デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
8款 工手学校
■綱文

第44巻 p.451-455(DK440096k) ページ画像

昭和4年7月14日(1929年)

是日、当校第八十回卒業式挙行セラル。栄一之ニ臨ミ、生徒ニ対シ訓話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 昭和四年(DK440096k-0001)
第44巻 p.451 ページ画像

集会日時通知表 昭和四年        (渋沢子爵家所蔵)
七月十四日 日 午后二時 工学院卒業式(同院)


工学院卒業式演説 昭和四年(DK440096k-0002)
第44巻 p.451-454 ページ画像

工学院卒業式演説 昭和四年       (渋沢子爵家所蔵)
    来賓演説
                  子爵 渋沢栄一君
 申上げることは殆ど何もありませぬ、唯お目出たうの一言で私は済むと思ひます、併し高松先生から御案内を戴いて今日罷出でたのは、同君とのお交はりが甚だ深かつたことを一言諸君に申上げたいと思ふ為に此処に立つたのであります、どうも卒業式に少し相応しからぬ懐旧談を申すやうに相成りますが其辺は御諒承を顧ひます、且つ歯を抜いてしまひました為に所謂はなしになつたので其歯無しになつた為に話が甚だしにくいので、どうも申上げることが漏れますから良くお分りがなからうかと虞れますが、歯のない儘で愚見を陳情いたします。
 実は私は工手学校に付てはずつと昔、古市君から伺つたやうに思ひますが、其時分に特に質問もしたのですが、工科大学と云ふものがあつて、十分な教育をするのではないか、それに又さう云ふやうなものが要るか、甚だ無学な者の問で、諸君からお聞きになつたならば困るものだと思召すであらうがそれ位に思つた、古市君答へて云ふに、それは一応さう云ふ考を有つであらうけれども、どうも唯ずつと普通の学問ばかりでは、日本の工業を事実から進んで行くと云ふことは余程覚束ない、どうしても職工を指揮する中間に立つ即ち相当な熟練を有ち相当な頭のある者がなければ日本の工業を進めることはむづかしい故に工手学校なるものが甚だ必要である、大学に工科があるからそれで工手学校が要らぬと云ふ考は間違であると云ふやうな御説明のやうに承知いたしました、学問に迂い私はそれ以上其事に付て十分な研究は致しませぬが、本校が段々進んで行くと云ふことは内□に承つて、如何にも其御説明が実地をなして居ることを伺つて、其進歩を喜んで居りましたのでありますが、今日初めて実地を拝見しまして、本校が斯の如く立派に進み、且つ設備の整頓して居る所、又学生諸君の実に勇気凛々と多数のお方が卒業なさるのみならず、尚ほ此処に励んでござる有難味は本当にある、是ある哉と斯の如く知つた、更に一方考へて見ると斯る素養があればこそ、日本の工業が追々に進歩して来るのだと思ひました、学校の働、又学生のお骨折を初めて良く知つたやう
 - 第44巻 p.452 -ページ画像 
な訳で、寧ろ私は今日斯く実地を拝見しましたことは、洵に悪く申せば座頭が初めて目が明いたやうな訳でございます、実に喜ばしく思ひます、決して卒業式に唯一言のお世辞を申すのではございませぬ、工手学校と云ふものに付ての聞込が甚だ疎略であつた、其疎略であつたのが今日事実に付て拝見して、はゝあ斯うであつたか、成る程総ての進歩は皆原素があるのだと云ふやうなことまで考へ及ぼすやうに思はれます。
 校長閣下の先刻来の段々御懇切なる諸君に対する御教示、又唯今田中先生の、私共のお聞き申すと良く分り兼ねる、多少学術に絡んだお話でございますけれども、各種の発明の模様などを我が国若くは他国に於ての有様を学問的なお話で、私共には少し十分に理解し能ひませぬが、併しあゝ成る程さうであらうかと云ふことは頷き得るやうでございます、私は本年丁度九十になります、実にまあ老衰の極でございます、而して天保十一年と云ふ年号に生れたので、諸君などはちよつとお考に乗らぬ昔者でございます、まあ年を以て誇れば誇れる、此席に私より上の人は一人も居らない、是だけは保証するが、其他のことは一つも優れたことはありませぬ、それ故に世の変化だけには諸君よりは多く遭遇して居ります、斯くも変化したかと云ふことに付てのお話をして、或る事柄に付て実地に触れましたことをお話すると、あゝそんなこともあつたか、是は大いに心せねばならぬと云ふことにあるかも知れぬと思ふ、唯其一・二を申上げて、而も其事は私が管理長の高松君との関係が最も大である故に、本席には余り有効なお話ではございませぬけれども、昔はそんな有様であつたと云ふことも、多少は諸君の御参考にならうかと思つて、或る人の名前を出すかも知れませぬが、決して誹謗的に申す積りではないのでございますので、一言お聴取を願ひたうございます。
