デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 1. 財団法人二松義会
■綱文

第45巻 p.550-556(DK450208k) ページ画像

大正5年4月30日(1916年)

是ヨリ先、大正四年七月二十四日、天皇陛下ヨリ二松学舎維持費トシテ内帑金一万円ノ下賜アリ、是日、築地水交社ニ於テ、恩賜金奉戴式ヲ兼ネ、二松学舎創立四十年記念式挙行セラル。栄一出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

財団法人二松義会第拾参回会報 第一―二頁 大正五年二月刊 自大正四年壱月至同年拾弐月二松義会第拾参回会報 第一 本会経過紀要(DK450208k-0001)
第45巻 p.550 ページ画像

財団法人二松義会第拾参回会報  第一―二頁 大正五年二月刊
    自大正四年壱月至同年拾弐月二松義会第拾参回会報
      第一 本会経過紀要
○上略
一、七月二十四日
思召ヲ以テ二松学舎維持費トシテ金壱万円御下賜アリタリ
○中略
一、九月六日、臨時評議員会ヲ開キ、恩賜奉戴式ヲ挙行スベキヤ否ヤニ就キテ評議シ、挙行スルコトニ決セリ
一、十二月十五日、臨時評議員会ヲ開キ、恩賜奉戴式ニ関シ更ニ細目ニ渉リテ評議セリ
○下略


財団法人二松義会第拾四回会報 第一頁 大正六年三月刊 自大正五年壱月至同年拾弐月二松義会第拾四回会報 第一 本会経過紀要(DK450208k-0002)
第45巻 p.550-551 ページ画像

財団法人二松義会第拾四回会報  第一頁 大正六年三月刊
 - 第45巻 p.551 -ページ画像 
    自大正五年壱月至同年拾弐月二松義会第拾四回会報
      第一 本会経過紀要
一、三月十五日、通常評議員会ヲ開キ、大正四年度決算報告書ヲ議決シ、併セテ昨年七月拝戴シタル金壱万円ニ対シ、一ハ以テ 聖恩ヲ奉謝シ、二ハ以テ海内ヲシテ二松義会及二松学舎ノ存在ヲ認メシメ、三ハ以テ光栄ヲ公ニセンガ為メ、恩賜奉戴式ニ二松学舎創立四十年記念会ヲ兼テ之ヲ行フコトヲ議決シタリ
一、理事ハ毎金曜日以外ニモ数々会合シ、恩賜奉戴式ニ関スルコトヲ評議シ、更ニ四月二十四日臨時評議員会ヲ開キテ実行方法ノ打合セヲ為セリ
一、四月三十日午後一時ヲ以テ、築地水交社ニ於テ二松学舎創立四十年並ニ恩賜奉戴式ヲ挙行セリ(詳細ハ昨年秋頒布セシ雅集纂録ニ記シタレバ複述セズ)之レガ為メ海内各方面ニ於テ学舎・義会ノ存在ヲ認メ、随ツテ義会ノ寄附金、学舎ノ入学生モ増加セシハ本会ノ満足スル所ナリ
一、六月二十五日、臨時評議員会ヲ開キ、記念奉戴式ノ結果ヲ報告セリ
○下略


