デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.553-577(DK460135k) ページ画像

大正3年11月20日(1914年)

是年十月七日、当協会例会ニ於テ、前回ニ引続キ教育ト宗教的信念トノ関係ヲ主題トシテ菊池大麓講演シ、是日ノ例会ニ於テ、重ネテ同主題ノモト
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ニ、沢柳政太郎・嘉納治五郎講演ス。栄一、是等ニ開スル所感トシテ、教育ニ就イテノ所信ヲ述ブ。次イデ十二月十六日ノ例会二出席ス。


■資料

集会日時通知表 大正三年(DK460135k-0001)
第46巻 p.554 ページ画像

集会日時通知表 大正三年         (渋沢子爵家所蔵)
拾月七日 水 午後五時 帰一協会例会(上野精養軒)


帰一協会会報 第五号・第五三頁大正三年一二月 十月例会(DK460135k-0002)
第46巻 p.554 ページ画像

帰一協会会報 第五号・第五三頁大正三年一二月
    十月例会
 十月七日開会。六月例会以来の左記研究問題
  一、学校教育に於て宗教的信念を養ふの可否如何。
  二、若し可なりとせば其方法如何。
に就いて先づ菊池男爵の講演ありき。井上哲次郎氏・山田三良氏・高木壬太郎氏・浮田和民氏・添田寿一氏等の批評及討議ありき。出席者二十六名。


集会日時通知表 大正三年(DK460135k-0003)
第46巻 p.554 ページ画像

集会日時通知表 大正三年         (渋沢子爵家所蔵)
十一月二十日 金 午後四時 帰一協会(上野精養軒)
          午後四時帰一協会ニ出席サレ午後六時市講演会出席七時マテ講演ノ後再度帰一協会ニ出席セラルヽ筈ナリ


帰一協会会報 第五号・第五三頁大正三年一二月 十一月例会(DK460135k-0004)
第46巻 p.554 ページ画像

帰一協会会報 第五号・第五三頁大正三年一二月
    十一月例会
 十一月二十日開会。前月と同問題に関して沢柳政太郎氏及び嘉納治五郎氏の講演ありき。成瀬仁蔵氏・矢野恒太氏・片山国嘉氏・中島力造氏・秋月左都夫氏・本多日生氏等の意見続出し、談論甚だ盛なりき出席者二十七名。


帰一協会会報 第六号・第一五七―一六九頁大正四年一一月 教育と宗教的信念との関係 菊池大麓(DK460135k-0005)
第46巻 p.554-559 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第一五七―一六九頁大正四年一一月
    教育と宗教的信念との関係
                       菊池大麓
    (主題前同)
 此問題は最も重大なる実際問題であるからして、余は大なる期待を以て諸君の高説を承はつたのである。然るに諸君の議論は余りにアカデミツクであつて、どうも実地に触れて居ない様な恨みがある。
 学校教育とは、主として普通教育、即ち小学校及中学校教育の意味であると思ふ。而して、本多君は今日の教員なる者は実につまらぬ者で、到底倫理教育を任せる事が出来ぬと言はれたが、誠に今日の教員は諸君の言はれた様な、宗教的信念を生徒に授けることは不可能である、是れは必ずしも教員の罪ばかりでは無い。然も今日急に教員の改良を為すのは最必要であるけれ共、之れは容易に実行出来ない。従つて問題は、今日の教員を相手にして、学校内に諸君の説かれた様な、宗教的信念を入れる事の可否と云ふことである。さうすると、余の考
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では学校内に宗教的信念を入れる事は到底不可能であり、若し強ひて入れやうとすれば非常な弊害が起ると信ずる。
 今日英国教育界に於ては、宗教を離れて倫理教育を施す事が出来ず然も宗教といへば諸宗諸派の進入を防ぐ事が出来ないので困つて居る独逸の学校では、全然普通の学科と別に、僧侶が学校へ来て宗教を教へて居る。然も生徒の所属宗派の異るに従つて、夫れ夫れ違つた宗派の僧侶が来る事になつて居る、次に仏蘭西に於ては、学校教育と宗教教育とは、先年来分離して居る、是れは両者の混合の為に非常に困つたことがあるからである。迂濶に学校内に宗教を入れる事の弊害は西洋の事実に照しても明かである。
 高木君は教育の目的は人格修養であると述べられたが、私は日本の教育は何所までも国家主義で行く可き者と確信する。忠孝及び献信的精神に基く可き者と信ずる。我が邦が世界に於て白晢人種以外に一等国の体面を維持し得て居るのは、実に此国民性と此教育の結果であると思ふ。人格教育は結構であるけれども、人格教育は国家の手段であると信ずる。
 国家主義の教育や教育勅語の教育では不足であるから、更に宗教的信念を養はなければいかぬといふのが前論者の議論である。余自身は毫も宗教的信念なる者を有しない、併しながら段段世間の実情を観察するに、宗教を普及せしめた方が一般国民をして其道念を堅固ならしめ、且其国民的精神を養成せしめる上に、一層有力な様であるからして、私は決して宗教に反対する者では無く、唯宗教教育は須らく家庭に於て行はるべき者であると思ふだけである。然るに若し強ひて学校内に宗教を入れる時は、教育に混乱を生じ、且終には国家に紛擾を起すに至るだらうと思ふ。成程学校へは宗派を入れるので無くて、純乎たる宗教若くは信念を入れるのであるといふ説もあるけれども、宗派を離れた信念といふ事の意味は甚だ曖昧である。
 由来日本人は宗教に対しては極めて冷淡に養成されて居ると思ふ。現に一度耶蘇教を信じた人で、中途から其信仰を抛つ人が沢山あるのは、何も別に悪心がある訳で無く、唯日本人本来の宗教的素養が深く無いといふ事実を示して居るに止まる。成程宗教を信ずれば安心立命が出来て誠に結構であらうけれども、如何しても信仰を得られないといふ人がある。中流以上に於て殊に其種の人が多からうと思ふ。偶々信仰を有する人があつても、其信仰たるや極めて漠然たる者である。曾て姉崎博士は霊魂不滅を信ぜざる不可知論者(アグノスチツク)が神社仏閣に参拝するのは偽善であると曰はれたが、決してさうで無いと思ふ。日本人は実に一種の精神若くは信念に従つて斯種の参拝を実行して居る。併しながら、其は必しも宗教と曰はるべき性質の者では無い。
 要するに今日の学校教育に宗教的信念を入れる事は、学校をして宗派争ひの巷たらしめる事に終るのみで、善いにも悪いにも到底実行す可らざる事である。
    右に関する諸氏の所感及び討議
 井上哲次郎氏=日本に於ては宗教各派の数遥に欧羅巴以上である。
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是れ学校教育に宗教を加味するに当りて起る第一の実際的困難である随つて全然宗教と分離して、斯る困難より免れたる我国の教育制度は此点に於て寧ろ一大長所を有する訳である。
 学校教育は学術に基いて施すものなるが故に、奇跡神怪を語る宗教的信仰とは調和し難き所がある。是れ実際上宗教を学校内に入れる事の出来ぬ第二の理由である。
 儒教は徳教であるけれども偉大なる信念を蔵して居る。『志士仁人は身を殺して以て仁を成すあり』とか、『朝に道を聞いて夕に死すとも可なり』とかいふが如きは明に信念である。宗教で無ければ信念が無いといふのは間違である。信念其者は道徳及び宗教を超越せる者だからして、見様次第で宗教的にも道徳的にも見られる。信念の根本に至れば何等の区別も無い者である。次に神道も亦一種の信念を持つて居る。而して神道は特に感情教育の上に多大の効果を与へる者である即ち神社参拝・祖先崇拝の如きは其例である。猶忠君愛国と神道との間には特別の関係があるからして、他宗教に対しては反対なる教育家も、神道に対しては決して左様で無いのである。前回人格主義教育論が述べられたけれども、普通教育に在りては如何しても国家主義を以て之を統轄しなければならぬ。国家自衛若くは国民自衛の精神を養はんが為には、漠然たる若くは動もすれば個人主義に流れんとする人格教育のみでは駄目である。人格教育は国家主義教育の中に含れて居る国家主義の教育無かりせば国家は成立しないだらう。且到底国民の繁栄を期する事を得ないだらう。
 猶本問題は宗教の意味次第で解釈が相違して来る。宗教を以て既成宗教の意味に解すれば、無論之を学校教育に入るゝ事の不可能なる事前述の通りである。併しながら、宗教を以て普遍的宗教即ち個人対宇宙の関係たる活宗教の意味となす時は解釈一変せざるを得ぬ。斯種の活宗教の精神は常に在する、そは今日の時局を通じても盛に活動して居る。活宗教には神道仏教基督教の区別が無い、而して斯種の宗教ならば日本教育に応用して少しも差支は無い。但し活宗教とは何ぞや、又如何にして活宗教を教ふ可きかに就いては他日の詳論に譲らなければならぬ。

