デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.552-556(DK430109k) ページ画像

大正7年6月30日(1918年)

是日、飛鳥山邸ニ於テ、田尻稲次郎ノ当団団長推戴式挙行セラル。栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

向上 第一二巻第七号・第九二頁 大正七年七月 田尻団長推戴式挙行日決定(DK430109k-0001)
第43巻 p.552 ページ画像

向上 第一二巻第七号・第九二頁 大正七年七月
    田尻団長推戴式挙行日決定
 六月十五日蓮沼主幹は渋沢顧問を王子の私邸に訪ひ、団長推戴式挙行の件につき陳述する処ありしが、左の如く決定せられたり。
 一会場、王子渋沢男爵邸のこと。
 一期日、大正七年六月三十日(日曜)午後二時開会のこと。
 一園遊会、推戴式終りて直ちに模擬店を開き、賛助員団員の懇親を計るべきこと。
 一入費、総額千円とし、渋沢・森村両顧問に於て五百円寄附さるべきこと。
 一会費、無用とし、地方幹事の出席を希望すること。
 一招待状、賛助員の招待状は、渋沢・森村両顧問より差出さるべきこと。


集会日時通知表 大正七年(DK430109k-0002)
第43巻 p.552-553 ページ画像

集会日時通知表 大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
 - 第43巻 p.553 -ページ画像 
六月三十日 日 午後二時 修養団々長就任披露会(飛鳥山邸)


中外商業新報 第一一五八五号 大正七年七月一日 田尻新団長推戴式挙行(DK430109k-0003)
第43巻 p.553 ページ画像

中外商業新報 第一一五八五号 大正七年七月一日
    田尻新団長
      推戴式挙行
修養団の田尻新団長推戴式は卅日の午後二時半、府下滝の川なる渋沢男庭園で開催された、此日同団の顧問たる前記渋沢男並に森村男の両氏を始め水野内相・井上府知事・嘉納高師校長・北条学習院長・阪谷男・浅野総一郎・増田義一諸氏の来賓と全国五十余の各支部代表者等四百余名は芝生の大天幕に集合し、型の如く式辞・祝辞に始まつて田尻新団長の挨拶に移り「吾々は共に誠の一字を本分とせん」と種々の諷刺を挿んで現在の社会組織に欠陥のある事を述べてのち式を閉じ、更に諸種の余興又は邸内の摸擬店を開いて、夕方の六時頃一同悦びに満ちて散会した


竜門雑誌 第三六二号・第六八頁 大正七年七月 修養団々長推戴式(DK430109k-0004)
第43巻 p.553 ページ画像

竜門雑誌 第三六二号・第六八頁 大正七年七月
○修養団々長推戴式 青淵先生・森村男爵を顧問とせる修養団にては今般田尻子爵を団長に戴くことゝ成りたるより、六月三十日午後二時より飛鳥山曖依村荘に於て団員五百余名参列の上、其推戴式を挙行したるが、来賓には青淵先生其他水野内相・阪谷男・井上府知事等朝野の名士参会し、式後余興及園遊会を催したる由なるが、当日青淵先生は同団顧問として、阪谷男・水野・床次・二本博士は来賓として、田尻子爵は団長として孰れも一場の挨拶又は祝辞・演説等ありたる由。


