公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第47巻 p.390-393(DK470096k) ページ画像
明治44年6月28日(1911年)
是月当劇場第五回興行ニ、栄一義子渋沢平九郎戦死ノ件ヲ脚色セル演劇「振武軍」上演セラル。是日栄一、同興行出演俳優慰労会ニ出席シテ、俳優一同ニ平九郎肖像入リノ扇子ヲ贈ル。次イデ七月三十一日当劇場重役会ニ出席シ、八月二十六日当劇場第九回定時株主総会ニ出席ス。
渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470096k-0001)
第47巻 p.390 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
四月二十三日 曇 軽暖
○上略 午飧終リテ北脇久尾ノ居ヲ訪ヘ、更ニ劇場会社ニ抵リ、西野氏ト共ニ右田氏ノ脚色セル振武軍ノ脚本ヲ説明セシム○下略
○「振武軍」ハ、当劇場座付作者右田寅彦ガ、塚原蓼洲(渋柿園)著「藍香翁」(尾高惇忠伝)ニヨツテ脚色セルモノナリ。
○渋沢平九郎ハ明治元年五月二十三日、崎玉県入間郡黒山村ニ屠腹ス。本資料第一巻所収「幕府仕官時代」同日ノ条参照。
- 第47巻 p.391 -ページ画像
竜門雑誌 第三六一号・第五八―五九頁 大正七年六月 遺刀書巻の序文 青淵先生(DK470096k-0002)
第47巻 p.391 ページ画像
竜門雑誌 第三六一号・第五八―五九頁 大正七年六月
遺刀書巻の序文
青淵先生
本篇は青淵先生が故渋沢平九郎氏の遺刀に寄せて、其経歴と其後の行事とを自記せられたるものなりとす(編者識)
○中略
是より先明治三十三年、竜門社員余が為に六十年史を編纂刊行せし時、平九郎が伝を作り、且遍く其関係書類をも採録せり、其後塚原渋柿園氏は平九郎の戦死を材料となし、且之を潤色して、振武軍と題する脚本に作りたるを、同四十四年帝国劇場に於て演ぜしめたる事もありたれば、今は広く世の人の目にも耳にも伝はりぬべし
○中略
大正六年五月
青淵渋沢栄一識時年七十有八
渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470096k-0003)
第47巻 p.391 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
六月一日 曇 暑
○上略 四時半ヨリ帝国劇場ニ抵リ、振武軍ノ演劇ヲ見ル、阪谷夫妻・尾高父子・塚原蓼洲氏等同伴ス○下略
○中略。
六月二十八日 雨 暑
○上略 十一時半帝国劇場会社ニ抵リ、俳優慰労会ニ出席シ、食卓上一場ノ慰労演説ヲ為ス、且故平九郎戦死ニ関スル扇面ヲ作リテ俳優一同ニ頒ツ ○下略
竜門雑誌 第二七八号・第四五―四六頁 明治四四年七月 ○帝国劇場の慰労会(DK470096k-0004)
第47巻 p.391 ページ画像
竜門雑誌 第二七八号・第四五―四六頁 明治四四年七月
○帝国劇場の慰労会 帝国劇場にては、首尾よく第五回興業を終りたるを以て、其翌日即ち六月二十八日正午より会長青淵先生を始め各重役、西野専務、会社係員等同劇場二階大食堂に会して、作者・画家及び当興行出勤の団蔵・梅幸・高麗蔵・宗十郎・宗之助・松助・蟹十郎の名題以上の俳優並びに女優等を招待して、慰労の宴を張りたるが、席上青淵先生は一場の挨拶をなし、且つ当劇場の興行は回を重ぬるに随ひ其目的に向つて発展し、俳優諸氏の精励は弥々舞台面の光輝を増し、特に菊畑に女優八名が腰元に扮して舞台に打並びたる立派さに至りては、到底他に求むべからずして、又た嘗て例しなき美事なりと、夫々其労を犒ひたる後ち、持参したる振武軍の主人公平九郎自尽の刀剣及び発見当時男爵が官軍の将河合氏と応答の書簡を清書したるを、持役たりし宗十郎に贈り、又一同へは平九郎肖像入りの扇子を紀念として贈り、尾上梅幸は俳優側を代表して謝辞を述べ、斯くて和気靄然たる裡に三時過ぎ散会したるよし。
渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470096k-0005)
