デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.681-688(DK430152k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当団団長平沼騏一郎並ニ主幹蓮沼門三ヨリ弔詞ヲ贈ル。尚、十二月刊行ノ当団機関誌「向上」第二十五巻第十二号ヲ「渋沢顧問追悼号」トナス。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK430152k-0001)
第43巻 p.681-686 ページ画像

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向上 第二五巻第一二号・第五八頁昭和六年一二月 修養団全国各地支部・聯合会よりの弔電弔辞(DK430152k-0002)
第43巻 p.686 ページ画像

向上 第二五巻第一二号・第五八頁昭和六年一二月
    修養団全国各地支部・聯合会よりの弔電弔辞
渋沢顧問薨去の訃報に接した各地支部・聯合会並に同志より本部経由を以て寄せられた弔電が二百六十一通、弔辞が二十五通、(十六日正午までの分)でありますが、これらは順次霊前に供へました。尚ほ直接本邸に当てられた分も相当あり、六日正午後到着の分もあります
○下略


向上 第二六巻第一号・第三―四頁昭和七年一月 向上日誌(DK430152k-0003)
第43巻 p.686 ページ画像

向上 第二六巻第一号・第三―四頁昭和七年一月
    向上日誌
 十一月中
一二日 渋沢邸に於ける故渋沢顧問の御通夜に関し、本部員及び在京団員有志の日割を定む。即ち葬儀まで毎夜本部員三名、有志団員十名御通夜をなす。
○中略
一七日 故渋沢顧問薨去後、初七日に付、飛鳥山の同邸内仏及び寛永寺墓地内の故子爵の墓に参詣焼香す。


向上 第二五巻第一二号・第一頁昭和六年一二月 英霊の在世 (巻頭言)(DK430152k-0004)
第43巻 p.686-687 ページ画像

向上 第二五巻第一二号・第一頁昭和六年一二月
    英霊の在世
      ……(巻頭言)……
 われ等の顧問渋沢子爵遂に薨去す。嘗ては目にも見えざりし二葉の
 - 第43巻 p.687 -ページ画像 
若芽を見出し、愛の心を注ぎ、汗の手を伸べ、慈育玆に二十余年、蔚然たる森に仕立てあぐ。
 顧問は実に修養団の生みの親であり、育ての親であり、生命の親である。慈眼温容はわれ等を活かし、指導鞭撻はわれ等を導いて、以て今日の大修養団を築きあぐ。
 巨星隕ちて秋風落莫、国宝的存在を失ひたる日本も亦掌中の玉を奪はれたるが如く、国土を挙げて哀惜悲歎に沈めるの観あり。噫! 如何に其偉大なる存在なりし事よ!!
 子爵九十二年の生涯は日本産業経済の発達史そのものであり、そが一切を引つ括つたる綱であり、根であり、幹である。綜合集成の連嶺の最高峰は我等の子爵である。
 豈に独り産業発達の物質界の源泉が子爵に在りとのみ謂はんや。教育・教化・慈善・救済・社会公共・精神的諸事業の源流も亦た、われ等の子爵に綜合さる。
 げにや子爵の存在は、あらゆる人の世の光りであり水であつた。その輝く慈光、その注ぐ慈雨、仰いでは温められ、汲んでは渇を慰す。
おゝ!偉大なりし存在よ!!
 英霊昇天ともいふべきであるが、我等は英霊在世と謂はんとす。遺言に曰く、『死んでも皆様のおそばに在て護らん、死んだと思はずつきあつて下され』然り英霊在世矣。
 我等同志は、親しく子爵を追慕し子爵の大徳を偲ばんがために、急遽十二月号の全部を改造して、『渋沢顧問追悼号』となす。たゞ唐突の急造、不備不完は恕せられよ。


向上 第二五巻第一二号・第五〇―五一頁昭和六年一二月 渋沢翁を憶ふ 二木謙三(DK430152k-0005)
第43巻 p.687-688 ページ画像

向上 第二五巻第一二号・第五〇―五一頁昭和六年一二月
    渋沢翁を憶ふ
                       二木謙三
 渋沢翁は短躯豊頬、童顔柔和の方であつた。福徳円満、真に明治・大正・昭和の福禄寿であつた。学徳経験、研究実行、実に当代の師表であつた。師表と云へば厳格なやうな意味も含まれた詞であつて、犯し難い所のあるのは勿論であるが、厳格で近づき難いのではなく、温和にして寧ろ親しみのあつた方で、即ち渋沢先生と呼ぶよりは翁と云ふ方が落着きがよいやうな方であつた。動作が静か、詞が叮嚀、音声は朗らかで、即ち徳の光り愛の表現が豊富で、誠に近代に得難い人宝であつた。
 翁は論語を愛読せられ、其を実業に応用せられた。論語の『学而』の第四章に、『曾子曰ク、吾三タビ吾ガ身ヲ省ル、人ノ為メニ謀リテ忠ナラザルカ、朋友ト交リテ信ナラザルカ』云々と云ふ語があるが、其は真に翁の全生涯をいひ表はして居るよい詞であるやうに思はるゝ次に第十章の中に『温・良・恭・倹・譲』の五徳を挙げて居るが、之れも翁の徳を其の儘にいひ現はしたやうな詞であると思ふ。又た論語第百〇八章に『子曰ク、晏平仲善ク人ト交ル、久シクシテ之ヲ敬ス』と云ふ語も、翁の交際をいひ現はして遺憾ない詞である、と思ふのである。
 - 第43巻 p.688 -ページ画像 
 翁は長い間に亘り、此の精神と此の人格とを以て、修養団を補助援助せられた実に本団のよき御祖父様であられた。今此の方を喪ふのはお国の損失、実業界の損失である許りでなく、又た修養団の大なる損失であると思ふ。今後は吾々団員は一層奮励結束して翁を安堵せしむるだけに、道の為めに尽さなければならぬのである。即ちお互に私を去り公義に就き、本団の三大綱領の実行に努めなければならぬと思ふのである。翁の在天の英霊は必ず御国を護り、又本団をもお守り下さるだらうと思ふのである。今や満蒙方面多事の時、希くは九千万同胞挙国一致で、献身報国の誠を尽すやう之を護られんことを、翁の英霊に向つてお願ひをするのである。今お別れを送るに臨み、所感を述べ又た御願ひを致すこと、斯くの如くである。