デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.127-135(DK450044k) ページ画像

大正4年2月11日(1915年)

是日栄一、当会ノ例会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK450044k-0001)
第45巻 p.127-128 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
二月十一日 雨
○上略 午後二時牛込埼玉学友会総会ニ出席シテ、勅語ヲ朗読シ又学生ニ
 - 第45巻 p.128 -ページ画像 
賞品ヲ授与ス、後一場ノ訓示ヲ為ス、埼玉県知事・添田寿一氏・諸井六郎氏等各講演ス、畢テ余興アリ、夜十時帰宿、新聞紙ヲ読ム


委員日誌(三)(DK450044k-0002)
第45巻 p.128 ページ画像

委員日誌(三)            (埼玉学生誘掖会所蔵)
二月十一日(木曜日)○大正四年
 当寄宿舎ホールニ於テ、埼玉学友会大会開催セラル、午后壱時ヨリ開会、来賓添田博士ノ講演ニ次ギテ渋沢会頭ノ訓示、昌谷埼玉県知事及諸井六郎氏等ノ演説アリテ余興ニ移リ、夜十時散会○下略


学友会報 埼玉学友会編 第二三号・第一―一四頁大正五年二月 講演 青淵先生訓示(DK450044k-0003)
第45巻 p.128-135 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第二三号・第一―一四頁大正五年二月
  講演
    青淵先生訓示
 此紀元節に学友会総会を終りまして、玆に御若い諸君と御目にかゝることを頗る愉快に感じます。七夕様のやうに一年一度しかお目にかからぬ方でございますから、今日の紀念を、充分に後々まで保存なさるやうにしたうございます、どうぞゆつくりなすつて、後で坐り角力でも御取りなすつて下さい。根太を壊しては可けませんが……(笑声起る)
 只今添田君の国民の感念に対する御演説もありましたし、又知事閣下から御感じになつたことに就きまして、色々お話になつたのを拝聴致して、洵に御尤もと感じますので、私は申さば――一年一度しかお目に掛らんでも――内々のお仲間であるから、さう云ふ皆様の御訓示に対して、何だか褒められた子供が叱られた弟に代つて出た形でございます。それで斯うでございますとお申訳をせんければならぬ位置にあるのであるが、併し諸君が悪いと思へば小言を云つた方に言ひ訳ばかり申して済む訳ではないから、私もそう思ひますと云つて、共に諸君に向つて将来の改心を望まんければならぬことが無いでもないのでございます。
 今、知事閣下から此教育に対する観念に就いて種々御示しを戴いたことは、私共も始終思ふて居るのでありますが、自分は教育家でない又学者でないから教育の経験もなければ学問の知識も乏しい。併し教育のない経験のないものが教育調査会の委員であると云ふことを玆に申上げざるを得ない。其会員は何で勤めて居るか知らぬことをやるのは可笑しいぢや無いかと言はるれば一言も無いけれども、併し此の学制と云ふものは余り知らぬけれども、教育と云ふことに関すると総て無智無能ではないと云ふやうな観念から姑く其任命を受けて居りますが、一昨年からもう長々と経過して居りまして、前の内閣から引続いて現一木文部大臣になつても、毎回―大抵月三遍ぐらゐづゝ開かれるのでありますけれども、一向捗取らぬ、悪く言へばまだ海のものになるか川のものになるか分らぬと云ふ状態であります。私共は頻りに会員に向つて教育調査会と云ふ名はあるけれども、今日の調査は学制調査会で教育の調査会ではないやうである、もう少し範囲を拡めて教育調査会にして欲しいものである、教育の根本に就て我々にももう少し物を言はせることにして下さらぬと困る、今の如く全く学制の調査会
