デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
7款 大倉高等商業学校
■綱文

第44巻 p.441-444(DK440092k) ページ画像

大正9年10月24日(1920年)

是日栄一、当校開校満二十周年記念祝賀会ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正九年(DK440092k-0001)
第44巻 p.441 ページ画像

集会日時通知表 大正九年         (渋沢子爵家所蔵)
十月二十四日 日 午前九時半 大倉商業学校満二十周年記念祝賀会
               (同校)


竜門雑誌 第三九〇号・第六二頁 大正九年一一月 ○大倉高等商業学校満二十周年記念祝賀会(DK440092k-0002)
第44巻 p.441-442 ページ画像

竜門雑誌 第三九〇号・第六二頁 大正九年一一月
○大倉高等商業学校満二十周年記念祝賀会 大倉高等商業学校にては十月二十
 - 第44巻 p.442 -ページ画像 
四日午前九時半より同校舎に於て開校満二十年記念祝賀会を挙行し、子爵石黒理事の式辞、勤続職員の表彰に次ぎ、創立以来理事として多大の功績ある石黒子爵の寿像除幕式を挙げ、中橋文相(代理)、山崎局長の祝辞、鶴見商務局長・青淵先生の祝辞演説等ありて最後に大倉男爵の訓話あり、尚ほ式後立食の饗応ありて一同歓談の裡に散会せる由なるが、当日は来賓・卒業生及び在校生等二千余名に達し頗る盛会なりしと云ふ。


大倉高等商業学校同窓会会報 (記念式報告書) 第一七―一九頁 大正一〇年二月刊 【訓話】(DK440092k-0003)
第44巻 p.442-443 ページ画像

