デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.145-149(DK450047k) ページ画像

大正7年10月31日(1918年)

是日、当会ノ三十周年記念祝賀会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シ、演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK450047k-0001)
第45巻 p.145 ページ画像

集会日時通知表  大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
十月三十一日 木 午前十時 埼玉学友会園遊会(飛鳥山邸)


委員日誌(四)(DK450047k-0002)
第45巻 p.145 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

学友会報 埼玉学友会編 第二六号・第五三―五四頁大正八年二月 【○上略 大正七年十月三十日…】(DK450047k-0003)
第45巻 p.145 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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学友会報 埼玉学友会編 第二六号・第五五―六二頁大正八年二月 渋沢男爵の演説(DK450047k-0004)
第45巻 p.146-149 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第二六号・第五五―六二頁大正八年二月
    渋沢男爵の演説
 本日は学友会の三十年を記念する為めに、玆に祝賀会が開かれたのであります。お集りの中に三十年の昔を御記憶の方は数が少いだらうと思ひます。況や学友会の学生の諸君は大抵新陳代謝されて居りますから、当時の会員たる人は必ず無からうと思ひます。斯の如き長い歴史を持つ処の学友会に相変らず会頭の位置に任じて居ります私が、尚且つ今日此席で諸君に三十年の昔を語ることの出来るのは、自分も喜び諸君もお祝ひ下さるであらうと思ふのでございます。私から云ふと三十年が左様に長く感ぜぬのである。是は年の数の多い為めで、一つの人が十年経つて十倍して十になる。所謂三年経てば三つになるのであるが、八十に垂々とする私からは三十年は半分にも足らぬ歳月であるから、諸君とは大に感想が違ふ。是は余談であるけれども、私は青年の頃長く京都に住居したことがあつて、近江なる唐崎の松を度々見た。それから明治二十八年の秋、恰も三十年の歳月を経て、再び唐崎の松を見に行つて、自分の身が大層に変つて居るから、唐崎も松も同様だらうと思つて見ると、些とも変つてゐない。昔の通り葉も枝も大きくも小いさくもならない。そこで私が能く考へて見ると、彼は千年も生きるから、三十年は何でもないと自覚して斯う云ふ歌を詠んだことがあります。
 千とせ経る松は三十年もつかの間と変り行く世を余所に見るらむ
是は今日のお話に必要はありませぬが、三十年と云ふから想ひ出したことですが唐崎の松は三十年経つて少しも変らぬ。私も唐崎の松のやうに変らぬとは云はれぬけれども、併し諸君の其時には生れもせぬ人が学生になつて居らるゝに比べると、私は左程に変らぬから、世の中の変化も人に依り、時に依つて差別があると思ふのでございます。
 私と学友会との関係は多分神田の開化亭とか云ふ所にお招を受けて私が其席で斯様に埼玉県人の打寄つて、私も又同県人として之に加つて、一の学会を造ると云ふは洵に喜ばしいことである。敢て当らぬとは思ふがお仲間入をして、多少のお世話を致したいと云うて会頭を引受けたのは、丁度明治二十一・二年頃でありました。即ち今日三十年を紀念する其起原は斯様であつたと思ひます。
 只今学友会の沿革に就て滝沢君の御談話中に、其後出来た誘掖会が本県出身の先輩の人の多く加盟して居る為めに、学友会は是より先の成立で広い意味ではあるけれども、先輩の人々は屡々会合も出来ないから、何だか親疎の差別ある如く見ゆるけれども決してさう云ふ趣意ではないと御説明がありましたが、是は全く滝沢君の御解釈の通りであつて、学友会は広い意味に県人の東京に留学する学生の総体を一致せしむるやうにと云ふ機関である。又学生誘掖会は其学生中の希望者を場所の許す限り寄宿に入れ、而して此寄宿舎に這入つて来れば、是等に対して成るべく学生が自治の生活をするけれども、或る時には打寄つて茶話会若くは其他の用務に弁ずるので、自ら差別されては居るけれども、吾々県出身の老人達の見る所では、其成立の違ふ為めに、