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と云ふのでは、私共は所謂土竜の様なもので事情を少しも知らないから何にも云ふことが出来ないと、斯う申して頗る不足を言ふて居ります。何れに此の会の事務が片付くかと云ふ事に就いては中に秘密のこともありますから玆に明言するのは宜しくなからうと思ひますが、私は大体に於て今まで教育に対しては斯う云ふ観念を有つて居つたのであります。
 御維新前の教育は漢学教育が主であつて、其他の教育は至つて浅薄であつた。商工業上に対する所謂実業教育なるものは寺小屋で済んで仕舞つたので、予て私が度々申しました通り商売往来・塵劫記などを習つて之を呑込んだのであるが、併し其間にもやはり此の教育にすゝめられて大いに人物は出たのです。多分昨年の此の会に維新の頃ほひの、譬へば西郷とか木戸とか大久保とか言ふ人々に就て、斯う云ふ功績を為したと云ふことを申述べたやうに思ひますが、此等の種類の人は、皆此の支那教育、維新以前の漢学教育によつて成立つた人であるからして、或は其教育は浅薄であつたとしても―教育の力は広くなかつたかも知れませぬが―是によつて教えられて出た人間は大きな働をしたのである。今欧羅巴や亜米利加の学問の生粋を取つてそれを煎じ詰めて全く霊丹の如き良い薬にして諸君が飲んでも詰らぬ人間にしかなれぬと云ふと、昔の粗末な教育の方が効能があつたと云はなければならぬやうになる。併し此の旧幕教育が、矢張り今日の教育に対して或る一種の効能を生じたと斯う言つて宜からうと思ふ。恰度維新の始めに何でも教えにやいかんと言ふので、今の漢学教育を受けて世に立つた人々が欧羅巴の制度を丸呑みにして、直様政治的教育に力を尽したからして、其教育の風習と云ふものが殆ど政治教育であつた。今こそ実業教育が大分盛んになりましたけれども、其頃の有様を回顧して見ますと、大体昔の寺小屋の実際の教育は先づ其位より外に無かつた或は軍事の教育、技術の教育もありましたが、其他のことはすべて政治的教育であつた。而して教育を受けたものは官途に就くを以て名誉としたと云ふ有様である。それは詰り支那教育からして、悪く言へば大変な方向に教育が転じて行つたのである。然して長州薩摩が維新の際に功労が多かつたから、夫等の藩士が役人になつて大政に参与することになつた。長州の足軽が一躍参議になつて廟堂の枢機に与ると云ふのであるから、教育の風潮も此の方に向つて一般に大変な人気でありました。其処へ持つて来て其の人々が教育を必要として教育に金を掛けて、国家の力で教育を進めて行つたから、それこそ天下皆参議にならうと思つて、ワイワイと此方面の教育に従事する、子弟も是れに走ると言ふ有様で、其時分には実業教育と云ふものは誰も顧みる者がなかつた。是れは私が度々お話をするのであるが、今日では皆さんがお聞になつて嘘のやうに感ぜらるるでせうが、明治十三年に今の東京瓦斯会社の前身で、まだあれが東京瓦斯局と云ふ時分に、其処へ大学を卒業した者を一人雇ひ入れることに相談をした。それから愈々約束が定まつた暁に、其の人が、此の瓦斯の事業が将来どうなるであらうかと云ふことを私に尋ねに来た。私は将来は此事業は東京府と云ふが如き役所の経営にすべきものではない、人民の経営に移すべきもので
 - 第45巻 p.130 -ページ画像 