二松学舎四十年記念二松義会恩賜奉戴式雅集纂録 第一―二頁 大正五年七月刊(DK450208k-0003)
第45巻 p.551 ページ画像

二松学舎四十年記念二松義会恩賜奉戴式雅集纂録  第一―二頁 大正五年七月刊
    二松学舎創立記念並恩賜奉戴式
 東洋固有ノ道徳文学ヲ維新拡張スルヲ以テ目的トセル我二松学舎ハ大正五年四月三十日午後一時三十分ヨリ、築地水交社ニ於テ、創立四十年記念並恩賜奉戴式ヲ挙行ス。同日ハ定刻以前ヨリ続々来会、定刻ニ至リ一同式場ニ着席セリ。二松義会理事細田謙蔵氏ハ開会ヲ宣シ、続デ会長子爵入江為守氏ハ式辞ヲ朗読シ、来賓大審院長男爵横田国臣氏・二松義会顧問伯爵土方久元氏・同男爵渋沢栄一氏・二松義会会員東京市長法学博士奥田義人氏・同朝鮮総督府司法部長国分三亥氏ハ各起ツテ祝辞ヲ述ベ、会員陸軍少将松井庫之助氏ハ祝辞ヲ朗読セラル、此ノ時中洲三島先生ハ一枝ノ鳩杖ニ老躯ヲ支ヘテ臨席セラル、先生ハ近来中風症ノ為メ言語ヲ発スルニ困難ヲ感ゼラルヽニ付、理事細田謙蔵氏ハ代ツテ挨拶ノ辞ヲ述ベラル、次ニ理事池田四郎次郎氏ハ祝電詩文等ヲ寄セラレタル諸氏ノ姓名ヲ報告シ、細田理事ハ謝辞ヲ述ベ併セテ閉会ヲ告ゲ、伯爵土方久元氏ノ発声ヲ以テ 天皇陛下万歳ヲ三唱シテ式ヲ終ヘタリ、時正ニ三時三十分ナリ、暫時休憩シ、四時三十分ヨリ食堂ヲ開キタリ、数十個ノ電灯ハ煌々トシテ大広間ヲ照シ来賓ハ続続トシテ入リ来リ、玆ニ宴会ハ開カレタリ、宴酣ニシテ本田晋氏ハ起ツテ所感ヲ述ベラル、右終ツテ余興トシテ当日壁間ニ掲ゲタル中洲先生ノ書ト、土屋鳳洲先生ノ特ニ本会ニ寄贈セラレタル晩晴楼文集ヲ来会者ニ抽籤ニテ頒ツコトヽセリ、忽チ朗々トシテ吟哦ノ声座中ニ起レリ、是レ高橋秀臣氏ガ中洲先生ノ詩ヲ諷詠セラレシナリ、吟ジ畢リテ拍手四隅ニ起レリ、此クシテ七時半頃ヲ以テ散会セリ、当日来会者ノ姓名ハ左ノ如シ○下略

 - 第45巻 p.552 -ページ画像 

竜門雑誌 第三三六号・第一二四頁 大正五年五月 ○二松学舎の御下賜金奉戴式(DK450208k-0004)
第45巻 p.552 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第一二四頁 大正五年五月
○二松学舎の御下賜金奉戴式 三島中洲翁の二松学舎にては五月二日午後二時《(四月三十日)》、築地水交社に於て創立四十年記念並に御下賜金奉戴式を挙行せり、二松義会長入江為守氏の式辞に次いで、来賓横田国臣男の懐旧談あり、同義会顧問たる青淵先生にも「道徳と経済の漢学の力に俟つ所大なる所以」を演説せられ、次に同顧問土方伯・奥田市長其他の所感談あり、最後に中洲翁は三令息に扶けられつゝ病躯を演壇に運びて簡単に謝辞を述べ、土方伯の発声にて陛下の万歳を三唱して午後三時半式を終へたる由。


