デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
6款 社団法人温故学会
■綱文

第46巻 p.392-401(DK460113k) ページ画像

昭和2年7月2日(1927年)

是ヨリ先、東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷氷川裏三三八ノ一ニ、清水組ノ手ニヨリ建築中ノ当学会会館並ニ倉庫落成シ、是日ソノ開館式ヲ挙行ス。栄一、維持会員総代トシテ式辞ヲ述ブ。


■資料

温故学会書類(一)(DK460113k-0001)
第46巻 p.392 ページ画像

温故学会書類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
拝啓時下益御清穆の段奉賀上候
陳ば本会々館並ニ倉庫建築工事の儀、去る九月起工候より予定通り進捗仕り、鉄筋コンクリート工事も近く完成を告げ、明年早々新築倉庫ニ原版保蔵の運びに相成るべく候間、何卒御了承被下度、会館は三月出来の筈に御座候
先は御報告まで如斯ニ御座候 匆々
  大正十五年十二月一日
             東京市四ツ谷区寺町二十二番地
                 社団法人温故学会
                     理事 斎藤茂三郎
  維持会員
    子爵 渋沢栄一殿


温故学会書類(一)(DK460113k-0002)
第46巻 p.392 ページ画像

温故学会書類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
拝啓厳寒の候益々御清勝の御事と奉存候
陳ば本会館並ニ倉庫建築工事の儀も着手以来順調に相運び居り候段、深厚なる御尽力の結果と奉感謝候
群書類従原版に就いては、目下火災期に入り候事とて、此際特ニ清水組を督励いたし、細心注意のもとに内部の設備を急がせ、一日も早く安全保管の方法を講ずべく候間、何卒御諒承賜はり度候
右御報告旁々御挨拶まで如斯ニ御座候 頓首
  昭和元年十二月三十日
              東京市四ツ谷区寺町二十二番地
                 社団法人温故学会
                     理事 斎藤茂三郎
  維持会員
    子爵 渋沢栄一殿
 - 第46巻 p.393 -ページ画像 

温故学会書類(一)(DK460113k-0003)
第46巻 p.393 ページ画像

温故学会書類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓時下益々御清勝奉賀上候
陳ば下渋谷御料地地上建築中の鉄筋コンクリート倉庫此程竣工仕り候に付、群書類従原版並ニ続群書類従目録・つれづれ草・元暦万葉集等の各原版を般入仕り、安全に保管の方法相立て申候、塙氏歿後満三ケ年、本会主要の目的を貫徹仕り候儀偏に御高庇の賜と深く奉感謝候
右御礼旁々御報まで申上候 頓首
  昭和二年二月二十日
              東京市四ツ谷区寺町二十二番地
                温故学会
                   理事 斎藤茂三郎
  維持会員
    (宛名手書)
    子爵渋沢栄一殿


温故学会書類(一)(DK460113k-0004)
第46巻 p.393-394 ページ画像

温故学会書類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
    温故学会々館新築工事概要
所在地 東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷氷川裏三三八ノ一
工程  大正十五年八月起工
    昭和二年三月竣工
坪数延坪 壱百〇五坪
  内訳 壱階五十一坪三合五勺
     弐階四十八坪五合
     屋階五坪一合五勺
工費 総工費四万円
   倉庫及会館新築工事 三四、九八〇・二九
   電灯工事         六八八・〇〇
   衛生工事         三二四・四六
   給水及排水工事      六〇八・〇〇
   瓦斯工事         四六九・八〇
   版木棚工事      二、五一一・〇〇
   木棚工事         四一八・四五
           計 四〇、〇〇〇・〇〇
外観  近代式
建物高 軒高二十八尺
    塔家高三十六尺五寸
構造  鉄筋コンクリート造
階数  二階建外ニ屋階付
室配置 壱階、広間・群書類従原版倉庫(第一号)・事務室・宿直室・小使室・台所・浴場・便所
    弐階、広間・群書類従原版倉庫(第二号)・講堂
    屋階、塔家
 - 第46巻 p.394 -ページ画像 
外部 根石廻リ煉瓦張リ、壁面防水剤入リ色「モルタル」塗リ窓ハ「ステールサツシユ」トス
内部 壁天井共ニ白漆喰、各日本間真壁、天井竿緑天井、畳敷キトス
  昭和二年七月            合資会社清水組


