デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.742-744(DK440199k) ページ画像

昭和6年12月18日(1931年)

是日、当校講堂ニ於テ、前校長故渋沢子爵追悼会催サル。


■資料

家庭週報 第一一〇七号 昭和六年一二月一〇日 【拝啓、来る十二月十八日(金曜)…】(DK440199k-0001)
第44巻 p.742 ページ画像

家庭週報 第一一〇七号 昭和六年一二月一〇日
 拝啓、来る十二月十八日(金曜)午後一時、当校に於て故渋沢子爵追悼会相催し候間、御繰合御賁臨被成下候はゞ光栄の至りに奉存候、此段御案内迄得貴意候 敬具
  昭和六年十二月十一日
             日本女子大学校長 井上秀
    桜楓会員
        御中
    若葉会員


家庭週報 第一一〇九号 昭和六年一二月二五日 前校長渋沢子爵追悼会 御一門の方々を迎へて(DK440199k-0002)
第44巻 p.742-744 ページ画像

家庭週報 第一一〇九号 昭和六年一二月二五日
    前校長渋沢子爵追悼会
      御一門の方々を迎へて
 日本女子大学校前校長子爵渋沢栄一翁薨去の日より早くも五七日の余を過ぎた。日本女子大学校に於ては子爵御生前の御高恩、またその御高徳を追慕しまつる念いよゝ止み難く、十二月十八日午後一時から母校講堂に於て故子爵の厳かなる追悼会を営んだ。
 この日は特に渋沢子爵をはじめ同子爵夫人・故子爵寡夫人・令息渋沢篤二氏・穂積男爵母堂・穂積男爵・同夫人・渋沢武之助氏夫人・渋沢正雄氏夫人・明石照男氏夫人等の御遺族多数の御列席あり、母校評議員森村男爵も御先代よりの深き御縁故を以て玆に加はられた。
 学校側からは本校及附属校の全生徒、教職員一同、桜楓会員、若葉会員等多数の出席あり、定刻一時を稍々過ぎる頃、しづかに開会せられた。
 ステージには菊花に囲まれた故子爵の温容髣髴として在すが如き御うつし絵に、黒リボンの喪章を結び、霊前には畏くも聖上より故子爵に賜つた御沙汰書が輝く子爵の生涯を物語るが如くに飾られ、今更の如くに御生涯の偉大さに打たれるのであつた。
 先づ「目に見えぬ」の御製拝唱、瞑想三分間ののち、生徒総代の追悼の辞あり、慈父としての子爵を追慕しまつる乙女の熱誠は切々として尽きぬものがあつた。次で桜楓会並に若葉会を代表して藤原千代子氏は明治卅四年母校開校式当日の懐古から、母校の生みの親、育ての親としての故子爵を偲び、熱誠溢れる子爵の遺訓は永遠にわれらが耳朶に残ること。殊に子爵がわが母校の重大事に際して御高齢をも顧みられず、校長の重任を担はれ、遂には桜楓会が担ふべき母校の重責に対する準備の時を与へられた事に就ては、熱涙に溢れつゝ感謝の辞を述べ、今後の桜楓会員としての覚悟を御霊前にお誓ひ申上げた。
 - 第44巻 p.743 -ページ画像 
 次で常任理事塘茂太郎氏は教職員を代表して「女子大学が子爵の御精神に如何なる関係を持つてゐたかは子爵が最後に校長となられた事でよくわかると思ふ」と、本校の創立以来式と云ふ式、卒業式と云ふ卒業式に子爵の御臨席を仰がぬはなく、また毎回の評議員会に子爵の御見えにならなかつた時はなかつたこと、又綜合大学と成瀬先生――渋沢子爵と綜合大学との関係を述べ、綜合大学の実現は子爵の御関心の最も深いものであつた事、而して綜合大学は本年度から形を変へたとは云へ、子爵の深い御理解のもとに実現の緒に就いたのであるから子爵がよく口癖に仰せになつた「綜合大学が出来ねば成瀬君に合せる顔がない」と仰言つたお言葉は追々に果されてゆくと申上げ得る、との意味を述べられ、子爵は今後とも御生前同様に霊界から本校を御導き下さるに相違ない、との信念を以て結ばれた。
