デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
21款 財団法人興譲館 付阪門会
■綱文

第46巻 p.82-90(DK460022k) ページ画像

大正11年11月4日(1922年)

是ヨリ先、当館館長山下政吉並ニ校友等有志相寄リ、当館創立七十年ヲ期シ、維持経営ノ策ヲ確立セントシテ、基本金募集ニ着手ス。是日、山下政吉等栄一ヲ訪ヒ、援助ヲ請フ。栄一金五千円ヲ寄付ス。


■資料

(増田明六) 日誌 大正一一年(DK460022k-0001)
第46巻 p.82 ページ画像

(増田明六) 日誌 大正一一年      (増田正純氏所蔵)
大正十一年十一月二日 木 雨午後晴
定刻出勤
午前中阪谷男爵の紹介にて備中興譲館校長山下政吉・教授馬越之一及小西繁尾(同校出身者ニて在京)の三氏来訪、同校基本金醵集の件、及設立五十年記念《(マヽ)》の為ニ子爵ニ御揮毫を請の件等の談話あり○下略


集会日時通知表 大正一一年(DK460022k-0002)
第46巻 p.82 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月四日 土 午前八時 興譲館山下政吉外二名来約(飛鳥山邸)


興譲会報 第一号 大正一二年二月 基本金募集の経過(DK460022k-0003)
第46巻 p.82-84 ページ画像

興譲会報 第一号 大正一二年二月
    基本金募集の経過
 館の基本金造成は多年の宿題で度々企図せられたことであつたが、どうも機が熟しなかつたのである。ところが両三年前からは愈々経費の不足を来し、一方教員の払底は未だ嘗てないといふ程に甚だしくなつて来た、新たに招聘せうとすればいつも優遇法と、基本金の有無とを反問して来るといふ有様で、私学経営難、殊に田舎のそれは悲惨の極に陥つたのである。そこで一昨十年の春は、是が非でも着手すべく決心を固めたのであつたが、何分にも時季が不景気のどん底であるらしいので、遂にまた見合はすこととなつた。
 そのうち年は改まつて十一年の春となれば、県立は俸給額を引き上げたので館もそのまゝには置けない、一方郡制廃止は確実となつて郡補助もどうなるか分らなくなつた。この上はもうぢつとしては居られないが、不景気は一層甚だしくなつて来るので、館長や理事者の心痛は一通りではなく、今や六百の生徒の前途を案ぜずには居られなくなつて来た。併し天は決してこの名黌を見棄てなかつた。即ち創立七十年といふ他に類例のない機会はこゝに到達したのである。
 顧みれば昨年六月十八日のことであつた、七十年記念事業の一つとして、校友会の基金を作らうといふ議が幹事会の席で謀られた際、館長から「寧ろ館の基本金造成に尽力して呉れないか、創立七十年と云へば誠に感慨無量である、もう此機会を逸しては恐らくは出来るときはないであらう、世間の景気不景気は度外に置いて、たゞ着手したい
 - 第46巻 p.83 -ページ画像 
仮令千でも二千でもよろしい、校友諸君の熱誠の籠つた醵金を基として、地方へも、東京へも、一斉にお願したならば、この不景気の折柄であるだけ却つて真剣に考へて貰へて、或は意外に同情が集まるかも知れない」と申されたので、これを聞いた一同今更に自己の微力を悲しまないものはなかつた。実に館の基本金に触れるといふことは大事業であつて、到底此の席に於て協議すべき事柄ではないのであるが、併し記念日も目前に迫つてゐる今日とて更に全体の意見を徴するの余裕もなく、遂に慎重協議の結果「校友は一口拾円以上を醵出して館基金のうちへ寄附すること、一般への寄附勧誘につきては理事の委嘱を待つて努力は辞せぬ」といふ決議をした、其の結果再三の通知となつたのである。
