デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
6款 京華商業学校
■綱文

第44巻 p.426-432(DK440089k) ページ画像

大正2年2月2日(1913年)

是日栄一、当校父兄懇話会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK440089k-0001)
第44巻 p.426 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四五年          (渋沢子爵家所蔵)
三月二十四日 曇 軽寒
○上略 磯江潤・川田鉄弥二氏来リ、各其学校ノ関係ヲ談ス○下略


渋沢栄一 日記 大正二年(DK440089k-0002)
第44巻 p.426 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年 (渋沢子爵家所蔵)
一月二十七日 晴 寒
○上略 磯江潤氏ノ来訪ニ接ス、来月二日其学校ニ訪問ノ事ヲ約ス。○下略
   中略。
二月二日 晴 寒
○上略 午前十時京華商業学校ニ抵リ、父兄懇話会ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス、校長磯江氏ノ請求ニ応シタルナリ○下略


竜門雑誌 第二九九号・第一八―二六頁 大正二年四月 ○商業教育に就て 青淵先生(DK440089k-0003)
第44巻 p.426-432 ページ画像

竜門雑誌 第二九九号・第一八―二六頁 大正二年四月
    ○商業教育に就て
                      青淵先生
  本編は青淵先生が京華商業学校長の懇請に応じ、同校父兄懇話会に臨まれて演説せられたるものにて、三月十五日発行の同校々友会雑誌に掲載せるものなり(編者識)
 △勉強の習慣 此学校に出まして商業学校生徒の父兄の方々に御目に懸りますことは初めてゞございますが、唯今校長さんから御紹介を戴きました通り、私も商業教育に付ては聊か自身手に執りませぬけれども経歴上経験を有して居りまするで、幸に此懇話会に是非出て一言を申せと御嘱托を得ましたから玆に諸君と御目に懸る訳でございます私も教育の素養を有して居る訳でもございませず、御聞及びもございませうが年寄りましたから雑務を避けやうと思つて、数年前各会社事業は皆御免を蒙りましたけれども、従来の関係から致して全く除き切ります訳にも参りませず、まだ小さい銀行の世話を致し旁々以て斯く老衰致しましても相変らず多少働らかなければならぬのであります、併し今ちよつと校長さんが学生の勉強に付ての御話がありましたが、学生の方々が此処にお集りではありませぬが、父兄の皆さんに私が御話するは余分の言葉でございますけれども、どうも人に勉強と云ふ心を取除きましたら其人はいかないと同時に其国はいかないと、斯ふ云ふことになるだらうと私は厚く信じます、己れ自身が余り大した勉強と云ふ訳ではありませぬけれども、先づ勉強家の積りで斯く七十四歳になりますけれども、一日も病気でございませぬ以上は職務を怠ることは致しませぬのです、モウ皆さまがござれば必ず朝夕に拘らず御目に懸ることに極めて居ります、中には随分甚だ申すと勝手がましうございますけれども、先方の都合で下らぬことを申して来て長く暇を取
 - 第44巻 p.427 -ページ画像 
らせらるゝこともありますけれども、併し皆様が兎も角渋沢に相談致したいと云ふことで来たものに御断りするは宜くないと考へますから――今日は困ると云ふて謝絶することは屹度ないではありませぬけれども、必ず御目に懸る、朝七時に起きて来訪の方に御目に懸る、今日も十時の御約束が十五分ばかり遅れたのであります、今日はまだあとに二つ三つ用を控えて居ります、昨晩なども夜五時の約束がありましたが、ツイ人が来て其人が談話好きでしたから段々話をして居る中、六時過ぎて仕舞つてツイ約束を欠いたと云ふことを深く恐縮して居るやうな訳であります、左様に先づ努めて少々位風邪の気味で嚏が出てもそれを推して出ますと、好い心地になつて風邪もサツパリして仕舞ふやうになります、斯の如く老衰して、其通りでございますから、若い人は勉強を習慣とすれば必ず勉強をせざるを得ぬやうになる、怠惰を習慣とすると怠惰程強い癖を生ずるものはありません、座つて居れば膝が痛くなる、寝れば脊が痛くなると云ふ風で、何処まで行つても怠惰は尚ほこれ怠けを進めて来るのでありますから、人としてはどうしても良い習慣を作ると云ふことは必要と思ひます、御集りの皆さんも其習慣には必ず御慣れなすつてござるだらうが、大切なる子弟を学問に就かせる以上は、どうぞ学問と云ふばかりでなしに、平日の勉強と云ふことを養成するのは甚だ肝要であります、唯今校長さんの勉強に付て御注意ありたしとの御希望は、自分一身さへ左様にして居りますから、――何だか自分の勉強を此処に紹介するは可笑しいことでありますが、父兄の方々が学生の皆さんに十分に御注意ありたいと思ふのであります。
