デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.314-321(DK440071k) ページ画像

昭和2年11月14日(1927年)

是ヨリ先、如水会、更ニ栄一ノ寿像一基ヲ鋳造シ、当大学ニ寄贈ス。是日、其除幕式ヲ当大学講堂ニ於テ挙行ス。栄一出席シテ謝辞ヲ述ブ。終ツテ如水会館ニ於ケル同会創立記念晩餐会ニ臨ミ、挨拶ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK440071k-0001)
第44巻 p.314 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月十四日 月 午後三時 青淵先生寿像除幕式(一ツ橋商科大学)
         午後五時 如水会催家族会、引続キ晩餐会(如水会館)


竜門雑誌 第四七一号・第九五頁 昭和二年一二月 青淵先生動静大要(DK440071k-0002)
第44巻 p.314-315 ページ画像

竜門雑誌 第四七一号・第九五頁昭和二年一二月
    青淵先生動静大要
      十一月中
十四日○上略 青淵先生寿像除幕式(東京商科大学)如水会催会員家族
 - 第44巻 p.315 -ページ画像 
会晩餐会(如水会館)


如水会々報 第四九号・第七―九頁昭和二年一二月 渋沢子爵寿像除幕式(DK440071k-0003)
第44巻 p.315-317 ページ画像

如水会々報 第四九号・第七―九頁昭和二年一二月
    ◇渋沢子爵寿像除幕式
 昭和二年十一月十四日は、昨年の同月同日とは違つた秋晴れの恵まれた日であつた。此の日午後三時、商科大学講堂に於て渋沢老子爵並に御令孫の御臨席を得て、数十の如水会員並に数百の同学職員学生々徒等は、如水会より同大学に寄贈さるべき同子爵寿像除幕式の感激すべき劇的場面に接したのであつた。
 正面紅白段だらの幕には左の通り式の順序が記されて居た。
 一、開会
 二、除幕(渋沢子爵令孫)
 三、如水会理事長式辞
 四、東京商科大学長式辞
 五、渋沢子爵御講話
 六、渋沢子爵万歳(成瀬隆蔵氏発声)
 七、閉会
 そして、同じく正面に張り出て居る紅白の帳の中には、我国実業界の巨人の像が莞爾と微笑んで居るのであらう。参列者の胸は刹那の感激を思ふて頓みに打ちふるえて居た。殊に将来を夢見る若き学生諸君の瞳は一際輝いては居なかつたか。
 定刻、子爵の御一行がしづしづと御いでになり、設けの御席につかれる。やがて黒川商大事務官が開会を告ぐるや、老子爵御令孫栄子嬢の可憐な手によつて寿像を蔽つて居た帳がとれる。温乎たる、作者が傑作の一つであると迄自信深き真に吾等の大祖父たるが如き子爵の寿像が現はれたのであつた。瞬間の静寂、それにつゞく嵐の如き拍手喝采、しばし鳴りも止まずと云ふ有様であつた。
 やがて江口本会理事長は、子爵に対して一揖されたる後壇上に立つて、極めて沈着なる態度、明晰なる語調にて
 「一昨年九月、母黌五十週年記念祭の当日全国有志の晩餐会席上に於て、成瀬君の発議によつて、吾等の恩人たる渋沢子爵に対する記念事業が計画され、委員を設けて一名宛の出す金高は極制限した金高で資金を募つたのでありましたが、響の声に応ずるが如く僅かの間に金が集りました。而して其記念事業を行ふ方法として、子爵の寿像を作り、一つは吾々のホームのある如水会に安置し、一つは母黌に寄附すると云ふことになりまして、堀先生に相談致しました処、大変に御力を入れて下され、回顧すれば昨年の今月今日如水会に於て一つの分の寿像除幕式をやりました。而して夫れは大正六年子爵の喜の字の御祝に作つた原型によつたものでしたが、子爵に於かれては其後何等御変りもないので、十年たつても同じ御顔である、誠にお芽出度いなどゝ申し上げた次第でありました。然るに今回母黌に寄贈する分は、堀先生が特に自身の御心も加つたものであつて、先生会心の御作であるとの御話であるが、今目の当り拝見致しまするに誠に左様であります。今日子爵並に令孫の御臨席を得て除幕の式を挙げ、此心をこめたもの
