デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.722-730(DK460181k) ページ画像

昭和8年11月15日(1933年)


 - 第46巻 p.723 -ページ画像 

是日当協会、日本倶楽部ニ於テ、故渋沢子爵追悼懇話会ヲ開催ス。


■資料

帰一協会紀要(DK460181k-0001)
第46巻 p.723-727 ページ画像

帰一協会紀要              (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    帰一協会紀要
     (別筆)
日時    昭和八年 十一月十五日(水)午後四時より
場所    日本倶楽部
出席会員  三十名
故渋沢子爵追悼懇話会
    追憶 会員 阪谷芳郎氏
       会員 堀越善重郎氏
       会員 海老名弾正氏
          姉崎幹事
 故渋沢子爵が逝かれて已に三年を経た。子爵は実業界の大偉人であると共に、又文化事業就中帰一協会に大いに貢献された人である。本日故子爵の三回忌の追憶会を催すに当つて、子爵と眤近且親族に当られる阪谷男爵、子爵と外国貿易上親交あつた堀越氏及び子爵にキリスト教を講じられた海老名氏に、ありし日の子爵の追憶談をお願ひすることにした。
  阪谷芳郎氏
 偉大なる人物は其死後年を経るに従ひ愈々其偉大さがあらはれる、之に反し普通凡庸の人物は日を経るに従ひ段々消えて行くのである。
 我が帰一協会の大切なる創立者にして後援者の一人たる故渋沢子爵は、年月を経るに従ひ愈よ其偉大さが思はれる。余は子爵の近親の一人であるにも拘はらず、遠慮なしに斯く言ひ得るのである。
 子爵は初め政治界方面に於て、後に実業界方面に於いて、最も多忙であり有力であつた。其傍ら宗教・哲学・社会事業方面にも深き趣味を有し、其偉大なる力の一部を此方面にも注がれたのである。我が帰一協会の創立者中の中心人物として、又多年本協会の後援者として、終始変る所なく、渋沢子爵の尽されたることは諸君の熟知せらるゝ所である。其尽力は資金の援助のみに止るのではない、又会員の集め方会務奨励の如き事業に関する事のみではない、実に会の考究すべき重要問題に付て指導を与へられたのである。子爵は商工業が進み国民の富力が増せば果して道徳が低下するものであるかと云ふ点に付て、深き疑を懐いて居られた。所謂ゆる幾多の社会問題の発生を防止し、社会の安寧を維持するに付、其第一原因を求め、之を除却することに付て最も考慮して居られた。子爵自身には、論語と算盤を密着せしむると云ふことを以て問題解決の最上理想として居られた。子爵が森村男成瀬仁蔵君等と共に、我が帰一協会創立に尽力せられたのも、主として此問題を解決し思想の悪化を防止せんとするにあつた。此事に付て成瀬君は渋沢子爵・森村男両翁に取て実に好き相手であつた。少し横道に入るが成瀬君も実に哲学宗教方面の偉人であつた。同君は御承知の如く両翁の外に大隈老侯を説き、日本に於て初ての試である女子大
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学の設立に成功した人であつて、又我が帰一協会の研究方面に於る大切なる中心人物の一人である。同君は妻もなく子もなく、実に一身を日本女子大学の事業に委ねられた人にて、其死するや同君の所有財産(主として書物)は全部同大学に寄贈せられ、死生共に同大学と同一体であつたと云ふ美談を遺され、同校学生に対し今日まで強き感化を与へられて居るのである。
