デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
2款 財団法人埼玉学生誘掖会
■綱文

第45巻 p.206-213(DK450068k) ページ画像

大正3年9月26日(1914年)

是日栄一、当会ノ茶話会ニ出席シ、支那漫遊談ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正三年(DK450068k-0001)
第45巻 p.207 ページ画像

集会日時通知表  大正三年        (渋沢子爵家所蔵)
九月二十六日 土 午後六時 埼玉学生誘掖会茶話会


委員日誌(三)(DK450068k-0002)
第45巻 p.207 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第一六二頁大正三年一〇月刊(DK450068k-0003)
第45巻 p.207 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第一六二頁大正三年一〇月刊
 ○第二篇 寄宿舎史
   一、寮史
○上略
二十六日○大正三年九月午後六時より茶話会を開く。会は晩餐を以て始まり晩餐終つて休憩少時の後ホールに集まる。長野委員開会の辞を述ぶ。尋いで渋沢会頭の支那旅行談あり。大冶鉄山・南京・赤壁等の名所旧蹟より風俗人情に及びて、説く所甚だ詳なり、之を要するに天恵に富む縦横一万里の支那の地は、利己主義発達して共同精神に乏しき支那人にして如何ともするよしなし。吾等日本人は隣邦の好として大に助力せざるべからず。乃ち先づ我が誘掖会舎生諸子は須らく共同精神の修養に努むべしと教へらる。○中略午後十一時半散会せられぬ。


学友会報 埼玉学友会編 第二二号・第二八―三七頁大正四年二月 支那旅行談 渋沢男爵(DK450068k-0004)
第45巻 p.207-213 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第二二号・第二八―三七頁大正四年二月
    支那旅行談             渋沢男爵
 久々にて皆様に御目に掛る機会を得たのを喜びます。今委員より開会の御言葉がありまして玆に各々が学業に就くに至りそれにはかゝる心掛をするがよからうと申されましたが御尤の事と思ひます。韓退子の詩の内に『時秋積雨霽。新涼入郊墟。灯火稍可親。簡編可倦舒。豈不且夕念。為爾惜居諸。恩義有相奪。作詩勧躊蹰。』と申して居ります。長い詩でありますが其の内に学問を勧める意味が含まれて居ります。夏は幾らか休んでも秋が来ると積雨は霽れ新涼は郊墟に入つて勉強するのに丁度都合が宜いのであります。昔は電灯がありませんでしたから灯火稍可親と申しましたので、今ならば電灯稍可親と申すべき所であります。(笑声起る)現今諸君は書物を御巻きになりませんが昔は書物を巻たので、簡編可倦舒と申したのであります。居諸は月や日を指すので西洋の諺の"Time is mony"と同じ意味で御座いまして、韓退子の詩は諸君の為に丁度宜い事を申して居りす。此の詩は
 - 第45巻 p.208 -ページ画像 
長いので今お話し致しましたのは其の内一句で、丁度只今思付きましたから御話申したのであります。全体夏の休暇は我々から申しますと長すぎるので、我々は今はあまり休ませ過ると思ひますが、然し他の仕事もあることですから二月余り休むとも無駄にはならないでありませう。それですから学に就いたら一意専心に心をそこに集中して御やりなさるのが宜いと思ひます。私は常に何事をするにも心を集中してやらねばならぬ、極くつまらぬ事、例へば子供に対してゞも心を集中してやらねばならぬと申して居ります。私が家を出たのは二十四歳の時でしたが、それから後は始終その心でやつて参りました。私も気嫌の悪い時や夜の眠い時などには人に接するのに心の弛だ事もあり、後でそれは悪かつたと気が付きますが、気が付けば未だ心掛があるのだと喜びます。之は極大切な事と思ひますから、諸君も之からさき学問に就くには充分に心を集中してやられたいと思ひます。そして学校を出た後も世務に就た暁にも、此心を御忘れにならぬやうに願います。これは人生に対する秘訣と申しても宜いと思ひます。