あるから、後には会社組織に変へたいと私は思つて居るが果してどうなるかは分らないと言ひましたら、其の人は直ちに折角相談の纏まつて居たのを厭ぢやと言ひ出した。其理由を能く聞いて見ると会社ならば民業である、民業だと世間から軽んぜられる、のみならず恩給も貰へぬ勲章も貰へぬ、それでは詰らぬから止すと言つて断つたのである(笑声起る)其の当時の一般の人気がすべて斯う云ふ風であつた。其頃の大学の総理は加藤弘之さんでありまして、未だ存在して御出でで(笑声起る)ありますが、それで大層驚いて八釜しく言ひに行つたことがある。兎に角左様にまで教育と云ふものに対する一般の人気と云ふものが、唯政治的方面にのみ向つて居るのかと私は吃驚した。其の学んだことは何かと言ふと応用化学だと云ふ、応用化学をやるのに民業に就くことが嫌だと言ふと、教師になるより外にない、其処で皆が教師になる、それから後から出来る弟子は何になるか、矢張り皆教師になる、誠に天下解すべからざることである。けれども出て来る人は皆役人にならなければ嫌ぢやと云ふ、又学校も平気でそれを拵えて居る。(哄声起る)私は是れでは迚も世の中の実業の進歩を見ることは出来ないと云ふのですが、夫れは明治の始めの政治気風が進んで、残らずそれにならうと云ふ一時の教育の気風に附いて走つた弊害であつたそれから頻りに私共は民業を唱へ、会社組織を主張して=自分等の工風して作つた事業には夫れ程大きな会社も出来ませんが=実業を唱道しました。社会も実業の必要と云ふことを考へて参りまして、二十年頃から殆ど傾向を一変して来ました。其処で学校も学生も、一般の気風が実業に就くことを厭はぬやうになつた、少くとも今申し上げた時の如き有様で無くなつて、大学出身の方が銀行者になつても、人が以前程には吃驚せぬやうになつた。けれども未だ其時分でも余り実業の方に志す人は無かつた。私共の今の第一銀行に居るお方でも、銀行員になるのを大層何か大奮発で、変つたことでもする如く思はれた。一人二人の大学生が第一銀行に這入つたと云ふので、世間では矢張り驚いて評判する位であつた。あの人は銀行者になつたと云つて異つたことの様に思はれた。まだ二十年頃の有様がそんなでありました。
 第二に変つて行つた有様は、学生が多く会社銀行と云ふやうなものを目当に学問を修めるやうに世間の気風がなつたことです。先きには役人を目当に学問をしたが、第二には会社銀行の役員を目当にする風習になつた。此の第二の風習は、尚ほ世間に現存して居ると言つて宜い。勿論需要供給の関係上左もあるべきことでありますけれども、蓋し物を学ぶと云ふことは、先づ第一に其人の学才とか、資力とか其境遇とか言ふものからして、己れは是にならうと云ふことを志願して、学問をされるのが相当であらうと思ふ。然るに、此根本を打ち忘れて彼が何になつたから、是は斯うであると云つて、俗に申す仕入れ向人間を作ることにして、誂向人間を作ることを忘れて仕舞ふと云ふことが、教育に属する風習である。お集りになつた諸君にも其風が若しありとしますれば、余程御注意にならなければならぬと斯う思ふのであります。但し左様申すと云ふと、百姓に生れた人は、必ず鍬を担がなければならぬ、小売商売の家の子弟は、一生小売商売で居なければな
 - 第45巻 p.131 -ページ画像 
らぬかと云ふ質問が生ずるかも知れませんが、物の向上を図ると云ふには、然う云ふものではない、百姓が商人になるも宜い、商人が官吏になることも、己れの才能を揣つてする職業の変化は、必ず為して悪いとは申しませぬけれども、唯宜い加減に、己れの身体を一通り合格に作つて置いたら、それから先は誰か買つて呉れるだらうと思ふのは自分の身体を仕入的に作るのであつて、甚だ面白くないことゝ思ふ、今日維新以後の政治風が会社風に世の教育の風習が向ひ、著しい需要に応ずると云ふ教育の風が、尚ほ存して居りますから、学問を修めるに、自家の用に足すと云ふ観念が薄くして、世間の需要にのみ応ずる考で学問をする弊害が、私は甚だ多いと思ふのであります。是は追々に改まつて来ぬといけないと思ふのです。知事閣下の教育に対する頗る適切なる御注意を下さいましたので、自分の始終此の教育に対して有つて居る考――大体に於て教育は進むので其利益と因て生ずる弊害――是等のことは始終自分も思ふて居ることで、是まで数回各種の席で申述べたが、未だ此学友会ではお話申したことがありませなんだから繰返すのであります。
