デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.638-646(DK440172k) ページ画像

大正11年3月20日(1922年)

是日、当校ニ於テ、栄一ノ第四回渡米帰国歓迎会開催セラル。栄一出席シテ答辞ヲ述ブ。


■資料

家庭週報 第六五七号 大正一一年三月三一日 日本女子大学校並に桜楓会 記事 △渋沢子爵歓迎会(DK440172k-0001)
第44巻 p.638-639 ページ画像

家庭週報 第六五七号 大正一一年三月三一日
  日本女子大学校並に桜楓会 記事
    △渋沢子爵歓迎会
 母校日本女子大学校に於ては、既報の通り去る三月二十一日午後一時《(マヽ)》より、講堂に於て渋沢子爵の歓迎会を開催致しました。
 まづ聖歌拝唱の後、麻生校長の歓迎の辞、次いで生徒総代並に桜楓会総代の歓迎の辞がありました。それより松本亦太郎博士は評議員並びに教授側を代表して歓迎の意を表され、最後に渋沢子爵の御話がありました。当日のお話はすべて本紙別項に掲げました。
   ○栄一演説筆記ハ「家庭週報」第六五九号(大正十一年四月十四日)ヨリ第六六二号(大正十一年五月五日)ニ亘ツテ掲載サレ、次イデ「竜門雑誌」
 - 第44巻 p.639 -ページ画像 
第四〇八号(大正十一年五月)第四〇九号(同年六月)ニ転載サル。本資料第三十三巻所収「第四回米国行」大正十一年二月十二日ノ条中ニ収ム。(第三二八――三三四頁)参照。


集会日時通知表 大正一一年(DK440172k-0002)
第44巻 p.639 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年        (渋沢子爵家所蔵)
参月廿日 月 午后壱時 日本女子大学評議員会(同校)


竜門雑誌 第四〇八号・第二八―三八頁大正一一年五月 ○渋沢子爵帰朝歓迎辞 日本女子大学校長 麻生正蔵(DK440172k-0003)
第44巻 p.639-646 ページ画像

竜門雑誌 第四〇八号・第二八―三八頁大正一一年五月
    ○渋沢子爵帰朝歓迎辞
                  日本女子大学校長 麻生正蔵
  △本篇は三月廿日、日本女子大学主催青淵先生帰朝歓迎会に於ける麻生校長の歓迎辞なりとす。(編者識)
 本日(三月廿日)は玆に本校評議員渋沢子爵の御臨場を願ひまして子爵が今回第四回目の亜米利加御旅行から無事御帰朝なされましたことにつきまして、お歓びを申し上げることの出来ますのを、私共は心から感謝いたすのでございます。これは教職員並に学生一同の心でございます。実は御帰朝早々こゝにお迎へいたしまして私共のこの心からのお歓びを述べ、又子爵の今回御旅行の尊き御観察を伺ひ御教示を蒙りたいと願つて居りましたが、子爵もなかなかお忙がしいお体で、御旅行の御疲労を癒せんが為めに転地御静養もなされたのでありますが、それさへゆつくりなさるゝ余裕も許されないほど周囲の社会は子爵を煩はすことが多いので、為めに御風邪にも侵されて居られたのであります。さう云ふ場合に尚御無理を願つてはならないと存じまして御遠慮いたして遂に今日に及んだわけであります。
 さて本日こゝに子爵をお迎へすることを得ましたけれども、私共の歓迎会と申しますのは前にも申し上げました様に、唯々心からの歓びの情を以てお迎へするといふ外に御款待申し上げる何物もないのでありますから、唯この誠心を申し上げたい為に、親しくお出でを願つた様な次第で、尚又子爵の尊い御経験御観察のお話を伺ひたいといふ心が切であります。
 序ながら、渋沢子爵はどういふ方であらるゝかといふこと、――これは多分誰方も御存知のことゝ思ひますが、特に若い学生方の為に一言申したいと思ひます。
