府に心を寄せたと云ふ事は決して風説のみではなく、明に事実であつたのであります。若し此場合一朝間違つて両々相対する騒動を惹起したとするならば、甲仆れて乙起り又乙止んで丙が出て国家の禍乱は決して窮りなしと云ふ状態を示したことと思ひます。況や其の所作が甚だ判断の仕悪い事であります。斯く申しますのは御承知の通り明治新政府は攘夷の旗印を以て幕府を倒したけれども、幕府の倒れた日には攘夷ではなかつた。名を攘夷に藉りたが、実は唯討幕が目的であつたと云ふ事は事実が証明するのであります。是は又なくてはならなかつたと思ひます。果して然らば之を己の偏見を以て論ずるならば必ず此の間に争あるといふことは、啻に新田・足利ぐらゐのものではなかつたらうと私は思ふのであります。斯く申す私は丁度慶応三年に仏蘭西に幕府の命でやられて、其の年の十月十四日に慶喜公が
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政権返上なさると云ふことを承知して、さる事とは思ひましたが、其の翌年一月の三日に起つた伏見・鳥羽の騒動を電報若くは通信で追々承知しましてからは、慶喜公の謹慎恭順は已むを得ぬ事であるけれども、或る場合には恐多い事ながら少し朝廷の仕方も御無理ではあるまいかと思ふこともあつたのであります。否朝廷の仕方に御無理ありとは申さぬでも、其の時の何とかして幕府を倒さうと云ふ無理仕掛に対しては反対したいやうな感情を禁ずることが出来なかつたのであります。蓋し私が自分の極く世間狭い見方から考へたばかりではなく、私と同様な観念を持つた人が数々あつたらうと思ふのであります。此の時に当つて徳川慶喜と云ふお人が実に唯国家あるのみ、自身は固より徳川家もない。唯日本を大事に思ふと云ふ観念から、どうしても是は政権を全く元に戻さなければいかぬと云ふことを深く感じて、大体然る上には末節に拘泥してはいかぬ。所謂身を殺して仁を為す時なりと覚悟されたことは、是は実に今も尚ほ深い感じを持つて居りまして、私が御家来であるから申すのではありませぬ。此慶喜公の此誠忠を能く見て下さいと愚痴のやうでありますけれども、満場の諸君にもお訴へするのであります。此感じからどうか誤りのない歴史を編纂し慶喜公の伝記を具へて置きたいものである。百年の後に其の史実が誤まるることなく分つたならばと思ふて之を主たる目的として慶喜公伝を編纂致した次第であります。さりながら歴史と云ふものは中々卒爾に決すべきものではありませぬ。南北朝の関係ですら或は正と云ひ或は閏と云ひ、学者間にも色々説があります。殊に論説が段々重つて行きますと、どう云ふことになるか分らぬから、努て唯一方に偏する観念を持たずに、正しい見解を以て反対側の説をも充分聴き、又其時の正史と思ふものを努て押へて、其の当時に於て喋々せずとも、後に其の事が追々に分るやうにしたならば、所謂百年の後に知る人ぞ知る、否、知る人ぞ知るばかりでない、知らぬ人も知るやうになるであらう。就ては其資料史実を成べく細かに留めて置いて、願はくば之を、後世に保存したいと云ふのが、伝記編纂と同時に烏滸がましうはありますけれども、未来を図つた為に此等の書類も段々集めました。此等の書類を全部実は兜町の事務所に保存して置きましたが、どうも彼処では未来に如何あらうか、何とか方法を立てねばならぬと思ふて居りましたところ、丁度此文庫を造つて下さると云ふことで此の上もない有難いことである。然る上は部類に依つて此等を区別して、文庫に保存しやう。此の場所であれば先づ大丈夫であらう。火災等の心配も先ないであらうと、実はそれを楽みに百年の後を図つたのでございます。それに附随して考へましたのは論語をも多少保存したいと云ふことであります。私は何の宗教もなければ学問もございませぬが、唯子供の時に読んだ四書中の一編、即ち論語四冊は多少記憶して居ります。学而第一から尭曰第二十迄、各篇を悉く読んで申上げる訳には行きませぬけれども、凡そ何処にはどんな事がある、例へば泰伯第八には何が書いてある、郷党第十には何が書いてある、或は雍也第六にはどう、里仁第四にはどうと、重なる箇条は斯う云ふ文が記載されて居ると云ふことは、略ぼ記憶して居る位に好んで読みました。殊に此の論語に対し
