デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.284-293(DK440064k) ページ画像

大正9年3月31日(1920年)

是日、東京高等商業学校廃止セラレ、東京商科大学設置セラル。四月二十四日如水会、昇格祝賀会ヲ同会館ニ催ス。栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

官報 第二二九七号大正九年四月一日 勅令(DK440064k-0001)
第44巻 p.284 ページ画像

官報 第二二九七号大正九年四月一日
    勅令
朕東京商科大学官制ヲ裁可シ玆ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
  大正九年三月三十一日
               内閣総理大臣 原敬
               文部大臣   中橋徳五郎
勅令第七十一号
    東京商科大学官制
第一条 東京商科大学ニ左ノ職員ヲ置ク
  大学長
  教授
  助教授
  事務官
  学生監
  助手
  書記
第二条 大学長ハ勅任トス、文部大臣ノ監督ヲ承ケ東京商科大学一般ノ事ヲ掌リ所属職員ヲ統督ス
 大学長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具状シ、判任官ニ関シテハ之ヲ専行ス
   ○第三条ヨリ第十六条マデ略ス。
    附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
本令施行ノ際、現ニ東京高等商業学校名誉教授タル者ニハ、本令施行ノ際ニ限リ、勅旨ニ依リ東京商科大学名誉教授ノ名称ヲ与フルコトアルヘシ


東京商科大学一覧 昭和八年度 同大学編 第二四―二六頁昭和八年九月刊(DK440064k-0002)
第44巻 p.284-285 ページ画像

東京商科大学一覧 昭和八年度 同大学編 第二四―二六頁昭和八年九月刊
    第二 沿革概略
○上略
大正九年
 三月 勅令第七十一号ヲ以テ東京商科大学官制ノ公布ト共ニ勅令第七十二号ヲ以テ文部省直轄諸学校官制改正セラレ、三十一日
 - 第44巻 p.285 -ページ画像 
限東京高等商業学校廃止セラル
 四月一日新ニ東京商科大学開設セラル、本学ニハ大学学部ノ外予科及附属商学専門部ヲ置キ、東京高等商業学校学生生徒ニシテ大学又ハ大学予科ニ編入ヲ希望スル者ハ之ヲ相当級ニ編入シ希望セサル者ニ対シテハ商学専門部ニ専攻科及高等商業科ヲ特設シテ夫々之ニ編入シ、仍旧規程ニ依リ修業セシムルコトトス
○中略
   同日東京高等商業学校長法学博士佐野善作東京商科大学長ニ任セラレ、東京高等商業学校ノ職員ハ夫々学部又ハ各部科ノ職員ニ任セラル○下略
   ○是日、文部省直轄学校官制中ヨリ東京高等商業学校ヲ削除スル旨ノ諸勅令ノ公布ヲ見タリ。
   ○栄一ハ東京高等商業学校商議委員タリシガ新官制ニヨリ同委員ハ消滅ス。


東京高等商業学校 同窓会会誌 第一二一号・第二二―二六頁大正八年二月 母校昇格問題(DK440064k-0003)
第44巻 p.285 ページ画像

東京高等商業学校 同窓会会誌 第一二一号・第二二―二六頁大正八年二月
    ○母校昇格問題
本会多年の懸案にして、且つ又我国学界の一大宿題たりし商科大学問題は機愈々熟して、今回の文部省六年大計画の一部として已に其発表を見るに至り、本議会通過を待ちて直ちに其の準備に着手し、来大正九年四月一日より之れが実行の予定なりといふ。而して矢張り六年計画の一部たる官立医専五校の昇格は、新設高等学校生徒の第一回卒業を待て、来る大正十一年度より順次実行の予定なりといへば、母校の昇格は他の五校中にて、其の実施の最も早きものと比するも尚ほ二箇年の逕庭あり。
然るに未だ確定とは見るべからざるも、仄聞する所に拠れば、母校に於ては其の実行の暁には、修業年限三箇年の大学予科を置き、高等学校同様、中学四年修業者を収容することゝなるべしと。
尚ほ現在の学生々徒は、昇格と共に其の希望に委せ、大学本科又は予科に編入し、若しくは従来の規則に依り卒業せしむべしと。
又従来の高等商業程度のものは、略ぼ三年程度として大学に附設せらるゝに至るならんと。
母校の昇格は文部当局に於て、母校の真価を認めしに因るは勿論なれども、一面又母校教職員及び我が同窓会会員が、多年本問題に向つて努力せしに職由するものとも云ふを得べきか、殊に母校が今回の計画中に於いて所謂いの一号を占め昇格するに至りしは、其の準備の点亦大に宜しきを得たるに由らずんばあらざるなり。○下略


