デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学 付 早稲田中学校
■綱文

第45巻 p.397-401(DK450155k) ページ画像

大正元年11月3日(1912年)


 - 第45巻 p.398 -ページ画像 

是日栄一、当校ニ於テ催サレタル当校同窓会ニ臨ミ、講話ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正元年(DK450155k-0001)
第45巻 p.398 ページ画像

集会日時通知表 大正元年        (渋沢子爵家所蔵)
十月廿五日 木 午后二―三時 早稲田中学幹事来約(兜町)


竜門雑誌 第二九四号・第七六頁大正元年一一月 青淵先生早稲田中学に赴かる(DK450155k-0002)
第45巻 p.398 ページ画像

竜門雑誌 第二九四号・第七六頁大正元年一一月
○青淵先生早稲田中学に赴かる 青淵先生には大隈伯爵の依頼に応じ十一月三日午前八時半早稲田中学に至り、一場の演説を為されたり。


竜門雑誌 第二九七号・第一一―一六頁大正二年二月 ○青年諸子の任務 青淵先生(DK450155k-0003)
第45巻 p.398-401 ページ画像

竜門雑誌 第二九七号・第一一―一六頁大正二年二月
    ○青年諸子の任務          青淵先生
  本篇は青淵先生が早稲田中学校友会の請ひに応じ、昨年十一月三日同会に臨場して講演せられたるものなり、所説いづれか青年諸子の紳に書して眷々服膺すべきものならざらん、乃ち玆に之を掲げて講話に代ふと云爾。(編者識)
 明治年代は四十五年を以て終つたが、此の間に我が帝国が斯の如く進歩して来たのは、年寄も若い人も共に聖代の盛運として賞讃し、且深く感佩せなければならぬ。併し斯の如き国家の進歩に伴ふ総ての事柄は未だ皆安固に進んだとは申されぬ。然るに明治年代は玆に代つて大正と成つた。即ち諸君は大正の青年である。此の大正の青年の未来に於ける任務は如何。これは諸君の胸に十分あらうが、唯胸にのみ蓄へては居られぬ。肩に担はなければならぬ。担ふのみで若し其荷が重くて潰れるやうではならぬ。此荷物を十分に負ひ終せなければならぬ今日此の御時代の代つたに就て、世間では動もすると明治は発展の時代であつたけれども、大正は守政の時代であるなどといふ人がある。是は個人個人の一家の経営などに比して、国家を思ひ誤る間違である成程親父が非常に騒ぎ散らして来た後に、息子が又同じやうに騒ぎ散らしては困る。少しオツトリと位地を守るか宜からう。しかしそれは一人一人の寿命の短かい場合を言ふので、国家の寿命は個人の如く短いものでない。故に今日の日本はまだ青年といふよりは、寧ろ甚だ幼稚と言はねばならぬ位に私共は考へる。故に若しも此大正と代つたから、我が日本は既に守成時代となつたと心得たならば、それこそ国の元気は玆に衰亡して仕舞ふ。斯の如く四十五年の間に畏多くも、先帝を始とし、又之を輔弼して国の元気の本になつた人、其の他国民一般の五十年の経営を忽ち衰亡せしめて了ふことになる。
我が国は未だ諸君と同じやうに青年である。益々拡張発展を図らなければならぬ時代である。然し世の中は進歩と云ふても唯限りなく、向ふ見ずに進む訳にはいかぬ。時としては或は後ろを顧み、或は地盤を踏み締めると云ふやうなことがなくてはならぬ。唯走るのみならば、走り且躓く、躓く果して倒れる、斯う云ふやうな進歩は決して褒むべきものでない。殊に国家の進歩などは能く進みつゝ踏み誤らぬやうに覚悟せなければならぬ。然して其間に就て、私の特に諸君と共に注意したいと思ふことは、今日の教育が智慧を進めるに於て遺憾ないけれ