二松学舎四十年記念二松義会恩賜奉戴式雅集纂録 第一四―二〇頁 大正五年七月刊(DK450208k-0005)
第45巻 p.552-555 ページ画像

二松学舎四十年記念二松義会恩賜奉戴式雅集纂録  第一四―二〇頁 大正五年七月刊
    祝辞
           二松義会顧問 男爵渋沢栄一君
 閣下、諸君、二松学舎の創立四十年の記念、特に恩賜金の奉戴式が今日挙行せらるゝに付て此席に参列いたしましたことは、私の最も名誉且つ欣幸と致す所でございます。而して私は二松義会の顧問の位置に居ります為に、一言を述べる様にと理事からの御嘱託でございます文学上に疎い所の私が斯るお席で祝辞を申述べますのは甚だ困難でございます。さり乍ら私は此の二松義会とは深い縁故を以て、微力乍ら義会の弥増隆盛ならんことを図りつゝ居りますので、学者でない俗人と雖も為し得られることは何事も努力するのでございます。それ計りでなく、仮令ひ私が文学に関係の少いものでありましても、中洲先生に知遇を受けて居ることは年久しいのでございます。只今横田男爵は四十年以上の御懇親であると仰せられました。私はそれ程長くはございませぬけれども、殆ど三十年に近いと思ひます。而して私の知遇を受けましたのは、今横田男爵のお述べになつたと全く方面を異にしまして、申さば私に対しては、他山の石として切瑳を受けたと申して宜いのでございます。殊に私の心に期する所と、中洲先生の常に講演される東洋道徳とは全く一致する心地が致しました為に、只其学問に篤いとか文章が巧みであるとかいふのみならず、所謂道徳と経済を合一させたいといふ点から、別して親しみを厚うしたので、それが即ち此の記念会に当りまして私も一言を述べて見たいといふ心を起しましたのでございます。
 私が先生と相識となつたのは、初めには、或る碑文や序文を願ふことからお交はりを致したのでありますから、今玆に述べんとする道徳経済合一といふ様なる大問題に依て、お知合になつたのではございませぬ。諸君はお聞及びも下さいませうが、私は四十四年前銀行者となりまして、今日迄同様に経営いたして居ります。併し其初め銀行に従事します時には政府の官吏から転じたので、即ち役人上りの商人でありました。但し役人勤務の年月は短くて、商人となりて後の年月は長いのでありますから、役人上りの商人といふことは老人はお知りになつて居るが、今日の青年は私を根からの商人とお看做し下さると思ひます。明治六年の夏銀行者となります時に、只今横田先生のお話のございました玉乃世履君と交りを厚うして居りました為に、玉乃君は私
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が官を辞して商人となるのを切に愛惜して呉れました。其趣旨は、聞く所に依ると足下は、故郷を去る時に攘夷鎖港説を唱へ、志士を任じて出掛けた人であるといふ、而して一橋に仕官し、続いて幕府の吏員となつて遂に欧羅巴に渡航し、帰朝の後明治政府の官吏となつた。扨て其官吏を罷めて商人になるといふことだが、現在の商人の風習といふものは実に品位も低い、思想も下劣である。斯の如き仲間に入つて錙銖の利を計つて今日を送るといふは、折角志を立た時と一致せぬ様になりはせぬかと恐れる、故に足下が商人になるといふことは余程考慮すべきものである、といふて懇切に忠告されました。蓋し在官中玉乃君は法律に、私は財政に任じて互に意気相合ふて、相親しく致しました為に、其官を辞するに臨みて今の通りの忠告を受けたのでございます。私は其時に深く親友の忠言を感佩しましたけれども、併し覚悟は翻すことは出来ませなんだ。故に不肖ながら様々に審案熟慮して、迚も実業界に於て大に為すことは出来ぬであらうけれども、正義人道を誤またぬ範囲に於て生産殖利を図るといふことは、向後の心掛次第で出来るであらう。果して然らば則ち商人としての安心立命を如何なるものに托して宜しいか、何を守り本尊にして此の実業界に立ちて銀行経営を為すべきかといふことを再三再四熟慮しまして、深くも修めぬ学問でございますから、高尚なる事は考へ得られませぬけれども、身を修め家を斉へ社会若くは国家に報するといふには論語が宜からうといふ感を起し、論語に依て銀行を経営して見やうと覚悟しました。依りて玉乃君に向つて、御忠告は忝けないが、商人となる事を止める訳にはいかぬ。但し私は論語を以て処世の標準として百事これに依て経営いたす積りでございます。とお答したのは明治六年の事でございます。爾来の私の処世接物が悉く論語の趣旨に相応じたとは申上げられますまい。けれども元来此の生産殖利の事が仁義道徳と相離るゝ虞があるから、之を密着させるといふことに付ては、自身の生産殖利即ち日常経営する事務に付て、道徳観念を失はぬ様にしたいと思ふと同時に、教育者の側から道徳を論ずるのも成るべく実際に近きものを企望しました。要するに道徳と経済とは兎角疎隔する虞がある。