 山田三良氏=既成宗教を小中学校に入れる事が有害無益であるといふ議論は至極同感である。此点は実は問題でも何でも無いと思ふ。唯現在の事実に依れば、多くの小中学校教育に於て一概に宗教は迷信であると教へられて居る様であるが、此点改善の途無きや否、問題は此に存する。成程宗教と教育とを混同せしめなかつたことは、明治教育の一大長所であらうけれども、両者分離の程度が余り甚しかつた為に却て大なる欠陥が生じては居ないであらうか。吾々は何も宗派を学校へ入れやうと曰ふのでは無く、唯須らく小中学校教員をして従来の反宗教的態度を一変せしむべしと主張するのみである。
 宗教現象に対して何等の教育を施さぬといふ事は片手落の教育だと思ふ。成程宗教の選択は自由に放任すべきであるけれども、正しき信仰は斯々の原則に従ふ可き者であるといふ根本思想は中学生あたりに
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は大に教育して置く必要がある。
 先輩諸君は多く儒教の出である。而して諸君に取りては儒教が宗教の用をなしたから宜かつたのであるけれども、今日の青年は斯る宗教代用物を有しないのである。

 高木壬太郎氏=菊池男爵の意見に対して余の曰はんと欲した所は既に山田博士から述べられたから其点は省略する。
 余は人格主義の教育を主張する者であるが、人格主義の教育は、忠君愛国の精神を破壊するものではない。国民教育に於て忠君愛国の精神を養ふの必要なるは言ふ迄もない。此点に於て余は全然菊池男爵及び井上博士と同意見である。唯余は今日の教育界に在りては、忠君愛国のみが高調されて居るからして、其れに対して人格主義教育を称道する迄である。人格教育は、忠君愛国は固より、知育、情育、意育等一切を含み、且宗教に対して極めて密接なる関係を有する者である。曾て新渡戸博士が、人格の修養を顧みずして妄りに忠君愛国のみを唱ふる人をば、裸体の儘で羽織を着た様な者だと曰はれた事があつたが譬へ得て妙であると思ふ。
 外国の例が出た様であるが、私の了解する所によれば、先年英国に於て教育改正法案の現はれたのは、国教会の手から宗教教育の独占の権を奪ふ為めであつて、全然教育より宗教を排斥する意味では無かつた。次に仏国に於ける教育宗教の分離は普通教育に於ける羅馬教会の独占権を奪つた迄である。彼国に在りては倫理教育中明に宗教の項目が設けられてある。即ち教育界から排斥された者は、羅馬教であつて宗教其者では無い。
 余は中小学校に在りては高等なる宗教に普遍なる宗教的観念を教ふる必要があると思ふ。儒教の天といふが如き観念でも宜いと思ふ。

 浮田和民氏=余は質問を提出するに止め度いと思ふ。菊池男爵の意見では、日本の教育は宗教的には無色であるけれども、井上博士の所説に依れば、他宗教を排斥して独り神道的色彩を帯びて居る事となるが、井上博士の説或は事実ではなからうか。余は決して祖先崇拝を冷評する者では無い。唯祖先崇拝の意味での神道で、朝鮮人、台湾人等を教育する時は、却つて日本の為に危険では無からうか。欧米人をも同化し得る底の教育の大基礎は果して何処に求むべきであらうか。

 添田寿一氏=諸君の議論は大概一致して来た様に思はれて慶賀に堪へず。私は宗教家自身も、国民の信用を得る様に改善すべきであると思ふ。今日の如き状態では国民の信念を養ふ上に却て妨害がある。尚ほ忠君愛国の説き方の如きも、大に改善しなければならぬと思ふ。国民中、朝鮮人台湾人等をも包含せる以上、又今後更に範囲の拡大すべき以上、日本人自身が封建的精神、島国民的気風を脱却して世界的にならなければならぬ。此の大発展を為し、東西文明の調和と人種間の融和とを図る上の主働者たるべき日本帝国の一大天職と最高の使命とを遂行せんと欲せば、国民が忠義を尽すべき国家の理想を高尚遠大な
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らしめ、現今は勿論今後一大変動を生ずべき宇内の大勢に適合せしむべきである。帝国の精華唯一の秀所特質たる忠愛の大道は、永世不変にして極力尊重すべきであると同時に、其適用節囲、説き方は宜しく時勢に適応せしむべきである。殊に之を偏狭に曲解するが如きは大に慎むべくして、実に古今に通じ中外に施すべき公道なることを忘るゝの責を免れ難かるべし。況んや各宗教により各人の信念統一を欠くの際、之を統合する上に於て他に優るものなきに於てをや。

 菊池大麓氏=一寸只今のことに就いて一言申上げたい。私が此の宗教を学校教育に入れるかといふ問題に就いての解釈は、私はそれはいかぬ、又出来ない、やらうとすれば非常な害を起すと斯ういふのである。小学校の教科書に、鰌を御幣を挿した徳利の中に入れて、それの動くのを神わざだといつて愚民を惑はすやうな神主があるといふことを笑つたものがあるが、それが今度の教科書では、云はない方が宜いといふことになりました。私は教育家は、宗教を排斥するのが宜いといふ考へを持ちませぬ。私自身のことを申し上げるのは如何かと思ふけれども、自分は宗教を信じませぬ。けれども或社会の大部分の人は宗教を信じた方が道徳を堅固にするやうにも考へられるから、矢張り宗教心を起すように勉めるも宜からう。併し之を起すには家庭に依らなければならぬ。家庭で此の教育が出来ないことになると、世の中が洵に旨く行かない。家庭教育が良くなければ、例令学校教育でいくら骨折つても、実効の挙がることは覚束ない。特に倫理教育に於ては、学校の感化よりも家庭の感化の方が遥かに力がある。これは什うしても家庭の力に俟たねばならぬ。もう一つは社会の感化でありませう。
 以前英吉利では、特に国教でなければ大概の学校は入れて呉れないさういふ時代に私は英国へ行つたのである。それに反対して建設した学校に、私は這入つたのであるが、故に学校では、一切宗教の話といふものは曾て聞いたことがない。又倫理の時間といふものもなかつたのであります。けれども各生徒は、皆家庭に於てはそれぞれの家庭の宗教教育、倫理教育を受けて居つたのである。私共も泊つて居つた家庭の人々と、能く日曜には教会に行つたものである。のみならず倫敦の方々へも説教を聴きに行つた。名高い説教者があると、それを能く聴きに行つたものであります。ケンブリッヂに居つても、矢張り国教のものであると、必ず一週間何回か礼拝堂に行かなければならぬ。そこには毎朝晩に礼拝の式があります。朝晩でなしに一週間幾回と期を定めてやることもありますが、実際に於ては形式許りである。多数のものに対しては形式許りである。国教でないものは、それに行かなくても宜いのである。併し学生内には皆組合があつて、宗教を研究して居つたのである。さもなければ、学生が寄ると宗教の話が始まるといふこともある。さういふやうな風に、社会の空気が染まつて居つたのであります。然るに今日我国では、家庭教育で倫理教育をすることが出来ない、家庭で宗教を教へることが出来ない、而して社会は什うであるかといふと、日曜なり何時なり宗教の話を聴くことが出来ないといふやうな風のものであるといふことは、これは一体社会が悪いので
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ある。さういふやうな社会に於て、さういふ風なことを起すことが必要であるといふのは、御尤もであると思ふ。此の問題が今日まで学校では宗教を排斥して居るといふやうな慣習があるから、それが宜くないといふのならば、私は賛成します。宗教を教育者が排斥することは宜しくなからうと思ふ。若し多少なりとも今日さういふ形跡があるならば、それは改めるのが宜いのであります。
 先刻食卓でも話があつたが、学校に於て宗教の式を行ふことは、これは一切学校に於ては宗教の式を行ふことは許されない。宗教の式を行ふことは、中学校でも許されないことになつて居ります。文部省訓令第何号、明治二十九年某月某日に出て居る訓令であるが、中学校に於ては即ち国の教育の真つ直ぐなる系統になつて居る其の学校に於ては、宗教的儀式を行ふことが出来ない。斯ういふ訓令が出て居りますこれは矢釜しい訓令であるが出て居ります。尤も中学校令に拠りさへしなければ、一向差支ない。中学校令に拠るといへば、中学校には是れ是れの特権がある、其の特権を得るには国で極めたものに従はなければならぬ。それは独り宗教問題許りではない。総ての学校は皆何事に就いても従はなければならぬ。それでなければ許されない。つまり中学校には一切宗教的儀式を行ふことは許されない。国のやる教育に宗教を入れることは出来ない。さういふ趣意を取つて来たのであります。それは何から起つたかといへば、宗教を入れると種々の不都合が起るからといふのであります。其訓令は生きて居るし、中学校令にも従はなければならぬが、然し今日では中学校の特権、例へば徴兵猶予であるとか、或は文官―判任官任用であるとかいふやうな多くの特権は、中学校でなくとも殆んど全く許されて居るやうである、総てこれ等のことは尚改良す可き点が有るでせう。これは宗教問題ではないが今日のやうに国家が総て学校を処理して、何から何まで国家の手で極めなければならぬやうでは、甚だ窮屈であるから、もう少し自由を与へることが必要であると思ふ。此事は勿論問題にはなるが、それは今日のとは別論であります。今日の問題は、小学校及び中学校に於て宗教を教へる、信念を入れるといふことで、夫れを什ういふ風にするといふことであるやうに伺つたのであります。或はそれでなく、信念といふものを土台として、倫理を教へるといふやうな風のことになると矢張色が附いて来る。色のついた教育家が教へるといふことになると赤い色に教へるものもあらうし、黄色に教へるものもあらう。つまり学校の種類が多いだけ色色の困難が起る。必ずさういふことになるから、今日日本の学校教育に於ては、倫理を教へるけれども、宗教の関係は全くないものにするが宜しいと思ふ、決して宗教を排斥するのではない。決して宗教が悪いといふことは言はない。又教育家は宗教を排斥するが宜いといつたのではない。そこを山田君に対して一言弁じます。


