デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.505-530(DK470127k) ページ画像

明治42年7月15日(1909年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第五回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK470127k-0001)
第47巻 p.505 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年         (渋沢子爵家所蔵)
七月十五日 晴 大暑
○上略 兜町事務所ニ抵リ徳川公爵招台会ニ出席ス、懐旧談畢テ囲碁アリ夜十時散会帰宿ス○下略


昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第五九―一一九頁大正四年四月刊(DK470127k-0002)
第47巻 p.505-530 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第五九―一一九頁大正四年四月刊
  第五
 - 第47巻 p.506 -ページ画像 
      明治四十二年七月十五日兜町事務所に於て

図表を画像で表示--

       興山公      男爵   渋沢栄一        徳川慶久君        渋沢篤二   文学博士 三島毅君    法学博士 阪谷芳郎                男爵        豊崎信君    文学博士 三上参次        猪飼正為君   文学博士 萩野由之                     江間政発                     小林庄次郎                     渡辺轍                     藤井甚太郎                     高田利吉 




○公 此間もちよつと話のあつた、条約勅許の事だか兵庫開港の事だか、どうも思ひ出せなかつたが、是は誰か能く知つた者があらう、取調をしたいと斯う考へて居る、是は調べればすぐ分る、それから「共に兵庫に入り来りしといふ風聞もありたり、」是は風聞に直した方が宜からう、実は某が来たといふことはあるけれども、是は余波の話だから、風聞もありたりといふ風に改めた方が宜からう、それから兵庫へ持つて行つたのは松平周防守だ、伊豆守ではない、それから次の処に松前伊豆守とあるのは、やはり松平周防守と改める、此指の事は尚私が考へたが、此時に指を切つたやうに私は覚えて居る、なれども能く考へると、どうも指を切るからと言つて、愈切らうとした時に、いやそれなら切るには及ばぬからと言つて、外国人が切らせなかつたやうにも思ふ、切つて出さうといふ時に、それまでならば承知したから切るに及ばぬと言つて、其時には切らずに済んでしまつたかと思ふ、それで是は熟考せいといふのだが、抜く方が宜い、是は外国人をどうといふ訳ぢやなくつて、とかく役人といふものは、そんなら私は指を切つて証拠にしやうといふことは度々ある、外国人の為に切るといふことではなかつた、是だけは取つてしまふ方が宜い、其時でなく、役人ども誰かと色々争をした時に、誰が言つたんだ、いやそんなことは言はない、其証拠に指を切ると言つて、柱に指を押附けて、其時に指を切つたとか、切らうとしたとかいふことがあつたが、それは能く覚えない、つまりどつちかで切つた、始終竹の筒を篏めて居た、どうも外国人の節には、切らうとしたのを外国人が切らせずに承知したやうにも覚えて居る、併しそれはどつちで切つたか確でない、つまり一指を切つて保証をしやうとした時、さういふ訳なら承知したといふだけに、こゝは書けばそれで宜い、
*欄外記事
 是は本書第一の中条約勅許御奏請の事の条についての御注意なり直に訂正したり
○小林 他の書物では、此時に切つたやうに書いてあつたと思ひます
○公 さういふやうに思ふが、能く考へて見ると、どつちであつたかといふことが確かり覚えぬ、