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が永く母黌に安置されると云ふ事は洵に喜ばしい次第であります。佐野学長としては、やがて母黌の国立に於ける新学園完成の上は、適当の場所に安置して幾久しく母黌の守り本尊として保管されん事を望む次第であります。
 子爵が明治初年から商工業者の地位向上の為め、又母黌の為めに御尽し下されし事は今更申し上げる迄もありませんが、吾々が斯の如き偉大なる先覚者を上に仰いで来たと云ふ事は、非常の幸福でありました。子爵が如何に吾々及び学校に対して御心を傾けて居られるかと云ふ事は、一昨年の五十年記念祭に成瀬君が祝辞を述べし際に、衷心から涙を流して喜んだ実例についても解りませう。又学校の理事が御話を伺ひたいと申し上げると、親ら行かうと云ふて御出で下されたと云ふやうな事もありました。即ち之は吾々を子とし孫として愛して下されたと申してもよからうと存じます。
 玆に一つ御耳に入れて置きたい事は、吾々の処では先輩と学生との間に美しい関係があつて、略よく両者の聯絡がとれて居て、他に類を見ないと云ふ事であります。之は色々の機会、例へばボートの対校競漕、一橋新聞、山岳会其他学生の会と先輩の会との融和等すべてに於て見られるのであります。私は他の機会に於ても申し上げましたが、両者の相違は制服制帽と背広中折れとの違ひに過ぎないと思ふのであります。又来年四・五月頃になると新らしき卒業生が出ますが、外に出るものと内に居るものと、よく聯絡を計つて永く此美風を存したいものと切に希望する次第であります。云々」
 右感銘深き式辞に次いで、佐野商科大学長が左の如き式辞を朗読された。
      式辞
 東京商科大学ノ為メニ尽瘁セラレシ人其数少シトセス。然カモ其ノ刱設以来今日ニ至ルマテ、終始一貫克ク其ノ発展ヲ輔成セラレシハ独リ子爵青淵渋沢先生アルノミ。同大学ノ今日アルハ実ニ先生ニ負フ所最モ多ク同大学ノ我産業ノ発達ニ貢献シタルノ功大ナルモノアリトセハ、其ハ職トシテ先生援助ノ賜ナリト謂フモ敢テ過言ニアラサルヘシ是レ吾人ノ斉シク認識スル所ニシテ今更ニ喋々ノ弁ヲ須タサルナリ。吾人ハ唯先生ノ恩徳ニ報謝スルニ適切ナル語辞ヲ有セサルヲ憾ム。
 大正十四年本学創立第五十周年記念祝典ヲ挙行スルヤ、社団法人如水会ハ奮テ之ヲ翼賛シタルノミナラス、更ニ其ノ仰慕スル青淵先生ノ寿像ヲ本学ニ寄贈センコトヲ提議シ、巨擘ニ嘱シテ之ヲ鋳造シ、本年先生ノ米寿ヲ迎ヘラレタルヲ機トシ、玆ニ本日ヲトシテ先生ノ光臨ヲ仰キ、除幕ノ式ヲ挙ケ寄贈ノ手続ヲ了シタリ。惟フニ此挙タル先生ノ本学ニ対スル偉功ヲ推頌シ、敬意ヲ表スルノ措置トシテ頗ル適切ニシテ、吾人職ヲ本学ニ奉スル者及ヒ学ニ本学ニ就ク者ノ感激措ク能ハサル所ナリ。
 今ヤ本学復興事業漸ク其緒ニ就キ、数年ヲ出テスシテ城西国立ノ地ニ一大学園ノ開カルヽヲ見ントス。吾人ハ本日迎受シタル先生ノ寿像ヲ暫ク現在ノ仮校舎内適当ノ場所ニ蔵置シ、本建築竣成ノ期ヲ待テ其中枢仰視ニ便ナル所ヲ選ミテ之ヲ安置シ、以テ永ヘニ先生ノ恩徳ヲ伝
 - 第44巻 p.317 -ページ画像 
ヘ、学徒ノ修養精進ニ資センコトヲ庶幾ス。
 昭和二年十一月十四日東京神田一橋東京商科大学仮校舎ニ於テ、同大学長佐野善作職員学生々徒一同ヲ代表シテ、社団法人如水会ノ美挙ヲ宣揚シ、其ノ厚意ヲ深謝シ、粛ミテ其ノ寄贈ニ係ル子爵青淵渋沢先生ノ寿像ニ対スル所念ヲ披瀝シ、以テ式辞ニ代フト云爾、
 玆に於て、期待された子爵の御講話に移る。米寿翁は壮者を凌ぐ元気と熱とを以て壇上に立ち上り、別項(巻頭記事)の如き無慮一時間余に渉る御講話をなされた。熱しては双頰紅を呈し、時には感無量にして涙をのまる。一代の巨翁の一大獅子吼こそは一代の壮観と云ふべきであつた。
 最後に成瀬隆蔵氏の発声にて万歳を三唱して、晴れの式も芽出度く終つた。


