デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
19款 亜細亜学生会
■綱文

第46巻 p.42-47(DK460012k) ページ画像

大正12年11月18日(1923年)

是年七月二十四日、栄一、飛鳥山邸ニ、当会第四次旅行班一行ヲ招キテ別辞ヲ述ブ。是日、憲法記念館ニ於テ、右旅行班報告会開催セラル。栄一出席シテ所感ヲ述ブ。


■資料

南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第九八頁大正一三年三月刊(DK460012k-0001)
第46巻 p.42 ページ画像

南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第九八頁大正一三年三月刊
    会誌
○上略
□同○大正一二年七月廿四日 午後、会長・副会長・両主事及旅行会員一同渋沢顧問邸参集。顧問には御病臥中なりしに拘らず親しく病床に迎へられ、論語を引いて懇切なる別辞を与へらる。後別室にて茶菓を供され、席上会長・副会長の訓話あり、紀念撮影をなす。
○下略


集会日時通知表 大正一二年(DK460012k-0002)
第46巻 p.42 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
七月廿六日 木 正午 亜細亜学生会酒井真澄氏来約(兜町)


南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第九八―九九頁大正一三年三月刊(DK460012k-0003)
第46巻 p.42-43 ページ画像

南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第九八―九九頁大正一三年三月刊
    会誌
○上略
□同○大正一二年七月廿六日 集会所に最後の打合会開催○中略
□同七月廿七日 集会所にて補助費一名二百五十円宛を交附。
 同夜七時五十分東京駅発にて旅行会員出発。副会長以下見送。
○中略
□同九月末日迄に 旅行会員帰国(但し第三班は十月帰国)
○中略
 - 第46巻 p.43 -ページ画像 
□同十一月十八日 第四次旅行報告会開催(別項記載)
○下略


集会日時通知表 大正一二年(DK460012k-0004)
第46巻 p.43 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月十八日 日 午后壱時 亜細亜学生会旅行帰京報告会(憲法記念館)


南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第二―四頁大正一三年三月刊 【若き諸君へ ―旅行報告会席上に於て― 顧問 子爵渋沢栄一】(DK460012k-0005)
第46巻 p.43-44 ページ画像

南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第二―四頁大正一三年三月刊
    若き諸君へ ―旅行報告会席上に於て―
                 顧問 子爵渋沢栄一
 林君も申された通り、今日は我々は寧ろ聴き手で話す方の側ではないのでありますから、なるべく時間を妨げぬ程度でお話したいと思ひます。
 先程林君から此の会としてはまだもう一つの望みがある、それが進みつゝないのが残念であると申されましたが、私も同じ感じを持つてをります。日本の学生諸君が外国へ旅行して各地の実際を見て来られるのは誠に結構であるが、同時に向ふからも来て貰つて、亜細亜の学生が共々に相混つて親しんで行くと云ふ事も必要であると思ふ。無論之れは追々と其機を進めて行くべきでありまして、今日未だその場合に至らぬからと云つて駄目であるとは申しませぬ。どうか必ずさうなり行く様にお心掛なさつて、段々に彼をして此方にも来遊させる様に――所謂交り合せて行くやうにしたいのであります。
 先程から諸君の御話を伺ひますると、大分政治的観念をもつて壇に上られた人もあり、又御見聞の区域に於ける御感想もあつたやうで、夫々面白く拝聴しました。所謂百聞は一見に如かずで、どうしても実地へ行つて見ねば解らない所が多い。往昔私が二十八歳の時に仏国に参りまして、始めには変な心持がしましたが、追々身にしめて見ると実に有益でありました。私は何等学問的に修業した事がなくて行つたのであるが、それが却て大に益になつた。斯う云ふと何か無稽の論のやうであるが、実は、その後日本に帰つて多少事業をやりましたのは全くこの実験的に一ケ年許り仏国に居つたのが根底となつたと云つていゝ位であります。
 私は青年時代には攘夷論者であつて、旧幕の政策が面白くないと云ふので、随分過激な議論をしたのであります。今日になつて見るとお恥しいのであるが、恥しくても何でも、六十年の昔二十四歳の時には過激な攘夷思想をもつてゐたのが転化して、京都に遊歴して終に一橋の家来となり、後には幕府の吏員となつて欧羅巴に行く事となつたのであります。其頃は外国製のメリヤスの下着を着ても汚れると云つたのでありますから、無論義経袴で二本刀を差して、世界を闊歩するつもりであつたが、行つて見ると闊歩が出来なかつた。
 扨て欧羅巴へ行つて考への違つたのは学問ばかりでなく、一般の風習の相違に喫驚したのです。当時日本では役人と町人との差別が全然懸隔してゐたが、向ふへ行つて其交際を見ると頓と差等のないのを深く感じました。それから政治・軍事又は商工業等物質上の進歩の相違
 - 第46巻 p.44 -ページ画像 
を見て、之れでは迚も日本が共に立つて行く訳には行かぬ。先づ国の富を作らねばならぬと思つたのであります。私の帰国した時には既に王政が復古して新政府が出来てをり、私は政界に立つ学問もなければ希望もない、けれども或る事情にて一時大蔵省の役人をしましたが、明治の初から実業界に入つて、銀行事業其他にて微々たる仕事をしました。併しその微々たる事業は即ち其源をフランスの見聞に発したのであります。
 故に私は、六十年の昔を回顧して、現在諸君が完全なる学問を修めた後の旅行と比較して見ると、大いに感ずる所があるのであります。
 今も誰方か、東洋の事態を深く考へなければならぬとの御意見を述べられたが、私はそれに就て一言して置きたいと思ひます。総じて人は大理想は有たねばならぬが、大理想を其儘に解決したいと云ふのは間違である。理想は大きく持つべし。その解決は極く小さい所から着手せねばならぬ。治国平天下と云へば大きいが、家を斉へ身を修めると云ふ小さい所から発する。青年時代には兎角その理想を誇大する弊がある。私も若い時はさうであつたが、満場の諸君にも必ず此の習癖を幾分でも持つてござると思ふ。之れは誠に危険であります。玆に論語の一章を挙げて終りとしたいと思ひます。曾子の言に
 士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任、不亦重乎。死而後已、不亦遠乎。
とある。士たる者は寛く強くなければならぬ。その任は重くして其道は遠い。何故重くて遠いか。仁――即ち最上の徳であります――最上の徳を心掛けるから重いのである。死而後已――東湖先生の回天詩史の中に古人有云斃而已と云ふ句が之れであります――であるからその道は遠いのであります。
 どうか、諸君にもそのつもりで熱心に力を尽して頃きたい。私は自分では満足に出来ませんでしたから、せめては他の人に成し遂げて欲しいのであります。
 本文は報告会席上に於ける顧問の講話を筆記したものですが、顧問自ら一々加筆訂正して下さいました。厚く御礼申上げます。