 併し斯様な事柄は到底一片の印刷物位では意を尽すことは出来ないから、地方は八月十五日の校友会総会の席で充分の諒解を得ることとし、それまでに東京・阪神等、校友の多い地に校内幹事が出掛けて、親しく諒解を得て来ることとなつたのである。
かくて先づ、七月卅一日夜、東京日米信託楼上に於ける校友有志会となつたのであるが、当夜の決議は「在京校友は学生一口以上、就職者五口以上を吾々有志に於て責任を以つて引受けやう」といふことであつた、尚地方に於ても、村々で相当数を引受けて貰ふやうにしたならば募集も容易であるし、何より一人残らず応募するといふ根本方針も実行が出来易くはないか、との希望までも出たのである。
 其後有志は繰合せて先輩を歴訪し意見を徴したところが、何れも深き同情と、有益なる注意とを賜はつた、その結果どうしても阪谷男爵に真剣になつて頂かなくてはいけない、男爵のお名によつてすれば必ず出来る、と云ふことを知つたので、八月十日日本倶楽部に於て、阪谷男にお目に懸り懇請したところ、一同の熱誠を認められて、心よく御承諾下さつた。そこで其旨を阪門会幹事山成喬六氏に報告し、愈々同会に持ち出さうと云ふことになつた。
 次に神戸地方の校友有志も大いに諒解して呉れて、寄附額の決定は館長にお任せする、といふ程であつた。
 更に八月十五日の校友会総会に於ても、一同決心の程を誓はれたのである。
 これより先き、理事会に於ても一般募集の事を決議されて居つたのであるが、玆に至つて愈自信が出来たので、全く赤裸々なる現状を述べて真の同情に訴へることとなつた次第である。
 ついで、十月末館長と理事との上京となり、十一月二日東京中央亭に於ける、阪門会と校友会東京支部との聯合七十年記念祝賀会の席上に於て満場の熱心なる協議の結果、守屋氏・田口氏を初め多数の委員を挙げ、阪谷男を委員長に、山成氏を会計係に推し、各方面に向つて大活動を開始せうといふことになつた。玆に特筆すべきは当日病気欠席であつた池田寅治郎氏から、熱情に満ちたる手紙を以て賛意を表せられ、尚予てその保管に係る独力を以て集められたる館基本金弐万参千円を、今回募集せうとするものとの併算して宜しい、但し自分の主張であるところの拾万円に達する事を条件とするは勿論であるとの意
 - 第46巻 p.84 -ページ画像 
をも申越されたことである。
 さて間もなく延びに延びた記念式当日たる十四日は来た、幸ひに好天気であつたのと、阪谷男爵態々のお出でとのため、参列者非常に多く地方稀に見る盛会であつた、このことは、自然基金募集上にも好影響を齎らして、地方最初の予定額を遥かに超過すべき事を信ぜしめた果して西江原・芳井・県主の如きは既に倍額にも達した旨の通知に接したのである。
 一方東京方面の着手を促すべく十一月末理事・幹事の上京となつて十二月一日の東京日本倶楽郎に於ける募集委員会に列席し、種々地方の状況を述べて懇請したところ、先づ阪谷委員長から、阪門会の人々の予定額を申出され、各委員分担して決定を願ひに上ることとなつたかくて渋沢子・阪谷男の各五千円を初め、着々決定を見てゐるのである。なほ馬越翁には、最後にうんと御奮発下さるやうお願したところ出来工合を見て相当のことをせう、とのことであつた。
 そこで、館としても今や予定の合計拾九万円は確かに出来るといふ確信を得た次第である。すでに今日までに記帳された額は約六万五千円に達してゐる、何れ芳名は次号以下に順次掲載の筈である。