 勿論世の中には智恵が進まねばならず、又時を能く知らねばいかずそして其為すことを選むと云ふことは時の変化に於て必要であります故に時を知ることを選む、是と同時に学問が必要でありますから即ち智恵を進めることは最も必要である為に、此学問の備へが多くございますけれども、併し如何に其智恵が十分知り得て満足に智識を備へても、之を働かせない以上は其智恵は何たる効能がない、其働きは先づ勉強です、唯一日働いたからと言ふて安堵するものではありませぬ、何時までも殆ど身を終らんまで勉強してこそ満足するのであります、広く社会を見渡したならば、勉強心の強い国は必ず発展して居ります而して怠惰の国程国力も衰へ国の制度も人間の境遇も総てが皆下等に落ちて仕舞つて居る、近い例は隣国の支那を見ましても好い適例であります、故に学生の御方々は十分に勉強を為さることを是非御心掛けになりたいと思ひます。
 △学校と家庭 商業教育の追々今日に進んで参りましたことは私は深く喜びますが、前に申上げました通り、此教育に付て教育に従事致して居る方々に御注意申すとか、若くは其父兄の方々に御話する程の自身には素養のない人間ですから、此席に御披露申す程の材料をも持つて居りませぬ、況や前に申上げました通り、忙しく暮し居ります為めにまだ私も学校に出て居る子供等も持て居りますけれども、実は家庭の注意などは甚だ能くない、さうして始終自分が朝に晩に子供の修学上に付て心を用ゆることが行届きませぬ位であります、教育の注意
 - 第44巻 p.428 -ページ画像 
も心ならず家庭も今申すやうに出来ぬのでありますから、唯今校長さんの申します通りまだ私なども種々の点に付て注意することが甚だ必要であります、唯学問があつて立派な人間が出来ると云ふことは大問違である、若しそれのみに一方傾きますと云ふと、悪くするととんだ持て余しの人間が出来ると云ふことは現在に日本ばかりでない、他の国々にも頗る其例があるのであります、書物にも学問と云ふことに対して、既に論語にございます子路と云ふ人が、「有民人焉、有社稷焉何必読書、然後為学」友達もあれば社会もあり是が即ち学問である、本を読んだばかりが学問でない、孔子様がそれに対して至極尤もと腹の中では思つたが又其上に@者を戒めた言葉があります、是は甚だうまい言葉で私共も始終さう思うて居ります、今学校ばかりが如何に進歩しても家庭の学校が宜しくないと、此学生が一方に物を知つても一方に之を行ふことを知らぬと云ふ欠点を生ずる、或は其行ひ方を誤る故に完全な人間を造り出すことが出来ませぬから、其子供を学校に御出しになるならば学校と手を引き合ふて共に力を尽さなければならぬと云ふ点は、吾々子供を持つて学校へ出す方から言ふと、丁度御医者さんと病人との関係のやうなものであります、吾々が工合が悪かつたら、医者が直ぐ治して呉れる、其為に医者があるから吾々は衛生などは構はないでドシドシ身体を使つて悪くなつたら直ぐ医者に治して貰ふ、病気と云ふものは齲歯の痛いのにクレオソートを附けたやうに直ぐ治る訳のものでない、平日の衛生が能くなければ医者が病気を治すに於ても時もかゝれば入費もかゝる、それであるから平生の衛生が肝心だと云ふことであります、自分等の我儘で風を引いた嚏が出るそれを無理に推して出掛ける或は快くなつて仕舞つた、さう云ふ場合になれば衛生のことは余程むづかしい、それと同じやうに医者の方から言へば平日衛生を能くせねばいかぬと云ふ、当人の方から言へば医者がどうにかして呉れると云ふ、学校もそれと余程能く似たとこがあつて学校で注意を与へて直ぐに家に帰つて十分父兄が注意を用ゐることゝ相俟たなければ完全なる者が出来ないのであります、それが余程むづかしいことでありますから、校長さんが実は自分が甚だ行届きませぬが、諸君も成るべく御注意下さつて学校と家庭とが全く一致して相俟つて、学生の修学と並に平日の心掛とを連絡して進ましむるやうにありたいと深く希望致します。