東京高等商業学校 同窓会会誌 第一二八号・第二―三頁大正九年五月 常議員例会記事(DK440064k-0004)
第44巻 p.285-286 ページ画像

東京高等商業学校 同窓会会誌 第一二八号・第二―三頁大正九年五月
    ○常議員例会記事
前項四月二日開催の合同協議会に引続き、同窓会常議員の例会を開き左記の数項に関し協議を遂げ、就れも可決せられたり。
   ○(一)ヨリ(四)マデ略ス。
 (五) 母校昇格祝賀会の件
  本件は先づ内輪丈の祝意を表する事にとゞめ、春季総会の席上に
 - 第44巻 p.286 -ページ画像 
於て祝杯を挙ぐる事とし、渋沢男には特に臨席を懇請する事
    以上


集会日時通知表 大正九年(DK440064k-0005)
第44巻 p.286 ページ画像

集会日時通知表 大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
四月廿四日 土 午後六時 東京高等商業同窓総会(如水会館)


如水会々報 第一号・第九―二二頁大正九年天長節 挨拶(DK440064k-0006)
第44巻 p.286-293 ページ画像

如水会々報 第一号・第九―二二頁大正九年天長節
    挨拶
                    成瀬隆蔵君
 渋沢男爵閣下並会員諸君、座長として先づ私より一言陳述を致します。多年の宿望でございました母校の昇格は、議会解散の為めに其予算の可決になりませぬだけで、其他は本月一日より名実共に商科大学となりました。就いては是が祝賀会を開いて昇格に就て御尽力下された方々に対して謝意を表するの機会を得たいといふ議が出ました、然るに仮令祝賀会を開くとしても、何時開くが最も宜しいか、又感謝の意を表する御方は誰々にするか、其祝賀会の致し方は何うするかいふ様な具体的のことに就ては、篤と協議を要することであるから、先づ内輪即ち同窓会・如水会の会員だけで祝賀の宴を張らうではないか、是に母校創立者中で最も有力者、始終変らぬ保護者、最も功労ある渋沢男爵閣下、此方は極く俗に申すと甚恐れ多うございますが、吾々の御父さんと致して居る、是は極く尊敬して守本尊の如く考へますところの此御父さんは、此内輪の会にも是非共欠くべからざる方であるから、何うぞ同男爵閣下の御賁臨を願はうじやないかといふことで、御賁臨を請ひましたところが、男爵の御繁用なることは世間周知のことで殊に昨今は年中の好時節で種々の催もございませうし、別して事多うございませう、加ふるに今日の如きはヴアンダーリツプといふ亜米利加の実業家が団長として二十八人の米国紳士が東京へ来られた、此処に御居でになるまでホテルに迎へられ、彼方でも何うしても欠くべからざる方であるに拘はらず、此処は先約であるといふのでそれを他に委ねて玆に御居で下さいました、此御親切御好意に依つて男爵閣下と共に御同様此処に祝宴を開くことを得ましたのは、実に喜ばしいことでございます。
 諸君の多くは東京商業学校又東京高等商業学校以来の御出身で、恐らく其前の古物は至つて少なからうと存じます。夫故に御感じは何うあるか知れませぬが、今渋沢男爵閣下が、お前が古きことをいふと年が知れるぞといふ御注意がございましたが、私は三つの時から学校に入つたとも申し悪うございますから、年は知れませうが、今昔の感に堪へませぬから今夕は古い事を語りたく存じます、それを語りましたならば自分の経歴に亘るやうなこともありませうが、是は決して自分のことを言ふのでなくして、学校の発達が今日に至つたといふことを御紹介する為めに、自然自分の事に亘るかも知れませぬが、其辺は御許容を願ひます。
 抑々母校の起りましたのは明治八年で、商法講習所といひました、元来名も殆と付かない中から木挽町の故森子爵邸の一室で教授を始め
 - 第44巻 p.287 -ページ画像 