興譲会報 第三号 大正一二年四月 興譲館基本金募集に就て(DK460022k-0004)
第46巻 p.84-85 ページ画像

興譲会報 第三号 大正一二年四月
    興譲館基本金募集に就て
 国家百般の事業は何れも国民各自の自覚と努力とに俟つて始めて進歩発達するものでありますが、わけて教育の如き精神的事業は、真に眼覚めたる国民の必然な要求に随つて興るべきものであらねばなりませぬ。さうして鬱勃として燃ゆる誠心を根本とする大方針の下に、学校其の物が人格的に成長して行かなくては本当の教育の実績を挙げる事はむづかしいかと思ひます。近時我国に於きましても官学万能の時代は去りまして、漸く私学の認められる時節となり、続々優秀にして而も特色ある各種の学校の出現しつゝあるのは、諸賢の既に熟知せらるゝ所と存じます。今後更に進んで欧米各国のやうに私学を以て模範とするに至るの日も遠い事では無いと信じます。此処に到つて、学校経営について万事不便な此の片田舎に、七十年の昔から本館の如き私立学校が存在し、終始一貫孔孟主義に依つて幾多の子弟を教養し、世情幾変遷の間に毅然として其の命脈を続けて地方の文運に奉仕し、又国家有用の人材を輩出せしめ来つたと云ふ事は、奇蹟のやうでありながら実に偶然でない事を思ふのであります。これは一には館祖朗廬先生始め代々の館長の徳望に負ふ所とは申しながら、また社会有志諸賢の直接間接に賜はつた御援助に因らねば出来なかつた事と、本館関係者一同常に感謝して居る所であります。お蔭で現今は設備も相当に整ひ生徒も在籍六百の多きに達しました。誠に古今稀有の事でありまして、この事は有志諸賢と其の誇を共にしたいのであります。併し私共は決して現状を以て足れりとするものではありません。由緒ある歴史を保ち且つこれを慕うて集り来る子弟をして、夫々父祖を彰はし国家の有為有用なる人格者とならしめ、父兄諸氏の期待にも副ひ本館創立の意義を益々発揮して、一層時勢に適応する内容の完備をさせねばな
 - 第46巻 p.85 -ページ画像 
らぬと念じてゐます。これこそ本当に本館の奇蹟的存在に対する活きた金字塔であるべきであります。しかし此の内容の完備と云ふことについては相当の資金を要しますので、根本的に基本金を造つて経済的基礎を固めたいと始終計劃して居りました。其の事については、関係者一同多年焦慮して居たのでありますが、財界不振等の為めに其機を得ずに過ごして居たのですけれども、周囲の事情は最早此儘に推移するに忍びないやうにまでなりました。因つて創立七十年を機として蹶然起つて基本金募集に着手しました。所が出身者・縁故者いづれも一斉に有形無形の助力を誓はれ、同時に各地諸方面からの同情が翕然として集まり、続々と御申込を受けて居ますので、今関係者一同多大の感謝と希望の念に満ちてゐる次第であります。どうか諸賢におかせられても、本館従来の事情なり将来の使命なりを御洞察の上、必ず此の大事業を完成せしめ下さるやう此上一段の御配意を御願してやまないのであります。


興譲会報 第二〇号大正一五年七月 御願(DK460022k-0005)
第46巻 p.85 ページ画像

興譲会報 第二〇号大正一五年七月
    御願
興譲館創立七十年記念として基本金募集開始以来最早五年に亘りました。其間丁度財界不況の底にあつたのにも拘らず、皆様の多大なる御同情と御声援とによつて、既に寄附御申込総額は拾万円に近く、現金御払入額も四万円を突破せうとしてゐます。此の事は当事者一同深く感謝して居る所でありまして、其の成績をば皆様と共に喜びたいと存じます。就きまして、尚御願致しますが、夙に寄附御申込下さるべき御意志有りながら未定になつて居られる御方は、成るべく来る九月末日迄に御申込を願ひます。これは今般興譲会会員名簿作製につき必要があるのです。寄附者はすべて興譲会会則及び財団法人興譲館寄附行為によつて、興譲会会員に編入する事になつて居ますから。尚九月末日現在を以て本年度の会員名簿を作製致しますから、御住所が当方発送郵便物の表記と違つて居る方は興譲会あて御通知を願ひます。
  大正十五年七月          財団法人 興譲館
                        興譲会
    各位
   ○寄付金ニ関シテハ、『興譲会報』第十六号(大正十四年十二月発行)所載「興譲館基本金寄附受領報告」第十三回(自大正十四年七月一日至同年十一月廿日)中ニ「東京ニテ取扱ノ分(其九)」トシテ
     金五百円 第五回           渋沢栄一殿
    又、同ジク第廿七号(昭和三年十月発行)所載ノ第廿四回報告(自昭和三年六月一日至同年九月三十日)中ニ「東京ニテ取扱ノ分(其十七)」トシテ
     金五百円 第十回           渋沢栄一殿
    ト見エタリ。
   ○栄一ト阪谷朗廬トノ関係ニ就テハ、本資料第一巻所収「亡命及ビ一橋家仕官時代」慶応元年乙丑三月ノ条参照。