大倉高等商業学校同窓会会報 (記念式報告書) 第一七―一九頁 大正一〇年二月刊
    訓話
閣下並に諸君、私は此目出度い御席に一言を申し述べる機会を得ましたことを深く光栄と致します。老齢に加へて少し風邪気で声が出ませぬから長いお話は御免を蒙ります。実に喜ばしい今日で懐旧の情に堪えませんから、此感想を短く一言致し度いと思ひます。
石黒子爵から本校の起源からして今日に到達したことを簡明に御説き下さいました。私も其当時を思ひ起しますれば、即ち子爵の義気に鼓舞され大倉男爵の御委嘱に応じて御相談相手に参加した一人である。故に此学校の創立には殊更深き喜びを有つて其事を賛成し未来を祝福したのであります。而して二十年の歳月は学生諸君などには一才の幼児が二十才の青年となるから大層な変化とお思ひなさるけれども、大倉男爵や私などには僅に全生涯の四分の一にも充たぬのであります。真に昨日と今日との小移転としか感じませんが、併し只今鶴見君の御演説に依りますと或品物には十倍二十倍殊に甚しきは手形交換高に付ては百倍の増加を為したと云ふ。縦令諸物価が騰貴したと言つても百倍に進んだと言ふことは二十年の歳月決して少からぬ変化と言ふても差支ない。只老人の吾々には二十年をさう長いとは思ひません。けれども事実は斯く変遷して居りますから、学生諸君の将来とて何時までも青年では居られぬ。諸君一同八十になるとは申されますまい。けれども追々年を取るといふことは遁れられぬのであります。是を以て人は努めて歳月を空しくせぬやうに心掛けるのが肝要である。此二十年の既往を顧みて将来の二十年若しくは三十年五十年を予想しなければならぬのでござゐます。私は学者又は教育家ではありませぬが、商業教育の必要を明治の初めから唱へた一人であつて、本学校の協議員なるのみならず、先頃商科大学と昇格した東京高等商業学校に対して種種希望又は微力を致したのであるが、元来日本商業は所謂天秤棒一本で進んだのだから、教育としては朝飯前の稽古で済んだ。今日行くと翌日は卒業するやうなものであつた。修行と云ふものは殆んどない。只其間実際に付て多少の訓練はあつたが、それとても学問的でなくて全く実地の練習で日本の商業は経営し来つたのであるけれども、追々と事物が進歩拡張して実地の練習ばかりではいかぬから玆に相当の課程ある教育が要る。即ち商業教育の起る所以であつた。左様に商業教育が必要になつたと言ふても初めの内は教へる人、教はる人の一致を欠いたり、齟齬を生じたりして充分にいかない。故に学理と実際と云ふものが時々衝突して、程宜い権衡を得て進むと云ふことが出来なか
 - 第44巻 p.443 -ページ画像 
つたのである。明治二十二年に今の商科大学が東京高等商業となつた頃も此憾は多かつたのであります。夫れより十年余を経て此の大倉商業学校が創立せられたが、此学校は其点に於ては恰好の都合を得て、学理と実際を並行せしむるに適当なる仕組であつた。殊に創立者たる大倉男爵は実際家から成功された御人であり、統轄される石黒子爵は実業家でないがよく此辺の消息を御了解なさつて居らるゝ。而して校長及教授諸君も十分に此処に注意して所謂学理実際が全然適合したやうに思ひます。二十年の歳月を経て各方面に進歩した我国商業の一部分は、即ち此大倉商業学校から立身せられた人々の力に依つたと云ふことは私は溢美の辞ではなからうと思ひます。二十年間に二千六百人の卒業者を出し、現在の学生も千六百人を計上するといふことは実に異数の発展である。而して学校の位地も高等商業学校に昇格したといふは誠に喜ばしいことでござゐます。さればもう皆学校は満足である此の上の希望はないかと申しますと、私はどうしても更に一層大なる望みを申上げ度いのであります。それは何であるかならば、商業家の経営が生産殖利と仁義道徳と適合するやうにしたいのであります。学理と実際が密着する如くに殖利的事業と道徳と云ふても宜しい、道理と云ふても宜しい、道義と云つても宜しい、其唱へは何れにしても単に自己の利益一身の都合のみに執着せず、道徳の観念を基礎として欲しいのであります。先刻鶴見君から或る外国の領事の報告が甚だ心苦しいと言はれましたが、是れは決して或領事ばかりでなく、他にもさういふ説をなす人は多くござゐませう。此点に就いて私は唯日本の実業界のみを責むるのでないが、少くとも完全の教育を受けたる我が実業家は、其の事業経営上単に自己の都合其事の成功のことでなく、克く国家の利害と道理の適否とを考量して従事せられたいのである。果して其の事が学理と実際と密着する如くに道理とも適合して進むやうになつたならば、某外国人の批評は自然と消滅するであらうと思ひます。私は唯事業に就てのみならず一生の精神に就て希望を申上げて学生諸君の将来の御注意を願ふのであります。
尚ほ申述べたいことは数々ござゐますけれども、前に申しました如く何分声が出ませぬから、簡単に精神のある所を一言して今日の祝辞と致します。
   ○右ハ大正九年十月二十四日当校記念祝賀会ニ於ケル栄一ノ祝辞ナリ。


大倉高等商業学校三十年史 葵友会編 第一〇四―一〇五頁 昭和五年一〇月刊(DK440092k-0004)
第44巻 p.443-444 ページ画像

大倉高等商業学校三十年史 葵友会編 第一〇四―一〇五頁 昭和五年一〇月刊
 ○第四期 高商時代(初期)
    二 創立二十周年を迎ふ
 高商に昇格した大正九年の十月、創立二十周年を迎ふることゝなつた。創立十周年迄の揺籃時代から後十年間、年一年努力の堆積は粒々辛苦の跡を見せて、甲種商業発展時代の発展を見せて堂々と進んで来た。そして今この喜びに充ち溢れる二十周年の記念日を迎へる一足先に我が「大倉商業」は「大倉高等商業」と改称して、時代の要求に即した専門の教育を始める様になつたのだ。○中略
      記念祝賀式挙行
 - 第44巻 p.444 -ページ画像 
 十月二十四日記念祝賀式は華々しく挙行された。○中略
 文部大臣の祝辞終つて農商務省鶴見商務局長の訓話、協議員渋沢子爵の訓話、大倉喜八郎男爵の訓話あり○下略