△十四の少年時代 子爵は国家の為めに老躯をも厭はず、御尽力なされて居らるゝのであるが、子爵がこの国家を憂ふるといふ感じを初めてお抱きになつたのは、私の伺つた処では慥か子爵が十四歳の頃であつたのであります。当時亜米利加からコンモンドル・ペルリの来朝に刺戟されて、外国には斯く斯くの先進国があるといふことを知られたのであります。埼玉県の一農家に生ひ育つた十四歳の少年の驚異の心はこの時初めて外国に色々の国の存在を知り、又その国々が如何にわが国より進んだ文明を作りつゝあるかを知り、これは日本もうかうかしては居られぬといふ心を起されたのであります。矢張その頃即ち天保十一年隣国の支那では阿片騒動があつて、遂に支那は香港を英吉利斯に割譲した上に多くの償金を出さなければならぬ羽目になりました
 - 第44巻 p.640 -ページ画像 
これ等のことを聞けば聞くほど、彼の未知の先進国は容易ならぬ勢を持つて居るといふことを御承知になり、これは自国も三百年の太平に油断をしては居られぬといふ所にお気がおつきなつて、爾来国家を愛し国家の為に憂ふる念は終始一貫して子爵の熱誠となつて燃えるのであります。勿論その愛国心の内容に於ては爾来いろいろ変化があつたことは申す迄もありますまい。
 子爵は最初徳川家に仕へて、国家の進歩に貢献せうと考られたのでありましたが、其の後、即ち明治の二年頃から、一時政府に奉職せられましたが、元来子爵の御持論は、国家は先づ経済の基礎を固めなければならぬといふ処から、当時の青年の多くが政治に尽力し、奔走する事を最尊重する気風があつたにも関らず、子爵はこの国家経済の基礎を固めんが為に闊然として退いて野に下つて実業界の人となられたのであります、爾来この実業方面の為には甚大の力を尽されて、今日のわが実業界を育て上げられたのであります。今より数年前この実業界をお退きになりましたが、私が申す迄もなく、わが日本実業界は真に子爵のお力に依つて築かれたものであります。
 而して所謂政治の方面にはあまり直接の関係はお持ちにならなかつたやうでありますが、これは子爵のお考へが政治は経済的基礎がなくてはならぬ、国家の地位を高むるにも、新事業を起すのにも先づ経済の基礎といふものがなくてはならぬといふ所に強い信念をお持ちになつたからであります。而して今日の経済は将に其所まで発展して居るのでありまして、申さば政治の一方面として子爵の持論が実現されて来て居るのであります。
△青淵先生 実業界に活躍された時代でもさうでありましたが、実業界を退かれて後の晩年の子爵は、特に精神方面――教育・宗教・慈善事業等――の方面に心を傾け力を尽してお居でになります。この方面で子爵のお力によつて成り又は世話になつて居るものが数多いことであります。私などもその末席に加つて居る竜門社といふのがあります
この会の春秋二回の総会には子爵は御在京である限り、必ず御出席になつて会員に色々有益なる訓辞を与へられるのが例になつて居りますが、其所では会員は皆渋沢子爵とは申し上げず青淵先生と申し上げて居るのであります。即ち実業界の大立物としての渋沢子爵ではなく全く精神上の師弟の関係を為して居るのであります。此の会は全く子爵の御世話になつた門下生の会と云つてよいのであります。又帰一協会の如きは最近日本の精神界に於ける有数の団体でありますが、これには子爵は当切から本校の成瀬前校長などの主張に賛成せられて共どもにその成立を謀られ、爾来それによつて大にわが国の精神的方面の向上に力を尽しておゐでになります。
 教育の方面では子爵は今の商科大学の前身一つ橋高等商業学校を初め、虎門女学館を創設されました。そして明治廿九年の頃から成瀬前校長が初めて子爵にお目にかゝつてこの女子大学創設の御相談を申し上げたのが初めで、以後今日迄甚大のお力添へをわが女子高等教育の為めにお尽しいたゞいて居るのであります。近来は大隈侯の早稲田大学にも御尽力になり、其の他東京市の設立せる養育院又は慈善協会等
 - 第44巻 p.641 -ページ画像 
たゞ私の知る範囲だけでも子爵のお力添を蒙つて居るもの丈でも広い範囲に渡つて居るのであります。
 実に子爵はわが国の一面に於ては経済的方面に、他の一面にはこの精神的方面に、非常な御熱心を以てお尽しになつてお居でになるのであります。
