デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.406-424(DK460115k) ページ画像

明治45年4月11日(1912年)

是ヨリ先、明治四十四年夏以来、栄一、成瀬仁蔵・森村市左衛門等ト思想界統一ノタメノ一会ヲ創設センコトヲ謀リ、是日、飛鳥山邸ニ井上哲次郎・中島力造・成瀬仁蔵・浮田和民・姉崎正治・上田敏、及ビシドニー・エル・ギューリック等ヲ招待シテ、ソノ創立準備会ヲ開ク。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四五年(DK460115k-0001)
第46巻 p.406 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
三月二十三日 晴 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス○中略成瀬仁蔵氏来リ、来月十五日ニ思想界ニ関スル学者連ノ会同ヲ開催スルニ付テ順序ヲ談ス○下略


帰一協会記事 一(DK460115k-0002)
第46巻 p.406 ページ画像

帰一協会記事 一            (竹園賢了氏所蔵)
拝啓、益々御清適欣慰の至ニ候、然ハ先般来日本女子大学校長成瀬仁蔵氏より御協議申上候現代思潮界改善之方法ニ付てハ、老生輩専門外の者ニハ別而良案も無之候得共、亦以而忽諸ニ付すべからさる要件と存候間、此際賢台始諸大家之御会同を請ふて、充分御講究相成候様仕り度、殊ニ成瀬氏ニハ女子大学校の要務を以て本年七月頃発途、欧米旅行致候筈ニも有之、其の前篤と御打合せも相願度との事ニ付き、其の第一会として来る十一日午後二時王子飛鳥山弊荘に於て開会仕候間何卒御繰合せ御賁臨被下度、但し右御談話相済み候後ニ於て粗末之晩餐も用意仕候ニ付き、其思召ニて御光来可被下候、右御案内申上度如斯御座候 敬具
  三月四日○明治四五年          渋沢栄一


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK460115k-0003)
第46巻 p.406-407 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
四月十一日 晴 軽寒
○上略 三時王子ニ帰宅シ、此日催ス処ノ博士会ニ出席ス、井上・浮田・姉崎・上田・成瀬・米人ギユルキーノ六氏来会ス、思想界ノ改善ニ関シテ種々ノ討論ヲ為ス、先ツ愛蓮堂ニ於テ談話シ、休憩中庭園ヲ散歩シ枯松ヲ祭ル文ヲ一覧シ、再ヒ新書斎ニ於テ談話ヲ継続シ、六時半夜飧、夜十時散会ス○下略
   ○中略。
四月二十九日 晴 暖
午前六時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後○中略成瀬仁蔵氏来リ、宗教統一ノ事ニ付テ種々ノ協議ヲ為ス○下略
   ○中略。
五月九日 雨 寒
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、成瀬仁蔵氏来リテ、過日会合ノ
 - 第46巻 p.407 -ページ画像 
際ニ協議セシ意見書ノ原稿ヲ示サル○下略


帰一協会会報 第壱・第一―五頁大正二年二月 現代思想界講究に関する集会(DK460115k-0004)
第46巻 p.407-408 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

帰一協会会報 第壱・第六―一四頁大正二年二月 現代思想界講究に関する集会(DK460115k-0005)
第46巻 p.409-412 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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雨夜譚会談話筆記 下・第五五一―五五二頁昭和二年一一月―五年七月(DK460115k-0006)
第46巻 p.412 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第五五一―五五二頁昭和二年一一月―五年七月
                    (渋沢子爵家所蔵)
  第十九回 昭和三年一月十七日 於丸ノ内事務所
    一、帰一協会の成立に就て
先生「帰一協会に就ては少し話し度い事があるが、時間がないから此次にしやう。簡単に云つて見ると、成瀬仁蔵氏と森村市左衛門氏とが主となつて協会の組織を主張した。特に成瀬氏は新宗教をつくり度い考で、孔子教と云ふ名称までも云ひ出した程であつたが、宗教を組織する事は仲々の事で、到底我々の仕事でない。そこで西洋のコンコーデイアをとつて来て帰一協会を組織した。併し実際やつて見ると是亦容易な事ではない。私は一々会に出て研究する事も出来ず、それかと云つて一旦作つた会を止める訳にも行かず、時々会に出て話をする位に過ぎない。之れは誠に首尾不徹底な事で、人から非難を受けても致方ない次第である」
   ○此回ノ出席者ハ栄一・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