向上 第一二巻第八号・第一〇二―一〇四頁 大正七年八月 田尻団長推戴式(DK430109k-0005)
第43巻 p.553-555 ページ画像

向上 第一二巻第八号・第一〇二―一〇四頁 大正七年八月
    田尻団長推戴式
○既報の如く田尻団長推戴式を六月三十日王子飛鳥山の渋沢男爵別邸に挙ぐ、此日朝来雲収まりて風立たず、梅雨晴れの空は一天拭ふが如く地上の万塵洗ひ尽されて深緑殊に鮮かなり、午前八時会場係は渋沢男邸に集まり諸般の準備に奔走す、当日の会場大天幕は前日来増田・白石・上田氏等の尽力によりて青毛氈を布きつめたる如き草原の上に張られたり、正午を少し廻るや此時已でに柳下少将は来賓の先到第一として来場せらる、受付係の気分漸く緊張す、次で甲乙の来賓団員続続到着す、庭園には森林あり草原あり飛瀑あり山逕あり、処々の東屋には花莚を布き椅子を備へ以て憩ふべく以て談ずべし、主義主張を同じくせる同志なれば一見互に旧知の如く、三々五々肩を並べて歓談し逍遥し、先輩も青年も互に胸奥を披く様恰も親子の如し。午後一時半当日の主賓田尻先生今日のみは亀岡豊二氏・野村農学士と自動車にて来場せらる。待ち設け居る活動写真班は機敏にも此時素早く先生一行をフイルムに撮む。次で加藤咄堂氏・小林一郎氏・浅野総一郎氏・森村男爵・井上東京府知事・床次竹二郎氏・ハリス監督等続々着場せられ、定刻二時に至るや第一振鈴鳴り渡り、次のプログラムによりて式は最も厳粛に進行されたり(詳細本文参照)
      田尻団長推戴式順序
 - 第43巻 p.554 -ページ画像 
  一、団員着席            (第一鈴合図)
  二、来賓着席            (第二鈴合図)
  三、団長臨場
  四、開会宣詞         幹事 瓜生喜三郎
  五、君か代(二唱)           一同起立
  六、勅語奉読(筧博士)         一同起立
  七、団長推戴の辞       主幹 蓮沼門三
  八、式辞           顧問 渋沢男爵
  九、祝辞        各支部総代 松山政治
 一〇、祝辞       各向上舎総代 満田尚
 一一、来賓祝辞            阪谷男爵
                    井上東京府知事
                    床次代議士
                    二木博士
                    宮田成女学校長
 一二、祝文祝電披露          松本虎雄
 一三、挨拶              田尻団長
 一四、本団経過報告       幹事 後藤静香
 一五、万歳(三唱)            一同起立
        園遊会
  一、剣舞              日比野雷風氏
  二、園遊会
  三、随意退散
 飛鳥山の天地歓声尽くる時なけれど、遉かに長き夏の日足も漸く西山に入らんとし、薄暮せまり一同退散す。先輩諸賢が当日多用なる半日を繰り合はされ、態々出席下されしは本団の光栄とし深く感謝する処なり、左に来賓の芳名を記して深く感謝の意を表す。
                男爵 渋沢栄一殿
                同  森村市左衛門殿
                同  阪谷芳郎殿
              法学博士 筧克彦殿
              青山学院 ハリス監督殿
              法学博士 松崎蔵之助殿
             東京府知事 井上友一殿
            東京高師校長 嘉納治五郎殿
          農商務省農務局長 道家斉殿
               代議士 床次竹二郎殿
            東京高工校長 阪田貞一殿
              学習院長 北条時敬殿
              高工教授 波多野重五郎殿
              医学博士 二木謙三殿
             成女学校長 宮田修殿
                   利倉久吉殿
                   石井信二殿
 - 第43巻 p.555 -ページ画像 
                   棟居喜久馬殿
                   吉武栄之進殿
                   横山徳次郎殿
           青山師範学校長 滝沢菊太郎殿
            女子大学校長 成瀬仁蔵殿
                   村上通殿
                   八十島親徳殿
                   和田豊治殿
              陸軍少将 柳下重勝殿
                   松浦玉圃殿
                   増田義一殿
            横浜女学校長 降屋虎雄殿
                   浅野総一郎殿
                   有馬頼寧殿
                   安達憲忠殿
                   北爪利郷殿
                   峰岸米蔵殿
                   白井新太郎殿
                   荘清次郎殿
                   平田初熊殿
                   加藤咄堂殿
                   亀岡豊二殿
                   (以下煩を避けて略す)
○更らに感激に堪へざるは、地方同志諸君が貴重なる時日と多額の旅費とを費して、当日の盛典に参列せられし事なり(芳名は繁雑につき之を省く諒せられむことを)
○中略
      ○活動写真撮影
 団長推戴式の盛典に参会し得ざりし団員諸君の為め、荒川技師に依嘱して其概況並に渋沢男爵邸園、田尻団長日曜行事の一たる薪割及蔬菜耕作及び其庭園を撮影し、他日諸君に紹介せんとす。


