デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.155-163(DK440056k) ページ画像

大正2年6月13日(1913年)

是ヨリ先、当校同窓会会員中ノ有志、新ニ倶楽部ヲ設ケントシテ、其命名ヲ栄一ニ請フ。仍ツテ是日栄一、会名ヲ如水会ト選定ス。翌三年十一月如水会成立、五年八月社団法人トシ、八年ニ至リ如水会館竣工ス。次イデ同年九月二十九日同会館ノ開館式挙行セラル。栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

大正三年十一月十四日如水会創立総会議案 第一―二頁刊(DK440056k-0001)
第44巻 p.155-156 ページ画像

大正三年十一月十四日如水会創立総会議案  第一―二頁刊(如水会館所蔵)
    第一号 創立事務報告
吾人同窓者の間に一の倶楽部を設けんとするの議は、十数年以前に既に其萌芽を発し、爾来吾々同人の間に於て屡其事を論議したることあるも、稍具体的の案件として表はれたるは、明治四十二年十月の同窓会秋季総会に於て、其設立に関する提議ありて、調査委員十名を選挙したるを以て端緒とす、然れども当時時機未だ熟せず、遂に何等の成案を見るに至らずして中止したり
然るに其後時日の経過と共に、倶楽部設立に対する同窓者の希望は益其度を加へ、幾くもなくして其主張の再燃となり、同窓者間公私の会合に於て、在京の有志に向つて其計画を促迫し来るもの屡々なりしを以て、大正二年四月一日同窓会常議員は特に此事に関して会合協議せしに、倶楽部設立のことは何人にも異議なき所なるも、之を同窓会の事業と為すよりは、寧ろ会員中有志の計画と為す方適当なりとの説多かりしに依り、同窓会員中有志者の名を以て発起することに決し、準備委員二十六名を選挙し、設立に関する準備に着手したり
同月十四日準備委員会を開き、準備常置委員十一名を互選し、資金募集の方法、発起人の人選並に地方常置委員の人選に関する件に付協議せり
同月十八日準備常置委員会を開き、設立趣意書の草案を中島久万吉氏に托し、設立準備費の件に付協議し、且つ会名の撰挙を渋沢男爵に請
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ふことゝせり
五月十六日準備常置委員会を開き、設立に関する準備費を参百円以内とし、創立費用は追て之を定むること、並発起人を定むることに付協議せり
六月九日準備常置委員会を開き、設立に関する重要事項の覚書を作製し、趣意書の件に付協議せり
同月十三日準備委員会を開き、本会の会名を「如水会」(渋沢男爵の撰択に依る)と定め、常置委員提出の趣意書、発起人を委托すべき人の氏名、建築設計及其予算に関する件の諸案を協議せり
○下略


如水会々報 第一二四号・第八五頁 昭和九年三月 青淵先生を偲ぶ夕 昭和九年二月十三日 於如水会館(DK440056k-0002)
第44巻 p.156 ページ画像

如水会々報  第一二四号・第八五頁 昭和九年三月
    青淵先生を偲ぶ夕
                      昭和九年二月十三日
                      於如水会館
○上略
江口理事長 ○中略 実は御承知の通り、如水会を拵へました時分に前には学友会なるものあり、それが同窓会になつて居りましたが、機運漸く熟し、同窓者の一大団結を作り一大ホームを創設せんとせし時、此大ホームたる会の名を何と付けるか、随分やかましい議論の多き人達の揃ひであるから、必ず会の名を付けるに就て面倒が起ると思ひまして、そこで私が提案しまして、渋沢さんに名を附けて戴くことが、一番適当だと申しました所が、皆それが宜からうと賛成してくれましたので、渋沢さんに御願ひしました。すると此所に額に書いてあります「君子之交淡如水」と云ふのと、もう一つ「徳不孤必有鄰」と云ふのを御示し下さいまして、渋沢さんのお示しになつたのも如水の方が先になつて居りましたし、皆で相談の結果如水会の方がよからうと云ふ事になつたのでございます。○下略