雨夜譚会談話筆記 下・第五五四―五六三頁昭和二年一一月―五年七月(DK460115k-0007)
第46巻 p.412-414 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第五五四―五六三頁昭和二年一一月―五年七月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十回 昭和三年一月廿四日 於丸の丸事務所
    一、帰一協会の成立に就て(前回の続き)
先生「恰度今日の午後四時から帰一協会に行つて、協会の成立に就ての私の感想を話そうと思つてゐる。併し会の成立に就ては、はつきりした記憶がないから詳しい説明は難かしい。唯々此会が偶然に出来たものでないと云ふ事は云へる。主として森村市左衛門氏と女子大学の成瀬仁蔵氏とが力を入れて、会を作る様になつたものである私は森村氏とは多少趣味を異にしたけれども、同じく銀行業者として、精神界に尽して見度いとの考が一致して居り、女子大学の発達に意向を共にしたと云ふ深い関係がある。森村氏は私を良く理解して、渋沢は単に世間に褒められやうとか、時世になづむ人でないと信頼して呉れて居たし、私も此人はしつかりした信念を持つた人であると思つて居た。けれども私が初めて知り合つた時は、未だ深い基督教信者ではなかつた。其後帰一協会の成立の時も、未だ確乎たる宗教的信念はなかつたやうである。私自身は初めから宗教に頼らず、孔子の教を以て是れなれば足ると堅く信じて居た。小にしては
 - 第46巻 p.413 -ページ画像 
一身・一家を斉へる事が出来るし、大にしては一村・一郷・一国をも是によつて治められる。中庸の序に『之を放つときは則ち六合に弥《ミ》ち之を巻くときは則ち退いて密に蔵《カク》る』とあるが、全く其通りである。森村氏は私と違つて儒教主義に拠らず、初め仏教にしようか基督に頼らうかと迷つて居た。そして私の説を聞いて『貴方の説は尤であるが、単に人道は斯うだと云つたのみでは頼りない。アーメンとか南無妙法蓮華経とかを唱へて初めて信仰が堅まる』と云つた併し私は太鼓を叩いてお題目を唱へる気持にはどうしてもなれない申さば志士仁人はそんな盲目的に唯々信ずると云ふことは出来ないのである。帰一協会組織の時は成瀬氏等は新宗教を創り度いと偉い主張をなした。何でも仁義忠孝では宗教的に一切を抱含したものでないと云ふのであつた。是れに対して大内青巒氏がひどく反対して『そんな突飛な事が出来るものでない。日蓮宗を起すにした所で日蓮上人の苦辛はなみ大抵のものではなかつた』と嘲弄的に反駁した併し成瀬氏の云ふ所では『日蓮上人が日蓮宗を作つたに就て、其苦辛のなみなみでなかつた事は認める。けれども上人は大して学問があつたとは思へぬ。此上人にして然りであるから、我々でもやつてやれない事はない』との事であつた。私は『精神的の事を事業と引離して論ずる時は誠に漠然たるものになる。宗教も政治界なり実業界に応用してこそ活きて来る。経済的観念のない宗教信者の働は頗るまだるつこい。又経済に従事する者がそれのみに傾けば、守る主義がなくなる。事業家が行住座臥、常に信仰する事は出来ないにしても、大体の教旨を作り、それに拠つて信念を持つ必要がある。それにしても耶蘇や仏教や神でも困るから、儒教主義を根本として一種の宗教を組織したら……』との意向を持ち、之れを主張したが、賛成者も少くなかつた。その前に穂積(註、陳重博士)と話をした時、穂積は『形式のみでは駄目である。それよりも人は智識を進めると、自ら利害得失が明になる。利害が明になれば善に移る事が出来る。唯々無我夢中に一種の宗教を信仰する事は盲目的に陥り、却つて人をあやまらしめるものである』と云つた。私も其時は尤もだと云ふ感もしたが、更に進んで考へると、智識が進んで利害得失が判つたからとて、必ずしも善に進んで悪が少くなるとは限らない。或ひは却つて道徳を排斥するに至る。古人も云つた様に、智は以て悪を飾るに足るのである。それで人はどうしても何かの主義を建て是れを守本尊としてやる事は必要である、と考へるに至つた。帰一協会の方針は即ち一身の拠るべき道を講ずる事であつた。経済に従事する人も、道徳家も、あらゆる人々が各方面から一に帰する、と云ふ意味から「帰一」と云ふ名を付けたのである。所が実際やつて見ると仲々容易な事でない。それで私は少くとも自分一身丈でも、身を持するに過ちたくないと云ふ考に縮んで仕舞つた。然らばとて一旦組織したものを止める訳には行かない次第である。幸に姉崎正治氏が種々世話をして、今では宗教的団体でもなく、学問的研究の会でもなく、単に一種の相談会として存在してゐる始末で、私も滅多に顔を出さない」
 - 第46巻 p.414 -ページ画像 
野口「子爵の只今のお話では、帰一協会の方針は経済からも、道徳からも一に帰する様な守本尊を得る事に在る様に伺ひましたが、私の聞いた処では、あらゆる宗教を研究して其一致点を求めて、一に帰すると云ふ意味だつた様に思つて居りますが」
先生「或ひはそうだつたかもしれぬ。各宗教を研究して、動かぬ所を攫む事が理想であつたかもしれない。それには学者の大いなる研究を要するし、充分の時間もなければならないが、そんな事は望まれない。成瀬氏がそんな事を云つたが、それは全然不可能であると思つて居つた。帰一協会を組織してからは、森村氏と私とが各々年に一千円づゝを寄附する事としてやつて来た」
増田「森村さんが亡くなりになる迄、子爵と森村さんが各々一千円づつをお出しになり、外の一般会員は会費として五十銭づゝを納め、集会の時の会費は其都度持寄りと云ふ事になつて居ります。只今では一千円づゝの寄附は致して居りません。それは以前の金が遣ひ切れずに残つて居るので御座います」
野口「大内さんが大変反対なさつたと云ふのは、色々な宗教を研究して、一に帰すると云ふ事の不可能であると云ふ点にあつたのでは御座いませんか」
先生「そうだつたでせう。私も其点は不可能だと思ひました。何でも大内氏は日蓮や親鸞の経歴から推して、成瀬氏の説に対して『そん事は盲想に過ぬ』と強く駁撃しました」
   ○此回ノ出席者ハ、栄一・野口弘毅・増田明六・渡辺得男・白石喜太郎・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年八月九日(DK460115k-0008)
第46巻 p.414-415 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年八月九日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    帰一協会(姉崎正治氏談)
明治四十四年夏成瀬仁蔵さんが発起して之れを渋沢子爵と先代の森村市左衛門男爵に話されたのか初りで、愈々帰一協会として世間へ発表したのは四十五年春でありました。其間井上哲次郎・中島力蔵《(中島力造)》・浮田和民・ギユーリツク及私の五名を加へて八人が屡々王子の子爵の御邸に会合して、協会の趣旨・目的を熱心に協議しました。或時は夜おそく迄懸りました。其他京都方面にも協会成立に就て相談した事もありましたけれども、此人々は一度も会合に出なかつたのです。現在の森村さん、阪谷芳郎男爵が加入されたのは其以後の事です。其前穂積陳重男爵に加入を薦めましたが、お這入にならず、其後になつて穂積重遠男爵が加入されました。渋沢子爵は創立後幹事として御尽力になりました。然し阪谷さん等が加入されてから幹事を引退されて顧問格として尽力されて今日に及んでゐます。
大正三年から同四年に亘つて、成瀬さんは子爵及先代森村男爵に計つて、帰一協会の別導隊として自助団の組織を計画しました。之れは帰一協会と趣旨を同じくするものであるが、実行的団体であります。然し此計画は実現せずに終りました。此計画に際して従来の会員以外に数多の人の会合を願つたのであります。鎌田栄吉さんも此時参会され
 - 第46巻 p.415 -ページ画像 
たと思ひます。私は丁度外国へ行つて不在でありましたから、此時の会合は知りません。要するに今の私の話は漠然として居りますから、尚ほ他日詳細に調べたものを書いて上げるか、又は私がもつと精確な話をしてそれを子爵のお眼に掛けるかしませう。


