デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学
■綱文

第45巻 p.352-360(DK450138k) ページ画像

大正11年2月19日(1922年)

是日、故当大学総長大隈重信追悼会、当大学校庭ニ於テ催サル。栄一病気静養中ノ大磯ヨリ上京シテ同会場ニ臨ミ、追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK450138k-0001)
第45巻 p.352 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
二月十九日 日 午前十時十四分 東京駅着大磯ヨリ御帰京
        午後一時 故大隈侯爵追悼会(早稲田大学)
   ○大隈重信ハ大正十一年一月十日逝去ス。栄一ハ前年十月ヨリ渡米中ニテ不在、是年一月三十日帰国ス。


早稲田学報 第三二五・三二六号 故総長大隈侯追悼号 大正一一年四月 早稲田大学追悼会(DK450138k-0002)
第45巻 p.352-353 ページ画像

早稲田学報 第三二五・三二六号故総長大隈侯追悼号大正一一年四月
    早稲田大学追悼会
 総長は既に永遠の眠りに就かれたとは云へ、其偉大なる精神気魂は猶ほ我が学園渇仰の中心となり、温情溢るゝ風丰は髣髴として我々の眼前を去られず、追慕の情は日を経るに従つて更に切である。本大学に於ては故総長薨去後の四十一日に当る二月十九日を期し追悼会を催し、侯の英霊に対して衷心より追弔の意を表することゝし、其の順序として当日先づ、午前に護国寺の墓所に於て墓前祭を行ひ、午後校庭に於て追悼会を開くことゝした。
    墓前の祭式
 曇りなき陽春の当日は英霊を慰むるにふさはしい日であつた、護国寺の墓前には質実な祭壇を設け、左右の幄舎内には、喪主大隈侯爵・高田名誉学長・塩沢学長其の他多数の教職員・校友・学生着席し、塋域更に森厳の気を加へた。軈て午前十時祭式は開かれ、笙篳篥の奏楽裡に各種の神饌が祭壇に供へ了ると共に、千家斎主墓前に進み出で、厳かに左の祭文を奏す。祭文の半ばに至るや、並み居るもの孰れも故侯の遺徳を想ひ、生前を偲びて感慨に堪えず、中には嗚咽するものさへ少なくなかつた。
 次いで喪主をはじめ参列者の主もなる人々代る々々墓前に進み、真榊を供へて礼拝し、続いて参列者一同の礼拝あり、かくて湿やかにして而も厳粛なる墓前の祭式は閉じられた。
   ○祭文略ス。
    追悼会
 同日午後一時大学校庭に於て追悼会を執行した。校庭には故総長の
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銅像を左として壇を設け、正面には香高き薔薇の花にて縁取れる遺影の額を掲げ、其の左右には故総長が着用された思ひ出深き真紅のガウン及び正帽を配置し、坐ろに巨人猶ほ居ますの感あらしめる。其の前面の芝生には万余を容るゝ大天幕を蔽ひ、周囲には鯨幕を張り廻した定刻早稲田音楽会員の奏楽裡に一同予て定められたる席に着くや、前田幹事開会を宣し、次で学長塩沢博士演壇に出で、謹厳の辞を以て、先づ追悼式を挙ぐるに至れる理由を述べ、進んで故総長の本大学に対する偉績を縷述し、更に総長亡き後の学園当局者の責任と決心を語りて、一同の発憤を促した。次に名誉学長高田博士は病後の痩躯を壇上に運び、総長の遺物を目のあたりに見るに及びて感慨に堪へざるものの如く、過去四十年来の恩誼を叙し、故総長の病中談を語りて声涙共に下るの慨あり、満場をして暗涙に咽ばしめ、更に一転して故総長の明治維新当時よりの三大事蹟を挙げ、更に欧米の大政治家・大教育家に比較して故総長の偉大なる点を列挙し、満堂をして今更に故侯の偉大を讃美せしめた。