○小林 何れにしましても、大したことではありませんから……、

○公「鷹司家へ文通の事は思ひ止まるべし」といふのは、是は京都
 - 第47巻 p.507 -ページ画像 
と改める、其他にもあつたが、とにかく京都への文通は是からしないといふので、鷹司家を京都と改めればそれで宜しい、それから座の間といふ字を、居間とか座敷とか改めた方が宜い、小座敷といふのが平常居る処、休息の間といふのが、是は猪飼が能く知つて居る、ちよつと先生が来て講義をするとかいふやうな場合に、休息の間でする、座の間といふのは、是は儀式の時に用ゐる間で、平常使ふ間ではないから、事に依ると、そこで謹慎したといふことになると、ちよつと工合が悪い、何とか是は改めたら宜からう
*欄外記事
 是は本書第三の中烈公御直諫の事の条についての御注意なり直に訂正したり
 前同断一橋邸にて御謹慎の事の条についての御注意なり是亦訂正済
○江間 御謹慎などゝいふ場合は御小座敷……、
○公 いやさうぢやない、小座敷といふのは平常休息して居る処だ、先生に習ふとか、或は講釈でも聴くといふやうな処が休息の間だ、
○江間 御老中などは……、
○公 休息の間だ、正月元日の儀式とかいふやうな時は座の間……、上段附きで、そこで盃事などをするのだ、それが済んで、今度打寛ぐ処が休息の間だ、それは猪飼が能く知つて居る、
○江間 御謹慎は……、
○公 休息の間だ、
○江間 中川宮様の御日記から考へて見ますと、あの長防追討を仰出されになりました時、朝廷から突然と、早く将軍に出て来いといふことを仰出されになりますと、幕府でも大に困つたものだらうと存じます、故に先づそれは御見合せ下さい、此方《コチラ》からといふやうに、俄に御前から御申上げになつて、然らばといふことで、御見合になつたらうと存じます、そこで関東の方へは、予て御話の通り、内々御書面なり御使者なり出まして、段々御催促に及ばれましたやうに承知致しますが、
○公 それはあつたやうだ、朝廷から出たでは不都合だから、朝廷を御止め申して、此方から催促したことがあつたやうに覚えて居る、
○江間 それから暫くしますと、いつまで経つても総督の尾州様は御請をなさらぬ、誠に因循極まつた訳、そこでもうどうも仕方がないからといふ訳で……、そこの処が少し分りませぬのですが、御日記にあります通り、予ては一旦御断り申上げましたが、其後の形勢も今に活動の様子が見えません、もう今日になつては拠がない、再び仰出されを願ふやうなことになるも知れません……、併し先づ是は私一存の考でありますが……、尚会津なり桑名なり淀なり、それらに能く相談した上で、又改めて申上げますと御申上げになつて、御引取になりましたといふことだけは書いてあります、それは八月で、さうして九月の初になつて、総督が御請をせぬならば、副将の越前だけでも早く進撃をしたら宜からういふことは、確に朝廷から京都の幕府へ御沙汰になり、それと同時に、将軍も速に進発をしたら宜からうといふ、御催促
 - 第47巻 p.508 -ページ画像 
といふ訳ではありませぬが、御沙汰がありました、是から考へますと前に御断りになつて居ましたものを、又仰出されになりましたのでございませうか、其間の処で、会津始めへ御相談が御出来になりまして改めて御願にでもなりましたことでございませうか、其辺の御記憶はあらつしやいませぬか、
○公 どうも能く覚がない、唯朝廷でも頻に御催促があり、我々も一刻も早くといふことは皆希望して居るのだ、成程朝廷から御催促で、已むを得ず出るといふでは工合が悪いから、今話したやうなこともあつたやうにも覚えて居るが、其後どうであつたか、後の処は能く覚はない、
○江間 順序から考へますと、是非あれはちよつと御願がなくては、あゝいふものは出て来まいと存じます、
○公 能く判然覚えない、