 帰一協会の創立後二・三年の後に、森村翁の強き主張で、自分はもう老年でもあり帰一協会の如き遠大の原理を論じ合て居るばかりでは甚だまどろかしく思ふ。もつと手近にみて適切なる思想悪化を防止する方法はなきかとの申出に対し、成瀬君が種々考究の結果西洋にある「フリーメーソン」の組織方法に類似して、日本の現在に適するものを作りては如何として一案を起され、森村翁は深く之に共鳴し、渋沢翁に相談あり、両翁主催の下に大正三年四月五日、日本女子大学の一室へ菊池大麓・中野武営・大橋新太郎・服部金太郎・高田早苗・浮田和民・久保田譲・鎌田栄吉諸氏が招かれ、此外に両翁、成瀬君及余も加はつた。当時高田・浮田・久保田、鎌田四氏は差支欠席であつたが其他は皆集まつた。其後数回寄合ひ、名称は自助団と称することゝなり、創立資金として三十万円を渋沢・森村両翁より提供する旨を申出られた。然し趣旨・方法に付ての意見がなかなか六ケ敷、容易に一致を見なかつた。其内数年を経過し、成瀬君が大正八年三月四日死亡せられたので、とうとう何も纏まらず成立を見ずして已んだ。何の時であつたか、鎌田栄吉君が極て大切の問題であつて、渋沢・森村両翁より三十万円の資金申出を受けながら、とうとう御返上を申上ねばならぬとは、今更ながら我々の無識・無気力を嘆ぜざるを得んと曰はれたることを記臆する。
 右自助団の趣意書は成瀬君が一度筆を執られたが、何分意見一致を見ず、依て之は何人よりも渋沢翁自身の肺腑より出たるものが、最も根本的で適当であると云ふので、同翁に申上て翁も承知せられ、夫れでは一つ筆を執て見ようとのことであつた。然るに非常に多忙なる翁の事であるから延々となつて居たが、翁が多年の宿志であつた曲阜訪問旁支那視察に出掛けられることになり、旅行中は多少時間もあるであらうから、一つ是非草稿なりとも作つて見ようと申された。所が旅行中は一層忙はしく、なかなか筆を執らるゝ暇もなく、其内途中より病気に罹られ、未だ曲阜に到達せられざる以前に、非常に残念がられたが是非なく帰国せらるゝことゝなつた。
 余が手にする此の書翰は、渋沢翁が大正三年五月十六日漢口に於て未明に起きて寸暇を利用して認められたるものにして、今申したる自助団の事に付て関係諸君への申訳である。当時写を取りて関係の諸君には配布したと思ふ。此書翰を一読すると、如何に翁が此事に熱心であつて、物事に徹底的であるかゞ分かる。同時に又、今日現在我々心配しゝある思想の悪化に付て、渋沢・森村両翁の如何に先見の明を有せられたかを驚嘆せざるを得ない。余は此書翰を朗読して、今日の追憶談の結びとする。
 拝啓 爾来御渾家ハ勿論各親戚一同無別条ト遥祝仕候、当方モ東京
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発途以後一途平安、昨日ハ漢口到着、行程都而予期以上之都合ヲ以テ、既ニ禹域之一部分ヲ視察致居候、兼而懸念セシ航路モ瀬戸内海ハ申迄モ無之、長崎上海間トモ風浪極而平静ニテ、船疾之憂トテモナク、長江筋之航路ニ於テハ、寧ロ支那各地歓迎等之面倒ヲ避ケ候一時之休憩時間トモ可申位ニ自由安楽ニ起居罷在候
上海着後支那官民之一行ニ対スル歓迎振ハ頗ル鄭重親切ニテ、時ニ或ハ迷惑ヲ感スル位ニ御座候、杭州・蘇州・南京・九江・大冶等ヲ経、当漢口ニ到着候マテ、到処騎馬巡査等之護衛モ有之、各停車場又ハ碼頭ニハ支那官民之送迎者満場之姿ニテ、王公之旅行ト怪マレ候程ニ御座候
各地之人情風俗及土地之貧富、物資之豊歉等ハ一瞥之能ク知悉スヘキモノニ無之候得共、概言スレハ如何ニモ天恵ニ余アリテ人功皆無ト可申姿ニ相見ヘ候、此人力未加之有様コソ我邦人ノ大ニ注目努力ヲ要スヘキ点ニ付、老生ハ日夜一行之人々ニモ訓戒仕居候、殊ニ其施設之方法ニ於テ、飽迄モ老生従来ノ処信ニヨリ、王道ヲ以テ四百余州ヲ啓発シ(最近の満洲国の施政に王道政治といふことが、いはれてゐるが、子爵は既に二十年も前にその言葉を使つて居られる)曲阜之聖廟ニ対シ微分タリトモ宿昔崇敬之報効相立度ト老躯ヲ忘レテ一大期念相定候義ニ御座候、此等之詳細ハ他日帰国御面話ニ相尽シ可申候得共、実ニ長江一帯之物産就中大冶鉄山之景況抔ハ只々垂涎三尺ト申外形容之辞トテハ無之候、特ニ一事申上度ハ出立前種々御心配被下候自助団之義、御約束ニ従ヒ船中ニ於テ成瀬君起稿之趣意書其他之規定等迄再三熟覧シ愚考モ一応起草相試候得共、所謂百年否千万年ヲ期スヘキ大文章トモ可申モノニ付、不文之老生旅中匆卒ニ原案相定兼候、去迚成瀬君之案ニテハ森村翁ト老生ト中心ヨリ発露セシトハ誰トテモ相信シ申間敷ト存候、而シテ此趣意書コソ真ニ両人衷情之相発スルモノト致度候ニ付テハ、縦令時日ハ少々遅引イタシ候トモ、願クハ来月下旬帰朝後ニ於テ緩々御審議相願度ト存候(子爵ハ平常から社会の思想悪化を憂ひて居られたが、遂に今日その悪化の時代が来て居る。