られました、其教授をした先生はダブルユー・シー・ウイツトネーといふニウ・オークの商業学校の校長をして居た人であります、之を故富田鉄之助といふ御人の斡旋に依つて森子爵が呼寄せられました。それが抑々の濫觴でございます、それから尾張町に移つて東京商法講習所といふ看板を掲げました、私はそれよりは一年程前に新聞で見ますと森さんが亜米利加から商学の先生を雇つて来て、其学校を開くといふことがございましたので、是は是非入学せぬければならない、自分は商売人にはなりたいけれども、丁稚小僧となるのも余り面白くないのだ、是なら商売の仕組にも定石があらう、だからそれに一つ入つて見たい、若し東京に出来たらば第一番に学んで見やうといふ考へを有つて居ました。
 其考へには種々の理由がございますけれども兎に角其原因は別として、さういふ考へを有つて居りました、ところがさて森さんが自分の邸の一室で教へ始めたことは知らない、是は森さんに聯絡のある人、ウイツトネー氏の知己といふやうな人が集まつて居たのであつた、それが尾張町に開いた時に始めて世間に現はれ出ました、そこで自分が一番だと思つて行つて見たところが既に二十人計も居る、中には大分進んで居る人がある、其中で貴方々が御承知と思ひますのは、図師民嘉さん、森島修太郎君、それから内村恒之君とか隈本栄一郎君、ジヨウジ・バチルダー・ウルベツクといふやうな人々、是等は余程先輩である、其処へ参りました、其時の先生が今申したウイツトネーと高木貞作君が助教授になつて居られました、是は亜米利加で修業された人であります、後に正金銀行へ入つて紐育の支店長をし、今は牛込に隠居して居る、其人であつた、そこで私は其処へ入つて大分遅れたなと思つて聊勉強致しましたが、実は最初半分足を掛けたので、私は其頃慶応義塾に居りまして、商業の方と慶応の方と片足づゝを引つ掛けて半月許り試み居りました、ところが愈々商業が面白いといふ考を持ちましたので、慶応義塾で演説堂が出来て間もない時でありましたから私が演説をして商人たらんと欲する者は先づ其定石を是非学ばなければならぬと思ふ、慶応義塾は文明の諸方面の事を始めるから、商業の方も慶応義塾の人がやつて良くないか、吾と志を同じうする者は一緒に行かうじやないかと、福沢先生の前で述べて全然講習所の方へ参りました、ところが大に自分と一緒に来るものがあらうと思つたところが誰も付いて来なく、自分一人で商法講習所の方へ参つたといふ訳、甚だ不面目千万でありました、其後に至て慶応義塾から来られた者が多少ありました、自分の商業学校へ入るのはさういふ関係でありました、それから暫くやつて居りますと何ういふものでございましたか、英習字等を教へる助教授の高木貞作君が病気欠席等の場合にはウイツトネー教師が私を呼んで代理をさせる、其中に木挽町の方へ移るといふことになりまして、尾張町を引揚げて木挽町に移つた時分に矢野次郎君が校長となつて来られたのであります、矢野次郎先生よりは学校に取つては私の方が早いのでございました、そこで卒業しますと私は商人の丁稚小僧は嫌やだけれども、大きな商売人の丁稚にならう、岩下清周等は卒業前から物産に入つて商売を始めました、私も同社又は
 - 第44巻 p.288 -ページ画像 
其他へと思ひましたところが、矢野校長がお前が一人で実地に就くよりは暫く教へて後ち大勢でやつたら宜からうといふことで、私は其時十幾つといふ訳で、矢野君の旨い口に悉皆乗せられて講習所に従事しました、それは何んな風かといふと、卒業は明治十年二月に致しましたが四月まで経費の都合で金が出せない、何んとかして居て呉れといふことでありました、私は極く貧乏人で今月の仕払は何処へ行つて下宿料を払ふ金を得やうといふやうな有様でありましたので、唯だ待たされるといふことは随分困難なことでありますから、中外物価新報に掲載する外報の翻訳を一時致しました、さうして二ケ月しますと助教の助手のやうなものになりました、それが面白い話で校長曰く君を雇ふに唯つた十五円しかない、それで一日雇ふと云ふのは余り気の毒故一日二時間といふ約束で従事して呉れ、ところが朝から夜迄どころでなく、時には翌朝