デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
16款 江原奨学資金
■綱文

第46巻 p.5-8(DK460001k) ページ画像

明治45年6月1日(1912年)

是ヨリ先、麻布中学校校長江原素六、古稀ヲ迎ヘ、更ニ是年四月貴族院議員ニ勅選セラル。友人等発起委員トナリ、是日、麻布中学校ニ於テ祝賀会ヲ開催ス。栄一、出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第二八九号・第九五頁明治四五年六月 ○江原素六氏祝賀会(DK460001k-0001)
第46巻 p.5 ページ画像

竜門雑誌 第二八九号・第九五頁明治四五年六月
○江原素六氏祝賀会 江原素六氏は昨年古稀の齢に達し、今春貴族院議員に勅選せられたるに由り、知己及門人諸氏発起となり、六月一日午後二時半より、氏の管理する麻布中学校に氏を招待して其祝賀会を開きたり、来会者の重なるは青淵先生・長谷場文相・高木兼寛男・大岡衆議院議長・井口陸軍中将其他学生等約千余名にして、真野工学博士開会の趣意を述べ、長谷場文相・尾崎市長の祝辞朗読あり。夫れより青淵先生は発起人を代表して一場の祝辞を述べたり、其要に曰く
 江原翁と余とは二個の重要なる関係を有す、其一は両人共に古稀の齢を迎へたること、其二は両人共に徳川幕府の遺臣たること是れなり、而して翁の是まで政治・教育・宗教三方面に尽瘁したる功績は偉大なるものあり、而かも翁は驕らず傲らず自ら奉ずること頗る薄し、往昔顔回は蔬を食ひ水を飲み市井に隠遁したるが、翁は顔回の如き隠君子にあらずして、蔬を食ひ水を飲みて現に社会に活動しつつあるは多とすべきなり
と其績、其徳を頌揚し、記念品目録を贈呈し、尚ほ益田孝氏・麻布中学生徒総代の祝辞、江原素六氏の謝辞ありて会衆一同氏の万歳を三唱し、午後四時散会せりと云ふ。
   ○本記事中「発起人を代表して云々」トアルハ誤ナラン。