△世界人類の平和の為に 子爵の愛国心は今日は啻に自国を愛するといふ意味に止らず、わが日本国家を愛すると同時に世界人類を愛するといふこと、わが日本国家を憂慮すると同時に世界人類の為めに憂慮するといふ立場にあられて、今日は世界の平和人類の幸福の為に身命を捧げてお尽しになつて居られます。特に日米関係に就いては直接多大の御尽力でありまして、子爵は明治三十五年に第一回の米国視察を企てられ、明治三十八・九年の頃に第二回の米国視察を遂げられましたが、続いて明治四十一年には亜米利加から彼の地の実業団体を組織して日米親善の目的を以て来朝し、其の翌年即ち明治四十二年には日本の実業団がその返礼として米国を訪問して親善を加へ、且つ彼の地の実業視察をいたされましたが、この時の団長は渋沢子爵でありました。之れが第三回の御渡米でありました。今回は同じ目的を以て恰度四回目の御渡米でありました。
 子爵のお言葉の内でよく伺ひますことは、至誠一貫、或は忠恕の道といふことでありますが、これは人が個人としての修養の目標であるばかりでなく、子爵はこの心を押し拡めて行くことが即ち国際関係の理想であるといはれて居られます。そして子爵は御自身にこの道を終始一貫して実現しておゐでになります、私共はかう云ふ立派な精神をもつて、老躯を提げて国家人類の為にお尽しいたゞく子爵を拝見して実に感謝に堪へないのであります。
△渋沢子爵と日本女子大学 わが日本女子大学校に於きましても、子爵には創立最初から今日に至る迄多大のお力添をいたゞいて居るのでありますが、創立廿余年の今日まで、その間屡々財政上の困難に遭遇したことでありますが、その度いつもいつも子爵の細大洩さゞる御注意に依て学校を無事に運転し、又その寛容なる愛によつて学校が健全に育てられつゝ今日の発展を来したのであります、これ全く一方には教育上には成瀬前校長の精神と、経済方面に子爵を初め故森村男爵の如き方々があつてこの校の財務を監督々励下さつたお蔭であります。只今では既に満三年前となりましたが、故成瀬前校長が病中にあの手狭な校長室の隣りの応接室に、子爵を初めこれ等評議員の方々にお集りいたゞいて、校長は女子綜合大学完成のことについて懇々とお願ひをいたし、評議員方の御承諾を得て、やがてこの学校が女子の最初の綜合大学として実現するの日を信じて喜んで永眠したのであります。
 三年の月日は浅いが、この学校を子の如く愛し育てられた当時の評議員方の内でも故森村男爵はその同じ年に永眠され、大隈侯又本年の一月に、渋沢子爵御帰朝の一ケ月前に逝かれました。この外にも創立当時から力を添へられた方々では、大阪の広岡浅子刀自も、大和の土倉翁も、北畠男爵又内海男爵、東京では三井三郎助氏・大倉翁・樺山伯と大方故人の数に入られて実に無限の淋さと無量の感憾を禁ずるこ
 - 第44巻 p.642 -ページ画像 
とが出来ません。
 昨年十月は渋沢子爵が第四回目御渡米に向はるゝ時は、既に八十余歳の御高齢にあらせらるゝので、私共は御健康の上に若しお障りなどあつてはならぬと非常に御心配申し上げましたが、併し大隈侯や森村男・渋沢子爵にしろ一度国家の為にお立ちになると、私共が思ふやうには御自身のお身体のことについてはあまり御心配なさらぬのであります。で、私が久保田男爵の所へ伺ふといつでもよく、成瀬君もさうであつたが、大隈侯・森村男・渋沢子などといふ人は国家の為には自分の生命をも省みない人々であるから、周囲の人々がよほど気を付けなければならぬ、あの人々はわが精神界の生ける国宝であるから、大事にしなければならぬと申されるのでありますが、このお三人の内でもお二人までは既に逝かれて、今は子爵お一人のお力を待つやうになりましたが、今回も子爵は非常な御元気で、私共の杞憂が杞憂に終り斯うして御無事な御帰朝を迎へお元気なお話を伺ひ得ることは私共にとつて無上の喜びであります。子爵のこの御元気をお歓び申してお迎へするのは私共ばかりではなく、実に御帰朝の日の横浜並に東京駅頭はあらゆる方面の多数の人々を以て充たされた為、お出迎した私共の学校の代表者達一行の内では、其日は遂に親しくお顔に接することが出来なかつたのが殆ど全部でありましたほどで、これを以て実に子爵が多くの人々に歓び迎へられたかを知ることが出来ます。