中外商業新報 第一四八五七号昭和二年七月一日 塙保己一の遺業を永久保存 群書類従の原版など全部 温故学会館落成(DK460113k-0005)
第46巻 p.394 ページ画像

中外商業新報 第一四八五七号昭和二年七月一日
  塙保己一の
    遺業を永久保存
      群書類従の原版など全部
        温故学会館落成
五才で失明し刻苦奮闘六十年、遂に絶世の碩学となつて空前の大著述をなした、盲目の儒者検校塙保己一翁が一代の苦心収拾に成る有名な群書類従、六百六十六冊、その全部の原版両刻面一万七千二百四十四枚を初め、徒然草(上下)の原版七十五枚及び元暦万葉集の版木七十五枚、続群書類従の目録七十枚、計一万七千四百六十八枚といふ莫大な原版は、そつくりそのまゝ、翁逝去以来百六年目の今日もなほ無事に、わが学界無比の貴重物として、社団法人温故学会に依つて保存されているが、この国宝的版木を永久に遺し伝へるべく、渋沢子爵を初め井上通泰・内藤久寛諸氏の後援と理事斎藤茂三郎氏の奔走によつて同会の会館並に倉庫(鉄筋コンクリートの三階建)は下渋谷氷川社裏三三八の敷地に、四万円の予算で昨年着工、今春三月早くも竣工を告げたので、来る七月二日にいよいよ落成式を兼ね、盛大な開館式を挙行することになつた、同会では右版木保管の外に和学講談所の再興を期し、国文学の講義会を開いたり、別に大和の道奨励のためみどり会を設けて武島羽衣氏が講評に当るなど諸種の事業を行つてゐる、同会の会館建築の企画あるや畏き辺りからは御内帑金を下賜あらせられた


昭和二年七月二日挙行 社団法人温故学会開館式記録 第一―二三頁刊(DK460113k-0006)
第46巻 p.394-401 ページ画像

昭和二年七月二日挙行
社団法人温故学会開館式記録 第一―二三頁刊
    開館式記録
 昭和二年七月二日、本館並に倉庫新築落成に付開館式を挙ぐるに当り、一木宮内大臣・水野文部大臣両閣下を始め、寄附者其他各位約百名並に維持会員等午後二時より参集、倉庫第一号・第二号の両室に於ける群書類従原版保管の現状観覧、次で屋上に於て茶菓を饗し、午後三時講堂大広間にて開館式を挙行せり。
 理事斎藤茂三郎氏開会を宣し、維持会員総代子爵渋沢栄一氏の式辞一木宮内大臣の祝辞、井上通泰博士の版木に付きての講演、貴族院議員内藤久寛氏の祝辞あり、終りに斎藤理事閉会を告げ○中略一同退散せり。左に当日の祝辞並に演説速記を掲ぐ。
   ○「附記」略ス。

