デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.179-183(DK450057k) ページ画像

昭和7年1月24日(1932年)

是日、当会主催ノ栄一追悼会、大塚市民館ニ於テ開カル。遺族ヲ代表シテ男篤二参列シ、謝辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第五二五号・第六五―六六頁昭和七年六月 埼玉県学友会の青淵先生追悼会 昭和七年一月廿四日大塚市民館に於て(DK450057k-0001)
第45巻 p.179-180 ページ画像

竜門雑誌  第五二五号・第六五―六六頁昭和七年六月
    埼玉県学友会の青淵先生追悼会
      昭和七年一月廿四日大塚市民館に於て
 埼玉県学友会では、青淵先生の追悼会を昭和七年一月廿四日の日曜日、大塚公園内の大塚市民館講堂にて催ふした。此の日風のない薄曇りの日とて一入哀痛の気分に満された。
 出席者は副会頭本多静六氏を始め、矢作栄蔵氏・斎藤阿具氏・渡辺得男氏・尾高豊作氏・今村正一氏・岡田恒輔氏、また埼玉県人会幹事の関口児玉之輔氏・関柢二氏・山口六郎次氏等の外、学生男女会員約三百名であつた。尚ほ遺族を代表しては渋沢篤二氏が列席された。
 定刻午後一時開会、理事中島時次郎氏開会の辞に代へて追悼の言葉を為し、先づ参会者の涙を誘ひ、次いで本多副会頭の感慨いとも深い追悼の辞があり、終つて参会者一同起立して霊前に目礼参拝を為したが、厳粛にして静寂のうちに思ひをこらせば、場内には威大なる先生の遺徳が満ち亘つて居る感じがひしひしと迫つて来る。
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 続いて追悼演説に移り、文学博士斎藤阿具氏情理を尽して先生の徳を頌し、後学生代表として法政大学生笠間敬三郎氏及び拓殖大学生吉田豊隆氏立つて、各専門の立場から青年学徒の純情を披瀝し、青淵先生の遺訓を讚へてこれを守るべしと契ひ追憶の涙にくれた。
 最後に渋沢篤二氏は遺族を代表して一場の挨拶をされ感謝の意を述べた、それが終つてから中島理事の閉会の辞があり、式を閉じたのは同二時十分であつた。


埼玉県人会報 第二四号・第二六―二七頁昭和七年四月 学友会主催の下に故渋沢子爵追悼会開催せらる(DK450057k-0002)
第45巻 p.180-181 ページ画像