 而して此教育に対する、私の極簡短なる意見はどうであるかと云ふと、此教育調査会の制度を変更して欲しいと云ふにあるので、其趣意を私が玆に極く手短かに申述べますと、第一に今日の教育制度に於て余程注意したいのは小学教育である。此小学教育が、どうも今の有様では、多数の教育をするのであるからして、已むを得ぬことでありませうけれども、甚だ私は不満足極まると思ふのです。それは、平たく言へば、教師が甚だ下級である。甚だ下劣である。如何に子供であつても、最う少し立派な教師を以て教育をすると云ふ仕組が無ければ、余り其生徒の品格が悪くなりはしまいかと云ふのです。併し此の善くすると云ふことが余程難しいので、如何にすれば良くなるかと云ふことに就ては、実は私にも案が無いのであります。併し一つ斯ふ云ふ考を持つて居ります。それは、小学校に名誉校長と云ふものを作つたら宜くは無いかと云ふのである。一例を申すと、私は現に、此東京市の養育院の院長と云ふ名を持つて居る。此の院長は東京市の市吏員である。東京市長の命令の下に、西に東に駈け歩かなければならぬ役目であります。けれども、幸に名誉院長であるから、今申す程の吏員的働をせぬでも宜しいのです。養育院の事務は誰が執るかと言へば、幹事副幹事が執る。併し大体の方針は院長に任せられて居るのです。現に玆に医長の伊丹君なども御出でになつて居りますから、養育院の院長の事務を、どれ位に渋沢が執つて居るかと云ふことをお導ね下すつても分りますが、日常出ませぬけれども、大抵重なることは私の方針にあると斯う申しても過言では無からうと思ふ。又是れに従事する人々が、大抵私の考を主としてやつて居られる。去らば、日々自分は出るかと言ふと私は些とも出て居りません。毎月十三日が必ず出る日であるが、其外には一度か二度、漸く月に三度位しか出ません。けれどもそれで、私の精神は養育院に注ぎ入れる事が出来て居ると思ふ。尤も此養育院の事務が、隅から隅まで届いて居るとは申しませぬけれども渋沢流が養育院に行はれて居ると云ふことは―其流が悪いにしても―
 - 第45巻 p.132 -ページ画像 
確かに申されます。名誉校長が自ら事務を執らなくとも、事務を執る人は外にあるから、若し小学校に地方の功労ある人とか、教育ある人徳望ある人とか云ふ地方の豪族の種類の人が、充分の心掛を以て校長になられたならば、其の教員はそれ程高級の人でなくても、もう少し品格を良くすることが出来はすまいかと思ひます。教育調査会にさう云ふことを言ふて見やうと思つて居るけれども、全国に通ずる法律であるから、是れは私の思ふだけで出来まいと思ひますが、兎に角今日の小学教育をもう少し進めたい、良くさせたいと言ふことを私は希望して居ります。何故ならば、三ツ児の魂百までゞある。子供の時の観念は実に大切と思ふからである。是は皆諸君が自覚して下さるでせう私共十二・三歳までのことは一番能く記憶して居る。二十四・五までのことも覚えては居るが、子供の時の事ほど判然として居ない。昨今のことはどうかと言ふと、用が多くなつたのか、記憶が無くなつたのか、一週間前のことを忘れて了ふ。若葉の頃の疵が、大木になつても残ると云ふ如く、小学教育を極く粗雑に極く下級な人格の無い人に任せて置くと云ふことは洵に情ない。若し障りがあつたら失礼であるけれども、小学教員に立派な人格を求めるのは御無理千万なことで、殆ど比久尼に髪を結へと言ふのと同じやうな話である、是は何とか一つ考へたいと思ふのであります。