姉崎正治談話筆記(DK460115k-0009)
第46巻 p.415-416 ページ画像

姉崎正治談話筆記             (財団法人竜門社所蔵)
                   昭和十三年五月七日於小石川同氏宅 松平孝聴取
    帰一協会今昔談
 明治四十四年九月から飛鳥山邸に渋沢子爵・森村市左衛門・中島力造・浮田和民・井上哲次郎の諸氏、それに私が加はり、日本精神道徳論一般に就き今後如何にすべきかと云ふ主題で種々討論をした。会を作ると云ふのは目的でなかつた。
帰一協会の帰一と云ふ語を合一と考へてる人が多いが、之は誤解である。子爵には大分其考があつて、自分が一つ中心を作つて実行しようとは子爵自身が思はれてなかつたが、色々ある宗教をどうしたら良いか、合一出来るのは結構と思ふか、どうだらう、又出来るかどうか、そして今迄の歴史にも、どんな偉い人が現れても合一しなかつたから合一するのは難しいだらう、と言はれて、之等に関する学者を集めて相談をしたのが、前に申した討論である。
森村翁の言分は、何とかして宗教を合一したい。或時には、汽車に乗るにも行先のはつきりした切符が無いと心細い、自分はその切符を早く手に入れたいと言はれてた。
成瀬さんは非常に信念の強い人で、宗教合一とは考へないが、他の人と違つて宗教にも道徳にも色々ある、之等は時代と共に移り変つて各各に特徴がある。然しその根本は一つである。
以上の三人は此の相談の主体であつたが、各々少しづつ考が違つて居たが、相談討論の上結着した。
処が私の主張は、世の中に色々銀行があるが、中には無用のもあるし確実のがいくらもある。でも之等を皆一つに纏めて中央銀行みたいなものをつくる必要はない。各銀行が喧嘩をするのは困る。世界の各宗教が各店をはつて対抗してるのに意味がある。銀行には精算所があつて連絡を計つてるが、宗教の間にもかういふものが欲しい。此の精算所が少しは指導を与へると云ふことも考へられる。各意見の持寄場として、無益の摩擦衝突がないやうにし、仲を良くし、互に理解し、特色は特色として連絡したら良いと思ふ。之が他のものを指導することが出来れば之に越した事はない。他の人も之に大体賛成し、子爵も之を解し、子爵の実行的精神を加味した精算所をつくることにし、私が王陽明の句の中に見ゆる「万徳帰一」と云ふのを取つて名称を帰一協会とし、案を練つた。
之に対し穂積さんは不賛成だつた。出来ない相談だと云ふのである。阪谷さんは結構と云はれた。何か一つ主趣を作つて指導の言泉を与へたいと言つてられた。
明治四十五年六月、上野精養軒で組織相談会で役員を出す時に、各宗本山の役員は具合が悪いから、思想界に関心持つ人で、各界のリーダ
 - 第46巻 p.416 -ページ画像 
ーを役員として挙げられた。会の席上子爵が今迄の経緯を説明し、此時も大内青巒さんが「宗教統一は昔からいつも出た問題だが、之は旨く出来れば帰一宗と云ふのが出来て了ふ。さうなると本来の意志に反する」等と言はれ反対した。其他にも反対した人があつて入会されなかつたが大部分は入会した。
会員を入れる時は、此会の目的をよく説明してからでないと入れなかつた。根本は思想・道徳の問題であつて、広い意味の社会問題と云ふ事を考へても欲しいと云ふことである。
成瀬さんは海外旅行して国と国との和合をしようと同志を求めた。これに似た会がアメリカ合衆国に出来たが、間もなく解散してしまつた平和問題ではないが、国際問題と国際関係を解決しようとした。後には国際問題は国際聯盟協会で取扱つた。此の協会も子爵の御尽力で出来たのであるが、吾々巴里へ行つた者、添田・海老名・秋月と私が会合し相談し、秋月さんが先に帰国して国際聯盟の事を説明し、もつと手広くやらなければならんと云ふので、協会が生れた訳である。だから此協会と帰一協会とは考が一致してる所がある。
其後も帰一協会は連絡を主として来た。
子爵が失望されたと云ふことは確です。だが或人が不帰一と云ふことに帰一したと云つた時には、子爵が少し困られたやうな口調であつた其後世界各国と連絡用のレターペーパーを造り、それに標語として大正三年春から左のやうなのを用ひた。
Concord and Cooperation between Classes, Nations, Races, and Religions
此頃は会として一番成熟してた。
其中に会の中が旨くゆかなくなつた。協力の度が変つたのである。それは、会員の年齢も原因してる。その中に子爵も私も余り会に出ることが出来なくなり、又似た会も出来て今は軽い意味の精算所である。つまり分家が沢山出来て、主家は隠居所と云ふやうな形になつた。若い会員が入らないので後継者がなくなつたが、分家が殖えて活躍してるからやゝ目的を達したとも云へます。