の二時位まで働かされた、学校の事に就ては矢野校長は非常な尽力で拡張の事に努めて居られまして、卒業前未だ書生である私共を自分の家へ引つ張つて行つて一時二時までもかゝるといふやうな有様でありました、さうすると十五円二時間といふのは大間違で十二時間以上も費しました、それから其後二十五円三時間といふやうな事になりましたが、益々忙しかつたのであります、実は私は其当時から二十二年に洋行致しますまでといふものは暑中休暇も三日以上休んだことがない有様であつた、曾ても渋沢男爵閣下から御話がありました如く、最初講習所は共有金で維持して行くといふことでありましたのが、後に府税から出すといふ事になりました、ところが其後半額に減ぜられた、其理由は商家の子弟に学問は余り必要がないといふやうな事を唱出して、遂に知らず半分で、半額に減じて仕舞つた、其時の半額は何うしたかといふと、渋沢男爵閣下が非常な奔走で醵金をして維持した、其翌年は減額前の倍に殖えた、殖えたは宜いが其翌年は断然廃校になつた、何うかしたいといふので矢野校長は渋沢男爵閣下の所へお百度を踏んだに相違ない、其時渋沢男爵閣下は何うか維持したい、金がなくなるとも教員諸君が何うかやつて呉れるといふことでなければ仕方がない、私は年千円は確かに支出の途を附けると云はれたさうで、是は閣下御一手でありますが、併し其以上幾らでも拵へる積りであるが千円だけは確かに請負ふ、併し教員諸君が金が少ないから嫌だといふのですよと言はれゝば仕方がないけれども、さうでない以上何うかして続けたいといふ御話であることを校長から伝へられました、果して其通りでありしかなかりしか、私共に気に入るやうに渋沢男爵のお言葉を伝へたのか、事実は存じませぬけれども、さういふことでありました、其場合渋沢閣下がさういふ御考へであるならば玆に至つて吾々は何んなことでもして維持しなければならないといふことで、当時私は教頭幹事の如き地位に居りましたから、今までの給料は打消して仕舞はうじやないか、さうして一人当り五円といふことにして、三人家族のものは十五円、四人家族の人は二十円といふことにして、私は表向一人だけれども其実親がついて居る、チヨツト五円じや足りない、オマケに借金して廻はつて居るところであるから何うか二人分貰ひたい、それで上下なしでやらうといふことに定めた、さ
 - 第44巻 p.289 -ページ画像 
うして東京府へ教職員全部記名調印して願書を出して、矢野校長始め吾々教員で之を維持することに図りました、さうしましたところが此事を熟く知らないで、或方が商業会議所に来られまして、我々を呼びさて残念なことである、何うかして維持したい、教員諸君が金がある間は勤めて居て金がなくなつて嫌やだといふのは怪しからぬ話であるから、是非一つやつて貰ひたいといふ御説がありました、そこで私は若年でありますから激烈な言葉を吐いた、唯今維持に就て仰せられましたが、私共は未だ社会から何等恩沢を受けて居りませぬ、其故さう社会に対して義務を荷うだけのことはないと信じます、それだからさういふことで以て維持しやうといふことであるならば断然辞退します殊に金が無くては生きて行かれなからうと思ひますといふやうなことを云つて、一方では渋沢男爵閣下の御尽力でやることになつて居るに関はらず右の如く述べ、猶矢野君は何んでも財産があるやうですから是は金がなくともやつて行けるかも知れませぬが、其他のものは財産はない、矢野君にしても世の中から、もつと尊ばれ一般社会の人が有用と思ふ方へ行くがよかるべし、敢てそれに膠着いて居る先生なら真に倶に語るに足らぬといふやうなことを述べました、ところが其御方は憤然として黙つて去つて仕舞つたといふやうなこともあつたのであります、其当時渋沢男爵閣下は、自分は千両請負ふ、其上出来るだけは努める、併し教員諸君の意嚮に依ることであるからして、其意嚮に任せるの外はないとの御説の為めに弥感奮しまして、何うしても維持せなければならぬといふやうな感を持つた次第でありました。
