デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.117-123(DK450042k) ページ画像

大正2年2月11日(1913年)

是日栄一、当会ノ例会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正二年(DK450042k-0001)
第45巻 p.117-118 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十六日 晴 厳寒
午前八時起床入浴シ畢デ朝飧ヲ食ス後○中略埼玉学生誘掖会寄宿学生三名柳沢・渡辺・堀ノ諸氏来訪、二月十一日ヲ以テ開催スヘキ学友会ノ事ヲ談話ス○下略
  ○中略。
 - 第45巻 p.118 -ページ画像 
二月十一日 晴 寒
○上略 埼玉学生誘掖会ニ抵リ午飧シ、後学友会大会ヲ開キ、教育勅語ヲ奉読シ学生ニ賞品ヲ授与シ、畢テ一場ノ訓示演説ヲ為ス、井上哲次郎氏・本多日照二氏《(本多日生)》ノ演説アリ○下略


竜門雑誌 第二九七号・第七三頁大正二年二月 埼玉学友会(DK450042k-0002)
第45巻 p.118 ページ画像

竜門雑誌  第二九七号・第七三頁大正二年二月
○埼玉学友会 青淵先生の会頭たる埼玉学友会に於ては、二月十一日午後一時より牛込区砂土原町の同会に於て例年の如く大会を開きたるが、当日は青淵先生にも特に出席せられて、一場の訓戒演説を為されたる由


学友会報 埼玉学友会編 第二一号・第二―九頁大正三年二月 講演 青淵先生の演説(DK450042k-0003)
第45巻 p.118-123 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第二一号・第二―九頁大正三年二月
  講演
    青淵先生の演説
 来賓諸君、学友会の会員諸氏、此御互に最も祝賀すべき記念日に、例年の如く玆に学友会の総会を開きまして、青年諸君と一堂に会しましたのは最も愉快に思ふ次第でございます。
 毎年同じ事を繰返すのは人間の常であつて、「政治は繰返す」と云ふ諺がありますけれども、単り政治ばかりではない、人事は総て繰返すべきものであるのである。年々歳々花相似たりと云ふことは、世の中の常である、併し年々歳々は相同じであるけれども、歳々年々人が同じと云ふ訳にはいかない、事は繰返しても人は異なるべき性質を有つて居る、私共の段々年をとつて此世を去ると云ふことは大なる変化であるから。人の一代は余ほど長いけれども、此処に集つた諸君を見渡すと毎年そろりそろりと人が変つて来ると云ふことは免れない、所謂三年経つと皆な三つになる、十年経つと其算測で丁度十になる、而してどんどん進んで行く為に、青年と云ふた人が壮年になり、壮年だと云つて居る中に老年になる、私共もいつも斯ふ云ふ老人ではなかつたので、昔は諸君よりもまだ小さかつたのである。年を繰返しつゝある間に、桜は毎年同じ花しか開きませぬけれども、霊妙な知識を備へて居る人間は、花の如くいつも同じやうにはいかぬので、或は粗末な花になるか立派な花になるか、或は桜の木に梅も咲かぬとは言はれぬし、又桜に梅の香を有たぬとも限らないのである、是が人の人たる所であるのです、或は四十六年を経過した維新以後の今日でも以たやうなもので、年々経過し来りましたけれども、其間の各方面の人の努力、又国民全体の勇気から今日までの進歩を為し得たのである。故に年々歳歳同じ事を繰返すと云ふだけでは人間たる者の本分は済まない、事は同じであるけれども一歩進むと云ふことを心掛けねばならぬ。試みに埼玉県の既往を考へて見ても、私共は東京に来て学問をしたのは前後を通して僅に二年ばかりしかない。東京で学生として飯を食ふた時代は……、単り私が左様に怠けて、又家が貧しくて出られぬと云ふ訳ではなかつた、其時分には埼玉県から東京へ出て学問をする人などは殆ど無かつたと云ふても宜いのです、然るに今日は残らずお集りでなくても、満堂殆ど錐を立つるの地もない位に、而も年配の揃うた青年が
 - 第45巻 p.119 -ページ画像 