竜門雑誌 第六三七号・第一―六頁昭和一六年一〇月【青淵遺芳 渋沢子爵追憶談 井上哲次郎】(DK460115k-0010)
第46巻 p.416-419 ページ画像

竜門雑誌 第六三七号・第一―六頁昭和一六年一〇月
  青淵遺芳 渋沢子爵追憶談
                     井上哲次郎
      一、帰一協会に関する追憶
 自分と渋沢子爵との関係は帰一協会ばかりでなく、儒教のことに関しても他人の知らない事があるので、帰一協会と儒教と両方より申しあげる。
 帰一協会に付いては当時の印刷物があるであらうから、それを見れば当時の事情は分る。印刷になつて居ないこと、即ちその背景となつて居ることを説明することが必要である。
 宗教界の状況より云ふと、キリスト教は明治時代の中葉にいたつてだんだん勢力を得て社会の注意を引くやうになつたが、必ずしも悪い
 - 第46巻 p.417 -ページ画像 
ことばかりでなく、救済・感化等に対して良い方面を持ち、当時の悪風俗等に対して良い影響を相当に与へた。しかし、国体に対しては不穏の言論行動もあつて、多くの外国の宣教師がはいつて来て、我が国の精神界に治外法権の如きものを作つて、国体と矛盾するような言論行動がしばしばあつた。そこからして、明治廿五年・六年の教育と宗教の衝突事件等もあつた。その結果キリスト教徒の大部分は日本化するように余程態度をあらためたことは蔽ふべからざる事実であつた。明治末葉になると、基督教・仏教・儒教・教育家等の融合調和を計るようになつて、屡々会合がこゝろみられた。始めは随分困難を感じたが、だんだんよくなつて来た。
 そんなような社会情勢の結果、帰一協会の計画も生じてきた次第である。これについて、実業家としての渋沢子爵の立場と、教育者としての成瀬仁蔵氏の立場と、学者としての自分の立場とを簡単に述べることは必要のようである。渋沢子爵は日本とアメリカの間の国際的融合に余程尽瘁されたようである。渋沢子爵は日本と支那の間の融合調和も計られたが、それはしばらく措いて、日本とアメリカの間に何等不祥のことの生じないように、よほど和親の空気の発生に努力されたことは周知の事実である。それで、融和の為めには、日本がキリスト教を排斥するやうなことでは、どうもうまく行かぬことが多い。そして、日本に輸入されて居るキリスト教の多くは米国系のものであつた元来渋沢子爵はキリスト教の信者ではなかつたが、家族のものには牧師をしてキリスト教を説かしめた。けれども家族の人々もキリスト教を信じなかつたと云ふ話であつた。またバイブルの話をすると却つて笑ひ出すと云ふやうなことを云つて居られた。しかしキリスト教には別段反対ではなかつた。なかなか度量の広い所があつた。
 そして、帰一協会の起るに深かい関係のあつたのは成瀬仁蔵と云ふ人である。あの人は新潟県の出身の人で、キリスト教信者であつた。誰も知つて居るやうに大分渋沢子爵とは親交のあつたやうであり、渋沢子爵とは最後まで関係のあつたやうに思ふ。成瀬仁蔵氏は屡々自分の家にも来たこともあつたし、帰一協会の事に関して自分もその相談にあづかつたのであるが、成瀬氏に依れば、日本女子大学を建設して見たところ、生徒の種類を考へて見ると、仏教の家庭から来て居る生徒もあり、キリスト教の家庭から来て居る者もあり、其他神道の家の者もあり、無宗教の家の者もあり、いろいろである。それで、キリスト主義で生徒を教へれば範囲が狭くなつて、それではとても実地にやつて行けぬ事を痛切に感じた。つまり如何なる生徒に対しても効果のある宗教教育を施さなければ立ち行かぬと云ふことが、はつきり分かつて来たのであつた。
 そこで、自分の学者としての立場をこゝに一言することが必要である。自分はキリスト教が国体に反するやうなことをしたり、言ふたりしたのは良くないと考へて攻撃して来たが、キリスト教の総てが悪いとは云はない。殊にその道徳の教にはなかなかよいこともある。それで、総ての宗教は人間の本性の要求より起こつたのであるが、それがいろいろ違つて来たのは、その発生した境遇事情なぞの違に基くもの
 - 第46巻 p.418 -ページ画像 
である。既成の宗教はそれぞれの特色がある。良いところもあれば、悪いところもある。是れは独りキリスト教ばかりでない。完全なる宗教は将来に於て実現さるべきである。是れを理想的宗教と名づけ、又簡単に理想教と云つた。
 大体斯う云ふのである。それが成瀬氏の要求するところと一致したのであるから、どうしても井上の云ふやうな趣旨で行かなくてはならぬと考へた。