如水会々報 第四九号・第一―五頁 昭和二年一二月 寿像除幕式に於ける渋沢子爵の御講話(要旨)(DK440071k-0004)
第44巻 p.317-320 ページ画像

如水会々報 第四九号・第一―五頁 昭和二年一二月
    ◇寿像除幕式に於ける渋沢子爵の御講話(要旨)
 感極つて言葉を知らぬ次第であります。如何なる私は仕合はせ者か斯の如き最も愉快や最も意義ある企をしていたゞきます。数ならぬ私の寿像をお作り下さいまして商大に設置して下さると云ふ事は、分に過ぎた事と申し上げたい位であります。
 さり乍ら、かゝる仕合はせをお与へ下された皆様に御礼申し上げると共に、私の生涯の長い間の久しい苦心もあつた、殊に実業の発展と云ふことを常々念願として居たのであるが、夫れが実現して益々四海に力を伸ばすことを見るに至つて、夫れが如何に私が希望する処であつたかと云ふことは多少申し上げてもよからうかと思ひます。
 で、お聞き苦しい古めかしいことではありますが、又あちこちの新聞雑誌に出て重複する点もありますが、一と通り申し上げて見たいと存じます。
 元来、私は百姓の子で鍬をとつて居たのであります。十四の年にペルリが米国から来まして、之が少年の耳には入つて来ました。当時私は漢学をやつて居りまして、諸君の様に洋服を着て居ると抜刀して暴れ込む――今日はさう云ふことはありませんから、安心していたゞいてよいが(笑ふ)――農から今日で云ふ政治界へ、悪く云へば生意気書生になつて居たのであります。
 処が、京都に参つて居る中に、親戚の友人の中に捕縛された者があつた。当時は討幕と云ふ観念を持つて居たのでした。夫れが種々のいきさつのあつた後に遂に一ツ橋の家来になることになりました。それ等のことをお話して居ると長くなるから略しますが、之が私の一身の転化でありました。
 其中かれこれして居ると、丁度、徳川民部大輔がフランスの博覧会に出張して、夫れが済むと西洋諸国を廻つて見て来ると云ふので、其お供を仰せ付かりました。私は我国に於ても、何れ封建制度を改正することがありはせまいか、と云ふ様な考もありましたのでした。
 然るにフランスへ行くと間も無く、慶応三年十月十四日に徳川慶喜公が政権を返上されたと云ふことが知れました。其時は只今とは時代
 - 第44巻 p.318 -ページ画像 
が違ひますので、夫れ程の政変とは思はなかつた位でしたが、其当時の変化の有様は、とても諸君には御想像がつかぬことゝ存じます。私の苦心の如何なりしかをお知り下さい。
 其頃、水戸の藩主が亡くなられて、実のお子さんがあつたのでしたが、藩の面倒から民部大輔が水戸の相続をすることになりましたので前年の一月に出かけたのが、翌年即ち明治元年の十一月に帰つたと云ふ訳で、足掛け一年十ケ月ばかりの間、海外を廻つて帰つた次第でありました。
 夫れ迄、私は政治界に入つて微力を尽したいと云ふ考はありました然るに余り甚しい世の変化に飽き果てゝ、実際彼の熊谷直実のやうに世の中が嫌やになつたのでありました。少くとも政治界は我々に合はぬと思つたのでした。元来、国家の為めにと云ふ考があつたのでしたが、今云ふ有様で、何の為にもならずになつてしまつたと云ふ訳でした。然し当時我国の有様を見ると、官民の差が余りに甚しく如何にも情無かつた。実に一般の名誉は政治界ならではなかつたのでありました。一方に於て国民夫自らの改正も、自ら希望せさるを得なかつた。そこで民間の事業について、政治と同じ様な目的を遂げる事は出来はせまいかと考へました。之はフランスに於て、同国官民の接触の有様を親しく見て来たからでもありました。