南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第一〇〇―一〇一頁大正一三年三月刊(DK460012k-0006)
第46巻 p.44-46 ページ画像

南船北馬 第四次夏期旅行班報告 第一〇〇―一〇一頁大正一三年三月刊
    旅行報告会記事
      ―大正十二年十一月十八日於憲法紀念館―
 十二年七月二十七日薄暮の東京駅頭を鹿島立ちした三班十二名の会員は、或は南北満洲に、或は中部支那に、或は又南支南洋に、約五旬の旅を終へて同十月初旬までに夫々恙なく帰京した。が、帰つて来て見た東都の姿は既に発つた日の夫れではなかつた……本来ならば十月中に此会は開かれる筈であつたが、斯様な次第で十一月にのびた。十一月十八日愈々権田原の憲法紀念館の一室亀の間に於て、第四次旅行報告会を開く。此処をお借りする事の出来たのは、全く渋沢顧問及び阪谷会長の御尽力の賜である。御承知の如く該館は明治大帝の長く御起居なし給ふた所、明治の初期から中期にかけての日本の重要なる政治の基礎は悉く此処に於て作られたと云つてよい。就中憲法制定の大
 - 第46巻 p.45 -ページ画像 
会議を行はせられた所から右の名称がある。後伊藤公に賜り、公の死後再び献上、内務省の所管に移り目下明治神宮奉賛会の管理する所となつてゐる、誠に由緒深く意義多き聖館であるが、震災後始めて公開さるゝ事となり、その第一番に我が学生会に使用を快諾許可されたのである。
 当日は日曜であつたが生憎の雨天でさなきだに震災に虐げられた道路は脛を没する泥濘である。而も災後日も浅い事であるし出席者の少い事を惧れたが、会する者意外に多数で、あの紀念館の亀の間も決して広過ぎる事はなかつた。主なる来会者左の如し。
 渋沢顧問・阪谷会長・木下副会長・林(毅陸)理事・山科(礼蔵)顧問・宮原(民平)評議員・深田栄次郎氏(外務省事務官)・長野主事、伊藤・諸富・塩月・東・青木・岡田・長浜・薩摩・益山・大迫・梅各参事、旅行会員
他に会員約九十名。支那学生も数名見えた。午後二時開会。
一、開会の辞             慶大 松下俊雄
一、会長挨拶                阪谷芳郎男
 当日は復興院の評議員会議当日であり、議長たる会長は実に御多忙中であつたに拘らず御出席下さつたので感謝に堪えない。
 ――先づ紀念館の由来を述べられ「かゝる由緒ある所で本会の開かれるのは非常に意義がある」とて、「日本の将来を背負ふべき日本の学生と外国の将来を指導すべき外国学生との握手」を趣旨とせる本会の特色を述べられ、個人同士の親交が日支親善の鍵なるを説き最後に諸氏の御後援を深謝された。
一、苦力其他に就て      第一班 慶大 国実揆一
 「支那の匂」の話より主として馬賊苦力等の事を述ぶ。
一、夕陽は紅し満洲の野辺   第一班 明大 野間繁
 満蒙発展策邦人の殖民問題等を述べ、「かくある日本よりかくあるべき日本へ」と叫ぶ。
一、所感               理事 林毅陸氏
 「泰山に登りて天下の小なるを知る」の句を引きて海外視察の重要なるを説かれ「進んで彼地に出でて仕事をする人となられたし」と希望し、更に外国学生をも日本に来させて、本会の目的の他の方面即ち亜細亜学生の握手に今一層努力が必要なりと指摘さる。
一、長江沿岸の排日      第二班 協大 花村好次
 親しく見聞せる長江の排日状況を詳述し、之に対する意見を述べ「排日扇子」を説明して之を渋沢顧問に贈る。
一、中部支那を巡りて     第二班 帝大 黒田勝正
 最も日本の将来を考へさせられたとて、対支政策・在支邦人問題を論じ支那への投資を説く。
一、所感(巻頭所載)        顧問 渋沢栄一子
 (小憩、写真撮影、茶菓を出す。四時再開)
一、シンガポール所感     第三班 早大 酒井真澄
 南洋各地の見聞所感を述べ南進論を説く。
一、所感               顧問 山科礼蔵氏
 - 第46巻 p.46 -ページ画像 
 旅行嫌ひが欧亜巡遊より旅行の功徳を悟りたりとて種々興味ある漫遊談を話され、日支経済関係を述べらる。
一、挨拶              副会長 木下友三郎氏
 バラツクにて握飯を食つて始まつた本会が今日此会を開くに至る迄の推移――学生の気分の変遷等を述べられ、本会の資金問題に就て一言さる。
一、所感               来賓 深田栄次郎氏
 支那人と接近する心得に就て種々御教示を賜はる。
一、所感               参事 薩摩雄次氏
 熱弁を振つて本会に対する不満――希望を述べ会員を激励せらる。
一、閉会の辞             協大 宮崎良
 斯くて午後五時半一大盛興裡に会を終へた。
 謹んで御出席下さつた諸先生諸先輩に御礼を申上げる。猶渋沢顧問から此会に対して莫大な茶菓料を御寄附に預つて一同感謝に堪へなかつた。