〔参考〕興譲館沿革概要 第一―五頁刊(DK460022k-0006)
第46巻 p.85-89 ページ画像

興譲館沿革概要 第一―五頁刊
 - 第46巻 p.86 -ページ画像 
本館ハ嘉永六年癸丑三月一日起工、同年九月卅日竣工ヲ告ゲ、翌十月一日開講ヲナス。抑モ幕府徳川氏支族一橋家所領高拾万石ノ内三万三千五百石余ノ領地ハ、備中国後月・小田・上房ノ三郡ニ係ル。其管庁後月郡西江原村ニ在リ、江原役所ト称ス。一橋領主ノ代官江戸ヨリ交交此ニ来リテ治ム、而シテ領民ノ文学ニ就クベキ所ナク、故ニ風俗自ラ荒敗動モスレハ訴訟ヲ起シ其弊害尤モ甚シ。故ニ当時ノ代官友山勝治領民教諭ノ方策ヲ思慮スルコト久シ。会々碩儒阪谷素(字子絢、号朗廬、幼名希八郎、備中川上郡九名村人)後月郡簗瀬村字桜渓ニ閑居ヲ占メ風流自適傍ラ帷ヲ垂レ、子弟ヲ教育シ毎月一回帰省母心ヲ安ス代官之ヲ聞キ領主ニ対シ爰ニ教諭所ヲ設ケ、阪谷素ヲ聘シ領民教諭嘱託ノ事ヲ具ニ稟申セシニ、領主速ニ之ヲ允可ス。是ニ於テ僚属角田米三郎ニ命シ、故老山成直蔵・山本重兵衛・平木京助・片山茂里平・山足谷助・池田丹次郎・守屋廉助ニ謀ラシム。乃チ故老ハ集議ヲ為シ江原役所近地字寺戸ニ教諭所ヲ建設、其経費ハ一橋家ノ公金借用及寄附金ヲ以テ之ニ充ツヘキコトニ評決シ、嘉永六年三月起工、九月ニ至リ竣了ス。是ニ於テ代官友山勝治礼ヲ以テ、阪谷素ニ領民教諭ノ事ヲ嘱ス。素之ヲ諾シ、同年十月朔日居ヲ教諭所ニ移シ教諭ノ任ニ当ル。依テ領内及諸方ヨリ入学ノ者陸続来ル。素学ハ程朱ヲ宗トシ専ラ白鹿洞掲示ヲ服膺、毎朝諸生ヲ率ヒ之ヲ唱ヘ而テ諄々教授、且ツ常ニ領民一般ノ教諭ニ注意周到、又領民健訟ノ弊風ヲ戒メ、講堂ヲ名ケテ興譲堂ト称ス。初メ素幕府儒員古賀侗庵博士ノ門ニ学フ。故ニ安政元年春幕府儒員古賀謹一郎幕命ヲ帯ヒ長崎ニ赴ク途次、素教諭ノ労ヲ慰問ス。時ニ扁額ヲ留メ興譲館ト題ス、是レ興譲館ノ称起ル所以ナリ。毎年二月朔日釈奠ヲ修行ス。此ノ時代官及僚属ハ礼装来筵、村吏並ニ故老礼服之ニ陪シ、有志者モ亦多ク参列ス、祭儀ノ後教授ハ、論語一章及白鹿洞掲示ヲ講ス。是ヲ以テ恒例トス。安政五年八月、代官友山勝治領内庄屋故老中ヨリ撰択シテ、本館世話掛ヲ山成直蔵・平木晋太郎・池田丹次郎・片山茂久郎・定光寿平・柳本健三・田中応助・山足谷助・佐藤正右衛門・鳥越森太郎・山本朴助・渡辺顕蔵・守屋廉助ニ命セラレ、本館保護管理及永遠維持ノ方法ヲ設定スヘキ旨ヲ示サル、乃チ世話掛ハ集議広ク領内庄屋並故老ニ謀リ、借用公金ハ寄附金ヲ以テ年賦払入ノコト、館舎及建具敷物等ノ修繕費ハ領内民費ヲ以テ支弁ノコト且ツ基本金ヲ設ケ、其ノ利息ヲ以テ教授ノ報酬、書籍器具購入費ニ充テ、尚ホ他方来学生ノ為メ其ノ寄宿費補助ノコトヲ協定シ、事務処弁ノ為メ世話掛ノ二名宛年番専務ス。斯ノ如ク官民一致保護方ノ宜キヲ得、素ヨリ教授阪谷素学徳ノ高キニ由リ、領民欽仰其教訓ヲ受クルノミナラス、四方ヨリ来学ノモノ年一年増加ス。