 △商業教育の起原 で商業教育のことに付て一言御話を申上げて置きたいと思ひますが、元来日本の教育と云ふものが、そも初めは斯る実業的教育はなかつたのであります、先づ政治、教育或は法律、人を拵へる教師を造ると云ふことが御維新後の欧羅巴的教育の抑も初めであつて、商業とか農業とか云ふやうな教育に付ては其頃はまだ論ずる人はなかつたのであります、此間も東京の高等商業学校、是が抑も商業教育の一番の始祖と申して宜しいのでありますが、其中に付て当初から骨を折られた今故人になつたが矢野二郎と云ふ人がありまして、其頃の学生、今は立派な実業に名を成して居る人々もたんとありますが、同志が申合せて矢野の伝を島田三郎先生に書いて貰ふことになつて、それで私が一番関係が深かつたから其矢野の序文を書けと頼まれ
 - 第44巻 p.429 -ページ画像 
まして、昨年の押詰めに頻りにそれに屈托して居りましたが、まだ書物は出版されぬやうでございますが、其序文を書いたに付て商業教育の昔を思ひ返したことがございます、まだ近々に其原稿などを書いたので記憶して居りますから商業教育の起りを簡単に申上げて御参考に供さうと思ひます。
 前に申す通り、此御維新の政治は従来の東洋風でなしに、欧羅巴的政治を執つたのです、五条の御誓文も智識を世界に求むると仰せられてある、其点はどうしても教育でなければ修め得られぬから学校も段段発達して来たことは勿論である、併し其初めは今申す実業教育と云ふものには一向手が着かなかつた、大学と云ふものを設けられたのも工部省と言つたか文部省と云つたかさう云ふやうな役所も出来たけれども、実業教育と云ふものはなかつた、多くは政治教育、或は文学、時に薩摩の人で森有礼と云ふ御方が頻りに日本に実業教育を起さんならんと云ふことを亜米利加に居つて考へた、さうして自身の力で一つ商業教育を起したいと云ふて一人の教師を亜米利加から聘して日本へ越《ヨコ》した、自分も丁度亜米利加から帰つて来てさうして家塾に一つの商業教育を始めた、それは明治七年のことであります、所が森有礼氏が其教育を始めると間もなく支那の公使に任ぜられて役人になつて仕舞つた、それで其教育を継続することが出来ない、所が教師を亜米利加から傭うて来たに付て却々経費も掛りますから東京府に頼んで一部分の補助を請ふた、其補助をした縁故から前に申す支那の公使に行かれるに付て其学校を廃めるのは残念だと云ふて森氏が東京府に頼んで、どうか此学校を東京府で継続して欲しいと云ふことであつた、私共は其時分東京府の共有金を取締つて居つて其事に関係したのでありますが、そこで初めて其学校を東京府で持つが宜いか悪いかと云ふことを攻究して見た所が、成程亜米利加あたりでは商業とか工業とか云ふ、所謂実業教育の為に立派な学校を設けて居る、所が日本では其以前を申すと云ふと、立派な教育と云ふものは東京にありましたが、普通の教育と云ふものは俗に謂ふ寺小屋で、私共もそれの教育を受けて来たのであります、商売往来と云ふ小さな本を読んだり、それから数学では塵功記と云ふものがあつて、誠に単純な加減乗除を教へる位であります、其他に国尽とか庭訓往来とか、或は進んで先づ四書の初め位読めばそれで学問はお終ひと云ふ位であつたのです、ですから昔の商業に対しては殆ど教育と云うものはないと言つて宜い位であります、何処の国にどう云ふ物産があるとか、品物の運送はどう云ふ訳であるか売買はどう云ふ工合のものか、製造法はどう云ふものであるか、そんなものは知りたくも知り得る訳のものでないのであります、併し之に反して身を修めるとか心を修めるとか云ふ所謂道徳学問体のものは大変密であつたのであります、それから後段々欧羅巴的になつて多く法律とか政治とか文学とか、さう云ふやうなものだけが具備してさうして商売に対する教育が欠けて居る、それではいかぬと云ふて森氏が商業教育を始めたのであります、左様な理屈であつたから、是非東京府で引受けて学校をやつた方が宜からうと云ふので、私共が頻りに論じて初めて商業学校と云ふものを築地に造つた、それが日本商業教育の
 - 第44巻 p.430 -ページ画像 
抑も初めであります。