○江間 それから阿部豊後が、一度御前の御言伝などを持ちまして、関東へ下りました、それから八月の末に再度の使者を命ぜられまして再び上京しました、其使命の要領といふものは、二箇条のやうに存じます、一箇条は、丁度長州に英仏米蘭四箇国の聯合艦隊が出て来ました、戦勝の余威を振つて、段々幕府へ迫るといふ有様になりました、其要点と申しますは、此度長州と和睦の上で、これまでの事情を聞糺して見ると、どうも外国船を撃つたのは、勅諚・台命に依つて遣つたのであるといふ、既に其証拠もあるやうであるから、さうすると開港といふことについては、今まで幕府は外国を欺いたのである、一体どこに帰著して極まりをつけて宜いか分らぬから、今から三十日を期して御返答がない以上は、直に摂海へ乗込んで、今度は各国が朝廷と直に条約を結ばねばならぬといふことを、頻に迫つたのであります、そこでどうも幕府は返答に困りまして、速に此事情を申上げて、齟齬のないやうにしたいといふのが一箇条、それから文久戌の年に、越前の春岳侯が総裁の時分に、幕府では大英断と申しませうか、大変事と申しませうか、祖宗の法を打破つて参勤交代を緩めて、これまで江戸に居りました妻子眷属を、国へ遣ることを許しました、其後まだ三年も全く経ちません中に、それを又あの時に復古したのであります、参勤交代を旧の通りに……、
○公 復古しやうといふのだらう、
○江間 いえ復古してしまひました、公然と御触になりましたので、それから大分やかましくなりましたが……、
○公 復古してしまつたのか、
○江間 さやうでございます、九月朔日にちやんと発布になりましたそこで不審がありますのは、其以前に何か幕府の方から、京都の御手許の方へ御相談があつて、東西の御熟議が出来ました上で発布されたものでありませうか、或は深き思召といふ文字ですから、其深き思召の文字に依つて、直に決著をしましたものか、そこの処が誠に疑はしいのでありますが、
○公 参勤交代を復古したといふことは覚えないよ、事実から考へて見てもいけることでなし、さういふことはありやうがない、
 - 第47巻 p.509 -ページ画像 
○江間 それで其時には、妻子眷属皆江戸へ呼寄せろといふことになつたのです、現に榊原家ともう一軒、ちよつと記憶しませぬが、伺を出したことがあります、国へ帰つて居る隠居はどうしたものか……、隠居も妻子同様早速江戸に引戻せといふ指令でありました、それから後で熊本からも伺が出ます、越前・宇和島辺からも頻に質疑が出ましたけれども、委細構はずで、余り幕府が思ひ切つた話ですから……、
○三島 聞かぬ話ですな、
○小林 布告といふものゝ出たのは確に事実です、江戸限りかと思ひます、
○公 始めて聞くやうなもので、少しも覚がない、どういふ何だか、
○江間 一時余程天下の議論を来したのです、或論者は、朝廷と幕府との間に扞格を生じたのは、全く是からだとまで論じて居ります、
○公 それはあつたといへばあつたらうが、どうも覚がない、
○小林 少しも御承知がないといふのは不思議なくらゐですが、立派に幕府の達が出て居ります、
○江間 元治元年九月朔日に発布になつて居ります、政府に居る豊後守だから能く知つて居る、それが八月二十九日に京都に上つたのであります、九月六日に大坂に著いて、それから間もなく京都へ著致しました、
○小林 それで御手許の方を内分にして置くといふことも、出来ない筈でございませうが、
○公 全く忘れたのか知らぬが、何しろ覚がない、あれば必ず論ずる人がある、
○小林 参勤交代のみならず、同時に登城の時の服制なども復旧して幕威を再び振はさうといふ遣り方のやうで……、
○江間 今般長州御征伐につき、深き思召があらつしやるから云々といふ文面になつて居ります、
○公 唯斯ういふことを覚えて居る、今考へて見ると、御進発については、江戸の警衛として是々の者は出るやうにといふ達のあつたのはそれは覚えて居る、
○江間 それは現に記録にも書留めてあるやうに存じます、
○公 譜代の者に伝へたことはあつたやうに思ふけれども、復古するといふことは余り意表の話だ……、
○江間 御尤でございます、実に幕府に取つては重大の話でございますから、
○公 復古するくらゐならば、やはり旧の通りにして置く方が宜い、あれを緩めた以上は、再び復古するといふことは出来ない、どういふ何か……、
○江間 豊後守にしました処が、それ程重大の事を処決して上京しました以上は、御前を始め、それぞれ御関係の方々に、先づ一番に御聴に入れねばなりませぬが……、
