デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
11款 川村女学院
■綱文

第45巻 p.82-86(DK450029k) ページ画像

昭和4年7月17日(1929年)

是ヨリ先昭和三年十二月九日、栄一、当学院鶴友会講演部主催第十六回講演会ノタメニ講演ノ約有リシモ、老齢ノタメ阪谷芳郎代理ス。是日、当学院院長並ニ父兄・職員・生徒代表、飛鳥山邸ニ来ル。栄一訓話ヲナス。


■資料

講演集 第四輯 川村女学院鶴友会編 第一―二頁昭和四年九月刊 【○第十六回講演会(昭和三年十二月九日) 国際平和問題の二三に就きて 貴族院議員男爵 阪谷芳郎】(DK450029k-0001)
第45巻 p.82 ページ画像

講演集 第四輯 川村女学院鶴友会編 第一―二頁昭和四年九月刊
 ○第十六回講演会(昭和三年十二月九日)
    国際平和問題の二三に就きて
                 貴族院議員男爵 阪谷芳郎
 本日当女学院で講演会がおありになることになつて居つて、かねて渋沢子爵がお話をしにあがるといふ御約束であつたさうでございます処が唯今も係のかたから御報告のありました通り何分にも子爵は年齢が九十を越へて居られるので、健康上なかなか講演などをすることは出来ない場合が多いのでございます。医者からは殆ど絶対的にと言つてよい位に御講演はせぬやうにといふ注意が出て居るのであります。然るに子爵自身はなかなか元気で御講演を引きうけられたといふ訳なのですが、それがあとでわかつて心配であるから中止して貰はねばといふことになつたのであります。今日のやうな日ですと出かけることは出来ないのであります。ですからおことわりをして置く方が御互によいといふやうな訳なのであります。
 私は京都に居りましたが渋沢子爵家から交渉がありまして、是非子爵の代理として講演をせいといふことでございました。一旦は子爵の代理はつとまりかねると言つておことわりしたのでしたが、兎に角引うけろと言ふことでございましたのです。かふいふ次第でありますので当学院の噂はうかゞつて居りましたが、詳細な御様子はまだまことによく存じあげて居らぬ次第でございます。○下略


集会日時通知表 昭和四年(DK450029k-0002)
第45巻 p.82 ページ画像

集会日時通知表 昭和四年         (渋沢子爵家所蔵)
七月十七日 水 午前八時半 川村女学院生徒及職員其他来約(飛鳥山)


講演集 第四輯 川村女学院鶴友会編 第一〇三―一〇七頁昭和四年九月刊 【○昭和四年七月十七日 無題 子爵 渋沢栄一】(DK450029k-0003)
第45巻 p.82-84 ページ画像