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ては私共能く分りませぬけれども、欧羅巴人・亜米利加人までに頻に翻訳も出来て、学者社会の一の研究物と相成つて居るやうでございます。欧米尚ほ然り、況や支那や日本にては、殊に此論語に対しては、先づ第一に古註に依る何晏とか鄭玄とか云ふ人の説を主張する学者もあり、又宋末の大儒者朱文公、是より先に河南の程子と称へた程明道程伊川、是等の説は未来派と称へて、一種の学説でございます。更に其の間に又折衷派と称へて古学と朱子学とを混淆しました説を為す者があります。斯く種々なる学説がある為に従つて種々なる議論もあるのでございます。学者ならざる私も聊か論語を読みました所から、此の説はどう彼の説はかう多少興味を持つて読んだ所から、自然と斯う云ふ書物もある、斯様な著述もあると云ふことを承知して居ります。丁度其の事柄に就て、故人穂積博士が殊に興味を感じ成べく調べて整へてやらうと云ふので種々なる論語を買集めたのでございます。その為めに前にも申した外国人の翻訳書まで併せ加へたのであります。是は前に申上げた慶喜公御伝記の史実資料とは違ひますけれども、先づ左様に集つて見ますと、之を具備して保存して置きたいと云ふ感じが起つて、丁度今の文庫を下さると云ふに就ては、是は唯一の場所である。幸にあまり隣家にも接触して居りませぬし、永く保存が出来るであらう。百年の後に之を見る人が見て、斯うであると云ふことが分つたならば、誠に歴史の上に於ても若くは道学の上に於ても、多少世に裨補することがありはせぬか。斯う云ふ考から此の頂戴する文庫は此の上もなく有難く楽みに思つて居つたのでございます。併しそれは思ふた通りに届きませぬで、大正十二年の震災の為に兜町に在りました書類は殆ど皆灰燼に帰してしまつたと云ふやうな有様で、誠に残念千万に存じます。其の後更に修築を加へて斯の如く立派な書庫は賜りましたけれども、之に入れまする品物は意外にも満足を欠いだと云ふことに相成つたのでございます。頂戴した物に対して入れる物がないと云うて皆様に不足を申上げる訳ではございませぬ。尚ほ取調べたら追追に前の通りの物が調へ得られるとは申上げ兼ますけれども、年を久しうしてどうか具備しやうと考へて居ります。右様の都合で実に有難い頂戴物が、速に自己の希望を満足せしめる訳にいかぬと同時に、諸君の厚いお志が完全に効を奏することが出来なかつたのであります。決して私は不足を申す積りでは御座いませぬが、唯此の書庫に対しての申訳と此の書庫を下すつた皆様に、書庫に代つて此の愚痴を斯る機会に一応申上げるのも無用ではなからうと思ひ敢てお聴取を願ふたのであります。感謝を表する言葉が不足がましく聞えるのは、誠に辻褄の合はぬ申分でございますけれども、斯く楽んで居つたのが斯う云ふ挫折を受けた。さりながら其の挫折は挫折なりでは置かぬ。兎に角未だ生存して居る自身も努め、又他の努める人々にも子孫にも共に力を尽して貰うて、此の考をば成し遂げるやうにしやう。即ち書庫をして満足せしむるやうにしよう。斯う思ふて居ると云ふことを少し横路に這入つて長々しうはございますけれども、心事左様であると云ふ事だけは斯かる機会に申上げるのが、寧ろ諸君に対するよりは、此の書庫に対するの義務とまで思ふて、玆に長々と陳上致しました。併し今申
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上げる通りまだ御伝記の方の史実を取調べて備へると云ふことは中々運びませぬけれども、論語に対しましては余程復興致しましたから、是は軈てに左様に落胆せぬでも宜からうと思ひます。唯御伝記の史実に於ては、或は昔日あつたやうな完全なのが再び得られぬものがありはせぬかと恐れますけれども、先づ未来に対して相当な証拠となるべき識者の大に味ひ置くべき品物は保存して行く積りでございます。