これに付ては我々も責任を感じる。翁の三周忌の追悼会にあたり霊前に詫びを申したい。)依而右之段第一ニ森村翁及成瀬君並ニ首唱発起之諸彦ニ御伝声被下度候、而シテ此組織之必要ナルハ旅行中感慨相増候点モ不少候ニ付、御一同ヘモ別而御打合被下、時日稽延之為呉々モ惰気相生候之恐無之事御申合被下度候(子爵は仕事をされる時にはその直接の当事者のみならずその他の関係者にも釘をさすといつた風で、きちんとした人であつた。その態度がよくこゝに表れて居る。)
前途之旅行日程モ出立前予定之如ク継続之積ニ候モ、本邦帰着之後九州又ハ京坂名古屋ニ各一日位ヲ要シ候筈ニ付、東京ヘハ月末ニ相成可申ト存候、予メ御承知被下度候
成瀬君ヘモ一書差出候積ニ候得共、本書相認候モ今朝未明ニ勉強イタシ漸ク出来候位ニテ、日々来訪者又ハ各所訪問・宴会モシクハ見物等ニテ真ニ寸暇無之候ニ付、其辺御通シ置被下度候、森村翁ヘハ御疎音仕候、其他之諸君ヘモ御鶴声被下度候
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王子宅・兜町之一同及第一銀行之諸君ニモ其内出状之心得ニ候、今日ハ最早約束時間ト相成候ニ付、右等モ夫々御通声被下度候、毎度電報被下忝存候、乍序御礼申上候、右当用可得貴意如此御座候
                          敬具
  大正三年五月十六日朝、漢口客舎ニ於テ
                     渋沢栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
尚々琴子始御家族一同ヘ宜御申伝被下度候
牛込ヘモ老生無事之段御申通シ被下度候也
  堀越善重郎氏
 青淵翁は一昨年十一月十一日に薨去され葬儀は同月十五日であつた本会で今日、その追憶の会合を催される事は誠に意味深い事である。
 青淵翁に就いて今更上げるまでもないが、私の関係する範囲で追憶を申述べ度いと思ふ。
 私は明治十二年栃木県から東京へ出て統計学校へ入学したが、その学校は商人に教育は不必要との理由で廃校にならんとした。それが青淵翁等の援助で貯金を以て維持されることになり、後に農商務省の管轄となり、更に文部省に附属することになつた。
 青淵翁は商人に教育の必要なることを夙に主張され、商科大学設立にも大いに尽力されたのである。
 翁が慶応三年徳川民部卿に従つて欧洲に渡り、白耳義の皇帝に拝謁された時、同国皇帝が民部卿に自国の鉄を輸入せよと勧めた事を聴いて、皇帝までが日本で劣等視せる商業に留意し且自ら直接交渉されたのに非常に感服して、日本に於いても大いに商工業を盛大にせねばならぬと決心せられたのである。又商人の地位の向上といふことを常に考へて居られた事は申すまでもない。明治三十五年米国に渡り、時の大統領ルーズベルト氏から日本の芸術、日露戦争の勝利を称へられた時、翁は少しも喜ばず、商業上の日本の讚えられないのを残念に思ひ大いに商業上に努力せんと意を決せられた。後大正四年再び渡米し、ルーズベルト氏から日本の実業について称讚を受けられた時は、大満足の様に思はれた。
 又青淵翁は外国人の間に非常に信望があつて、この人程外国で歓迎を受けた人はないと思ふ。かつて移民問題でやかましかつた頃、加州で労働者の指導者ゴンパスに面会された事があるが、ゴンパスは階級的な人には一切出会はない主義の人であつたにもかゝわらず、渋沢翁にだけは是非一度会ひ度いと思つて居り、幸ひに招かれて面接出来たことを、大変喜んだことがある。
その後シヤーレンバルグも渋沢子爵(当時男爵)を非常にほめて居た事を聞いて居る。
 青淵翁は又移民問題に心痛して居られたが、シヤーレンバルグは移民問題に就いて、渋沢翁の意見を聴き度いとの希望を述べて居た事がある。
