デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 22. 水産講習所
■綱文

第46巻 p.223-232(DK460060k) ページ画像

大正3年11月1日(1914年)

是ヨリ先、十月二十九日、政府ハ当講習所ガ従来農商務省所管ナリシヲ文部省ニ移管スル旨ヲ発表ス。爾来反対運動起リ、是日倉光吉郎・松原新之助ハ栄一ヲ訪ヒ事情ヲ述ブ。後、栄一、二六新報中央新聞・雑誌東洋ニ反対意見ヲ発表ス。


■資料

伊谷以知二郎伝 第一四一―一五六頁 昭和一四年三月刊(DK460060k-0001)
第46巻 p.223-229 ページ画像

伊谷以知二郎伝 第一四一―一五六頁 昭和一四年三月刊
    水産講習所移管問題
 今しがた愛嬢達と楽しい夕餉の団欒を終へられた先生は、何時もの如く紫煙をくゆらしながら夕刊に瞠入つてゐる。
 エアーシツプの白い灰がポトリと膝の上に落ちたのも気付かないやうに、ジツト新聞に瞠入つたまゝ動かれない。
 大正三年十月二十九日、水産講習所移管と題し、農商務次官上山満之進氏の談話が発表されてゐるのである。
 「今回本省は行政整理の一端として、従来本省の主管なりし水産講習所は、愈々文部省にその一半を移管することに決定せり。即ち同講習所中、水産試験に属するものはこれを水産試験場と改称し本省の管轄とし、水産教育に関する総ての施設は挙げて文部省に移管することゝ為せしなり。這は現内閣に於て特に発案せしにあらずして実は数年前より目論見られたるものを漸く実現せしに過ぎず。元来文部省は、教育機関の統一を以て主義としつゝあれば、前年蚕業講習所を文部省に移管したる実例に鑑み、今回水産講習所を同省に移管したる訳なり」
 この当局談は、水産講習所関係者にとりては、正に晴天の霹靂であつた。
 当時は、山本内閣が総辞職して、後継清浦内閣は流産に終り、大隈
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伯(後の侯爵)が国民の輿望を担つて、意気軒昂第二次大隈内閣を組織した時であつた。さうして、時の文相一木喜徳郎氏は、新進気鋭の閣僚として才気縦横の仕事をしたものである。
 彼は大隈内閣に入閣するや、多年の主張であつた学制統一を一挙に実現せんとし、先づ商船学校・水産講習所の文部省移管を閣議に提案した。
 商船学校の移管は、武富逓相の強硬なる反対に会ひて実現しなかつたが、水産講習所は農相大浦兼武氏の賛成を得、閣議の決定を見て、大正四年四月より愈々移管することゝなつたのである。
 併し、これは水産講習所創立の精神に悖り、その特色を傷けるものであつて、水産界の実状を知悉するものにとつては忍び難きことであつた。
 果せる哉、水産講習所出身者より成れる水産同窓会(今日の楽水会の前身)京浜地方の水産実業家より成る水産実業団及び水産政策・水産時事問題の研究を目的とせる水産同志会の三団体は、移管反対を叫んで蹶起し、都下の新聞雑誌は亦論調を一にして政府の処置を論難し囂々たる移管反対の声は天下を風靡するに至つたのである。
 十月三十日午後六時、母校移管の飛報を手にして六十余名の水産講習所出身者は急遽赤坂三会堂に参集した。さうして成田栄信氏を座長に推し、種々意見を交換したる結果
 世界の大勢に顧みれば、水産講習所の如き産業に関係を有する教育機関は、何れの文明国と雖、これを文教当局者の手にのみは一任して居ない。さなきだに教育と実際とが事毎に離反するの虞れある今日、敢て産業省たる農商務省よりこれを分離せんとするは、我が水産界の進歩発展を阻碍するものであつて、又現代教育の弊を益々増長するものではないか。我等は母校創立の精神に背き、且その歴史と伝統と特色とを傷けるが如き移管には断じて同意することが出来ない。
となし、満場一致左の如き強硬なる決議を為した。
