デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.180-187(DK440060k) ページ画像

大正4年9月22日(1915年)

是日栄一、当校創立四十周年記念式ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正四年(DK440060k-0001)
第44巻 p.180 ページ画像

集会日時通知表  大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
九月廿二日 水 午前九時 東京高等商業学校四十年記念式(同校)


東京高等商業学校同窓会会誌 第一〇一号・第五九―八七頁 大正四年一〇月 (1)記念祝典一般記事(DK440060k-0002)
第44巻 p.180-187 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第一〇一号・第五九―八七頁 大正四年一〇月
    (1)記念祝典一般記事
東京高等商業学校創立四十周年記念祝典は、同校所定の記念日たる九月二十二日を以て該祝典の第一日と為し、其れより順次日を逐ふて同
 - 第44巻 p.181 -ページ画像 
月二十五日に至る四日間に渉りて挙行せられ、実に都下近来の盛況を極めたるが、先づ其の式典の次第書を列挙すれば則ち左の如し。
      創立四十年記念祝典次第
       第一日(九月二十二日午前九時より)
 一、校長式辞
 一、教授・卒業生・学生各総代祝辞
             教授総代男爵 神田乃武氏
              卒業生総代 成瀬隆蔵氏
               学生総代 高瀬荘太郎氏
 一、来賓祝辞・演説
           文部大臣法学博士 高田早苗閣下
              農商務大臣 河野広中閣下
                 男爵 渋沢栄一閣下
          東京商業会議所会頭 中野武営閣下
       東京帝国大学総長理学博士 山川健次郎閣下
          神戸高等商業学校長 水島鉄也閣下
            私立慶応義塾長 鎌田栄吉閣下
           内閣総理大臣伯爵 大隈重信閣下
 一、三十年以上勤続者功労頌表
          職員出身者有志総代 間島与喜氏
 一、右総代ヘヤー氏答辞
 一、昼食
 一、提灯行列(午後六時より)
○中略
○該祝典の第一日 九月二十二日(水曜)は、其の前々日まで数日間降り続きたる雨も、今は全く名残りなく晴れわたりて、実に秋晴れの好天気なりしを以て、此光栄ある長き歴史を有する同校の記念式典を祝せんとして、朝来朝野紳士の校門さして参集する者引きも切らざりしが、今其の来賓各位の芳名を列挙すれば、先づ大隈首相・高田文相・河野農相・一木内相・渋沢男・中野東商会頭等を始め、左記三百四十七名に達し、若し之れに母校教職員、学生生徒を加算するときは、式典参列者の総数、無慮壱千七百有余名の多きを算するに至れり。即ち来賓の氏名を挙ぐれば
  ○氏名略ス。
定刻を報ずるや、校長法学博士佐野善作君登壇せられ
 閣下並に諸君、是れより、本校創立四十周年記念式を挙行いたします。先づ第一に式辞を朗読いたします。
  ○式辞略ス。
教授総代男爵神田乃武氏祝辞
 閣下並に来賓諸君
 今日創立四十年記念式を挙ぐるに方りまして、本校の為に力を御尽し下された所の方々に対して、教職員を代表して一言感謝の意を表したいと存じます。
 東京高等商業学校が、四十年の歴史を経て、斯の如き盛運に達し、
 - 第44巻 p.182 -ページ画像 