最後に病中を冒して特に出席せられたる基金管理委員長渋沢子爵は、其の偉躯を運び、過ぎし五十年の昔、故侯爵と知己となりし因縁を説き、更に故侯爵が始終博愛の二字を以て一貫せられたる事を述べ、終りに総長を喪へる早稲田学園は、一段の力闘を以て校の充実発展を図るべく、子爵亦一臂の労を吝しまざる旨を附言せられた。右三氏の演説は何れも情理至り尽せるもので、故侯に対する此上なき手向草と思はれた。記者も其席に列り思はず一掬の涙を注いだ。右演説終ると共に数千の学生は奏楽に伴はれて校歌を合唱し、心密かに殊死の努力を誓つた。かくて会を閉じたのは四時過であつた。
(三氏の演説筆記は感想録中に掲載す)


早稲田学報 第三二五・三二六号 故総長大隈侯追悼号 大正一一年四月 博愛の人 基金管理委員長 子爵渋沢栄一(DK450138k-0003)
第45巻 p.353-358 ページ画像

早稲田学報 第三二五・三二六号故総長大隈侯追悼号大正一一年四月
    博愛の人
            基金管理委員長 子爵渋沢栄一
 満場の諸君、只今学長から御披露を願ひました通り、さなきだに老人、声が立ちませぬ、況んや風邪を引きまして甚だ申上げる事が徹底致すまいと恐縮致します。縦し声が立ちましても私の申上げる事は至つて卑近な事で、只今名誉学長の御演説の雄弁を以て政治上の御話などを申上げる材料を有つて居りませぬ。又学長の謹厳荘重の御言葉を以て本学園に対する総長の功績を陳述することも私は其人でございませぬ。即ち学事に対し、政治に対しては既に現学長・名誉学長より詳しい御話がございましたから、私は何等申上げますことが出来能はぬのでございます。併し私は五十五年の間故大隈侯爵には深い御懇命を蒙つた間柄で、まだ少年といふ頃ほひから御親しみを厚うしたといふよりも、寧ろ深い御指導を蒙つた次第であります。其事をば斯かる機会に皆様の御聞きに入れるのは、一人で聞いて下さるならば言ふ方が多いやうになりますから、寧ろ私が申上げたい事は諸君を集めて聞いて戴きたいといふ見地から、私は一言申して見やうと思ひます。
 教育に対する総長の功績、又政治に対する侯爵の偉大なる働きは、前にも申す通り現学長の謹厳なる御言葉、及名誉学長の雄大な御弁舌
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で、私も深く興味を以て拝聴致しましたが、私は故侯爵の実に博愛といふ方に容易ならぬ徳を有つて居られたといふことを申上げたいのであります。蓋し私が此所で申上ぐる事は、或場合には博愛といふより唯一個の渋沢に関係したかのやうでありますけれども、多数の人にもさうあつたらうと思ひます。即ちそれは博愛たる所以であつて、故侯爵の博愛には実に私は忘るゝことが出来ぬのであります。此点に就て二・三私の古い感触を陳情して見たいと思ふのでございます。
 私は昨年十月十三日に亜米利加旅行を致しましたから、丁度其月の初めに伺ひました。近々に旅行するといふことを申しましたら、海外の事に御心配なさる、殊に亜米利加に対しては、私の申上げる事を一言聞く前に御考を百言も仰しやるやうな有様で、懇切の御示しを戴くといふ間柄でありますから、今や旅行せんとするに際して、種々日米関係に就き、若くは亜米利加の政治、国民の状態に就て、此の点に彼の点にと懇切な御話がありました。続いて尚明治の初め或は故伊藤公井上侯などの昔語りもあつて、愉快に御談話を致したのでございます其十二日に愈々明日出立といふ考から、一寸お暇に参上しました、其時既に悪かつたので、どうも興奮するといかぬといふことを申されるので、御病室でもと思ひましたけれども、興奮などあつてはいけないと思ひました為に、私は強いて御願ひしない、又帰つた上で土産話を申上げるやうにしませうから、成たけ御大切に為さるやうに、まだ私の方が大分若いから、此旅行をして参りますると申して、どうぞ宜しく申上げて戴きたいといふてお屋敷を引取つたが、到頭御目に懸かる事が出来なくなつたのであります。