 「水産講習所移管問題は、国家水産政策の上より見るも、政府の行動はその当を得ざるを以て極力反対す」
 さうして実行委員として、日高栄三郎・成田栄信・中村嘉寿・高橋熊三・高橋順平・鍋島態道・中島行一・林米五郎・星野佐紀・宮崎賢一・水谷川良叙・後藤義一郎・小沼雄吉・村上卯助・山中巌・倉光吉郎の十六名を挙げ、実行方法を一任した。実行委員は直ちに委員会を開き
 一、全国の同窓二千余名に対し飛檄すること
 二、在京同窓三百余名は、全国の同窓と共に近々東京に同窓大会を開くこと
 三、大隈首相・大浦農相・一木文相各大臣、貴衆両院議長、各政党代表者を始め、村田水産翁・松浦伯・渋沢栄一男・中野武営氏等朝野の名士を歴訪して実行を期すること
を申合せ、直ちに運動に移ることゝなつた。
 翌三十一日委員の一部は、鎌倉に籠居中であつた大日本水産会副総
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裁村田保翁を訪ねてその出馬を懇請し、他の一部は、水産講習所長下啓助、水産局長松崎寿三、大日本水産会幹事長牧朴真、前水産講習所長松原新之助等の諸氏を歴訪して、前後策に就て種々意見を交換すると共に、全国二千の同窓に檄を飛ばして益々結束を固めた。
 翌十一月一日、日高・成田・中村・宮崎の四委員は、大隈首相・一木文相を各私邸に訪問し、同窓会の決議を齎して陳情すれば、一方倉光吉郎・松原新之助の両氏は渋沢男を訪ね、意見を叩きて力強き声援を得、更に日高・中村両委員は、新橋より関西に向ひたる大浦農相と車中に会見して移管の不当を説く等、同窓委員の反対運動は漸く熾烈を加へた。
 この日水産講習所に於ては、在校生百七十名が深川区門前仲町寄席長島亭に学生大会を開き、遂に移管反対の烽火を挙ぐるに至つたのである。
 悲憤慷慨せる学生は、交々に立つて熱烈なる反対意見を吐露し
 「水産講習所移管問題は、吾人が入学の目的に反するを以て極力之が撤回を期す」
と強硬なる決議を為し、四十名の実行委員を選び、彼等は直ちに上山農商務次官・松崎水産局長・阪谷東京市長並びに都下各新聞社を歴訪して、全校の学生が蹶起するの已むなきに至つた衷情を披瀝して、その支援を要請したのである。
 翌二日大日本水産会は事態の紛糾するを憂へ、赤坂三会堂に緊急役員会を招集して、本問題に対する会の態度を決定し、村田副総裁の名を以て、次の如き具陳書を首相・農相に提出した。
 「仄に聞く、政府は今回水産講習所の所轄を文部省に移すの議を決せられたりと、この説にして真ならば、是れ本会の深く遺憾とし、玆に閣下の再慮を請はんと欲する所なり。
 本会は夙に水産事業発達の急務を提唱し、且斯業の発達は水産教育に俟たざるべからざるを唱導し、当路に建議する所あり、而して本会は又時勢に適応する人材を養成し、以て直接に事業に貢献すべき必要を感じ、明治二十二年有志の醵金を以て水産伝習所を設立し、刻苦経営玆に数年、二十六年より農商務省の補助金を得て漸次その規模を拡張し、明治三十年に到り政府は水産行政の機関としてこれを官設と為すの必要を認め、伝習所の全部を承継し現水産講習所を設立せられたり。
 事情既に如斯、本会と水産講習所との因縁は遠くして且深し、是本会が水産講習所に対して特に意を労する所以なり。
 凡そ国家に於て、その歴史と国民的気風の尊重せさるべからざるが如く、教育機関に於ても各その特色を発揮して、始めて玆に世用を充し得べきなり。抑々水産講習所は、その歴史の久しき特殊の風尚を備へ、能く水産界の実情と一致し、その卒業生の如きは直ちに実際的就業者として多くの遺憾あるを見ず。然るに今や突如としてこれを文部省に所属せしめ、一般学校と同一規矩の下に統率せられんか、是全く歴史と教養の主旨とに違ひ、斯業開発に適切なる人物を養成する所以の途にあらさるべし。
