デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.658-674(DK430146k) ページ画像

昭和3年10月14日(1928年)

是日、当団主催ニヨリ、当団本部ニ於テ、栄一ノ米寿祝賀会開カル。栄一病気ノタメ出席セズ、嫡孫敬三代理トシテ出席ス。


■資料

財団法人修養団書類(三) 【修養団計劃の渋沢子爵米寿祝賀会に付て】(DK430146k-0001)
第43巻 p.658-660 ページ画像

財団法人修養団書類(三)         (渋沢子爵家所蔵)
    修養団計劃の渋沢子爵米寿祝賀会に付て
昭和三年八月十日阪谷男爵及び渋沢敬三氏の招請により蓮沼門三・瓜生喜三郎両氏渋沢事務所に来訪、表題の件に付懇談す。上記四氏の外渡辺得男・白石喜太郎列席す。
阪谷男『今日は態々御呼立して恐縮でした。昨日他の要件で此事務所へ来たときに、渋沢敬三氏から修養団で渋沢子爵の米寿を祝つて下さると云ふことを聞いたが、何だか一万人とか団員を寄せるとか、云ふことで夫はとんだことである。よく御話して見ようと云ふことになり、玆に御いでを願つた訳であります。子爵の健康に付ては、私共親戚の者は非常に心配して居ります。何しろ最早九十歳と云ふても差支ない程の高齢でありますから、何の故障もないときでも、普通の血気の者が三十九度も四十度も熱を出したときと同様の心得を以て真に大切にして来て居ります。こんな関係から子爵とは最関係深い竜門社でも今年米寿の御祝を計劃したが、其時も場所は帝国ホテルと決めて居つたような次第であります。然るに四月の中旬風邪で御引籠りになり、夫れから胆嚢炎を起し、五月十日に急に三十九度以上の熱が出てひどい痛を起されましたが幸に一日で痛がとれ熱も下り、大した心配もなく済みました。然し胆嚢の腫張が思ふ程減退せず、医者の方では先年の事も考へて癌になりはせぬかと大分
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心配したようでした。実は未だ全然腫がとれた訳でなく、依然として心配はして居ります。此様なことで竜門社の祝賀も延期しましたかく心配をして居る子爵を一万人もの人々の会合に出し、殊に野外に出さうと云ふ計劃は誠に困ります。是非人数を少くし、室内でやるように変更して貰ひたいものであります。』
蓮沼『よく分りました。全然御尤千万です。実は私共微々たるもの等のやつて居ります些細の団体が、渋沢子爵始め諸先生の御引立によりまして、兎に角今日の状況になりましたので、此等恩人の方々に付何とかして吾々で出来る――詰り金のかゝらぬ――方法で感謝の意を表さねばならぬ。と常に考へて居りますが、其内で最も御恩を受けて居る渋沢子爵の米寿の御祝することが出来るのは誠に願ふてもないことである。是非一万人の団員を集め、かゝる状況になつて居りますと云ふことを見て喜んで戴かうと云ふので大分大がゝりな計劃をしました。尤も之は今年正月のことで、子爵の御病気などになられぬ前の話であります。それで子爵に御話しまして御承諾を得ました』
阪谷『子爵に御話されゝば承諾されるに決つて居る。頼まれたなら、支那へでも出掛けると云ふ気持で居られるから、それは問題にならぬ』
蓮沼『そうです。それでこんな計画はしましたが、其後子爵が御病気になられましたので計劃を変更せねばならぬ。万一にも国宝たる子爵に障るようなことがあつては、それこそ大変で御座いますから、計劃を小規模にしまして幹部の人々二・三百人で修養団の会館で開くことに致します』
阪谷『そうして貰われゝば結構です』
敬三『かように御約束しましても、若し其時になつて医者から止められたならば、已むなく出られぬようになりますから予め御承知を願ひたい。何しろ御医者の絶対監督の下にあるんですから……』
蓮沼『それは勿論で御座います。』
敬三『それから祖父は頼れば否とは云はぬ方ですから、若し君等から誘をかけるようなことがあると真に困りますから、左様のことのないように、寧ろ止める方に立つて貰ひたいものです』
蓮沼・瓜生『分りました。左様します』
阪谷『子爵は旧時代の人であるから、どうもつとめられる。先年日本女子大学校の卒業式があつて記念写真を撮つたがひどく寒い日であつたので、外套を着られるようにと傍から勧めたが全然受付けなかつた。私は弱虫だから御免蒙つたが高齢の子爵はかまわず写真に入られた。後で果して御引籠りになつた。これは一例であるが、どうもつとめられる。尤も自身つとめると云ふ気はないが、何此位と思つて我慢せられる。そうするときつと後で身体にきく。此辺のことをよく考へて万一の心配ないようにして戴きたい』
蓮沼『承知致しました。よく分りました』
瓜生『祝賀会の方法に付てはよく分りましたが、序に御承認を願ひたい事が五件御座います。第一は修養団は御承知の通り金銭の余裕が
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ありませんが、何とかして記念したいと云ふ所から『向上』と『汗と愛』に子爵と修養団の関係や、諸先生の子爵に関する御話などを掲載して、記念号を発行したいと思ひます。第二は本部及び各支部の状況を撮つた四ツ切位の写真が集つて居りますから、此を見れば団の現状が分るやうなアルバムを拵へて、子爵に呈上したいと思ひます』
阪谷『それは結構です。子爵も喜ばれるでしよう』