      式辞
                   子爵渋沢栄一氏
 - 第46巻 p.395 -ページ画像 
 宮内大臣・文部大臣両閣下、並に満場の諸君、私は今日此会に当りまして、従来の沿革を申上げる任務を持ちまして、此席に立つたのでございます。当学会に於て故塙先生の事業、且つ古今に稀なる群書類従の版木に残つて居りまするのを後代に伝へたいと云ふことが、我々故先生と生地を同ふする者には此念慮が別して深かつたのでございます。蓋し是は小さい考であつて、塙先生の事業は埼玉県人のみが斯く考へるばかりでなく御国の一大事業と申して宜からうと思ひます。併し兎に角に郷里を同ふする者は特に其感じが強いものであるから、私一人でも前に述べたやうな念慮を持ちましたが、段々同志の皆様が御賛成御援助下され、又其筋に於かれましても種々なる御便宜を御与へ下され、玆に此学会も成立し、群書類従の版木も永久に保存し得ることが出来ますのは何等の喜びでございませうか。或は言ふ、群書類従は其書籍を見ればそれで宜いではないか、版木まで永久に保存しなくてもと云ふ説もありませうけれども、熟々考へて見ますると、塙先生は生れて僅に五歳の時に失明し、十二の時に母を失つて、それで出京された時の境遇は按鍼若くは音曲と云ふやうなことで生計を立てると云ふのに過ぎなかつたやうでございます。然るに塙先生の企望が非凡と云ふか突飛と云ふか、五歳の時に失明し、文字に何等の縁故なき身で学問に依て世の中に立たうと云ふ決心をしたことは何たる大胆でありませうか。想ふに人と云ふものはさう云ふ突飛なる願望も出来るものかと今尚ほ当時を追懐して深く感ずるのでございます。私なども矢張り埼玉県下の農民に生れて二十四の時に家を去り、それから種々方々を遍歴して今日八十八歳を迎ふる迄随分長い間苦辛も致しましたが、何事も為し得ずして矢張り呉下の阿蒙に過ぎぬのであります。然るに前にも申す如く、失明の身で志を起して大学者たることを期念し而もそれが国学者であつて文学上種々の功績あるのみならず、我々が殊に尊敬する群書類従の六百六十六巻の大部の版木が存して居るのであります。諸君若し御覧になりたいと云ふならば、直に見得るだけの大事業が仕遂げてあります。蓋し人の精神と云ふものは実に不思議のものである。古人の句に「陽気発処金石亦透、精神一到何事不成」と云ふことがある。故に人は或る必要の場合には特に感奮せざるを得ないのであります。私は甚だ乱暴のことを申上げるやうでございますけれども、此塙先生があつたに付て、日本人の精神と云ふものはさう馬鹿にならぬものであると申上げたいと思ふのであります。斯かる偉人の精神を籠めたる版木を永久に伝へて、其遺蹟を偲ぶと云ふことは後人の務であらうと云ふことが我々同志の願望で、即ち学会も出来し、玆に版木保存の方法も愈々確定して、今日斯会を開いて其次第を報告するのでございます。前にも申上げました通り、今日特に宮内大臣・文部大臣両閣下を御願ひ申して、先づ此事を陳上し、更に我々に御援助を下すつた同志諸君の御集りをもお願ひ申して委曲を報告し、永久に温故学会即ち塙先生の遺業を後世に伝へ得ることが出来ると云ふことを申上げるのであります。玆に極く略式なる故先生の伝記がありますが、前に埼玉県庁で出版しました塙保己一伝とは大に省略してあります。実は今日此席に出席致しまするに付て、昨夜精々熟覧をする積
 - 第46巻 p.396 -ページ画像 
りでありましたが、色々の妨がありまして無本で申上げる程の記憶のないのを遺憾と致します。若し塙先生であつたならば見ずとも分るであらうと真に慚愧の至りであります。本書には斯の如く折目を付けて昨夜深更まで読みましたので多少のことは記憶して居ります。唯此書中に聊か誇張ではないかと思ふのは、先生は毎日百冊の書籍を読過したと云ふことであります。是は如何のものかと思はれます。私等も毎日新聞紙又は雑誌類で数冊又は五・六枚は一覧しますが、一日に百冊の書物を読むといふのは真に非凡の事と思ひます。蓋し其精力が絶倫であつて、而して其奉ずる所は頗る質素倹約で、僅に其身の生活を保つだけであつたと云ふことであります。即ち世の為に唯善事をするだけに生れ出た御人であると云つても宜からうと思ひます。翻て今日の世相を見ますと、目先の智識は昔日に優れたであらうが、放漫浮薄実に厭ふべき事が多い。願くば故先生の爪の垢を此放漫浮薄の人に飲ませて、幾分にても堅実にしたいと思ふのであります。但し余計の心配であると故先生は御笑ひだらうが、現下の有様を見ますと、どうか塙先生のやうな人を欲しいものと深く思ふ為に、無用の言葉をも発するのでありますが、斯かる由緒ある版木を保存し、同時に故偉人の事業を記念することは、御同様真に愉快の事であると思ひますから、玆に今日に至りました沿革を申上げまして、今日の祝辞と致した次第であります。
   ○一木宮内大臣ノ祝辞略ス。