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 夫れ水産講習所の移管が、世間伝ふる所の如く学制統一と財政整理の必要に基くとせば、猶ほ且疑惑なき能はず。欧洲諸国に於ける実業教育は、主として関係官庁の所轄に属せしむるは近時に於ける顕著なる傾向なり。学制統一のこと漫然これを聞かば、その理あるが如きも、是れ実情に通ぜざるの譏り無きを得んや。本会はその歴史と趨勢とに鑑み、水産講習所の如きはこれを現在制度に維持せられんことを切望して止まざるなり。
 更に財政節約の如き是れ到底不可能事のことにして、その経費は却て増加するに至るべし。元来水産講習所は生徒の養成を為すのみならず、水産行政に資する唯一の試験機関たり。これを以て、若し水産教育を文部省に属せしむる時は、別に試験機関の設置を要するは勿論なり。現在に於ては、教育及び試験に要する経費は、相互共通し得べきもの尠からざるが故に、比較的少額を以てこの両者を並び行ふを得べしと雖、これを分離し而も今日の効果を収めんとせば、経費は殆んど倍加するを免れざるべし。要するに、水産講習所の移管は、行政の整理並に経費節減の政策として、共に何等の益あるを見ざるなり。
 今や内外頗る多事、内閣諸公が昼夜心慮を労し鋭意国政に努力せらるゝ秋に方り、本問題を言議するは恐懼に堪へざる所なりと雖、事水産界の消長に関し已むを得ざるに出づ、閣下深くこれを諒察せられんことを請ふ。誠惶頓首」
 一方水産同窓会は、水産実業団・水産同志会と共に臨時事務所を築地の精養軒内に設け、各方面に対して熱烈なる運動を続け、翌三日再び赤坂三会堂に在京水産同窓会を開き、来会者百余名は、満場一致左の如き宣言を決定発表した。
 「吾人は世運の進歩と時代の趨勢に鑑み、実業教育は産業主管の官省に直属せしむるを時宜に適する政策なりと認む。仍て水産講習所移管に反対す。」
 このやうに、水産同窓会始め水産団体の移管反対運動は、日毎に熾烈を加へて来たのであるが、殊に熱誠を極めたのは、学生側の運動であつた。
 昼は静粛に授業を受けて学業に励みながら、放課後は各方面を歴訪して決議の貫徹を期せんとするその真摯なる行動は、識者の同情を集めたのである。鎌倉の自邸に在つて、只管青島陥落の一日も速かならんことを祈りつゝあつた村田水産翁も、この学生の純情と同窓の切なる懇請により、長文の手紙を大隈首相に寄せられた。更に十一月七日青島陥落の捷報を手にするや、急遽上京して早稲田の私邸に大隈伯を訪ね、祝辞を述べられると共に、水産講習所移管の不条理不利益なる所以を熱心に説かれ、大隈首相も翁の熱誠溢るゝ反対意見には頗る動かされたものの如くであつた。
 併し本問題は一度閣議に於て決定を見た事項であり、一木文相が職を賭しての主張であつたので、村田翁始め先輩同窓の熱烈なる運動にも拘らず、却々楽観を許さざる情勢にあつた。
 純情多感なる学生一同は、これは一に所長下啓助氏の熱意の足らざ
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ると、大隈首相に一片の誠意なきに依るものと思惟し、八日午前十一時、同所大講堂に再度学生大会を開き、全校二百五十余名の学生出席し、各学年より代表交々起つて声涙共に下る移管反対の演説を行ひ、左の決議文、及び所長に提出する建白書を決議し、学生一同別室に於て、各自署名血判をなし、飽くまで初志を貫徹するの決意を固めたのである。
      決議文
 吾人は一致団結我が水産講習所移管問題の撤回を期し、断じて入学の目的に反する教育を受けず。
 右血を以て誓ふ。
      建白書
 謹んで下所長閣下に呈す。
 所長閣下は我が水産講習所生徒に対する誠意を欠くものと思惟す。
 玆に謹んで反省を乞ふ。
 斯くして、悲壮なる運動の中に十一日を迎へた。この日は、本問題解決の鍵を握れる大浦農相が、関西より帰京すべき日である。
 村田水産翁、日高・中村・星野の実行委員は、農相を国府津に迎へ車中にて移管問題に関し熱誠を披瀝してその中止方を懇請した。農相も熱心にその意のあるところを聴取し、首相と篤と相談すべき旨を約したのであつた。