又諸侯ノ士大夫素ノ名ヲ聞キ、山陽道経過ノ途次来リテ刺ヲ通シ、益ヲ請フモノ尠ナカラス依テ興譲館ノ名四方ニ伝ハル。文久年間ニ至リ海内漸ク多事、列藩頻リニ文武ヲ奨励振興スルニ際シ、諸藩士来リテ贄ヲ執ル者、東ハ松前西ハ肥前ニ至リ、元治・慶応ノ頃ハ庠舎容ルヽ能ハス。素ハ白鹿洞規ヲ主トシ、忠君愛国ノ大義ヲ以テ面命提耳左導右掖、或ハ気節之ヲ鼓シ、或ハ文章之ヲ舞シ、夙夜勤勉教ヘテ倦マス、為ニ幾多ノ偉人傑士ヲ輩出ス。文久二年秋素門生藤島謙蔵等ト共ニ西国ニ遊歴長洲ニ至ル
 - 第46巻 p.87 -ページ画像 
時ニ長藩盛ニ攘夷説ヲ唱フ。素長梅外ト時事ヲ論シテ曰ク、今日攘夷説ヲ唱フルモノ他日必ス純然タル開港説ニ変セント。梅外之ヲ聞キ大ニ驚キ後其卓見ニ服セリト云フ。蓋シ此遊行西国諸藩ノ情勢ヲ観ルニアルナラン。記アリ鎮西発気ト云フ(朗廬全集ニ載ル)、後長洲久坂玄瑞曾テ素ト相知ルヲ以テ来訪、偏ニ攘夷説ヲ主張ス。素ハ開港説ヲ持シ、互ニ駁撃弁難激声四壁ニ震ヒ、終ニ夜ヲ徹スルモ論極ラス。輸贏ハ他日ノ世変ヲ以テ証セント言ヒ相訣別ス。慶応元年六月、一橋勘定組頭渋沢篤太夫(後更栄一)、領主徳川慶喜公ノ命ヲ齎ラシ来リテ施政ノ道ヲ質ス。同二年二月、一橋側用人黒川嘉兵衛・奉行三輪彦之丞・勘定組頭渋沢篤太夫・佑筆柳下十介、江原役所ヘ出張ノ時時局ノ方針ヲ問ヒ論語ノ講義ヲ聴ケリ。同年四月、禁裏守護ノ為メ京都駐在ノ領主徳川慶喜公ヨリ、教授阪谷素ニ行程ヲ期セス徐ニ上京スヘク、世話掛池田丹次郎・山成直蔵・片山茂久郎附添フヘキ旨ノ特命アリ。乃チ素上京、六月七日徳川慶喜公ニ謁スルニ、領民ノ教諭門生ノ教育ニ尽瘁シ風俗淳朴ニ帰ス、仍テ其功績ニ依リ銀幣ノ賞賜アリ。又素ニ禄五口糧ヲ給フノ命アリ、素稟申シテ曰ク、生寸田斗禄ナシト雖モ幸ニ未タ寒飢ニ至ラス、今給フ所ヲ以テ興譲館教授タル者ニ永ク給与セラレンコトヲ請フ、終ニ其意ヲ容レラル。六月九日学門所ニ於テ経書ヲ講ス、此時素慶喜公ヨリ枢職ニ任用ノ内旨ヲ蒙ルト雖モ、見ル所アリ、固辞シテ本館ニ帰ル、慶応二年十二月上旬幕府ニ上書ス(掲示上言ト題ス)、同三年九月十一日安藤主一郎ヲ助教授ト為ス。同年十二月朔日前左衛門督大原源老公ニ国政ヲ論シ上書ス(朗廬全集ニ載ル)、後同公ヨリ屡々下問アリ、輒チ答申セリ。明治元年正月将軍徳川慶喜公大政返上、海内大ニ騒擾セントス。同月廿七日鎮撫使安芸侯ノ命ニ依リ、其重臣蒲生司書錦旗ヲ奉シ江原役所ニ臨ミ、尚兵隊来駐ス。代官及属吏ハ周章狼狽進退措置ニ迷ヒ、領民モ亦方向ヲ失フ、此時素切ニ国民ノ大義名分ヲ説キ其処置ヲ諭ス。依テ吏員ハ恭順ヲ守リ潜居シ領民ハ謹慎其業ニ安ンス。時ニ備中国鎮撫ノ境界ニ関シ物議ヲ生セントス。素意見ヲ具陳、鎮撫使備前侯近側ノ士ニ贈ル(朗廬全集ニ載ル)後一橋家ハ藩ニ列セラレ従来ノ領地ヲ以テ封セラル、同年八月十五日一橋家代官及吏員江原役所ニ復帰シ、故ノ如ク政務ヲ執ル。