七十が古来稀れだといふ支那人を道破して、仮令理想的の御言葉であつても百二十五歳説を唱へられたのであるから、切めて百迄位は生きて下さると思つたのです。こんな事を申すと愚痴の為に薨去された侯爵を恨むやうな言葉になるから、是は私の言葉が甚だ悪うございますけれども、実は電報を見て何故死んだかと真に申したことでございます。遂に其為に高田君も御病気で末期に接することが出来なかつたと仰しやつたが、私も其憾みは同じでございます。
 私が侯爵に初めて御目に懸つたのは高田君からまだ十五年前のことであつて、老人の申す事は諸君のお翁さんより他は知らないことがありますが、或機会にはさう云ふ事が多少諸君の御参考に供せられるかと思ふのである。当時私は駿河に幕府が新しく封ぜられた、静岡藩といふ藩に居つたものである。丁度私は明治政府に呼出されて東京に参りました。蓋し其以前に私は所謂攘夷鎖国を唱へて慷慨悲憤の士で、多少人の真似をして世間を押歩いた結果、大に窮して一ツ橋に奉公した。其一ツ橋慶喜といふ御人が将軍を相続されたに就て、遂に幕人と相成つた。其以前は討幕を主張した私が廻り廻つて幕府の人になつたと云ふことは、心より快しと思ひ兼ぬるやうな奇遇であつたのです。殊に其頃欧羅巴に旅行しまして水戸の民部公子といふ人に随従して帰つた。帰へると即ち御維新の時である、言葉を換へて申すならば私の旅行中に討幕の事は決定して明治政府となつたのであります。帰りまして駿河の静岡藩に跼蹐として居つた其渋沢が、明治二年に大蔵省に
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呼出されて大蔵省の役人に相成つた。其時の大蔵省の全権は即ち故侯爵であつた。是が私の初めてお目に懸る縁であつた。忘れもしませぬ明治二年の十一月の多分十八日であつたと記憶する、故侯爵は御記憶が好かつたから私も今日は記憶自慢に申上げるのです。其お屋敷で御目に懸つたのであるが、其事は今に記憶に残つて居る、其音声が今に耳に残り、其態度が目に残り、其趣旨が心に銘して、実に忘れることが出来ないので、其時の事は幾度か人に申しますが、何ぼ申しても私の心にはまだ申し切れぬやうな感じがするのであります。其時私が侯爵に御話申上げたことは斯うであつたのです。自分は今迄頻に攘夷鎖国を唱へて、所謂慷慨悲憤の人と交つて、甚だ浅薄な者ではありますが、命を捨てゝ国家の為にならうと思ふたが、段々に窮して遂に幕府の家来になるやうな変な気分を起した。尚其鎖国論は甚だ考が違つたと思つて、遂に欧羅巴の旅行をして此の程帰つたが、何等私には学んだ事がないから大に得た所があるなどとは決して申しませぬ。殊に大蔵省の租税の頭を仰せ付かりましたけれども、私は租税を取ることも何も存じませぬ。全く知らぬ者を御使ひ下さるよりは、私は駿河で必ず欧羅巴式に出来るとは申しませぬけれども、最早政治界の観念はやめましたから、多少商工業で日本の国の富むやうにして日本に尽したいと思ふから、駿河でさう云ふ事業を起しますから、どうぞ大蔵省の職務を解いて下さい、私は帰りたうございます。駿河藩の首脳者に申しますと、駿河では決して朝廷から命ぜられたことに対して藩の都合で御免を蒙むることは出来ない。自分で申上げて疑を受けるならば宜いけれども、若しさもない時には藩の迷惑になるからといふことを人人が申しますから、大蔵省で御受けはしたけれども、右様の次第でありますから、知らぬ私に租税の頭を御申付けになるよりは、駿河で仕事をさせた方が畢竟私が日本に尽す所の効果が多少あらうと思ふから御辞退したい。