 併し、翌十二日の定例閣議に於て、本問題は遂に水産講習所全生徒の要望と同窓先輩の期待を裏切り、飽くまで移管することに決定され渋沢男・中野商工会議所会頭の農相に対する必死の運動も奏効せず、遂に最後の関頭に立つに至つた。
 事玆に至りては遂に如何ともすべからず、今や最後の決心を為すべきときは来たのである。同窓実行委員側は、直ちに私立水産講習所の設立につきて凝議を開始し、一方学生一同は、最後の行動を採るべく決心を固め、十三日午前九時全学生は同所寄宿舎食堂に集り、学生一同の名を以て左の決議を為すに至つた。
 「我が水産講習所は文部省に移管せらるゝものと認む。依而学生一致の行動として退学す。」
 さうして、学生委員長亀田精一氏が起つて決議の実行を宣誓すれば満堂寂として声なく全学生の眼には悲憤の泪が光つてゐた。斯くて一同は、更に講堂に集合して告別式を挙げ、学生委員起つて左の告別文を朗読した。
 「噫、悲しい哉、我が水産講習所の運命は方に谷まらんとす。天道果して是乎非乎。満腔の感慨胸に迫りて言はんと欲する所を知らず吾人は血涙を呑んで最愛の母校を去る。哀別の情今更に切なり。」
 読む者泣き、聴く者また泣く。悲壮なるその光景は、何人も同情の涙なきを得なかつた。
 学生一同は粛然として最後に君が代を奉唱し、涙を揮つて構内に建つ松原前所長の胸像に懇ろなる告別の辞を述べ、更に相携へて校門を出て宮城二重橋前に至り、遥かに皇居を拝して、陛下の御信任し給へる政府の命に従ふ能はざりし罪を九天に謝し、玆に一同は散会し、遂
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に母校を去るに至つたのである。
 翌十四日学生一同は、一致して退学の行動に出づるの已むなき衷情を披瀝して、次の如き声明書を発表した。
 「謹んで天下に告白す。
 妖雲満天秋風千里の悲響を齎らして越中島原頭風物惨として悉く色を失ふ。
 本日生等二百の同窓血涙を呑んで離別の悲を叙し、顧眄幾度決然最愛の母校を去らんとす。初め我が水産講習所移管問題起るや、生等はその入学の目的を阻害し将来の針路を謬らしむるの甚だしきを憂ひ、悶々たる苦衷抑ふるに由なく、奮然起つて微忱を天下の諸賢に訴へ、以て極力之れが撤回を期せり。生等豈徒らに事を好まんや、誠に止むを得ざればなり。況んや飽くまで一挙一動を謹み、自重自愛専ら目覚しきまで神州水産健児の面目を発揚せんとしたるに於てをや。当局者の或は学生の本分を云々し、或は風教を云々するが如きは、自ら顧みて我に一笑だにも値せざる所なり。然るに嗚呼天道果して是乎非乎。鉄と固りたる二百の和魂も遂にこれを破る能はず巌をも徹す熱誠も遂に通ぜず、無惨や『断然移管に決す』との悲報に接し、万事悉く玆に休し、連日連夜の勇猛闘悉く水泡に帰し畢はんぬ。生等泣かんとして涙涸れ、叫ばんとして喉破れ、唯断腸の想ひに懊悩するのみ。然れども思ひを翻せば、之れ天也命也。生等は母校の廃滅を哀むの情に堪へざると共に、又笑つて慈母に殉じ、衷心の安泰得も云へざるものあるなり。微なりと雖、一片男児の奇骨 愈々稜々たり。生等が邦家の為水産界に立ちて奮闘せんず志や益々堅し。願くは天下の諸賢慈愛深き明察と熱烈なる同情とを垂れ給ふて、拳々たる生等が微志を大成せしめられんことを。」
 村田水産翁はこの学生一同の断乎たる行動に出でし衷情を憫察され且学業を廃し今後の方向に迷はんとする現状に万斛の同情を寄せられ十六日再び上京して早稲田の私邸に大隈伯を訪ね、退学せる学生一同の前後処置に関して懇談し、更に農相・文相をも招致して鳩首凝議の結果、一先づ双方の決議及び処分を撤回して前後策を講ずることとなつた。
 玆に於て、村田翁は同窓実行委員と協議の上、本問題の解決を一任され、更に十八日翁は三会堂に学生一同を集めて懇々説諭せられたる結果、学生側も
