デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
4款 社団法人癌研究会
■綱文

第46巻 p.348-351(DK460100k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当会会頭長与又郎弔辞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK460100k-0001)
第46巻 p.348 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
一、青山斎場着棺 午前九時四十分。
一、葬儀開始 午前十時。
一、葬儀終了 午前十一時三十分。
一、告別式 午後一時開始三時終了。
 ○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
 尚そほの他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
癌研究会
○下略


社団法人癌研究会所蔵文書(DK460100k-0002)
第46巻 p.348 ページ画像

社団法人癌研究会所蔵文書
    弔辞
 癌研究会ハ本会ノ創立以来二十有余年間副総裁トシテ克ク本会事業ノ指導発展ニ力ヲ尽サレタル子爵渋沢栄一閣下ノ薨去ヲ悼ミ恭シク弔辞ヲ呈ス
  昭和六年十一月十五日
               社団法人癌研究会
                   会頭 長与又郎


竜門雑誌 第五二三号・第六五―六七頁昭和七年四月 渋沢副総裁と癌研究会 長与又郎(DK460100k-0003)
第46巻 p.348-349 ページ画像

竜門雑誌  第五二三号・第六五―六七頁昭和七年四月
    渋沢副総裁と癌研究会
                      長与又郎
 我癌研究会が、医界の先覚者数氏の主唱の下に約半歳の準備時代を経て、愈々発会式を挙行したのは明治四十二年四月六日《(二)》であり、場所は東京帝国大学病理学教室の講堂であつた。青山・本多両博士が、夫夫正副会頭に推薦せられ、青山会頭の開会の辞に次いで、牧野文部大臣・浜尾東京帝国大学総長・北里伝染病研究所長等と共に、渋沢男爵は祝辞を述べて居られる。同年規則が改正せられて、新に総裁・副総
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裁各一名を置くことゝなり、総裁には時の内閣総埋大臣桂太郎侯爵を副総裁には渋沢男爵を推薦することとなつた。桂公は大正二年早くも薨去せられたが、渋沢副総裁はその後今日に至る迄二十有余年間引続き其職にあつて、会の隆昌発展を画られたことは誠に感謝に堪へない所である。
 渋沢子爵を副総裁に推薦したのは、本会としては会の事業計画遂行の上に於て、一般社会及財界に於ける最有力の一人たる子爵の御尽力を乞ふことが最得策であると考へた為であつたと思はれるが、一方子爵が之を承諾されたのは、子爵が本会事業の性質を能く理解せられ、社会事業として意義ある一計画であることを考へられた為であるが、然し、其外に尚一つの個人的な動機があつたやうである。それは子爵が発会式の祝辞中に於て述べられ、又其他の機会に於ても折々物語られた次のような小話である。明治二十七年十一月十八日、子爵は右頰部に腫瘍を病まれたことがある。諸大家が結局之れを癌腫と診定し結局高木兼寛博士が執刀、橋本綱常博士とスクリバ博士が立会で手術を行ひ、腫瘍を切除摘出した。そして若干日の後に平癒した。然るに其全治の報を得た橋本博士は、完全に治つたのならば、あれは真正の癌では無かつたのだらうと云はれた、之を聞いた高木博士は甚だ憤慨してえらい見幕で橋本博士を尋ねて論叱したと云ふことである。この一小話は橋本・高木両先生の面目が覗はれて、面白い話であるが、子爵の腫瘍がどんなものであつたかは適確に知るよしもないが、それは兎に角渋沢子爵は此時以来癌は早く外科手術をやれば治るものである、自分がその能い見本である、癌の治療は将来大いに見込みがあるといふ一つの信念を持つて居られたらしい。此事が子爵が本会副総裁の任を受諾せられた一動機であつたらうと想像される。そして今日になつて之を見れば、医学の発達は実際数十年前の渋沢子爵の素人観を裏書きして来たのである。
 渋沢先生が一生を通じて関係された各種の社会事業的公共団体の数は七百を超え、薨去当時に於ても二百余を算すると云ふことである。其範囲は甚だ広く、経済界は元より、教育・慈善・学術等に関する諸種の社会事業より、国際親善の機関に至る迄実に多方面に亘つて居る其内医学関係のもののみに就て見ると、東京養育院を始めとし、癌研究会・東京慈恵会・日本結核予防協会・癩予防協会・日本育児院《(マヽ)》・日本赤十字社・済生会・白十字会等の多数に上つて居る。このことでも子爵が国民の衛生に大に留意せられてゐたことがよく解る。而してその関係せる団体の多くには単に名義許りでなく、陰に陽に実際力を尽されたことは到底凡人には出来ぬ所である。
 その危篤を伝へられ終に薨去せられた其前後に於て、あれ程社会の各方面から、礼讚せられ、感謝せられ、尊敬せられ、愛惜せられた人は蓋し稀有であらう。(故渋沢子爵及土肥博士を憶ふ)
  ○当会ハ昭和八年十一月十七日組織ヲ変更シテ財団法人トナリ、翌九年五月豊島区西巣鴨一丁目二六一五番地へ新築移転ス。