 この御元気な子爵をお迎へして、私共の綜合大学も遠からず成ることを思ひ、玆にこの感謝とこの歓びの心の一端を申し上げて御歓迎の辞に代へた次第であります。
      ○            桜楓会代表 大岡蔦枝
 桜楓会を代表いたしまして、一言けふのお歓びを申しあげたう存じます。私ども千八百の会員は今日こゝに一々列席の光栄を得ませぬまでも、各自の所々ではるかに子爵が此の度無事御帰朝になりましたことを心からお歓び申上げて居ることでございます。
 無躾な言葉でございまするが省みますと、私共は、私共の少女の頃から渋沢子爵のお名を存じあげて居りました。それが当校に入学致して見ますると、その渋沢子爵はこの日本女子大学校と特に厚き御関係のお一人にあられて、只今のやうに矢張りその頃から当校にお越し下さつて、私共はまのあたり子爵のお声を聞き、親しく御訓を受けるやうになりました。それは廿年も前からのことでございまするが、私共は最早わが母校から受ける感化と等しい感化を子爵からも受け、わが母校に対する感じと同じ親しみを子爵に対して持つのでござゐます。子爵が年々益々矍鑠として御活動遊ばす事を拝見しては、わが親の健康を祝するやうに歓ぶのでございます。子爵は今日迄わが日本の事は申すに及ばず、世界の為に人類のために朝夕お心をお砕きになり、又その御主義の為にはすべてをお捧げ下さつて、何ごとをも顧慮遊ばす方ではないといふことを私共はよく存じ上げて居ります。併しこの度第四回目の海外御旅行は如何で在らせられるか?かけがへのない尊い方で在らせられるのでございますから、万一御健康にお障りでもあつてはと蔭ながら御心配申し上げて居りました。と申しましても天下の
 - 第44巻 p.643 -ページ画像 
事を以てお立ち遊ばす方には、私共平凡人が何かにつけて取越苦労をするやうには御自身の御健康などについてはあまりお考へにならぬものでございます、子爵はこの度の御使命については非常な御元気であられて、とても御自身のことなどお考へになるやうな隙きは一分もないやうにお見受け申しました。――これはお見送り申上た時に感じたことでございますが――あの日頃銑錬された御人格と、又その沈着いた御勇気とを拝見したとき、まことに御健康上の御心配どころではなく、必らず大事のお役目をお果しになつて、御無事に御帰朝遊ばすことを信じて疑はなかつたのでございます。
 この信念がまことで、斯して今日こゝにお目出度き御帰朝のお歓びを申しあぐる集りの催さるゝといふことは、偶然ではないやうに存じます。このことについても私共は学ばねばならぬことを沢山暗示されて居るやうに存じます。尚子爵の今度の御旅行については恰度二月の十日から廿一日頃までの朝日新聞紙上で拝見することが出来ました。あれは子爵御自身のお言葉のやうに拝見いたしましたから、私は毎日非常な興味を以て或るところどころ二度三度繰り返して拝見した程でございました。
 お話の内には深い事情も含まれて居るかの様に想像いたされますところもございますので、私共の解釈の程度で一々によく理解しましたとは申し上げられませぬが、子爵のお考へのおありになる所は伺はれましたやうに思ひます。
 実にこの子爵の御理想と御希望を私共はどうしてお受けすることが出来るかを考へなければなりません。私は今日只今までもいろいろと考へさせられて居るのでございます。斯うして母校の教育によつて少しづつでも物事の解るやうに導いていたゞきました私共は、あの子爵のお言葉の中に見えるやうに私共同胞の欠点も気づいて居るのでございます。又米国人の考へ方も想像することが出来のでございます。どうしたら世界の平和、未来人類の幸福を生み出すかと云ふ事を、おぼろげながら解つて居るのでございます。私共、桜楓会員は先き程申しあげましたやうに、子爵とは一方ならぬ結縁の下にあることによつて子爵の御理想、子爵のお考へには最も親しく導かれ易い境遇に置かれて居るのでございます。斯うして私共が母校の教育に依つて人として婦人としての務めを尽すやうに訓へられたそのまゝを進めて行く事がやがて子爵のお導きに従ふことゝなり、又子爵の御理想実現のお伴になるのであると存じます。今日子爵の御帰朝をお歓び申し上ぐると同時に、子爵のごとき高き御理想と確かな御実行力とを親しくお示しいたゞきますことを、感謝のあまりたゞ心のまゝを申し上ぐる次第でございます。さうして私ども桜楓会員は微弱ながらも互に協力しつゝこの御理想に従つて参りたいと希望するものでございますことを申し上げ度う存じます。これを以て今日の御挨拶といたします。