 それから此高等学府まで進んで行く年齢が、元来二十四まで位で進んで行く割合ださうですが、色々の妨げから、或は容物がないか、或は選抜試験などが大変窮屈であるとか、又学年にも種々な事情があるのとかで、どうしても数へ年では二十七・八にもなる。私は、今年七十六歳でありますが、十五から働いて是で六十年殆んど働いて居ります。若し三十歳になつて、会社に出るとか、事業に従事するとかすると、六十位になればもう老爺さんであるから、私は六十年働いて居るが、其人は三十年しか働けない。仮令其人が大変賢いにした所が、倍働くものと半分しか働かぬものとは、其効果は非常に違ひませう。況んや同じ能力同じ働きの人ならば、其効能の違ふことは云ふまでも無いのである。故に私は高等学府を終るのを、二十四・五若くは二十三歳まで位にしたい、さうして早く人間を作つて、活動の期間を長くしたい。是には、考へたならば二年位は詰める工風がありはしないか、中学から大学に進む階級に於て、どうしても二年位縮める工風をしたい。それから、今の学生が果して左様と決つては居らぬやうには見えますが、段々先生方から聞いて見ると―又じつと見て居ると―どうやら所謂階級教育で、一番終りまで行かなければ何やら物足らぬ、お茶を飲んで仕舞はなければ御飯が済まぬ気がする、途中でお焼物でちよいと止めて仕舞ふと、飯が済まぬやうで気持が悪い、さう云ふ心持で最高教育の最終まで行かねばならぬやうに思つて居る。さうして自己の能力・資力・境遇と云ふことを忘れて、何でも最高まで行かうと云ふ風習が増して来たやうである。是は当人にもあり、父兄にも此の嫌があるが、是は除かねばならぬ。で成る可く、階級感念を残さぬやうに改める。それは平たく言へばもつと大学の程度を低くするが宜い。而して大に研究をしたいものは、何時までゞもやれるやうな組織にす
 - 第45巻 p.133 -ページ画像 
るが宜い。
 それから又此学校に就て今までの弊風を論ずると――玆にも官立を卒業なすつた方が多いやうであるから、官学に対して彼是申すと官学に対して失礼なことを云ふとお考への方もありませうが(笑声起る)どうも、此学問の独立と云ふやうなことが、この官立と私立とは違ふと云つて区別をして居ると、何も彼も独立しない様になる。尤も我々実業も甚だ不独立であるが――所謂官臭などがどうもあつてならない是が独立でない証拠で、どうも此学問などにも独立の少ない有様が免れぬ。併し、兎角此の官の学校が余計威張つて、私の学校が後に居ると云ふのは、独り設備の如何のみならず、或は其威力の及ぼす関係が強いと言ふことは、今まではあつたと思ふ。併し追々に少くする傾は生じて来て居る。こりや政府もさう思ひなさるし、一般も左様希望するからであらうが、私共は此傾を歓迎する。御役所学問政府学問――学問を命令する、政権によつて学問が尊くなると云ふことはいかぬと思ひますから、学に官私の階級がないやうにして、他の設備、教員の能不能によつて、学校の良否を見るべきで、官たり私たるに依つて、彼を是とし之を否とし、彼を主とし之を従とすべきでない。政府に属すると否とによつて価値を云ふことは面白くない。此等が、私が教育に対して改良したいと思ふのである。此の官私の別を付けなくすると云ふのは、学位令とか大学校令の草案に出て居り、新聞にも出て居りますが是は私共の希望が行はれさうであります。行はれさうであるが果して規則と云ふと法律と云ふかそれが工合よく行くとは、未だ未定に属して居ります。恰度、先程此の地方の教育に就ての御希望なり御考なりが御話に出ましたから、此事を諸君に申さうと思つて、私が此処へ出た訳ではなかつたけれども、教育の調査会に自分も出て居るから、私の教育に対する希望は斯うである、又従来の教育上の傾向は斯斯であるから、諸君が其利を取つて害を避けるやうに致したいと云ふことを申述べたのであります。