講演集 第四輯 川村女学院鶴友会編 第一〇三―一〇七頁昭和四年九月刊
 ○昭和四年七月十七日
    無題
                   子爵 渋沢栄一
 私はまことに教育の素養がなく百姓に生ひたち青年時代は、鍬をかついで荒くれた仕事をしてゐたものでした。最初は外国が嫌ひで、そ
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れも書物の上から、外国を嫌ふ様になつたのです。
 いささかでも漢書を読む人は支那のたてまへが、自国を中華とし他国を夷としてゐる事を御存知でせう。それが外国を嫌ふといふ思想になつてゐるのであります。私共もその考へ方に真似して攘夷論を唱へたのでありました。年を重ねるに従つて幕政の悪い事を知り己れ一人たりとも真剣になつて之を改めようといふ野心を起しました。私の師は尾高藍香と申されますが、この方に誘動されて遂に攘夷論者の群に加はり、華を尊び、夷を卑しむといふ思想をふりかざしたのでした。二十四歳の時に政治家になりたいと思ひ、京都に参り同志六十九人と集り謀をめぐらしたのでありました。処が其の筋の耳に入つた為、事成らずしてあはや捕縛といふ事になつてしまつたのでありました。平岡円四郎氏の為に今日私はかうして生きながらへてゐられるのですが是非野に下つて同志と離れてゐる様にと訓されて、江戸に引返へし、そこで一橋の官史に傭はれたのでありました。
 丁度その時慶喜公が将軍にたたれたのであります。当時将軍の勢は全く地に落ちてゐましたので、慶喜公がそれを押切つてまで職につくといふ事は火の中に入るも同然の事だつたのです。
 薩長は何とかして排したいと考へ、公卿岩倉氏等も皆同意してゐたのでした。然しそれも将軍となつた暁にすぐ朝敵として倒さうといふ事に一決し明治維新が起つたのでありますが、その一歩先に慶喜公は責任一切を負うてどうにでもなさつて下さいと申して身自ら謹慎したのでありました。早くも世の大勢を察し得た慶喜公は実におえらかつたと思ひます。
 良い時に良い人が続いて出て来ましたから、あの御維新の大業も成就したのでありませう。普く大帝の聖旨が行きとゞいた事は、ひとへに聖徳の至らしむる処でありますが、それを障害する人の無かつた事もその一に数へられることゝ思ひます。
 さて暫らくして私も外遊を命ぜられました。それは大変嫌な処でしたが、やはり時勢の赴く所と仏国へ行く決心をしました。一切道徳主義でゆける、夷を攘ふ、と最初考へてゐたものを少々かへて、外国の事を探知しようといふ心と、攘夷といふ考へとを半分半分にかゝへて渡仏したのでした。
 帰国してからは政治が本当に嫌ひになつてしまひました。これから後どうしようかとしきりに考へたものでした。百姓になるのも我心に対して済まなかつたのです。むかうに居ります間、外国の政治と経済の関係、官民の経済、人格の模様等を親しく見聞いたし、我国と非常の差あることに気づきました。民に経済力・知識力が生じ官を倒すといふ事は本当の事ではない。お互ひに一致協力助長してゆかねばならないと考へたのです。そこで駿河で会社組織を作り事業を起し、何か実力を挙げてやつてみたいと思ひました。時に大蔵省の役人に来いと言はれましたので、大隈侯にも伊藤公にも御免してくれと申し出したのでしたが、一言もなく論にまかされて、五・六年間の約束で大蔵省に入つたのでした。
 大蔵省をどうやつて行かうか、税をどうしようか、銀行組織はどう
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すればよいか、兌換紙幣は等々の目的で吉川顕正と一共《(緒)》に伊藤さんが福地桜痴さん等と米国へ渡つたのでありました。ここに国立銀行の組織がなり、改正係長に命ぜられて十一年十一月国立銀行令といふものを出したのでありました。その時等も文字の上のみでなく、実際に事業そのもので官民の接触をはかりたい考へでした。古来からの事業は卑しいといふ思想をまづ己れ身自ら事に従つて打解して行かう、それも仕事にのみ没頭してはならぬ、官民共に経済をもりたてゝ立派な国家経済をなりたたせてゆかねばならぬと決心したのでありました。その後幾度か米国等へ渡る度にその念を深くしました。
 少しばかり現今の男女子教育について申して見たいと思ひます。今の教育は精神といふ事、本当の心の底からの精神教育が不足してゐる様に思ひます。然らばどうしたらよいか。女子も大いに気を引立てて心の方面の修養をしていたゞきたいものです。
 以前米国のハーバート大学教授エリオツト氏との談話中、米国移民法案にふれた事がありましたが、氏は
 移民に対して米国の態度は全く野蛮として取扱つてゐます。この態度は真に米国が悪いので面目ない次第です。米人はかうした場合に全く我儘が多い。自分は法案をかうしますとは言へませんが、悪い事は十分承知してゐますから、力あるかぎりは努力するつもりですあなた方も注意して下さい。
との意見でした。更に話題が両国調和問題に到りました時に、
 婦人の教育程度が両国非常に違つてゐるのです。どうしても両国親善は婦人の手によつてなさるべきでありますから、大いに教育を高めていたゞきたいものです。
と言はれ、私は真に敬服したのでありました。
 責任のがれをしないで、婦女子自らを深く力強いものにして行く様心懸けていたゞきたいと思ひます。そして良妻賢母になつていたゞきたいものです。
 教育といふ方面には実際に見識がありませんが、必要だと云ふ事については他人にまけぬ覚悟です。東京女学館・女子大学等にも実際には手出しをしませんが、経済的方面なりとも女子教育の上の道の為に微力をつくしてゐるのであります。
  おことわり この一文は、本輯におさめてある他のものが全部学院の講堂に於て為されたる講演の筆記であるのとことなりて、渋沢老子爵の特別なる御好意によつて飛鳥山の邸内に於て、私どものために特に御講演下さつたものゝ要領筆記でございます。当日は院長、父兄の代表者、職員及生徒の代表者が参上いたしまして御講演を拝聴させて頂いた他にお庭や書庫をも見せて頂いて非常に有り難く感謝いたして居ります。