北雷田尻先生伝 田尻先生伝記並遺稿編纂会編 上巻・第八七―八八頁 昭和八年一〇月刊(DK430109k-0006)
第43巻 p.555 ページ画像

北雷田尻先生伝 田尻先生伝記並遺稿編纂会編
                上巻・第八七―八八頁 昭和八年一〇月刊
 ○第一篇 閲歴
    第五章 東京市長時代
○上略
 六月三十日○大正七年修養団は飛鳥山渋沢男邸内に於て朝野の名士を招待し、先生の為めに団長推戴式を挙行す。此の日全国の支部長も上京し、在京団員五百余名列席して頗る盛会なりき。
○下略


北雷田尻先生伝 田尻先生伝記並遺稿編纂会編 上巻・第七四〇―七四三頁 昭和八年一〇月刊(DK430109k-0007)
第43巻 p.555-556 ページ画像

北雷田尻先生伝 田尻先生伝記並遺稿編纂会編
               上巻・第七四〇―七四三頁 昭和八年一〇月刊
 - 第43巻 p.556 -ページ画像 
 ○第二篇 事績
    第六章 修養団の事業
○上略
斯くて先生団長の任に就かるゝや、大正八年一月左の通り天下に呼号せられたり。
      天下の同志に檄す
  流汗鍛錬、同胞相愛の実現によりて人格の向上を図り、同志提携して社会の風紀を革正し、以て皇国の進運に貢献せんとして起りたる我修養団は、創立以来渋沢・森村・手島の各顧問を初めとして、賛助員諸氏の熱心なる援助の下に終始一貫着実なる経営を持続し、各地を遊説し、天幕講習会を開催し、寄宿舎を設立し、図書及雑誌を刊行する等、内は団員の修養に努め、外は各地に於ける中堅青年と聯鎖を固ふし、呼応激励以て風教の改善に尽瘁すること玆に十有四年の久しきに亘り、不屈不撓能く諸般の艱難に堪へ、一意専心毫も懈怠することなかりしの結果、今や漸く社会に其の存在を認められ、団運年と共に隆盛に赴き、団員全国に普く、支部の設立数十ケ所に及べり。然りと雖も本団の目的を徹底せんが為めには、未だ僅かに其第一歩を得たるに過ぎず。
  今や世界の大勢は帝国の上に極めて重大なる責任と、使命を感ぜしむるに至れり。吾人は此際宜しく万国無比なる我が建国の大精神を発揚し、此大勢に処せざる可らず、不肖稲次郎短才薄識を顧みず躬を以て之に当り、修養団の発展に尽瘁せんとす、惟ふに幕末殉国の志士は之を当時の趨勢に鑑み、死生の間に出入し、能く風雲を叱咜し、終に維新の大業を翼賛せり。爾来半世紀を経て物質文明の進歩に於ては大いに観るべきものありと雖も、淊々智的に傾き、風俗淫靡に流れ、特に思想の堅実を欠き、古来の美風将に地を掃はんとす。是れ実に帝国の危機にして当に一大廓清を要する秋なり。況んや今回の戦乱は全世界を通じて物質的及精神的両方に多大の変動を生じ、之に処するの道甚だ容易ならざるものあるに於てをや。是に於て顧問及幹部諸氏と協議して、本団の拡張発展を規画し、本団をして風教改善の一勢力たらしめんとす。玆に団則を改め、其の主張を明にし、以て天下に檄する所以なり。
  冀くは同志諸君本団の趣旨を賛し、吾人の微衷を諒納し、倶に力を皇国の進運に尽されんことを。
  大正八年一月
           修養団 法学博士子爵田尻稲次郎
 本団を帥いて天下に呼号せられんとする意気、以て窺ふべきなり。
○下略