デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.604-606(DK440158k) ページ画像

大正7年3月30日(1918年)

是日栄一、当校第十五回卒業式ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK440158k-0001)
第44巻 p.604 ページ画像

集会日時通知表 大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
三月廿五日 月 午前九時 成瀬仁蔵氏来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
三月三十日 土 午後二時 女子大学卒業式(同校)


竜門雑誌 第三五九号・第七四頁大正七年四月 日本女子大学卒業式(DK440158k-0002)
第44巻 p.604 ページ画像

竜門雑誌 第三五九号・第七四頁大正七年四月
○日本女子大学卒業式 日本女子大学にては三月三十日卒業式を挙行したるが、右証書授与式終了後、成瀬校長の意志活動主義に関する告別の辞、青淵先生の慈味あふるゝ祝辞、大隈侯の愛に関する演説等あり、之に対し生徒総代の答辞等ありて、散会せるは黄昏に近かりきと云ふ。


家庭週報 第四六一号大正七年四月五日 求むるに成らずして努むるに成る 男爵 渋沢栄一(DK440158k-0003)
第44巻 p.604-606 ページ画像

家庭週報 第四六一号大正七年四月五日
    求むるに成らずして努むるに成る
                   男爵 渋沢栄一
 私は本日此校の卒業証書授与式に参堂した事を非常の光栄に存じます。第一皆さんと共に喜ぶべき事は成瀬校長が先般来大患に罹られ、しかも一時よほど重患を伝へられまして私共も皆さんと一緒に大に心配いたしましたが、幸ひにして――勿論天祐を与へらるべき当然なお人であるが――吾々の祈る心も天に通つたものか、校長は今日病気恢復されて此の卒業式に列せられ、先程も熱心な御訓辞を諸子に与へられたことは、今日卒業の諸君は勿論であるが、先づこれを御与へになるお方を御祝し申すといふ事も亦皆さんを祝する意に於て一向差障りのないことであらうと思ひます。
 丁度今校長は三種類の学風に就て述べられたが、朱子の論語の序にもその論語の読み方を三種類に分つて書いてある。即ち読み終つて何にもならぬ人、二はその一部を読んで楽しむ人、三はその全部をよく読みこなして手の舞ひ足の踏む所を知らない人とあると。
 二千五百年以前の支那の学問の仕方にも此三種類があつたのであり
 - 第44巻 p.605 -ページ画像 
ます、只今校長の憂へられた第一種の点に就ては私も同感でありますが、それは婦人のみではない、より以上に男子にあることも亦否定することの出来ぬ事実であります。今日の学問の風は我が日本の固有のものではない。先づ其の知育に重きを置くといふ事は欧米の風から這入つて来たもののやうに思ひますが、これはともすると精神の修養といふ事を伴はぬ事があります。恰も富を欲するといふことは悪い事ではないが、一歩間違ふと自分の富をさきにして仁義道徳を忘れ、所謂奪はずんば飽かずといふやうな人間になることがあるやうに、知識を詰め込むことにこれ汲々として遂に学を衒ふやうになつて来る。斯かる知育は同時に精神修養を怠るといふ場合が益々増長して来はしないかといふことの憂を持つのであります。教育に縁遠い私がかく申すは誠に僭越な事を申すやうでありますが、曩にも申しましたやうに成瀬校長の御意見に同感を持ち、且つその逞しい御精神、著しい御勉強に感激して私もその驥尾に尾いて些かその御事業をお助け申したいといふ微意に外ならぬのであります。学校といへども一方に直接教育の任に当る事の大切であると同時に、その俗事の方も亦大切なる一部であります。私はその俗事部担当に任じて居るわけでありますが、この意味から申すと徳川家康が天下をなしたのは一方に酒井・榊原の如き勇将があつて外に戦ふと共に本多ほどの如き内政をとる人があつたからであります、この学校でも教ふる責任も大切であるが、学校を存立させるにつとめるものがなくてはならぬ。私は成瀬校長又は皆さんに対して一遍の義理づくではなく、我が国のためどうかよい学風を造り、精神的に善良な良妻賢母が我が帝国に出るやうにと、その自らの嘱望から成瀬校長を御扶けしてゐるわけである事を皆さんにも御諒察願つて置きたいのであります。これから社会に出る皆さんは余程注意なさらねばなりません。とかく新しいものが社会に出ると、好ければよいが、悪いとなると非常な非難を受けるのであります。私が実業界に身を委ねた時には事実商人ではあるが、其時代からいへば所謂洋服的商人で、時の社会からは随分嫌はれたものであります。伝馬町の堀留の前掛がけの旦那様に比べるとこれでも先づ学者の方であつた。同時に横柄であると見られて居つた事も事実で、余り歓迎してくれない、何事につけてもそれでなかなか一致が出来ず、ために随分衝突もしましたが、併し段段其の方が理解されて今日では余り攻撃を受けなくなつた、それには四十年を要しました。皆さんが社会に出るといふ事は多少の違ひはあるが稍これと同であります。だんだんこの学校も二千人近くの卒業生を出し社会からも非常に認められて来てゐるから、初期の人に比べたら大分皆さんは都合がよいわけであるが、それだけにはまた責任も重い、吾々は皆さんに望みを嘱する事が多い。といふ事を忘れて戴きたくないのであります。先達而某学校の卒業式に外国から帰つた人の話に女権拡張問題を例にひいて、物事は求むるにならず努むるになるといふ事を云つて居られたが、事実その通りで、易にも満つれば損をまねき謙れば益をうくといふことがあります。誠に適切な言葉と思ひますが、今日卒業の皆さんはさういふ心懸けを以て社会に出られたならば求めずとも尊敬もうけ、意見も通るやうになる時があ
 - 第44巻 p.606 -ページ画像 
つて結局物事を成就する事が出来ると思ひます。