 「吾人は村田保先生並に先輩諸賢に信頼し、玆に前後の処置を一任す。」
と決議し、一切を村田翁の侠骨に一任するに至つたのである。
 而して、同時に退学せる学生は、村田翁の熱誠なる奔走と同窓委員日高栄三郎・高橋熊三両氏の当局との数次の折衝により、無条件にて円満に復校することゝなつたのである。
 固より移管問題は、これに依りて全く解決を見られなかつたが、併し当局が無条件にて学生の復校を許したことは、政府が与論の反対、殊に村田翁始め、同窓先輩の熱誠と、学生の真剣悲壮なる反対運動に抗し得ず、事実上、移管中止の已むなきに至つたことを物語るもので
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あつた。
 その後本問題は議会に於て政治問題として朝野論議の中心となり、政府の態度は愈々消極的とならざるを得なかつたが、政府提出の増師案が衆議院に於て否決せられ、議会は突如として解散となつた。総選挙の結果は憲政会の圧倒的勝利に帰し、政府の政策は、国民多数の支持を得て意のまゝに遂行せらるゝやうになつたのである。
 若し、政府にして敢て移管を強行せんとする意志があれば、水産講習所の運命は正に谷まつたであらう。
 併し、大隈伯は流石一世の大政治家であつた。高邁なる伯の識見は克く水産業の将来を洞察し、学生始め業界一致の要望に聴きて、遂に水産講習所の移管には再び手を触れなかつたのである。
 斯くして、水産講習所は学生及び同窓先輩の至誠鬼神を泣かしむるが如き行動と、村田水産翁始め幾多大先輩の深甚なる同情に依つて、創立以来未曾有の難局を乗り切ることが出来たのである。
○下略
   ○倉光吉郎・松原新之助ノ栄一ヲ訪問セルヲ次掲資料ニハ十月三十一日トナスモ、ココニハ姑ク右ニ依ツテ綱文日付トナス。


竜門雑誌 第三一八号・第一六―一八頁 大正三年一一月 ○移管問題に就て 伝染病研究所と水産講習所 青淵先生(DK460060k-0002)
第46巻 p.229-230 ページ画像

竜門雑誌 第三一八号・第一六―一八頁 大正三年一一月
    ○移管問題に就て
      伝染病研究所と水産講習所
                        青淵先生
 左の二篇中○中略 水産講習所移管に就ては、二六新報記者の訪問に対し、青淵先生の語られたる所なりとて、其紙上に掲載せる者なり。
                        (編者識)
○中略
△二六新報所載 水産講習所移管問題に関し、松原前講習所長等去る三十一日午前七時飛鳥山なる渋沢男爵を訪問せるに、男は左の如く語れり、水産講習所移管を決行せんとする政府は、一体法の人によるものたるを知らず、総てを法に当て篏めんとする著しき傾向あるは洵に遺憾とす、学制統一に理由を藉りて、水産講習所を文部省に移さんとするが如きは、法に拘泥するものにして、弊害を醸すに過ぎず、水産講習所は設立の当時目的は既に学校設立にあらずして、実習所設立にありたりと云ふ事なるが、爾来此目的に向つて二十五年間の貴き歴史の造られたるを、今に至りて文部省所管に移さんとするは、歴史と実際とを無視したるものなり、而かも学制統一を口にする政府にして、陸軍の大学校・士官学校・幼年学校又は海軍の大学校・兵学校等を文部省に属せしめざるは奇ならずや、無論政府は学者とし漁夫としての完全なる水産家を造らんとする意志ならんも、這は到底現在の経費節減時代にありては不可能の事にして、政府の理由とする行政整理とも矛盾するを如何せん、水産講習所現在の予算は十二万円と云ふ事に聞く、此の僅少なる経費中に於て、従来の実地の外に更に学者を造る設備を為さんとするは能ふ事にあらざるは明かなり、即ち講習所は現状の儘にて可なり、自分も札幌農大水産科出の余りに実際に疎きには苦