是ヨリ先キ安芸侯ヨリ屡素ヲ聘スト雖モ辞シテ応セサルヲ、今復礼聘ノ使士来リテ、已ヲ得サル事宜ニ至ル、是ニ於テ代官及世話掛ニ対シ之ヲ詢ルニ、速ニ応セラルヘキ旨ヲ以テ大ニ慫慂シ而シテ坂田丈(名丈字夫郷通称丈平号警軒)ヲ以テ後継者ト為スコトヲ熱望ス。是ニ於テ素意ヲ決シ安芸侯ノ聘ニ応ス。坂田丈ハ素ノ姪ニシテ其ノ門下ニ学ビ、成業ノ後当時備前藩大夫池田氏ノ客儒ト為ル。丈事情ヲ池田氏ニ告ケ辞シテ本館ニ帰ル、同年十月素ハ丈ニ本館教授ノ任ヲ伝ヘ広島藩ニ赴ク。代官田口泉助ヨリ更ニ世話掛ヲ山成直蔵・片山杢郎・定光寿平・柳本健三・山成五平・田中応助・佐藤正左衛門・山足谷助・三宅栗蔵・渡辺顕蔵・池田丹次郎・池田楠五郎・名越白平ニ命セラレ、先規ニ依リ保護管理及基本資金維持ニ努ムヘキ旨ヲ示サル。此時就学ノ諸生幾ント百名、丈ノ継承ヲ喜ヒ各々其業ヲ励ミ、尚諸方ヨリ陸続来学、丈ハ白鹿洞掲示ヲ服膺、従来ノ学則及慣例ニ遵ヒ諄々薫陶、其才ニ随テ器
 - 第46巻 p.88 -ページ画像 
ヲ成シ頻々有為ノ士ヲ出シ館ノ旺盛前時ニ譲ラサリキ、同三年六月一橋藩版籍奉還ニ依リ倉敷県管轄ニ属ス、倉敷県知事伊勢新左衛門篤ク保護ヲ加ヘラレ、同四年二月学科トシテ毎年米三石下付スヘキ旨ヲ達示セラル、同五年正月知事ヨリ更ニ世話掛ヲ片山茂久郎・山成五平・柳本滝三郎・大津寄連太郎・渡辺顕蔵・山成理一郎・三宅栗夫・吉川喜七郎・佐藤正一郎・笠原準三・池田楠五郎・名越白平・間部亨一郎守屋仲太郎ニ命セラレ、旧慣ニ依リ諸般格守厳行スヘキ旨ヲ示サルニ依リ、復一層ノ勢力増セリ、同四年十一月深津県(後小田県ト改称)管轄ニ属ス。時勢ノ変遷ニ由リ官給廃絶、且又本館基本資金債務者多クハ破産ノ為メ償還ノ義務ヲ果サス、故ニ多額ノ損失ニ属ス、是ニ於テ同五年六月世話掛集議、本館将来ノ維持方ヲ講スルモ時勢ニ鑑ミ良策ヲ得難キニ由リ、館事総テ丈ニ一任ス。是ヨリ丈独力ヲ以テ保持ス方今漢学ハ世ノ擯斥ヲ受クルト雖モ、丈学徳ノ高キニ由リ門ニ入リ親炙教訓ヲ請フ者多シ、同月丈発起三十四名一社ヲ結ヒ、一新社ト称シ一名拾円宛醵金シ、以テ泰西諸書ノ翻訳本ヲ購求、本館ニ備置シ広ク有志者ニ之ヲ看読セシム、為メニ頗ル地方ノ開進ニ裨益ヲ与フルコト鮮ナカラス。学制ニ依リ更ニ同七年三月、私立学校開業漢数二科ヲ置キ、教授スヘキ旨ヲ以テ出願シ、文部省ノ許可ヲ得、坂田丈漢学科教師ニ充リ、大塚伊八郎ヲ数学科教師ニ雇用ス、同年七月小田県庁ヨリ本館内ニ小田県小学校教員伝習所ヲ置カレ、小学校教員タルモノヲ交交召集シテ授業方ヲ伝習ス。五十川左武郎其教師ト為ル。坂田丈・大塚伊八郎其教師ヲ兼務ス、同八年十二月小田県ハ岡山県ニ合併セラルルモ本館学業ニ影響ヲ来サス。同九年九月備前国閑谷遺芳館教授山田安五郎(方谷ト号ス)退隠ニ際シ、丈ニ対シ其ノ後継ヲ懇切依嘱セラルルニヨリ、遺芳館教授ヲ兼、隔月往返勤務ス、同二十年九月坂田丈京都ニ寄寓、門弟山下政吉本館ノ業緒ヲ承ケ教授ス、同二十三年九月ヨリ丈門弟奥田吉次郎教授ス、同二十五年七月後月郡長伊丹親恒発起興学会ヲ設ケ、以テ基本資金募集ノ事、館舎修繕及英数科増置ノ事ヲ企図シ、館主坂田丈並町村長ニ謀ルニ速ニ賛成セルニ依リ、館舎ニ修繕ヲ加ヘ漢英数三科設置ノ認可ヲ得、吉次郎漢学科教師ニ充リ、英数科教師ハ雇用シ以テ教授ス。