帰一協会会報 第六号・第一七〇―一八四頁大正四年一一月 教育と宗教的信念との関係 沢柳政太郎(DK460135k-0006)
第46巻 p.559-566 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第一七〇―一八四頁大正四年一一月
    教育と宗教的信念との関係
                      沢柳政太郎
 - 第46巻 p.560 -ページ画像 
    (主題前同)
 本会への出席については私は甚だ怠慢であつて、前々回に出席致して其の時に高木君のお話を承つたゞけで、前回には遂に欠席致しましたが、其大要は印刷されたもので承知して居ります。私も此の問題に就いてかねてより多少考へては居るが、皆様のお話を多少なりとも承るに随つて、寧ろ自分の考が左程間違つても居なからうといふ感じを強くする方である。併し斯ういふことは深く研究した訳ではないが、簡単に自分の考を申し上げて見たいと思ふ。
 斯る問題を惹き起すのも、教育の効果が思はしくない、教育を受けた人はあるけれども、確かりした信念のある人が少いといふやうな所からして、此問題が起り此の会でも研究することになつたのであらうと思ふ。今日多くの人が教育に余り多くの望みを嘱する、云はゞ教育は万能であるとし、もし結果が少しでも思はしくないと、直に教育内にある欠陥に原因を帰するのではあるまいかと思ふ。申上げるまでもないが、教育には人間の総ての要求を満たす力はない、如何なる大教育家にも、さういふ力は無からうと思ふ。御承知の通り今日十幾万といふ教育家の手で行はれて居る小学中学等の教育は、其教師の資格に於ても亦其教育法に於ても、決して十分に完美の域に達した訳ではないからして、教育の効果に不十分なことがあるといふのは勿論である又如何に教育は完全であつても、教育の力を妨げる事情や事件が沢山存在するのは申上げるまでもない。例へば遺伝の力の如き、強きもので、如何に教育を施しても什うすることも出来ないといふ人間も少くない。又学校教育が如何に完全に行はれても、社会の風俗習慣が悪いため教育の効果を打ち壊はして了ふと云ふこともあり得ることである又時代の風潮といはうか、或は時代精神といはうか、其の為に教育が如何に努めても、人心が軽薄になるといふやうなこともあらうと思ふかく教育が如何に完全であつても、及ばない所のものが沢山にあると思ふのである。況んや教育――大中小の教育を含むで――が完全でああるとは何れの世でも云はれない。更に亦教育といひ条、色々の程度種類に分れて居つて、即ち国民の九分通りは僅かに六年の課程即ち尋常小学校の教育を受けるだけで、世の中に出て実務に就くといふ有様これが国民の大多数である。其の余の一部分が或は高等小学校に入り或中等教育に進んで行くので、これは洵に全体から見ると少数のものである。此の中等教育を終つて更に進んで高等の教育を受ける者に至つては、実に極めて少数の者である。実際、教育と申すけれども、国民の多数は唯だ僅かに六ケ年、而も幼少の時の六ケ年の教育を受けてそれで世の中に出で各方面に働く人間になるといふ次第であるから、如何に小学校の教育が完全に行はれても、六ケ年やそこらの教育を卒つた許りでは、其の結果寧ろ知るべきのみと申さなければならぬ。要するに教育の力は、普通に世人の考へるよりも実際は甚だ微弱なもので、又かく微弱であつて当然であると思ふ。自分は平素教育に関係して居るから、教育の力を成るべく多く考へたい傾きのものであるが、事実に就いて考へると什うもこれはさう大きなものではない。即ち教育は人間の要求する精神的の総てのものを与ふことは出来ない、僅か
 - 第46巻 p.561 -ページ画像 
に其の一部分のものを提供するに過ぎない。玆に於て教育と相並んで宗教といふものの必要がある。宗教といふものは独立して人の精神上の要求に応じて、宗教にあらざれば与へられないものを与ふべきであると思ふのである。前に申した通り、教育の力の事実上存外微弱なると同時に、他に風俗習慣の力、或は政治の一般世人に及ぼす力、或は時代精神の力といふものがある。此等は教育を補ふよりも多くは之を損ふものである。故に宗教が教育と共に社会に並び立つて、其職分を尽すことの益々必要なるを思ふのである。一言にして云へば、宗教は世の中には必要欠くべからざるものである。或は宗教は人間に備はつて居る宗教心の自然の発露と考へるのも間違つたことではなからうと思ふ。
 宗教は什ういふものかといふことは、前々回に高木氏のお話を承つて、私も大体高木氏の御説明に同意である。如何なる宗教でも人間の洵に不完全で、極く有限的で微弱なものであるといふことを十分認める。併しながらそれを認むると同時に、それに満足せずしてどうかして無限絶対の世界に到らんとする希望を人間は持つて居る。而して此処に到らんと努力するのが即ち宗教心である。信仰的に申せば、有限なる我々が無限と一致したと自覚した所に堅い信仰の現はれるものである。大体前々回に高木氏の詳しくお話なされた所と、私の宗教といふものゝ考へは異ならないのである。然らば本会の問題になつて居る学校教育に於て、宗教上の信念を養ふのは良いか悪いかと申すと、私は学校教育は学校教育であつて、教育と宗教とは、矛盾したものでも反対したものでもないけれども、これは別なものと見るべきであらうと思ふ。教育を受ける人間といふ方から見ると、教育だけでは十分でない、宗教も必要であるといふことになるけれども、私は学校に就いては、教育だけのことを与へて置けばそれで満足する外ない。宗教上の要求は、宗教家に向つて、教会寺院に詣つて要求すべきものであらうと思ふ。
 一体宗教心といふものは、本来人間に備はつて居るものに違ひないが、或は人によつては一生涯の間に現はれないで了るものもあると思ふ。宗教心は人間の固有する一の性質であることは争はれないが、併しながら其の我々の意識に上つて来る時期は極めて遅いものである。宗教心の発育は、概して云へば人間精神の諸能力の発育の中に於て、最も遅く来るものであらうと思ふ。昔の高僧の伝などを見ると、随分幼少の時から宗教心があつたやうなこともあるけれども、これは例外な場合で、宗教心といふものは、我々が先づ普通に申したならば、青春の時期を経過した後、即ち年齢で申せば、十八・九以後に現はれるのが先づ早い方ではないかと思ふ。十八・九になると宗教心が必ず起つて宗教上の要求が必ず生ずるかといふと、必ずしもさうではない。宗教的要求は多くは人が社会に出た後に起る、それも順境にある間は起らない場合が通例である。轗軻不遇の境涯に立つて初めて其処に或不足を感ずる、所謂宗教上の要求が生ずる。或は最愛の父母妻子を失つたといふやうな人生の不幸を身に経験して、其の時初めて人生のあぢきなきこと、はかなきこと、頼みなきこと、淋しきことを沁みじみ
 - 第46巻 p.562 -ページ画像 
と感じて何か偉大なものに依らんとする。これは年齢で申せば、多くは中年以後のことで、各人本具の宗教心が意識的に現はれるものは多くはかゝる年齢かゝる境遇の下にある。果してさうであるならば、学校教育――学校とはどれを指したのか分らないけれども、仮りに問題を幾つかに分けて、小学校として見ると僅かに十二・三歳で卒つてしまう、小学生徒に向つて宗教上の信念を起させることは、全然無意味のことで且つ不可能のことであると思ふ。何等の要求の無い者に授けるといふのは不自然である。よし無理に授けた所で無意味に終るのは明かである。それから中等程度の学校に於て施すとしても十七・八歳で早く卒業するのであるから、まだ宗教心が僅に芽を出すか出さないかと云ふ時期であるから、中等学校でも信念を起こさせることは出来ない。即ち宗教的教育を施すべき時期に達して居ない。仮りに此の時代に強ゐて授けるとすれば、前に小学校に就いて申したと同じやうに殆んどそれは無意味のことである。御経を暗誦させたり、儀式を行はせることは何でもないが、信念発起の上から云へば無意義である。決して宗教上の信念を養ふ効果が無いと思ふ。或はそれが絶えず継続さるれば将来宗教に這入る縁故になるといふ位の効はあるかも知れぬが其の以外に多くの意味を有つて居ないと思ふのである。であるから宗教上の信念を学校教育に入れやうとすれば、これは什うしても高等学校以上でなければ問題にならないといふことを私は考へるのである。
 然るに前に申した通りに、教育は教育として為すべき職分があるのであるから、高等なる学校の学生に於ては、そろそろ霊的要求が芽を出して来るとしても、必ずしも学校で施さなければならぬといふものではないと思ふのである。現に学校でこそ宗教といふものはやらないけれども、何れの高等学校に於ても、基督教青年会もあれば、仏教青年会もあつて、仏教に縁故あるものは仏教に、基督教に縁故ある者は基督教になつて、色々宗教上の修養を積んで居る。私は曾て高等学校等に関係した時分に、学校の仕事としてではなく、生徒の仕事として宗教的修養をやることは、至極良いことであるといふやうに考へたからして、何れも奨励して見たのである。併しながら何れも左ほど盛んにならない。何れの学校へ行つて見ても、仏教青年会も基督教青年会も余り盛大なものは無い。これは畢竟此の年齢に達しても尚宗教心が芽を出さないものゝ多い証拠であらうと思ふ。而して霊的要求をなすものが、高等学校時代に就いても其の位の割合に過ぎないとすれば、高等学校でも一般に信念を起こさせることは出来ないものと見なければならぬ。人間の心の奥に宗教心が潜んで居るとは思ふが、何等かの機会に接しないと、容易に現はれて来ないものであると思ふ。既にさういふ性質のものであるならば、高等学校時代に達しても宗教を学校で施すといふことは、正当のことではないと考へなければならぬと思ふ。要するに宗教的教育は小学や中学では問題にならぬ、僅かに高等学校時代で多少考へる余地があるやうであるが、それも正当でない。
 今百歩を譲つて学校で宗教教育を施さしめるといふことになつても何人も特定の宗教を教へ、各宗派の信仰個条を教授せんとは考へない何れの宗教にも共通の宗教的観念を授くべしと云ふことになる。共通