 左様に種々のことが何うも年々歳々ありまして、殆ど寧歳なしといふやうな有様であつた学校が、今日終う々々商科大学と進んだといふのは、実に非常のことに私は感じます、従つて喜びに堪へぬのでございます、殊に今日は同窓会に於て全会一致を以て如水会に合同に決し続いて如水会に於ては定款を改正して合併をするといふことも、異議なく全会一致を以て決しました、是は如水会の出来ました当時より、吾吾希望に堪へなかつたことでございます、其希望はあつても却て難しいことで容易に纏りはつくまいと案じたにも拘はらず、斯く易々と満場一致を以て合同になりましたことは、実に欣喜に堪へませぬ、斯く重ねて結構なことが集まりましたのは御同慶至極でございます。
 昇格のことは一番最初に唱へられたのは学生諸氏にあると思ひますそれは二十二年に私が欧羅巴に出かけました留守中、当時の学生諸氏の中に成瀬が帰つて来たらば昇格に尽力するだらう、諸方の程度の高い有様を見て来てさうするだらうといふ、当時意外なことを期待されて居つた向きもあるやうで、そこで私が帰朝すると早速数名の方が御出になつて、先生の意見は何うか、大学にでもする考はあるだらうなといふ問ひでありました、ところが私は其時分さういふ考へは更になかつた、欧米を廻はつて見ましたところで、巴里のエコール・オーゼチニウド・コンメルシヤンといふのが大学程度でありまして、其他は高等商業学校程度であつて、白耳義のアントワープの商業学校と雖も書いたものより言へば何程も我校と違はない、併しながら彼等は実業が発達して居ります、従つて教授の方法は発達して居りますから其辺
 - 第44巻 p.290 -ページ画像 
は良いが、程度は決して高い事はない、世の中の事は大抵対手者に応じて定まるもので刀槍の時代には刀槍を以て戦ふ、銃砲の時代は銃砲といふやうなことで、未だ諸方が高い程度でない、殊に程度斗り俄に高めるは害ありて益がないから、此程度が宜からう、尤も金を沢山かけるところは程度に拘はらず実質が発達する、即ち日本の陸軍・海軍政治・法律等は大分発達したけれども、一番金もかけないところの商業は発達しない、之は発達させなければならぬが、目下程度を高める必要はないといふことをいふて、大に甘心を失つたことがあります、或は此中に其時御出でになつた方があるかも知れませぬ、明治二十三年のことであるから大分古いことであります、それ以来皆さん御承知の通りバーミンハム大学のアツシユレー、マンチエスターのチヤツプメン等の名が聞えて来まして、商科大学が各国に起るやうになりました、さすれば此方も進まなければならぬ、又時と共に進んでも良い事情になりました、其時分から私共は商業大学にせなければならぬといふ考へが起つて居るところに、最も権威ある渋沢男爵閣下それを唱へられたので、轟然として皆同意致したのは二十余年前でありました、それから紆余曲折を経て今日に至つて名実共に大学となりましたのは実に偶然ではない、真に渋沢男爵閣下等の御心入れ御尽力の結果でございます。
 就きましては此昇格に就て最も御尽力下されましたところの渋沢男爵閣下に対しては、如何にして吾々の謝意を表すべきか、自分は未だ考案はございませぬが、諸君と共に御協議をして至当の方法を以て謝意を表すべきものと深く考へて居ります、又此昇格になりますに就ては順序其他種々運びをつける上に於て佐野校長始め御干与の諸君の御尽力は一通りではなかつた、容易ならぬ御骨折があつて、玆に至りましたと思ひます、此方々に対しても充分なる謝意を表する機会が生じませうが、今日は此昇格の為めの祝賀会でございますからして、玆に昇格の為めに諸君と共に盃を挙げると同時に、最功労者たる渋沢男爵閣下の御健康を祈り、併せて佐野学長始め当局諸君の御健康を祈りたく存じます、併し一々起つて乾盃を致すのも煩に過ぎますから、其三つを兼ねて盃を挙げることに致したいと思ひます。
 皆様御目出度う、渋沢男爵閣下の御健康を祈ります、併て佐野学長始め学校当局者の御健康を祈ります。(此時一同起立乾杯)