 既成宗教ではいけない、それで成瀬氏は渋沢子爵と日本女子大の関係からして、宗教の問題に就いても能く話し合つたと見える。渋沢子爵は実業界の巨頭であり、いろいろさう云ふ方面に関係があるが、また精神界の問題にも興味を持つて居られた。それでいろいろな学界の人やら、教育会の人と会合して、宗教の帰一をはかりたいと考へて居られたやうに思ふ。
 それで一番始め、飛鳥山邸に集つた人々の名前は記録にあるであらうが、先づ渋沢子爵、それから成瀬仁蔵氏、自分も出席した一人であるが、その他に柿崎正治博士・中島力造博士、早稲田大学よりは浮田和民博士、さう云ふ人達が愛蓮堂の中で話し合つたのが帰一協会の第一回の会合であつて、愈々帰一協会を立てゝ思想の交換をして活動する方針であつた。
 第一回の時は開会の辞の後に自分が宗教の帰一に付いて相当詳しく述べたところ、誰からも異論は出なかつた。渋沢子爵は会を開いたら其中、新しい宗教が生れるかも知れないと云つた。帰一協会の会員はだんだん増加したが、同志社大学の教師をして居たシドニー・ギユーリツクと云ふ人も入つて来た。この人は毎会大分意見を述べたが、或時面白い問題が起つた。その一つはギユーリツク氏の持ち出した問題で、誰にも興味があるであらうから、こゝに再説すれば、妻が大切か母が大切かと云ふ問題が起つた時に、ギユーリツク氏は米国人の立場として、こんなことを云つた。大切なのは妻だ、母は女としての役目は済んだのだが、妻の方は是れから子女を産み、又それを育てるのであるから妻の方が大切である。妻は将来に関係があるからと云つた。子女を産まなくなつた老妻あることを考へなかつたやうである。その時自分は、東洋思想の立場から妻はとりかへる事が出来るが、母はたつた一人外ない。世界に於ける唯一の尊い女性である。是ればかりは取換へることは出来ないと云つた。さう云ふ女性に関する思ひがけない問題も米人が居た為に起つた。
 帰一協会の会合は会数を累ぬるにしたがつて参考になることも少なくなかつたが、いろいろな人がいろいろな意見をかはるがはるに述べるのみで、宗教は寧ろ不帰一の傾向になつて来たので、宗教的信念より云へば、予期した所より寧ろ横にそれて行つた感がある。初一念の真精神を失つて末梢的となつたことは確かである。
 併し、渋沢子爵が宗教帰一を問題にして居たところは、他の実業家の出来ることではなかつたのである。
 今日では当時と時世が大分変つて、日本精神の勃興を来たし、仏教もキリスト教も回教もみな日本精神の下に統一されなくてはならない
 - 第46巻 p.419 -ページ画像 
帰一と云へば総べて日本精神に帰一しなければ、精神界の新体制は出来ないであらうと思はれる。要するに帰一協会の発生した時代と今日とは、余程時世境遇が異つて来たように思ふ。併し宗教の帰一と云ふことは益々必要となつて来て居る。
 これは今思ひ出したことであるが、自分が曾て成瀬校長の要求により、日本女子大学で生徒に対して可なり詳しく宗教の事に就いて演説した時に、大隈侯と渋沢子爵と成瀬氏は最後まで熱心に聴いて居られた。蓋し大隈侯だの渋沢子爵だの成瀬仁蔵氏だの予ねて宗教の事に就いて肝胆を摧いて居られたからであらうと思ふ。
                  (昭和一六、一〇、九)
      二、儒教に関する追憶○略ス
      三、子爵の人格に対する追憶○略ス
      附記
  井上先生は文学博士東京帝国大学名誉教授です。このたび青淵先生伝記資料編纂所より帰一協会のことに関してお問合を致したところ、話し度いことがあるから来邸せよとのお電話に接し、数回訪問の末に出来あがつたのがこの談話です。この談話は井上先生のお話しを小生が聴取筆記いたしたのですが、先生は草稿の殆んどの頁に朱筆の入つて居ない所のないぐらい入念に筆を入れてくださいまして、これは私(井上先生)の談話として発表しても宜しいとのお許しを得てこゝに掲載した次第です。先生は御高齢にもかゝはらず御熱心で御元気で、小生の誤字や誤聞等を丁寧に訂正してくださいました。伏してお礼申しあげたいと思ひます。
  帰一協会は、編纂所に於て目下編纂中の「青淵先生伝記資料」の「第三編第一部社会公共事業第六章学術及其他の文化事業」の中にあつて、青淵先生の尽力せられたものゝ重要な一つです。帰一協会の資料は原稿千枚を遥かに超えるやうな大部なもので、単に青淵先生の尽力された事実は知り得るところであるにしても、その時代的な意義と云ふやうなところまでは到底小生の知識の及ぶところでありませんでした。しかし、この井上先生の談話には帰一協会が時代を背景に如何なる役割を果したかを鮮かに浮彫してありまして、誠に得難いものを得たる感があります。なほ儒教と青淵先生及び青淵先生の人格に関する井上先生の御高見も右に同様の感たるを失ひません。(松浦記)