江原素六先生伝 江原先生伝編纂会委員編 第三一五―三二〇頁大正一二年五月刊(DK460001k-0002)
第46巻 p.5-8 ページ画像

江原素六先生伝 江原先生伝編纂会委員編 第三一五―三二〇頁大正一二年五月刊
 ○上篇 第十章 先生の晩年と再度の渡米
    第壱節 古稀祝賀会
 先生既に勅選せられて貴族院議員となり、入つては麻布中学を教へ出でゝは基督教青年会を督し、政治に教育に宗教に、尽力斡旋日も是れ足らざりしかど、身辺復た何等の暗暈を認めず、児女成人して各々処を得、加ふるに其の健康常人に立勝りたるものありしを以て、和気永へに堂に満ち、春風常に面を払ひ、人生の幸福真に先生一人に集りたるの観ありたり。殊に先生自ら持する極めて薄く人に求むる甚だ少なかりしにぞ、居は膝を容るゝを以て限りとし、衣は躰を蔽ふを以て
 - 第46巻 p.6 -ページ画像 
足れりとし、食膳亦何等の註文を有せず、学校附近の破れ寺を賃して住み、田舎出の老婢を雇うて家事を取り賄はしめ、日々是れ好日、物物悉く輯熙、如何なる場所如何なる場合にも曾て不愉快不満足を感じたる事なく、平和に晨起し、平和に暮臥し、遂ひには先生自身平和の権化なるかと思はるゝに至りぬ。
 友人儕輩即ち斯の幸福を欽羨し、古稀の高齢と勅選の光栄を慶賀せん為め、明治四十五年六月一日麻布中学校内に於て、盛大なる祝賀会を開きたり。発起委員は小田川全之・野田卯太郎・野崎広太・真野文二・益田孝・赤松範一の六氏にして、来り会するもの無慮三百余名。麻布中学校生徒六百余名亦之れに参列す。会は先生平生の志に副はんが為め極めて質素に執り行はれ、有志の醵出したる金四千八百円を公債証書にして贈呈せしに、先生は直ちに又之れを麻布中学に寄附せられたり。当日述べられたる先生の謝辞左の如し。
 閣下、紳士諸君、本日は不肖江原素六古稀の齢ひに達しました為めに、斯かる盛大なる祝賀会をお催ほし下さいましたことは、実に思ひ懸けなき僥倖でござりまして、私一人のみならず、家族・親類共に至るまで、深く感激致す所でござります。凡そ命長ければ恥多しと云ふこともありませうが、私は本年古稀の齢ひに達しました為めに、重ね重ねの名誉を得たことを非常に幸ひに存じます。昨年一月二十九日に、私が古稀に達しました為めに、麻布中学校関係諸氏の親切なる温かき賀筵を挙げられましたことは、今日も尚ほ昨日の如く、非常に快感を感じて居るのでござります。又本年四月二日には実に夢にも考へませぬでした貴族院議員の勅選を蒙りましたことは実に名誉として愉快に感じて居るのでござります。而して本日は又朝野の紳士諸君の深厚なる御愛情によりまして、斯かる盛大なる祝賀会をお開き下さいましたことは、真に身に余る光栄として感激相極まり、如何なる言葉を以てお礼を申して宜しくありますか、全く其の口上を思ひ出すことが出来ませぬのであります。希くば何卒私の衷情の有様をば御洞察あらんことを望みます。
 凡そ、人には勤労ある者には報償と云ふものが下ります。又功績のあるものには賞与が下ります。功績もなく勤労もなき者は、人より何も受くる価値はござりませぬ。受くべき資格と価値のなきものが受くることを、之れを寵幸或は恩寵と申します。然れば私が斯くの如き立派なる御待遇を蒙るべき資格はござりませぬ。然るに斯くの如き幸ひを蒙りましたことは、全く諸君の特別なる御愛情より蒙りました寵幸として、深く感謝致します。諸君、甚だ可笑しき譬へでありますが、下谷万年町あたりの先祖代々からの貧民は、少し金を拵へて希くば小さな家でも持ちたいと云ふことは、夢にも見たことはないと申します。此事は私の一身に取つて痛快に感じます。何んとなれば私は三河の……私の先祖は江原村の百姓で、家康公に黒鍬の身分として召抱へられた者でござります。夫から先祖代々黒鍬を致して居りまして、或は荷物を担つぎ、箪笥を担つぎ長持を担つぐといふ一種の人足でござりました。私の祖父が僅かに小役人になりまして、私の親は生涯何にも勤めを致しませぬでした。家は極めて
 - 第46巻 p.7 -ページ画像 
貧しくありまして、私の家には実語教と百人一首と伊勢の暦の外、書物は一つもござりませぬ。机もなければ硯もなく、僅かに裸硯があつたゞけの家庭でござります。私の親は生涯一度も手紙を書いたことのない者でござります。故に文学の事柄など家庭に於て一遍も聞いたことはない、併し私の親は極めて質朴で、貧乏の中でも唯々稼いで喰ふだけのことで、人の富を羨む話を聞いたこともなく、願くば多少金を溜めたいと云ふ希望を聴いたこともなく、役人になりたいと云ふことを聴いたこともないのです。故に私が斯くの如き何等のアンビシヨンの無い家庭に育てられまして、その時代の習慣として、金持だの身分の良い者を非常に怖がる時代でありました、夫れが先天的、本能的となつて居りまして、今日まで未だ曾て人を押除ける処ではなく、総て自から進んで幾許か発展しようと云ふ様な気分は毛頭なかつたのでござります。今渋沢男爵のお誉め下さつたのは、決して私の何等の徳操に関係したことではなく、所謂万年町式的であつたのです。夫故に今益田君の知られまする通り、横浜に居りまする処の外国人を皆斬つて仕舞へば、鎖港をすることは訳はない、軍艦も大砲も要らない、何でも上陸をした奴を端から斬つて仕舞へば宜いと云ふので沢山の人が脱藩したのです。故に一大事でありますので、警衛の兵士を要します。私は其の兵士に抱へられて一日十二銭五厘で、生命を国家に売つたのであつたのです、私は総て偶然の人の情けに依つて、今日までジリジリと七十まで生きて居つたのです。初めは仁者の世話になつて寺小屋に這入ることも出来其寺子屋の先生非常に親切で、夫れが為めに多少漢学を学ぶことも出来、夫から兵士になりまして、多少時間がありまして、幾分か勉強することが出来、幕府の講武所の教授方となり、或は今日の言葉で云ふと歩兵の大尉となり、少佐となり大佐となつて、維新になつたのでござりまするが、維新後は静岡藩の少参事となり、後には師範学校長・中学校長・県会議員・衆議院議員、今日は忝くも貴族院議員の恩命を蒙りましたが、今日まで斯かることに対して一度も成りたいと思うたこともなければ、運動したこともなく、全く世の多くの仁者が見兼ねて私に同情を表して呉れて、段々と今日になりましたので、一から十まで多くの眼に見えると見えざるとの差はありまするが、仁愛に富める諸君のお蔭で、自から期せず今日になりましたので、実に私の光栄とする所でござります。
 殊に、今日の如き朝野の紳士諸君のお招ぎを蒙りまして、斯くの如き身に余る処の光栄を博しまして、更らに尚ほ私の生れて初めてなる処の莫大なる贈り物を頂戴致しましたことは私の死に至るまでゞなく子々孫々此の光栄を忘れることが出来ませぬのでござります。私一人のみならず家族一同、家族一同のみならず親類共に至るまで今日の御親切を深く感謝致します。深厚なる御愛情に対して満腔の御礼を申上げます。
 是れ渋沢子爵が先生を以て顔淵に比し「顔淵は政党に入つたり政治界に雄飛したりしなかつたけれども、江原翁は其の事を遣りつゝ尚ほ顔淵たる行ひをして居られる、余人の企て及ばぬ事である」と述べし
 - 第46巻 p.8 -ページ画像 
に対し、率直に自己を告白したる言なり。一同之れを聴きて愈よ先生の徳恰も天衣無縫の概あるを見、景仰之れを久うするを禁ずる能はざりき。