御聞置き下さるやうにと申した。私は大変尤もな事を言ふた積りであつたが、頭から大変に反対されまして、甚だしく云ふと叱られた。其叱り方が今に尚耳に付き様子が目に付き、其道理が心に銘したと申す次第であります。先づ斯う云ふ言葉であつた。君の素性を一通り聞き大蔵省に呼んだ、私一人が呼んだのでない。予めさう云ふ人柄であるといふことを聞き知つたけれども、姑く其人の素性は第二にして、租税の事に関して何も知らぬと言つたが、然らば反対に問ふが、今大蔵省に居る人々が皆今日の政務に対する手続を完全に知つて居ると思ふのであるか、若し君が知つて居ると思ふとするならば君位愚眛な人は無い訳である。斯く申す大隈も何も知らぬ、是から先如何にして財政をやつて行くか、又如何にして租税を取つて宜いかといふことを明瞭に知つて居らぬ。平たく申せば日本に知つて居る者は一人も無いといふても過言でない。蓋し初めから本式の仕事をしやうといふのは間違ひで、お互に宜い所を取つてやるのが今日の勤めではないか。大きな言葉で言ふならば、丁度高天原に神が集つた時のやうに、神にならんとして居る所だ、君も其の一柱の神になつて、さうして知らぬ事を新しく創造したら宜い。即ち創造を是からやらうではないか。君は知らぬと言はれるが、それは私は知らぬから其反対に問ふ
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が、誰が知つて居るか、私も知らぬ、皆罷めなければならぬではないか。罷めたら国はどうなる、で成程是から先商工業に力を尽した方が自分の長所であるなら、国家に利益があるであらうが、それは私は知らぬ、何れが長所であるか初めて会つた人であるから分らぬ。彼れに長ずる之れに長ずるといふことは、試みに問ふが商工業といふものは唯だ単に商工業だけで進むと思はれるか、是はどうしても財政が進み経済が伴つて行くといふ自らの順序があるではないか、貨幣はどうする、其融通法は如何にするか、さう云ふやうな事は仮令知らぬでも、考慮してなければならぬ。然るに是から先日本の為に商工業を以て国を立つて行くといふ意思があるならば、既に其事の一部は知つたと言はなければならぬ。其知つたといふのに大蔵省に行くのは己は厭やだと云ふ、是位分らぬ話はないぢやないか。其地盤は何で出来るか。唯商工業だけで独立して行けるか。斯う考へると君は全く其先を知つて本を知らぬといふことになりはしないかと思ふから、辞退といふ事の趣旨に於ては聞き申す点があるかも知れませぬけれども、どうしても其根本を誤つて居るやうだから、此所を一つ考を変へたら宜からうと思ふ。其他滔々たる懸河の弁があらすつたやうでありますが、先づ大趣意は是で、私はギユーと閉口して何とも御答のしやうがない。それから畏りました、私の知慧が至らぬで、実は御免を蒙むらうと思つて御目に懸つて御話したが宜いと他の人が言ひましたからそれで御目に懸つたのだが、今の御説得に依つて考を変へて私は務めませうと申したのが、抑々初めての御面会でありました。随分に酷しい言論若くは理由を以て御説得を蒙つて、此事は今尚存じて居りますが、夫以来色色に御指導を受ける場合にも種々なることがありました。私はそれから商人として大蔵省を辞しまして、即ち最初心掛けたる所に微力を致しました為に、政治界に御座る侯爵とは或場合は全く御緑遠くあつたこともあり、又種々御指導を蒙つたこともございます。例へば大蔵省を其後御支配なさる頃ほひに、私は銀行者として経営し居り、多分明治十年であつたと思ひます。支那に是非銀行から金を貸すやうにせいといふことで、私其時大蔵卿たりし故侯爵の内命を受けて支那に金を貸しに行つたことがあります、それは明治十年であつた。私は或生産物に就て、又予算の事などに就て屡々御話をしました。又銀行政策に就て色々伺ふたり、又一身上に就て始終御話を致しました。多分明治十四年と思ひます、丁度政治界を御去りになつた其頃も引続いて御交りを私は継続致したのでございます。
