デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
3款 神戸高等商業学校
■綱文

第44巻 p.407-410(DK440082k) ページ画像

大正11年10月25日(1922年)

是ヨリ先、大正八年以降当校ヲ大学課程ニ昇格セシメントスルノ運動有リ。十年、第四十五議会ニ
 - 第44巻 p.408 -ページ画像 
於テ当校昇格ニ関スル予算審議未了トナルヤ、関係者之ヲ憂慮シ、栄一ノ尽力ヲ請フタメ是月二十三日委員ヲ上京セシム。偶々栄一関西旅行ノ途上ニアリ、是日、当校創立十九年記念式ニ臨ミテ所見ヲ述ベ、帰来当局トノ間ヲ斡旋ス。


■資料

(神戸高等商業学校)学友会報 第一六二号 大正一一年一二月 予算に編入せらるゝまで十月三十日以後の商大問題(DK440082k-0001)
第44巻 p.408 ページ画像

(神戸高等商業学校)学友会報 第一六二号 大正一一年一二月
    予算に編入せらるゝまで十月三十日以後の商大問題
十月二十五日第十九回創立記念日である、母校興廃の問題を眼前に控えた今日の記念日、如何に厳粛なる緊張を示したことであらう。偶々来阪中であつた我国商業教育界の先覚者たる渋沢子爵は特に駕を枉げて記念式場に臨まれ、我国実業教育の発達につきて演説をせられた。同窓会は子爵を記念館に招じ、本部幹事、東京支部鈴木寛一氏等列席して母校の地位及び昇格の必要を述べてその御尽力を依頼したのであつた。
    上京委員日誌
十月二十三日、刀禰館氏、商大松原君と共に福田博士を訪問後、江口定条氏を訪問、渋沢子の件に付依頼する所ありしも、渋沢子は目下大阪にありとの報を得てその旨校長に打電、同日更に岩城氏及び中橋武一氏を訪ひ協議するところあり。
同 二十八日、渋沢子宛歎願書提出すべき旨神戸へ電報を発す。
同 三十日、委員久米川、渋沢子宛歎願書を携へて上京。
十一月一日、商大学生左の通り訪問す。
  政友会本部に於て岩崎幹事及び武藤総務、江口定条氏、水野内相 渋沢子爵。
    学生委員会日誌
二十五日、第十九回記念祭日
 ○上略 午前九時、歴史を称ふる鐘の音の下にいと厳粛なる記念祭日は行はれたり。席上渋沢子爵の講演あり。子爵は吾人が問題に対して充分なる理解を有せらる第一人者、御助力を賜はることを約さる。思へば本日は正に、吾人が商大問題運動史上意義最も大なるものとなすべし。此の日尚ほ研究所にて委員も引見せられたり。式後委員会。歎願書学生全部の署名、本日を以て終了す。一千〇三十二名なり、同窓会東京支部、鈴木寛一氏の話を聞く。
二十九日、午前八時より委員会。来電により渋沢子爵宛依頼歎願書作成(起草太田、浄書蔭山)午後八時七分委員久米川俊、如上歎願書持参上京。
○中略
同○一一月十日、正午報告学生大会開催、商神高く合唱し○中略 次で委員西村、渋沢子よりの来電を披露し、満場喝采裡に降壇「大〓」高唱閉会。
   ○創立記念式ニ於ケル演説筆記ヲ欠ク。


坂西由蔵談話筆記(DK440082k-0002)
第44巻 p.408-409 ページ画像

坂西由蔵談話筆記              (財団法人竜門社所蔵)
 - 第44巻 p.409 -ページ画像 
    神戸商大昇格問題と渋沢子爵の尽力
 始めに神戸商大昇格問題の経過の大要をお話しますと、具体的に昇格運動を始めたのは東京商大の出来る少し前、即ち大正八年末頃で、私達なども度々上京して当路に運動しましたが、その結果第四十五議会(大正十年から十一年へかけての議会)に東京高工及び神戸高商昇格の為の追加予算が提出されて、殆ど可決されやうとして審議未了となつてしまひました。従つてその後も運動を続け、翌年第四十六議会では無事に予算が通つて昇格の事にきまりました。その時の予算では大正十二・十三年両年に亘つて図書館の整備その他の準備を行ひ十三年からは兎に角大学になる筈でしたが、震災のためのびのびになつて実際に昇格したのは昭和四年です。
 渋沢子爵にお骨折り願つたのは、大正十一年に一度予算が握潰しになつて翌年可決される迄学生が可成動揺してゐた、その間の事です。第四十六議会開会の直前になると運動がいよいよ猛烈になつて、学生全部(長期欠席者を除く)の署名した文相宛歎願書も出来上るし、一部の学生は上京して文部・大蔵当局及び名士の間に運動し、一部は公開演説を行ひ、また神戸市役所、同商業会議所、及び神戸在住の名士を動かさうと試みました。この時の水島校長の態度は如何と云ふに、「政府当局の意嚮は既に決してゐる。故に学生は落付いて勉強すべしそのかはり各方面の有力者にお願ひして事件の好転を画るがよい」といふにあり、学生の文相宛歎願書も校長が預つて置き正式に提出はせず唯参考として文相の目に入れたやうな訳でした。従つて校長としては当然渋沢子爵には斡旋を願はなければならない立場にありました。あたかも好し、十月二十五日の開校記念日を前にして、上京委員から渋沢子爵が大阪に在る事を知らせて来ましたので、紀念式に御出席を請ひ、校長から斡旋をお願ひすると共に学生に対して一場の御演説を願ひました。校長は内々に「昇格運動は確に自分が引受けた、故に学生は安心して勉強すべし」と言つて戴くやうお願ひしたやうでした。また私としては商業教育に於ける大学の必要を説いて戴きたかつたのですが、子爵は「確かに引受けた」とは仰言らなかつたけれども、大体に於て、私達の希望する処を述べて下さつたやうに記憶して居ります。その後に別室で学生委員にいろいろの注意を与へられ、校長の為に揮毫されましたが、私はその席には居りませんでした。
御帰京後子爵が如何なる運動をして下さつたかは私は知りませんがいよいよ予算も通過して昇格の事が決した時には大層お喜び下さつてその年五月十三日の開校二十週年記念式(大正十二年から開校記念日を五月十三日に改めました。十月二十五日は開校式の日、五月十三日は実際に開校した日です。大正十二年五月十三日は開校二十年記念式と同時に昇格決定の祝賀を兼ねました)にはわざわざお使の方○土肥脩策に祝賀の手紙を托してお寄越しになりましたので、講堂で御朗読を願ひました。
 現神戸商業大学の標札は子爵の筆を銅に彫つたもので、当時一方に「商科大学」論者もありましたから、「神戸商科大学」の御揮毫も戴いて現に学校に保管して居ります。

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渋沢栄一書翰 水島鉄也宛(大正一一年)一一月六日(DK440082k-0003)
第44巻 p.410 ページ画像

渋沢栄一書翰 水島鉄也宛 (大正一一年)一一月六日 (水島直也氏所蔵)
拝啓益御清適奉賀候、然ハ過日貴地参上之節ハ種々御高配ニ預り、難有厚く御礼申上候、其節御依頼之貴校昇格問題ニ関してハ、其後追々電報又ハ学生委員之来訪等により時々御申聞有之候処、帰京以来非常ニ多忙ニ相暮候為め、各相とも御面会之機無之遷延罷在候処、本日漸く文相ニ面会致、事情詳細陳述致し、文相に於ても精々同情を以て心配可致旨申され候、引受けて実現可致とも不申、然りとて絶対に望なしと□□《(不明)》哉にも無之候、尚首相・蔵相にも至急御面会致度と存候、右ニ付てハ只今電報致置候間既ニ御了承被下候義と存候得共、書中得貴意度如此御坐候 敬具
  十一月六日
                     渋沢栄一
      水島鉄也様
   ○電文不詳。
   ○右書翰ハ代筆ヲ以テ発セラル。


竜門雑誌 第四一四号・第六三頁 大正一一年一一月 青淵先生関西旅行(DK440082k-0004)
第44巻 p.410 ページ画像

竜門雑誌 第四一四号・第六三頁 大正一一年一一月
○青淵先生関西旅行 青淵先生には故大隈侯記念事業後援会の要務を帯ひ十月廿三日午前九時三十分東京駅発列車にて大阪に赴かれ、次で神戸・京都・名古屋に立寄られたる上、廿八日午後七時二十分無事東京駅に帰着せられたり。