五千名の卒業生を出すに至りまして、今日此盛大なる記念式を行ふに就きましては、私は実に喜に堪えぬ次第で御座りまする。私は二十年程此学校に働いて居りまするが、二十年間の事を考へてみますると色々想起すことが御座りまする。況て今日玆に御列席になつて御出になる渋沢男爵閣下の如き、四十年一日の如く此学校の為に御心配下されました所の方は、言葉につくされぬ愉快を御感じのことと存じまする。
 扨よく聞くことで御座りまするが、欧米人は維新以来の吾国の発達をみて、日本は五十年間に欧羅巴人が五百年間かゝつて進んだ丈のことをしたと申して居るそうで御座りまする。してみますると此学校が四十年間になした所のものは、つまり、四百年の仕事に当る訳かと考へます。譬へて申しますれば、今日の東京高等商業学校は四十年ではなく、四百年の大木で御座ります。それでそもそも此大木の種は、何時何人によつて蒔かれたかと考へてみますると、明治三年に故森子爵が弁務使として米国に行かれた時代に萌芽を作つたので御座りまする。其時に既に留学して居られて、ニユーヂヤージー州の、ニユーアーク市に於けるビジネス・カレヂで商業学を研究して居られたのが、後に此学校に最縁故の深い恩人となられた所の富田鉄之助先生で御座りました。其当時の御話を承りますると、富田先生は校長のウイリアム・ホヰツトネー氏の家に寄宿して居られましたので、森子爵はホヰツトネー氏と往来せられまして、日本に商業学校を建てなければならぬと云ふ考を持たれ、遂にホヰツトネー氏が一家をあげて日本に来られることになつたのだそうで御座りまする。
 それから後明治八年になつて、森子爵は富田鉄之助君と共にホヰツトネー氏と協力して商法講習所と云ふものを建てられました。之れが吾国に於ける商業教育の濫觴でありまして、吾高等商業学校の芽生時代で御座りまする。福沢先生が此商法講習所の為めに基金を募る為めに書かれたものを見ますると、其当時の有様がうかゞはれ面白いと思ひます。中々長いもので御座りまするが、其終りに一節文を読みます。
 『日本の文明未だ進まずして何事も手後れとなりたる世の中なれば独り商法の拙なるを咎むるの理なし。何事も俄かに上達すべきに非ず。唯怠らずして勉強すべきのみ。維新以来百事皆進歩改正を勉め文学を講ずる者あり、芸術を学ぶ者あり、兵制をも改鞏し、工業をも興し、頗ぶる見るべきもの多しと雖、今日に至る迄全日本国中に一ケ所の商学校なきは何ぞや、国の大闕典と云ふべし。
 凡そ西洋各国、商人あれば必ず亦商学校あり、尚、我武家の世に武士あれば必ず亦剣術の道場あるが如し、剣を以て戦ふ時代には、剣術を学ばされば戦場に向ふべからず。商売を以て戦ふの時代には、商法を研究せされば、外国人に敵対すべからず。苟も商人として内外の別を知り、全国の商戦に眼を着くるものは勉むる所なかるべからず。
 米国の商法学士ホヰツトネー氏積年日本に来りて商法を教へんとす
 - 第44巻 p.183 -ページ画像 
る志あり。森有礼・富田鉄之助両氏の知る人なり。東京其他の富商大賈、各其分を尽して資金を出すの志あらば、両氏も亦周旋して其志を助け成すべし。
 森、富田両君の需めに応じて、
   明治七年十一月一日          福沢諭吉記す』
 とありまする。明治七年の頃には、教育事業の為に資金を募ると云ふことは、中々容易のことではなかつたに相違御座りませぬ、殊に商業教育の為めと云ふことは非常に困難のことであつたろうと存じまする。創立者たる森子爵・富田鉄之助君の熱心誠に難有いもので御座りまする。此商法講習所は築地の森子爵の邸内に在りましたが明治八年の暮に森子爵が全権公使として清国に赴任せらるゝに就て之れを東京会議所に寄附されました。それで森子爵に直接に御恩に預りましたのは誠に短い間では御座りましたが、其後矢野先生が校長をして居られた時代にも、色々と学校の為に御心配下されたそうで御座りまする。又富田鉄之助君は其後引続き商議委員として学校の為に御心配下されました。私は玆に之等の最初の恩人に対して最深き感謝の意を表したいと存じまする。