 △商業教育の変遷 然るに其間に生徒も来ず又世間もそんなものはまだ時期も早からうと譏る人もある位で、又当初の必要と唱へる者でも、一般の風習と学ぶ有様が密着して居らぬから、何だか従来の日本料理にたつた一品西洋料理を食べるやうで食べても味が分らぬと云ふ訳であつたのであります、之も前に申した矢野と云ふ人が最も必死に其教育に従事致しました、唯今校長さんが、当学校に於ても斯の如く父兄の御方々と相会ふて、どうぞ御気付があつたら十分言ふて下さいませ、又私の御注文も実行して貰ひたい、唯学校ばかりではいけませぬと云ふことは、誠に宜いことでございますが、前の矢野などもさう云ふことには随分力めた、私も深く矢野の丹精を多とする事であります、其時分の学校は他の学校に行くと相当の学問が出来ると好い位置に進むことが出来る、役人になり或は地方の役人に学問の出来た人は直ぐ採つて仕舞ふと云ふ時代でありましたから、政治とか法律とか文学とか云ふやうなものはズンズン売れる、それに反して商業教育の方はちよつと適応する場所がない、今幾ら良いナイフとホークがあつても日本料理へは使ひ途がない、又幾ら立派な皿があつても西洋料理でなければ効能がない、お刺身では格好が悪い、さう云ふやうな訳で亜米利加風の商業教育を与へた人は相当の捌口がないと云ふやうな有様でありました、故に矢野と云ふ人は独り学校で生徒を教育するのみならず、其使ふ会社銀行にまで立入つて、此人は斯う云ふ才のある人だから斯う云ふことに用ゆると効能があると云ふやうな訳で余程深く注意致しました、今日も此矢野に育てられて立派な人になつて居る者が沢山あります、所謂前に申上げました矢野二郎の伝と云ふものを書くのも其知合の人々が相集つて玆に伝記が出来るに付て其頃の関係を審かに知つて居るのは渋沢であつたから、是非渋沢が文学が長じて居る訳でもなし良い叙文も出来ないけれども是非之に序文を書いて貰ふが適当であらうと云ふので遂に私が其序文を書きましたが前に申す八・九年頃から十四・五年頃までの間の商業教育の苦心と云ふものは其通りであつたのであります、併し其当時左程必要がないから或部分からは疎んぜられたやうでありました、段々と東京府が経営して居つて明治十五年でありましたか東京府会がこんな学校は必要がないから廃したいと云ふ廃止案が出ました、其時にも吾々が大層苦しんで一度廃止の会議を取消して継続する、又翌年出た、余儀なく農商務省に引受けて貰つたそれで名が変つて今高等商業学校と云ふて一ツ橋にモウ立派の学校と相成つて千人以上の生徒が始終充ち満ちて居りますが、唯今は商業学校と云ふものが独り東京の高等商業学校ばかりでなしに高等商業学校は神戸にも出来て居ります、唯の商業学校は当学校のみならず、日本の中で数百校出来ましたのは、即ち商業教育が今日必要になつたことは明かになりましたが、僅かに三十年ばかりの其以前の初めは、今まだ初めであるから御集りの皆様に於ては其次第を御知りのない御若い方もありませうけれども、中には明治十五年の頃には斯うであると申上げましたら御記憶に存じて居るだらうと思ひますが、世の中の変遷と云ふものは実に意外なものであります、如此く時代を追つ
 - 第44巻 p.431 -ページ画像 
て左様に打つて変つた有様を見るのは此上もない喜ばしいことである商業教育が斯の如くに拡大されたのは実に御世の助けで、誰が宜かつたとか誰がどうだと云ふことは決して一人々々に御話致せるものではございませぬけれども、併し其間に特に注意し特に尽力する人がなければ其進むにも鈍いのであります、故に矢野氏が初めに尽力致しましたのを大いに多として一つの序文を書きました、商業教育の起りを玆に申上げて置きます。
 △教育の弊害 更にモウ一つ御話して置きたいことは教育に付てゞありますが御集りの人が商業教育を喜んで子弟をして其途に就かせると云ふ諸君でありますから申上げるまでもございませぬけれども、今日の教育は兎角に唯上に上にと進むことを尊重するやうな嫌があります、商業教育も進んで居りますが、他の教育も高めて参りました、此高めて行くと同時に一番最上級に進まねば何だか学問した甲斐がないと云ふ考へで、無理に高める弊害があるやうであります、教育は勿論必要であるが必ず利のある物には必ず弊のあるのは総てのものがさうでございます、教育も尚ほ然りで、前に申上げる通りに、一般の教育は俗に申す上走りになると云ふ教育弊害は、今日大いに注意しなければならぬと云ふことを私は深く心配して居ります、併し当学校の生徒は此商業教育に対して誠に其弊害に遠ざかるものである、強く言ふたら其弊害のないものであると云ふまで言ひ得るでありませう、殊に此生徒の成績を見ましても、通学歩合と云ふものが、卒業生の