而して此の場所は如何なる方法に保存されるか、未だ其の事に就ては私も何等申上げ得られませぬけれども、此の場所をどうぞ唯単に私の慰み私の子孫の慰みでなく、仮令小区域なりとも右様の物を保存して、幾らか世の識者の時々見て下さるやうな場所にしたいと思ふのであります。旁々以て此文庫に保存致しますのは、一方は或る場合には帝国の史実とも申して宜からう、一方は人の大に注意すべき道徳学でございますから、決して無用の務めではなからうと思ふのでございます。果して然らば斯の如き結構な文庫を下すつた皆様方が、未来に益することは誠に諸君の御好意から出たことゝ、先づ第一に私は感佩致しますが、第二第三未来に亘つて、此の事に就て或は史実に依り、古を知り論語に依つて道義を明かにする人々が、斯かる設備があつたれば斯かる好書が保存されるのだと喜んで下すつて、即ち諸君の御好意に対して未来永遠に感佩する人があるだらうと思ふのでございます。之を以て御礼の辞と致します。
      佐々木勇之助氏答辞
 今日此の記念文庫に就きまして盛大なる園遊会をお開きになり、吾吾一同御招待を戴きましたに就きましては、来会者の中の最も高齢で居らつしやる大倉男爵に御挨拶をお願するのが宜からうと存じて居りましたが、只今男爵から此文庫のことに就ては私が前から関係をして居つたから、私から御答辞を申上げたら宜からうと云ふことでございますから、甚だ僭越でございますが、誤て私が此の青淵先生の八十寿並に御陞爵の祝賀会の委員長に挙げられました関係から致しまして、聊か蕪辞を呈したいと存じます。
 只今渋沢子爵閣下から、此の文庫の事に就きまして御丁寧なお言葉を賜りまして、洵に光栄に存じますと共に甚だ恐縮に感じます。何となれば此の祝賀会に於きまして文庫を建設して呈しますと云ふことは余程以前、即ち子爵の八十歳におなりになりましたときに企てましたのであります。早速にも造らなければならぬのが、其後色々設計に手間取りましたり、又其の工事も甚だ遷延致しまして、それが為に遂に彼の大正十二年の大震災前に竣成することが出来ませぬので、子爵の只今お述になりました慶喜公御伝記の資料、其他色々御蒐集になりました各種の論語、実に御秘蔵の珍籍異本をして、此の文庫に納めることが出来ませぬので、此の災害の為に烏有に帰せしめましたと云ふことは、誠に私共と致しまして何とも申訳のない次第で、実に遺憾に存じますのでございます。それにも拘りませず今日此の会をお催し下さいまして、御丁寧の御挨拶を蒙りましたのみならず、子爵の自らお写しになりました論語を、記念として吾々祝賀会員一同に賜りましたことは、誠に私共非常な好記念として永く保存したいと存じまする次第
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であります。実に前申上げまする手違から致しまして、非常な不都合を生じました訳でございますが、それらの不都合のお咎もなく、只今の如き御丁寧なる御挨拶を頂戴致して誠に恐縮でございます。且つ此の点に就きましては、子爵に対して申訳がございませぬのみならず、会員の皆様方に対しましても、吾々共委員と致しまして甚だ申訳ない次第と存じます、今日はそれにも拘りませず斯の如き盛大なる園遊会をお催し下さいまして、吾々一同お招を戴きましたことは誠に有難い仕合せでございます。玆に謹で一同に代りまして御礼を申上げます。尚ほ今日は大倉男爵もお出でございます、又水野博士も居らつしやいますから、子爵に対しては又それぞれ御感想のお話もありませうと思ひますから、是で私は御免を蒙ります。
      大倉喜八郎男祝辞
 閣下、紳士諸君。今日の芽出度い会合に就て、老生にも一言申せと云ふことであります。私は今日のお式は大層喜ばしく存じます。なぜならば渋沢と云ふと論語、是はもう附物となつて居る。其の論語は勿論、之に因んだ沢山の珍本をお集めになつて、そうして書庫に収められて、それを渋沢君に贈呈して、今日お受取り下すつて御主人も非常に喜ばれた。申す迄もなく温い衷情の迸りで結構なことであります。老生は過去永い間の渋沢君に付て承知して居るので御座いますから、此際一言を加へたいと思ひます。