      祝辞
                  文部大臣水野錬太郎氏
○上略 此度皆様方の御尽力に依りまして此温故学会が出来まして、塙先生の遺書等が収められると云ふことは非常に喜びに堪へない次第であります。本日親しく此処に参りまして、群書類従の版木等を拝見致しまして、一層感喜の情に堪へない次第でございます。併し塙先生が篤学であり、斯かる御遺業があると云ふことだけを以て、必ずしも塙先生に私淑するのではなくて、私は塙先生の御努力、御熱心、国家並に社会に対する御貢献に付きまして深く感謝して居る者なのであります皆様御承知の如くあの時代に於きまして盲目であつて殆ど今日で言へば失職とか失業とか云つて落胆して居られるのでありませうが、それにも拘はらず奮励努力して、一つ何か国の為に仕事をしなければならぬと云ふ此努力と此熱心と云ふ事に付きまして、非常に私は敬意を表して居るのでございます。今日の時代に鑑みまして動もすれば先程渋沢子爵が御述べになりました通り、若い者が兎角安逸を貪り、楽の方面にのみ行かうとして居る。試験もむづかしいから試験も止めて貰ひたい、学校の科目も少なくして貰ひたいと云ふやうなことも往々あるのであります。塙先生の此努力と此熱誠と云ふことを我々が拝見しますれば、実に覚えず背中に汗の出る位に思ふ次第であります。此先生の此事業を青年に紹介し、之を世の中に出しましたならば、相当人心に益する所が蓋し少なくないと思ふのであります。殊に日本の文化に対しまする貢献も、塙先生の此仕事に依て私は少からざる貢献を為さ
 - 第46巻 p.397 -ページ画像 
れて居ることゝ思ふのであります。斯ることを考へまするならば、塙先生の御人格、塙先生の苦心、塙先生の奮闘と云ふことは、将来子弟をして激励せしむるのみならず、我が教育文化の上に少からざる力を致されたことと考へまして、此点から申しましても、自分個人と致しまして、又公人の資格に於きましても、塙先生の御仕事に対しまして多大の敬意を表せなければならぬ。而して此事を為された此処に居られる渋沢子爵、理事の御方並に皆様方が之に力を致されたと云ふことに付きましては、是亦深く敬意を表せなければならぬと思ふのであります。本日玆に親しく故塙先生の御遺業を拝見致しまして、実に感激の至りに堪へない次第でございます。皆様の御尽力を謝しまして、之を以て祝辞に代へる次第でございます。