 其例として申し上げると、民部公子の教育のお世話をして呉れた人にコロネル・ウイレツトと云ふ人がありましたが、又身の廻りのお世話をする人に、日本からコンサル・ゼネラルを頼んであつた私立バンクのフロリ・ヘラルドと云ふ人がありました。是等は一人はお役人、一人は商売人です、此二人の行動を見て居ると、誠に互格の交際であつて、其有様を見ると実物教訓であつた。全く一国の富強繁盛は官民の一致がなければならぬと思ひました。此等のことから、帰国したらば実業界に於て働かう、上下一致して行かなければならぬと考へたのでありました。
 扨て帰つてから駿河へ行き、静岡藩に望んで商法会所と云ふものを作りました。之は商業と金融とを混同した様なものでありました。
 然るにさうして居る中に、東京へ呼び出されて役人になるようになりました。最初東京へ出て、大隈重信侯に遇つて辞退したのでしたが大隈さんに旨く説得されてしまひました。大隈さんは、先づ実業界には入つて尽したいと云ふ私の考を賞めて、夫れは良い考であると云ふて置いてから――私に租税正になれと云ふのでした――譬へば地面を肥さなければ種は実らぬではないか、財政がしつかりしなければ経済も発達しない、又君は何も知らぬと云ふが、何も知らん事は我々皆が同じた、と云ふやうな誠に旨い説き方でありました。そこで到頭、租税正を受けました。
 私は役人になつて居ましたが、財政と経済との発達を謀る中、殊に実業界を盛んにせんとしました。其中に銀行問題が起きました。之は南北戦争後に米国が紙幣を作つた事に慣つたのでありました。夫れは明治五年の事でありました。此時奇貨措く可しとなし、銀行事業に入りました。少し言葉が過ぎるかも知れませぬが、当時出来上つた国立
 - 第44巻 p.319 -ページ画像 
銀行条例は大体は私がこしらへたと云ふてもよいかと思ひます。之が明治五年十一月でありました。翌六年五月に内閣騒動が起り、官を辞退して民間に下りました。
 扨て愈民間に在つて銀行をやつて居る中に、実業教育の必要を痛感致しました。丁度明治七年頃、当時米国に居られた森有礼氏から時の東京府知事大久保一翁氏に宛てゝ、米国に於ける実業教育の盛んであることを述べて、日本にも是非ビジネス・スクールを建てたいと思ふから、何分の助力をお願ひ致したいと頼んで来た。そこで大久保知事も至極結構な事であると云ふので私も相談に与つたのでありました。そして遂に翌年の夏頃に、京橋尾張町に商法講習所と云ふものが出来たのであります。処が其後森さんは特命全権公使として支那へ行かれると云ふので、学校は東京府が始末することになりましたが、其後学校の存廃問題などもありまして中々多事多端であつたのでしたが、夫等は余り長くなりますから止めて置きます。
 当時独り特に感じた事は、世間一般の空気は依然として封建時代と異らず、学問を修むるものは悉く官吏を目的とし、政府の役人になる事を無上の光栄として居る有様なのでした。それに就いて一つのお話があります。
 丁度私が東京会議所の会頭として東京瓦斯局の事業経営を委嘱されて居つた時の事であります。当時瓦斯局の技師をして居つたのがフランス人のベルヂンと云ふ人であつたが、何時迄も外人の技師に許り頼つて居らずに日本人の技師を採用しやうと思つて高松豊吉君に相談して、帝国大学出身の何某と云ふ工学士を採ることになり、本人も応諾したのでありました。然るに其後に至つて、其工学士が私を訪問し、「今後瓦斯局の経営は何うなりますか」と云ふ質問をしたので、私は「将来は民間の事業として経営する筈である」と答へた処、「左様ですか、それでは折角入所の御約束を致しましたが、私の希望と反しますから辞退致します」と言ひ出しました。私が其理由を聴いて見ると其人の云ふには「私の学問したのは名誉を得たいからであります。民間には名誉がありません。私の学問をした趣旨に反しますから遺憾ながら御断り致す次第であります」と答へたと云ふ有様でありました。