瓜生『第三に記念絵葉書を造りたいと思ひます。此は三枚一組にしまして、一枚には修養団本部の写真と子爵の演説をして居られるのとを組合せ、一枚は子爵に御筆労を願ふて、修養団のモツトーを図案した枠内に入れることに致しまして、最後の一枚は各支部の写真を組合はせたものにしたいと思ふて居ります』
阪谷『その案も面白いと思ふ。それには何れエンヴエロツプを造ることゝ思ひますが、それに蓮沼君が蔵前の高等工業の二階でやつて居た時代から、今日までに段々発達の模様を示す各種の数字をダイヤグラムにして出すとよいかと思ふ。本来は絵葉書の一枚にしても面白いが、他の二枚が写真だから釣合が悪いかも知れぬから矢張包紙の図案にする方がよからう』
瓜生『それから第四は当日の状況其他を活動写真に撮り、予て撮影してある活動写真とうまい具合に取合せて記念のものを造りたいと思ひます。第五は竜門社で出された国訳論語を当日の記念品にしたいと思ひますので何分の御考慮を願ひます』
阪谷『国訳論語は斯文会でやつたので、斯文会とよく打合はせる必要がありますから、渡辺君から引合ふように致しませう。斯文会の山本さんか誰かに交渉すればよい』
渡辺『承知しました。彼の関係は増田氏がやつて居りましたから至急に引合ふて貰ふように致しませう』
敬三『刀江書院も発売を引受けて居ると思ふから、此方へも引合ふ必要があると思ふ』
渡辺『刀江書院へも増田氏からやつて貰ふようにしませう』
        以上     昭和三年八月十一日 憶記 白石


向上 第二二巻第一一号・第一九―六六頁昭和三年一一月 愛汗の殿堂に霊の焔燃え 明魂耀ふ米寿祝賀の大会 座間止水(DK430146k-0002)
第43巻 p.660-668 ページ画像

向上 第二二巻第一一号・第一九―六六頁昭和三年一一月
    愛汗の殿堂に霊の焔燃え
      明魂耀ふ米寿祝賀の大会
                      座間止水
□本団主催、顧問渋沢子爵の米寿祝賀会は、十月十四日午後一時から本部会館講堂に於て開かれた。――祝賀会前日の十三日夜から先著の支部代表九十五名の一夜講習が開かれ、蓮沼主幹、万代・赤坂両講師の講話・指導があり、身を浄め魂を磨き、精神的祝賀の霊的記録を永劫に刻まんとする意気は既に会日前夜から全館を動揺めかし、帝都の一角、明治大帝の鎮まりまします代々木の神苑近き愛汗の殿堂、修養団五層楼上に霊の焔が燃えあがつた。
□明くれば十四日、秋天一碧、からりと晴れわたり、神苑原頭、瑞気
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流れ漾ふ。明治・大正の偉人、本団育ての親たる顧問渋沢子爵の米寿をことほぐ祝賀日和、天地神明の加護は此の大会の上にも現実に卜せられた。館上より蜘蛛手に張り渡された万国旗は、秋風に流れて会場の壮観偉容を加へ、全国各地から馳せ参ずる聖戦の勇士を翩翻として手招ぎするかに動いた。
□祝賀会参列団員は、早朝より三々五々、団旗を翻して会場に吸ひ込まれた。午前十一時新潟県聯合会の大集団が団装白衣に身を固め、三角旗を先頭に子爵に贈る紅白の五斗がけ大鏡餅を捧げつゝ、隊伍堂々と乗込んで来た。新潟県聯合会万歳の声は館内館外から一斉に揚げられ、意気剛壮、勇姿堂々の先駆を切つた。引きつゞいて内地各所、鮮満の支部又は支部聯合会の面々、何れも三角旗を押立てゝ犇々と詰めかけ、息をもつげぬ必死の受附に押し寄せ詰め寄せ、約八百名が階上式場へと流れ込んだ。
□一方陪賓受附は正午より定刻前まで朝野の名士・政界・学界・実業界の巨頭、陸海の将星、本団の恩人・知人百五十余名が、粛々と来団第一・第二・第三の控室に参入した。定刻真近に至れば陪賓控室も団員控室も身動きの出来ぬすし詰め、館上館下人波を打つて五層楼も動かんばかり、歓呼、歓談・愛語の唸りを発してゐた。開式前早くも万代団員総指揮は、参列団員一同と団歌の合唱・室内運動を試み、意気を揚げ整頓を行ひ、白色倫理運動聖戦陣の火蓋を切り、百戦苦闘の汗愛軍の底力を遺憾なく発揮した。
□かくて定刻午後一時を告ぐるや、先づ第一号令で参列団員は水を打つたる如く式場の中央を占めて著座、ついで第二号令で陪賓は式場に進み、団員の左右両側に居並んで著席、第三号令で主賓渋沢顧問代理令孫敬三氏は、平沼団長の案内で、蓮沼主幹、宮田祝賀会司会、瓜生同総務、竹内・牧野両理事等と共に入場し、壇上左方の主賓席に、団長は同右方に、主幹以下幹部それぞれ定めの席に著き、予定の如く整然たる式場整列が済んだ。
□仰ぎ見る正面高どのゝ神棚には神殿をしつらひ、二基の真榊をそなへ、壇上左右に丈余の神生木ぬさでつゝまれた榊一対の鉢植を置き、その中央に『祝米寿』の墨痕あざやかなる標識を建て、いとも荘厳にいとも厳粛に敬神を顕彰し、祝賀を象徴し、壇上から左右両側の窓戸際には百数十旒の愛汗の三角団旗が旗地の色の目もあやに、剣光燦として一列に流れ、神の国日本・道の国日本・愛と汗の調和統一の姿が顕現されて、おのづから身を浄め心を洗ふ神秘の力を発露した。
□宮田司会、中壇に進んで挙式を宣し、万代総指揮の指導の下に静座遥拝があり、ピヤノ・喇叭(吹奏者は秋田県の斎藤氏)の合奏にあはせて君が代の合唱があり、平沼団長上壇に進んで教育勅語を捧読し、ついで米寿祝賀の辞(別項掲載)を述べ終つて蓮沼主幹上壇に進み神殿に向ひ祈願を朗読す、
 神の闢き給へる皇国の礎を固めんとして、白色倫理運動の陣頭に起てる同志一同は、今玆に米寿祝賀会の式場に臨み、身を清め魂を鎮め、大神の御前にひれ伏して渋沢顧問の病気全快を祈り奉る。国の賓、修養団の育ての親をして、希くは豊なる恩寵を垂れ給ひて万歳