      ○         日本女子大学評議員 松本亦太郎
 △利害関係の外に立つて 私は本校評議員の一人として、又教員の一人として今日此処に渋沢子爵御帰朝に対しおよろこびの言葉を申上げます。
 - 第44巻 p.644 -ページ画像 
 ワシントン会議は皆様も御承知の通り将来の世界平和、引いて世界の発達に関して重要なる関係をもつて開かれたのでありますが、其の会議の開かれるに就いて渋沢子爵が国民側を代表して御出席になりました事は誠に喜びと感謝に堪へぬ次第であります。
 一体国と国との親善と云ふ事は政治外交のみでは充分でないかのやうに思はるゝのであります。何故なら政治外交関係はどうしても利害関係が基になつているのでありますが、この利害の眼を通して見るといふことになると親善を妨げることが多いのであります。が各国民相互が精神的にも、物質的にも調和を得て行かうとするには、此利害関係以外に大切なものがいくらもあります。即ち文化的関係に於ては思想・信用・信仰其の外親子・夫婦・兄弟関係といふ様な情愛的関係もいろいろあるので、斯ういふ風な利害関係の見地の外に立つて初めて国民相互の親善は完全に計られるのであります。そこで渋沢子爵は日米親善についてはこれ迄随分長い前から御尽力下さいまして、米国の各方面からの来朝者に対し常に歓迎の労をお取り下され、来る大方の人達を子爵邸に御招きになりまして、御懇な御もてなしをもつて来朝者に満足を与へ、かつ日本人が如何に米人を信じ且つ感じているかについて紹介の労をお執り下さいましたのみならず、子爵は再三・再四米国をもお訪ねになつてあらゆる方面の人達にお逢ひになり、政治外交或は経済教育宗教等の事を打解けてお話になり、米人の日本に対する理解にお尽し下さいました。
△米人に与へられた好感 私は大正七年・八年に亘つて亜米利加を旅行し、米国をあちこちと歩きましたが、到る処に渋沢子爵のお噂を聞かない処はない位でありました。而してその人々は子爵に接し子爵を知ることを以て栄誉とするものゝ如く、ほこらかに感じている様に話して聞かせるのでありました。之れは子爵が利害関係を没却し、利害関係の外に立つ個人として御交り下さることに依つて、この様に日米人の心と心とを結びつけられた印であると思ひます。私はこれに依つて国と国との親善には国民と国民の交り、個人と個人の心の交りが如何に大切であるかを益々思はないではいられなかつたのであります。
 従来、国と国、人と人との間に誤解の生ずるのは多くは知らぬことから起る場合が多いのでありまして、要するに人と人、心と心の結合がない為であります。
 数日前、ミセス・ラツトから聞かされた話でありますが――、米人にマンセイと云ふ人がありまして、此人は米国の新聞雑誌界に非常に勢力を持つて居る人であります。が従来此人は日本に対してあまり好感をもたず、寧ろ日本に取つて苦手の人で、新聞雑誌にも始終日本に取つて不利益になる記事を記載した人であります。――処が或る日彼の友人の一人――米国では重要なる位置に在る人――がマンセイ氏に対して「君は日本に行つた事があるか?」と尋ねましたが、彼は勿論「ない」と答へたのであります。而して又「君は日本人に誰か知己を持つてゐるのか」と訊ねました処が、其時も矢張り「ない」と答へたのでありました。斯ういふ人であるから日本に関する書物などは勿論あまり読まない人でありませう。
 - 第44巻 p.645 -ページ画像 