 森さんが文部大臣になられて、商法講習所も政府で維持して行くやうになつたのでありましたが、此事実に対して私は之ではならぬと痛切に感じた次第でありました。さう云ふやうな事柄が、私をして今日かゝる名誉を私に与へて下さる結果になつたかと思ふと、誠に感慨無量であります。官民一致した状態を切に望んで居つたのでありましたが、其時は偶然であつたことが、今日の進んだ有様になりましたので是位喜ばしいことはない、安心し切つたとでも申し上げたいのであります。而して微力を尽した私に対して、如水会の方々が寿像を作つて下され、商科大学でも同意して之を同大学内に設置して下さることになつたと云ふのは、何とも申し上げやうのない喜びであります。
 そこで私は最後に、更に一言申し上げておきたいのであります。今日我国に於て各方面に智識が進歩致しました。然し大きく云へば世界を挙げてと申してもよからうかと思はれるのでありますが、現在日本
 - 第44巻 p.320 -ページ画像 
の全体が進歩した経済に対比して見て、道義方面が調和して居るか、之が問題であると思ひます。扨て又農・工・商の三民のする仕事が合理的に進んで行つて居るかどうか、之亦問題であらうと存じます。力の強い者が自分丈けよければよいとする、又力の弱い者は一致して之に反対すると云ふ様な有様ではありますまいか。私はどうしても経済は道徳と一致せねば、真に発達せぬと考へるのであります。道徳も亦経済に俟つのであります。空理空論では畢竟駄目であります。
 扨て世界はどうであるかと云ふに、大正三年から七年に渉る戦争の有様を見ますると明かに経済と道徳との不一致を表はして居ります。又本年の経済会議の様子を見ると、ハツキリしたことは解りませんが各国が兎角に自国の為めにのみ走つて居はせなかつたでせうか。更にゼネバの三国軍縮会議を見ても同じ様な有様ではありませんでしたでせうか。此等の事実は極く外景でも充分に察し得られると思はれるのであります。更に翻つて内地の有様も、道徳を無視する経済界の状態であります。殊に政治界になりますと甚しいやうであります。で経済界は政治界よりも勝つて居ると思ひますけれども、之で安心とは云はれません。皆様を経済方面の諸君と見て経済界で働かれると共に、更に進んで道徳と経済との一致の為めにお尽し下さるやうに願ひたいのであります。
 呉々も今日の名誉、私の名誉の為めではない、我国実業界の為めに喜びたいのであります。然し嬉しいのみかと云ふと喜びには相違ないが、他に感なき能はぬ次第もあります。「人生不満百、常懐千載憂」と云ふ言葉がありますが、古人我を欺かずと切に感じて居る次第であります。諸君の御厚意に深く感激して長々とお話を致しました。
 附記 筆記者不馴の為め、偉大なる青淵先生御説話の真髄を写す能はず。深く老先生に御詑び申し上げると共に、読者諸君の御宥恕を乞ふ。
   ○右ニ瓦斯局ノ技師ヲ「ベルヂン」トセルハ「ベレゲレン」ノ誤リナリ。
   ○中外商業新報昭和二年十一月十五日(第一四九九四号)ニ「渋沢子の銅像・昨日その除幕式」ト題スル記事アリ。