〔参考〕青淵百話 渋沢栄一著 第四九―五九頁大正二年八月三版刊(DK460115k-0011)
第46巻 p.419-423 ページ画像

青淵百話 渋沢栄一著 第四九―五九頁大正二年八月三版刊
    七、統一的大宗教
余が安心立命 余が自ら安心立命とする所は、孔子教即ち仁義道徳を分に応じて踏み占めてゆくことである。これ実に余が守本尊であるが、運とか命とかいふ如き、人の智力以外に、応報が来るといふことは疑問である。例へば智の勝れた働きの十分なる人でも、それに応ずるだけの報酬なき場合もある。又それに反して智も働きも劣つて居る人でも存外に立身出世をすることもある。斯かる場合は其の人の運と不運とに因るもので、之を天命と見なければならないが、仁義忠孝の
 - 第46巻 p.420 -ページ画像 
心を以て道理に背くことが無ければ、此の天運を全く度外視し心を動かさずに世に処するといふことが余の安心立命である。故に此処に立脚地を置いてよりは、別に他に向うて宗教的信仰心も起らず、全然孔子教に安心立命を得て今日に至つたのである。
 世に所謂信仰も其の極端なるものになると、動もすれば迷信に陥りて、或は奇蹟を唱へ或は淫祠を祀るやうになるは一般世俗の風習である。而して余は年来斯の如き愚昧の仕方を直し度いと思ふが、因襲の久しき、容易に之を矯正することは出来ない。科学思想の発達した文明の今日すら、尚断食する者もあれば、厳寒に水垢離を取る者も沢山にある。併し一面から見れば、之も信仰の一種であるから悪くないかも知れぬが、道理を踏み外して極端に走つたり、其の弊習が延いて社会を誤る様なことが有つては困る。特に弊害の多く兆する所は迷信を利用して愚夫愚婦を欺く妖僧悪修験者の徘徊することである。此等の陋習を見るにつけても、余は迷信ほど嫌ふべく憎むべきものはないと思ひ、一途に怪力乱神を語らざる孔子教を守るべきものとして、今日まで経過して来たのである。
 独逸人と語りて開発する所あり それと共に余は一般に宗教といふものに対して疑念を挟み、今日の如き宗教にて真の信仰を繋ぐに足るものであるか、君子賢人もこれに依つて安心立命を得らるゝか。例へば現在の儒教、仏教、耶蘇教等あらゆる宗教の長所を折衷綜合したる、統一的の一大宗教は出来ぬものであらうかと、心に希望して久しい間これを考へて居つた。併し乍ら如何にして各宗派を統一してよいか、それ等の点に就いての成案が立つた訳ではなかつたが、幸に左様いふものが出現したとすれば、啻に愚夫愚婦の信仰を繋ぐに足るばかりではなく、賢人君子も等しく之を尊崇するに至るではあるまいかと折があれば哲学者や宗教家と談論したこともあつたが、未だ別に一個の意見として、世に発表するまでには至らなかつた。
 而して余が此の事柄を深く感ずるに至つた動機がある。それは今より二十余年前、独逸人某氏と談話した時に余は深く啓発されたので、其の折のことは今日に至るまで尚歴然として記憶に遺つて居る。独逸人は誰であつたか、今は名さへも忘れて仕舞つたが、何でも其の人が米国に遊学しての帰途、東洋をも歴遊して帰るとかで、日本へ来て余に会見を求められた。当時余は未だ深川福住町の家に住居して居た頃であつたが、此の会見を諾し、余の友人二・三と昼餐を共にしながら種々の談話を交換した。然るに某氏は別に哲学宗教を修めた人と謂ふではなく、米国では紙漉業の研究をして来たといふ工業家であるにも拘らず其の質問する所が変つて居たので、日本人なる余には珍しく感じて、同時に宗教問題に就いて啓発する所があつた。左に其の時の問答の一斑を述べて見よう。
 王政維新の容易に断行されし理由 某氏問ふ『自身は哲学者でも歴史家でもないが、一般の事柄に渉つて読書したから世の中の道理だけは解る積りである。而して日本に就いては余り深くを知らぬけれども、長い歴史を持ち、又幾多の変化を経来つた国柄であるといふことは承知して居る。けれども維新以後政治を欧米諸国に傚つて、商工業
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もそれと共に発達しつゝある有様が、俄に海外諸国と交際を始めた国としては、開明の度が非常に敏速であるやうに見受ける。余は東京へ来て各種の人々に会見して見たが、それ等の人々は皆生生して居て楽んで事を執る様子であるのは、誠に末頼母しい国であると思ふ。併し乍ら玆に一つの疑問といふのは、自国の聯邦に就き或は欧洲諸国の歴史に徴して想像するに、日本は維新の改革期に於て何故斯く短い騒擾で平和となり、其の後差したる争乱もなく文明に進んで来たか。実に不可思議である。此の原因は抑何であらうか。凡そ世界の通例は大革命の後に於ては、徐々に其の争乱が鎮定して、秩序も回復するものであるが、日本はこれと全く其の軌を一にせず、維新後一回の戦争(西南役を指していふ)はあつたと聞いたが、それも忽ち戡定して世は太平となり、人心は一に帰向し、殆ど争乱の後を継いだ様な感もなく、国富み兵足り、人文の盛んになつたのは何が故か。これ余が聞かんと欲する疑問の第一である』との質問であつた。
 余答へて曰ふ『維新後禍乱の少かつたのは国体の然らしむる所で、これは他国と比すべからざる点であらう。由来我国は天子を尊崇すること殆ど人間以上で、長い歴史は総て天子を中心として居るのである又国民は其の子孫であるから、天子に対しては国民の全部が何物をも犠牲とするの観念を有つて居る。維新前武家が政治を執つたのは凡そ七百年間であつたが、其の以前より藤原氏が跋扈して実際の政権は臣下に移り、権勢を自家に擅にするよりして世に変乱を起すやうになり之を平ぐるには武力を要するので、其の要求に応じて起つたものが即ち武家である。此の武家は当時藤原氏の政策にて之を二派に分ち源氏平氏と称へたのであるが、源氏が跋扈すれば平氏をして討たしめ、平氏が跳梁すれば源氏に命じて平げさせるといふやうに、藤原氏は此の武臣を使ふて互に相篏制せしめた。