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的宗教の観念とか基本的信念とかいふものは何であるか、高木君の述べられた所は、例へば神なり仏なり宇宙の実在の本体の観念は其の一である。これは仏教に於ては仏といひ真如といひ、耶蘇教ではゴツドといひ、神道では神といひ、儒教では天と云ふものであらう。もう一は天命、神の摂理といふやうな基本的の考である。第三は道徳と幸福との関係、第四は霊魂の不朽不滅であると云はれた。先づこの四つの根本思想は、何れの宗教宗派にも基本になつて居るから、斯ういふやうなものを授けたいといふお話であつた。此の四つのものに就いて精密に言ふと、或は各成立の宗教に通じたものではないかも知れぬ。神の摂理とか、天命とか云ふことは同一でないかも知れぬ。又善因あれば善果あり、悪因あれば悪果ありと説くものと一致しないかも知れぬ或は霊性の不朽といふことも仏教では認めないで、輪廻説であるから間違ふかも知れない。故に此の四つの観念が各宗教共通の基本的観念であることから中々議論があらう。しかし玆に数歩を譲つて、此の四つの如きは共通的のもので、各成立宗教の色彩はないものであるとしても、一歩進んで説明する時には、直ちに基督教的となり、仏教的となり、或は神道的となることを免れない。何うしても仏教的になるか或は基督教的になるか神道的になる。唯だ神の観念とか或は絶対無限の観念といふやうな名称だけに止めて置けば、各成立宗教、各特定宗派の臭味はないが、一歩説明に入ると、どうしても、或る色彩を帯びることになる。単に基督教的になるとか、仏教的になるばかりでなく例へば仏教では他力浄土門で説明するか、自力聖道門で説明するか、どうしても宗派の色彩を帯びなければ、口を開いて説明することが出来ない。それ故に学校で宗教的基本観念を授けようとすれば、自然に何うしても各宗各派の精神を以てするより外にないことになる。ほんの五分か十分で、宗教信念の基本概念を説明するならば、色彩を帯びさせずに済むかも知れぬが、然らざる限りどうしても宗派的になる。而して宗派的のことを教へることは何人も考へない所であるとすれば此の基本的観念を授けることも行はれぬことである。
 即ち私は小学校教育に於て宗教的のことをやる、これは殆んど問題にならない。中学校程度に於て、これも何うも宗教といふ精神を考へて見て、又中学時代に於ても大体同様である。宗教的要求が生じもしないものに向つて之を説くは無理なことである。高等学校は何うかといふと、此の時代になつても求めないものが多いのであるから、求めないものでも強いて授けるといふ方法を取らない以上は、授けることが出来ないと思ふ。更に数歩を譲つて、共通的基本的観念だけ授くるとしても、何うしても各派の色彩を帯びたものになる。随つて学校教育に於て、宗教的信念を養ふといふことは、不可能のことであらうと思ふ。
 それで人間として信仰が必要であるか無いか何うかといふことは、これは最初に申した通り、私は人間として一の信念を有つて居ることは必要であり、又望ましいことであると信ずる。或は信念を有つて居ないでも社会に処して間違ひ無いものもあらう。立派な仕事を為すこともあらう。しかし信念ある人は真に信頼することが出来、其の仕事
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は真に立派であらう、政治家でも、実業家でも、軍人でも信念があつて欲しい。唯かゝる信念を学校教育の中で養ふことは出来ない。元来教育には教育の仕事があり、宗教には宗教の仕方がある。或はこれは相並行したものであらう、究竟の目的は同一であらう、少くも同じ方向に進んで行くものであらう、さればとて共に学校でやらなければならぬといふものではないと思ふ。
 教育と宗教とは、人生にとつて共に必要なものである。教育者と宗教家とは相並んで、各々其の任務を尽くし、以て人間の精神的要求を充たすべきである。これが有形の形に現はれては、教育は学校の校舎に於て施す。宗教は、学校の校舎といふやうな殺風景の所に於て施すよりも、古くから歴史的に発達した立派な殿堂教会がある。此処に於て宗教の宣伝を為すべきであらうと思ふ。学校教育でいふと、小学校は即ち満六歳より六ケ年の間之を施し、中学校は満十二歳より五ケ年間施すものであるが、宗教はさういふ之を施す年限に少しも制限がない。学校は厭でも応でも小学校は六ケ年、中学校は五ケ年と限られて非常に窮窟なものである。宗教にはさういふ年限が無い。且つ少年や青年を相手とするよりも、中年以上の人間を相手とする。一生を通じて其の間に宗教の信念を養ふべきものであると思ふ。一例を挙ぐれば本会に同情を有つて居られる、森村市左衛門氏の如きは、最近に出た「実業の日本」であつたか、それに出て居る氏の談話を見ると、極めて最近に耶蘇教の信者になつたといふことである。七十以上の年になつて初めて耶蘇教の信仰に這入つたやうな次第である。高年になつて初めて信仰を得た例は沢山ある。甚しきは七十・八十になつても遂に信仰を得られないものもある。宗教といふものはさういふやうなものである。決して一定の修業年間のある学校教育を受ける時期や期間に信仰が得らるゝものでない。人間は幼年少年青年の間は教育者の手に在り、それを離れて学校を出た後に宗教家が之を自分の手に受取つてそれに宗教的信念を養はしむべきである。学校を出たものは、寺院に這入つて、其処に於て修養をやるといふ順序のものであらう。
 要するに日本人が宗教上の信念に乏しいことは事実である。而してそれは日本人の一大欠点であると私は思ふのである。而して此欠点は信念の乏しいのは学校教育が宗教の基礎に依らない為めであるか、学校が宗教に頓着しないからそれで信念が乏しいのであるか。私はさうは思はない。従つて学校教育に向つて、救済策を求むべきではないと思ふ。宗教的信念の乏しいのは事実であるが、之を救ふ為めには宗教家の宗教家としての活動を大に要求しなければならぬと確信する。露骨に言へば、日本に於ける宗教家程無為無能のものはない。宗教家自身の信念・学識・徳行毫も尊敬すべきものがない、されば日本に於ける宗教に勢力無く、国民に信念の乏しいのは、少しも不思議ではない寧ろ当然のことであると思ふ。例へば先刻申上げた高等学校などに於ける基督教青年会・仏教青年会で宗教上の話を聴かうとして見ても、僅に二・三の人があるばかりで、常に講師に良い人のないのを遺憾とする有様で、実に宗教界に人のないことを歎ずるのである。又或る人は宗教上の智職は相当にあるかも知れぬが、信念に至つては堅い信仰
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があると云へない有様である。要するに日本人が宗教上の信念に乏しいのは甚だ遺憾である。これからして色々の欠陥が社会上なり、政治上なり、国民の品位の上に現はれると思ふのであるが、それは宗教家の活動に待つ外はない。宗教家の活動の範囲は広い。教育者の範囲は学校内に限られて居る。相手も小学校の生徒とか、中学校の生徒とか制限されたものであるが、宗教家は老少を問はず、それを相手にして活動することが出来る。宗教家の天地は広いからして、進んで世の中に於て活動すれば宜い。無理やりに学校へ押し込んで来てやる必要もなく、利益もなく、又効果もない。これを能く考へて貰ひたい。
○右に対する附記
沢柳政太郎氏=教育界が信念を欠いて居るといふ点に於て、洵に同感であります。どうか信念の確立するやうにありたいと考へるのである学校の徳育といふものが、どれだけのことが出来るか、多くの人は日本では知育に重きを置いて徳育に尽す力が薄いやうに考へて居るが、それは寧ろさうでないと私は思ふ。欧羅巴・亜米利加の学校と較べて見ると、日本は徳育といふ問題に苦心して、色々に工夫をして居ること欧米に勝つて居る、又単に苦心したり屈托して居る許りでなく、日本ほど色々に工夫して、徳育の方法を施して居る所は外国にあるまいと思ふ。唯だ如何にせむ、其の効果が予期するだけに現はれないのは遺憾である。兎に角苦心して居ることは非常である。英国の学校は人物養成に重きを置いて、智識には頓着しないといふて居るけれども、併しどれだけ徳育に工夫研究を積んで居るかといへば、日本程積んでは居ない。最も結果は向ふの方が宜いかと思ふ。日本には宗教が社会に信用が無い、権威も無い。又宗教家も西洋の程に活動しないといふことがある。それから日本の家庭は今日過渡の家庭である。若い者の方が老人よりも知識が進んで居る。或は以前の風俗習慣、社会上の礼儀作法が悉く破壊せられて、少しも社会精神にしても風俗にしても確立して居ない。或は又言論界を見ても、新聞雑誌がどれだけ害を青年男女に及ぼして居るか分らない位である。さういふ風で教育者の方ばかりでどれだけ勉めて、西洋よりも遥かに苦心し工夫して居ても周囲の情況が不利の為めに効果が見えない。信念の欠乏して居る原因が此の辺にあるのではないかと思はれる。学校の教育が決して徳育を今日以上に進められないといふのではない。今日も頻りに研究して苦心して居る、これで十分だとは誰も思つて居ないが、世間ではどうも学校は知育の方はやるやうであるが、徳育は一向考へない。さういふやうに批評するけれども真相を得てゐない。或は明治二十年以前に於ては西洋にかぶれて智育に専らであつたかも知れぬが、教育勅語が出てからは如何にして此の趣旨を徹底せしむるかに就いて、色々工夫研究して居る。斯うもしたら、あゝもしたら宜からうかとやつて居るのである。歴代の文部大臣も教育勅語の趣旨の徹底を訓示しないことはない更に何れの学校に於ても特別に校訓とか訓育の綱領とか、或は三ケ条或は五ケ条と云ふやうに定めて其の実行を期して居る。今お話の埼玉学友会の七ケ条の如きものは大概の学校で定めて居る。其の外に学校生徒の心得を定め寄宿舎があれば其の綱領も、チヤンと立派に設けて
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ある。或は又級は級で級訓とか、級の訓育の目的がある、級長といふやうなものも設けてある。何処の学校でも徳育の目は繁瑣に渉る位注意して工夫されて居る。それが果して当を得るか何うかは分らないけれども、種々様々の工夫を設けて、実に苦心惨澹たるものである。併し余り考へ過ぎて、猶ほ考への及ばないこともあらうから、此の上も教育方面では十分にやらなければならぬのであるが、さういうやうな訳で怠つて居るのではありませぬ。兎角世間一般の人は学校では智育のみに骨を折つて、徳育に無頓着のやうに云ひますが、決してさうではないのであります。