      版木の由来
                  宮中顧問官 井上通泰氏
 私は井上通泰《みちやす》と申します。群書類従の版木のことを御話するやうに此処に参つてから御頼みを受けましたので簡単に申上げますが、其簡単なことの中でも、何年何月であると云ふことは急に思ひ出しませぬから、大略申上げます。此温故学会と云ふものを故塙忠雄君が作りましたのは、明治四十三年の末であつたかと記憶致しまする。其目的は無論忠雄君の曾祖父の保己一検校の功業を紹述するのでありましたが其目的の又重なるものは何であるかと云へば、群書類従の版木の保存と利用と云ふことでありました。所が肝腎の群書類従の版木の行方が分りませぬ。当時忠雄君の親父さんの忠韶翁は生きて居られましたが大分老耄して居られまして、維新当時のことは何を聞いてもはつきり覚えて居らぬ。唯忠韶翁の記憶で忠雄君が聞込んだことは、類従の版木は持余した末全部政府に献納した、それは縄に紮げて献納したと云ふことだけのことしか分らぬ。其当時温故学会の顧問と云ふのは渋沢子爵・木村正辞博士《まさ@と》・井上頼国博士・芳賀矢一氏と私と五人でございましたが、考へて見ますと、五人の中三人は既に歿くなりました。渋沢子爵が益々御健全で今日も御出席下さつたと云ふことは、国家の為にも非常に大慶に存じまする。で其五人でございましたが、私は忠雄君と学問上個人的の関係があつた為に、学問に関することは特に私が相談にも与り、又指図も致したのであります。それで類従の版木の在処を探し出さうと云ふことは、忠雄君が非常に熱心でございましたが私もどうかして同志として忠雄君も喜ばせ、世人も喜ばせたいと思つて居りました。併し忠韶翁の話だけでは如何にも手掛りがない、所が其後私は文部省の国定教科書の審査員の一人となつて、前後十年程勤めて居りましたが、一週間に一遍乃至二遍文部省に行つて居りました其会議のあつたのは文部省の裏門内の建物であります。修文館と云ふ裏門内の建物、そこでやつて居りました。所が大正二年と記憶して居ります。暑い盛りに私が玄関に出ますと、偶然当時の図書局長の渡辺董之介君が出て来た。所が其建物の直ぐ前の草原の中に土蔵が一つある。其土蔵の側に私の車夫と江木千之君の車夫と谷森真男君の車夫と三人が寝転んで居つた。渡辺君が車夫が寝て居るのを見て危ぶないな
 - 第46巻 p.398 -ページ画像 
アと申しましたので、私がなぜ危ぶないかと聞きますと、あの倉は壊はれて居る、早くどうかしなければならぬ、あの倉の側で休むと云ふことは物騒であると云つた。あれは何が入つて居るかと云ふと、群書類従の版木が這入つて居ると申しました。私は非常に驚き非常に喜んだ。其群書類従の版木は数年来探して居るのだが、其版木は文部省の所有かと聞きましたら、実はあれは大学のものであつて、大学から預つて居る、倉が壊れて居るから取払はなければならぬ、早く版木を引取つて呉れと交渉するが、大学の方でも入れる所がないから其儘になつて居るとの事でした。それは宜いことを聞いたと云ふので、会議室へ引返して、芳賀君にあの裏門内の倉に群書類従の版木がある、大学の方では引取るに困つて居る、文部省の方でも倉を取払ふのに困ると云つて居る、果して大学のものかどうか、一つ君大学に行つたら浜尾総長に話をして呉れと云つた。それで芳賀君の聞かれた所に依ると、浜尾総長も一向知らぬ。文部省が群書類従の版木を受取つて呉れと云つて居るが、大学のものと云ふことも自分は知らぬと云ふことで要領を得ない。所が段々書付を調べて見た所が、それは内閣のもので、内閣から大学の方へ譲渡したと云ふことが分りました。そこで大学の方でも引取つて困るし、文部省の方でも預るのは困るとの事だから、それでは一つ我々に下げて貰ひたいと云ふことで、又芳賀君が浜尾さんに話した所が、やると云ふことは出来ぬけれども、君と井上と二人に預けやうと云ふことで、それでは預りませうと云ふことで、書付もありますが、両人に保管を嘱託すると云ふ書付を貰ひました。其話を忠雄君にした所が非常の喜びでありました。そこで塙君が色々金の工面をして、検校の墓のある四谷寺町の愛染院の内に倉を造つて、一先づ其倉に納めた。然るに震災後其倉が大分痛んだので、何とかしなければならぬと云ふので、此処に居られる内藤久寛さんや斎藤君などが非常に骨を折られて、此度永遠保存の途が立つた。さう云ふ偶然のことで群書類従の版木が見付かつたのでございますが、もう一つ申上げることは、塙家で類従の外に版刻致しましたものに元暦万葉と云ふのがございます。是は万葉集の写本の中で最も古いものの一つ、或は一番古いもので、元暦年間に写本を校合したので、正しく言へば元暦校本と申すものでございますが、是が二十巻の中十四巻が元伊勢射和村《いさは》の富山と云ふ家にあつた。又六巻が有栖川宮家にあつた。十四巻と六巻であるから二十巻になりますが、実は一つの巻が半分有栖川宮家にあり、半分富山にあるものなので、二十巻が全備して居りませぬ。其富山の手にあつた分は後に神戸の俵屋の手に移つた。それから桑名の松平侯の手に移つて、其手から水野越前守の老中時代に遂に水野家の手に這入りましたが、今は水野家の親戚に当る古河男爵の所有となつて居る。塙家で双鉤で写しましたのは宮家の方の六巻ではないので、神戸の俵屋にあつた十四巻を写したのであります。それを追々版にする積りであつた。巻一、巻二は版刻が出来て居ります。今は極く少ないが、震災前は古本屋で稀に見付けることが出来た。其版木も何処へ行つたか分らぬ。無論此の方は写しの本であるから強ひて要る訳でもないが、温故学会として検校の偉業を後世に伝へるには、是も何処に
 - 第46巻 p.399 -ページ画像 
あるか調べたいと思つて居つた。さて彼文部省の倉にある群書類従の版木は、大学の方では枚数が分つて居らぬので、塙君に自分から文部省に話をして置くから、行つて版木が何故あるか数へて見給へ、其中に腐つたのが幾枚、其儘使はれるのが幾枚あるかと云ふことも調べたまへと云つた。塙君は非常に骨を折つて始めて枚数を調べた。其中に群書類従でない外の版木が出て、大本の徒然草が此処にございまするが、其版木が見付かつた。所がそれ計りではない、元暦万葉の版木も見付かりました。もう一つ塙君が驚いたのは、今日世の中に出て居ると思ふのは元暦万葉の一と二である。それに版木の中に七の巻の版木がある。不思議でしやうがない。それで親父さんに聞いて見てもそんな訳はないと云はれる。そこで私の処へ来て七の巻の版木がありますが、どう云ふ訳でしようと云ふから、考へて見ると思出したことがある。七の巻も出来て世の中に出て居る、実はそれほど珍本と思つてゐなかつたが、私は七の巻を見たことがある、それは宮内省の御歌所の坂正臣翁が古本屋で買つて同僚の千葉胤明君にやつて、現に千葉君から見せて貰つたことがあると答へた。そこで塙君が更に、井上頼国翁に尋ねると、漸く思出して成程さう云ふことである、一と二とは早く版にして刷つたが、七はずつと遅れて維新のちよつと前に版刻を始めた、それは丹後の本荘といふ大名が版刻料を寄附したのであるが、維新のドサクサで寄附金が出なくなつてそれを中止した、全部出来ない訳であるから刷出した事は絶対にないとの事であつたが、現に千葉君が持つて居る。さうすると千葉君の本は天下一本であると云ふことになつた。そこでそれを千葉君から借りまして、塙君に渡して版木と対照して見ると、版木が二枚足りない。後は揃つて居る。さて其七の巻と云ふものは張数の順序が飛び飛びになつて居る。更に此事を井上頼国翁に糺すと、それは数人の彫工をして彫刻せしめたので、或ものは一張から始め、或ものは十張からやつたが、中途で止めたから張数が揃つてゐないと云ふ事であつた。此元暦万葉は学問上強ひて必要であると云ふ訳ではないが、兎に角書物好きの人は欲しがるであらうと思ひますから、一・二巻は勿論、七の巻も数十部新たに刷らせた。表紙も成るべく以前の刷本のやうに丹表紙にしたいと思つたが、今は丹表紙が出来ぬと云ふのを、漸く浅草辺で之を造るものを見付けた。さて七の巻の中版木のない処は千葉君の本から写真版に致しまして、其写真版にした張は界《けい》を見れば分る。界の一箇所欠けて居るのは版木に依つたもの、界の完全なのは写真版にした張である。千葉君の本は版の出来た時に刷つたのであるから界が欠けてない、嘘は申しませぬが、記憶の間違ひで多少話が違つて居るかも知れませぬが、今は何処が違つて居るとも思ひませぬから、多分是が本当であらうと思ひます。