即ち相離れる様になるから、これを近からしめたいといふことに努力したのでございます。話が余談に渉りますけれども、元来道徳と経済は全く一なものであらうと思ひますのに、それが分れたといふは、往昔から論じて見ますならば、王道を以て国を治める人が、道徳と経済とを共に為し得る場合は、両者が一致して居つたのであります。例を申すならば、尭舜禹湯文武といふが如き時代であつては、道徳上から経済に適合し経済上からも道徳が一致したのである。然るに周の末、春秋に至つて、道徳と経済とが段々分離した故に、孔子孟子が常に道徳を論じて、経済のこれに背馳することを非難したのである。然るに宋朝の学者も矢張り其弊を受けて、道徳と経済とは離れたものゝ如くにした当時儒学を大層重んじた。程朱の如き大学者でも道徳と経済とを一致させる教旨は少い様であつた。宋学から伝来した日本の儒学者も同様で、殊更徳川幕府の儒教の元祖たる林家抔も、全然両者を区別した様である。其証拠は例の山鹿素行の聖教要録に、論語の子貢の、博く施
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して能く衆を救ふは仁と謂ふべきか、といふ問に孔子が答へて、尭舜其猶病焉と言ふ事に付て、素行はこれが真の仁であるといふことを唱へたのを、林家の学者が大変非難して、遂に山鹿を異論だといふて罰した程の間違ひがある。斯の如く道徳と生産殖利の事とを相背馳せしめたのは、私から申すと商人も悪かつたけれども、儒者が我々をして孔子の門に入ることを垣根をした様なものであつた。
 我が中洲先生は始めて此の道徳と経済との一致を主張されたのでございます。此処に持参した一書は明治四十年頃の先生の御講演でございます。二松学舎にも此記録が存して居りませうから、朗読は止めますが、私は大切に保存して居りました。四十年十一月「道徳経済合一論」三島毅講演とございまして、第一に中庸の誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なりといふ一節から説き起して、私共の余り研究をせぬ書物が沢山引かれて居ります。尭典舜典大禹謨或は禹貢、洪範、詩経の豳風、易繋辞伝、礼記、大学、中庸、孟子と斯の如く四書五経を通じて講究し、これが道徳であつて而て経済である。これが経済であつて而て道徳であると、明瞭に証拠立られたのでございます。此文章を悉く朗読するは余り時間を費しますから只項目を申上げるに止めます。又其後一年計り過ぎましてから、少し諧謔の様でありますが、先生は私に論語算盤の説といふ一文章を贈つて下さいました。丁度私が七十になりましたのを賀する為に書かれたのでございます。此事は今日より一週間前、孔子祭典会の時にも私がお話したのでございますが、私の七十の賀に或人の贈られた画帖に、論語と算盤と、シルクハツトと朱鞘の刀とあつたのを、中洲先生が見て大に笑はれて、それから其理由を聞かれて大に之を嘉みし、これは一の文章になり得ると思ふ。即ち論語算盤の説を書いて下さいました。其文章も他に向つてお話したことでございますから朗読を略しますが、詰り道徳経済合一といふことを言葉を変へたのでございます。此論語算盤説に依りますと各種の経書を引用されて此説は道徳から経済を一にしたのである。此論は経済に合うのであると両者の関係を委しく述べられてあります。私は先生にして初めて道徳と経済とを全く密着せしめたといふことを深く喜んで且つ感謝するのでございます。故に私も之に倣ふて経済側から道徳に対して経済は道徳に適合するものであるといふことを、証拠立てる程の力は持ちませぬけれども、幸にして前に述べました如く四十四年前から生産殖利を経営いたして居りまして、正義人道を誤らぬ所の商人となり得たいと思ふことを、先生の学者方面から能く相照して下さつて、私の経済が先生の道徳に相合うかと思ひますと、是程心嬉しいことはございませぬ。斯の如くにして増進した富は即ち健全なる富力と言ひ得ると思ひますれば、私の一身は微力にして富抔といふことは申上げ得られませぬが、私の四十四年の間拮据経営して各種の事業に就て、幾分の富をなしたらうと思ひますと、先生の道徳と相待つて国家に一分の公益を為したかと深く喜ぶのであります。今日学舎は四十年といふ記念でございます。私は商人になつてから四十四年を経過しました。丁度相近い年齢でございます。自己の経歴を申上げて祝辞にしたのは頗る失礼に当るかと思ひますが、詰り学問を以て学
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問を賞するのでなく、他方面から道徳に対することを申述べましたのは、聊か先生をお慰め申すことが出来得ると思ふ。而して此の二松義会の将来が道徳と経済とを飽く迄で密着せしめて、私如き小さい力でなく、更に広大なる経済を此の世の中に出生せしめられんことを希望して已まぬのであります。(拍手)(文苑欄三島中洲先生文章参照)