 こう云ふ次第で、商法講習所は東京会議所の手にうつされたので、渋沢男爵・益田孝君・福地源一郎君・木村利右衛門君・清水九兵衛君が初めて規則を御定め下されまして、此学校の組織が整頓致したので御座りまする。
 扨、斯様にして種は蒔かれ、芽生時代には入りましたが、之れを育てられた方が無くてはなりませぬ。四十年の成長の間に此学校は三度所轄が変りまして、其間に直接、間接手をかけて下された方々は勿論少くはないので御座りまするが、其内でも玆に第一にあげなければならぬのは、今日も玆に御列席になつて御出になる渋沢男爵閣下、及び創立以来長年の間校長として献身的に力を尽された所の故矢野次郎先生で御座りまする。矢野先生の偉大なる功績につきましては成瀬君の御話に譲りまする。渋沢男爵が商法講習所設立以来今日に至る間四十年一日の如く、恰も慈母の子を思ふが如き心を以て吾高等商業学校を御育て下されたことに対しましては、私は洵に感謝の言葉が御座りませぬ。此四十年の成長をなす間に、此等《(校カ)》は幾度か暴風雨に遭つたにも係らず、幸として倒れることもなく、又は大樹の蔭に倚つて成長すると云ふこともなく、立派に独立の大木となつて、今日四百年の大木の誇を感ずることが出来まするに就ては、私は玆に渋沢男爵に対して最深き感謝の意を表する次第で御座りまする。
 改めて私が玆に申上る迄もなく、此四十年間に此学校の為に御心配下されました方々は勿論甚多いので御座りまして、大倉喜八郎君・益田孝君・福地源一郎君・渋沢喜作君・米倉一平君・松尾儀助君・森村市太郎(現市左衛門)君・平野富二君・原六郎君・林徳左衛門君は商法講習所の基本金募集の為に御尽力下された方々で御座りまして、商法講習所が東京府の管轄に属して居りました時代に、一時廃止の悲運に遭ひましたにも係らず、直に復興維持せらるる様にな
 - 第44巻 p.184 -ページ画像 
りましたのは、此基本金の御蔭と申さねばならぬと存じまする。其当時の東京府知事故楠本正隆君・故松田道之君・故沼間守一君なども御尽力下されました。此外四十年間に起りましたことは勿論多いので御座りまして、其都度御尽力に預りましたことに就きましては一々玆に御礼を申上ることは出来ませぬが、最近には先年専攻部が廃止せられましたに就て、生徒は深く之れを憂ひまして、遂には一時は勉強も手につかぬと云ふ有様、私共も心配致しましたが、渋沢男爵・中野武営君は商議委員として、島田三郎君は学生父兄保証人総代として御心配下されました結果、目出度落着致しましたのは誠に感謝に堪へぬ次第で御座りまする。
 最後に私は高等商業学校の歴史に於て誰も忘れることの出来ないものをあげたいと存じまする。即ち商議委員として御助力下された所の方々で御座りまする。之等の方々は最初の商法講習所の委員を合せて今日迄に三十三名で御座りまする。最初に商議委員として任命せられましたのが渋沢男爵・富田鉄之助君・益田孝君で御座りまして、それから最長い間御尽力下されました方々は、渋沢男爵・益田孝君・園田孝吉君・近藤男爵・和田垣博士・荘田平五郎君・阿部泰蔵君などで御座りまする。高等商業学校が四十年の独立の成長をなし、今日の盛大に至ることが出来、国家の為に御奉公をすることが出来まするのは、偏に之等諸君の懇切なる御助力の御蔭であると云ふことは、私が玆に申上る迄もないことで御座りまして、私は玆に此席に於きまして、殊に諸君に対して最熱心なる感謝の意を表さなければならぬと思ふので御座りまする。