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き経験ある者の一人なれば、日本が海外に発展せんとする今日講習所を文部省所管に移し学者を製造せんとする政府に対しては反対を標榜し、尚ほ自分は国産奨励の趣旨より政府に対し進言する処あるべし。


竜門雑誌 第三一九号・第二〇―二三頁 大正三年一二月 ○水産講習所移管に就て 青淵先生(DK460060k-0003)
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竜門雑誌 第三一九号・第二〇―二三頁 大正三年一二月
    ○水産講習所移管に就て
                        青淵先生
 本篇は、先般政府に於て従来農商務所管の水産講習所を文部省所管に移したる所謂移管問題に就て、中央新聞記者及び雑誌「東洋」記者が青淵先生の意見を問ひて、各々其の紙上に掲載せるものなり。
                       (編者識)
△中央新聞所載 水産講習所移管問題が、伝染病研究所問題と共に、現内閣の一大失政たるは贅言を要せず、水産講習所に従来何等の関係を有せざりし予は、最初移管問題に就て努めて沈黙を守りしに、爾来各関係当事者並に水産専門家より其内容を聴取し、所謂移管の結果が総ての点に於て不都合極まるものなるを熟知するに至れり、是れ啻に一水産講習所のみに非ず、我が全学界の一大恨事なりと確信し、政府当局に対し、過ちを改むるに吝ならざるの美徳を成さしめんと思ひ、幾度となく忠告したり、殊に大浦農相と過般邂逅せし時の如き、更に其の非なる所以を繰返して反省を求めたるのみか、同席の中野武営氏の如きも
 現内閣が一再ならず輿論の反対を無視して其非を遂げんとするは、恰も政治上の反対党を威嚇し、如何なる問題にせよ一度決定せし以上、政府は挙国一致の反対も眼中に措かず、断々乎々として勇往邁進するものなり、反対するなら勝手に反対せよ、大隈内閣の蛮勇恁の如しと、何等か他日の伏線のため強て非行を遂行するものゝ如く見えて甚だ感心出来ざれば、徳を以て天下に対する政治家の責任に思ひを潜められたし
と迄極論せしに、大浦農相は閣議既に確定せる上は今更如何とも致し難しとて、吾人の熱誠も結局顧みる所とならざりしは寔に心外千万なり、其の結果終に全学生の同盟退学と云ふ由々敷椿事を惹起するに至れるは、勢の趣く所詮方なき事なるべし、予は平素同盟罷工を弱者の弱行と看做し、若し四周の事情己れに非ならば、飽く迄踏止まりて其改善を促すの更に一層男らしき行為たるを信じつゝあるを以て、曾て四十三年東京高等商業学校の騒擾に際しても、今回の水産講習所事件に対しても、如斯挙に出でさらん事を切望し、先程も関係者の来訪に対し如上の持論を以て同盟退学に反対したれど、既に事玆に及んでは予亦涙を飲んで黙するの他なし、有為の青年二百五十名をして此挙に出でしめしもの抑々誰の罪ぞ、我が忠告容れられず、我が赤誠認められざる今日、予は黙して其成行きを見るの外なけれど、夫れだけ予が胸中の不安は益々増大せられつゝあるを感ず、知らず政治家とは終に斯の如き者歟。
△雑誌「東洋」所載 政府は曩きに伝染病研究所の所管換を決行して社会の非難を享け居るが、今は又水産講習所を農商務省の所管から移
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して文部省に属せしめんと、既に農商務省と文部省との間に協議纏まり、閣議に提案するばかりとなつて居る趣きで、是れを耳にしたる世の識者や、水産講習所出の実業家や、講習所生徒が、此の移管を以て国家に於ける水産上の由々しき事なりとして反対運動を開始し、自分の処へも其是非を糾し、且つ反対に声援を与へよとて訪問し来る有志もあるが、此移管問題に就きては、有志の依頼に依るまでもなく自分は極力其阻止に努力せんと考へて居る、何故かと云ふに、這は単に一講習所の移管に止まる小問題にあらずして、国家産業の上から観たる日本が、水産国として之から益々世界到る処の海洋に活躍せなければならぬと云ふ最も大事な場合で、ドウしても打ち捨て置くことが出来ぬからである。