      挨拶
                 貴族院議員 内藤久寛氏
 私は報告旁々一言申上げます。本日は宮内大臣及び文部大臣両閣下を始め、朝野諸賢の御来臨を辱ふしまして、感謝致しますと同時に共に祝意を表します。私が温故学会に関係致しましたのは、玆に御写真
 - 第46巻 p.400 -ページ画像 
にありまする検校の曾孫、忠雄氏と知合になりまして、忠雄氏は本会の創立者にして、唯今井上博士の御述べになりました群書類従其他の版木の保管並に検校の遺業をどうか紹述して行きたいと云ふことを熱心に考へて居られまして、私は屡々此ことに付心配されたことを承知して居ります。然るに計らず病を得て大正十二年十二月物故せられました。其危篤に際したる時親しく病床に見舞ひたるに、本会の事業に付懇切に頼まれました。其後私も維持会員に加はり、渋沢子爵其他の諸君の驥尾に附しまして、宮内省に御願ひ致しまする、或は有志諸君に御願ひすること等の御手伝ひを致した次第でございます。宮内省からは御下賜金又は御料地拝借等の恩典に預りまして、深く感激して居る者でございます。又此際に寄附を下さいました諸君に対して、厚く御礼を申上げたいのであります。又先程開会の時分に挨拶せられました本会の理事斎藤茂三郎君は、忠雄氏の後を継がれてありますが、忠雄氏から後事を托されました方でございます。此度の建築を始め本会の事務に至りましては、所謂名誉職として非常に尽瘁して呉れられまして、尚ほ今後も此会の為に細大となく尽力されることになつて居ります。是は感佩に堪へない所でありまして、此際に深甚の謝意を表しまする。又建築に関しては清水組に於て特別尽力致し呉れられまして其主任者は福島政吉氏であるが、清水釘吉氏の如きも親しく来て指揮せられた位で、其厚意を有難く存じます。而して此会を維持して参りまする為に、維持資金を募集する必要がありまして、有志諸君の御力を借りなければならぬと考へますが、予め此機会に於て御願ひをして置きます。扨て此温故学会は啻に群書類従の版木を保管すると云ふことに止まる訳ではない。御手許に差上げました事業の概要にも書いてあります通り、此会の目的は群書類従は固よりのこと、此群書類従中の一部或は検校の遺著中の有益なる書籍を選びまして、それを刊行致しまして、学界に寄与する処ある様に致したいと云ふのであります。第二には講義会を開きまして、尊皇愛国の大義に基き国文学を講明して参ります。第三に歌道を奨励致しまして、歌の会を追々開くやうに致し、其道の大家からも御尽力を願ひたい積りであります。是等は唯内部の此講堂に於てするのみでなくして、願はくば広く日本全国に及ぶ程の大きな規模に至るやうにしたいと考へて居ります。どうぞ皆さんの御協力を得まして、之を以て一廉の国家に貢献致しますることが出来ますれば、我々の本懐とする所でございます。惟ふに、偉大なる塙検校の遺業を紹述すると云ふことの為には、此建物の如きは実は非常に貧弱のものであつて、甚だ恥かしいやうな憾があります。併ながら此百年以前の偉人の為に、現代に於ける偉人、又而も県を同じうした所の埼玉県出身の渋沢子爵からして此事業が行はれることになりまして、渋沢子爵の企画に依て是が緒に付いた訳であります。此ことは頗る興味ある事柄と考へられます。又此建築の出来上りましたことの意義を深からしむるものと存じます。どうぞ塙検校並に其御子孫の在天の英霊が幸に満足して下されば、我々の大いに喜ぶ所であります。尚ほ将来も皆様方の御力を御借り申すことが多々ある訳であらうと思ひまするが、何分宜しく御願ひを致します。私は蕪辞を述べまして御
 - 第46巻 p.401 -ページ画像 
挨拶申上げます。



