デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.648-650(DK440174k) ページ画像

大正11年4月20日(1922年)

是日、当校第二十二回創立記念式並ニ前校長故成瀬仁蔵墓碑除幕式挙行セラル。栄一参列ノ上、碑文ヲ撰書セルニ因リ所感ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK440174k-0001)
第44巻 p.648 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
四月二十日 木 午后壱時半 故成瀬校長墓碑除幕式(雑司ケ谷墓地)
        午后弐時半 日本女子大学記念会(同大学記念式)


成瀬先生伝 桜楓会編 口絵説明 昭和三年四月刊 【成瀬仁蔵君墓碑 西園寺公望題額 渋沢栄一撰并書】(DK440174k-0002)
第44巻 p.648-649 ページ画像

成瀬先生伝 桜楓会編 口絵説明 昭和三年四月刊
  成瀬仁蔵君墓碑 正二位大勲位公爵 西園寺公望題額
 成瀬仁蔵君は篤信力行彊志事を成すの人なり。余の君と相識れるは往年君が本邦に女子大学を起すの志を立て余に賛同を求めたる時に在り、余は君の達観と熱誠とに感孚して後援を約諾し、爾来二十有余年常に往来して微力を致すを惜まざりしに、今や其人逝きて老友墓誌を撰す。嗚呼哀い哉。君は旧山口藩士成瀬小左衛門の長子、母は秦氏、安政五年周防吉敷に生る。少弱にして父母を喪ひ、孤独克く学に勤め歳十九、山口師範学校を卒業して小学教育に従事す。蓋し君が孤独にして苦学せしは長じて堅忍の人と為るの性を養ひ、君が師範黌に修学せしは他日教育家となるの因を為したるものなり。君夙に本邦に女子高等教育を興すの切要を感じ、明治十一年大阪に梅花女学校を創め、後又新潟に女学校を興し、同二十三年女子教育を研究せんが為めに米国に赴き、居ること四年にして帰朝し、大に女子大学教育の急務を唱へたるも、時論未だ之を容れず、或は之を不急とし、或は之を不要とす、君毫も屈せず、有力者を訪ひて反覆力説、肯諾を得ざれば息まず竟に巨資を募集して明治三十四年日本女子大学校を東京目白台に建設す。是れ実に本邦に於ける女子大学の権輿なり、爾来刻苦経営幾んど二十年、更に拡張して綜合大学と為さんとするの時に当り、不幸病に罹り、大正八年三月四日遂に易簀す、享年六十有二、其病篤きに当り
 - 第44巻 p.649 -ページ画像 
君自ら起たざるを知り、力めて講堂に上り、生徒を集めて訣別し、遺嘱するに大学組織の完成を以てす、聴く者皆涙に咽びて感奮せざる莫し、四方亦響応して校資頓に増殖し、校基益々固きを加ふ、君の終始一貫身を献げ心を尽すこと此の如し、嗚呼一生一業を成す、既に人の難んずる所況や世論を排して一大事業を創刱するをや、君は実に本邦教育史に一新紀元を開始したるの人なり。君の死や女学興進の為めに惜むべしと雖も、其の人亡くして其の事存し、而も其の志を継ぐ者あり、君以て瞑すべきなり。
   大正十年十月
              正三位勲一等 子爵 渋沢栄一撰并書


家庭週報 第六六一号大正一一年四月二八日 悲喜交々の感 故校長墓碑の碑文を撰して 評議員 子爵渋沢栄一(DK440174k-0003)
第44巻 p.649-650 ページ画像

家庭週報 第六六一号大正一一年四月二八日
    悲喜交々の感
      故校長墓碑の碑文を撰して
                評議員 子爵渋沢栄一
 今日は本日本女子大学校の第二十二回の誕生日でございます。年と共に追々成長発達する記念日を諸子と共に祝することは誠に喜ばしい事であります。
 昔を顧みますと、あの時代の日本の社会に果して女子の高等教育が如何かといふ事に就て実は憂慮した程でありますが、今日の如き隆盛を見るに及んで転た歓喜に堪へぬ次第であります。
 今日はまた故成瀬校長の墓碑が竣工して其除幕式が挙行されまして悲喜交々の感に打たれたのでありました。私から見ればまだ廿年も若い前校長が故人となつて、老人の私が其の墓碑の碑文を書くといふことは何んといふ痛恨事でありませう。然し今日となつては老いたる者も若きものも共に力を合せて故校長の在天の霊を慰め、且つ安ぜしむるのがお互の義務であります。
 本日本女子大学が二十二年の星霜を重ねて斯くの如き今日を見るに至つた事は偏に故校長の強固なる意志と、熱心なる希望と、徹底的の精神を以て猛進された結果であります。私なども実はこの精神に動かされて、及ばずながら微力を尽さうと決心したので、全く其意気に感じたのであります。実際直接に故校長に接触した人は誰しも同感するところでありますが、今日かく女子教育が盛んになつたのは全く故成瀬校長の熱心なる努力に依ることゝ感謝に堪へません。
 かゝる人格者の碑文を書くに当り、到底その功績の一々を書き尽し且つ挙げ尽すことが出来ませんが、故人の慰めともならうといふところから、ともかくも私はお引き受けして故人を偲ぶ深い感情を以て碑銘を致しました。而して私は一方にはこの依嘱を受けることを非常に名誉に思ふと同時に、一方には故人を偲ぶのあまり、遺憾に堪へぬ次第であります。
 それで色々と文を撰び、書をかいて見ましたが仲々意に叶ひません私の住居の近くである飛鳥山に、飛鳥山の碑がありますが、これは元文二年徳川の八代将軍吉宗の時に、荻生徂徠派の成島といふ学者の作られたもので、然かもこれは名文でありますが、然し斯うした古文典
 - 第44巻 p.650 -ページ画像 
の文章や、六ケしい文字は現代の普通一般の人々には殆ど読みこなすことが出来ません。これでは折角墓碑を建てても人に読まれぬ様では其目的に悖りますから、誰にも読めて、しかもその意味が徹底するやうにといふところから、故成瀬校長の碑文は仮名混りにああいふ文章に致したわけでありますが、然しあまり分り易くて却つて荘重を欠き軽々しい感じを与へはしまいかといふ懸念もありますが、蓋し成瀬校長の事績は到底あの限りある碑文の中にその全部を収めて、かき表はすといふことは出来ません。それで主として本女子大学の教育に熱心であつたことを専ら表はしたつもりで書きましたが、元より、其文、其書は極めて拙劣でお恥しい次第であります。けれどもその心持と意味だけは汲まれて多分故人も快く受けられた事と思ひます。
 又先程の除幕式は麻生校長を初め、皆様の厚い心を以て懇ろに、過ぎたることもなく、つゝましやかに誠に中庸を得たものだと思ひます私は次のやうな歌を思ひ出して
 『心なき石もものいふ心地して
    向へば浮ぶ人の俤』
しみじみ故人を想ひ、且つ諸子と共に忘れることの出来ぬあの告別演説の日の光景などを思ひ浮べては、恰も故成瀬校長に接するやうな心持で、『あゝ成瀬君が此処に居るわい……』と涙を催してあの墓碑に接したのであります。定めしみな様も同じ感じを抱かれた事と思ひます。創立記念日の祝賀と共に一言、創立者を追想致しました。



〔参考〕集会日時通知表 大正一一年(DK440174k-0004)
第44巻 p.650 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年      (渋沢子爵家所蔵)
十一月一日 水 正午 日本女子大学ヘ御出向ジヨルダン博士ヲ御紹介