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の寿を保たしめ其の大願を成就せしめ給へ。今日顧問の温顔を仰ぎ得ざるも、祈り願はくは其の慈愛の魂を玆に通はしめ給ひて、感謝に躍る我等の魂を温め喜ばしめ給へ。八十九年の永き生涯を通して君国の為めに砕かれし忠愛の明魂をして、我等の魂の中に活かしめ給ひ、以つて国本確立の誓願を成し遂ぐる幸ち日の来らせ給はんことを、謹み謹みて祈り奉る。
□更に一同に向ひ、子爵と本団との関係、子爵に対する頌徳辞、汗愛行者の覚悟の梗概(別項記載並に九月号掲載)を述べて、米寿祝賀の辞を捧ぐ。
□引きつゞき森村後援会委員長の祝賀の辞(別項掲載)、岸田兵庫県聯合会長の団員総代祝賀の辞(別項掲載)、陪賓総代諸井恒平氏の祝賀の辞(別項掲載)、来賓有志小久保喜七氏祝賀の辞があつて、頌徳米賀の熱弁、満堂の霊の焔を内に燃やし、九百の参列者躍る魂を鎮めて、外容は森の如く静かに、岩の如く動かず、瓜生祝賀会総務壇上に進み、机上にうづ高く積まれたる全国各地同志よりの祝辞・祝電の披露をなす。祝辞百六十二通、祝電百三十七通、代表として大阪聯合会の祝辞、台湾・朝鮮・満洲よりの来電を朗読す。尚ほ病臥中の子爵よりの伝言を披露し更に新潟県聯合会より子爵へのお祝ひ贈品大鏡餅、一段十五俵取り汗愛稲作者梅原育二氏寄贈の稲の標本、修養団モツトーを認めたる三粒の米を披露し、修養団白色倫理運動の進展のために之が後援の事業の最も大切なるを力説して降壇す。
□平沼団長、壇上に進んで、全国に於ける修養団支部の活動状況を一目瞭然に示したる写真帖『明魂のつどひ天地人』三巻に、目録を添へて贈呈、子爵代理令孫、手づから之を受く。かくて顧問渋沢子爵の挨拶を伝へ祝賀のお礼を述ぶべく、年こそ三代の相違はあれど容姿風格子爵にそつくりの令孫敬三氏はおもむろに立ちて壇上に進み、玲瓏にして荘重、満堂に透徹する懇ろなお詞(別項記載)があつた。
□万代指揮は中壇に進み、感謝感激の血涙を絞り、火の如き熱弁を揮つて修養団汗愛行者の蹶起を促し、団歌の合唱に入る。団員泣き、陪賓泣き、満堂悉く感激感憤の涙の海にたゞよふ。真に熱涙に色彩られた団歌の合唱であつた。陪賓の最高齢者末延道成翁は、年長の故を以て上壇に進み、渋沢子爵万歳の発声をなし、一同起立して之に和し、館為めに震動するかの観あり。宮田司会閉式を宣す。時に午後四時。少時休憩。
□午後四時十分、第四号令を以て会館前に集合、万代総指揮先頭を切つて館前広場に於て円陣駈足を行ひ、小高い欅の大木の下で国民体操団歌踊りを為し、八百の白シヤツ団が一糸乱れず滑かなる行動振りは美観壮観を極めた。午後五時、第六号令で百余旒の本部並に支部旗を先頭に、四列縦隊をつくつて明治神宮参拝に出発、斎藤氏の行進喇叭に歩調を合せ、代々木北参道から粛々と練り込んだ。第三鳥居前で平沼団長、主賓渋沢敬三氏を先頭に蓮沼主幹初め本部幹部、陪賓、参列団員が横隊をつくつて修祓を受け、拝殿前に参入し謹み虔みて参拝し二分間の祈願黙祷を捧げ、午後五時半、列を整へて本部へ引揚げた。
□玄関前受附で、修養団式弁当パンと、記念品(パンフレツト『渋沢
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子爵八十九年の訓へ』及び三枚一組米寿祝賀記念絵端書)を渡し、玆に全く渋沢顧問の米寿祝賀会を終る、時に午後六時。かくて直ちに退京の諸氏は急ぎ旅装を整へ帰途に著いたが、当夜開催の一夜講習に参加する百三十二名の諸君は、直ちに講堂に於て講習三昧に入り、蓮沼主幹・瓜生幹事長、万代・二上各講師の講話や指導があり、翌十五日午前八時閉会、それそれ帰郷の途に著いた。霊の焔が燃えさかり、明魂にかゞやふ米寿祝賀会は、帝都に大いなる霊波を捲き起して、首尾よく終りを告げた。
      陪賓諸氏芳名
一戸兵衛・石光真臣・今村正美・飯山七三郎・井上真吾・岩田槙太郎・石橋弘貞・井上良三・飯田秀真・伊能進一郎・服部金太郎・長谷川喜三郎・萩田亨・林金治郎・橋本茂・波多野重太郎・羽根田稔・西原茂太郎・西田太一郎・日印協会・日本工業倶楽部・堀尾利信・星貢一・邦光堂・弁官為秀・利根巧・東京養老院・棟居喜久馬・栂叛清松・中央社会事業協会・和田亀治・渡辺得男・渡辺操・渡辺昇吾・渡辺助太郎・渡辺蝮一郎・加藤恵義・穐山新之助、鎌田栄吉・亀山良一・河辺栄養・菅野茂・亀谷良一・川名洪・吉川又平・横山徳次郎・田沢義鋪・高田巧・田辺頼真・田所喜久四郎・高塚幸栄・田中蔵六・田村吉之助・津崎尚武・鶴岡房次郎・土屋松乃・副島八十六・中川望・中山鞆信・中原春造・鳴海文四郎・長田政吉・永原伸雄・宇津木勢八・梅沢節治・宇田尚・上原徳弥・上田兵吉・上宮教会・上田秀男・宇津木定江・瓜生祐次郎・野地栄・岡芳太郎・沖本至・大友幸助・太田八十二・大槻栄之助・多田恵義・大和藤通・国吉信義・久原福松・椚山石寿・小倉良之助・山岸鉽次郎・山本滝之助・山岡万之助・山田司海・山本耕太・柳沼清・山下義韶・山梨勝之進・増田義一・増田麟三・前原正道・松元稲穂・松倉儀助・益富政助・小久保喜七・福島申子三・小林錡・木島孝蔵・国際聯盟協会・近藤甚吉・皇道義会・浅野総一郎・赤池濃・安藤又三郎・阿部宗孝・荒木安次郎・青沼鋒太郎・青柳準之助・新井円治・斎藤周三・坂入弥吉・左手薫・佐藤駒次郎・菊地武夫・岸田軒造・北林惣吉・北村熊治郎・希望社・北島義介・清水釘吉・島繁子・白石亜細亜丸・茂業弘兼・芝郵便局長・枝本賢吉・尚工舎時計学校・神保周蔵・樋口虎之助・江崎義寛・平沼淑郎・広瀬寿助・平井三男・蛭田太一郎・森村市左衛門・諸井恒平・末兼要・鈴木圭允・住友銀行青山支店・鈴木喜一・末延道成・淵上仁三郎・五味亮太・末川直吉・大日本青年協会・谷口栄之助・惣田太郎吉の諸氏。