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第二〇一―二〇三頁 大正一四年九月刊(DK440056k-0003)
第44巻 p.156-157 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第二〇一―二〇三頁 大正一四年九月刊
 ○第四期 四、帝大合併問題
    同窓会の活躍――如水会の創立
○上略
 因に同窓会の基礎確立して、如水会の創立を見たのは此の時であつた。即ち大正二年三月頃成瀬隆蔵より、一橋問題の解決について同窓会の一致的行動が大いに与つて力あるを以て、更に団結を固くする為に倶楽部を組織しては如何との議が出た。之に対し四月一日堀監事は同窓会事務所に本会臨時常議員会を開いて委員の意向を問ふた。之は満場一致賛成する所となつたが、修正案出で、同窓会の一事業としてでなく、有志者の事業として之を実現する事に決した。かくて同十四日には二十三名の準備委員によつて倶楽部設立の具体的方法が協議された。是如水会設立の相談会で、其名称も此時選定された。越えて大正三年一月二十三日午後五時半より、築地精養軒に於て如水会発起人会の開催あり。次の二項を決議した。
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 一、創立委員の範囲及其員数は、之を座長の選定に一任する事。
 二、如水会原案たる基金二十万円を三十五万円に増加し、内十五万円を事業資金に充つる事。
 更に同月二十八日正午、築地精養軒に於て、旧創立準備委員の会合あり、これは創立委員の選定を委任された成瀬隆蔵が打合せの為催したものであつた。その決議事項は次の五項である。
 一、委員は主として京浜在住者より推挙するは勿論であるが、内地に於る同窓会支部所在地には会員数に応じ若干の委員を設くる事
 二、台湾・朝鮮・支那にては適当の人を選び、成瀬君の名義を以て入会勧誘を依頼する事。
 三、三井・三菱・郵船・正金等の監部在職の同窓者へ、海外交渉を依頼する事。
 四、内地各支部所在地中にて、大阪には同地委員として平生釟三郎君外四名を推挙する事とし、又神戸には委員としては水島鉄也君外二名を推挙する事とし、而して平生・水島両君以外の選挙は右両君の指名に一任する事。
 五、右第一項委員当選の承諾を求むる書状の文案、並に第二項以下の依頼に関する書状の文案等の起草方を中島久万吉・安藤兼三郎両君に委任する事。
 成瀬隆蔵は此の決議により委員を選定し、快諾を得た。即ち東京五十六名、横浜十三名、神戸五名、京都二名、名古屋三名、長崎二名、下関三名、広島・小樽・新潟・三池等各一名、計八十九名。
 三月六日、生命保険協会に会し、趣意書設立要項、定款の諸原案を協議作成し、二十五日には、築地精養軒に創立委員会が開かれる運びになつた。
 更に四月八日、創立常務委員会を開き、設立要項、定款を逐条審議し、二・三の修正あり、設立案の確定を見た。かくて各地支部の同意を得、八月には創立常務委員会を開いて、会館建設敷地の選定に就き協議した。
 次いで十一月十四日に至り創立総会を築地精養軒に開く。創立事務報告あり、創立費を承認し、定款の議定、資金払込方法を決定し、詮衡委員十名の詮衡により、五名の監事と、六十名の評議員とを定め、評議員会に於て十名の理事を選挙して、約二ケ年の懸案たりし同会は完全に成立した。
 越えて翌大正四年一月、その会館の敷地は、本校構外一ツ橋に面する三方道路の土地二七八坪及び之に接続する本校敷地の一部即講堂以南の土地四八六坪を加へた七六四坪の敷地に決定した。
 かくて大正五年五月一日を以て起工し、大正七年《(八)》に至り竣工したのである。