同時ニ興学会設立主意書及規約ヲ制定シ会員募集中、同三十二年四月郡長伊丹親恒ハ転任、同年八月館主坂田丈ハ卒去ス、故ニ大ニ頓挫ヲ来シ終ニ中止ニ属ス、然レトモ既行ノ館舎修繕費及英数科教員ノ給料金負債トナル、依テ入会承諾者義捐定金幾分ノ出金ヲ請ヒ、漸ク其会計ヲ結了ス。同三十三年奥田吉次郎病ニ罹リ退去シ、将ニ館門ヲ鎖サントス。是ニ於テ有志者相議リ京都同志社教師山下政吉ニ対シ事情ヲ具シ本館業務ノ継続ヲ請フニ、旧師ノ遺躅今将ニ滅セントス、義トシテ措クヘカラス、依テ速ニ応スル旨即答断然現職ヲ辞シ同年四月本館ニ帰来教授ノ任ニ当リ、白鹿洞掲示ヲ服膺先師ノ遺範ヲ重ンジ、而テ漢英数国語ノ四科ヲ置キ、山下政吉漢学科教員ニ当リ、英数国語科教員ハ雇用シ以テ専ラ教授ス。同三十四年度ヨリ毎年度郡費補助ヲ受ク、同三十六年三月更ニ学則ヲ修正シ、修業年限ヲ四ケ年ト定メ、中学校令ニ依レル普通学科ヲ授ケ、同時ニ農林科ヲ加設シ以テ実業ノ知識技能ヲ導ク、傍ラ小学校教員養成所ヲ加
 - 第46巻 p.89 -ページ画像 
設シテ教員ノ養成ニ力ム、同三十六年ヨリ毎年度県費補助ヲ受ク、同年九月教室一棟ヲ改築、同三十七年三月本館維持後援ノ為メ興譲館維持会ナルモノヲ組織シ、会長男爵法学博士阪谷芳郎、副会長興譲館長山下政吉、東京地方委員池田寅治郎、京都地方委員日下京平、大阪地方委員有岡直治、岡山地方委員建石省吾、会計主管戸田生一・妹尾吟一郎ト定ム、同三十八年四月一日進ンテ本館ヲ社団法人組織ニ改ム、即チ理事山下政吉・山成謹治郎・滝本丈太郎・笠原兼起知・三村尚斎戸田生一・妹尾吟一郎・監事渡辺重次郎・外山篤太郎・坂田耐二・安倍謙吉・千原冲太郎ト定ム、相談役ニハ池田精一・池田寅治郎・石井英太郎・千村作五郎・田辺為三郎・高草平助・長尾遠志・馬越恭平・日下京平・山成軒一郎・山蔭静夫・医学士安倍朝五郎・坂田実・医学博士坂田快太郎・美沢進・宮部円成・守屋此助・妹尾伍平ヲ推セリ、同三十九年九月教室一棟改築同四十一年一月理事笠原兼起知死亡、同年三月笠原恕一補欠ス、同四十一年三月三十一日中学校設立ノ認可ヲ得私立興譲館中学校ト称ス、同四十四年三月特別教室一棟増築、同四十五年三月文部大臣ヨリ更ニ徴兵猶予ノ特典ヲ与ヘラレ、認定中学校トナル、超ヘテ大正二年四月運動場拡張、同四年二月教室一棟増築以テ現今ニ至ル、斯ノ如ク年々歳々盛況ヲ来タシ、今ヤ現在生徒三百八十七名、職員十九名、一個年経費金壱万参千余円、就中収入県費ニ於テ壱千九百円、郡費ニ於テ壱千六百円補助セラルヽニ至ル、是レ他ナシ前館長阪谷朗廬・坂田警軒ノ学徳深ク人格崇高ニシテ一般人士ノ輿望ヲ繋キ、綱常彜倫ヲ扶植シ、大ニ地方風致ヲ鼓吹セシニ職由セズンハアル可ラス、以上本館沿革ノ概要ナリ