                        (順次不同)
    祝賀式の挨拶と祝電
      主賓代理 渋沢敬三氏
□今日の此の祖父に対する盛大なるおもよほしを、祖父は前々よりたのしみにして歓んで居りました。
□ところが本月七日、郷里に帰つて――祖父は二十余年の間、毎年郷里の鎮守祭には帰郷参列することにして居ります――多少健康を害し熱が出たと言ふほどでもありませんが多少の咳をもよほし、医者からの注意もありましたので、折角の此の御催し、しかも満洲・台湾・朝
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鮮の遠方から遥々祖父に御会ひし度いと来られたのに、祖父の出席出来なかつたことは何とも申訳ありません次第です。
□私如き若輩が、代理として出席しましたところで何にもなりませんのですが、行つて此の事情と自分の心持とをよく伝へてくれと、懇々依頼せられたのであります。祖父の申すには
□修養団の主義はまことに尊いもので、自分の道徳経済の合一主義と一致するものである、日本が健全な発達をする為めには皆様の御努力に俟つより外はない。
□中庸に『学を好むは知に近し、力めて行ふは仁に近し、恥を知るは勇に近し』と言ふ言葉があるが、
□此の勇に就て自分は良いと思つたことは必ず之を行ひ、悪いと思つたことは決して之を行はないと言ふ風に解釈して居る、今日道を説く人は多いけれども、良いことであると思つても実行が出来ず、悪いことであると気がつきながら遂改めないといふ人が多い中に、之を真実に踏み行ふのは修養団員諸氏の中から出ることを信ずるものである。
□今日の祝賀会は自分にとつて身に余る光栄で感謝に堪へない。たゞ冀くはどうか心のみならず、体も丈夫に、自分と同じ様に八十・九十まで長生して、国家社会の為めに尽して頂きたい。とかうお伝へする様、懇々依頼がありました。(当日の挨拶)
      陪賓総代 諸井恒平氏
□吾が渋沢子爵が、国家、社会、世界の平和人道の為めに多年貢献せられたる偉大なる功績に対しては、喋々を要しませんが、回顧すれば私は四拾有余年の昔、白面の一青年として子爵閣下の膝下に参じ、身を実業界に投じて以来、朝に夕に子爵の謦咳に接し其教を受け、今日に至れる間に在つて、子爵に就て敬服し感激したる事柄は殆ど挙ぐるに遑なき程であります。
□凡そ世に国家社会の為めに尽されたる方は、決して少なしとしません。しかし乍ら少壮身を農村に起し、志を天下に立て、八十九歳を過ぐるの今日まで、唯一つに国家民人を念として始終不変、不屈不撓、至純至誠の精神を以て之を貫かれたる子爵の如きは、殆ど世上に其匹儔を見ません。殊に巍然高風を持して堂々其の大理想・大精神を一貫せられたるは洵に一代の偉観であります。
□私は昔『大絶方所細入無間』といふ八文字を読み、面白い語とは思ひましたが、其の意味は充分に理解し得られませんでした。しかし今日之を子爵に於て、稍会得し得られたる様に思ふのであります、子爵の国家の為めに尽さるゝは、細大を洩らされません。一国の大事も、一会社の小事も、一国の宰相に対せらるゝも、一介の書生を遇せらるるも、此間に何等軽重厚薄を設くることなく、事に応じ物に処して、懇切周到至らざる処ないのであります。
□吾が子爵閣下には、夙に道徳経済合一主義を唱導せられ、実践躬行を以て之を鼓吹し指導し、所謂論語の『発憤忘食楽以忘憂不知老之将至』の態度を以て努力せられつゝあるのであります。此の主義は古今を貫き、東西を通ずる一大真理であります。
□子爵は吾が修養団が呱々の声を挙げたる当初より、前森村翁と共に
 - 第43巻 p.665 -ページ画像 
全く慈父慈母の態度を以て、指導扶掖を与へられたることに就ては、常にその実際に接し居りまする私の最も感銘する所でありますが、吾が修養団の流汗鍛錬・同胞相愛主義は、即ち子爵の経済道徳合一主義に外ならぬのであります。
□吾が修養団諸君は、克く子爵の念を念とせられ、始終不変、確乎不抜の精神を以て之を実蹟に具現し、一つには以て国家に貢献し一つは以て子爵に報いられんことを深く祈る処であります。(当日の祝辞)
      団員総代 岸田軒造氏
□十八年前、即ち明治四十四年に我が兵庫県修養団神戸支部発会式が挙行されました。其歳の春に渋沢子爵は、先代の森村翁と御同列でお出になられました。当時私は漸く二十二・三歳の微々たる一青年でありましたが、幹事をして居る青年と二人でお目にかゝり度いとお願ひしました。何しろ一方は天下の大人物大名士にお目にかゝり度いなどとの大望は無暴の事、それに紹介状を下さつた蓮沼主幹も未だ微々たる一青年でしたから、紹介状がどれだけ効果があるか分りません。
□心配し乍ら御宿に参つて見ますと、神戸の名士が五・六十人も詰かけてゐられる。そして『お前等の様なみすぼらしい青年が来る所でない』と云ふ顔付で眺めてゐます。しかし一目でもお目にかゝり度いとの念願に燃え立つ二人は、元気よくおめず憶せず、其の前を進みました。処が早速お許しが出たのでした。
◇渋沢子爵はニコニコ顔で『オヽあなたが岸田さんか、蓮沼さんからよく聞いてゐました。手島さんの学校に居られたそうですね』と、私如きものを御承知になつて居られるのです。また森村先代は丁寧に膝まで頭をさげられて『国家の事は青年の力でなければ駄目だ、一心にやつて下さい』と、微々たるこの私共を遇せられるのでした。名もなく修養も無いものを思つて下さる暖い両先生の御心には感激せずに居られませんでした。爾来十八年間、神戸に御出になられた時には度々お目にかゝりましたが、その度毎にお忘れなく喜んで下さいました。