帰一協会会報 第六号・第一八五―二〇七頁大正四年一一月 教育と宗教的信念との関係 嘉納治五郎(DK460135k-0007)
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帰一協会会報 第六号・第一八五―二〇七頁大正四年一一月
    教育と宗教的信念との関係
                      嘉納治五郎
    (主題前同)
 先達て服部博士から、此の席へ出て学校に於て宗教を説く可否に就いて意見を述べよとの御依嘱がありました。承る所によると、これまで段々同一問題に就いて諸君の御意見も此の席に於て述べられたやうであるが、私は学校に於て宗教を説く必要が無いと信じて居る一人であります。尤も私の宗教と申すのは所謂既成の宗教なので、今日一般に宗教といへば、誰の心にも直ぐ浮んで来るやうな宗教、即ち何宗何宗といふやうな名前の附いて居る宗教である。広い意味にいふ宗教、即ち一種の信念を指すのでありませぬ。私は一種の信念を直に宗教といふことは不穏当であると思ふ。そこで第一に此の宗教といふものは人間に必要なものであるか何うかといふ問題が起つて来る。宗教といふものは既往の歴史上、人類に多くの益を為したことは疑ひの無いことであるが、けれども今後文明社会の人に、宗教が必要であるかといふことになると不必要といはざるを得ぬ。それなら宗教は悪いものかといふと、弊もあるが弊に陥らぬやうにすれば必ずしも悪いものと認めない、併し必要は無い。斯ういふ意見がある。それならば、今日の日本から早く宗教を取り除いて仕舞つた方が宜いかと云ふに、それはさうは思はない。矢張り宗教があつて良い。無学の者抔の為には相応に用を為して居る。日本の文明といふものは、将来宗教が無くなつても何処までも進めて行くことが出来ると私は思ふ。宗教が無くとも欧羅巴の文明に劣らぬだけの日本の文明を作ることが出来ると信じて居る。それ故に、人が宗教を信ずるといふことは、強ち咎むべきことではない、或場合には宗教も益を為して居ると思ふけれども、学校は宗教を離れて文明の人間を造るに必要なる訓練を与へることの出来る場所であると信じて居る。世には又宗教といふものは人間に最も強い信念を与へるものである。それ故に何かの宗教を信じさせることは、洵に願はしいことである。斯ういふやうに見る人もあるが、既に宗教を信じて仕舞つた人には、或はさういふことがありもしよう、併し仮に宗教を信ずる為に一種の強い信念が得られるとした処が、同時に宗教に伴つて居る種々な弊害を受け入れる時は、利害相償ふことが出来ぬと思ふ。勿論宗教家の中には宗教の弊に陥らずして強い信念を持つて
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居る人もある、これ等は宗教の良い代表者であると思ふ。併しながらさういふやうな代表者は極めて少数である上に、その人が宗教家である以上はその人の信じて居る宗教に附随して居る一種の信仰を持つて居る。仏教の中にも幾多の宗派があるし、基督教の中にも種々あつてその各宗派の人は皆各々違つた信仰を持つて居る、そこで一つ疑問が起つて来る。若し各宗派の人ならば、一の宗派の信仰はなぜ正しくて他の宗派の信仰が正しくないといふことが出来るか、一派の人は自分の信仰は正しい、他の人のが間違つて居るといふならば、他の派の人は同一の理由の下に自分のが正しくて他のが間違つて居るといひ得るであらう。さうすると宗教信者は自分丈は強い信念を持つて居ると思つて居るかも知れぬが、外から見ると其の人は幾多違つた信仰がある中の一種の信仰を有する人と見做さゝるに止まるのであつて、その信仰が正しいものであるといふ証拠は甚だ薄弱である。種々の学説に基いて徳教を説く人の論拠も同様である。数学のやうに誰れも理詰めで同様に信ぜしむることの出来るものや物理学化学のやうに実験に徴して証拠立てることの出来るものでない以上は、一人の人がその人の学説として説いても外の人はそれに同意しないかも知れぬ。それで学説が分れる丈それ丈、説に種類が出来て何の学説が正しいといふことは外から判断することが出来ぬ。併し若し各宗派に共通な部分、又各学説に共通の部分を取つて之を人に教へよといふことであるならば何の宗派も何の学派も異存のないことゝ思ふ。宗教家は各自の信仰に基づいて之れを説かず、学者はその学説に基づいて説かないから力が弱くなるといふかも知れぬが、又一方からいふて見ると何の宗教何の学説にも共通であるといふ理由に依て一層強くなるのである。宗教の宗教として最も価値のある部分は、其の共通のものに附随して各宗派の特色のある処にあるのである。学説の学説として取り処のあるのは、その根拠とする処の理論にあるのである。然るに今宗教として特色を取り除き、学説としての特異なる点を取り去り、その共通の処を存しようといふのであるから、宗教としても学説としても、その力は失はれて仕舞ふ。その代りに何人も異論なく承知するものが残るのである。これが教育上殊に普通教育上教へて益あり害なきものである。
 本来教育特に普通教育といふものは何ういふものかといふと、信ずる人は信ぜよといふのでなく、これは強制的に教ふる筈のものである是非斯うしなければならぬといふものである。大体普通教育に於いては、斯う信じたければ信ぜよではなく、斯う信ぜよ、又信じなければならぬといふのである。随て一部分丈のものが信じて居て他に反対するものがある場合に、之を強ゐるべきものではなからうと思ふ。若し共通の道理で、誰でも斯く信じなければならぬといふものがあるならば、これは普通教育に於て強ゐても差支無いのである。所謂文明諸国に於て行はれて居る道徳といふものは、何の宗教でも文明社会に行はれて居る宗教であるならば概ね是認して居るのである。又色々の学説があるけれども、其の学説の結論は矢張り其の道徳を是認するのである。さうすると、学説といふ形になつて来ると大変説が分れても、其の結論になると概ね一致して来る。宗教といふものも亦色々区別があ
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るけれども、其の結論になつて来ると又一致して来る。斯ういふものがあらうと思ふ。これが即ち少くとも文明世界に於て共通のものであつて、之を教へるといふことになると何処にも異論が無い。そこで普通教育では、宗教も教へず、学説も説かず、其の共通の道徳を教へさへすれば良いのである。其の道徳はどの宗教にあるとか、どの学説に基づいて居るかといふことを論ずる必要はない、何れにも共通のものでなければならぬ。所が幸ひにも我国には、さういふやうな道徳が教育勅語といふ形に於て、而も神聖なる形式に於て、明治天皇の下し賜つたものである。之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らずといふことは、実際にその通りである。特に日本の国体に関係して説かれた処は、形式は他の国の道徳と異なつて居るけれども精神は矢張り共通である。又其の徳目に於ては、どの宗教から見ても、どの学説から見ても、其処に帰着しなければならぬ。我国に於ては幸にさういふ権威ある道徳の教があるのであるから、それを国民に教へさへすれば、何も其れ以上に基礎を加へる必要は無いのである。
 此の問題に対する自分の意見は、大体前述の通りであるが、有力なる宗教家殊に学徳備つた人などから、今日我が国徳育の実際の状況を以て満足せず、これは学校に宗教を教へぬからであるとの説を聞くこともある、これに対して予は左の如く答へようと思ふ。今日学校に於ける徳育は十分の成績を挙げて居らぬといふことは事実である。今日の教育者が一層努力の余地がないとはいはぬ。けれども今日の教育家が社会の他の方面に当つて居る人に比して、敢て各自の職分を怠つて居るとはいはれぬ。徳育の成績の挙がらぬのは他に有力なる原因があるからである。
 第一過渡の時代であつて、政治・法律・経済一切の事が趣を異にし旧来の徳教が威厳を失ひ、新なる徳教は未だ国民の心裡に深く植付けられるまでに至らず、国民の思想を動揺させるやうな新思想が遠慮なく入り込んで来るといふやうな次第で、尋常一様の力ではこれ等の困難の間に立つて、徳育の成績を挙げるといふことは不可能である。学徳備つた宗教家などの中に、己を以て一般の教育家を律し、彼是教育の不成績を咎める人もあるけれども、それは無理な注文である。教育家の中にもそれ等の宗教家に劣らぬ人物は幾らもあるけれども、全体何十万の教育家を悉くそんな優れた人に代へる事は到底出来ない相談である。今日の宗教家でも教育界の事を適当に批評し得る程の人が沢山あれば、今日のやうな宗教界の腐敗は見ないのであらう。だから宗教家も、一般の教育家が優れた宗教家の意を充たす丈の成績を挙げ得ぬからとて、一概に徳育の方法が悪いからと論断することは無理であると思ふ。予は学校で宗教を教ふる必要を毫も認めないと同時に、今日の徳育は尚ほ工夫改良の余地が大にあると信ずるのである。けれども今日の教育者の効績も十分に認めて貰はねばならぬと考へる。外から見ると現在局に当つて居る人の仕事は悪く見える。之を政治に就いて見ても、歴代の内閣の仕事は、局外の人の攻撃の的となつて居る。然るにこれまで攻撃して居た人々が局に当るやうになると、又それ等の人のする事が、更に攻撃の的となる。さういふやうな訳であるから
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学校で宗教を教へないから、徳育の成績が挙がらないといふ意見は、同意するに躊躇する次第である。
    右両氏の講演に対する諸氏の所感及び批評応答
 矢野恒太氏=今日まで大分続いた此の問題では、皆様の御高説なり御批評なりを伺つて洵に益を得ました次第である。私はこの問題に就いて何も申上げるやうな資格のあるものではありませぬ。たゞ皆様の御説を傍聴に出て居るに過ぎないのであるが、傍聴者としては皆様の論議せられる点が少しく我々の希望と変つて、方面を換へたやうに思はれる。私が大に誤解したのであるかもしれぬが、或は議論が問題に合しないのではあるまいかの疑があるのである。先きに本多日生師の御演説の時は差支へて欠席致し、それから高木先生の時から欠かさず出席致して、皆様の此れに就いての高説なり御批評なりを伺ひ、今日又沢柳博士のお話もありましたが私の疑ひはだんだん深くなるので、後で少し伺つて見たいと思つて居りました、然るに只今嘉納さんのお説を伺つて見ると、是は又大変今まで伺つた説とは違ふ所があるやうに思ふ。言葉の言ひ方によつて分量が違ふかも知れないが、必ずしも宗教の必要はない、人を造るには教育で沢山だ。斯ういふやうに伺ひました、沢柳博士のお説には、宗教は必要である、現時の日本人が宗教心の衰へたのは事実で、これは非常な大欠点である。併し学校には学校の職分があり宗教家には宗教家の職分があるから、学校では普通道徳を授け、宗教心は寺院で養ふが宜いが宗教を学校に入れることは困難であるといふお説であつたように思ふ。又菊池男爵の御説も困難説で、洵に宗教心は持たせたい、若い者には是非持たせたいが、今日学校教育に入れることは出来ない、随つてこれは家庭でやるべきものである、教育の領分内では如何ともすることが出来ないと云ふのである。沢柳博士の御説と大体は同じやうに思ふ。只今の嘉納さんのお説のやうに、宗教は無くても宜いといふ議論になつて仕舞へば、問題にならないのであるが、今まで講演をなされた多数の方なり、これに就いての批評質問なり、多数は宗教が必要であるといふ意見であつたやうに私は認めて居る。而して宗教心が日本では衰へて居る、困つたものであるといふ方の考から、其の宗教心を学校で養はせたい、いや家庭でやつて貰ひたい。斯ういふ希望であつたのであるが、之を今日の家庭に一任して、我々の後継者たる第二の国民の頭に宗教心が起つて来るか何うか。私は起るまいと思ふ。教育家は仕方がないから家庭に任せるといふのであるが、それでは益々今日の宗教心が衰へて行きはしないかと思ふ。
 教育の力に就いては、沢柳博士のお説は余り多くを望めない、其力は微なるものである、僅に人間を作る一部分である。嘉納さんのお説は又これと違ふやうであるが、我々の考では次の国民を什麼な風に作るかは、一に教育に依るより外にないのであると思ふ。教育は穴勝ち知識を作るだけではない。成るたけ完全する人間を作るといふことで先き程沢柳博士が色々述べられたやうに、智だけではなく、情意の方面も這入らなければならぬ、又体格上から衛生も学校で注意しなければならぬ。有らゆる方面から完全なる日本国民を作るといふことが、
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教育家の任であると思ふ。処が其の問題が信仰問題・信念問題に向ふと教育家はそれは家庭でやるが宜い、学校では出来ぬといふ。これは甚だ違つて居ると思ふ。嘉納さんのやうに人間を作るに宗教の信念を借りなくとも教育だけで宜いといふならばそれは別問題になるが、国の道徳が衰へて居るから、道徳の根原たるべき信念を養はなければならぬといふことが必要となれは、其の必要たるや、兎に角学校の一の課目を殖やす殖やさないなどの様な軽い問題ではない。之が為めには幾多の科目を犠牲にしても差支ないといふ程に、最大重要な問題ではないかと思ふ、といふやうな感じがする。而して其の形式に就いて色色議論があつて、必要としたならば形式を離れて宗教を用ゆるとか、或は小供の内では駄目であるとか、即ち沢柳博士のお話では十八・九にならなければ宗教観念が起つて来ない。其の外既成宗教を入れてはいけない。色々説もあつたが宗教の形式を入れるといふことは、誰が考へてもよくないことは明瞭である。私の考へでは、神の存在、霊魂の不滅、善いことをすれば天意に合するとか悪いことをすれば神の心に背くとか、宇宙は偶然出来たものではない、人は神を信じなければならぬ、といふやうなことは教科に入れて宜いと思ふ。神の解釈も霊魂の不滅も近頃の科学で説明出来ぬ所に存在させねばならぬことゝ思ふ。それならばサイエンスの側のことには一つも仮説がないかといふと、矢張り科学にも元子・分子・電子といふやうに、幾らも仮説を認めなければならないことが沢山あるやうに思ふ。而して神の存在を認めるといふことには非常な反対もあるかも知れぬが、之と同時に絶対に神の存在を否認するといふ程のものも少い。神といふて宜いか仏といふて宜いか、又は極端に力と云ふものもあらうが、兎に角我れ以上のものがある。絶対があるといふことを否認する人は少い。多数の人の頭の内に矢張り神の存在を認むるといふ仮説が成り立つて居る。さうすると電子・元子といふやうな仮説、医学上の諸種の仮説などゝ同じやうに学校の教科書中にも神の存在といふやうなことを入れることは出来ると思ふ。又学校の力を借らずに自分で子供を育てるといふ一段になれば、教科書に一・二章の文字を入れるだけでなしに、子供が教会堂或は寺へ行かうといふ心がなければ、勉めてやる。何処の寺に説教があるから行けといふやうにする。而して其の聴いて来る説に就いては、之を叩き壊さないやうにして宗教心を養成しやうと思ふ。然るに今日学校の教育は、余程宗教の向ふに廻つて妨害して来るのではないかと考へられるのである。而して又沢柳博士は、学校の休みの日に日曜学校に行つて、子供は宗教上の知識を得ても宜い、学校と寺と聯絡を付けても宜い、唯だ学校の教場でやることはいけない、宗教には歴史的の立派な殿堂がある、そこを離れて学校の粗末な教場にやるのでは詰らないといふお説であつたが、さうではないと思ふ。学校教育で生徒を宗教に導く方法は幾らもあるから、必ずしも日曜学校でなくとも学校で十分に出来ると思ふ。又極く若い小供、中学以下の子供が一向宗教的観念も起つて来ないのに、無理に宗教観念を授けるのは色情の起つて来ない者に色情の話をするやうなもので、何の感じもあるまいといふ説もあつたが、丁度成瀬さんの御意見が出て、実際母を
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失つたといふ非常につらい経験から宗教心が起つたといふお話もあつたが、此の如き刺戟を与へたらば子供と雖も起るのである。自然に任せれば十八・九まで起らないものがあるかも知れぬが、学校生徒と雖も、神の存在、宇宙の不可思議などを問ふものであるから、それは斯ういふ訳であるから、何うしても唯だうぢやうぢやと物質が集まつて何の意味もなしに形をなして居るのではない、所謂神の摂理といふやうなものがあると教へて且能く之を呑込ませることは容易に出来ると思ふ。それを一概に神も仏も、其存否は明でない、併し道徳は守れ、道徳を守らなければならぬ理窟はないが、守つた方が世の中の都合が宜い。さういふ倫理を教へてこれで世の中が治つて行くか疑問である。それから又必ずしも小学校教育を卒る迄に宗教的教育をやらなければならぬといふことはない。やるに越したことはないが、そこまで行かなくとも、高等なる学校、所謂社会の先覚者となり代表者となるべき地位の人、或は大学卒業生、高等師範生等が皆宗教観念を以て社会に立つことゝなれば国民は靡然として宗教の方の趣味を有つて来る傾きがありはせぬかと考へられる。故に小学校には入れて悪いなら入れないでもせめてもう少し高い所で宗教心を養ふことに力を尽したならよくはないか。要するに問題になつて居る「可否」といふ文字を「よいか」「悪いか」といふ意味に御研究になることゝ考へて居たら、諸君、特に教育家の御意見は「可能か」「不可能か」といふ風に解釈されて「不可能」であるといふ意見を述べられる様であるから、嘉納先生を除くの外の諸君は皆同様に「可」といふ御意見の様に思はれるが、又さうでないやうにも思はれる。若し次代の国民に宗教心を注入することが必要だといふことになれば、今少し教育家の側に於ても親切に考へて頂くことは出来ないであらうか、どうも我々には仕方がないから家庭でやつて貰ひたい、併し宗教家は頼みにならぬ、宗教は腐敗して居るといつて置きながら、其の宗教に一任して教育は知る処に非ずといつて、今日以後の国民を作ることが出来るであらうか。私は折角勉強して出て居る間に、問題が要領を外れたやうに考へられるから、失礼を顧みず愚見を述べましたが、幸に御教示を賜はらんことを願ひます。