   ○堀光亀挨拶略ス。
    祝辞
                男爵 渋沢栄一閣下
 誠に喜ばしい御宴会に参上致しまして、玆に一言を申上げまする機会を御与へ下すつたことを感謝致します。
 御会合の諸君の母校の起りが数十年の歳月を経て居るといふことは唯今司会者たる成瀬君から詳しく御述べになりましたが、私がまだ壮年の頃であつたと記憶して居ることを、私より大に年下である成瀬君から演説されて見ると、或は成瀬君も私より左様に御若くはないのかと思ふやうでございますけれども、同君は諸君の御見かけの通り若やぎでをりますから、決して私のやうなる老人でないといふことをも御
 - 第44巻 p.291 -ページ画像 
承知なさるであらうと思ひます。
 諸君の母校たる東京高等商業学校の経歴は数十年の間に種々面倒なことがありましたが、年月を経るに従つて出身の方々に有為の新人物が出て来た為めに次第に勢力を増して遂に今日に及んで大学に昇格したといふことは決して偶然ではないのであります、凡そ「事は成るの日に成るに非ずして由て来る所以がある」と唐宋八大家文集中に蘇東坡の格言があつたと思ひます、誠に古人の言葉は吾を欺かずで、斯る事柄が一朝一夕にして成就するのでなくして、長い時間に積累して今日に及ぶのである故に、之を反対に考慮すると事の破れるのも或は一時の間違ひから破壊する場合もあるけれども、多くは種々の弊害が積り積つて瓦解するのでありますから、総じて世の中の事は常時に注意して漸次に其効を積まねばならぬと思ひます、是に於て私は故森有礼氏の日本に実業教育がなければならぬといふことに着目されたのは実に先見の明であつたと感謝するのであります、最も其頃の東京府知事たりし大久保一翁氏がこれに賛同して、東京府内の有志者と協議し私共も力を添へたのでありました、元来維新以後の教育は政治教育のみであつたが、明治二十年頃より実業教育が斯様に閑却されるといふことは遺憾の極である、向後実業教育といふものに大に力を入れねばならぬといふ感じを有つたのであります、唯今成瀬君の御演説中に、商法講習所といふものが廃校されるといふ場合に私が一年に千円宛を醵出して継続しやうと言ひましたと云ふことは確然と覚えて居りませぬが当時私は矢野氏と別して懇親であつた為めに、同氏の刺激から此学校を廃止するのが如何にも残念と思ひまして申出したことゝ存じます蓋し此母校を廃して仕舞ふといふ決議は東京府会の有力者間に行はれたので私は極力これに反対し、是は一個の学校ではない、天下の実業的教育を完全にしやうといふ為めに存立する唯一の機関である、然るを東京府が罷めて仕舞ふといふは何んたる腑甲斐ないのであらう、是非維持せねばならぬといふて涙を振つて千円か幾らか能く覚えませぬが、私財を投じても継続を計りたしと思つたから矢野氏にさういふたのと思ひます、為めに教員の人々も私共と志を同じうして下されて廃校の厄難を免れたのであります、幸ひに故芳川顕正氏が内務少輔から東京府知事兼任であつて、吾々の志を諒とされて、一時農商務省の所管となり、其中に森有礼氏が文部大臣となられて玆に始めて高等商業学校といふ位置が据はるやうに成つたのであります、併し其頃はまだ大学といふやうな希望は私共には起りませぬ、只今成瀬君の御演説のやうに当時も昇格のことが大分論ぜられて居りましたが、商業学校は高等とは申しながら二流三流の学校になつて居る、さうして工科・農科は大学となつて居る、何故に商科だけは大学となれぬ、是は不都合だといふ権衡上の議論も多くあつた、併し私は単に教育上の程度が低いといふことを憂へるよりも、商業に対する世間の待遇が甚だ間違つて居りはせぬかといふことを疑つたのであります、私は学課の進級のみでなく商業其ものゝ品格を高めたい、さうでないと商人の位地を高める事は出来ぬといふ考へが強かつたのであります、斯く申すと自分だけが士魂を有つて商業を経営したといふやうに聞えますけれども、
 - 第44巻 p.292 -ページ画像 