 繰返して申まするが、吾高等商業学校は斯の如く多くの熱心なる援護者を授けられて居ることを深く感謝しなければならぬ。之等諸君の御同情に対しても、私共教職にある者は益々奮励しなければならぬと思ひまする。生徒諸子も永く御恩を忘れず、益々此名誉ある高等商業学校の光を増す様に努めなければなりませぬ。玆に謹で感謝の意を表する次第で御座りまする。
○中略
男爵渋沢栄一閣下演説
 校長、臨場の諸閣下、諸君、学生諸子、此最も喜ぶ可き祝典に参上いたしましたのは、私は満身の愉快を感じます、平和を貴ぶ商業学校の四十年の祝典に天も平和を示すの意でありますか、頃日来の雨が此の如き好天気となつたのは、御互に最も喜ぶ所であります、(拍手)跡が大分閊へて居る様子であるから余り長口上は却て御妨げになります、併し私は祝辞を朗読する用意をして参りませぬ、又文章が拙いから左様な名文は書けぬ、故に諸君には御迷惑でも一言を述べて少々愚痴と喜悦とを申上げるのであります。
 四十年の昔は若年の人から考へると大変に古く思うでせうけれ共、私から見ると誠に昨日今日のやうなことで(笑)、人の上にも歳月の長短に大層な差があります、申上げるのも恐入りますが、大隈伯爵は私より尚年長者で入つしやる、而して将来もより以上に長い事と思ふのであります(拍手)本校の起源は只今神田男爵が米国からホ
 - 第44巻 p.185 -ページ画像 
イツトネー氏が来られてからの詳しい御話がありました、又これに付て森子爵が尽瘁された事も御申述になりました、唯子爵が支那へ行かれるに当りて、本校を寄附されたといふのは少々事実が相違して居ります、是は私が其頃東京府の共有金取締をして居つたので、森子爵と御相談の上、東京府に引受けたのである、或は寄附の心を以てなすつたのであらうが、単に寄附では無くて協議上其学校を東京府が継続したのであります、是等の事は今日別に説明を要しませぬ、当時此商業教育が必要だと感じて、東京府の知事大久保一翁に書を寄せ、大久保知事は其時分に共有金なるものがあつて相当の補助を致して、玆に初て商法講習所が出来たのである、其後森君が支那へ行かれるに付て、其跡を東京府へ引受けたのであります、当時の商業教育といふものは、斯く申すと御列席の大政治家に苦情を申上げるやうであるが、其頃の世の中は商業教育に余り眼を留めて居られなかつた、現に明治十四年東京府会が斯かるものは、東京に必要が無いから止めるといふ議決で、此学校をして一個人に移して了はうとしたが、誰もこれを怪まなかつた、私は憤然と之を怒つた、(拍手)凡教育といふものは人を治めるばかりでは無からう、世の中に教員と学者とのみ在つて、国家が真に隆盛になりますか、国運が真に発達されますか、果して然らば政治をする人も無くてはならぬ、軍務に従事する人も無くてはならぬが、国の富力を進める人も亦無くてはならぬ、其富を致すにも教育の要るといふ事は言はずして明かである、何故世の中に政治のみ教育が要つて、実業の教育が要らぬといふであらうか、何故に又政治にのみ名誉があつて、実業には名誉が無いと思うであらうかと、私は憤慨したのであります、此事に関して四十年来前後通じて尽力したといふ神田男爵の賛辞を得まして、微力決して其賛辞に当ることは出来ませぬけれ共、今申上げました観念は、幸ひに継続し来りまして、明治十四・五年頃本校が東京府から捨てられて、殆ど道路に彷徨するの場合に、私は種種の尽力を致し、政府に於ても大に見る所あつて、一時農商務省に継続され、引続いて森君が文部大臣となられた時に高等商業学校となつて、所謂教育範囲の一部となつたのでございます、故に其頃の商業教育に対する社会の観念は殆ど寺小屋的で余り重きを置かれぬ有様であつた、昔時此校堂が出来ぬ前、向ふの外国語学校で卒業証書授与式がありました、而も其時卒業した一人に尾高次郎と申して現に此面前に居りますが、私は憤慨に堪へぬので、一体名誉といふものは唯に政治家や軍人のみに