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 付録・第三八頁 大正一四年九月刊(DK440056k-0004)
第44巻 p.157 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  付録・第三八頁 大正一四年九月刊
    一橋五十年史年表
大正五《年》 八《月》 如水会社団法人の認可を受く

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東京高等商業学校同窓会会誌 第一二三号・扉 大正八年六月 如水会々告(DK440056k-0005)
第44巻 p.158 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一二三号・扉 大正八年六月
    如水会々告
拝啓、陳者本会々館建築及諸設備工事殆ト全部竣成致候ニ付、来七月三日開館式挙行ノ予定ヲ以テ諸事進行致来リ候処、頃日ニ至リ当日ハ渋沢男爵ヲ始メ本会ニ於テ招待スヘキ財界知名ノ諸氏他ニ会合サルヘキ集会有之由承リ候ニ付、更ニ時日決定方ヲ開館式準備委員会ニ附議致候処、同委員会ハ現下ニ於ケル種々ノ事情ヲ考量シ、此際ハ寧ロ開館式ヲ延期シ追テ適当ノ時機ニ於テ挙式致候方可然トノコトニ意見一致致候、仍テ右決議ニ従ヒ開館式ハ来ル九月中旬マデ延期致候間、左様御承知被下度候、但会館工事ハ前陳ノ通リ殆ト落成シ、或一部ヲ除キ既ニ使用上差支無之候間、開館ノ儀式ハ暫ク延期スルモ使用実験ノ為メ来七月四日ヨリ仮ニ日々之ヲ開館シ、同日ヨリ社員ニ限リ御使用ニ供シ候コトニ取極メ候間、随時御来館相成度希望致候、尤モ開館式相済ミ候マテハ、社員外ノ諸君ヲ多数ニ御誘引被成候コト、並ニ会館各室ノ特別貸切リヲ為スコト、及大食堂ヲ使用スルコトハ一切御断リ申候コトヽ致候間、右御承知置相成度候、此段御通知申上候
  大正八年六月二十三日     社団法人 如水会理事


竜門雑誌 第三七七号・第五八頁 大正八年一〇月 如水会館開館式(DK440056k-0006)
第44巻 p.158 ページ画像

竜門雑誌  第三七七号・第五八頁 大正八年一〇月
○如水会館開館式 東京高等商業学校出身者より成る如水会にて予て母校の隣地に建設中なりし如水会館は過般落成を告げたるより、九月二十九日開館式を挙行したり、当日は青淵先生・設計者曾禰工学博士中条工学士及建築者清水釘吉氏を来賓として招待し、京浜在住の会員五百余名来会し、司会者成瀬隆蔵氏の開会の辞、理事藤村義苗氏の工事報告終るや、満場の拍手に迎へられて青淵先生登壇せられ、我国に於ける商業教育の変遷と如水会命名の所以等に就き演述せられ、成瀬氏の閉会辞ありて式を閉ぢ、階上大食堂に於ける祝宴に移り、デザートコースに入るや成瀬氏の挨拶、青淵先生の祝辞あり、和気靄然、万歳声裡に散会せる由。