 成瀬仁蔵氏=帰一協会が提出した宗教と教育との問題の意味が多少徹底して居ない傾きがあるから一言いたして置きます。今宗教信念と云ふのは所謂既成宗教や宗教の儀式を学校教育に入れると云ふのではない。更に広義な普通的の意味に於て如何にして信念を養ふかと云ふ問題で、つまり生に対する態度或は感情教育と云ふ様な意味の信念を教育に入れやうと云ふ意味であると私は解してゐる。
 而して此の生に対する態度、其の感情即ち宗教的本能と云ふ様なものは、子供の時から何等かの形式に表はさうとするのは普通ある事で私の実験にもあつた。私は六歳の時慈母を喪つたが、臨終の時僅かに母を見たのであつた。子供心にも如何にも悲しく、其の後は母は何うなつたかと云ふのが唯一の疑問であつた。之を寺の住職に尋ね、儒教の先生に問ふても満足する事が出来なかつた。其の間常に仏前に拝し
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て何か霊的のものを求めてゐる、此の心持とか、或は戦場にある父の武運を祈るとか云ふ信仰形式が子供心にも現はれて来る。かゝる発心は児童と同程度にある野蛮人にも必ず見る処である。之を学校教育は何うするか、宜しく適切なる指導を与へて子供を満足せしめ、子供相等の信念を養ふことは必要ではあるまいか。
 其の方法は色々あらうが、先づ第一に児童は野蛮時代の人間の如くに自然崇拝者であるから、既に欧米でも行はれて居る様に、学校に於て自然研究を課し、又は神話、お伽話等によつて自然に対する同情を養ふことに依て其信念を養ふのである。兎に角霊的なものに対し、子供相当に尊敬を表する形式をとらせたいものである。所謂形式に囚はれた宗教を学校に入れることは勿論出来ぬけれども、本会の主義とするやうな信念は之を養ひ得るのみならず、是は教育上非常に大切な事で、斯くして大きな道徳が養はれるものであると信ずる。
 要するに本会に宗教的信念を教育に入れるの可否如何と云ふのは、沢柳氏の云はれた様な青年十七・八歳に萌すところの哲学的宗教のみを云ふのではなくて、普遍的宗教信念のことを指すので、其の信念を涵養するは実際どうすべきであるかの問題である。