限つてあるものでございますか、私は実業にも必ず有るものと思つて居りますが、社会は如何に思うでございませうか、どうぞ諸君仮令今は捨てられて居つても、将来は御覧なさい、必ず天命の帰す所がある、撓まず屈せず此実業に精力を尽して下さい、当時の学生諸君に忠告したのを今も能く記憶して居ります、其時卒業の一人が恰も此席に居りますから、立派な証拠人と申して宜からうと思ひます(拍手)、実に今日から顧みますると森子爵・大久保一翁、其後校長を長く勤めた矢野次郎などは嘸地下で御喜でございませう、私は地上で喜んで居ります。(拍手)
 - 第44巻 p.186 -ページ画像 
 長い事は申しませぬが、実業も今日は此の如く名誉を荷うた、御互に名誉ある商業家であるが、学生諸君に一言申上げて置きたいのは総じて社会の事は憂も憂のみに終らぬ、喜も亦、喜丈けでは済まぬといふ事を覚悟して頂きたい(拍手)、憂には必ず喜の生ずるものあり、又喜には其中に憂が附随する、歓楽極まつて哀情多し、少壮幾時ぞ老を奈何、世の中には始終さう云ふ変化がある、名を成すは毎に窮落の日に在り、事を敗るは多く因す得意の時で、喜には憂が胚胎するものである、而して其憂は何であるか、私は今日の社会の道徳心の欠陥であると思ひます(拍手)、若し此道徳心の欠陥が段々に増長して行つて、只自個の利益にのみ走るやうになつたならば、実業程忌む可きものは無いと、反対に私自身も言ふかも知れませぬが悲しい哉、昔の道徳教育は極く程度の低いもので、孝行と云へば郭巨が釜を掘出すとか、玉祥が鯉を捕つたといふ位の事である、又忠義は曾我物語・忠臣蔵で君家に殉するで無ければ忠で無いといふやうに誤釈されて、頗る範囲が狭いものでありました、然るに此際西洋の智識丈け採り来つたから、其忠孝も皆破壊して、古いものは潰して空虚になつて居る処へ智識のみを入れたから、節義とか質実とか云ふものは度外視されて、殆ど地を掃つたと言はなければならぬ商業道徳欠陥も亦是から生じて来る、但し社会には色々な変態があるから、唯単にそればかりを以て論断するのは或は禍する恐もありませうけれ共、御互に実業に従事する者は、常に玆に注意して富といふものは仁義道徳に依らなければならぬといふ事丈けは深く御心得が無いと、誉も謗と変じ喜も亦憂すといふ事を覚悟せねばならぬと思ひます、玆に本校四十年の祝典に際して、不祥の言葉らしく聞えて此席を汚すやうな虞もありますけれ共、平素思うて居りますことを、多数の学生諸君は将来実業界に入つて其点を御注意になると思ひますから申述べて置きます、要するに往昔商法講習所の時代に私が憤怒した事は今日の学生諸君は知らぬが、当時の人は聞いて下すつたであらうと思ふ、今日も亦商業の道徳の欠陥は遂に社会の大害になるといふ事を予言して、一般の注意を企望する次第であります。(拍手)
○中略
右にて式全く終了を告げしが、時に午前十一時三十分なりき。其れより同校講堂の南側如水会館敷地に於て、来賓一同に昼餐の饗応あり。食事将に終らんとする時佐野校長起て一場の挨拶を為し、来賓の健康を祝し、次て渋沢男爵来賓を代表して答辞を述べられ、一同和して東京高等商業学校の万歳を三唱し、斯くて全く散会を告けしは午後二時に近かゝりき。
同夜午後六時より校長以下教職員学生等約壱千三百有余名の提灯行列あり。其の正六時を報ずるや、当夜特に此の一行の為めに参加せる戸山学校軍楽隊の奏楽の裡に校門を出で、先づ校の境外を一周し文部省に至りて万歳を唱へ、其れより直に二重橋に向ひ其の愈々該橋畔に達するや、一同嚠喨たる軍楽に和し君が代を合唱し、続いて両陛下万歳を三唱し奉りて同所を拝辞し、夫れより馬場先門に出で左折して電車
 - 第44巻 p.187 -ページ画像 
路に添ひ神田橋を経、錦町天理教会の角を折れ校門指し無事帰着せしは八時過なりき。