 次に井上校長は「私共が慈父として、偉大な校長として朝夕追惜敬慕して余りある子爵の九十二年の御生涯は、何れの一片を取り来つても余りに偉大であり立派であつて、全き亡我的御奉公に終始された古今無比の御生涯は、到底私共の拙い言葉を以て、表し得るものではない。と同時に、その何れの一片を取出してもそれは全て私共にとつて輝き渡る教訓でないものはない。」との前提を以て畏くもわが聖上が恰かも国家の元勲に対せられる如き礼を以て故子爵に賜つた御沙汰書の思召し、及び子爵の御遺言の一端に就いて言及し、この御沙汰書と子爵の御遺言とは天地の誠を以て相通ずる万世への御遺訓であるとの意味を述べ、わが日本女子大学校と子爵との関係が、今後も永遠にわが校のうちに生きて働くためには、私共自身が自ら徳を修め、自ら生命力に充ちてゆかねばならぬ。さうでなければ如何に子爵の御精神が偉大であつても、われらはそれを御受けする事が出来ない、と残された者の責任を力説された。次に森村男爵は「九十二年の御生涯と云ふものがどんなに永いかと云ふ事はおそらく皆さんには想像がつかないであらう。しかもその長い長い御生涯を通じて亡くなられる最後まで国家のために働き得た人は古今東西に稀である」と渋沢子爵がフランスにゆかれた頃はまだナポレオン三世の華かなりし頃であつたなどゝ歴史的に子爵の御生涯の裕かさをお示しになつた。最後に故子爵の御俤をそのまゝの渋沢子爵からは特に御懇切な御挨拶があり、故子爵の御病中から薨去までの間、微細な事柄にも子爵の御人格のひらめきが随所に現れた御事をはじめ、従容として手術台上の人となられた子爵が微笑まれつゝ関羽の話をされた事など眼に見るが如くにお話し下さつた。その他一として我れらの感銘を深くせぬものは無かつた。
 なほ「井上校長の御話にあつた御沙汰書に就いて、祖父が若し生きてゐたならばかうも申上げたでありませう、と思ふところを申上げてみたいと思ひます」と次の如くに語られた。――祖父が若しも生きてあの御沙汰書を拝したならば、自分の今までつとめた事に対して余りに過分だとは思ふでありませう。併し皆様方にも是非心に止めて戴きたいと思ふ点は、「高く志して朝に立ち、遠く慮りて野に下り」とありますうちの高く志しと遠く慮りと云ふ事は誰方のお心にもお止めを願ひたいと申したでありませう。――と御沙汰書を引用しては恐れ多
 - 第44巻 p.744 -ページ画像 
いが御礼の意味で申上げた次第であります。とお述べになつた。
 右終へて「子爵追悼の歌」を合唱し、三時十五分深き感銘のうちに会は閉ぢられた。
      追悼のうた
(一)あしたゆふべに心をこめし
   祈りのかひなく吾れ等が父は
   わくらは土に落ちくるあした
   安きねむりにつき給ふ
(二)あつき心にはぐくみましし
   あゝ愛のこわね耳に残れど
   あゝ笑みのおもわ眼にし残れど
   わが師の君はいまやまさず
(三)御空は青く澄みゆきて
   秋の日あまねく輝けど
   悼みしをるゝ乙女の胸は
   木枯の闇ゆきまどふ
(四)あゝさはあれどこの年月
   高きをしへにみちびき給ひ
   遺し給ひしその御言葉は
   永久に我等が胸に生く
    (昭和六年十二月十八日)
   ○右同様記事「竜門雑誌」第五二〇号(昭和七年一月)ニモアリ。

渋沢栄一伝記資料 第四十四巻 終