如水会々報 第四九号・第一〇―一二頁昭和二年一二月 本会創立記念晩餐会の記 昭和二年十一月十四日午後五時、於本会々館(DK440071k-0005)
第44巻 p.320-321 ページ画像

如水会々報 第四九号・第一〇―一二頁昭和二年一二月
    ◇本会創立記念晩餐会の記
      ――昭和二年十一月十四日午後五時、於本会々館――
 渋沢子爵寿像除幕式に引きつゞき晩餐会、老子爵も進んで御出席下さると云ふので、左の如き空前の出席多数の盛況であつた。
 来賓
 渋沢子爵閣下 寿像作家 堀進二殿
 社員
   ○社員氏名略ス、計百五十三名。
 デザートコースに入りて、江口理事長は「本夕皆様が斯く多数御集り下されて誠に喜ばしく存じます。此次には映画もある事ですから余りおしやべりは致さぬ事に致します。唯特に此処に渋沢子爵をお迎へすることを得たことは一同の喜びとする事である事を申し上げて置き
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ます。除幕式後に於て同子爵の御経験談と御教訓とを承つて、洵に意義深く感じ之亦一同と共に御礼申し上げる次第であります。……」と挨拶あり、子爵は更に感慨に堪へられぬ御様子にて立ち上られ
 「何等の喜び、何等の感激でありませうか。老人は殆んど感慨に堪へられません。諺に命長ければ恥多しとか申して居りますが、私は幸にして余り恥多しとも覚えませんが、少しく言葉を変へて、命長ければ涙多しと申し上げたい。思へば皆私より若い者がどんどん亡くなりました、そして此処でも見渡す処、皆様は皆私より年は下である。扨て私は今日之で三つ目の喜びに遇つて居ります。其一つは先般航空輸送会社の調査会が成立つて私にも仲間へは入れと云はれた、そして私を其会長に指命されました。之は議会の協賛を経れば成立になるのであります。私は其成績を挙げる迄は見られぬが、斯の如き意義ある企てに於て其会長にされたと云ふ事は愉快でなくて何でせうか。第二には国際聯盟会の会長をやつて居る関係でラヂオで放送致しました。将来の世界の平和の為めの事業に御尽しすると云ふ事は、たとひ只今の処其効果を奏すること微弱であるとしても当人として之程愉快な事はないと存じます。
 更に第三には本夕、如水会の会合に招待されましたことであります私の平生主張する道徳と経済とを合一させる其事の実現は如水会を措いてない、此事については切に諸君の御努力を冀ふ次第であります。私は自己には学識はないが、皆さんの御成長が楽しみであります。私は盃を挙げて如水会の発展を祝します。」とて元気一ぱいの声にて本会の万歳を唱へられ、総員期せずして感動裡に立ち上り万歳の声、屋を震動した。
  かくて映画の始まる頃、子爵は静に御帰邸遊ばされた。
○下略
   ○同寿像ハ東京商科大学図書館内ニ安置セラル。



〔参考〕斯文 第一〇編第一号・第六三頁 昭和三年一月 題老子爵青淵先生寿像 児玉蘇水忠善(DK440071k-0006)
第44巻 p.321 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。