集まると云ふことは、如何に学問に対して一般の機運が進んで来たかと云ふことが分るので、全県下多数の人が学に入ると云ふことは実に愉快千万な訳でございます。畢竟此埼玉学生誘掖会を設けて、学友会の御方々などにも共に斯の如き便宜を以て総会の開き得られるやうにすると云ふ場合に相成りましたのも、諸君の学を励むの心掛に多数の人々が同情を寄せて、斯の如き便宜な方法を設けて諸君の学業を奨励いたすのであるからして、吾々の篤志を恩にかけるではありませぬけれども、諸君は十分に心して種々の便宜を得、種々の学問をして第二第三の方、又其次の学生をして、是よりも更に一歩も二歩も増したる方法に依て奨励するやうにありたいと思ふのです。決して現在の有様のみに安んずる訳にはいかぬ、諸君が吾々の様に成る頃ほひには此学生誘掖会なり若くは埼玉学友会なりが、年々繰返しつゝ増大し拡張して、又更に進んで国家に益することを御心掛けなさるやうに、只管希望して已みませぬ。
 今日は後に本多日生師の御講演を頂くし、又井上哲次郎博士も臨場して下さる筈になつて居りまして、斯の如き学殖のある、又弁舌の優れた方々が御講演下さりますのですから、内輪の私は余り長い御話は寧ろ見合はせた方が宜からうと思ひますけれども、玆に一つ御紹介を申して置くことがありますので、これを簡単に述べて置きます。
 今見本をお目に懸けましたが「武蔵武士」と云ふ書物が、埼玉学生誘掖会から発行に相成りまするのです。之は表題にある通り渡辺・八代両君の著作であるが、此著作を取扱うて呉れた方は斎藤阿具君で、一昨年から著手せられて長い間斡旋されたのでございます。
而して此埼玉学生誘掖会の理事会に於て、斯る書物を出版しやうと思ひ起した理由を御話して、此書物が現在諸君の学ぶ学問に就いては或は稗補し得ないかも知れない、併ながら吾々が埼玉を愛する、埼玉の昔を偲ぶと云ふことに付て深い意味を存して居ると云ふだけは、青年諸君もよく御理解なさるやうにしたいと思ふのであります。諸君は皆軍人にならうとは思はぬのです、刀を差して威張り散らすと云ふやうなことをなさつてはいかぬ、昨日は騒動があつたがさう云ふ事にたづさはつては善くない、武蔵武士と云ふものを著述したと云ふと、一つ日比谷へ出掛けろと御勧めするやうに聞えるけれども、さう誤解して呉れてはならぬ、是は諸君に御戒めをせざるを得ぬのである、近頃武士道と云ふことをやかましく言ふけれども、此武士道と云ふものは、鉄砲を担いで刀を差す者の専売物と思ふのは間違である、武士道は国民が咸な有たなければならぬものである、詰り極平たく言へば忠孝の篤い志、唯今捧読した御勅語の義勇公に奉ずる、もう一歩進んで父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼす、是が即ち真正の武士道である、故に武士道は私も始終修めて居るが諸君も皆修めて置かなければならぬ、斬ツつはツつ、力づくの事のみが武士道と心得るのは大なる間違でありますから武蔵武士と云ふものを書いたからと云つてさう誤解されては困るのである、尤も此処には新井源水と云ふやうな方も居られるが、柔道に力を入れるのは最も悦ぶ、人は軟弱にはなりたくない、私も今日では腕押では
 - 第45巻 p.120 -ページ画像 
皆さんには敵はないが、若い時分ならあなた方を負かして御覧に入れた、で軟弱は好まぬから成るだけ思想も身体も強健にありたいことは勿論だけれども、殺伐に陥ると云ふことは真の勇士の慎まなければならぬ所である、故に武蔵武士と云ふ書物は決して諸君をして血気にはやれとか殺伐に傾けと奨励するのではないと云ふことをよく御理解なさるやうにしたいのであります。
 此書物の出版になります理由は、最初、此県出身の人々で世に名ある、又模範となるべき人の履歴を調べて、御互によく見て、古人の其当時に功労あり、又将来までも模範たるべき人を、自らも知り人にも知らせると云ふことは、我故郷を想ふ情にもなるし、同時に己れ自らも利益することであると云ふので、さう云ふ考を理事会で相談して見たのです。然るに近い頃の名ある人で、例へば保木野村から出た塙撿挍の如き、又毛呂と云ふ所から出た権田直助の如き国学に通じた御方殊には塙撿挍は失明してから大なる著作がある、群書類聚の著述などは目あきでも敵はぬ位である。