 今晩の茶話会には委員の方に支那旅行談をするやうに申して置きましたが、これは他でも話したので重複する恐れがありますが、誘掖会の方には初めてゞはあるし、幾らか身に付た事もあるので面白からうと思ひます。私は五月二日に日本を立ち、六月の央に日本へ帰つたので総体で一月斗りであります。僅か一個月なるも其の間支那の人物に接し、多くは官途の人でありますが中には商工業家にも接しまして、共に意見を交換して帰つて来ましたのは自分の愉快に感ずる所であります。聞及べる如く大きな国で天恵に富だ国で御座います。之れから先きあの事物を開拓して行く事は容易ならぬ骨であらうと支那人に向つて言ひたいのでありますが、而し気の毒ながら現在の支那人丈けでは完全に開発する事は出来ないでありませう。それだから欧米各国の有力者が皆注目して、大袈裟に申しますると我勝に其事物を講究しつつあるやうであります。天恵は今申した通でありますが、土地に付て申しますと、最初上海に着き、それから蘇州にまいり或は楊子江を溯り、あるひは大冶の鉄坑を見、遂に漢口を見物致しまして此処に長江筋の巡廻を終りました。それから京漢鉄道によりまして北京に二日一夜で達するのであります。北京には丁度一週間居りました。其の間に見ました有名な明の十三陵と申しますのが、北京の北方にあります。尚進みまして秦の始皇帝によつて作られた万里の長城を見ました。私共の見た長城は多く明の世祖が作たものと思ひます。明の世祖はなかなか豪放な人で、遂に明を一統して明の天子となりましたので種々の事に手を付けたのであります。十三陵は北京より北方で、道程は知りませんが汽車で二・三時間行きまして、それから駕籠で行くのでありまして、その規模の大なる事は驚くべき程であります。それから方向をかへまして蒙古の方に行き、張家口に行きますと行止りになり、その間の山間に万里の長城があります。今申すのは多く明の世祖の修築せる者だと思ひます。私の話は切れ切れでありますが、天恵に富めるは南部が一番で、江蘇省・浙江省の地味が宜い事は、埼玉なども利根川の流域は帝国中誇る所ではありますが、とても此処にはかないませ
 - 第45巻 p.209 -ページ画像 
ん。多くの川の流域は洪水の為害は受けますが、その代り種々の汚水を沈澱させる為に肥料は与へなくとも耕作がよく出来るので、幾ら作りましても又幾ら掘り下げても同じ様な地味だと言ふ事です。殊に桑の生立ぬ様子を見るとそれがよくうかゞはれます。それ故に此の辺では耕作には肥料を用ひぬ様でありまして、北京の近辺では穀物の枯れて居るのが見られますが、今申す江蘇省や浙江省等の長江流域の地は地味のよい為に穀物がよく成長し、そして気候が宜い為に養蚕に適する様であります。養蚕では帝国が宇内に冠たりと思つて居りましたのに此の地の人々が覚醒したらもう一層養蚕が盛になり、我国と競争する様になります。ゆゝしき大敵と思ふ位でありまして、之れに対して如何なる考を立てゝ宜いかと云ふ事を大日本蚕糸会の人と話し合つた位であります。又此の地方の村なり町なりは稍々富む人が多いやうで私は上海に上陸してから至る処宜い待遇をうけました。まあ珍客が来たと言ふので一入親切に待遇されたのみならず、中央政府からも注意があつたと言ふので甚しきに至つては兵隊を出して護衛して呉れましたが、返つて馬蹄の埃の為に迷惑したのは滑稽でありました。(大笑)今経過した所のものを悉く御話する訳ではありませんが、其内で大冶の鉄山は立派なもので、若松製鉄所が重に此の供給によつて事業をして居ると言ふ事です。即ち若松製鉄所の要する材料四十万噸の過半は大冶の鉄山によると言ふ事です。そしてその一部分は朝鮮から、それと内地のものが少しださうです。私は大冶の鉄山の有様の天恵に富めるに驚きました。此の鉱山は大磯あたりの山よりは少しは高いが、さまで高山ではなく百米突以上位あります。二〇三高地よりは少し低いと思ひます。そうゆう山がいくつもありますが、悉く鉄塊の大きいので以てうづめられて居ると言つて宜い位で、地表には芝の様なものが生えて居りますが、それを切つかいて見ますと残らず赤い鉄塊であります。