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ども、或は恐る元気を盛にすると云ふことに就ては、果して之に伴うて居るであらうか。教育が元気を衰亡せしめるのでは決してなからうけれども、一般の周囲の事情からして智慧には長けて居るけれども、真摯の気象に乏しいと云ふやうな嫌が、今日の若い人々に押並べてあるのである。此の傾は多く若い人にあり、然して之を八釜しくいふものは即ち時代違ひの年寄であるから、少し繰言の様であるけれども、此処の総長大隈伯の如く前途長く青年たるを期して居らるゝ方が常にさういつて居らるゝから、果して老人計りが左様に悲観する訳ではない。全体智慧を進めると云ふことから、人が落ち着いて来る。鋭敏になつて来る。所謂ハイカラになつて来る。続いて浮薄になつて来る。又一歩進んで淫靡軟弱と云ふ方に段々進化して往く。此の順序はなかなか免るゝことを得難いものである。明治以前の即ち慶応とか、文久とかと云ふ頃の学生と、今日の学生を比較すると非常な相違がある。私共はその文久・慶応頃の青年であつた。其時分は藩々にはチヤントした学校の設けもあつたが、其の学ぶ所は多くは漢学で、傍ら撃剣若くは槍術柔道、それを文武と称へて学んだのである。此の漢学といふものは己を修めることは勿論必要とするが、然し一歩進んで人を治める、所謂大学の修身斉家治国平天下、もう一歩進んで人を支配すると云ふことを最大の目的として居つた。苟も学に就くと直ぐに天下を平にすると云ふことを覚える。唯一身丈けを修めるのでは間に合はぬ。それでは能事が足らぬ。どうしても志は常に天下国家の上に在る。然るに其頃は猶ほ幕政時代で、万事階級制度で少しも智慧のない人が上に立つて多数を支配する。それでも従来の風習に依つて、唯命に維れ従はなければならぬと云ふ有様であつた。習慣は恐ろしいもので、一家の事でさへ少し馴れた事は、昔からの仕来りだから俄に変へてはならぬと何処でも言つたものである。況んや国家に於てをや。二百五十年の間、専制を布いて居た惰力に依つて治め来つた天下であるから、時の階級制度は中々惰力が強かつた。此強き惰力の為に、殆ど其職に堪へぬ程の人が上に立つて多数の人を支配して居つた。所が物の変化は決して之を其儘にして置かない。即ち国家に変動が生じて来た。此変動から物を動かさゞるを得ないやうになつて来た。其変動は何だ、即ち外国の関係である。嘉永六年に水師提督ペルリが亜米利加からやつて来た。其前にも度々来たけれども、此の時は特に厳しい談判をして、日本を開国たらしめ様とした。所が此の問題は其の当時の志士の心を大変に動かしたと同時に、其の時分の学生の風気が又変つて来たさなきだに所謂鹿児島辺の薩摩健児、頼山陽の詩にある衣至肝袖至腕腰間秋水鉄可断と云ふことを主義として居る健児が立つやうになつた独り薩摩計りではない。他の藩々にもさう云ふ風があつた。即ち各藩の学校の連中は中々に此世の中にジツトして居れぬ。ジツトして居らぬから遂に其衣は肝に至る所ではない。裸体になるまで勇気を出すと云ふ元気であつた。其の元気が段々募り募つて遂に明治の時代を作り出した。彼の明治の政府に於て聖徳を輔弼した御人々は、此の元気者の中の粋を抜いたのである。即ち前申した如き時代に成長した人が、丁度此の風雲に際会して明治の聖代なるものを現はして、斯の如き諸
 - 第45巻 p.400 -ページ画像 
君と共に慶賀すべき盛大を致したのである。然らば此の聖代は或は文久慶応時代の学生の元気が作り出したものともいへやう。然し時代は人物を色々に変へるものである。即ち其時代の人物は今の学生諸君とは大層風潮が違つて居つた。身なりなどは似てもつかぬものであつた元気旺盛、従つて稍疎暴の傾があつた。今日の学生の如く、上品な落ち着いた風は探しても見られなかつた。然し是は時勢の然らしむる処で、昔は好い今は悪いとはいはれぬ。今日の学生の沈着して居るのを罵つて、直様淫靡である、軟弱である、軽薄であると云ふ誹謗をするのは間違つて居る。若し当時に於ても一人や二人が衣至肝袖至腕といふ風であつたら、彼の気狂には困つたものだと言はれるに違ひない。併し又其場合に諸君の様な服装したものが居たら、あんな華奢な人々では始末にいけないと、斯う云つたらうと私は思ふ。是は時代が然らしむるので、彼を是とし之を非とするのではない。併し文久若くは慶応の時代の青年はさう云ふ有様から飛び出して、此明治時代の大政を輔翼したと云ふことは、決して今の大正の青年が忘れられては困る。勿論斯の如く諸政之れ挙つたのは、先帝の御聖徳として深く感佩せなければならぬことは申すまでもないが、併し此の国家の大を以てして如何に御聖徳と雖も、唯御一人で斯の如く御進め遊ばす訳に往かぬ。即ち之を輔翼し之を協賛する力に依つて今日に至つたのである。