名高い話は十五夜かに弟子を集めて講義をして居る中に、颯と風が吹いて蝋燭を消して仕舞つた、「先生ちよつと待つて下さいませ、灯火が消えて仕舞つたから」……其時に湖月抄か源氏物語かを講義して居つたのでありますが、前に控えて居る書物が読めませぬと言つた時に、「あゝ、目あき程不自由なものはない」と言つたと云ふ程の人である。是等の人の書物を著述したらと云ふことであつたが、これは丁度県庁で出来たので其必要はなからうと云ふことから、更に溯つて源氏鎌倉時代の、或は畠山重忠などは如何であらうかと、そこらにも考をつけて見たのでした、著作にかゝつて見ると、即ち両君は歴史家であつて段々調べると、畠山重忠は其中の粋を抜いた人であるから、此一人の伝記でも以て後世に示すに足るのではあるけれども、其頃の武蔵武士と云ふものは殆ど政運に関係して居ると言ふて宜い位であるから、単り畠山のみならず児玉党であつても、熊谷直実であつても、猪股小平六であつても、平山孝重であつても、金子家忠であつても、さう云ふ人々を網羅して、名けて之を武蔵武士として編述した方が宜くはないかと云ふことに相成つて、玆に此一書が出版されることになつた訳であります。そこで殊に重きを措きますのは、時代の変遷を青年の方々に知らせて、埼玉県と云ふものは或時代に於ては、文運と云ふより武勲に依て世の変遷に大に与つたものであると云ふことを同時に知りたいと思ふのであります、私は学者でもなし、歴史もさう審かには覚えて居りませぬけれども、日本外史を読んで見ると、頼山陽が平氏の初めに「外史氏曰」云々と云ふて、政権の武門に移つた有様を詳しく書いてある、それは此処に持つて来て居るが、長々しいから読むことは止めますが「吾読旧志見鳥羽帝時数下制符。禁諸州武士属源平二氏。曰。大権之帰将門也。其在於此時歟。」と云ふて、詳しく其時分或は其以前の有様を説いてある、是は真に山陽の活眼を以て歴史をよく見たのであつて、丁度其時に封建制度が始まつたのである、其封建制度の始まる時分に、謂はば大名と云ふものゝ種は、単り武蔵ばかりにあつたのではないけれども、武蔵は其元祖であると云つても宜い位である、其頃頼義・義家と云ふやうな
 - 第45巻 p.121 -ページ画像 
源氏の大将分の人々が奥羽征伐等に付て国に勲功があつたけれども、其時の朝廷、即ち藤原氏が政権を専らにして、今云へば閥族とでも言はねばならぬでせう、若し当時政友会があつたら之を閥族などゝやかましく言つたかも知れない、私はさう云ふ言葉は言ひたくないが、其専断の弊や遂に王室をして衰頽せしむるやうに致したと云ふことは山陽の外史に依てよく分るのである、其頃武蔵の武士は敢て其主脳の位地には立てなかつたか知らぬが、源氏を助けて勲功のあつたことは、実に昔を偲んで今も愉快に思ふのであります、故にさう云ふ武蔵武士の選択は頗る可なりと思うて御同意をして、是が出来上つたのである付いて私が之に序文を書きましたから其序文だけを、後に書物が出来ればよく見て頂けるであらうけれども、書物を発行せぬ前に序文の先触れは甚だ穏当でないけれども、斯る機会に青年諸君に斯う云ふ意味であると云ふことを御話して置くのも決して無用でなからうと思ふて玆に書物の広告として申上げて置きます、其序文は斯様に書いてあります。
  武蔵武士序
  埼玉学生誘掖会は、余輩埼玉県出身者相謀り県下の有力者を糺合して創立せしものにして、其の目的とする所は、都下に在学する青年の為めに寄宿舎を設けて其起臥寝食を共にし、互に志操を堅実にし修学勉励して以て入徳の工風に資すると倶に、本県旧時多数の諸侯ありて
 是は吾々老人の心持にある話ですけれども、一体埼玉県は大きい大名が一地方を領して一風俗の行はれなかつた所です
  其の領地犬牙交錯し区々の余弊今猶存するものあるを一掃して、大に県情を疏通せしめむとするに在り
 相共に文運に貢献したいと云ふ意味から起つたことである、で
  爾来十余年を経て事業緒に就くといへども尚進脩の道を講ぜざるべからず、是を以て曩に本会理事の協議を以て、本県の古史に鑑みて一書を著作し、其英雄豪傑を挙げ学生をして崇尚私淑の念を起さしめ、併せて奉公忠誠の心を脩養せしめんと欲す
 即ち皆様をして崇尚私淑の念を起さしめて、奉公忠誠の心を修養せしめむと欲する為めである。