只今高田名誉学長は藩閥に対する牽制はどうであつたか、若し侯なかりせば温健な方法に於て道理正しく此弊害を救ふことは出来ないであつたらうといふことは洵に御尤もである。其当時私は始終両者の間に居りましたが、今此場合に其時斯う云ふ事があつた、伊藤公爵が斯うした、大隈侯爵が斯様であつたといふことを此所に申す記憶を有つて居りませぬし、又さう云ふ事を言ふ場合でもないと思ふのであります。高田学長の御考は洵に私も全然御同意を致す次第でございます。併し政治上の事でなく、私は故侯爵の人に対する工合が実に博愛である。其博愛の一つに私も数へ入れられるのでありませうが、爾来或場
 - 第45巻 p.357 -ページ画像 
合には多少説を異にし、議論がましい御話をしたことも少くないけれども、仮令どう云ふことがあつたにしても、愛情を有ちつゝ人と接する、只今高田学長の言はれた、薨去に対する所謂世間一般の深い哀悼の念を強ふしたといふことも、蓋し是は其政治に、学事に御厚かつたといふ以上に、広い仁愛の心が一般の人の哀惜の情を深からしめた、即ち博愛の人であつたといふことは、確に申上げ得られると思ふのであります。
 私が殊に記憶しまするのは、大正の六年に、丁度侯爵が御病気の時に私は森村・中野・豊川と四人が御病室に呼ばれました。其時森村は病気で出ませぬ、中野・豊川・私が出まして、即ち早稲田の学校の事に就てであります。実は侯爵より五十五年の間に悲観的の事を御聞き申した事はありませぬ、どんな事があつても何時でもより善き事を考へて、今に宜くなると所謂楽天一点張の御方であつた。併し今御話しました御訪ねした時にはさうでなかつた、即ち此の早稲田の学校の事であります。長い間お前等とは交つて居る、又場合には説を異にしたこともあらう、併し先づ相共に力を尽して今日に来つたといふて宜いが、学校其物に対して自分も其職でないから多少の御世話を戴いたけれども、併し別に御相談申した事はなかつたが、此場合はどうぞ此の学校の為に力を尽して欲しいと思ふから、其事で依頼する。私は弱音を言ふのは嫌ひだ、お前も能く知つて居るだらうと言つて我々に頼まれた。お弱りの所で懇切に其御話を承はつて、其後引取つてから私は今日初めて大隈侯爵の弱音を聞いたと言つて、心密に深く感じ且つ大に吾々が覚悟致した事であります。そこで森村は居りませぬで、三人はもう今更云々と申上げるでなからうから、是非吾々が大なる事をするといふて立つと云つても大した事は出来ぬけれども、兎に角此仲間に這入つて是非相当なる方法を講ぜねばならぬと申合せたのは其時であります。其時に初めて私は侯爵の真に弱音を吐かれたといふことを今も記憶して居るのでございます。如何に此学校に対して深い感情を有つて居られたかといふことが、私共に深く窺知られたので、有無を申上げる迄もなく、遂に学園の世話役の一人になることをば、即時に御引受したことは今尚記憶して居るのでございます。
 右様な次第で、或は一身上に就き又は学事に就き其他色々侯爵に対して斯う云ふ事があつた、斯かる場合もあつたといふ事を申上げるとまだ数限りもございませぬけれども、要するに前にも申しまする通り実に博愛同情の方である。随分議論が鋭いから、一寸同情心のある御方でないやうに見える、或場合には人を論難し人を駁撃するけれども同情のある御方である。真に博愛の御方ですから、是は即ち私は故侯爵の今日社会一般から同情を御受けなさる所以であらうと思ふ。況んや之に加ふるに前に高田学長の仰しやる通り、政治界に又此学校に対して、実に懇篤なる力を尽されたからであらうと思ひます。此追悼会に就て只今現学長・高田名誉学長の仰しやる通り、此学園は決して今日を以て満足とは言はれぬで、更に大に攻究しなければならぬ所があるであらうといふことは、私共もさもありさうに感じ居ります。此事に就ては必ず又老衰且微力たりと雖も大に御相談に応じて、諸君と共