それをかき落しては箱につめ込み、それを楊子江の沿岸に出して若松製鉄所に寄こすのであります。尤も高い山ですからインクラインが付て居りまして(百四十尺とか申しました)上げる力で降ろし、降す力で上げる様な方法になつて居ります。そして鉄道で楊子江の沿岸まで十八哩つみ出すのであります。採掘するには鶴嘴でなく鉄のニジルやうなのでニジルとパラパラに落るので一寸かき崩す位で取れるのであります。私は曾て米国で鉄坑を見た。之は大北鉄道会社の鉄坑であつたが、之をレークスペリヲルに運搬し船に積でシカゴ其他に運搬するのださうで、之は支那の大冶と違い平地にある鉄坑でありまして、一間あるひは一丈位迄の砂を削り取ると、余程深い層の一層色の赤い層がありまして、ザクザクした土の如うな砂のやうなものであります。鉄のある部分は赤く茶色になつて居りまして、横から地層を見ますとよく解ります。之れにクレーンが下がりまして箱に入れ三・四杯で一杯になると脇にまわしまして、その小さなレールの上に四ツなり五ツなり出来ると他のを換へてやります。之れは軽便ですが大冶のは一層軽便であります。此処の地層を調べた人の説によると未だ更に百尺位は同じ地質なりとの事ですから何百尺下迄も鉄を含蓄して居るやうであります。そしてその鉱石は六十五パアセントの鉄の量を含ん
 - 第45巻 p.210 -ページ画像 
で居る褐鉄鉱だとのことです。かゝる鉱山がどうしてあるものか之れを見たものは誰れでも驚かざるを得ないのであります。西沢某なる人が拾年以上若松より出てゝ大冶に入りまして、大冶の人に親しみも出来会社の事務員同様に執務して居ります。其の人が私を案内し説明して呉れたのであります。更に其鉱山から一哩か二哩へだゝつた処に大きな山が重なつて居ります。その三つは共に鉄の屑が山になつて居るのであります。一体此の鉱山は唐の太祖の時より鉄を採つて居つたと伝へられて居ります。而し其時分の未だ鉄の製造法が下手であつた為に、含まれた鉄の一部分を取て大部分はかすとして捨てたのであります。その大きな山は連綿として続ける様に見えました。その屑の内に鉄が五十パアセントあると言ふので、六十五の内一五丈け採りて後はかすとして捨てられたのであります。此の近所に石炭石が沢山ありまして、セメント製造をやる工場もあります。鉱山に付て見て驚いたのは大冶でありまして、斯の如き山はヨーロツパにも米国にもあると思ふことができません。又「海浜」と言ふ石炭坑も盛大だそうで、日本に沢山来て硫黄は少く火力が多いそうです。若松製鉄所でも鉄道院でも使用しまして、近頃日本へ大変参りますので、今迄日本は石炭の輸出国とのみ思つて居つたのに、今は輸入国となつた訳であります。之は実地見ませんけれ共、盛大な山だそうであります。大冶の鉱山は若松製鉄所から大した金を貸して供給し、長い年間の契約ですから数十年間は鉄を買得るのだが、行先を考へ二十年先の若松製鉄所の為に考ると、極く堅固でないと言ふ批難が出ないでもない。大冶の鉄鉱を永久的の供給の約束として、原料の安心をさせたいと私は思ふが未来を考る人は、内国の鉄鉱に充分に材料がなければ外国より供給を仰がねばならぬから、それ故に此の大冶の鉄山が日本と強固な方法の更に成立せん事を今考へて居るのであります。又楊子江の河は頗る幅が広いから、河の真中に居ると南北の両岸がかすかに見える位でして、水は濁つて居りますが、風浪の憂がありませんから、此の旅行は安全でして自分は愉快でありました。支那流の筏に乗りましたが、呑気なもので面白いでした。筏と申しますと、日本の富士川のものを想像しますが、それと違いまして支那の楊子江の奴は一村も来るので、その内に学校がある位で、其内に家鴨を飼ひその卵が孵る位、ゆつくりして帰つて来るさうです(笑声起る)寄合世帯で数軒が一緒になり、筏の内で子供が出来大きくなる位で一村をなしてる位です。終に売るべき場所で筏が金になり、それを持て来て為替にするかどうだか、そこまでは知りませんが頗るゆつたりしたものでして、それが三つも四つも来るのを見るとさも悠長で詩趣があります。赤壁も通りましたが、確かな赤壁だかどうだか解りません。城外の寒山寺の鐘は、其の後作つたのでして、叩いて見ても夜半の鐘の音もしませんでした。誠に沙汰の限りであります。南京は大分名高い都で明の太祖が起つた処です。又名高い方孝孺が成祖に逆らひ、九族九百人を平らげられた所であります。その理由は何であるかと言ふに、成祖は明の太祖の子でありまして、自分の甥の建文帝が帝位に即きましたが、建文帝が不徳なる為日本の天武帝と大伴の皇子の間柄の如く、燕王が有徳なる故に人々に押