□私は一つには国家の為め、一つには渋沢・森村両顧問の御鴻恩に報ゆる為め、汗愛の大運動に終始し、懸命に努力したのでした。けれども力足らぬ為めか、色々の艱難・障碍にさいなまれ思ふ様にならぬ時は、最うやめようと幾度も思つたのでした。が、両顧問のあの慈顔、あの激励の辞を思ふと、血湧き肉躍り、奮起せずにはゐられませんでした。
□渋沢子爵の御高徳・御恩義の鴻大なるに感激あるのみであります。二十有余年の間『育ての親』として我が修養団を守りたてゝ下さつた御慈心、何んと感謝してよいでせうか。かくの如く御力を与へて下さるのに対し、果してどれだけ私共は活動したでせうか、共産党事件の様な恐るべき事件が起きたのは、私等同志の力が足りない為めで、私は之を残念に思ひます。渋沢子爵の御高恩に対して申訳なく存じてゐます。
□しかし子爵が此の式場に御臨席になられたのでしたならば、お喜んで下さいと申上げ度いのです。我国の全土に修養団の精神が普及徹底して、愛と汗の理想国が生まれること疑ひないからです。私は確信し
 - 第43巻 p.666 -ページ画像 
ます。同志諸君、渋沢子爵の米寿の真のお祝は、白色倫理運動の達成より外にありません。此の大業貫徹の確信を以て猛進しませう。我等の大運動は成就したりとの確信を以て、御参列の各位には私共同志の衷情を御汲み取りの上一層御力添へあらん事を祈ります。
                     (当日の祝辞)
○中略
    各地よりの祝辞祝電
      ――約三百通に及ぶ――
  祝辞の部
◇祝辞を寄せられたる聯合会左の如し。(次第不同)
▽九州聯合会西原茂太郎▽滋賀県栗太郡聯合会西田太郎▽山口県聯合会国吉信義▽神戸市聯合会▽大阪聯合会藤沢茂登一▽福岡県嘉穂郡聯合会▽福島県会津聯合会松江豊寿▽長崎県聯合会宇野武男
◇祝辞を寄せられたる支部左の如し。(次第不同)
▽埼玉県中川村支部新井嘉久▽東洋紡姫路工場作川鐸太郎▽京都府岡田支部岩田正雄▽福島県郡山市日東第一・二支部臼井千尋▽福島県耶麻郡支部新井円次▽朝鮮釜山府水晶町竹森源蔵▽同慶尚南道草梁町上山藤助▽同釜山府水晶町西沢一衛▽同清洲支部立野新五郎▽同大邱鉄道支部秋元彦治▽同沃川駅森田五一郎▽同釜山府外堀藤吉▽兵庫県林田村支部三木研二▽同上東条村今村嘉寿▽福島県田村大河原忠文▽北海道赤平村高橋友治▽新潟県中野小屋村支部▽山形県渡前村佐藤久助▽栃木県明治紡織会社支部▽山形県日積村浅海香一▽大阪市井知支部▽金沢市支部▽兵庫県鐘紡支部▽福岡県浅野製鋼支部▽大阪市電気局都島支部▽滋賀県丹生村支部▽大阪市電気局天王寺支部▽岡山県玉井支部▽秋田県五条目支部▽滋賀県御園村支部▽三重県鞆田村支部▽静岡県浦川村支部▽兵庫県西谷村支部▽岡山県小田郡支部▽同上新山村支部▽群馬県赤堀村支部▽静岡県青島支部▽栃木県下都賀郡支部▽兵庫県小野町支部▽新潟県金津村支部▽名古屋市南区中部聯盟▽同東築地支部▽神奈川県浦賀工場支部▽松本市中信支部▽神奈川県横須賀支部▽東京霞ケ関支部▽住友伸銅鋼尼崎工場支部▽岡山県片上町支部▽石川県国府村支部▽岡山県阿哲郡支部▽兵庫県三田町支部▽広島県呉廠支部▽兵庫県三菱製紙高砂工場支部▽滋賀県大滝村支部▽広島県尾道支部▽滋賀県湯田村支部▽滋賀県笠縫村支部▽滋賀県南五個荘支部▽若松支部▽福岡県製鉄所二瀬出張所支部▽滋賀県速野村支部▽鳥取県三徳村支部▽広島御調郡支部▽滋賀県佐山村支部▽滋賀県玉津村支部代表美濃部米吉▽滋賀県祇王村支部代表中島重行▽東京府下奥戸村支部鈴木兼吉▽金沢市支部磯部宗右衛門▽福島県原ノ町広橋連城▽住友電線製造所支部前田省三▽滋賀県西大路村支部坂田佐市郎▽佐渡支部真木山孟治▽埼玉県白鳥村支部高桑元藤▽山口県沖ノ山炭鉱支部▽山形県本楯村佐藤義彰▽滋賀県高島郡支部久保井金之丞▽埼玉県馬宮村支部大久保一三▽群馬県広沢村支部田村吉之助▽秋田県富津村支部畠山重治▽岡山県芳野村支部石原経太郎▽京城列車区支部満田要▽京城鍾路支部森六治▽満洲奉天支部▽兵庫県上富木支部原敬一▽岡山県阿曾村支部水畑助一▽兵庫県横山賀前▽埼玉県秩父セメント会社支部
 - 第43巻 p.667 -ページ画像 
野地栄▽京都府細見村支部谷垣誠治▽群馬県赤堀支部鹿沼喜久太▽山口県南河内村支部▽三重県玉滝村支部川合徳夫▽秋田県大館町支部泉茂家▽足尾小滝支部久信田善四郎▽新潟県三条町支部土肥縫之助▽広島市支部槙田勉▽桐生高等工業学校支部北島義介▽滋賀県秦川支部丸橋茂信▽滋賀県日出紡績大津支部中野熊助▽滋賀県七郷村支部宮本秀八▽京都府雀部村支部松山武男▽山形県本沢支部小笠原泉▽東京市海軍技研支部関幸雄▽青森県黒石町鳴海才八▽栃木県黒羽支部郡司聞多▽埼玉県林製糸支部長田吉博▽桐生機械会社支部前原準一郎▽福島県富野村支部氏家正直▽青森県六郷村支部松江政一▽青森県南津軽郡支部鳴海文四郎▽福島県須賀川支部小沢富八▽神奈川県逗子町支部横尾尚▽栃木県田原村支部▽岡山県県主村支部小寺全志▽姫路支部西川嘉治▽大阪大江支部土井政雄▽大阪市戸畑鋳物株式会社木津川工場支部▽京都府岡田支部岩田正雄▽愛知県西加茂郡支部大岩鉄雄▽滋賀県甲良支部藤居喜三郎▽岡山県伊里村支部梅延誠一▽京都久美谷支部稲田秀吉▽神戸市川崎車輛株式会社支部戸田林助▽新潟県立加茂農林学校支部沢誠太郎▽岡山県福田村支部佐藤寿一▽山口県宇部支部国吉信義▽岡山県出部村支部藤代宇一▽福島県赤池鉱業所支部犬伏林十郎▽群馬県吾妻郡支部白石実太郎▽滋賀県犬上郡支部▽山口県宇部市支部藤本政郎▽福島県湊村支部▽栃木県足尾支部▽滋賀県玉津村支部▽岡山県金川町支部▽岡山県高梁支部▽兵庫県味間村支部長小西忠治▽新潟県新津町支部▽兵庫県上富木支部▽京都府日置村支部▽東京府吾嬬町支部▽山口県下関市支部▽埼玉県小鹿野町支部▽東京市日本医科大学支部▽茨城県岡田村支部▽兵庫県立洲本中学校支部▽岡山県行幸村支部▽新潟市支部▽京都府雀部村支部▽広島県御調郡向島西村支部▽東京市京橋支部▽茨城県日立鉱山支部▽鹿児島県立鹿屋農学校支部▽朝鮮統営支部原田国太郎▽滋賀県玉緒支部▽鹿児島県西桜島支部