それはどう云ふことかと云ふと、渋沢君は元と埼玉県から御出身になつてさうして、御一新前後に初めは幕府の政治の宜しくないことを憤られてどうも何とかしなくちやいかぬ、斯う云ふ日本ぢや困ると云ふので、自ら起つて国事に奔走をされた。然る所まだお若いときだから、中々血気の考通りには行かなかつた。それが為に、其の後は初め倒さうと思つた幕府の人となられ、それから更に洋行をされましたが、其の間に幕府は倒れました。今度は朝廷の臣下になつて働かれたと云ふ風に色々曲折はありますが、私は総て御尤だと思ふ。さうして幕府を倒して天皇の御代になつたと云ふけれども、当時は薩長の者でなければ人にあらず、と云ふやうな有様であつた。迚も埼玉県だの吾々のような越後から出た者などは眼中に置かれない。昔平清盛が西八条で威を振ふたとき、大納言時忠は平氏にあらざれば人にあらずと高言を吐いた。丁度御一新の当時は薩長にあらざれば人にあらずと云ふやうな有様であつた。其の際に渋沢君が国をどうするか、国の会計はどうするかと云ふやうなことに没頭されて、種々御心労をされたことはお察し申す。実に今日まで命を全うしてさうして、新日本を造られたと云ふ功労は非常なものであります。私はいつも申しますが、此新日本を骨を折つて拵へた重立つた人は誰誰だと云ふと、公卿華族では三条・岩倉、それから陪臣から出た者では、木戸・大久保・伊藤・山県、斯う云ふ人々が抽でゝ働いて新日本を拵へましたのであります。其の中に算へたいのは渋沢君、新日本の経済の為に今日まで働き続けて居られたと云ふのは渋沢君の他にありはしませぬ。矢張新日本を拵へた一人、日本の経済の為に尽瘁されたと云ふ立派なる功績は、決して没することの出来ないものであります論語のことなどは、渋沢君の終身にどれ程の助けがあつたか、それは
 - 第43巻 p.230 -ページ画像 
分りませぬ。併し渋沢青淵と云ふと直に誰も論語と云ふことを思出す其論語を初め沢山の書籍が渋沢さんの邸内に収められ、書庫に這入つて、之が万世に伝はると云ふことは、同君の為には大変に芽出度い事又喜ばしいことゝ存じます。先刻挨拶としてお述になりました事柄は誠に御尤千万であります。どうか私の願ふ所は渋沢さんが先づ渋沢家の御先祖、其の御先祖が是までに御骨折になつたのでありますから、渋沢家の子孫の方々はどこ迄も、之を尊奉して永く世の中に伝はるやうに御働きなさるのが当然であらうと思ひます。渋沢君の功績に等しく書庫の長く伝らん事を希ひます。
 殊に翁の如き人は又と再び容易く世の中に出て来るものでないと思ひます。昔から偉人は御互の共有物であると云ふ言葉もありますが、老生は此言葉は直ちに以て渋沢君に当て篏めることが出来ると思ふのであります。即ち渋沢君は御互の共有物でありますから、渋沢君に於ては御自身一個の身体であると思はれずに十分に健康を養はれ国家の為に益々働かるゝ様御願致度いのであります。来賓諸君も定めし御同感であらうと思ひます。玆に主人公の功績を称へると共に、此の書庫が長く保存されることを希望致して之を以て今日のお祝と致します。
      水野錬太郎博士謝辞
 私は青淵先生の門下生の一人でありまして、本日御祝の辞と御礼の辞を述べるには少し若過ぎると思ふのでございます。然るに只今佐々木さんから是非私に立つて先生に対する御挨拶をしろと云ふことでありましたから、甚だ僭越でありますが、先生には久しく御指導を受けて居る者でございますから御断りすることは失礼と思ひますので、玆に立ちまして一言御挨拶を申述べることに致しました。渋沢先生の八十のお祝と陞爵のお祝の為に、吾々同志の者から文庫を差上げると云ふことになりまして、私も其一人であつたのであります。私は三十有余年間、先生とは殆ど師弟のやうな関係で常に教を受けて居るのであります。近時多忙でありまするが為に、暫くこちらにも参る機会がなかつたのでありますが、本日お招に依りまして此処へ出まして、親しく先生の温容に接し又文庫を拝見しまして非常に欣快に堪へないのであります。実は此文庫を先生に差上げるに就ては、先生も最早八十の年をお越しになつたのでありますから、所謂雨読晴耕で、天気の好い日には庭園を御逍遥なされ、雨の日には静かに文庫にお引籠になつて読書にお耽りに相成るであらうと云ふ風に考へて居つたのであります然るに今日此処に出席いたしまして、只々先生の御挨拶を承りまして私非常に感奮致したのであります。