 - 第45巻 p.211 -ページ画像 
し立られて遂に位を纂ひました。そこで成祖が位に即ける時、先の建文帝に仕へた方孝孺なる者に詔を書かせやうとした。しかるに主義が違ふ故に彼は有意の人なるも成祖の命に応じませんで、強ひて迫るに及びまして、即ち燕賊簒国と大書し筆を投げて成祖を罵りましたので成祖が大に恐りまして遂に礫殺したのであります。その血跡の碑が南京にあります。名は大層でありますが、道端の道六神の如く御粗末で御座いました。詩が一杯彫り付てあるものでそれに血を注いだのでせう。此処では馮国〓が都督でありまして、御馳走して呉れました。それから漢口は有名な地で、外国の居留地がありますので上海に似て居ります。河に添て居りまして広い長い所であります。河をへだてゝ武昌があり、漢口から漢陽が数町へだたつてあります。かやうに此の近辺に大都会が三つ相対して居りまして、其内で漢口が一番繁華であります。それで都督府は武昌にあります。長江の南岸を下りましたが、そこらは全て地味がよく、土民の生活も楽と見え繁盛さが北京もよりと大分違つて居ります。重なる財源と言ふべきものに対する見聞はそれくらいにしまして、それから京漢鉄道で北京に至れば、その附近は寒村僻地が多く、山も禿山が多くなつて、南の方は譬へ大なる木はなく共繁茂せる山が見えます。北京の町は道も広くなかなか立派で徒路が宜しう御座います。世人の噂は昔の話で今は自動車で自由に走つて居ります。而し埃は多く和田垣さんが東京は芥を誇とすると申しましたが(笑声起る)未だ北京の方が甚しう御座います。袁世凱にも謁見しましたが、思ふたより簡易な取扱でありました。商人より聞けば、大総統となり次で帝国主義を取り、国王となる志ある故辺幅を飾り閻魔のやうに儼然として居るだらうと思ひましたのに、極く略式にてそれこそ鄭重なもので、我々と同じ態度で談話を交へ手軽い応対をしました。殊に経済上の事柄に付ましては辞令が巧だと申せばそれ迄ですが、私が行たのは中日の合本会社の為ですから大変に喜ばれ『渋沢は数十年日本の実業界の為に尽力されたさうだ、然るに未だ精力衰へざるを喜ぶ。且つ支那の為に力を用ひて呉れるのを深く喜んでます。どうしても支那は日本と提携して行かなければならぬ。支那にも役人は居るがとてもそれら斗りでは旨くゆかない。彼等は社界上の経験はあるが、実業界の事には不得手だ。然るに貴君の如き老練の人が手を入れて呉れるのは嬉しい事だ』と言ふので、私も『必ず引受た。大に尽力して此の会社を設立せずには置かない。それだから貴下にも此の御言葉を御忘れなく、相当の事には道理正しき補助を躊躇してはいけません。故になる丈け進歩させたいとの今の意志を持続せられ、充分此の企の貫徹に意を用ひられん事を望みます。既に私は決心せるを況や今の懇切な御言葉あるに於るをや』と申した位ですから、人に対するにも物々しい態度をせざる事は明らかであります。然し此の間の欧洲戦乱に対する支那の態度より見て、支那の術数は測り知る事が出来ないと言ふ人がありますが、一般の支那の人としては言語と心の一致しない事はおしなべての事なる故、その内の尤も雄物なる袁世凱なる故に安心は出来ないが、私に対する辞令は鄭重でありました。他の官辺の人にも会ひましたが、矢張り辞令に巧に応対に巧であります。北京
 - 第45巻 p.212 -ページ画像 