中外商業新報 第一〇五一六号 大正四年七月二九日 ○二松学舎に内帑を賜ふ 中洲翁の光栄(DK450208k-0006)
第45巻 p.555 ページ画像

中外商業新報  第一〇五一六号 大正四年七月二九日
  ○二松学舎に
    内帑を賜ふ
      中洲翁の光栄
宮内省御用掛従三位勲二等文学博士中洲三島毅氏は、去る二十四日特に宮中顧問官に任じ、高等官一等に叙せられたるが、翁は多年宮中に奉仕し、今上陛下東宮御時より今日に至る迄殆ど二十年間王者の学を進講し、且明治十年二松学舎を設立して殆ど四十年間子弟を薫育し、斯道の普及に尽力したる功績尠からざるを思召され、天皇陛下には宮中顧問官任官の御沙汰を賜ひたると同時に、二松学舎維持費として特別の御恩召を以て御内帑金一万円御下賜あらせられ、近藤宮内大臣官房総務課長は翁を訪問して聖旨を伝達したるに、翁は今更の如く聖恩の洪大なるに感泣しつゝありと


中外商業新報 第一〇七九二号 大正五年五月一日 ○二松学舎四十年記念会(DK450208k-0007)
第45巻 p.555 ページ画像

中外商業新報  第一〇七九二号 大正五年五月一日
    ○二松学舎四十年記念会
三島中洲翁が星霜四十を重ねて東洋文教の普及に尽せる麹町区一番町二松学舎は、既報の如く三十日午後一時より築地水交社に於て、創立四十年記念式及昨年其文献の功を以て、畏き辺より維持費一万円の下賜に対し恩賜奉戴式を挙行せり、来賓として土方伯・大迫大将・横田大審院長・平沼検事総長・奥田市長、三井・渋沢・大倉各男、犬養毅・白鳥・杉浦両東宮御学問所御用掛、花井博士・林博士・湯本武比古氏其他朝野の名士二百余名参着、先づ二松義会々長入江為守子の式辞に次いで、土方伯・渋沢男・奥田市長等交々起つて祝辞を演べ、碩学中洲翁の徳を称し、猶各顧問卒業生等の祝辞あり、中洲博士は偶々病中なるを以て、代理細田理事の挨拶ありて式を閉ぢ、式後食堂に会して祝宴を開きしが、病を押して出席せる老博士は終始莞爾として一同歓を尽して散会せり



〔参考〕渋沢栄一書翰 三島毅宛 (大正五年)八月六日(DK450208k-0008)
第45巻 p.555-556 ページ画像

渋沢栄一書翰  三島毅宛 (大正五年)八月六日   (三島美代氏所蔵)
華翰拝読、爾来老台益御清適之由奉賀候、過日ハ小生之第一銀行辞職ニ付特ニ高作御恵与被下感謝之至ニ候、且御同封之偶成五言律ハ、近況御報知被下候御真情紙面ニ溢れ候様拝見仕候、小生此度之退任ハ、追々老衰候ニ付、適当之後継者ニ譲り候まてにして、曾而老台之学事上御示諭有之候学孫ニ後事を托せしニ過き不申候、実ハ此辞職と共ニ経済界を隠退之予期なりしも、今日之処全然無関係と申訳ニも相成兼可申と存候、右等之事情其中拝眉詳細可申上と存候、要するニ老年二
 - 第45巻 p.556 -ページ画像 
松学舎ニ於て御講演被成候道徳経済合一論之御趣旨ハ、実業界ニ普及致度と今尚努力罷在候、御諒察被下度候
御懇書を以て老後之衛生方法御垂示被下拝承仕候、海辺之空気頽齢ニ適し候ハ尊諭之通と奉存候得共、目下之有様にてハ百事〓擲養老ニ惟勉むるとも難申上候義ニて、直ニ来示ニ従ひ候都合も出来兼候、乍去御芳志ハ厚く拝承仕候ニ付、精々心掛可申と存候
時下炎暑如烘候間折角御自愛専一ニ祈上候、時令御伺之為メ粗品小包郵便にて進呈仕候、御笑留可被下候
右は尊書之拝答且高作御恵贈之御礼旁匆々如此御坐候 敬具
  八月六日
                      渋沢栄一
    中洲三島先生
         玉案下