亜細亜学生会書類(DK460012k-0007)
第46巻 p.46-47 ページ画像

亜細亜学生会書類            (渋沢子爵家所蔵)
寄附者芳名 一〇〇 徳川頼倫殿     一〇〇 渋沢栄一殿
       五〇 浅野長勲殿     一〇〇 団琢磨殿
       五〇 島津忠承殿     一〇〇 和田豊治殿
      一〇〇 島津忠重殿     二〇〇 服部金太郎殿
      一〇〇 毛利元昭殿      五〇 山科礼蔵殿
      一〇〇 大倉喜八郎殿    一〇〇 星一殿
       五〇 郷誠之助殿      五〇 白石元治郎殿
      一〇〇 伊藤米次郎殿     五〇 山下亀三郎殿
       五〇 田中栄八郎殿    一〇〇 古河虎之助殿
       五〇 大川平三郎殿     五〇 浅野総一郎殿
       五〇 田中銀之助殿    一〇〇 石塚英蔵殿
       二〇 神谷忠雄殿     三〇〇 三菱合資会社殿
      一〇〇 佐々木勇之助殿   三〇〇 三井合名会社殿
      二〇〇 永田秀次郎殿    一〇〇 保善社殿
       五〇故安田善雄殿     一〇〇 日華実業協会殿
      一〇〇 村井吉兵衛殿    一〇〇 日華学会殿
       二〇 内藤久寛殿      一〇 中日実業会社殿
       二〇 池田竜一殿      二〇 大橋新太郎殿
      一〇〇 飯田延太郎殿    一〇〇 森村開作殿
      一〇〇 高田釜吉殿      五〇 増田義一殿
      一〇〇 根津嘉一郎殿     二〇 渡辺治右衛門殿
       五〇 中根虎四郎殿    一〇〇 三島弥吉殿
       五〇 須田利信殿      三〇 野間清治殿
       三〇 原邦造殿       五〇 塩原又策殿
       二〇 和田彦次郎殿    一〇〇 池田謙三殿
       二〇 今村繁三殿      五〇 小池国三殿
       五〇 成瀬成行殿         (順序不同)
 - 第46巻 p.47 -ページ画像 
(別筆)
南船北馬(第四次夏期旅行報告)第一〇二頁ヲ利用セルモノナリ。
   ○金額ハペンニテ書入レアリ。