 斯かる間に権勢は次第に武家に移りゆき、遂に藤原氏は平家の跋扈を制する能はず一度は権勢平家に移つたが、次いで源氏が興つて平家を亡し、自ら覇府を開いて天下に政を施いた。武家政治の起因は実に此処にあると謂つてよい。併し乍ら斯かる間にも天子を尊崇することは渝らなかつた。其の後斯の如き現象が永続し、甲が起れば乙が之を亡して代り、乙が代れば更に丙が之を倒すといふ様に、武家の間に政権が転化し来り、徳川氏に至りて遂に三百年の治世を保つた。而して維新の変革は此の武家政治を覆して天子の制度の古へに復らしめた迄で、謂はゞ逆を順にかへしたに過ぎぬ訳である。此の国体を知らぬ局外者から見る時は、恰も天子の政権を武家の為に犯された如くに見えるけれども、一般国民が天子を尊崇する観念には些の変化もなく、且つ永い武家政治に嫌厭の情を起し、殊更外国関係が生じて、一国に二個の主権者あるが如きは事態が許さぬことになつたから、王政維新は其の気運の向ふ所に従つて決行したもので、それに伴ふ所の争乱の早く消滅したのも寧ろ当然と謂はねばならぬ。要するに国体が之を然らしめたのである』と語つた。
 人心を維持する教 某氏更に問うて曰く『維新の事実は貴説に依つて明瞭に知ることを得たが、然らば日本国民が協心一致天子に奉ず
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るの心を維持することは如何なる宗教心に因るか。政治上の気運として天子を尊崇することはあらうけれども、一般の人民が家庭にも社交にも常に忠君愛国を主とするは、何等か宗教的信仰に依らなければならぬ筈である。願くは之に対する解釈を聞き度い』と切り込んで来た
 余答へて曰く『それは天子尊崇の主義に起因するは勿論であるが、一般には神、儒、仏三教の感化が其の多きに居ると思ふ。余は其の道の学者でないから王朝時代の教育を詳細に説くことを得ぬのを遺憾とするが、徳川幕府時代に入りては孔子の学、即ち儒教なるものが盛んに日本に行はれ、武士は専ら之に拠つて身を立て、百姓町人も武士と交り得る程度の人と、同じく儒教を以て一身の指針とした。而して其の教ふる所は孝悌忠信とか、仁義道徳とかいふものであつた。けれども此の教は多く士太夫以上の者を教育するに止り広い社会を指導した所のものは寧ろ仏教であつた。併し仏教もそれ等の社会に行はれた所は極めて抽象的のもので、決して詳細に説いたのではない。例へば寺院へ参詣し、叩頭して頼めば幸福が来るといふ様に浅薄に教へたものだが、これが存外広く人を指導した様に見受けられる。又神教は日本の皇祖を尊奉する教だが、これも広く一般国民の頭脳に宿つた所であつた。而して更に此等の教を事実に示して人を教化誘導したものは、娯楽の方面の芝居、講談等であつた。それ等のものゝ作意には必ず勧善懲悪の意を加へ、神や仏が示現して悪人亡び善人栄ゆるの意を具体的に示したものであるが、教育の卑い人々には亦これが少からず感化力を持つて居たものである。要するに孔子の直なる教と神仏の指導的の教とに依りて人心を維持して来たものである』と語つた。
 宗教の衰頽は意とするに足らざるか 某氏三度問ふ『貴説に依りて日本に各種の階級に応じたる教育の仕方のあることは之を審かにするを得た。然れども更に疑問とする所は左ばかり人心を左右せる儒教は今日猶盛んに拡張せられつゝありや。神道仏教は政治上或は学者社会に攻究せられつゝありや。聞く所に由れば近時クリスト教も伝来して、日本の儒教界は錯雑して居るらしく、而して従前の教は今や衰運の兆があるとのことであるが、若し従来の教が衰頽して仕舞うても、日本人は何等痛痒を感ぜざるか。其の時に到らば、如何なるものをか必要とするであらうが、旧来の教に代るべき何物か他にこれありや。神、仏、儒の力が次第に減退するとせば、別に之に代るものを需めざれば将来の人心を繋ぐことが出来ないであらう。それ等に対する高説を請ふ』と押詰められた。
 然るに余は此の質問に対して明確なる答を与へるだけの考案を持つて居らなかつた。故に已むを得ず『此処に到ると宗教家、道徳家、哲学者などに請うて、其の最善最良の手段と方法とを攻究して貰ひ度いと思ふ。而して自分一人の理想としては神、仏、儒の別なく、それ等を統一した所の大宗教が出ればよいと希望して居る。言ふまでもなく宗教と謂はれる位のものなら、其の窮極の道理は一つであるから、此等を統一した宗教の出来ぬといふこともあるまい。よしそれ迄に至らずとも、道理は決して磨滅するものでないから、仮令、神、仏、儒の諸教が衰へたる如く見えても此の中孰れかゞ興りて人心を繋ぐやうに
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なるであらう』と答へたが、結局此の問には明解を与へることが出来なかつた。
 統一的宗教の出現を望む 余は此の時よりして各宗教を合同統一したる大宗教は起らぬであらうかと祈念して居たのである。固より学者でないゆゑこれに就いて人を感動させるだけの意見を述べることは出来ぬから、渋沢は空想論に耽るものであると人に非難されるかも知れないが、仮令余が唱導せぬ迄も何時かは此の説が社会に起りはせぬだらうか。平和論は政治上より行はれ、言語統一の説も学者社会に依りて考へらるゝの時代となつた。平和も其の極に達すれば互に国家を設けて相争うたりすることは無くなり、遂には全世界を打つて一団とせねばならぬ。又言語も人種の変れる如く異つて居るのは黄金世界ではない。何時かは彼の学者一輩に依つて研究されつゝあるエスペラントも、世界語となるの時代が来るかも知れぬ。斯の如く考ふれば、何時か宗教も一色となり、何人にも信仰を持ち得るの時代が来ぬとも言はれぬ。これは果して空想か、それとも実理か。斯く云ふ自分にすら論断することは出来ぬが、一の希望としては之は何処までも継続して考へて見度いと思ふ。
 此の事に関して余は頃日来二・三の友人と語り合うたが、それ等の人も余の説を大に是なりと為し、何とか工夫が有りさうなものだと話し合つて居た。併し乍ら未だ之に確然たる論断を下すことは出来ないが、余が将来の希望として、何時か此の空想に等しい事柄の現実にならんことを欲して已まぬ。其の暁に於て余も始めて宗教的信仰を持つことが出来るであらう。(明治四十五年二月十三日談)