 もう一つお話し申して置きたいことは、先刻も添田君が、頻りに若いお人々の、此の位置の進んだ帝国に対する責任を深く思ふて、所謂奮励一番して戴かねばならぬと仰しやられたが、私共は特に斯かる演説の際に申すのみではなく、平素銀行へ出ても申しますし、事務所に居つても申します。甚だしきは途中に於ても言ふと云ふ風に何時でも其事を言ふて居るが、偖て口で云ふ如く効能が現れて来ぬのが遺憾に堪へません。先刻亜米利加のギリツクと言ふ人が、人と言ふものに対して面白い説を述べたと云ふことに就て、添田さんからお話があつたが、今日其人が女子大学に来られて述べた演説中に、解り切つたことですが、甚だ面白く述べられた一句がある。其の外国人の話を此処に繰返して申すならば、此世の中にある動物と云ふものゝうちで、人間ぐらゐ厄介千万なものは無いと、斯う云ふ申分である。さう言はれて見ると、我々は人ぐらい尊いものはないと思ふて居たが、反対に考へるとさう言ふ理屈があるのです。殊に長い間の世話をしなければ是が物にならない。今の教育などゝ云ふと三十年であるが、三十年まで何も彼も人の世話になると言ふではありませんが、鶏などを見ると、自
 - 第45巻 p.134 -ページ画像 
ら餌を拾ひ、牛や豚でも生れ落ちると―犬などは眼を開くまで乳を呑むが―大抵それそれ直ちに自身の働きで自身で生活をする。或は動物によつては悪いことをすると云ふことがあつても、其悪さの極度が甚だ少い、我儘なことをするとか、苛酷なことをするとか、惨酷なことをするとか云ふても、物が慾しくなれば、猛獣の如きは人を食殺すと云ふことをやりませうけれども、併し誠に其範囲が狭い。其禍害の及ぶ範囲が少い。其処まではギリツクは申しませんですが、更にギリツクの説を拡充して申すと、左様な意味に渉るやうです。併し人にしては、若し悪いとなると何のやうな害悪も為し得らるゝ実に厄介千万なものであると言ふのであるが、併し此の人には一つの心理作用がある此の心理作用が、又長く人の厄介になるべきだけの必要なる働を其処に生じて来るのであるからして、悪いと云ふ方が悪いに止まらないかはりに、若し能くすれば大変に能くなるのである。人の必要を、反対の困る方から説いて、人たるものゝ必要を却つて重くすると云ふ論法であつたので、逆に取つて其説を強める一つの演説の妙であつたらうと思ひます。私は人は色々の宜いことをせにやならぬと思ふが、其の為すべき事柄に於て殊に甚だ必要と思ふのは、犠牲の観念を、是非もう一層お互一般に、強める工風をしたいと云ふことこれである。物質的文明の進む程自家の利益を増さう、自家の都合を図らうと云ふことが段々多くなつて参りますから、其の方の智慧は日に増し進んで来るやうであるが、其念慮が余り強くなると、成程今のギリツク氏の云ふ通り、知識の進む程学術を逞ふして――若し之を極端に云へば、其弊害が増長するとも言ひ得るだらうと思ふです。例へば動物であれば如何に悪いとしても――動物園の虎が逃出しました処が、一人か二人に怪我させれば、其うちには退治が出来るけれども、若し是が智慧のある心理作用の完全な何も彼も進んで居る人で、犠牲的観念の少しもなく、只自分の都合、自分の慾だけを満足せしめたいと云ふ考を持つて居るものであつたならば、其弊害は何処まで行くか、世界の動乱を惹起するのも即ち矢張り人であると、斯う言はなければならぬだらうと思ふ。さう考へると――ギリツク氏は其処までは言はなかつたが――如何にも人と言ふものは尊いものであつて、又恐ろしいものであると云ふことを言ひ得る。併し其の人をして、全く尊からしむると云ふことは、所謂利己主義と言ふことを棄てて、犠牲的観念を強からしむると言ふことが、私は甚だ必要な条項ではあるまいかと思ふ。