先生は皆様御承知の如く多年国事に御尽瘁に相成りましたのでありますから、普通から言ひますれば最早御隠居なされて所謂雨読晴耕と云ふ境遇に御入りに相成つても宜しいのでありまするが、先生は今日尚ほ国家並に社会の為に老躯を捧げられて御尽瘁に相成られる御元気と、矍鑠たる御体力があると云ふことを親しく拝見致しまして、誠に喜ばしく且心強く感じたのでございます。而も此文庫の御利用に就ても決して只御自分の趣味を充たすばかりではなく、此文庫を公共の為に使ふのであると云ふことを承りまして感激致したのであります。それには第一に先生が故君を思ふの厚
 - 第43巻 p.231 -ページ画像 
き、慶喜公の歴史を編纂する上に於て最も能く此文庫を利用したいと云ふことであり、又第二には或は政治上に或は実業上に論語の研究に依つて以て国家の精神上経済上の進歩を図ると云ふことの為にも、此文庫は有要であると云ふ御意味の御話しを承つたのであります。先生が八十有余のお年に相成りまして、尚ほ矍鑠として国家並に社会の為に御努力に相成り、且つ先生の御私有に相成りました此文庫を斯の如き公共的方面に御利用下さると云ふことに就きましては、私は先生の此高い又深き国家的御精神に感奮し、吾々後進の者も益々奮励努力せねばならぬと云ふことを感じたのであります。先程先生のお言葉の中にもありました通り、明治維新の際の事を顧みると、実に我国家は如何に相成つたか分らぬのでありました。よく人が内外多事であるとか国家多難であるとかと云ふことを言ひますが、幕末より明治維新の当時は真に内外多事であり国家多難であつたのであります。当時内には或は佐幕と云ひ、勤王と云ひ、或は攘夷と云ひ開国と云ひ、紛争を極めて居り、又外には亜米利加・仏蘭西・英吉利、其他の国が開港を迫り、而かも先程先生がお話になりました通り、英吉利は薩長に心を寄せ仏蘭西は幕府に力を致すと云ふやうな事がありましたから、若し此時に一度国策を誤りましたならば、我帝国は如何に相成つたか分らぬのであります。之を今日から追想致しますれば、実に覚えず戦慄するのであります。幸に英聖文武の明治天皇陛下が維新の宏謨を定められ又之を輔翼する吾々の先輩が此宏謨に則り国策を立てられまして今日を致したのであります。而して今日では我帝国は世界に於ける五大強国の一と相成たのであります。私、最近に欧米を巡遊致しまして、我国の世界に於ける地位が向上して、確かに英・仏・米・伊等の諸国の班に列して居ると云ふことを見まして非常に愉快に堪へなかつたのであります。而して我帝国が此地位に進みましたのは、指を屈して見ますれば、明治維新から今日までは未だ六十年にならないのであります漸く明年で六十年になるのであります。僅々六十年間に、東洋の一小孤島から世界に立つて此地位を獲得したと云ふことは、私は実に奇蹟であると云ふても宜いと思ふのであります。而して此大なる奇蹟を齎したのは何であるかと申しますれば、明治天皇陛下の御広徳と並に此御広徳を翼賛致しました所の先輩諸公の苦心努力、並に一般国民の奮励にあつたと云ふことを申上げなければならぬと思ひます。さすれば其後継者たる者は、此先輩諸公の苦労に報ゆる為に、更に一層奮励努力せねばならぬと云ふことを痛感するのであります。先程大倉男爵のお話の中に明治維新以来新日本を建設した諸公を指名せられたのでありますが、今日では其人達の多くは物故せられたのであります。大倉男爵の指名せられました方々は最早今日は居られないのであります。其中に独り青淵先生のみは御強健であり御矍鑠であり、維新の功業に与かられた唯一生存者であります。維新当時の事情を親しく御承知になり、又其当時の事業に御関係になつた先生が、今日の我帝国の地位を御覧になりますれば、定めて御愉快であると同時感慨無量であらせらるゝと思ふのであります。恰も我子供が成長して立派な人間に相成つたと云ふ感じをお持になりまして、非常に御愉快に堪へない御感じ