○公 あれが松平伯耆と一緒に出た時は色々話をしたが、其他には阿部豊後が来て話をしたことは能く覚えて居ない、来たことはあるか知らぬが、豊後の話のあつたことは一向覚がない、
 - 第47巻 p.510 -ページ画像 
○江間 朝廷でも、阿部が来たについて聴いて見ると、外国が難題を持出して困る、其事を上奏の為に急ぎで来たのである、いづれ一橋から詳しく申上げるからといふ、斯ういふ挨拶であつた、それから二三日経ちまして、御前が御参内になつて、其時阿部の持つて来た話を詳しく御申上げになつて、それから二三日経ちましてから、今度は阿部が参内しまして、関白様に御目に懸りまして、そこで又詳しく話をしました、併しながら外国の事も急務であるけれども、今長州といふものがある、既に征討の軍を発しつゝある、双方一緒になつてはいかぬから、何れを先にするかといふことについて、朝廷の思召を伺ひたいそこで朝廷では大層御詮議の上、先づ長州を先にせい、外国の事は尚其上考へて……と斯ういふことで、大層安心をしまして、まあ貴様は先へ帰つて、早く将軍様に出て来るやうに言へといふことを、懇々申付けられまして……、
○公 どうも覚がない、さういふことを扱つた覚はない、
○小林 あの時の口実は、長州征伐について御留守の間だから、妻子などを江戸に呼べといふのであつたのでせうけれども、達の文面では深き思召に依りといふのです、
○江間 どうも今御話を伺ひますと、遣りは遣つたけれども、しまひに引込めやうがなくなつたやうなことでもありませうか、幕府の威力で、事実固より行はれることではありませんやうに……、
○公 能く調べたら何かそこにあるだらう、
○三島 前の長州征伐より少し前ですか、
○江間 其最中です、まだ戦争は始まらぬ前です、それで其時分考へますと、随分諸侯に疑心を抱いて居る者がありましたから、早く御遣りなさらんではならぬといふことは、肥後などは最も適切に証明して居ります、それで又考へて見ますと、一方からいひますと、一たび大旆を揚げて進撃するといふことになりますと、此方はまだ片付いて居りませぬ、水戸の筑波の一件は活動をやつて居る、さういふ訳ですから、そこをも捨てゝ御出でになるといふことは、余程御難題ではありましたらうが、併しどうしても出なければならぬ、朝廷から頻に御催促がある、諸侯もやかましくいふ、そこで是は仕方がないから、人質といふ処へ考へついたのも無理はないやうですけれども、是は実に大事件ですから、十分熟議のあつた上でなければ、発表するといふことは出来ぬものです、其大事を処決して置いて上京した豊後守でございます、前の時分には御前なども頻に御心配遊ばして、これを和するものは土佐・宇和島などが随一で、あれがまあ一つの御英断と存じます
○公 さうだ、
○江間 あれを最初関係の御連中に一言もなしに、如何に深き思召と申すものゝ、幕府だけでぽんと遣つてしまふといふのは……、
○公 どうもそれは不審だよ、今話を聞くのが始めてだ、少しも記憶はないよ、
○江間 さう致しますと、それは申上げなんだのでござまいせう、
○公 阿部が来ていへば、阿部とは論ずるかも知れぬ、朝廷へ申上げれば無策だからね、人心が離れやうといふ処へ来て、さういふことを
 - 第47巻 p.511 -ページ画像 
するといふことはない筈だ、
○三上 今まである中で何が一番確な証拠です、
○江間 それは幕府の触です、何月何日何の守御渡の書附といふものがある、
○公 何ではないか、今推し測つての考だけれども、追々諸侯なども様子があるから、あの交代は以前の通り復したいものだといふやうなことを言つたのぢやないか、
○小林 いえさうではありません、立派に出ました、雲州の松江藩などは、越前福井藩に対して、御藩はどういふやうにしますかと問合などもあります、大抵の諸侯は事に託して妻子を出府せしめません、どこでございましたか、出した処があります、
○江間 加賀は速でございました、
○公 何分それは少しも聞かぬ、
○江間 加賀は少し不首尾の時で、あすこは一番に御請に及んで、すぐに奥方を江戸へ遣るといふことを申出ました、それでは察するに、こゝに至つたら双方やかましくならうといふので、豊後が権宜の扱で何も申上げなかつたかも知れません、私は是だけの事だから、京都へも御相談があつて、御評決の上だらうと存じましたから、斯ういふことを御決行なさるのは、どういふ思召であらつしやるか、それを伺ひたいと存じました、