〔参考〕AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA by KYUGORO OBATA. pp.296-300. Nov., 1937.(DK460115k-0012)
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AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA by KYUGORO OBATA PP. 296―300 Nov., 1937
       CHAPTER XIII
    IMPRESSIONS OF FOREIGN FRIENDS
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      SIDNEY L. GULICK
              January 2, 1936
              Ashland, Oregon
Dear Mr. Obata:
  Gladly do I respond to your request of December 5th for a statement of impressions of the late Viscount Eiichi Shibusawa.
  My first contact with the Viscount came about through the little group of forward-looking, idealistic patriots, of which he was a member, who were deeply concerned over the materialistic trend of the times. President Naruse of the Woman's University called upon me in Kyoto to describe a plan for the formation of an association of like-minded persons and to invite me as a missionary to become a member of the organizing group. He told me quite fully about Baron Shibu
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sawa as he then was and his anxiety on account of the rampant materialism and blatant atheism that were undermining the higher life of Japan. The Baron felt that although he was a Confucianist he would like to join with men of other faiths who would unite in seeking to promote a spiritual and idealistic interpretation of life.
  I was deeply interested in the plan and shortly thereafter was happy to receive and accept an invitation from the Baron to attend an organizing meeting. It was held in his villa in the suburbs of Tokyo in the Fall of 1911. At that first gathering there were perhaps a dozen persons present. I vividly remember the Baron acting as chairman as well as host. After a delicious though simple banquet in Japanese style――all seated on zabuton on the soft tatami, the Baron started the discussion by stating his own views of the situation. That statement confirmed what President Naruse had already told me. Each one of us then stated in turn his veiws.
  Among those present I now recall President Naruse, Professor M. Anesaki, Tetsujiro Inouye, and Wamin Ukita. Several broad-minded Buddhist and Shinto priests were also present whose names I no longer recall. Upshot of that evening's conference was the decision to form the Kiitsu Kyokai(Association Concordia). The Association met once in two or three months, always at the Baron's villa, he himself the genial and gracious host.
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           Ever cordially yours,
              (Signed) Sidney L. Gulick