竜門雑誌 第三八七号・第一一―一七頁 大正九年八月 ○如水会館開館式場に就て 青淵先生(DK440056k-0007)
第44巻 p.158-163 ページ画像

竜門雑誌  第三八七号・第一一―一七頁 大正九年八月
    ○如水会館開館式場に就て
                      青淵先生
  本篇は昨秋九月二十九日神田一橋の如水会館開館式場に於ける青淵先生の祝辞なりとす。(編者識)
 満場の諸君、御目出度い御席に出まして一言の祝辞を申述べ得られます事を第一に難有く感謝いたします、年は取るまいものだとか、命長ければ恥多しなどと云ふ支那風の悲観説が多うございますけれ共、私は之に反して長生こそ楽みの多いものである、是から尚生存すればどのやうな嬉しい事が段々生じて来て、世界は全く黄金に埋まれるやうになりはせぬかと思ふ位であります、大隈侯の言ふ百二十五歳若くは武内宿禰の二百何十歳と云ふ場合にも出会ふでごいませう、私は今日八十にして尚ほ此の如く愉快に過ごして居ると云ふは、長生こそ人の幸福と申しても決して過言では無からうと思ひます、お集りの諸君
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は大抵私の半分以下のお年であるから、生先の長いことを御慶を申すのであります、併し斯く申す私が若し百二十五歳まで生きるならば、諸君も皆八十以上になる、左様に私を老人とお案じなさるにも及ばぬのであります、是故に私はもう弱りましたとか、甚骨が折れて不可ぬとか悲観説は申上げぬ積りであります、此如水会の開館式に当りて祝辞を申上げますのは誠にお目出度い事である、会員諸君の共力から、此の如き盛大にして美麗なる大厦高堂が出来たと申上げれば相済むやうなものでありますが、度々諸君のお聴にも入れましたけれ共、私は商業教育の开も初発から今日に至るまで、間接直接に此事業に関係して今此御慶を述べると同時に、所謂懐旧の感なき事能はずでございますから、既に御承知の事を重複するのは老人の常だと御笑なるかも知れませぬが、或時には繰返して左様であつたかと諸君の御記憶を温めるのも、左様に御退屈ではなからうと思ふのでございます、事々しう申上げますると政治演説みたやうになりますけれ共、日本に外国交通の開けた以来海外の学問に重きを置いた事は、旧幕府時分から既に其素地はあつたのでございませう、開成所などと云ふものゝ出来たのも科学に重きを置いたと云ふ事を証拠立て得られる、併ながら幕府及び諸藩の制度で当時の学問と云ふものは、所謂身を修め家を斉へ国を治め天下を平かにする、即ち一家の安寧から進んで一足飛びに天下を太平にすると云ふ主義の教育ならではございませぬ、而して明治の維新となつて政体の大変化と共に学問の主義も一時に革新したのでございますから、今日の欧米に行はるゝ世界改造の如き大暴風雨では無かつたけれ共、日本としては相応の海嘯と申しても宜いのであります、唯今藤村君が其頃の商業教育を受けたる者は皆貧乏人であつて、金持の子弟はさう云ふ教育は受けぬと言はれたが、貧乏人の学問も此の如く徹底して単に其学科を取入れるばかりで無く、充分に之を応用したから、今日此盛大なる会館も出来たのだから、一時の海嘯に洗はれた為めであると言うて宜いのであります、但し是は追々と商業教育の進歩して行つた跡でありますが、明治の初年に於る今の海嘯は多く政治に現はれた、其政治も東洋風で無く、西洋風の政治に現はれた、幕府が倒れて明治の政府が開かれ、夫れまでは攘夷々々と言つたものが俄然外国と交を通ずることゝなつて、而して外国と交際するには外交的政治教育を修めねばならぬといふので、当時の日本は挙げて政治教育に狂奔したのであります、苟くも国を憂ふる人は皆政治に熱中して、所謂猫も杓子も今日の労働問題が喧しきやうに、一般の人気が悉く政治に集中したから、商業教育と云ふものは誰も措いて問はぬやうでございました、当席の司会者も御述べになりましたが、其頃商業教育を奨励した故森有礼君の如きは実に先見の明あつて、早く実業の教育が無ければならぬと云ふ事に感ぜられたやうに思ひます、私は森君には親みを厚くしたのでございませぬから、是等の事に付て意見を交はした事は多くはございませぬ、偶然に、私が役人を罷めて第一銀行に入り銀行者と相成つた比に、亜米利加から商法講習の為めに一つの教育所を設けると云ふ事を、時の東京府知事大久保一翁氏に通信されて、大久保府知事は其頃東京市に存して居る共有金に依つて此端緒を啓きた