 - 第45巻 p.358 -ページ画像 
に力を尽して此学園をして益々堅固なるものに致さなければならぬと思ひますが、更に一つ私は特に此学校を卒つた御方に、又現に学窓に在る諸君に対して一言申上げて置きたいことは、どうも近頃の学事に従事する、若くは学問を終つた一般の青年の思想若くは行動が、甚だ真面目を欠いて居るといふ嫌ひが少からぬと私は思ふのでございます今侯爵の徳を頌するに当つて、或は学事に若くは政治に私が一般の行動に対して実に博愛の御方だと申上げたが、何事に対しても精神を打込んで御話なさる、仮令それが些細な事でも左様であつた。何事に就てお話しても其の通りである、真に心をそこへ集中して御話しになつた。只今申した私の抑々初めに御目に懸つて深く感銘することの如きは勿論であるが、仮令細事であらうとも所謂真面目に御話しなすつたあのやうに広く、あのやうに該博に各方面に御話があつたが、さればといつてそれが浅薄でなくて、実に敦厚であつたといふことは洵に故侯爵を深く御慕ひ申す所である。併し今日世の中の一般の情態はどうも私にはさう思へぬのです、所謂不真面目なものが押並べて強いのであります。精神集中が甚だ少いと思ふ、此精神集中が少かつたならば必ず其人の為す事は知るべきのみ、早稲田学園の本当の主義を奉ずる道ではないと言はなければならぬ。吾々は将来に就て仮令年限が短いと雖も十分力を尽さうと考へます。老先きの長い学生の方々に於てはどうぞ精神を集中して各々其の所に――何れの方面に御力を尽せと云ふことを多数の御方に対して私が今申上げる限りでありませぬけれども、何事にまれ掛つた事に力を尽し、而して其事の成功を見るのが即ち学園に対する報効、又侯爵に対する御恩報じであらうと思ふのでございます。私が諸君と共にそれを努めやうと思ふと同時に、位地を異にし、年を同じうしない皆様御一同に其事を希望致して置く次第であります、是で御免を蒙ります。


渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第五六七―五六八頁昭和八年一二月刊(DK450138k-0004)
第45巻 p.358-359 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第五六七―五六八頁昭和八年一二月刊
 ○第四篇 五 教育
    その二 早稲田大学
○上略 早稲田大学との関係を終るに当り、塩沢昌貞氏の記述を掲げて置かう。
 『子爵が早稲田大学に直接関係する様になつたのは、明治四十一年大学の第二期拡張が行はれた際であります。早稲田大学は其基金募集に就て子爵に管理委員長たる事を依頼致しました。それから以後、基金管理に関する委員会には必ず出席して、細大の事に関し懇篤なる指導をなされましたが、更に大正六年の早稲田大学部内の紛擾は、一層子爵との因緑を深くしたのであります。折悪しく大隈老侯は重患に臥して、大に心痛の上、かねて親交ある渋沢子爵を初め、森村市左衛門男・中野武営氏・豊川良平氏の方々を招いて其善後処置を托されました。軈て問題落着と共に、特に子爵を大学維持員の地位に就いて頂き親切なる相談役として、重要の事に就ては常に子爵の意見を伺ひ且つ配慮を煩はす事となつた次第であります。頼む人の多く、頼まるゝ人の稀な社会に、早稲田大学が子爵を得た事は幸の至りであります。老
 - 第45巻 p.359 -ページ画像 