〔参考〕温故学会書類(一)(DK460113k-0007)
第46巻 p.401 ページ画像

温故学会書類(一)              (渋沢子爵家所蔵)
(葉書)
東京市丸ノ内仲通二十八号地 仲二十八号館 子爵渋沢栄一殿 (別筆朱書) 上田博士推薦ノ件
拝啓 維持会員芳賀博士御逝去候により後任として国学院大学長文学博士上田万年氏を御推薦申上度存候間、御思召の程承り度、此段御照会申上候 頓首
  昭和弐年四月七日
                 社団法人温故学会
                     理事 斎藤茂三郎
                         東京市四ツ谷区寺町二十二番地



〔参考〕温故学会書類(一)(DK460113k-0008)
第46巻 p.401 ページ画像

温故学会書類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益々御清勝奉賀候、然ば社団法人温故学会は撿挍塙保己一先生の遺業を継承し之を江湖に宣布し、以て国家に貢献せんとする団体にして、老生も予てより多少の助力を致居候処、昨年畏くも御下賜金の恩典に浴し、随つて有志諸賢の御賛同に依り、昨年渋谷町御料地内に会館を設立し以て永遠の基礎を定め、先生が四十年間の苦心にて完成せる群書類従版木一万七千余枚を安全に保管することを得候、学会の為御同慶の儀に御座候
尚本会は右国宝とも称すべき版木を以て刷立・製本して同好の士に頒ち、其他撿挍先生伝記(二種)を新に編纂して弘く小中学校に頒布し此の堅忍不抜なる偉人の面影に接せしめ、徳育資料たらしめたき存念に御座候、就ては理事斎藤茂三郎氏拝趨仕候間、御引見の上何分の御尽力なし下度《(被脱)》、御依頼まで如斯に御座候
                      渋沢栄一
    東京府知事 平塚広義殿
    東京市長 市来乙彦殿
   ○右ハ昭和三年八月中ニ発信ト推定サレル栄一書翰ノ控ニシテ、之ト同文ノモノニテ東京市長苑ノ控ヲ当学会ニモ保存ス。