 - 第45巻 p.147 -ページ画像 
彼に重く此に軽いと云ふやうな事は全く無いのでございます。学友会は例年紀元節を以て大会を開いて、学生たる人の心懸、埼玉県人の覚悟、又は其時々の問題に就て斯くありたい、斯様に望むと云ふことを私自身も演説し、或る時は種々なる学者先生を聘してお講演を戴き、同時に相集つた人々が各自の無事を祝し、将来の発展を期すると云ふことを、いつも相変らず致し来つて居るのである。況や此学生誘掖会の経済に幾分の余力を生じますと、学友会へ助力して便宜を増すと云ふことは、年一年に進んで来ることゝ思ひますから、私共県の老人達は当会に対して彼此の差別ないと云ふことは、どうぞ諸君も宜しく御承知あるやうに致したいと思ふのでございます。
 大分時間が遅れましたから余り長い談話は致しませぬ。而して玆にお申訳をしますのは、誘掖会の方に用務がありまして、為めに時間を費しましたから学友会の諸君に大に陳謝致さなければなりませぬ。此上更に時間を取りませぬやうにしますが、私は斯かる機会に、お集りの学生諸君に、充分なる覚悟を以て学問を修めて世務に就くと云ふことをば特に申上げたいと思ふのでございます。帝国の現在の有様は追追に進歩発達して参つて、三十年の昔を回想すると、尚ほ維新以前を学友会成立の時に見るよりも多く進歩して居ると申しても差支なからうと思ふ。況や今般の欧羅巴の戦乱は、一方から云へば世界の惨事で寔に痛ましいことである。且つ帝国も聯合国の一員となつて居りますから、どこまでも戦時として力を尽さなければならぬことは論を俟ちませぬけれども、併し戦争の土地と隔つて居りまする為めに、寧ろ或る点から云へば悪影響は少くて、好影響が多いと云ふことは、諸君も御承知の通りである。殊更此経済上、即ち物質文明の進歩と云ふものは、此三・四年の間は著しい有様であります。此著しい有様は我帝国の実力を大に進めたやうには思ひまするけれども、物には必ず善いと云ふことの裏に悪いと云ふことが附随する。往昔水戸の義公の格言に「楽は苦の種、苦は楽の種」と云ふことがある。常に人の身には権利と義務とが綯へる縄の如く聯絡する。権利があると直ぐ義務がある。名誉を得ると直ぐ責任を生ずる。それと同じやうなる有様で、玆に述べたる戦争に付ての好影響は玆に憂ふべき一の禍根を含むと云ふことを覚悟せねばならぬと思ふのでございます。蓋し其憂といふは、独逸が復讐に来るであらうとか、亜米利加が独逸に代つて日本を窘めるとか云ふのではありませぬ。帝国の人民己れ自身が其禍を惹起しはせぬかと思ふのである。己れ自身と云うても諸君を言ふのではないけれども、日本の国民全体が善いと云ふ仕合の中に、悪いと云ふ弊害の包含すると云ふ事を覚悟せねばならぬのである。試に戦争の熄んだ後はどうなるかと問はゞ、必ず此の経済界に大なる変動を惹起するに相違ないと答へる。又資本と労働との関係も、今日の有様は仮令物価が高いにもせよ、左様に労働者も困難は言はぬのである。此間の米騒動は、実は事を好む者の矯激の行動から惹起したとも云ふべきでありますけれども、向後労働者の生活に真実困難なる場合が生じたならば、是は大に憂慮すべきことである。一方に事業が衰退して来れば資本家はどうしても之に向つて節約をせねばならぬ。而して労働界の人は事業が
 - 第45巻 p.148 -ページ画像 
段々に減じて反対に経費が増して来る。其結果は収入は減じて費用を減ずることが出来ないと云へば、遂に窮乏に至らしむると云ふことが無いとも申せぬのでありますが、併し目下の現況はそれにも拘らず先づ好景気と云ふて何事も賑かである。料理屋も繁昌する、デパートメント・ストーアもお客が多い。到る処にさう云ふ風潮を為して居りますけれども、是が前に申す通り楽は苦の種たる事を忘れてはならぬと思ふのでございます。
 是等の一般に関する注意を、今玆に学友会の諸君に望むのは或は当を得ぬかも知れませぬが、私は学生諸君に特に反省を乞ひたいのは、今日の教育は、前に述べたる綯へる縄の一方の権利若くは名誉だけを能く教ゆるけれども、義務責任の如きは之を訓誡することが甚だ少いと思ふ。故に一般の人々が犠牲的観念と云ふ事には、言論の上では述べるけれども、己れ之に任じて俗に申す縁の下の力持と云ふ事に堪へる人は甚だ乏しい。故に権利論に於ては各学校でも能く物議を惹起するが、之に反して善く責任を尽したと云ふ人は甚だ少い。是は私の今日に於て大に憂へねばならぬ事柄と思ふ。一国の人民が其位置の進んだこと其力の増したことに就て、只其権利だけを知つて義務を知らぬ名誉だけを知つて責任を知らぬと云ふことであつたならば、其行き詰りは大きな谷へでも落るやうになるとまで懸念せねばならぬのでございます。前に述べた好い景気に狎れてはいけぬと云ふことは、寧ろ一家を成したる人に向つて注意すべきことであるけれども、次の権利義務の関係に於ては、学生諸君は権利――知識と云ふ方にのみ教育を受けて居るから、私は之に対して義務責任と云ふことを共に修養なさるやう切に企望するのでございます。