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いと云ふのが、商業教育の始であつて、商法講習所が依つて以て成立したのであります、此事は大抵諸君御承知であるから重複でありますけれ共、其時には私などは商業教育は格別必要とは思はずに、余計な事をする、未だ夫れより先きにす可きものがあるといふ位に感じましたが、兎に角府知事が熱心に望まれるに依つて其時の市の共有金を支出するのは差支なからうと、厭々《いやいや》ながら同意したのが商業学校の発端となつたのであります、故に私は今日此御席へ出て、特に私一人お招を蒙つたことは実に此上も無き名誉であるが、其昔を顧みると、左様に先見の明の有つた者では無かつた、若し故森子爵に地下で逢ふたならば、足下は如水会の開館式に商業教育の講演をせられたけれども、当初は充分に賛成はせなんだと苦言を受くるかも知れませぬ、是は私が諸君の前で在体に白状するのであります、(拍手)併し私は銀行者となりましてから、追々に商業教育は必要である、商業者の人格が進まねば不可ぬ、知識が増さねば不可ぬと云ふ事丈けは考へて居つた、然るに其時分の教育は概して政治のみであつたから、(軍人は特別であります)是は困つたものだ、どうしたら宜からうかと深く思うて居つたのであります、明治十五年頃に其懸念を益々強めたのである、但し此事も度々商業学校の卒業式其他の機会にも申述べましたが、帝国大学工科の出身で、水戸の人に所谷英敏《ところや》と云ふ人があつた、此人を現に東京市で問題になつて居る瓦斯会社が瓦斯局と称して東京府で経営して居た頃、雇うて技術者の練習生にしやうと云ふ相談をしました時に、初め同意したが段々将来の見込を話しますと、厭だと言ふ、何故厭だと言ふかと尋ねますると、其人の在体の告白は、私等が田舎を出て東京で学問をすると云ふのは、官辺の名誉を目的として来たのである、然るに若し此事業が民業に移るならば此処に従事する人は官辺の名誉は得られぬ訳である、左すれば元と学んで享けべき名誉と云ふものが副はぬ事になるから厭だと言はれました、玆に初めて私は深く感じた若し学ぶ人が皆斯う云ふ意念であつたならば成程官尊民卑の弊の極である、是は大変だと思ふた、学問をする人が此の如き観念では以ての外の事である、是に於て故加藤博士が未だ総長と言はずして総理と言はれた時分私が面会して、殆ど涙を以て苦言した、大学が子弟を教育して唯役人丈けにしたいと云ふのが其要旨ならば、実に国家の有害だと言ふて宜しい位に考へると云ふ事を切実に論じました、加藤君も決して自分はさう考へはしないけれ共、世の中の風潮が左様であるから所谷も左様な事を申したのであらう、畢竟実業界の人が学問を重んじて呉れないと云ふ事も、自づから学生の実業界に親和力が乏しい原因である、足下が左様に慨嘆するならば、自身大学へ這入つて講師になれと言はれて、私は夫れから国立銀行条例を講釈する為に、二年ばかり大学の講師になつたと云ふ奇談さへあります、是に於て商業教育の必要を一層深く心配したる際、明治十六年であつたと思ひます、前に述べた商法講習所は兎に角東京市の唯一の商業教育の場処であつたが其時の東京府会は斯う云ふやうな物は無用だと言つて、此学校を廃止すると云ふ事に決議した、私は当初多少の危みを以て其設立に参加し爾来常に力を添へて、日に増し其方の感じが強くなり、即ち十五年に