では商人は社会に顔を出さない。我々が出た重なる交際には出ない様で、商務会所なる所が北京にありまして、そこに我々が行き少し商業筋の事に付て話さうとしましても、恐れ入りて敬遠主義を取り、要領を得た話をかはす事が出来ませんでした。大官連は欧羅巴の事をも知てるから宜いが、商人は遠慮勝で充分の話をかはすことは出来ません上海の商務会所の人はそれとちがつてハキハキして居ります。他の地方は上海にくらべますと人物が低い様に思はれます。之れにくらべますると官辺の人々で外務・教育・農商務業の総長の位置なぞ持つ人は中々智識があつて、外国の事情に通じ、あるひは日本語に通じ又通ぜずとも相当の待遇はでき人を馬鹿にするやうな待遇はしません。支那の全体から言ふと衰微して居り、殊に財政が衰微して五国借款が欧羅巴の戦乱の為に中絶し、如何にして政治を為すべきかと言ふ位です。其有様は誠に気の毒な様ですが、さなく共其の日其の日を送ると言ふ政治の有様ですが、個人個人の交際は、日本の要路の人と比べて彼等劣りて之れが優ると一口に言ふ事は出来ません。世間を知れる点、言語の模様、学問のある点から見れば決して劣つて居りません。だから支那全体の人を個人個人に言ふと劣る所はなく、又政治もさうであるが天恵の宝を実際より処して開発せんとする、即ち農工商の務に其仕事をする段になると、普通の交際とコロリと変りて功績あがらず、不体裁に終るのが常であります。之れは何が原因であるか講究して見なければならない。例へば相当の体力相当の学問があり、個人個人には力があるが、事をなすと碌な事の出来ぬ人がよくあります。日本ではかかる人は極く稀でありますが、支那はをしなべてこれであるのは研究して見なければなりません。これを一言で判断することは出来ませんが、私が講究した所から見ますると、個々の性質がことの外発達しまして、公共・国家と云ふよふな公共的性質が欠乏して居ますから、蘇張の弁も耳に入らず、己れの利にあらざれば耳を借しませんから、公共の事業となると全て起りませんので、自然己れの利益を重にして規律が整然立ちません。立派な会社でも、社員が己れの利益のみはかるので、外の者が黙認できぬのでそれを破壊して行き、そんな事が繰返して行はれて行くので、何事も功績があがらないのであります。それが支那人の現在の有様と思ひます。そうゆう所より考へますると公共心のないものは発達もなく己れの功績も揚りません。人の為を思ふのが己の為に宜いので、人の為を思はないと、それが為に社会に容れられません。孔子の言ふた、己れ立んと欲すれば先づ人を立つ、と申したのは真理だと考へます。今の支那の押しなべての通有性は此の格言に正反対である故に、支那の害をなす所以だと考へるのであります。之れに反して英人の有様を見ますと、自己を思ふの念よりも、国家の為には自己を忘れ、今度の戦争の為には国内にあつた政争はピタリと止んで仕舞つて、愛蘭自治問題其他改進党の政争の軋轢は休止し、首相アスキスに対する有様が誠心に之れを助けるのは、如何に公共心が強きかを知る事が出来ます。それにくらべますと日本は確に公共心はあると思ひますが、英国にくらべてはより勝ると言ふ事は出来ませんと思ひます。之れ等を以て神聖の仁と言ふのでありまして、反対に支
 - 第45巻 p.213 -ページ画像 
那の如きものを神聖の不仁と言ふでありませう。孟子に『上下交征利而国危矣云々』とありますが、支那の今日は丁度其処に至つて居ると思ひます。かくの如きありさまですと、如何に天恵の利に富み如何に民衆多きも、之れを以て国を盛んにし、何時迄も支那が今の状態に安住して居る事が出来るとは申されません『人の振り見て我振り直せ』と言ふ事が事実なりと考へましたなら、全く自己を忘れよと申すのではありませんが、今一層公共の念を強くすべきだと思ひます。支那の見聞談に付きまして別して此の感が深くありましたので、行先長い諸君は之れを念として下さいまし。
幸に誘掖会も年と共に隆盛となり、諸君も都合よく我物心に勉強せられまするのは、我々此の事業の発起者は非常に愉快で我々の意味が始めて貫ぬく事が出来ると思ひます。而し我々がかく考ふるも、諸君が之れを継がざれは其の意義も立消となるのでありますから、私は常に此の舎の出身者は之れをつがれ、例へば此処に居らるゝ渡辺君や渋谷君等其他の人々が此の事業をつがれん事を祈るのでありまして、今此処に居らるゝ皆様方も四・五十年たてばそうゆう位置になり、此処に登壇せられて私の様に話しをなさる時季が来るでありませう。そしてまた私はそうゆう時季の一日も早く来らん事を希望致します。(拍手)
                ――寄宿舎茶話会に於て――