 ジヤツジ・ゲーリーは、日米問題のやかましい時、日本に渋沢子爵
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(当時男爵)が居られる限りは、日米戦争は起らないと断言した程であつた。如何に翁が日米問題、殊に移民問題に心痛し、その紛糾を緩和することに尽力されたかを察し得ると思ふ。
  海老名弾正氏
 青淵翁はよいと感じた事は何でも実行する人であつた。例へば日曜学校等にも感心しこれを普及させ度いといふ希望を持つて居られた。
 又支那人にも好意を持つて居られた。子爵は儒教を以て身を立てんとする人なる故、儒教を説く支那人に好意を持たれたのであらう。子爵は論語を重じ孔子を師として居られたのであつて、実業と論語に説く実践道徳の一致を高唱されたのであつた。又一方キリスト教をも研究し度いと言はれ、私がお話をしたが、その間常に弟子の如き態度に出られ誠に恐縮して居つた。その謙遜なる態度には驚くばかりであつた。そうしてキリスト教の説く教へにも感心して居られたやうである由来儒教は敬虔の情を忽にする様に見えるが、子爵は此の敬虔の情を非常に重んじられた事は私の強調し度いと思ふ点である。
  渋沢敬三氏
 本日祖父の三年忌の為めに会合を催された事を篤く感謝致します。私は遺族として近親者として、祖父の日常生活に就て感じて居つたことを二・三申上げます。
 私が祖父を知つたのは皆様方よりおそいのですが、祖父にいつも附き添つて居た故、皆様の気付かれない点を申上げ度いのである。祖父は八十才を境として非常に性質が変り、従来の理窟屋も余り語らなくなり、ユーモアーも減じ食事も減じ、一種仙境に遊ぶとでもいひたい風格が出てゐた。晩年には背が淋しく見えた事を痛切に感じて居た。
 祖父の死は直腸癌であるが、その為めに人工肛門をつくる手術を受けた。その時三国志の関羽の故事を思ひ出したが、自分はそれ程の勇気がないから、痛くない様にして呉れと云つて居た。手術は簡単に終つたが、祖父は人工肛門を造つてまでも生きて居り度くないらしかつた。即ち祖父は元気で活動するか、然らざれば死かといふ人生観を持つて居たと思ふ。
 食物も相当とつて居たし、十一月の九日の朝発熱したが、肺炎も脈搏もそんなに悪くはなかつた。たゞ最ういゝのだ、たゞ最ういゝのだと思つて、満足に自分から瞑目したものと思はれてならぬ。この感じは後になつても益々強く、祖父に一足先を越されたやうな気がする。既に六日の日には実業界の方々と御訣れをした。
 尚ほ皆様から祖父の性格や業蹟を感嘆して頂いて、遺族として私は非常に嬉しく、深く感謝する次第であります。
  姉崎正治氏
 敬三子爵のお話をうかゞつていると、青淵翁の臨終は全く熊谷入道直実のそれと似て居ると思ふ。
 翁は又お話のとほり非常にユーモラスな人であつて、諧謔もうまかつた。且つてアメリカから飛行家が来て、子爵はその世話をされたことがあつたが、その飛行家について兎角の噂のあつた時等、滑稽な諧謔を云はれた事もあつたのを想ひ出した。

 - 第46巻 p.728 -ページ画像 


〔参考〕竜門雑誌 第五四二号・第四二―四六頁 昭和八年一一月 青淵翁と宗教問題 姉崎正治(DK460181k-0002)
第46巻 p.728-730 ページ画像

竜門雑誌  第五四二号・第四二―四六頁 昭和八年一一月
    青淵翁と宗教問題
                      姉崎正治
 青淵翁長逝の後二年を過ぎての今日、世の様、人の心の動きを考へて見れば、翁が生前、国の為、世の為に憂慮せられたあらゆる諸相が目前に開展して、生き残つた我等の無力を痛嘆せざるを得ない。然し又動揺のある奥にはそれだけの力が生命開展の苦闘をしてゐるしるしもあり、煩悶と共に希望あり、苦悩の裏には新生気の発動もあらう。