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は前述べたやうなる事柄から、是は大に力を入れねばならぬと思ふ場合に、意外にも東京府会が今の商法講習所を廃して了ふと云ふ事になつたので、是は私が如何に柔順でも円満でも憤慨せざるを得ぬのであります、其時には殆ど怒髪冠を衝くの有様で、時の東京府知事故芳川伯に議論をしまして、更に府会議員とも討論した、幸ひに私の憤慨が多少の効果を奏して、農商務省が維持すると云ふ事になつて、一年に多分一万円といふ経費で二年ばかり持続した、吾々有志者も極力醵金して学校の基金を提供したが、迚も斯う云ふ組織では不可ぬ、是非鞏固完全の学校にしたいと思つて居ると、恰も好し森有礼氏が文部大臣になられて深く其必要を論じられ、直に文部省に属して今日の高等商業学校となつたのであります、其後校名の変遷は幾らかあつたか知れませぬが、是れにて大に商業教育の基礎が立つたのである、故に私は度々此商業学校の卒業式の祝詞を述べるに当つて、人の名誉と云ふものは唯々政治とか軍事のみに在る可きでは無い、商工業者に名誉が無いと云ふ事を誰が言ひましたか、私は自身の丹精は自身の手腕で必ず事実上の名誉は世の中に博し得られるものだと信ずると大声疾呼した所谷氏は其時に居たかどうか知らぬが、青年学生を奨励する為に夫程まで申したのであります、其後追々に適当の順序を以て進歩した事は私が玆に喋々を要する迄もございませぬけれ共、実に今日の盛大を為すに至れるは、所謂葎の雫、萩の下露から集合して来たと云ふものであるから、私の愉快も譬ふるに物なき程であるが、諸君の喜びも亦非常なものと申して宜からうと思ふのであります、而して此商業教育の将来に付ては、玆で喋々申上げませぬでも、大抵諸君の胸裏に在る事と思ひますで、多弁は見合せます。
 同窓会の出来た比から、多年本学校では唯々普通の専門学校で無く一歩進んだ学校たらしめたい、又其学制に付ても、私は学者でも無く又政治家でも無いから、詳しい事は申しませぬが、依然として今の姿で置くことは残念である、単科たりとも大学にしたいと云ふ議論は此席の司会者たる成瀬君と屡々御協議した、独り成瀬君のみならず、此事に付て話をした諸君は随分少からぬのであります、幸ひに其事が都合能く進んだやうに承知します、之に付ては段々と現在の諸君は勿論後進者が追々に出来て御助力なさる、啻に内地のみならず海外各地にまで力をお進めなさるのは、此上も無く祝賀す可きことゝ思ひます。
 只今御報告を伺ひますると、全国に渉りて七十万円の資金を御募りなすつて、独り会館の設備を満足せしむるのみならず、母校に対する種々なる要件を補足するといふは、商業教育によりて身を立てた諸君の発達が左様に進歩したと思はれ、私は実に愉快に堪へませぬ、是は商業学校の進んだばかりで無く、其関係する事業が大に発展したことが、此一事を以て証拠立てられる、斯く無量なる商業学校の出身諸君が各方面にお勤めなさる事に依つて、我邦の商業・工業・海運・保険等各種の実業に其手腕を伸ばして行くと云ふことは、容易ならぬ国家の力と窃に喜びますのであります。
 本会の出来ましたに付て、其名称の撰定を委員諸君から御委托を受けまして、君子交淡如水と云ふ礼記に在る文字から採つて、如水会が
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宜しくは無いかと申上げまして、即ち今日此如水会開館式を挙げることに相成つたのであります、実は水と云ふものは無味淡泊なので俗に水のやうだなど言つて居る、殊に商業界に努力なさる諸君が、唯々淡として水の如しでは物足らぬやうに思はるゝ方もあるかも知れぬのであります、如何にも礼記の本文に、君子交淡如水。