埼玉県人会報  第二四号・第二六―二七頁昭和七年四月
    学友会主催の下に
      故渋沢子爵追悼会開催せらる
 埼玉県出身専門学校各大学在学者を以て組織する埼玉学友会は、去る一月廿四日大塚市民館講堂に於て前会長故渋沢子爵閣下の御遺徳を偲び盛大なる追悼会が催せられ、定刻理事の中島時次郎氏は渋沢大翁の御遺徳・大人格を讚へ、第二の渋沢は我々学友会員中より、否先輩県人より送り出さねばならぬが、時局多端の折柄学友会のため郷土埼玉の為め国家社会のため自重自愛奮闘せねばならぬと高潮し開会の挨拶を述べ、続いて副会長本多博士は故子爵の霊前に額き、子爵の崇敬円満なる御人格は今更申上げる迄もないと前提し四十年来の知遇を語り、後参会者一同起立霊前に目礼参拝する。厳粛な空気はさしも広大な講堂に満ち、在りし日の大翁の事ども追憶され、打ち湿りたる場内咳一つ発する者なく崇高威大な御遺訓は犇々身に迫るを覚えぬ。
 続いて第一高等学校教授文学博士斎藤阿具氏は緊張した御様子で壇上に現はれ、世界的偉人渋沢子爵を喪ひました事は我が国は勿論でありますが、我々県人にとりまして悲しい極みであります。
 今日学友会の追悼会に臨みまして、一言私の感想を申上げ度いと存じます。私が学生誘掖会の寄宿舎監督・理事を御辞退申上げましたところ故子爵は『この老人を辱しめるな』と一すぢに私を御推薦下されましたので、其の後度々面会の機会を得、子爵の偉大な人格に接して居りましたが、故子爵は孔子の教を体得せられ全部を実現された方だと信じて居ります。孔子を産んだ支那は満蒙事件がなくも過去に於ては孔子の教を実現した者はないが、我が渋沢子爵にして始めて実行されたのであります。学問をお好みになると同時に智・仁・勇を言葉通り実行されて居り、仁・義・礼・智・信、五常の道を兼備された偉人でありました。特に私の感じて居りましたことは『至誠』が徹底的であつたと云ふことであります。世間普通至誠と申しましても多くの場合解剖して見ると自己が潜んで居るものであるが、子爵の一言一行何れの場合にも絶対自己といふ観念がなかつたのであります。子爵は生前実業界・日米問題・社会事業等々幾多御関係せられ御尽瘁せられましたが、人気を博さうなぞいふやうな心はなく『至誠無息』の訓を奉ぜられ、人間を離れた偉人を失つたことは誠に残念であります。子爵には小我がなく人を害さず、社会に害を流されず、名誉アンビシヨンをお持ちになつて居られたのであります。
 大渋沢翁を失つた我々は県人の理想として第二・第三の子爵を社会
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に送り国家社会の為めお尽し致さねばなりません……と参会者を激励され、続いて法政大学々生笠間敬三郎氏は『経済学徒の立場より見たる故渋沢子爵』なる題下に雄弁を振ひ、拓大吉田豊隆氏は左傾思想・アメリカニズムを排撃し、時局問題を論じ満洲視察の梗概を報告し、時局多端な折柄、挙国一致国難打開に邁進せねばならぬと説き青年の奮起を促し、言々句々燃ゆるが如き熱弁に参会者に多大の感動を与へ遺族に苦言を呈し青年学徒の純情を披瀝し大翁の遺訓を讚へて悲憤慷慨せられ拍手を浴びて降壇、遺族を代表して御出席の渋沢篤二氏は、大要左の如く慇懃なる挨拶をせられた。
 本日は私の息敬三がお招き戴きましたので親しく皆さまに御挨拶申上ぐべきでありましたが、病気の為め引き籠つて居りますので代理として私がお伺ひいたしました。
 父の歿後各種団体のお催しで追悼会が開かれましたが仏が嬉しく感ぜられたであらうと存じます追悼会は、郷里血洗島の追悼会と本日であらうと存じます。
 仏は生前生気溌溂たる若い方と談笑するのが好きであり、又力めて居つた様であります。
 又無二の健康法のやうでありました。父は昨年四月頃から腸を害し八月レントゲンにかゝりましたところ狭窄症状を発見し、排便に困難を生じ、十月始めから本式に起つことが出来なくなり、十一月十一日大往生を遂げられましたが、渋沢家としては大黒柱を失ひ誠に遺憾に存じますが、本人は人事不省で長く居りたくないと常に申して居りましたが、死を超越し生を忘れ只天に委せて静かに養生し、安らかに大往生を致しましたのでありますから、幸の人であつたと申さねばなりません。
 御承知の父の病床からの遺言「私は帝国臣民として、また東京市民として行届かぬながらも兎にも角にもこれ迄御奉公して参りました……また私が瞑目しても私の霊は地上に残つて皆さんと共に共に働くつもりですから、位牌として他人行儀に扱つて下さらぬやうに……と御座います。父の霊はこゝに参つて皆さまの御健康を祝し、学友会の前途を祝福して居ることゝ存じます。
 遺族一同を代表して謹しんで御礼申上げ御挨拶といたします。
      ×
 埼玉学友会にては会報第三十八号を故渋沢子爵追悼号とし当日参会一同に配布せられたが、巻頭数葉故子爵の写真を挿入し、本多副会長始め斎藤・渡辺・河野・今村・滝沢諸評議員の追悼文を掲載し、在りし日の面影を偲ぶにふさわしい編輯振りを発揮せられ好評を博した。