玆に至ると、西洋の教へと東洋の教へとは、或は彼、我に下ると言ふことが充分に言ひ得るでは無からうか。試みに申せば、若し今日欧羅巴の動乱は、私の今云ふが如き、真に犠牲的観念の強い人間が多かつたならば斯の如き有様にまではなりはすまいと私は思ふのである。併しながら此の東洋の風習と云ふものは、殊に我国等では此犠牲的観念――俗に云ふ縁の下の力持――此徳性が幸にまだ摩滅し切らぬやうである。併し傾向を言ふと、段々斯の風が薄らいで、唯目前の体裁を合せ、己れの責任を免れるとか、義務を怠ると言ふ風になつて、段々自己の都合自己の利益を先にすると言ふ風習が余程浸潤して来たやうである。それで、此の犠牲的観念は、寧ろ我国の固有のものを涵養し、同時に一
 - 第45巻 p.135 -ページ画像 
方に於て西洋の文明から其学問技術等の長を取つて今日まで我国の贏ち得た地位は、何処までも学問により、所謂科学に依つて進めて行くことを努めなければなりません。併し其の為めに、今申す唯自己さへ幸福を得ればそれで満足と云ふことは、即ち申すまでもなく所謂此犠牲的観念を全く滅却するやうになるのである。論語の教に、此犠牲的観念に適切なる教は余り私はまだ見出しませぬけれども、譬へは『有殺身以成仁』と言ふやうな教もあります。是は犠牲的観念を最も能く言ひ現はした言葉で、其他にも『与普人同、与斉人同、与燕人同』と云ふのがある。是も矢張り己れを捨てゝ人の為にするを言つたので、も一つ軽く申せば『人不知而不慍。不亦君子乎』と言ふのがある。皆是れ己れと言ふものを成たけ空しうして、人に対する思ひ遣りを強くすると言ふにあるのであらうと思ふ。例へて言へば、己れがしたことに就ては、大いに力を尽したことにせよ、夫れによつて或は名を得るとか利を得るとか云ふ観念は微塵もなく、是は唯尽すべきものだから尽すのだ、尽すだけ尽せばそれから後は何にも関する所はない、欲する所はないと、斯う云ふ観念を以て尽すのが犠牲的観念であると思ふのである。故に私は昨年の会に於て畠山重忠に就て、武蔵武士で見ましたところを以て、其の人と成りを言ひましたけれども、あの人などが真に犠牲的観念の強い人であつたやうに思ふ。とうとう北条に虐げられて、ありもせぬ事を重保を謀叛として途中で殺した為に館に召状が行つたので、もうこりや果して北条が申合して、自分に禍を与へるのだと思ふたけれども、行かぬのは卑怯である、未練なことをしてはならぬと言つて、僅かな兵を率いて行かれて、大軍に向つて潔く討死をされた。誠に不幸に終つたからして其時分の歴史の書方も明瞭でないけれども、併し真に犠牲的観念の多かつたお人であつたと思ふ。此等は智慧の多い欧羅巴人には決して出来ないことゝ思ふ。玆に至ると我々は欧羅巴の智識、欧羅巴の科学を充分に理解して、此犠牲的観念だけは我々が失はないやうにして行つたら、西洋の人達は是に対して些とは尊敬を払ふやうになるであらうと思ふ。譬へて申せば、虎には翼はないが、虎だけの性質を備へつゝ翼が我々に着くと言ふことになつたら、欧羅巴人が我々日本男児を目して、日本は油断が出来ぬと言ふことにならう。斯くして進んで我々は大に世界に重んぜらるゝ人間にならなければならぬ。若し科学を充分に応用し得る力があつて、而して犠牲的観念が完全に保ち得らるゝならば、即ち虎に翼を添えたる国民たり得るだらうと思ふのであります。殊に青年のお方々には、犠牲的観念を成るべく能く翫味して戴いて――悉く畠山重忠になれと言ふ訳ではないが――此の心を以て進めば商売人にも畠山重忠は出来るのである。唯馬に乗つて出るとか、戦に強いと言ふのでなくとも、畠山重忠の精神は必ず採用が出来ますから、どうぞさう御承知をなさるやうに願ひます。之を今日の私の御話と致します(拍手喝采)