  太古は邈たり得て考ふべからず、奈良朝に当り京畿中国の人多く廟堂に顕はれ、爾後藤原氏の権勢歴廟に充満し、其の衰ふるに及びて源平相争ひ、源氏の竜騰に際し本県より出でゝ天下に雄飛せしもの亦乏しからず、其子孫繁衍し其基礎を関東に築きて鎌倉開府を見るに至る
 本県から出て天下に雄飛した者は少なくない、其子孫が繁栄して基礎を関東に築いて鎌倉開府を見るに至つたのである、
  而して北条氏陪臣を以て国命を執るの日に於ても、尚武相を以て武人の冀北となす、所謂六十州の兵を以て武相両国に当るべからずとするもの豈其地理歴史と相待て然らしむるものにあらずや
 武蔵と云ふものは勇力を以て誇つたものである、所謂六十州の兵も武相両国に当るべからずと云つて、武蔵武士は昔は防人と呼ばれて居
 - 第45巻 p.122 -ページ画像 
つた、九州あたりへ行くと防人と云ふて、関東の人が行くと、他国の人の倍にも二倍にも向つたと云ふ程に書いてあります、即ち六十州兵武相両国に当るべからずと云ふことも、其時分の有様では敢て誇張した言葉でもなかつたやうです、今日ではさううまく行きませぬ、諸君は大分えらくなつたけれども、まだ新井源水君の力ではさうはいかない(笑声起る)
  其後或は顕れ或は隠れ、江戸幕府三百年の泰平に由りて復武を用ゆるの機なく、其後裔鞱晦して農となり工商となりて以て今日に至れるなり
以て今日に至つたのである、
  本会理事斎藤阿具君嘗て斯書著作の事を担当せられ、文学士渡辺主祐・八代国治二君に嘱して古紀録を渉猟し、武蔵古武士の系図伝記を抄録編纂し、書成つて武蔵武士と題し余に序を乞はる、受けて之を見るに、保元・平治以降武人党伐の沿革より荘園制度の変態に至るまで詳密に叙述して洩す所なく、而して其潜会黙移他の大小名の種族を生ずるに至るの跡歴々として掌を指すが如し、其の労多謝せざるべからず
 丁度山陽の論じて居る通り、段々政権が源平に帰し、源氏が竜騰して封建制度を拵へると云ふ、時勢の変遷の有様が此書物を見るとよく分る、
  夫れ本県の地たる八州の沃野に連り、遠く千仭の富岳を望み近く渺漫たる刀根・荒川を擁し、形勝雄大全国無比の地勢を占め、以て大都の屏護に当る、宜なる哉、明治中興江戸を以て東京となし新文明の淵源を開く
 是は他県の方に対しては失礼に当る、是では日本の中で一番埼玉県がえらさうに見えますけれども、それ程自慢は出来ないかも知れない少々御免を蒙ります
  本県の人たるもの空前の光栄に感じ、七百年前の祖先を慕ひ発奮興起して天恩の万一に報ぜざるべけむや、学生諸氏幸に科学を以て其の智能を啓発し、武竟文才以て中興の新日本に処するを得ば庶幾くは、七百年前の祖先に愧づる所なからむ乎
  大正癸丑一月大磯客舎に於て
                    青淵老人識
 斯う云ふ序文を書いて置きました、而して武蔵武士の著作されたる理由は今申述べた次第でありますから、近日出来になりましたら必ず諸君に御送り申すやうな都合になるだらうと思ひます、心して見て頂いて、唯武事にのみあこがれて、無暗に強くなると云ふことのみを考へて下すつてはならぬ、前にも申す通り武士道と云ふものは決して力を角するのみあるものでない、武士道は誰でも磨かなければならぬ、又磨けば商売人でも農業家でも、何人でも磨き得るものである、さうして昔の優れた方は飽くまで崇敬しなければならぬ、若し国民に此心がなくなつたならば国は甚だ憂ふべきものになる、今日埼玉県の有名な人々を一冊子に著して諸君に御示しするのも、吾々と同じ県の優れた人を崇敬するの念を失はぬやうにしたいと云ふに外ならぬのであり
 - 第45巻 p.123 -ページ画像 
ます、勿論古人を怖れてはならぬ、古人より優れると云ふ心を持つて而して崇敬の念を失はぬやうにせねばならぬのであります。前段に申した年々同じやうなことを繰返す間に世の進歩を図ると云ふことは即ち此辺であらうと思ふですから、十分なる御覚悟を以て将来学業を磨くと共に此志を益堅実に御自重下さることを望みます。(拍手)
  ○大正二年二月十日、桂内閣攻撃ノ世論其極ニ達シ、群衆ハ日比谷公園付近ニ殺到、新聞社・交番ノ焼打ヲナシ、軍隊出動シテ鎮撫ス。(平凡社版、「国史大年表」ニヨル)右掲栄一演説中『昨日は騒動があつた』云々ハ右ヲサス。