学友会報 埼玉学友会編 故渋沢子爵追悼号第三八号・第七―一一頁昭和七年一月 渋沢会頭の薨去を悼む 本会副会頭林学博士 本多静六;青淵先生の青年指導 本会評議員文学博士 斎藤阿具(DK450057k-0003)
第45巻 p.181-183 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編
             故渋沢子爵追悼号第三八号・第七―一一頁昭和七年一月
    渋沢会頭の薨去を悼む
                 本会副会頭林学博士 本多静六
 故埼玉学友会々頭渋沢青淵先生の偉大なる功績と崇高なる人格に至つては拙筆のよく尽し得ない所であるが、已に畏き御沙汰書に
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 『高く志して朝に立ち遠く慮りて野に下り、経済には規画最も先んじ社会には施設極めて多く、教化の振興に資し、国際の親善に務む畢生公に奉じ一貫誠を推す、洵に経済界の泰斗にして、朝野の重望を負ひ、実に社会人の儀型にして、内外の具胆に膺れり。』
と先生一代の功労を御嘉賞あらせられたのを以て、其の全貌を知る事が出来る。
 不肖亦四十年来先生に私淑し、先生を師父と仰ぎ、万事指導を受け特に当学友会に於ては先生を会頭とし、其の指揮下に働いて来たと言ひ度いが、其の実総べて先生御自身になされたので、私は単に副会頭の名を汚しながら全く無為に過したのであつた。されば倥偲先生の訃に逢ひ恰も盲人の杖を離れたる如く、茫然自失せざるを得ない。
 今や学友会の使命は益々多事、愈々其の発展の必要を認むるの秋、先生の薨去は何物にも代へ難い痛恨事であり、学友会諸君と共に衷心哀惜の情に堪えない次第である。
 言ふ迄もなく死せる人は語らないが、活ける歴史は自らよく光明を放つ、先生の肉体は已に此の世を去られたが其の偉大なる精神は永へに生存し、特に愛郷の指導精神に至つては皎々乎として久しく郷党を照すのである。
 我等学友会員は玆に謹んで満腔の悼意を表すると共に、永く先生の遺志を継いで、和衷協同奮励努力、以つて其の誠意に添ひ奉らん事を期す。
    青淵先生の青年指導
                 本会評議員文学博士 斎藤阿具
 私は先年先生から埼玉誘掖会の寄宿舎監督を委嘱されてから、専ら同会の事で先生と知り合ふやうになり、爾来二十年間程同会に関する会合で度々面会したから、其の偉大なる人格も窺知することができた又私は成るべく一生を独立独歩で通さうとする者であるから、当方より好んで知られんとはせず、自分から先生に求めた事は揮毫を願つた位であつたが、先生の方でも相当私を識られて信用して下されたやうに思はれる。
 青淵先生は実に偉大なる人格者であつて、其の一言一行は誠実其物であつて且つ熱がこもり事を為すに当つては勇往された。先生の関係せる事業としては、誘掖会寄宿舎の茶話会の如きは、最も小さなものであつたが、先生は成るべく之に出席されて、学生に適切な教訓を与へられ、差支ない限り夜遅く閉会まで居られた。若し委員が予め先生の御都合を尋ねずに日を定める時は、「おれは出んでも良いのか」と仰せられたなどである。又人に対して極めて寛厚であつた。富豪の中には我等が面会すると不愉快な感を抱かせる者も少くないが、先生は身分貧富の何たるを問はず、無差別平等であつて、之に接する時は宛も慈父の膝下に在るやうな感があつた。
 今更先生の風格を追想叙列するにも及ばぬと思ふから止めるが、唯我等学問に従事する者から観て、殊に尊く思はるゝは好学心の甚だ強かつたことである。先年先生は誘掖会で県の旧史について何か青年の
 - 第45巻 p.183 -ページ画像 
教訓となるべき著作を出さうではないかと提言され、熱心に説るゝので、私は大学の史料編纂掛に居られた渡辺世祐・八代国治の両氏に依頼して「武蔵武士」を著作して貰つた。其の時先生は多忙寸暇ないにも拘はらず、親しく其の原稿を閲読されて私に意見書を寄せられ、又同書の為に懇切な序文を書いて下された。其後も先生は又々何か出さうではないかと会合毎に私に督促されたから、物臭な私も其熱心に動かされ、私の知人である加藤三吾氏に嘱して「埼玉人物誌」を著作させた。而して此書に対しても先生は繁多を厭はず長い序文を附せられた。脱走時代の恩顧に酬ゆるため、多額の資を投じて慶喜公の詳伝を著作公刊させたことは、世人の知る所である。こんな例は成金者流の富豪などには迚も見ることは出来ぬ。
 誘掖会の生みの母で今は之と並立せる埼玉学友会は、誘掖会を生んでから、其の存在もやゝ疑はれたが、会頭たる先生は喜んで其の庭園を其の大会々場に使用させ 県下出身の在京学生と共に一日の歓を悉されたので、同会も近年更生の観があつた。然るに我々は最早先生の温容に接して、親しく其の感化を受くることはできなくなつた。故に今後の県下青年は我県の出せる此の偉人の遺徳を偲びて修養を励み他日国家有用の材となることを期する外はない。蓋し多年本会々頭として県下の学生を提撕された先生の鴻恩に報ゆるには、之が唯一最善の方法であると信ずる。