 今後世界文化の行末についての私見は暫く別として、青淵先生が故成瀬仁蔵君や我等と共に帰一協会を組織せられた時の考を追憶して、今後の参考にして見たい。彼会の始をなした六・七人、各々着眼の差異もあり、見込や希望を異にした点もあつたが、国運や文化の問題はその最も深い奥底に於ては人心の問題、人間が如何に人生を観て、それに依つて人生に処して行くかと云ふ点に帰着するとの見解に於ては一であつた。此の様な見方は、二十年後の今日、所謂る『思想問題』が一世の大事となつてゐる状態では、当然の事の様に思はれるが、世界大戦などは多くの世人には殆ど夢にも上らなかつた明治の末年にはまだ夢の話の様に扱はれてゐた。現にその後数年、世界大戦の最中には、日本の上下挙つて、富国強兵、実力さへあれば万能だと云ふ考で動いてゐた頃には、我等帰一協会の者が、も一つ奥に人心の問題が大切だと云ふ事を種々の形で提唱した時は、多くは冷笑又は猜疑を以て迎へられたのであつた。我等が人心問題(まだ思想問題といふ成語はなかつた)を提げて時の首相に建言した時には、殆ど狂人として取扱はれた位である。
 さて然らば、青淵翁が人心問題について如何に考へて、帰一協会を興されたかといふに、その始、王子邸で発起相談会を開いた時にも、又その後会合の席上で時々話された要旨は左の如きものであつた。
 『明治二十何年かの頃、一外国人が来訪、種々談話の中、明治維新の事を語り、つまりその原動力は、近くは泰平二百余年の間に、遠くは国史を通じて養はれた士気の修養、忠孝の大本と共に愛国の誠が、形を変へても流れてゐた人心の力がこゝに現れたものだといふ説明をした。ところが、その外国人は進んで問ふた。今までの日本が此の如くにして維新を遂行した事は誠に結構であるが、今後もそのまゝで進み得るとお考へになるか。現に維新以後、西洋の文物を輸入し、新科学の力で生活様式も変化し、産業の勃興で、社会の情勢も大分変化したやに見受けるが、修養徳教は元のまゝで通り得るや否や。又今までの士分の響導が今後も完全に行はれるとお考へになるや。此がその外国人の質問であつて、自分も直にこのまゝで同じ様に行き得るといふ確信はなかつたので、爾来此問題は常に念頭を去らなかつた。自分が七十歳を期として実業界を退いたのは、楽隠居をする為でなく、実は此から此の問題、人心を如何にするかと云ふ問題を主として世に尽したい為である。其為に諸君と協同し討議を尽して、人心徳教の事に進みたい。』
 - 第46巻 p.729 -ページ画像 
 大体右の様な意味での提案であり、我々は何れも同感を表して討議を進めたのであつた。その間に種々の論点も出たが、青淵先生は度々云はれた。『此問題は自分一己だけならば、云はゞ解決も出来てゐる即ち儒教で所謂る天命を仰ぎ天命に安んずるといふ一事で足りる。自分は此信念を以て一生を貫き、生死共に此の安立で足りるが、さて然らば、それと同様に社会民衆を動かし得るやといふ段になると確信はない。又士分の修養として効果を呈した儒教が今後社会全般を率ひ得るやと問はれると、直に然りと断言するだけの勇気もない。而して一方、日本では仏教、西洋ではキリスト教などが弘く深く人心を感化した跡を見ると、どうも宗教といふ点に着眼せざるを得ない。儒教が宗教であるや否や。又仏教などが儒教とはどう違ふなど、自分は一々知らないが、何となく感化の及び方に違ひがあるやに見えるから、所謂る宗旨くさい意味でなしに宗教の力を認めざるを得ないと共に、又色色の宗旨が各々吾がほとけ尊しで我田引水の争をしたり、又その信仰にはどうも迷信分子も多い事を見ては、その間に如何の撰択をすべきかに迷ふ。それだから諸君と共に其等の問題を明にして今後の人心感化に方針を立てたいと思ふ、云々。』
 そこで、青淵翁のお考には、諸宗分立の間に立つてその精髄を発揮し、どの宗教も異存のない中心を明にすれば、それを以て将来の人心を支配し得やうかとの希望が可なり強かつた様に見える。其から愈々帰一協会の名称や目的を定め、その創立に人々を招待して、その趣意を述べられた時にも、右の様な考が自ら強かつた。(それまでに我々が各々意見を出した事は後に述べる。)其に対して来賓の一人大内青巒氏は下の如く述べた。曰く、『御希望には尤もな点もあるが、今まで仏教だけの歴史を見ても、同様の意味で、却ち仏法諸宗の異を去つて、中心統一を遂げようとして種々の新運動が起つたが、統一にはならないで、新に一宗を立てる結果となつた。古話にある顔にこぶのあるものがこぶを取り去らうとして又一つ新にこぶを附加する様になつた。こゝに又帰一宗といふ様な一宗が出来ると云ふ様な事にならない様に。』大内氏の此言には、青淵翁も大分動かされ、後になるまで、時々『大内氏のあの言は忘れてならぬ』と云はれた。