侯は常に子爵に対して衷心より尊敬と信頼の情が深かつたのでありますが、同時に又子爵も老侯に非常な好意を寄せられた事と思ひます。老侯は大正十年一月《(十一)》に歿せられたが、老侯が重要なる事に就て最終の会見をなされた人が渋沢子爵である事は、決して偶然ではないのであります。それは大正九年十月《(十)》の事であります。子爵が華盛頓に開催の軍備縮小会議に関聯して、米国に渡られる前であります。其会見の内容が何であつたか、私等は推知し得ないのでありますが、面会を断たれてから既に時あるに際して、病苦の老侯と、老躯にして渡米なさる子爵との対談は、頗る意義深きものであつたでありませう。子爵が米国に於て民間外交の使命を了へて帰朝されたのは翌十年二月《(十一)》で、老侯歿せられた翌月でありました。私は子爵を横浜の船に御迎へして、其労をねぎらひ申し、尚ほ老侯終焉の次第を御話しましたが、此時子爵の御歎きになつた有様は今も眼前に髣髴として居ります。それから暫くして四月《(二)》と思ひます、大学では老侯追悼会を行ひました。そこで侯生前最も親交があり、そして私等が窃に大学の元老と仰ぐ渋沢子爵に一言の追悼の辞を御願ひする事となつて、私は大磯に子爵を訪れました。ところが生憎寒風の日が続いて、御疲労御静養中の子爵に御出席を願つた事を大学当局者一同大変心配致しまして、早速手紙を以て御出席を御控へ下さる様申送りました。然し子爵は老侯の追悼会へ出る事は自分の望む所だと、電報を以て席に臨む旨を御報《しら》せになり、会の当日には、席上一場の追悼の辞を以て老侯の霊を慰められたのであります。言必ず信あり、子爵は言あれば必ず之を実行されます。現在も毎月一回の大学維持員会には殆んど必ず御出席があります。御多忙の身を以て、取立てゝ討議すべき問題がない例会にすら子爵が御出席下さる時などは、誠に恐縮する次第であります。斯る実例の細大を挙げて示すならば、枚挙に遑がありません。世上幾多の社会事業・慈善行為に意を用ひ、形式的に関係して居る人々は多々あります。けれども名実共に其参与者たり援助者たるに至つては、殆んど稀であります、老侯生前には老侯と共に大学の為に各地を御巡遊になり、老侯歿後も大阪迄御出張になつた事もございます。近くは老侯記念事業の基金募集にも少からぬ御心配を下され、東京の有力なる方々の勧誘には、私をも御同行下された事もあります。子爵が早稲田大学の為に犠牲的に尽力下さるのは、凡べてこの類であります。子爵が常に国家社会の為め、将た又世界人道の為めに誠心誠意尽力せられつゝあることは、周知の事実でありますが、早稲田大学に対する関係も其至情の一端であると確信し、私共の深く敬意を払ひつゝある所であります。』


竜門雑誌 第四〇六号・第五七頁 大正一一年三月 ○故大隈侯追悼会(DK450138k-0005)
第45巻 p.359 ページ画像

竜門雑誌 第四〇六号・第五七頁大正一一年三月
○故大隈侯追悼会 二月十九日護国寺に早稲田大学校職員評議員学生及校友等相会し、午前十時より故総長の墓前祭を執行し、次で午後一時より同大学校庭に於て追悼会を催したるが、塩沢学長の追悼辞、基金管理委員長青淵先生・高田名誉学長の追悼演説等ありて極めて盛会なりしと云ふ。
 - 第45巻 p.360 -ページ画像 


〔参考〕集会日時通知表 大正一一年(DK450138k-0006)
第45巻 p.360 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年        (渋沢子爵家所蔵)
参月廿日 月 午后五時 早稲田大学定時維持員会(同大学恩賜館)
   ○中略。
四月十日 月 午后参時 早稲田大学定時維持員会(恩賜館)
   ○中略。
五月八日 月 午后三時 早稲田大学定時維持員会(同大学恩賜館)
   ○中略。
六月八日 木 午后参時 早稲田大学維持員会(同大学恩賜館)