小人交甘如醴とある、其醴で無く極くサツパリとして如水だとのみ理解すると、如水会は水のやうで、力も無く味も無いものになりはせぬかとのお疑は尤もなれども、私が水の如しと命名したのは、単に礼記のみに依つたのではないから、玆に水に付ての愚説を申述べて見たいのであります、既に孔子も知者楽水と云ふことが論語の雍也篇に在ります、即ち知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静である、又同じく論語に子在川上曰、逝者如斯夫不舎昼夜、此水だ、洋々滾々として流れて已まぬ、何時までも常住不変であるといふので所謂意味深長なる賞讚の語であります是等は前の淡如水と云ふ位のものでは無からうと思ひます、支那人の水に対する説は其辺でありますが、私は明治四十二年に亜米利加を旅行しまして、イサカ市に於てコロネル大学を参観をした時に、総長のホワイトと云ふ人の司会で午餐の饗応を受けました、此午餐会のホワイト総長の演説が今尚耳に残つて忘れませぬが即ち其水でありました勿論学校でございますから酒の用意が無い、酒がないから、殊更水に賞讚の辞を加へたのかも知れませぬけれ共、此老人余り演説は雄弁では無いやうでございましたけれ共、所謂立案が実に巧みでありまして水に対する効能を各方面から述べました、凡て物は水なしに生存が出来るか、発展し得るかと云ふ事を詳細に例証して、是は植物に付ての水である、是は動物に付ての水であると、頻りに水を褒めた後に、今日の珍客に対して此水を以て祝盃と致すのは、何と諸君も喜んで下さるであらうと言うたから、会衆が狂するが如くに拍手致しました、ホワイト総長が水を賞讚した言詞は今悉く記憶しませぬけれ共、実に説き得て妙でありました、私は尚水に付て二・三申添へたい事があります、孟子に今夫水、搏而躍之可使過顙、激而行之可使在山、是豈水之性哉、其勢則然也とあつて、是は水の本性で無からうけれ共、水は左様な力を備へて居るものである、人の性の激しく発動する時も左様であると云ふて、告子と云ふ人の性に善不善なしといふ説を駁する時、水に喩へて人の性を論じたのである、遉がに孟子の雄弁で好く水の性を論じて居ります、如何にも水は或場合には滂霈として金城鉄壁をも破ると云ふ力がある、水は左様に激する者であるが、又春の日の麗かに風の静なる時は、それこそ平準水の如く聊かの小波も揚らぬで、春和景明、波瀾不驚、上下天光、一碧万頃と范文正公の岳陽楼記に在る如く、洋々として、春先の長閑なる有様を形容してあります、斯様に水の動静変化を叙し来らば、何ぞ啻に淡如水と云ふに止るものでは無いと、御了解下さるであらう、即ち諸君の経営せらるゝ商業の有様が其通りでありますまいか、限りなく米価が騰貴するは、或は水の激して山へ昇るの有様と見ることが出来ます、又平準に復する時は猶水の本性を其処に現はします、故に商業の経営に付て偶々此水を激させる事もありますが、多くは水をして極めて平和に本性を尽さしめるのが
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諸君の執るべき処である、果して然らば此如水と云ふことは、決して唯々淡泊平易の意味を以て此会館に名けたので無いと云ふ事を御了解下すつて、宜からうと思ふのであります、(拍手)即ち如水と云ふは、左様に水が平和にして又変動有る物と云ふ心持であります、諸君の御事業が左様に平和にして、左様に変動あるものとしますれば、無論其激して山に昇り、搏つて顙を越すと云ふことは、本性で無いから成る可く平静たらしめたい、即ち春和景明常に平準を保維して、激浪風濤の水たらしめぬやうに御心掛なさる事を希望致しまして、私の此演説を終ります。
  ○如水会ハ大正九年六月三十日当校同窓会ヲ合併シ其ノ事業ヲ継承スルト共ニ、東京高等商業学校同窓会会誌ヲ廃刊シ、新ニ如水会々報ヲ機関誌トシテ発行ス、如水会々報ナル題字ハ栄一ノ筆ナリ。(同会報第一号ニヨル)
  ○如水会館ニ掲グル扁額「君子之交淡如水」ハ栄一ノ筆ニシテ震災後ノ揮毫ニ係ル。
  ○如水会ハ大正五年八月ソノ組織ヲ社団法人トス。