◇個人として祝辞を寄せられたる方々は左の如し。(次第不同)
▽陸軍少尉板野教則▽滋賀県常盤村石田繁治郎▽福島県中妻村伊藤斌▽福島県湯野村鈴木吉三郎▽今井光樹▽奉天支部員清水幾太郎▽満洲瓦房店山田正寿
  祝電の部
◇祝電を寄せられたる聯合会左の如し。(次第不同)
▽福岡県聯合会▽鹿児島県聯合会▽滋賀県野州聯合会▽朝鮮聯合会▽満洲聯合会長岩井勘六▽岡山県××聯盟
◇祝電を寄せられたる支部は左の如し。(次第不同)
▽三菱彦島支部▽北海道札幌師範支部▽大連埠頭支部▽同上小野田支部▽満洲撫順支部▽満洲大石橋支部▽同上興安嶺支部▽宮原支部▽大連郵便局支部▽岡山県八田港支部▽宇部市沖山炭坑支部▽京都福知山支部▽大連電軌支部長▽満洲遼陽支部▽栃木県中原支部▽朝鮮鞍山製鉄支部▽山梨県大泉支部▽広島県河内村支部▽同上佐世保支部▽山口県玖珂郡支部▽鹿児島井牟田支部▽台湾通宵支部▽台湾新店支部長中島与一▽台湾台北鉄道支部▽台湾苑裡支部長▽朝鮮天安支部員一同▽朝鮮金堤支部▽同上全州支部▽福島県岩月村分団▽新潟県新発田支部▽青森県藤阪村支部▽京都府▽島根県簸川郡支部▽兵庫県西谷村支部
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▽神戸製鋼所支部▽青森県六郷支部▽福島県郡山支部▽福岡市支部▽京都府筒川村支部▽滋賀県山上村支部▽兵庫県高浜支部▽岡山県倉吉支部▽愛知県安城愛知支部▽朝鮮江景支部▽秋田県大館支部▽下関支部▽朝鮮提州支部▽東京大日本紡績支部▽満洲瓦房店支部▽岩代若松支部▽朝鮮全州支部▽台湾花蓮港支部長▽山口県宇部セメント支部▽福岡県旭硝子牧山支部▽京都府舞港支部▽小倉市九鬼支部▽台湾新竹支部▽桐生製織支部▽台湾総督府逓信部支部▽満洲長春支部長▽兵庫県志染村支部▽同上御影師範支部▽台湾台東支部▽満洲安東支部▽大日本麦酒吹田工場支部▽台湾ホーリン支部▽長崎県川棚支部▽滋賀県高山支部▽朝鮮登永支部▽兵庫久志支部▽愛知県佐織村支部▽福島県奥川村分団▽岡山県苫田村支部▽満洲鉄嶺支部
◇祝電を寄せられたる役員並に知人の氏名は左の如し。(次第不同)
▽修養団本部常務理事二木謙三▽台湾竜井庄支部道山一雄▽福岡県飯塚中野昇▽東京府下洗足林平馬▽門司白土千秋▽福島県若松市支部渡辺祐作▽福岡県園田治▽渡利亭一▽大連市生江▽大連沙河口支部久保市松▽撫順支部棟木久蔵▽大連福田熊次郎▽長崎仮野彰▽長野篠井岩佐▽カゾサ宮原▽大連寺久保四郎▽三重県藤沢政一▽大連岩田平八郎▽台湾台東クラサイ▽同上クラメイ▽台湾花蓮港森政禧▽朝鮮釜山牛草▽岡山県倉敷橋本▽岡山師範野瀬頼年▽神奈川県小田原高瀬▽福島県根本一▽同上松坂宇津木稔▽兵庫県福崎水田吉太郎▽東京府松山渥美純明▽福島県郡山松山政治▽福島県関根孝一▽栃木県太田原綿貫▽金沢市磯部宗衛門▽満洲高岡▽石川県山口淳▽兵庫県揖保村井口ヨシノ▽福岡県坂本昌之▽朝鮮門田見陳昌▽滋賀県西田太一郎▽台湾鳳山稲垣▽滋賀県田中松雄▽青森県鳴海才八▽下関市藤井正一▽台湾ポラギヤン▽富山市加藤金次郎▽台湾クサイ▽同上ニジラ▽山口県玖珂郡支部長亀岡助一▽京都府野口繁治▽新潟石附省三▽佐賀県森田判助▽岡山県内田証一郎▽大阪市電気局教習所長高梨敬助▽朝鮮ニシシトエ一
◇尚ほ本誌締切後到著の分は、遺憾ながら本欄に記載漏れになつてゐます。


竜門雑誌 第四八一号・第九〇―九四頁昭和三年一〇月 渋沢子爵と修養団 平沼騏一郎(DK430146k-0003)
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竜門雑誌 第四八一号・第九〇―九四頁昭和三年一〇月
    渋沢子爵と修養団
                      平沼騏一郎
 青淵先生が米寿を迎へられて、猶ほ且つ矍鑠壮者を凌ぐ大元気を以て、国家社会の各方面に寧日なく活動せらるゝ事は、私の常に敬服措かざる所でありまして、邦家斯道の為め誠に感謝に堪へない次第であります。
 然るに此度竜門雑誌の青淵先生米寿記念に、私も平素知遇を辱うして居ります関係から、何か述べよとの仰せに接しましたが、私としては甚だ光栄に存ずるのであります。
 青淵先生は、我が国の経済界はもとより、政治外交・教育・其他、有ゆる方面に無くてはならぬ大切な方でありまして、誠に世界の舞台に於ける日本の国宝と仰がれて居らるゝのも決して偶然ではないので
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あります。
 併し此等の方面に対する赫々たる青淵先生の功績は夫れぞれ他に、適当な方々に依つて、お述べなさる事と思ひますから、私は只最も深く青淵先生と私どもとの関係を結んで居ります修養団の方面から、一言申し述べたいと思ふのであります。