 今日頻りに新聞で喋々して居ります東京の瓦斯会社、此瓦斯会社の初が多分明治四年であつた、三岡八郎、後に由利公正と云ふ人、此人が東京府知事をして居ります時分に欧羅巴を歴遊して、吉原に火事が多くて困る、それで火事のない灯りが欲しいと云ふので瓦斯の機械を買つて来たのが、東京に瓦斯会社の起る因でございました、是等のことはもう学生諸君がお知りなさらぬ所ではない、先生方、私の前にござる方も皆子供であつたか、又は生れなかつた位で、御存知あるまいそこで買つて来た瓦斯の機械をどうすることも出来ない、然るに私は偶然にも明治五年に養育院と云ふものを組織した、それと共に共有金と云ふものの取締を時の府知事大久保一翁と云ふ人から言付かつた、それで其共有金を使つて金融する仕事に関係するやうな場合に相成つたのでございます、それから今商科大学に相成りましたが、元は商法講習所と申しました、後に高等商業学校となりました、其事に付て御心配なすつた方々も此席に沢山居らつしやいますが、是等の金が今の共有金から多く出資されたのであります、此共有金の起りは安永・寛政・文化辺りに松平越中守、楽翁公と云ふ人が心配して作つた金でございました、而して其時分にはまだ市がございませぬで、東京府でしたが、東京府から私が其共有金関係の仕事の世話を命ぜられて取扱ひ
 - 第44巻 p.453 -ページ画像 
ました、それで其時分に瓦斯の機械を買つて来たものであるから、何れかに装置せぬならぬと云ふので色々考究した、それで東京に瓦斯事業を起したら宜からうと云ふことになつたのであります、それで其時買つて来た機械は日本橋と京橋だけを満足させる位のものなので、も少し分量がなければならぬと云ふので買足し、又管もなければならぬと云ふので、色々買つた、扨て愈々出来上つたものをどうするかと云ふと、瓦斯製造の然るべき人がなければならぬ、所が当時横浜に瓦斯局と云ふものが出来た、是は外国人が迫つて外国人の金が多く這入つて出来たので、瓦斯の製造の技師としてペルキルン《(ペレゲレン)》と云ふ人が来て居た、東京府でもそれに委託したら宜からうと云ふので、遂に此ペルキルンに瓦斯製造を委託した、さうなると色々なことが同氏の提案に依らなければならない、扨て愈々始めて見ると是から先き如何にしたものかと云ふので、遂に其方法に付て今日の管理長の高松君に色々私はお願を申しまして御相談したのであります、どうしてもいつまでも西洋人にばかり頼んで置く訳にはいかぬ、日本人で誰かやらないかと云ふことで段々話して見ますと、或る大学出身の名も憶えて居ります、水戸の人で所谷英敏と云ふ人、此方は今存命しませぬから名前を云つても差支へないと思ひますが、其人を高松君がお見出し下さつて話をされた所宜しい、私がペルキルンの弟子になつて一つやつて見ようと云ふことになりました、相当待遇法なども約束出来た、之で自分も一安心と思つた所、翌朝になると所谷英敏先生やつて参りまして、一旦約束したがお断りすると大分不機嫌な挨拶だ、何故そんなことを云ふかと段々質問して見ますと、同君の曰く、どうもお前の話を聞くと後に民業になるやうに承知するがさうではないか、勿論私は其当時も計算が立つやうに進んで行つたならば会社組織にして民業で経営するが宜い、東京市の如き公共団体で斯う云ふものをやるのは宜くないと思ふ、私は営利事業は民業が宜いと思ふ方の主義ですから、頻りに其事を申しました、それだに依つて今お断りに来たのだ、それはどう云ふ訳か、斯う聞きますと所谷英敏君曰く、どうも民業に従事して居ては迚も名誉と云ふものは得られぬ、私が笈を負うて江戸に来て学問をすると云ふのは一身の栄誉を計る為である、名誉を得たい目的の為です名誉の望ない仕事では学んだ学問の効能はない、うつかりお前に云はれて引受けたが、それは考へ違だから断る、斯う云ふ謝絶の仕方であつたのであります、私自身実にびつくりしました、さう云ふ私は明治六年に大蔵省の役人を止めて居たので、私に向つて面当に云ふやうな話でありますので、私もむつとしました、実に余りに社会を知らな過ぎると自分はびつくりした位であります、決して私は誇張して申すのではございませぬ、高松博士も必ず御記憶になるだらうと思ひます、早速高松さんに斯う云ふ次第であるがと申上げた所、そこまでは眼が届かなかつた、意外な話だ、一つ巧く行くかどうか分らぬが説得して見ようと云ふ、其時大学の総理が加藤弘之さんであつたと覚えて居りますが、加藤さんに一体あなた方の教育の仕方が余りに民業をひどく賤しいやうなものにお考へなさる、それだから斯う云ふ有様になるのだ、私の考は皆それと反対である、さう云ふことでは情ない人間のみ
 - 第44巻 p.454 -ページ画像 
が出て来るやうなことになつてしまふ、実に情ないことであると頻りに苦情を申上げました、高松博士にも同じく其時に申上げたと思ひます、是は高松君も能く御記憶であらうと思ひます。
 そこで段々お話しました末に更に考直して、それではと従事するやうになりましたが、不幸にして此の所谷君は直きに病で斃れてしまひました、此事は唯一場の談話でありますけれども、併し大分古いお話で明治十三・四年頃でございますが明治十三・四年頃には今申上げた東京の商科大学が殆ど倒れむとするやうな有様、所谷英敏と云ふ人が瓦斯が民業に移るなら、そんな所に我々は居るものかと云ふ考を有つて渋沢に拒絶を申込んで来たと云ふやうな世の中が、それ程昔ではないのであります、明治十四・五年であつたと云ふことを想起すと云ふと日本の事情、日本の思想が良く今日までになつたと思ひます、其時分失礼な申分ですが、築地の工手学校と云へば学校中の申さば或は下級に居つた学校が、今日の如き盛大なものになり、且つ堅実なものになつて、先刻来校長の段々お話の如き又田中先生の叮嚀にお述べ下すつた事柄などを伺ふと、実に心行くやうに考へられまして、私能く分らぬながら嬉れしく思ひます、嬉れしく思ふと同時に、又五十年経たぬ以前は斯る有様であつたと云ふことを回想しますと、丁度今日管理長の高松君から御案内を受けて私が此処で一言の祝辞を申上げるのに祝辞には相応しからぬことですけれども、併し此世の中が斯くなつたと云ふことは即ち生れた子供が大きくなつて、大変力も強くなつた、学問も出来るやうになつたと云ふのと同じやうな訳になります、決して是は祝辞にならぬとは私は思はない、併し諸君に唯それだけで祝辞を呈し心地を良くすると云ふばかりでは私は置きたくないと思ふ、未来があります、此未来の日本の有様はどうなるか、私は殆ど直きに地に入らむとする身体の内に心配に思ひますことは、政治界・実業界の有様が、人間の最も守るべき所の道徳とどうも始終背馳を致します、現に政治界の道徳背馳は洵に聞くを厭ふことが多いではありませぬか実業界にも決してそれがないとも云へますまい、併し日本の未来を考へれば、如何に学問が進んでも、如何に政治は全くても、道義に基いたことに進んで行かなければ、決して完全を産出すことは出来ないと私は思ふのであります、斯く考へますと、今日卒業なすつた皆様の御覚悟が、どうしても此経済界、殊に工業界が道義に基いて、所謂道徳を基礎とした進歩をお計り下さると云ふことが、最も必要であると思ふのであります、甚だどうも今日の祝辞としては少し不似合でありますが、高松君から御案内を得た為に、殊に工手学校と云ふ名を明治十四・五年頃伺つた記憶を其儘につい甚だ失礼なことにも立入つて申上げましたが、事実は斯うであつた、未来は斯うありたいと思ふ為に、将来長く今日卒業された諸君に対して私嘱望を致しますので、玆に粗雑な一言を申述べた次第であります。


(工学院) 書翰 渋沢栄一宛 昭和四年九月一四日(DK440096k-0003)
第44巻 p.454-455 ページ画像

(工学院) 書翰 渋沢栄一宛 昭和四年九月一四日 (渋沢子爵家所蔵)
粛啓
時下益々御清穆奉欣賀候
 - 第44巻 p.455 -ページ画像 
陳者去七月十四日本校第八十回卒業証書授与式当日は炎暑にも拘らす御賁臨の栄を得、且卒業生に対し御懇篤なる御訓諭を賜はり、本校の光栄之に過きす候
就ては記念として銀杯一箇贈呈仕候間何卒御受納被成下度、玆に謹而奉深謝候 敬具
  昭和四年九月十四日
                      工学院
  子爵 渋沢栄一殿