四百八十八人の総計から殆ど二百人近い百九十六人の人を玆に数へられると云ふことは即ち其弊害の少ないと云ふことが証拠立られるのであります元来教育と云ふものは其覚えたことを利用して己れの家業に働くと云ふことが必要である、例へば玆に学才の鋭い人が呉服屋の子息さんである、又魚屋の子息さんである、これが大先生になつた大学の教師になつてもこれは教育の主義として悪いことはない、田舎の百姓の子息があつて或は総理大臣になつても、職業は変つて来るけれども教育の働きであるから結構ではあるが、これを皆が望んで行つたならばどうなりますか、皆己れの家業を変更して他のことを望んで行つたならばそこはどうなるかと云ふことを考へねばなりませぬ、稀れに進んだ人がこれになるのは決して悪いことではありませぬ、私は血洗島と云ふ東京より二十里ばかり隔つて居る所の百姓の悴で、心得違ひで家を出て東京の商業家になつたのであります、私等は学問の為めではなしに御維新前の世の中に出られたのであつて、今言ふと甚だ御恥かしい訳でありますが、多くは教育と云ふものは己れの従来の業を変更させると云ふことが往々あるのであります、学問してこんな風に走つて行つたならば其弊害が必ず強い、現に英吉利の倫敦タイムスの記者で東洋に能く来るチロンと云ふ人が、印度の教育に付て頻りに論じて居つた印度人に向つて英吉利の余り高等教育を与へたのが弊害である、殊にベンゴール洲は大変に弊害があつて殆ど内乱を企てらるゝ培養をしたと云ふことを論じた、これは何だと云ふと此教育が進んで行つた暁はどうしても其家に安穏する訳にはいかない、これが優れた人であつて他に丁度適応する職業が求め得られゝば宜いが、皆適切の人ばかりで
 - 第44巻 p.432 -ページ画像 
ない、気が利いて居ると思へば嘘言を吐くことが上手になる、斯う云ふやうに必ず一長一短の弊がある者である、これを総て己れの職業を変更される政治の教育ばかりが盛んになつて行くと云ふものは、或点から言ふと余程の弊害を惹起す、さればと云ふて総てこれを廃させる訳には行きませぬ、或る優れた人が変つて来ると云ふことは宜いけれども、普通の人が従来の所定の業を進めると云ふことは教育の抑も基礎である、所が今の弊害から論ずると其基礎を崩すと云ふのであります、故に教育を今日の一般から論ずると余程注意しなければならぬのであります、或は教育の弊害と云ふことを学者が尚且皆論ずるやうに相成つたのであります、併し是は全般の教育に対して或る弊害を述べたので、此商業教育と云ふものに付ては殆どこれに遠ざかつて居る、否絶無と申しても宜いと思ひますから、殊更に商業教育、即ち此程度の商業教育に於ては甚だ私は喜びます、現在に其証拠は学んだ人の殆ど半数は自家の業に属する、われが紙屋をして居る紙屋がこれ以上の発展して遂には問屋に変ると云ふことは至つて宜しいが、われが紙屋であつてこれを変更すると云ふことは必ず前申上げるやうに弊害がある、即ち高等遊民が出来る、現に東京の職業紹介所と云ふものがありますが、是は養育院で組織して居りますけれども、昨年職業紹介所に於て紹介したのが五千人ばかりでございます、漸く三割ばかり職を与へましたが、其来た所の人は殆ど無学の人はない大抵一通りの学問をして居るのであります、中には中学校を終つた人が大分あつたが、其職がなければ必ず高等遊民になつて世の中に弊害を与へないと云ふ訳にはいかぬのであります、これは教育の仕方が悪いと言はなければならぬのであります、此商業教育の度合は私は甚だ其弊害の殆ど絶無にあると深く信じまする、諸君にも成るべく其学ばせる子弟をして其害のない、或はあるにしても余り大なる弊がない程度に於て応用をさすることに力めなさる、これが一番安全の方法と思ひます。
 商業教育の日本に如何なる理由から始つた、どう云ふ風に進んで参つたと云ふ経歴と、此教育に関する私の殆ど懸念して居りまする点と此教育に於て甚だ弊害のない安全と云ふ点を此場合に於て皆さんの御聴きに入れたいと思つて、玆に一言を費した訳であります。(拍手)


東京日日新聞 第一三〇〇七号 大正二年二月四日 △渋沢男爵の熱涙(DK440089k-0004)
第44巻 p.432 ページ画像

東京日日新聞 第一三〇〇七号 大正二年二月四日
△渋沢男爵の熱涙 渋沢男爵は一昨日京華商業学校の保証人会に臨んで「……子弟の教育を完全ならしめるのには学校よりも其の家庭にまつことが多い、子弟の堕落は其の責め家庭の善悪にある」と説き至つた