○小林 全く江戸限りで断行したものでございませう、京都へは申上げなんだのでございませう、
○公 それは江戸限りに相違ないが、それにしても……、
○三上 出来る見込がついたのでせうか、
○江間 出来ても威信に関する問題ですから……、
○小林 長州の降伏した頃でせう、
○江間 それは九月朔日に発表になりました、其時まだ総督は病気で幾ら催促しても出ぬ、それが六日でありましたか、始めて病気ではあるけれども押して出るといふ御請が出ました、其時です、
○公 何とも一向覚はない、不思議なことだ、全く忘れたのか、どうしたのか、
○三島 私どもゝ少しは聞いて居りさうなものですが、少しも聞いて居らぬ、訝《ヲカ》しい話だ、
○江間 御話は前に戻りますが、宮様の御日記と申しますのは、こゝにちよつと抜書がございます、
 八月十九日
 一午後伺公、亥刻比一同退出、
 一一橋伺公之事、但シ関東役人共日々ト役カエ、扨々困者之由、種種ト咄有之候事、
 一同卿之噂ニ、大樹上京ノ儀、今日ニ相成候而ハ御沙汰相願度旨、去月之所ニ而ハ御断申上置候ヘ共、今ニ西上ノ模様不相決之旨、仍而一分ノ見込内々噺之事、
   但此儀ハ会津・所司代等江申談、其内言上可致之旨申居候事、
概略かやうに書いてございます、
 - 第47巻 p.512 -ページ画像 
○公 それはさういふことはあつたかも知れない、
○江間 明治前記といふものに、
 白川侯江戸ヲ発シテ京師ニ行キ、鎖港ノ為ス可ラザル旨ヲ奏シ、且ツ諸侯参観・妻子就国ノ制ヲ復スル旨ヲ奏ス……、
即ち参勤の事は使命の一箇条であるといふことを、実は明治前記は明言して居ります、どうしてもあの時の御用といふものは、其箇条らしく存じられますが、
○公 伯耆と一緒に来た時ぢやないか、
○江間 いえたつた一人でございます、それから晦日の日に、
 防長追討被仰出候に付ては、大樹にも進発可有之旨、至当の儀思召逐日支度有之、弥進発とは被思召候得共、自然及因循候ては、人心にも差障候間、早々上坂可有之様に遊被度、被仰出候事、
かやうな御書附が下りまして、それに添へて伝奏から、総督が御請せぬならば、先づ以て副将以下早々進発追討これあるべしといふ書附が出ました、
○公 さういふことはあつたやうだ、どうも能く覚はない、色々ごたごたしたことはさつぱり忘れて困る、
○江間 あの頃は殊に頻繁でございましたから、御尤でございます、併し唯今の事などは、事実ありましたことゝすれば、御忘れなさらうとしても御忘れの出来ぬ大事件です、さう致しますと豊後が言はなかつたのでございませうか、
○公 さう見るより外仕方がない、
○江間 是だから歴史はむつかしい、伺はずにやれば、京都には一橋さんがあらつしやるし、無論御承知の上のことゝ思ふに相違ない、
○小林 御進発の為にどこどこの諸侯を呼んで置くといふので、ごまかしたのかも知れません、それにしても触面といふのが不思議ですな
○江間 豊後守が外国の事を申上げた時、宮様の御日記があります、
 九月廿四日
 一今日者安部豊後守参内、江戸之模様、且外夷切迫、来月五日限ニ而摂海ヘ入航可致旨、右ハ鎖港弥治定ナラバ、此度ハ急度天朝ト定約取結可申旨、ナンダイ申懸候由噺、猶一橋ヨリ言上之義モ可有之、宜希度旨也、
 廿七日
 一一橋参内之事、
  尤安部豊後先日申居候義申出ニ相成、扨々困入候次第也、
○公 さうすると無論それは其通りに相違あるまい、
○江間 そこで宮様から、すぐに黒川嘉兵衛を御招になりまして、関東の模様、阿部の噺など御聴になりまして、それから其翌日に、豊後守が関白様の処へ参りました、
 九月晦
 一安部豊後守関白亭江廿八日参り、色々御噺共承り疑念相晴候由、誠に幸甚々々、
やはり関東では京都を疑つて居たものですから、関白様の御説明に依つて、其疑念が霽れたといふのでございませう、それで、
 - 第47巻 p.513 -ページ画像 
  依而早々御暇、大樹進発是非々々可申入、且外夷之義者、長追討之後ト被申、それニ而豊後モ悦居候由、右ニ付摂海江襲来之義モ段々ト御申サトシニ相成、万々不参様申候由、依而朔御暇ト相成候事、