 竜門社の各位の中には多年修養団と深い関係を持たるゝ方々も少なからぬ事ではありますが、或は全く御存じの無い方もお在りかと存じますから、此機会に於て修養団と青淵先生との関係を明かにせんが為め、修養団の何たるかを一言いたしたいと思ひます。
 修養団の主義と致します所は、流汗鍛錬、同胞相愛、之を言ひ換へますれば、総親和・総努力の実現であります。同胞相愛は仁愛の徳、流汗鍛錬は剛健の徳、何れも人の純真な精神の発露であります。修養団はこの愛と汗の精神を実行実働に現はすのを以て本領といたして居ります。
 而して之を普及徹底いたします為めには、種々なる施設経営を要します。機関雑誌『向上』及『愛と汗』の発行並に修養団の叢書の刊行等に依り広く本団主義を宣伝すると共に、講演会・講習会等に依り深く各自の本心に訴へる方法をも講じて居りますが、就中意を用ひて居りますのは講習会であります。本団の講習会は一般社会のとは趣きを異に致しまして、講話をする計りでなく、実行実働に依り総親和・総努力は人性の発露たる事を体得せしむるを本旨として居ります。講師は講習員と寝食を共にし、講習員は講師の指導の下に各種の行事を実習し、其間総親和・総努力の精神が自ら現はれる様になります。此の如くにして更生した団員が家庭に帰り、学校に戻り、又は工場に会社に或は官衙に帰つて実行実働に努めますと、一家は漸次に明くなります、学校の風紀は時を逐ふて革まり、工場も会社も官衙にも明るく暖かい気分が逐次に醸成されて、終には父子相呪ひ、夫婦相憎み、官民労資反目争闘せし悩みも一掃せられて総親和・総努力の実現となり、能率は為めに増進し、共栄共存の喜びに満たされた家庭・工場・官衙が現出するに至るのであります。
 修養団は今から廿三年前、蓮沼門三君が主唱して同志と共に奮闘今日に至つたのでありますが、蓮沼君は創立後間もなく青淵先生を訪問して、愛と汗の精神を力説し、熱心に先生の御賛成と御援助とを願つたのであります。然るに先生は、予てから道徳と経済との調和統一を計らねばならぬと、即ち論語算盤主義を高唱されて世を警め人を導きつゝあられたので、愛と汗の精神は殆ど論語と算盤主義に合致するもので、この主義が広く世に行はるゝに至つたなら、理知にのみ偏せず道義も行はれて、物質文明に流るゝ時弊を救済する事も出来るであらうとの深き共鳴より、修養団に御賛同下さいました事は、青淵先生よりも屡々御伺ひ申したのであります。
 夫れ故青淵先生は、御自身からは修養団を外部から援助するのだと申されて居りますけれども、其実全く修養団と合体し吾が物として団の為めに終始一貫御尽力せられたのであります。即ち内は団の幹部を指導誘掖され、外は故森村男爵等と計つて経済的基礎の確立に努力せ
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られ、以て修養団をして今日あらしめられたのであります。
 何事も凡て順調に計りは参りません。修養団も歴史を顧みれば、幾多の迂余曲折があり、創立後十年にして蓮沼主幹始め幹部の者が非常に苦心した事がありました。此時に当り青淵先生は団将来の為め人格識見共に勝れたる方を団長に仰がんと故森村男爵と図り、田尻子爵を煩はして団の統一をお計り下さいました事は、本団の趣旨を徹底し団勢を隆盛ならしむるに多大の力を得ましたので、玆に特筆感謝せねばならぬのであります。
 然るに大正十二年夏田尻団長を喪ひ、団員の涙未だ乾かぬ間に大震火災に遭遇し、本団の受けた打撃は実に甚大でありました。折角青淵先生の御骨折に依つて出来ました本団の建物は全部灰燼に帰し、其他の物質的財産も殆ど全部失ひましたので、又々青淵先生に御一方ならぬ御心苦をお掛けする事になりました。私は当時修養団の監事でありましたが、或日の事青淵先生は修養団の事情を詳かにお話あつて後、私に団長たる様にと切にお勧めあつたのであります。私は敢て其の任ではないと思ひましたけれども、青淵先生が多年御丹精された心事を想ひ、且又震災直後 大正天皇のお下しになられました詔書を拝しまして恐懼措く所を知らず、特に私は其際台閣の末班に列して居りましたので、一層責任の重きを痛感いたして居りました折なので、熟慮の結果、聖旨に奉答する好適の途とも考へまして、不肖を省みず敢て御引受けいたしたのであります。
 人各々見解を異にいたしますが、私は国家の現状を今日の趨勢に放任して置きます事は寔に危険であると思ふのであります。殊に現今の思想界の混乱、世界列国の大勢、東亜の事態等より見て、我帝国の前途は容易ならぬ難局に面して居ると思ふのであります。此の秋に当り国民の為すべき事は多々ありませうが、特にこの総親和、総努力の精神を普及徹底させる事が、最も急務であると信ずるのであります。夫れ故本団の運動を盛んにして国本を固うし、聊か奉公の誠を致さんとする心底で御座います。
 其麼で私は団長就任後、早速青淵先生に御願ひ致しまして、修養団の後援会をつくつて頂きました。然るに青淵先生は老齢の身をもお厭ひなく会長として万端のお世話をなし下され、財界有力なる方々を御勧誘下さいまして、本団の積極的活動の資源をおつくり下さつて居るのであります、是れ偏に今日の行き詰まれる世態を打開し、真に道義の行はるゝ即ち先生の所謂論語算盤主義の実現を期せんが為め、極力修養団を御援助下さる事と信じます。