〔参考〕実験論語処世談 渋沢栄一著 第五五四―五五六頁 大正一一年一一月四版刊(DK460100k-0004)
第46巻 p.349-350 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第五五四―五五六頁大正一一年一一月四版刊
 - 第46巻 p.350 -ページ画像 
 ○神仏と戦と病とに対する信念
    ○癌と肺炎とで瀕死
○上略 然し私も今日までの中に、大患に罹つて生命が危険《むづか》しからうと思はれた事が二度ある。一度は明治二十七年の癌で、一度は明治三十七年の肺炎だ。私は三十七年の時の肺炎の方を危険《あぶな》く思ひ、半ば遺言のやうなものまでしたほどであつたが、二十七年の癌の時には、私よりも世間が却つて心配したのである。
 誰が見ても知れるやうに、私の右の頰の唇の辺が妙に凹んでるがこれは明治二十七年に癌を切り取つた痕跡《あと》だ。この年には日清戦争が始まつて、大本営を広島行在所に置かれ、明治天皇は同地に御駐輦あらせられた。私は別に左したる異状が身体にあるとも思はず、少し口の辺りが変で、悪寒《さむけ》がするぐらゐに思つたのみで、押して天機奉伺の為め広島に赴いたのだが、帰途汽車中で発熱甚だしく、余りに苦しくなり、到底堪へ難くなつたので、帰京するや否や直ちに高木兼寛氏の診察を請ふ事にしたのである。然るは高木氏は診察の結果、癌であるとの診断を与へ、橋本綱常氏及び帝国大学のスクリツパ教授も亦立会つて診察せられたが、猶且癌《やはり》であるとの診断で、高木兼寛・橋本綱常・スクリツパの三氏が立会つて癌腫を切開し、之を切り取つてしまつたのである。幸に予後良好で健康は旧に復したのだ、癌は一度切り取つてしまつても又、再発するのが殆ど例になつて居るさうで、私の如く全く再発せぬのは稀有の例であるとの事だ。
    ○中耳炎・腸加多児・肺炎
 当時私は左までの危険状態にあるものだとは思つて居なかつたのだが、世間では既《も》う渋沢も駄目で、癌で斃されてしまふだらうと噂し合つてたさうである。橋本綱常氏すら或人に向つて、渋沢も折角働いてるが、今度といふ今度は実に気の毒なものだ、とうとう癌に生命を取られてしまふことになつたと謬られたほどである。然るに如何に切り取つても必ず再発すべきものと予期せられて居つた癌は、何うしたものか瘡痕の療ゆる《(マヽ)》と共に、そのまゝ療《なほ》つてしまひ、橋本氏の如きは、その頃私を見る毎に、恰も癌の再発を催促するかの如き調子で、まだ再発《で》て来ぬのかと怪んで問ふのを例としたほどで、私は余り屡々問はれる所より、橋本氏に向ひ、貴公は癌の再発を望んでるのかと問ひ返したことのあるほどだが、天祐とでもいふべきであらうか、不思議に再発せず、すつかり快癒してしまつたものだから、橋本氏の如きは癌で無くつて他の腫物であつたらうなぞと、後日に至つて疑ひを起したほどである。之に対し高木氏は、自分が主治医となり、三名まで立会つて診察し、それで癌と診断したものに、誤診のありさうな筈無く猶且癌《やはり》であつたが、天祐により快癒したのであると主張せられたくらゐで、今日に至るまで再発せぬのは、全く天が私を棄て給はなかつたからだらうと思ふのである。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第四四三号・第三五頁大正一四年八月 真珠と癌 医学博士 宮島幹之助(DK460100k-0005)
第46巻 p.350-351 ページ画像

竜門雑誌  第四四三号・第三五頁大正一四年八月
    真珠と癌
 - 第46巻 p.351 -ページ画像 
                   医学博士 宮島幹之助
○上略 古来癌に関する研究を各国共に熱心にやつて居る、日本に於ても既に癌研究会といふものが出来まして、渋沢子爵には其の会長《(マヽ)》として常に之が研究を奨励されて居る、さうしていつでも吾々に対してさう言はれる、乃公も一たびは癌に罹つたけれども手術をして治つたのである、それであるから決して癌は治らぬものでないといふ確信を以て奨励して居られるのであります。○下略



〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下・第五二七頁昭和二年一一月―五年七月(DK460100k-0006)
第46巻 p.351 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五二七頁昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第十八回 昭和二年十二月廿日於丸の内事務所
    一、癌研究会に就て
先生「之れは何でもない。私が癌を患つてそれが手術で癒つたので、生きた模範としようと思つて会長《(マヽ)》にしたのだらう」
  ○此回ノ出席者ハ栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・増田明六・渡辺得男・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。



〔参考〕竜門雑誌 第五五〇号・第七二頁昭和九年七月 癌と俳句 渋沢敬三(DK460100k-0007)
第46巻 p.351 ページ画像

竜門雑誌  第五五〇号・第七二頁昭和九年七月
    癌と俳句
                    渋沢敬三
○上略
      五、癌と詩
 最後に私は癌に関した詩を一つ御紹介して禿筆を擱きませう。それは青淵先生の詩で、明治二十七年に賦されたものです。青淵先生は明治二十七年に、顔面上皮癌にかゝられ、当時の名医高木兼寛・橋本綱常両博士診断立会の上、スクリツパ先生執刀で手術されました。「クロロフオルムをかゞされて一つ二つ三つと数へて居る内に、気が遠くなつた」とよく申して居りました。その切開の跡が所謂青淵先生の靨の正体です。先生が癌研究会副総裁を最後まで仰せつかつて居りましたのも、実は癌が手術で完全に治癒された一つの好実例としての意味もあつたのでせう。次に掲ぐるのは其の時の作詩です。
      甲午冬。病口癌。医師来将施切断。因賦一絶以自遣。
 少年豪侠気如雲。一剣欲支百万軍。
 豈料雄思銷尽後。衰顔因病見刀痕。