デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.619-621(DK440164k) ページ画像

大正8年6月18日(1919年)

是日栄一、当校ニ於テ前校長故成瀬仁蔵ニ関スル所感ヲ学生一同ニ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正八年(DK440164k-0001)
第44巻 p.619 ページ画像

渋沢栄一日記 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
六月十八日 晴 暑
○上略
午後三時女子大学ニ抵リ故校長逝去ニ付テノ所感ヲ学生一同ヘ演説ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK440164k-0002)
第44巻 p.619 ページ画像

集会日時通知表 大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月十八日 水 午后三時 女子大学ヘ御出向


成瀬先生伝 桜楓会編 第五六二―五六六頁昭和三年四月刊 【○第五編 二 先生に関する諸家の感想 創業当時の成瀬校長を憶ふ 子爵 渋沢栄一氏】(DK440164k-0003)
第44巻 p.619-621 ページ画像

成瀬先生伝 桜楓会編 第五六二―五六六頁昭和三年四月刊
 ○第五編 二 先生に関する諸家の感想
    創業当時の成瀬校長を憶ふ
                  子爵 渋沢栄一氏
 一月二十九日に故成瀬校長が皆様に向つて、病気をおして、殆んど告別の意味を含めた悲壮の演説をなすつた時に、私共もその席に参列して、大隈侯と共に、校長の本大学に望む大精神を吾々は充分に実現させ申すとお誓ひした。其の時の私は決して斯様に早く校長が故人となられやうとは、思ひもかけない事であつた。追々に日もたつて憂ひ悲しみが皆さんから減ずる場合に、玆に出て追悼の一言を述べるといふ事は、新に皆さんを憂愁に沈ませる様なものだが、私は不幸にして校長逝去の当時大患に罹つて、私も或は皆さんから追悼をうけねばならないかと思つた位で、せめて意識のあるうちに種々申し残して置きたいと思つたのであるが、医師がまづ大丈夫だらうといふし、殊に肺炎は安静にせねば熱が高まるといふやうな事から其忠告に従ひ、専ら静養につとめてゐた。そのため成瀬校長の葬式や追悼会に出られなか
 - 第44巻 p.620 -ページ画像 
つた事は誠に残念であつたが、其の後病気も恢復したから、ぜひ皆さんにお目にかゝつて見たいと思つてゐた矢さき、学校からも切にとのお勧めであつたので、今日玆に出たわけである。
 私が成瀬校長と交りを結ぶ様になつたのは確か明治廿九年だと思ふ土倉庄三郎氏や広岡夫人等が専ら相談相手となつて、大阪で種々尽力されてゐた頃、或る人の紹介で私は始めて成瀬先生に御目に罹つた。其の時に先生は其の希望を熱心にのべられた。それは今日の日本は女子の教育が甚だ微々として振はぬのみならず、主義がない。これは実に国家にとつて由々しき事である。故に自分は女子教育を以て貫徹したいといふのであつた。それが因となつて私は敢て教育には経験がないが、是非御手助けをしよう、及ばず乍ら自己の意見も述べようと申す様なわけになつて、爾来御力添へをするやうになつた。併し始めは女子大学といふ事に大分懸念を持つてゐた。其の頃私は虎の門の女学館に関係してゐた。これは明治十八年に政治上の大改革が行はれた其の時に設立されたもので、其の教育法は凡て欧洲式であつた。其の時の総理大臣は伊藤侯爵で、此の頃の一般の機運としては、まだ婦人に対する教育は余り気が付いて居らなかつた時に、上流子女のために、小学の上級だけにとゝめず所謂高等女学校といふ趣意によつて女学館を起したのである。そのまた一方には一般の婦人のために女子教育奨励会なるものを起して、学校に通ふ女子のみならず、一家の主婦たるものが社交上の必要なる知識を得るための助けとした。即ち私はこの女学館に力を入れて、寄附もし集めもして経営の本務に当つた―今日も猶やつてゐるが―。その後女子教育奨励会の方は一時は盛んになりさうであつたが、段々女が出すぎるのはいけないといふ様な説も出て出席者が少くなつて来たので満足に行かなくなつたが、女学館の方はずんずん進行していつた。併し乍らこの方も種々の点に苦しみがあつた。かうした経験をもつてゐた時に成瀬校長から女子大学創立の事を聞いたのであるから、どうも一度で賛同するわけにはいかなかつた。決して不必要と思つたのではないが、重きをおくわけにはいかなかつたのである。女学館さへもむづかしいのに、どこからの助も無く、政治上の勢力も借らずにどうして成立してゆく事が出来るであらうかと殊に大事とりの私はさう思つて全然同情をよせる事は出来なかつた。併し乍ら私は飽くまで軽卒は嫌ひで満心の勢力を以て事に当るといふ事について、私の真情は成瀬先生のそれと全く一致する処があつた。そして二度あひ三度あふといふ風に度々面談する内に、少し突飛ではあるがこれは珍らしい人物だ、有為の丈夫だと思ふ様になつた。そこでこれは一つ女学館と合併してやつて見てはどうかと考へて、その説を出して見たが、これは虎の門でも、また成瀬先生も承知せず、たうとう成立しなかつた。そして断乎として女子大学創立のために東奔西走、其決心は動かすべくもなかつたので、私もそれに助力して一・二年にしていよいよ女子大学は実現する事になつた。かかる事は申す必要もないやうであるが、私が成瀬先生を思ふ時には、自然かかる事から言はねばならぬのである。
 それから後に或る時は随分突飛な事をするから、私が苦情を申さね
 - 第44巻 p.621 -ページ画像 
ばならぬ事もあつたが、それだけ先生は創始の力に長けてゐたから、其の試は暫くして人を驚かしむるものがあつた。かくして森村男爵や其の他追々助力者も増えて来て、日一日と社会の同情は加はり、遂に今日となるに至つた。最も進歩してゐるといはれる欧米ですらも、女子大学は疑心を以て見られたものであつた。況してや日本の如き旧思想の中に、率先此の企てをなした校長の功績は、実に見上げたものである。今はもう成瀬君の主義主張は立派に人々の肯定する処となつた同時にここから出る人々に対する注目は益々加はるばかりである。教育ある婦人が社会に出て婦人を代表する位置に立つのであるから、その行動は世の模範とならねばならぬ。成瀬校長の逝去は皆さんと共に実に悲しみにたへぬのであるが、涙をもつてのみ日を送るは故人に対してよき餞ではない。私も一時は成瀬校長の道連れになるのではないかと思つたが、かく全快してこゝにお話が出来る様になつた。八十の老爺は残つて壮年の人は逝く。これも人生である。私共は徒らな涙に日を過してはゐられない。なすべき事をなして、諸子とともに故人の霊魂を慰める事につとめねばならぬ。身を以て、行ひを以て、志を以てどうかこの学校のためにお尽し下さる事を、満一堂の諸君にも切に切に御願ひするのである。(大正八年八月《(六カ)》)