それで此の明治より更に一歩進めると云ふ考を持つのは即ち誰であるか、どうしても今日の此の大正時代の青年諸君であるといはなければならぬ。玆に於て大正時代の任務は実に重いと云ふことを、諸君が十分御自覚ありたいと思ふのである。そこで此任務の重いのを果すに於て、どうして往つたら宜からうかと云ふことに就ては、今日まだ青年である諸君が、直様国の政治を料理しようとか、或地方を一人で引受けるとか云ふ様な事は出来もせぬが又してもいけない。矢張り順を追うて着々と歩武を進めて往かなければならぬ。然し此の任務の大なることを自覚すると同時に、彼の明治聖代の大業に参加した往時の学生の元気に負けぬだけの準備はせねばならぬ。さりとて今俄に洋服を取つて浴衣を着なさい、腕捲りを為さい、袴の股立を御取りなさいと云ふやうな御勧めはしない。矢張風采はそれで宜いが、併し元気は此の儘では悪くすると此時代に於て自然と淫靡軟弱になることを免れぬかも知れぬ。即ち智慧を磨くことはもう学校の十分なる御教育があるから、私は之に向つて助言はしないけれども、元気を進める方面に就いては深く御注意あらむことを希望する。
 さて元気とは如何なるものか。元気は形を現はして説くことは甚だ六かしい。然し兼ねて私の嗜める漢学から説けば、孟子の言ふ浩然之気に当るだらうと思ふ。世間ではよく青年の元気、青年の元気と言ふけれども、青年諸君に計り元気があつて、吾々老人にはなくて宜いと云ふのでない。元気は押並べて、更に一歩進んでは男女共になければならぬと考へる。大隈伯の如き私よりは二つも御上で居らつしやるけれども、其の元気は非常なるものである。孟子の浩然之気につきては孟子が其為気也至大至剛以直養而無害則塞于天地之間と斯ういつて居る。此至大至剛以直養と云ふ言葉が甚だ面白い。俗間ではよく元気が
 - 第45巻 p.401 -ページ画像 
ないとか元気を出したとか云ふ。事に依ると大分酩酊して途中を大声でも出して来ると、彼は元気が宜いといひ、黙つて居ると元気が悪いと言ふが、然し「ポリス」に捕つて恐入ると云ふやうな元気は決して誇るべきものでない。人と争つて自分が間違つて居つても強情を張り通し、是が元気が宜いと思ふたら大間違である。それは即ち元気を誤解したのである。元気を誤用したのである。又気位が高いと云ふことも元気であらう、慶応義塾の福沢先生が頻りに唱へて居つた独立自尊此の自尊なども或る場合では元気ともいへよう。自ら助け、自ら守り自ら治め、自ら活きる、是等と同様な自尊であれば宜い。然し自治だの自活だのは相当な働きがあるから宜いが、自尊と云ふことは誤解すると云ふと誠に倨傲になる。或は不都合になる。総て悪徳になつて仕舞ふ。一寸道を通り掛つても、此方は自尊だから己は逃げないと云つて、自働車などに突当つては頓だ間違が起る。かゝるものは私は元気ではなからうと思ふ。元気と云ふものはそう云ふものでない。即ち孟子の所謂至大至剛、至つて大きく至つて強いもの、而して以直養、道理正しき、即ち至誠を以て養つて、さうしてそれが何時迄も継続する唯一寸一時酒飲み元気で、昨日あつたけれども、今日はもう疲れて仕舞つたと言ふそんな元気では駄目である、直きを以て養つて餧ゆる所がなければ、即ち塞于天地之間、是こそ本統の元気であると思ふ、此元気を完全に養ふたならば、私は今の学生が軟弱だ、淫靡だ、優柔だと云はれるやうな謗は決して受ける気遣ひはなからうと思ふ。然し今日の儘では多少悪くすると元気を損ずる場合がないとは言はれぬ。老人とても猶然りであるが、特に最も任務の重い現在の青年は、此元気を完全に蓄へることを呉々も努めなくてはならぬと思ふ。是は決して寝言ではない。真実にさう思つて居るのである。程伊川の言葉にあつたと思ふが、哲人見機誠之思志士厲行致之為と文句がある。一寸文字が間違つて居るかも知れぬが、是は私の注意した言葉で今でも感心するが、彼の明治時代の先輩は哲人見機誠之思ふと云ふことをした人である。大正時代の諸君はどうしても志士厲行政之為と云ふ方であつて総て巧に之を纏むる時代であると私は思ふ。故にどうぞ諸君が十分元気旺盛にして――今の学生の風習を決して悪いとはいはぬけれども――呉々も淫靡、軟弱に陥らずして、飽迄も至大至剛の元気を保つて、此聖代の御徳に十分報答為さることの御心掛あらんことを深く希望する。玆に一言の愚見を呈した次第である。