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があることと思ふのであります、明治の新日本を建設された人々の中の確かに有力な御一人として今日御存在になつて居る先生は、私は国家の宝と云ふても宜しいであらうと思ふのであります。而かも此国家の宝は徒に棚の隅に置かれて居るのではなく、尚ほ其光を国家並に社会に向つて発揮せられつゝあるのであります。普通の人ならば七十・八十になると、隠居して或は骨董物を楽むとか或は風流逸楽に世を送るのでありますが、先生はさう云ふ事をなさらないで、今日尚ほ国家並に社会の為に各方面の事に御尽瘁になつて居らるゝのであります。故に私は此立派な国宝を尊重して益々其光輝を発揮せられん事を望むのであります。又吾々先生の下に教を受けて居る者は、先生を唯一個の青淵先生とせずして国家の宝、国家の元勲として、其御指導を受けて、此八十有余年、国家の為に御献身に相成りました先生が其苦心の事績を考へまして、夫以上の努力、夫以上の奮闘を以て事に当り先生の御労苦に酬いたいと思ひます。此事は文庫の出来ました機会に先生に対してお互に相誓ひたいと思ふのであります。先生は尚矍鑠として御壮健であり、今後益々社会的の事業に御活動になると云ふことは信じて疑はないのでありますが、どうぞ先生は御身体に御注意下され、今日国家多事の時に、どうぞ社会の為め国家の為に御尽瘁遊ばされんことを切望します。此言葉を持ちまして謝辞に代へます。


(増田明六)日誌 大正一五年(DK430021k-0002)
第43巻 p.232-233 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一五年 (増田正純氏所蔵)
十一月七日 日 晴
今日ハ渋沢子爵に於て、昨年十一月寄贈《(衍)》を受けた青淵文庫の建設者渋沢子爵八十寿並陞爵祝賀会々員一同を飛鳥山邸に招待して、答礼の園遊会を催さるゝ日である、予て其設備に怠りなかりしが、只天気が如何かと大に気遣つたのであつたが、幸ニ曇天で時々日光の映射を受くる仕合ハセ誠ニ申分なかつた
午前十時に掛員を同邸に集合し、敬三氏より夫々の準備に付く様依頼して貰つた、各員は其役割ニ従つて孜々と働き、正午には全部完備して、何時来客があつても差支無き様になつた
午後二時に案内してあつたのに、気の早い人は一時に来て、庭園を散歩して居た、二時十分前に子爵ニ青淵文庫に出張を請ふて、定の位地に付いて頂いた、小生ハ其脇に居て、入り来る来客を子爵ニ紹介する役目であつた、敬三氏其他同族各位は、各室の適当の位地ニ居て接客せらるゝ手筈が整つたのて、各処に散策しつゝありし来客に、子爵と接見せらるゝ事を請ふた
設備の大要を云ふと、庭門入口の右側に於て名刺受を為し、其処で記念の、子爵の書写せられたる論語壱部と青淵書庫蔵書目録とを頒布し夫れより青淵文庫に来客を導き、子爵ニ接見の上自由ニ文庫を見物せしめ、凡二時半、芝園に出来したる天幕会場ニ集合を請うて、夫れより子爵の挨拶を為す順序であつた
本日の来客は総計四百二十名、子爵と会見せられたのは凡二百人位であつたらふ、其他は自由行動を取つた訳である
午後二時半、会場に於て先つ子爵より、青淵文庫寄贈に対する謝辞が
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あつた、次ニ大倉男爵は演壇ニ上り、来会者ニ諮り、佐々木勇之助氏を一同の代表者ニ推薦した、其処て佐々木氏は来賓一同を代表して、子爵に謝辞を述へ、次て大倉男爵の祝辞があつて、最後に水野練太郎氏が祝辞を述へた、於是小生より、之ニて式は終りを告けました、就いて後庭に摸擬店を出来して置きましたから、粗末ながら何卒緩々と御試ミ下さる様願ひますと披露して園遊会に移つた、時ニ三時半摸擬店は天麩羅・ホツトドツク・支那料理・菓子果物紅茶・麦酒シトロンの各店で、九箇処に之を設けた、各店共ニ大繁昌で、殆と全部が売切れの盛況であつた、午後四時半頃来賓は帰途に就いて、五時半には奇麗に終了した、直ニ掛員に青淵文庫に集合を請ふて、敬三氏より一同に謝辞を述へ、之にて今日の愉快なる園遊会を終つたのである
  ○本款大正九年十一月二十三日及ビ同十四年十月二十五日ノ条参照。