是だけで……、此時分の模様が、なかなか大変だつたらうと考へます
○小林 それでは私の方から伺ひます、慶応二年十月に、常陸宮、後に山階宮晃親王、其他公卿方二十三人ばかり勅譴を蒙られたことがあります、それが越前の方の書類によりますと、一方の側の、例へば越前の春岳とか、宇和島の伊達宗城とかいふ方の観察では、御前の方の御周旋御運動の結果のやうに認めて居るらしうございます、どのくらゐまで御承知であつたか、それを伺ひたいと思ひます、其春岳から伊達宗城へ贈りました十一月中旬の手紙の中に、斯ういふ文句があります、
 且又殿下○二条関白。も廿七日御出仕相成候由、同日親王勅譴之御沙汰、丁度此日に勅譴が下りました、
 殿下も一向御承知無之御出仕之処、別勅下り、於殿下も更ニ御驚愕之御様子ニ候得とも、いかんともする事不能、不得止発令ニ相成候趣ナリ、全ク風聞にてハ、麦麩○幕府。より尹宮へ取込、尹より後宮格別御心易き内侍へ段々被仰立、別勅譴責之運と承り申候、尹宮もどふか近日ニハ御出仕と承り申候、内府公○近衛忠房。へも御察度有之候由之所是丈ケハ殿下之格別之御尽力にて無事なりと承り申候、碧海桑田、如何にも愚昧之測知しかたき所ニ御座候、方今黄門公○公。御臥内之臣ハ原市之進ニ御座候、定而閣下も御承知と奉存候、
此文に依つて考へますと、原市之進の策略で、御前の方から朝廷の後宮の方へ御運動があつて、常陸宮、又近衛忠房公などは、薩長の方に傾いて居られて、斯ういふ結果になつたやうに観察されるのでありますが、事実如何でございませう、全く猜疑に過ぎないのでありませうか、
○公 それはどうも能く考へたが、余り関係がない、全く朝廷の方の事柄で、私どもの方には其事実は関係がないので、此方からどう斯う申上げた覚は一向ない、それに常陸宮は、成程少し御身の上に御十分でない所はあつたに相違ないが、一体の御人物は第一等の御人で、国事などについては余程能く御分りになる御方で、此場合聊の事をどうといふ場合では私はないと思ふ、どうも私は覚はない、全く朝廷の方で何かごたごたする所から、さういふことが出来たものと考へる、如何にも御不行跡は御不行跡に相違ない、
○小林 御内行の方ですか、
○公 女をね、いろいろあつちこつち……といふだけのことであつた併しながら御人物はなかなかちやんとした方で、第一番であつた、どうも此方からそんなことを申上げた覚はない、
○小林 其時に御詮議を蒙つた中御門宰相・大原三位への達に、
 兼而門流より相達候儀も有之候処、去八月晦日、其身為官柄且老年若輩誘引、徒党及建言候段、不憚朝憲、不敬之至、依之閉門被仰出候事、
 - 第47巻 p.514 -ページ画像 
此八月晦日に、中御門・大原が若い者などを煽てゝ、朝廷へ強訴したとかいふやうなことは、何か御記憶はありませんでございませうか、是が十月二十七日の御沙汰でございますが、
○公 さういふことは屡ある、煽動してどう斯うといふことは屡ある
○小林 すると常陸宮・中御門・大原などゝいふ人は、どちらかと申しますと、幕府の方へは始終反対の態度を取つて居りましたか、
○公 まあ反対だ、
○小林 御不為の事を朝廷へ迫り立てたといふことですか、
○公 早く言へば、まあ長州贔負といふことだね、けれどもこゝに一つ注意しなければならぬことは、堂上方は兵力といふものはない、是をなさりたいと言つた処が御力が足らない、そこで其時分には、誰が斯ういふことを言つた……、少しく自分より立優る技倆のある人を、あの人が斯ういふことを言つたからといふやうなことで、随分御道具に立てることがある、例へば誰が斯ういふ話をしたといふやうな、ちよつと色気をなさることもある、能く気をつけて見ないと……、真面目に見ると少し間違ふこともある、
○小林 此時分に、近衛忠房公もやはりどちらかと申しますと、常陸宮様と同じやうに……、
○公 近衛も固より薩州の方で、幕府には反対の方だね、
○小林 無論近衛公などは、大原等の激論家に迫られてのことでございませう、