 井上哲次郎氏=沢柳氏の説は大体に於て同感である。然し抑も宗教とは如何なるものであるかといふことが、更に重要なる点で此意義を明かにしたならば今の教育と宗教と云ふ問題も解決する事が出来ると思ふ。
 宗教の意義に付ては人によりて解釈が異るであらうけれども、各宗教に共通した点が大体幾つもある、之が研究すべき問題で、本会の研究問題も此点であらうと信ずる。即ち共通点としては(一)教育が人間の智識慾を充すに対して、宗教は凡て情・意の二方面の要求に応ずるものである。(二)又何れの宗教も心霊的の方面を尊び、人をして敬虔の念を生ぜしむる事。(三)善に味方して活動すれば善結果を得、不善に味方して活動すれば悪結果を得る事、即ち因果応報の考は独り仏教に限らず、基督教にも神道にも孔子にも老子にも同じ様の考がある。こう云ふ点に各宗教の生命があり又希望を将来に繋ぐ所以である是等は皆各宗教に共通のものである。唯各宗教が起つた時代・境遇等が違つて居るから歴史的発展の形迹は各々異つて居るけれども、是れにも一の宗教にあつて他の宗教に欠けてゐると云ふ様な事はない、即ち宗教のエツセンスは何等かがある。

 渋沢栄一氏=私なども無宗教の人間で、子供の時から親が仏法嫌ひであつた為めに、先入主となつて、儒教といふ程漢学を修めたのでは無いけれども、先づ孔子の教といふものが、一身の安心立命である、さういう風に幼少から修行して参つたのであるが、近頃仏教なり耶蘇教なり、幾分か知りたいと思つて、或人に就いて少しづゝ学んで居りますが、如何に勧められてもまだ宗教に這入る心にはなりませぬ。併し何うも人に信念がなければならぬといふことは以前から思つて居ります。即ち宗教的信念を有つて居るかどうかは分りませぬが、人たる
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ものは斯くしなければならぬものであるといふ風に、関係の青年にも教えて居ります。即ち天が真正である、それは必ず守らなければならぬ、といふのである。それを宗教といふならば多少宗教心を有つて居る訳である。そこで近頃教育が段々進んで参つて、智識の進歩する割合にそれに伴ふ人格が修養されないといふことは、世間一般に今日の欠点の如くにいひなして居る。私共もどうもさうかと思つて居りますそれから考へると、智慧だけは進んだけれども、人格の修養が乏しい又鞏固なる意思を有たないといふことに就いて、頗る懸念に思はれる為めに、小部分のことであるけれども、例へば私に随従して居る事務者といふやうな人々、多くは実業家・銀行会社員、其他の使用人といふやうな竜門社に集合する人々にも、宗教ではないけれども人の守るべき仁義とか、実業上守るべき道徳とかいふものがある。例へば人たるものは国家を根本に置いて何事も経営しなければならぬ。苟くも欺くといふことは悪いことであるから、さういふ心を起してはならぬ。又事業進歩の為めには智識を磨かなければならぬが、如何に智識を磨くとも、自己の富許りを目的に事業を経営するは、人生の道理に背く訳であるといふやうな廉々を、先づ信条ともいふべきものは固守しなければならぬ、それを守らない時は人たる資格はないといつて居ります。それから埼玉県人の有志が組織した学友会の会員は二・三百人もありますが、それが東京で埼玉県人の学生の寄宿舎を作りたいといつて埼玉学生誘掖会の名を以てやつて居ります。この寄宿舎には百二十人位這入つて居る。私がその会頭に推されて今日十年からやつて居ります。これも今いふやうな宗教といふではないけれども、此寄宿舎に這入つて居るものは色々の種類があつて医者・政治家・農工商・法律等其の志望は色々であるが、苟も此処に這入つたものは、一の守るべき所の一定の心得がなければならぬといふので、寄宿舎の要義として七つの箇条を定めました。これは勿論国民的のもので、或は教育勅語に基き、或は己れの実験により、或は衛生の注意等で七ケ条を簡単に定め、之を信条として居ります。それから私の関係して居る修養団、これは大分人数が多くて、二・三千人もあるが、五・六年前から私が相談相手になつて、多少費用も補助して、近頃高等工業学校の傍に、森村君と申合せて資金を貸与して寄宿舎を作つてある。此処でも埼玉県人と同じやうに各種各様のことをやつて居る。其の事柄は種々であるけれども、守る所の国民道徳は斯くしなければならぬ。君方の作つた規約は君方で破つてはいかぬといふやうに流汗主義・鍛錬主義・労働神聖を主張して、苟も人に対して虚言を吐いてはならぬ、必ず勤勉に働らかなければならぬ、つまり日常の起居動作、休息、食事の場合でも必ず守つて行くやうに、一種の信条を作つて居ります。此の如く私の関係して居る所では、特に宗教を以て見ることは出来ないけれども、これ等の道徳的行為を信条として勧めて居るのである。
 処が各大中の学校では大体に於て、今日の修身倫理といふやうなものに、もう少し、只今私の申上げた信条といふものが加はつて欲しいそれは良いか悪いかは分りませぬけれども、私は良い積りで居る。今の教育法では何といふて宜いか知らぬが、短い言葉でいふなら徳育と
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いふ、此徳育には必ず守らねばならぬといふ信条が必要であると思ふそれらの方法が今の教育に於ては欠けて居りはせぬかといふ恐れがある。先頃から教育調査会が開かれて居るが、年限を詰めたい、漢字を減じたい、或は階級的学制を変更したいといふやうな、学制の変更学制の改正といふ方面は調査して居るけれども、私の希望する道徳的教育・人格を修養するといふやうな事は少しも論及されて居ない。それは到底今風の教育で出来ないのであるか、今日の学科には加味することが困難であらうか。私の知識が乏しい為めかも知れぬが、実は物足らないと思ふ。世間でも其の足らないことを認めて居り、又足ることを要求して居るにも狗はらず頗る頼み少い事である。故に教育調査会は学制調査会でなくして少し教育の根本に論及することは如何であらうか。特別委員会を設けてあるから、それへ意見を出したいといふ希望を私は有つて居る。繰返して述れば私は宗教家ではないけれども、一の信念は欲しい、人たるものは信念を確守することが極めて大切と思ふ。例へば天命を楽むとか聖人の言を恐るとかいふことを教育学に少し加へて見たいと思ふのである。併し苟も宗教形式に属することは学校に入れて困るといふ御説は御尤もと思ふが、それは除外しても、今日の教育法にも少しは信念を養ふといふ趣向が必要ではないか、専門の知識を有つて居られる沢柳博士に伺ひたいと思ふ。