私も元は農民でありましたが、青年の頃少しく文武の芸を修め、幕末の頃浪人となり、更に幕吏の中間入をして、後新政府の大蔵省の官吏となり、再び転化して銀行者となりましたのでありますから、平たく言へば金持にならうといふ希望でもなかつた為めに所謂武士気質が比較的強かつた、明治六年に銀行者となりましても、自身の思入は文官となるも武官となるも又は内閣総理大臣に任ずるも毫も異つたことはない筈である、然るに商業といふと利益を謀る事業たるを以て之を軽蔑するといふは実に間違ひである、故に自身に左様な覚悟を有つて商業を経営したならば終に斯界を向上させることが出来るであらう、若しも商業が左様に卑下すべきものならば国家の富貴は進むものでない何故商人は位置が低くて宜しいか、士農工商といふ昔の階級は間違つて居ないとしても吾々は此旧套に安んずることは出来ぬ、何うしても商業教育を農科・工科と同じやうに進ませなければならぬ、但し商人が気位許り高くて実際に熟練せぬのは可かぬといふのは道理に相違ないけれども、それ故に商業学校の階級を低くして置かなければならぬといふことは不当であるといふので、母校の昇格を永く企図して居りました、此大学昇格に付ては益田孝氏とは聊か其説を異にして久しく相論議しました、蓋し両者の説は違ふたけれども其精神は同一で、母校を愛するといふ点には変りはない。
 商業学校の昇格に就ては明治二十五・六年頃から其希望を起して三十年頃も種々尽力しました、それからは何うしたらば宿望が達するのであらう、如何なる場合に其機会が得らるゝであらうといふことは、爾来年一年と期待して居りましたが、其間学校内にも色々波瀾曲折がありました、例へば校長転任に付学生間に不折合を生じたとか、又は専攻部廃止の為めに学生が不平を起して大騒動となつたとかであります、それは四十二年の事でございまして、私は実に苦心をして調停しました、成瀬君の御述べの如く常に近い親類として御相談に与りましたのも一再にして止まらぬのでありました、其度毎に吾々の目的の達するのは何時のことであるかと思ひまして待遠く感じたのであります先年私は教育調査会の委員として屡々此問題を論じて見ましたが、力足らずして貫徹しなかつた其後私は老躯の故を以て調査会は辞しましたが、従来同志者多数の苦心が終に巌をも通すの譬の如く、今日御同様其初志を遂げたといふことは、私は老後に於て此れ程喜ばしいことはないのでありまして、実に三十余年来の宿志が玆に貫徹したといふて宜しいと思ふのであります。
 今夕は亜米利加よりの来賓ヴアンダーリツプ氏の一行が着京しましたので、同氏の一家族を私の三田の別邸に止宿せしむるといふので其手配もあり、其他の来賓の宿割り等で頗る雑沓して居りましたが、如何に必要なる賓客で殊に私が此来賓に対しては主人の位地でありながらも、当席の約束を背いては相済ぬ、否衷心御断が出来ぬので、来賓の世話方をば他の人に委托して此御席に参上して、諸君に喜びを述べると共に自らも喜悦するを楽として出席しましたが、只今成瀬君から長い沿革を御述べになり、又堀君から鄭重なる御挨拶で、私の今夕の出席は寧ろ内部の人として臨場を請ふたので、賓客とはせぬと言はれ
 - 第44巻 p.293 -ページ画像 
たのは何んとなく私には自己の成功を誇り得るやうに感ずるのであります、但し玆に改めて諸君に一言申上げて置きたいのは、凡そ人間万事名誉にはそれだけの責任が伴ふといふことの御覚悟を願ひます、責任を果さずして単に名誉だけを保持するといふことは人類として出来ない、故に其責任を完全に果して行かなければ名誉は維持することは出来ないのであります、詰り「事は成るの日に成るに非ずして由つて来る所がある」ので、名誉に伴ふ責任を充分に尽さなければ、何時までもこれを持続することは出来ない、斯く考慮するときは満場の諸君に将来充分の勤勉と人格の修養に注意せられて、更に向上発展せられむことを希望するのであります、私は玆に盃を挙げて今日の思出多き宴会に当りて満場諸君の健康を祝します。(此時一同起立乾杯)