 本年は昭和戊辰の年を迎へ、今秋は御即位大礼を挙げさせ給ふ千載一遇の佳年に当り、三朝に歴仕され赫々たる功績を不朽に止めらるゝ青淵先生の米寿祝賀を寿きまつる事は、各位と共に衷心歓喜に堪へぬ次第であります。私は青淵先生が二十年一日の如く丹精された結果今日ある修養団と、同先生との関係を一言して祝詞に代へると共に、益益修養団の精神を普及徹底して、青淵先生の御精神を永遠に伝へたいと冀ふ次第であります。

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竜門雑誌 第四八八号・第八二―八五頁昭和四年五月 渋沢子爵と修養団 蓮沼門三(DK430146k-0004)
第43巻 p.671-672 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

雨夜譚会談話筆記 下・第六一九―六二四頁昭和二年一一月―五年七月(DK430146k-0005)
第43巻 p.672-674 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六一九―六二四頁昭和二年一一月―五年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第二十二回 昭和三年九月十五日 於飛鳥山邸
    一、修養団に対する御感想に就て
先生「年月を審かにしないが、明治四十一・二年頃蓮沼門三氏が来て
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修養団の事に就いて話を聞かして呉れたのが、私の団に関係した初まりである。最早それから廿年も経つが、今では平沼(騏一郎)団長の下に仲々盛んにやつて居る。主幹は蓮沼門三氏で、外に資金の後援をする必要があると云ふので、後援会が組織され、私が其会長に推されてゐる。団の理事としては医学博士の二木謙三・宮田修等の諸氏が居る。尚修養講習会があつて其の関係人は沢山居るが悉くは記憶がない。
 私が世話する様になつた動機は、蓮沼氏がやつて居る事を岡田良平氏からか高等工業学校々長だつた手島精一氏からか聞いて、それから蓮沼氏に会つて種々聞いて見た。聞いて見るとさまで感服はしなかつたけれども、蓮沼氏は青年として堅実であり、将来ある様に思はれた。世の中一体の模様が「学を好むは知に近し」は出来て居るかも知れぬが、精神方面の事は兎角閑却されるのを心配して居た。蓮沼氏のやつてゐる事が、直に精神の修養に適ふものであるか何うかは知らぬけれども、少くとも精神方面の事に努力しようと云ふのは結構であると思ふた。蓮沼氏は何時会つて見ても堅実である、時時空想を言ふが、然し間に合せを言ふのではない。氏は宗教信者ではない、唯道理に合つた考へでやる積りでゐるので、 《(孺カ)》子訓ゆべしと思つて世話する事になつた。恰度私は先代森村市左衛門氏と屡々会つて、現代日本に精神方面の寒心に耐へない事を談じ合つて居たので、蓮沼氏を援け資金の補助をする事になつたのである。初め団長を私の処に持つて来たが、老齢の故を以て辞退して、縁の下の力持を勤める事にした。そこで田尻稲次郎子を団長に推し私は顧問として援助したのである。団の主義は乱暴に失しては勿論いけないが消極的でも好ましくないと云ふのが私の希望である。其後追々団の事業も進み「五誓」と云ふ雑誌を出している北爪子誠及「希望」と云ふ雑誌を出している後藤静香の両人などが蓮沼氏と共同してやる事になつたが、此等の人々は各々其主義を異にしてゐる関係から、修養団の行ふ処があやふやになりかけた。一方団長の田尻子が亡られて、団も海のものとなるか、山のものとなるか、渾沌たる有様となつた。
 各自説を唱へるので団の目的は誰れの言ふ所が本当か曖昧になつて来た。のみならず森村男も死んだので、愈々私独りで心配しなくてはならない破目になつたが、幸ひ現在の平沼団長が思慮もあり、名誉もある人で団長として適任者であると思つた。同氏も団長を引受けやうとの意向を漏らされたけれども、軽々に団長に就任されては却つて将来の為めによくないと思つたから、此際先づ以て異分子を除いて、団の基礎を堅める事が肝要として、北爪・後藤の両氏には別になつて貰ふ事にした。勿論此等の人々も其の大体方針は同じで言はゞ釈迦を信仰する人と、親鸞上人を信仰する者との異ひとでも見れば見得るのだらう。それから愈々平沼団長に就任を頼んで、主義もはつきりして来た。其の主義とは情愛の愛、流汗の汗を採つて汗愛と名附け、之を以て根本とし、又流汗鍛錬・同胞相愛を標語として居る。同時に事務の方面に宮田氏を入れる事になつたが、之れ
 - 第43巻 p.674 -ページ画像 
は蓮沼氏が連れて来た人で、理事として平沼さんを補けてゐる。団の主たる事業は講習会を行ふ事である。それも重に労働者階級の間に汗愛の精神を鼓吹するのであつて、法華宗のお題目式の事もやるが、私は其方面は余り感心しない。
 蓮沼氏は会津の人で、思想が聢りしてゐるから、此修養団を利用して、敵本主義な事は決してやる人ではない。私も其の点を見て援助してゐるのであるが、若し私が居なかつたら、団も今日程の盛大は期し得られなかつたらうし、又平沼さんも団長には来なかつたかも知れぬ。惟ふに蓮沼氏の説く処は基督に依るではなく、仏教を持出すでもなく、帰する所は精神修養に在つて、日本臣民として皇室中心主義を奉じ、決して国家社会に不利を齎らす様な事はしないと信ずる。唯時々道を曲りくねりする惧れのある事があるから、注意をせねばならぬ。
   ○此回ノ出席者ハ栄一・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。