 沢柳政太郎氏=成瀬君の御経験のあつたことの如きは、必ず事実で幼少の時に既に宗教心が萌されたのでありませう。頼りにせられた母を失つたと云ふ悲惨の出来事の為めに、幼年の心の底に潜んで居た宗教心が芽を出したのであらう。かゝる例は前に申した如く高僧の伝を見れば多くある。しかしそれは矢張り例外であつて、一般に推し及ぼすことは出来ないと思ふ。或は又極く鋭敏なる人は、必ずしもさういふ母が死ぬ父を失つたといふやうなことが無くても、即ち釈迦が病人を見て或は老人を見て、人生の果敢なきことを悟り、それから宗教心を起したといふやうに、鋭敏なる人はさういふこともあらうと思ふがそれは極く取り除けの場合であると思ふのである。よし又取り除けでないとしても、只今のお話に出たやうな工合に、未来といふやうなことを説明するのは、如何に之を説明するか。子供相当に子供の分るやうにといふことであれば、或は極楽或は天国に生れるといふやうに説明しなければなるまい。極楽は何処にあるか、天国は何処にあるか、と尋ぬれば高い天にあるとか、西方十万億土にあるといふやうに説明する外なからう。何となれば小供に向つて極楽も天国も唯心であるとまさか説明もされない。而して此の如き説明は家庭の父母か、宗教家に任すべきもので、学校のなすべきものではなからう。大体に於て宗教家の相手とする所は、学校を出て世の中に働く人々であると思ふ。而して世の悲惨・不平・不満・失望に対する慰安を与へ、安心を与へるといふ方面に努力すべきである。素より宗教家が有縁の幼少の者に向つて、それぞれ宗教的感化を及ぼすといふことは毫も妨ないことゝ思ふ。
 学校教育は、即ち知識を授けると共に徳育をなす、其徳育は所謂世
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間的の道徳である。嘘をついてはいけない、親切でなければならぬ、勤勉であれ、忠義の心を励ませといふやうな世間的の道徳を授ける。其の世間的の道徳といふものが、宗教の根本に拠らないと基礎が弱い効果が少いと言ひ得るであらうが、さうなると宗教が一つでないから何うしても根本を得ようとするには、各宗教各派の教義によつてやることの外に無いといふことになるのである。すると先刻成瀬君の言はれた通り、各宗各派を学校に入れることは出来ないからそれも行ひ難きことゝなる。嘘をついてはならぬ、親切でなければならぬことを学校で教へる。家庭及教会寺院に於ては更に根本に溯り、宗教上の信念を与へるといふ風にして宜い。必ずしも教場に於て世間的の道徳を教へると共に、宗教上の教育を施さなければならぬといふものではない教育家も宗教家も共に社会に必要なもので、各々其の仕事を分担して働くのが正当であらうと思ふ。

 片山国嘉氏=沢柳氏の唯今の御説に依ると宗教心の発芽は十八・九歳の頃であるやうに御話しでありましたが、私の見る所に依ると小学の学齢時代に其の萌芽は既に発生すると思ふ。其の萌芽が十八・九歳の頃に至ると理智の発達に伴ひ大に其の影響を受けて爰に哲学的色彩を帯びて来るまでのことで、此頃に初て発芽するのではないと思ふ。
 試に私一個の経験を述べんに私の四・五歳の頃家に一人の忠僕が居た。毎朝早起水浴を採り次に東天に向つて太陽の昇るを見て南無日天云々と唱へ言をして之を礼拝するのを例とした。又私が悪戯をすると母さんは見て居なくとも天道様が見て御座る、天道様には夜でも昼でもちやんと見へるから悪い事をしてはいけませんと云ふて私を警めて呉れた。私は当時其の僕の云ふこと為すことを見て、時には太陽を礼拝したこともあれば天道様は見透しといふことが私の悪戯を何程制止したであらうか、其御蔭は中々著明であつたと思ひます。又私の郷里は遠州秋葉山の麓である、秋葉山は天狗の名所であつたので常に屡々其話を聴いたが、悪戯をすれば深い谷底や海河に投込まるゝのを恐るると同時に、心正しくして毎に善い事をすれば、義経が鞍馬山にて剣道の奥義を伝へられた様に、我々にも亦奇術を授けては呉れまいかと心潜に天狗に伴られて行つて見たいと希望した覚もある。それは凡そ八・九歳頃のことかと思ふ。是等が子供時代の霊的観念で即ち宗教心の萌芽である。今の小学及中学の教員中には此の如き宗教心の萌芽を何の理由もなく無暗矢鱈に破壊して之を穏健なる方向に善導しやうとせぬ人もあるが、これは甚だ宜しくないことである。さればとて小中学校に於て宗教を教授せよと云ふのでは勿論ない。中小学校で宗教を積極的の方法で教授することには私は反対であると同時に、消極的の方法で児童の脳裡に自然と発生する宗教心の萌芽を妄に破壊することなく、其の児童の心理状態に相応したる適度の善導が肝要であると思ふ。然し教員をして適当の方法を以て適時之を適当に善導せしむるには、それ相当の宗教上の一般概念が其の脳裡になくては出来ぬことである。乃て之を学校教員に授け置くことが肝要である。これは生徒に積極的の方法で宗教を教授せしむる為ではなくして消極的に誤りのな
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い最良の態度を取らしむる為であります。
 以上は私の経験と意見の一斑でありますが皆様にも必ず何等かの御経験はあらうと存じますから、私は此の問題の結了を急ぐよりも諸君の御話を此上共尚沢山に伺いたいと存じます。


集会日時通知表 大正三年(DK460135k-0008)
第46巻 p.576 ページ画像

集会日時通知表 大正三年         (渋沢子爵家所蔵)
拾弐月十六日 水 午後四時半 帰一協会例会(上野精養軒)


帰一協会記事一(DK460135k-0009)
第46巻 p.576 ページ画像

帰一協会記事一             (竹園賢了氏所蔵)
    十二月例会
十二月十六日 ○大正三年 出席会員左の如し
 服部宇之吉氏   フイツシヤー氏
 渋沢栄一男    福岡秀猪氏
 吉川重吉男    宮岡直記氏
 石橋甫氏     五代竜作氏
 成瀬仁蔵氏    山田繁雄氏
 マツコーレー氏  吉田静致氏
 成田勝郎氏    古谷久綱氏
 中島半次郎氏   中島力造氏
 筧克彦氏     浮田和民氏
 内ケ崎作三郎氏  チールン氏
 片山国嘉氏    塩沢昌貞氏
 江原素六氏    高田早苗氏
 加藤玄智氏    斎藤七五郎氏
研究題目・主題者左の如し
 児童及青年に於ける信念の創生及涵養方法
                   成瀬仁蔵氏
 欧米に於ける宗教状態の観察
                   高田早苗氏
本夕は尚ほ服部宇之吉氏、宗教と教育問題との関係に関する過去半年間の本会研究の帰結を実行すべきや否やに就て一同の意見を徴せらる中島力造氏・筧克彦氏及五代竜作氏等の発言ありき。問題甚だ重大なるが故に次回に於て討議する事と為す。


帰一協会会報 第五号・第五三―五四頁大正三年一二月 十二月例会(DK460135k-0010)
第46巻 p.576-577 ページ画像

帰一協会会報 第五号・第五三―五四頁大正三年一二月
    十二月例会
 十六日開会。初め左の講演ありき。
 児童及び青年に於ける信念の創生及び涵養方法
                   成瀬仁蔵氏
 次いで幹事服部宇之吉氏は、宗教と教育との関係に関する過去半年間の本会研究の帰結を実行す可きや否やに就いて、一同の意見を徴せらる。中島力造氏・筧克彦氏及び五代竜作氏等の発言ありき。問題甚だ重大なるが故に次回に於て更に討議する事となし、過日欧米漫遊より帰朝せられたる高田早苗氏の講演を聞けり。
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 欧米に於ける宗教状態の観察   高田早苗氏
 当日の出席者二十六名。