〔参考〕川村女学院十年史 同院鶴友会雑誌部編 第三六一―三六八頁昭和九年五月刊(DK450029k-0004)
第45巻 p.84-86 ページ画像

川村女学院十年史 同院鶴友会雑誌部編 第三六一―三六八頁昭和九年五月刊
 ○第二篇 第二章 第九節 其の他の諸施設
    二、講演部
 学院に於ては、別に沿革史に記載するが如く、創立の仮校舎時代よ
 - 第45巻 p.85 -ページ画像 
り諸名士の講演をうかゞつて居るのであるが、更に之を一層組織的にするために、新に鶴友会に講演部を設け、昭和二年三月に第一回の地久節を記念するために、講演会を創めて職員・生徒・家庭ともどもに向上する機会を作りたいといふところから、学者・知名の士等に折々御講演をねがふことになつた。其の後経験をつむと共に種々の点に変遷をとげて居るが、爾来相当の成績をあげつゝ今日に及んで居る。この会設立の趣意書と、講演者氏名とを左に掲ぐる。
 なほこの講演の速記を集めて、第四輯までの刊行を鶴友会に於て遂行して居るのである。
      鶴友会昭和記念講演会趣意書
 今上天皇陛下 朝見式の御勅語の中に
 「今ヤ世局ハ正ニ会通ノ運ニ際シ人文ハ恰モ更張ノ期ニ膺ル」
 とあります。又
 「夫レ浮華ヲ斥ケ質実ヲ尚ヒ、模擬ヲ戒メ創造ヲ勗メ、日進以テ会通ノ運ニ乗シ、日新以テ更張ノ期ヲ啓キ人心惟レ同シク、民風惟レ和シ、汎ク一視同仁ノ化ヲ宣ヘ、永ク四海同胞ノ誼ヲ敦クセンコト是レ朕カ軫念最モ切ナル所ニシテ……」とあります。
  私たちは、今こゝに昭和最初の地久節を祝するに方りまして、深くこの御勅語の御言葉を服膺いたしたいと思ふのであります。昭和維新の声は、今や天下に充ち満ちてをります。私たちは、この記念すべき維新の時代に際して、婦人としての責務を果し、家庭のために国家のために、奉仕の誠を致したいと思ひます。それにしましても、この日進月歩の目まぐるしいばかりの世におきましては、お互の知見を博め友情を密にするといふことは、心余りありて実のこれに伴はざるを遺憾とするのであります。
  学校は子女ばかりを教育するところではありません。子女を教ふると共に教師もまた自ら勉学修養するところであります。教育の実は、学校においてのみ挙げらるべきものではなく、学校と子女、子女と家庭、家庭と学校といふ風に、この三者が密接に交友親和することによつて効果が挙がるのであります。そして、この三者が共に倶に日進の知見を博くし、月歩の修養を深くすることによつて、共存共栄の実は深まるのであります。
  お互に多忙な世に生活しておることでありますから、常々互に相見ゆるの機会が少いのであります。せめては、毎月一度位は相集つて、校友父兄教師一同が談笑することは、お互の意思の疎通の上にも親交を温める上においても、極めて大切なことであらうと思ひます。またこの集りの機会において、先輩諸名士や新進の新知識者などに一場の講演をお願ひして、世界の知見を博め修養反省の努力を致すことは有意義な企てであると思ひます。
  こゝに、昭和最初の地久節を記念するために、鶴友会の事業の一つと致しまして、講演部を設けることにしました。この事業は毎月一回は必ず講演会を開くことにし、その際において、学生・校友・父兄・教師一同相集るばかりではなく、一面には社会奉仕の心を以て、この有意義なる講演を公開して一人でも多くの人にこの意の存
 - 第45巻 p.86 -ページ画像 
するところを伝へたいと思ふのであります。どうか、私たちの真心の存する所をお察し下さいまして、この企てをして有意義に発達するやう御鞭撻をお願ひいたします。
  昭和二年三月
   講演者氏名
○中略
昭和四年七月十七日
 ○無題 子爵 渋沢栄一
○下略