一体、政府は、法と云ふものは人に依りて始めて活きるものであると云ふ事を知らず、悉く法を以て総てを律せんとして居る傾きがあるが既に決行したる伝染病研究所々管換の如きも、其一の傾嚮と見る可きもので、又此水産講習所移管もそれに相違ない、国民の反対を受けるも致方ない事と思ふ、政府は国民の此反対に対して学制統一を理由とし、又行政整理の場合自然移管の行はるゝは余儀なき事なりと弁解甚だ努むる様であるが、其理由よりも、法に拘泥する所謂官僚癖が偶々此移管を煽つたと云ふ方が真実らしい、水産講習所は今から二十八年前、大日本水産会の創設に係り、而して其目的は実習所とするのであつたから、其後明治三十年農商務省所管となりて今日に至るも、最初の目的を変更することなく、依然として実用的人材を養成し来たことは誰しも知らぬ事はあるまい、尤も、農商務省に移つてから従来よりは学術研究の方は程度を進められたるも、実用的人材養成方針には矢張り変りが無かつたのである、即ち水産講習所は、長き歴史の上に、将来とても方針を二つにするを許さゞる様堅固に出来上がつたと云ふ可きもので、且つ時代の要求に応じて此歴史を造つたものと信ずる、是れが我水産界に於ける中堅全部は悉く水産講習所出を以て充たし居ると云ふ事が解かる、而して今後の日本は、又同様在来の如き健実なる水産家を以て国家発展の機運に応じなければならぬのが、是迄と変りがある可き筈がない、卓上に学理を論ずるのみを能とする水産学者では、ドウしてドウして其機運に応ずる事が出来やうか。
惟ふに政府の意は、文部省に移して在来通り実際的人材を養成すると共に、此の実際的人材に数層倍学理の素養を増さしめんとする考へならんが、財政の許さぬ今日は是は唯希望に止まるのみで、不可能な事と云ふ可きものである、而かも政府は行政整理を理由として居るではないか、口に行政整理を唱へながら仕事の却て多くなり、経費の逆まに多額を要する希望に於て此移管を行はんとするは、矛盾も亦甚しいと云はなければならぬ、文部省には学理研究の札幌農科大学水産科あれば、理論家を造るには沢山である、其上農商務省の折角実用的人材養成に努力しあるを、二つに割き、学理研究の方を持ち来りて理論家を造らんとするは、却て仕事も経費も多くなる許りで、又そは此場合不必要な処理と云ふ可きものである。
而かも自分は政府当局に借問せんと欲する事がある、此は政府は果し
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て学制統一・行政整理の趣意に依りて目的を遂行せんとする以上は、彼の海軍兵学校・大学校、又は陸軍の士官学校・大学校等をも文部省の所管に移さゞる可からざる事となるが、政府は此通り移管を行はんとするや否や、是れ自分が政府に対して是非聴度いと思ふ事である、要するに如何な粗雑な頭脳を持てる政府当局と雖へども、此陸海軍省所管の学校を文部省に移すの不可能なる事実に対しては、実用を主とする教育機関と、学究養成を主とする教育機関とは、其所属部処を同一に為し能はざる理義の存するを識るに相違ないからである、即ち此の一事を以て、既に決行せられた伝染病研究所の所管換の非理も明白になる、随つて此処に論ずる水産講習所移管も同様非理妄断で、国家の水産業発達を阻害する処置たるは解かる、此の故に自分は有志諸君の誘導を待つ迄もなく、移管反対には極力尽力する考へである。


渋沢栄一 日記 大正四年(DK460060k-0004)
第46巻 p.232 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
七月十七日 晴
午前七時起床、小痾アルニ付入浴ヲ止メ、洗面シテ朝飧ヲ食ス、水産講習所学生鈴木・山本二氏来リ、移管ノ不都合ヲ説明ス○下略