 実は、右の意味で『帰一宗を作るや否や』といふ問題は予備討議中に屡々出た論点であつて、青淵翁のお考にはその傾向があつたと共に成瀬君にも同じ傾向があり、此点は他の数人と少し異なつてゐた。即ち、人心感化について青淵翁のお考は、やはり徳川時代の儒教風に、『上の徳は風、民の徳は草』といふ様に、先達者が良い教を立てゝ之を民に与へるといふ傾向があつた様に思はれる。他方、諸宗教が異を立てるには随分非理の点はあるにしても、又特殊の主張には其々の力があるといふ点については、我々宗教を研究してその生活力を見る者の見る所と、青淵翁の『民を率る』といふ考との間に幾分の距離がとれなかつた。『信仰の問題は、只他人を率るといふだけでなく、他人と信を共にし、生死を共にするといふ力でなければならぬ』とは、自分が時に応じて進言した所である。而して、諸宗教の主張又特色は、外間から見ては無意義な様でも、その信仰の生命として離し得ないも
 - 第46巻 p.730 -ページ画像 
のもある(尽くではなくとも)のであるから、単に異を捨てゝ同を取るといふのでは、感化の力にはならぬ。(その実例など、こゝには略する。)其故に、現下の宗教問題にとつて重要な点は、諸宗の粋を集めやうとする企でなく、諸宗教各々その特色と主張とを以て感化を及ぼしてゐる事は、之を尊重するが(但し単に放任ではなく)、而かも其間に公明に主張を討議し、又特にその嚮導者の間に率直に意見の交換をなし得、而して既往の勢力を維持するだけでなく、社会文化の変に応じて将来に対する方策を考へしめるが必要であり、其為には云はば諸宗教各々其能を尽しつゝ、而かも其間に清算所といふべき機関を必要とする。此が仏教でいふ万法帰一の意義、又王陽明の万徳帰一の趣旨を実行する現代的方法だと考へた。此に関して正治一己の当時の考、其後の経験等は之を略するが、『清算所』といふ考は、銀行業の経験に富んだ青淵翁には最も納得し易い点であつた様に考へる。而して帰一協会の趣意は、通常いふ意味の宗教だけでなく、異なる国々、民族、階級、人種などについても、同様清算の役目を勤め(又少くとも清算交換の必要ある所以を示し)、此に依て、人類文化の将来に対して、人心の根柢から共同和衷の精神に進みたいといふを目標とするに努めたのである。其故に創立会員の一人たるギユリキ氏が現に米国に居て国交や人種問題の為に働いてゐるのも、其根本は氏のキリスト教信仰から出た帰一運動の一面であり、青淵翁の労資協調其他多くの社会事業に尽されたのも、翁の儒教主義から出た帰一努力の一面だと信じている。正治一己も自分の仏教信仰を基にして、翁の御事業の或方面に、及ばずながら参加し、又自分の学問をするのも同様の一面だと考へている。
 要するに青淵翁にとつては、社会文化の転変に応じて人心をどう動かすべきかといふのが関心の大事であつたと信ずる。而して帰一協会の事業は、その関心から出た一端であつて、所謂る宗教問題といふのもその一面に外ならず、帰一協会創立の時から知遇を得た二十年の経験から見れば、直接には我国、又その我国を世界の一員として、如何に精神文化の原動力を培養すべきかといふのが、翁の一生の熱情であつたと思ふ。而して青淵先生の全人格が実に此趣意の体現であり、我我に対する感化力であつた。曾て成瀬仁蔵君に云つた、『君は意志熱情の人であつて知見の人でない。僕は知識と見解に於ては君を補ひ得ると思ふが、力を欠いてゐる。極端の譬で云はゞ、君は脚力の強い盲人で僕は眼はあいてゐても、いざりの様なものだ、いざりとめくらと相助ける要がある』と。之に加へて譬をいへば、青淵翁はこのめくらといざりに精神を吹き込む感化の力であつたと思ふ。

渋沢栄一伝記資料  第四十六巻 終