 そこで彼の友人は「一体君の様に日本に行つた事もなければ又知己をももたず、又その国の書物をもあまり読ないやうな人に日本を理解され様はずがない。して見ると君の議論は根拠がないものといはなければならない。幸ひ今度は華府会議で日本からもだんだん来米せられるであらうから、これを機会に一つ努めて日本人に接して見たらどうか」と勧めたのであります。其処でマンセイ初めて渋沢子爵にお逢ひしたのでありましたが、彼は子爵に対して大変好感をもつたと見えて其後彼の日本に対する態度は一変して彼の新聞雑誌に見る日本観も又変りつゝあるとのことであります。此の様に人は知らないが為にたゞ自分の想像にまかせて、誤つた主張をする事が少くないのであります又、此の前ラツト博士が来朝せられた時、米国から永い間日本に来て居る新聞記者が博士に面会を求めて告白したといふそのことは、自分は某社から命令されて来たのであるが、私が日本から米国へ通信する場合の本社からの注文は、決して日本を有利に導く記事を送つてはならぬといふこと、寧ろ些かでも米人をして日本人に悪感を抱かしむる底のものが歓迎さるゝので、この意味で場合に依つてはこの種の記事を虚構せねばならぬこともあつたことを自白します。併し自分として永く日本に住み日本の人に交つて見ると、自分のしていることはよくないことで良心に省みてやましい、が本社の命令は又しても私にこの種の記事を強いたら今はどうしてもこの命令に従ふことが出来なくなつたから、博士の来朝を幸にこのことを告白して自分は勿論この仕事を罷めやうと思ふがどうか、博士にもこの米人の誤解を改むることにお力添願ひたいとの事であつたといふ事を聞きました。この様にどうも亜米利加人が日本の実情を知らぬ為にする所あつて日本の為に好からぬ記事を読まされる処から米国の或社会では日本に悪感を持ち、其所に排日気分が作られる様になるのであります。
△感情に国境無し この様に国と国との親善は唯政治外交のみにまかせてはおかれないのであります。又唯知識の上の理解でも足らないと思はれます。矢張りお互に感情の上から味つて貰はなければなりません。勿論このことは相互に努めなければなりませんが、私は此の点に於いて渋沢子爵が年来執つて来られた方法に依つてすることが一番よいと思ひます。同時に子爵に多大の感謝を持つたのであります。私共が知つて居る米人の中にはずいぶんこの感情の満足を得て日本を第二の故郷の様になつかしく慕つてゐる人もあります。例へば臨終の際に自己の遺骨の一部を是非日本の地に埋めてくれる様にと遺言したラツト博士の如きもあります。又ボストンの博物館長ボース博士の如き自己の書斎に充たされた日本の書物の中に埋つて満足するものゝやうに非常に日本に対して好感を持つてゐられる人もあります。又日本の版画を集めて日本の美術を味ひ、この国土を慕つて居るといふやうな人もあります。
 斯ういふ人があちらにも、こちらも在つて互に理解し合ふといふことが真に親交を結ぶものとなるのであると思ひます。渋沢子爵が早くからこの点に力をお尽し下さつたといふことは感謝の外はないのであります。
 - 第44巻 p.646 -ページ画像 
 日本に渋沢子爵の如き人がせめて十人もあつて、亜米利加にも日本に於ける渋沢子爵の如き人が廿人・卅人あつて、国民を指導して下さることが出来たら、この力が基となつて将来の東洋文化のみならず、世界の一大進展を観ることが出来るであらうと思ふのであります。
 而して私自身としては、米国に好感を持つ一人でありまして、米人は慥に個人的に交際して見ると誠に心地のよい感じを与へられるのであります。自分は嘗てニユーイングランドに二・三年間も居た事がある上から、殊にその土地の思出はなつかしいのであります。私に二度この世に生れることが可能であるとするならば、その一度はあのニユーイングランドに生まれ度い希望を持つのであります。勿論此の母国に生まれる事は最も望ましい事でありますが、日本を除いてはニユーイングランドを希望するのであります。此の様な心持からして殊にこの日米親善の為に、延いては世界平和の為に、永い間又将来に於ても御尽力下さることを信ずる子爵に深い感謝を捧げつゝ、今日此処に歓迎の辞に代へて厚く御礼申しあげる次第であります。