 是は茶話会等に述べたことがあつたかも知れませぬが、どうしても人は一方面のみに依つて世に立つものでない。論語に質勝文則野。文勝質則史。文質彬彬、然後君子。と云ふ句があります。質朴が文即ち文りに打勝つときは、其人が粗野になる。併ながらそれは完全ではない。又文勝質則史。史と云ふはフミと訓して文華に慣れ、礼法に熟する、文学上の行届いた所を云ふたもので、文華が質実に打勝てば即ち史となりて、どちらもいけない。文質彬彬、然後君子。丁度前に述べたる権利義務も尚同様で権利の主張も甚だ必要であるが、同時に義務を尽して始めて完全なる人たることを得る。故に文質彬彬、然後君子と云ふことは、権利義務として見ると能く解釈が出来ると思ふのであります。種々なる古書に就て諸君に訓示するやうでありますが、小学に斯う云ふ事があります。後漢の馬援が子弟を戒めた一章がある。頃日思出しましたから書いて置きました。馬援兄子厳敦、並喜識議、而通軽侠客、援在交趾、還書誡之曰、吾欲汝曹聞人過失、如聞父母之名身可得聞、口不可得言也、好議論人長短、妄是非正法、此吾所大悪也寧死不顧聞子孫有此行也。今日の学生には此様の人が随分多くあるやうです。自分の仕事は些もしないで、人の長短を議論し、妄是非正法困つたものだ。あの人はあんな馬鹿な事をして居ると他人を批評はするが自分は何も出来ない。馬援の時分にさう云ふ人が多かつたが、今日の学生にもさう云ふ種類の人は沢山ある。是は大に慎まなければな
 - 第45巻 p.149 -ページ画像 
らぬ。此吾所大悪也。寧ろ死ぬと雖も子孫に斯う云ふ行の有ることは聞くを望まないと云うて居る。殊に尚ほ馬援は例を引いて更に玆に示して居る。此比例が甚だ面白い。竜伯高敦厚周慎、口無択言、謙約節倹、廉公有威、吾愛之重之、願汝曹効之。竜伯高と云ふ人は緻密で慎み深くて、何事を聴いても御尤だと答へて、口に択む所はない。謙遜で節倹で、洵に純潔でさうして威厳がある。吾愛之重之、願汝曹効之それから反対に杜季良――是も竜伯高と同じ頃の人である。杜季良豪侠好義、憂人之憂、楽人之楽、清濁無所失、父喪致客、数部畢至、吾愛之重之、不願汝曹効之也。杜季良と云ふ人は豪侠義を好む、侠気のある人で、極く人の憂を憂へ、人の楽を楽む、清濁併せ呑むと云ふ人で、父の喪に客を致しても数郡の人が残らず来ると云ふ位の人望の多い人だ、馬援は之を愛し之を重んずる。併ながら子弟にそれに効ふと云ふことをば求めない。其訳は次に書いてある。効伯高不得猶為謹勅之士、所謂刻鵠不成尚類鶩者也、竜伯高に効へば仮令竜伯高だけにはならぬでも諄朴の人にはなれる。故に鵠を刻んでそれに成れないでも鶩にはなれるから汝曹は之に効ふ方が宜い。効季良不得、陥為天下軽薄子、所謂画虎不成反類狗者也、どうも今日は犬に類する学生が段々出来さうになることを私は深く憂へるのである。満場の諸君が左様とは思はぬけれども、小学の教に書いてあることは、伏波将軍馬援と云うて、後漢の名高い軍人であります。軍人であるけれども、斯う云ふ巧いことを申し置かれた。前にも述べた学生の権利義務に就ても成べくたけ一時の軽薄才子たることを嫌ひます所から、丁度馬援の言葉を思ひ出しましたので玆に引用致したのであります。
 上来の陳述は只訓誡のみで祝辞に当りませぬけれども、蓋し斯かる会合は、唯お芽出度いとばかり言ふよりは、寧ろ将来に要する苦言を呈して、諸君の御記憶を願ふのは決して無用ではなからうかと思ふ老婆心でございます。
 三十年の昔、神田の開化楼で二十人余のお寄合に、私は此学友会の会頭をお引受したやうに覚えて居ります。爾来実に限りない変化をして、今日斯の如く多数相集つて、而かも学生のみならず県下出身の有力なる諸君までお来会ありて、玆に祝典を挙げ得たることは、不肖永年の会頭を勤めた身には諸君より以上に嬉しく思ひます。併し此喜びを何時までも継続するには、学生諸君が飽くまでも善い性質を以て、能く進展して行つて下さらなければ、其喜びが変じて憂とならぬも限らぬのであります。埼玉学生誘掖会寄宿舎の要義として七箇条を備へてあることは、学友会の諸君も必ず御承知であるだらう。今滝沢君も言はれた通り、どうぞ此埼玉学生気質を追々に拡張して、埼玉学生には決して軽薄の人はない、義務を知らぬ人は無い。責任を重んぜぬ人は無いと云ふことになるやうにいたしたいと私は深く希望しまするので、今日の祝辞と共に平常希望する所を一言申添へたのでございます小学の馬援の言葉は軽々にお聴流しにならぬやうに、諸君の御注意を乞ひたいのであります。(拍手喝采)