第47巻 p.391-392 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
七月三十一日 曇 暑
○上略 十二時半病ヲ勉メテ中央亭ニ抵リ、帝国劇場会社重役会ニ出席シ
- 第47巻 p.392 -ページ画像
要務ヲ議決ス○下略
(帝国劇場株式会社)第十回報告書 明治四四年下半期・第一―五頁 刊(DK470096k-0006)
第47巻 p.392-393 ページ画像
(帝国劇場株式会社)第十回報告書
明治四四年下半期・第一―五頁 刊
○第一〇回報告書
第一 第九回定時株主総会
明治四十四年八月二十六日(土曜日)午前十時、東京市麹町区有楽町一丁目一番地帝国劇場内ニ於テ、帝国劇場株式会社第九回定時株主総会ヲ開ク、出席人員委任状共百二十四名、此株数一万五千七百四十五個ニシテ、取締役会長男爵渋沢栄一氏会長席ニ就キ、明治四十四年上半期事務報告・貸借対照表・財産目録・利益金処分案等ヲ議シ、総テ原案ノ通リ承認シタリ
第二 営業ノ概況
本期ハ昨年八月一日ニ初マリ本年一月末日ニ終ル六ケ月間ナレドモ、八月ハ何分ニモ酷暑ノ央ニシテ演劇開催ニハ最モ不適当ノ季節ナレバ同月ハ全然休興、九月一日ヨリ初メテ開演スルコトヽシ、爾後期末迄歳末・年始等ニ論ナク殆ド間断ナク営業ヲ継続スルノ主義ヲ実行シ、以テ従来我邦劇道ニ先例ナキ一新事例ヲ開キタリ
一般経済界ノ不振、世上不景気ノ嘆声等アルニ拘ラズ、当劇場ノ営業方針ハ能ク時運ニ適合シタルモノヽ如ク、左表ノ通リ打続ケタル興業モ幸ニ毎回大入ニシテ、好良ナル成績ヲ挙グルヲ得タリ
即チ九月一日開場初日ヨリ起算シ一月三十一日即チ当期末迄ノ日数百五十三日ノ内、左表ノ通リ百三十九日間ハ開演セルヲ以テ、真ニ閉場セルハ僅カ二十四日間ナレバ、前期間ノ閉場日数二十六日ニ比シ一層ノ活動セルコトヲ見ルヲ得ベシ
本期間興行表
○中略
合計興行数十回、此開演日数 百三十九日
上記ノ内第十回興行中、十一月十五日ハ米国鉱業観光団ノ為メ劇場全部ヲ貸切リ、演劇ヲ観覧ニ供セリ
第三 歌劇部新設
時運ノ趨勢ニ鑑ミ劇場附属歌劇部ヲ新設シ、男子八名、女子七名ヲ試験ノ上採用シ、八月二十五日ヨリ練習ヲ開始シ、十月興行ヨリ回毎ニ登場セシメ居レリ
第四 附属技芸学校第二期卒業生
○中略
第五 宮殿下台臨
十二月六日第十二回興行ノ際、閑院官殿下・同妃殿下御台臨遊バサレタリ
第六 新食堂及自働車
前期中ヨリ建築工事ニ著手セシ新食堂(四十四坪、鉄筋「コンクリート」平家造)一棟ハ九月十五日ヨリ使用ヲ始メタリ、又劇場備付トシテ自働車一台ヲ購入シ、十月十九日ヨリ使用セリ
第七 興行費勘定
- 第47巻 p.393 -ページ画像
当期末ニ於ケル興業費勘定即チ建築物興行設備及什器ノ総高ハ金壱百四万六千百七拾五円参拾八銭ニシテ、此内金参万六千七百四拾八円拾九銭ハ当期間ニ於テ決算シタルモノナリ、之ヲ各項ニ分テバ、建築物ニ於テ金壱万壱千八百四拾円壱銭、興行設備ニ於テ金壱万四千七百九拾六円五拾参銭、什器ニ於テ金壱万百拾壱円六拾五銭ナリ
第八 営業収入及同支出
当期間ノ営業収入ハ金弐拾参万九千九百拾八円七拾七銭ニシテ、内興行収入金弐拾参万七千八百八拾弐円六銭、雑収入金弐千参拾六円七拾壱銭ナリ、又営業費ハ金拾九万六千弐百五拾六円五拾壱銭ニシテ、内総係費金参万四百四拾壱円九拾九銭、興行費金拾六万四千六拾五円、修繕費金壱千七百四拾九円五拾弐銭ナリ
○下略
渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470096k-0007)
第47巻 p.393 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
九月二十八日 曇 冷
○上略 十二時帝国劇場ニ抵リ、俳優慰労会ニ出席ス、食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ○下略
○中略。
十一月二十六日 晴 寒
○上略 帝国劇場ニ抵リ慰労会ヲ開ク、午飧卓上ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス
○下略