〔参考〕興譲会報 第一号大正一二年二月 興譲会々則(DK460022k-0007)
第46巻 p.89 ページ画像

興譲会報 第一号大正一二年二月
    興譲会々則
第一条 本会ハ興譲会ト称シ、興譲館及興譲館中学校ノ縁故者ヲ以テ之ヲ組織ス
第二条 本会ハ之ヲ興譲館中学校ニ置ク
   但地方ニ支部ヲ設クルコトヲ得
第三条 本会ハ会員相互ノ親睦ヲ図リ且母校ヲ後援スルヲ以テ目的トシ、左ノ事項ヲ行フ
  一、会誌ノ発行(毎年一回以上)
  二、総会ノ開催(毎年一回但臨時会ヲ開クコトアルヘシ)
  三、其他目的ヲ達スルニ適当ナル事項
第四条 本会ニ幹事若干名ヲ置キ、総会ニ於テ会員中ヨリ之ヲ選任シ其任期ヲ二ケ年トス
第五条 本会ノ維持ハ会員ノ負担ニ依ル



〔参考〕興譲会報 第一号大正一二年二月 興譲会発会式(DK460022k-0008)
第46巻 p.89-90 ページ画像

興譲会報 第一号大正一二年二月
    興譲会発会式
 大正十一年十一月十四日、創立七十年記念式と云ふ、今日本邦の学校に於ては興譲館中学校のみが催し得べき一大盛典の行はれた其のあとで、時は午後の三時、本校講堂に於てわが興譲会の発会式は挙げら
 - 第46巻 p.90 -ページ画像 
れた。
 当日八百の来賓中の大半は興譲会員たるもの、時刻は漸く移つて居るけれども何れも居残つて此の式に加はるのであつた。矍鑠として鶴の如き白髪の老人あり、経世の意気顔貌に躍如たる壮夫あり、まだ若草のうらうらと青雲の志眉宇に漲れるの学生あり、いづれも記念式に於て湧き起されたる感謝と興奮との気を持続けて此の会に詰め寄つた山下館長の開会の辞に続き、馬越之一氏は設立経過の報告をなし、阪谷男爵は会の命名について諄々たるお話があり、更に会員山田煕・尾山良太・山下正樹諸氏の感想談等、熱烈に懐しく次ぎ次ぎに盛んなる拍手裡に演じられ、斯くして午後五時閉会を告げた。



〔参考〕興譲会報 第一号大正一二年二月 興譲会成立の経過(DK460022k-0009)
第46巻 p.90 ページ画像

興譲会報 第一号大正一二年二月
    興譲会成立の経過
 我興譲館の様に創立以来七十年一日も絃誦の声を絶たないといふ学校は、我国に於ては外にはないのである。従つてまた興譲館程時世に適応して其組織編成の変遷したものも尠い。であるから、その時代時代に於ける出身者の間には充分なる聯絡が取れにくかつたものと見えて、時代別に同窓会があつて夫々別々に館を後援してゐた。即ち朗廬先生門下によりて阪門会は明治三年頃に成立し、その後警軒先生時代の人々は別に興譲館会といふものを作つてゐたが、間もなく阪門会に合併した。併しずつと後に出来た中学校校友会とは聯絡がなかつたので、有志の間には常にこれを遺憾とする話があつた。地方旧出身者の如きに於ては其間何等の聯絡もなく、単に三人・五人打ち寄つて昔の思出を話合ふに過ぎなかつた、併し熱心家の間には、例へは諫山先生門下の同窓会を組織せうとの話も度々出た様であつた。折しも昨年創立七十年を機会に、東京に於ては阪門会と校友会との聯絡について種種画策されてゐた。
 一方館の方では基本金募集の計画を立てられ、七月末校内幹事の上京となつたので、愈々機は熟し来り、単に阪門会と校友会東京支部との聯合と云はず、広く新旧出身者の大合同を策し、更に普く縁故者をも包含し、打つて一丸となし一大勢力を作り度いと、有志者の度々の会合となり、遂にこれを八月十五日の校友会総会に謀り、その賛成決議を得て会名は阪谷男に、規則は館長と東京阪門会側とに一任することとなり、更に十一月二日東京に於ける阪門会と校友会支部との聯合大会に於て、阪谷男より興譲会と命名され、大体の規則も出来上るに至つたのである。
 越えて十一月十四日、七十年紀念式後本館講堂に於て発会式挙行、別項記載の如く阪谷男より会の命名についてのお話を承はつて、それが単に興譲館の同窓会であるが故の会名たるのみならず、実に高邁なる理想を含める名であることを知り、一同今更に大覚悟の念を起したのである。