○公 さうだ、それで斯う斯うしたい、さういふことはいけますまい実は会津などもそんなことを言ひます、会津も言ひましたか、そんなら宜しうございませうといふやうなことが、堂上方には屡ある、それで名を藉りるにつき、きつと言つたかといふと、言つたやうだといふやうなことがある、それは能く心して聴かないといかない、是は堂上方の常のことだ、
○小林 常陸宮への御沙汰は、
 此度国事掛依所労理乍申上、他出、剰止宿、且従来不行跡、旁以蟄居被仰出候事、
斯ういふやうな文面になつて居ります、
○公 それは朝廷の方から、大方さういふことが出たのだらう、是は私の方には関係はないよ、
○小林 先帝と常陸宮との御間柄は……、
○公 別に伺つたことはない、
○江間 常陸宮様御還俗の時も、随分やかましうございましたな、
○公 さうだ、併しながら能く御分りなさる御方で、御人物だ、
○江間 あの時御宸翰があります、誠に自分は不同意だけれども、関東がもう一橋を始めとして大変に保証して、大丈夫だから是非国の為に遣れといふことを強ひて申出るから……、斯ういふ御宸翰の御意味であります、
○小林 次はやはり慶応二年十二月に、初め御前は徳川家御相続は御承諾になりましたけれども、将軍職は御受にならぬといふやうな御都合でありましたのを、此時に余儀なく将軍職宣下といふことが行はれ
 - 第47巻 p.515 -ページ画像 
て来ました、其御事情が、外間の伺つて居る所と、原市之進が越前の中根雪江に向つて弁解……、弁解ではございますまい、事実でございませうが、申して居る所と大変違ひます、
○公 是だね、段々読んで見た、是は相続する折には、原市之進が色色斯ういふ訳で議論をしたといふことは、先頃話をして書面も出来て居る、事実はあの通りだ、併し此中根雪江の言ふ所は、大方市之進が斯う言つたんだらう、それに相違ないと思ふ、どうもあの秘密の話を中根雪江に向つて直に言ふ訳には固よりいかぬ、市之進がそれで斯ういふことを言つたんだらう、どうも是に相違あるまいと思ふ、
 他に御相続の御方を求められ、然る上是迄の如く御輔佐在らせらるる事ならば、素より御身分上御相当なるべしとの事なりしが、……
是は市之進が斯う言つたに相違あるまいと思ふ、どうも先日話した秘密の事も、其儘に市之進が口に出すことは出来ない、それで先づ是は此通り市之進が言つたものと考へる、強ひてこゝには別に何もない……、是は此通りに、将軍職は受けない、家相続だけはする、それで宜ければ御受をするから、能く下坂して一度衆評を尽した上で返答をすると言つて、板倉が大坂へ行つたんだね、処が御相続遊ばした上で、受けるも受けぬも思召次第……、それならばとにかく相続といふことは受けやうといふので相続したのだ、相続して見ると、是非将軍職を受けなければならぬといふことを、板倉始め諸役人が迫る、朝廷の方からも関白あたりから、将軍職といふものが、今日の場合なくては国事に差支へる、速に受けろと斯う言はれる、そこで将軍職といふものを御受をした、一体の関係がさういふ訳である、それでこゝはもう是で大略宜しい、間違ひはない、此通りだ、原の様子と中根との問答を考へると、どうも此通り言つたんだらうと思ふ、唯こゝに、
 其頃召集の諸侯誰ありて入京するものなく、衆議を聞かるべき期追追遅引せし中云々
とある、此時に諸侯を呼寄せたといふのも余程話がある、けれどもそれは後の事として、
 当上様へ御参内仰出され、御学問所において竜顔を拝せられしに、天前に於て御酒饌御拝賜ありし程の御懇遇にて、品々勅語もあらせられ、其節将軍職御辞退の次第をも、当上様より御直に奏上せられしに云々
といふことがあるが、是はまるで無いことだ、参内をして御学問所へ出て、斯ういふことを申上げたといふことはない、是は真の拵へ事ださりながら関白様から、当時の世の中であつて、将軍職がないといつては何分朝廷でも困るから、一刻も早く将軍職を受けるやうにといふ御勧もあつたけれども、陛下に拝謁を賜はつて、辞退の次第を申上げたといふことはまるで無い、
 朕の存慮に違背し、且家康以来代々の職掌を抛棄するは如何の心得なりや、今日将軍の職を空くし、其が為め天下紛乱に及びなば、是徳川家にて天下を乱すなり、若又朕汝を将軍に任じ、其が為め天下紛乱に及びなば、是朕が罪なりとまで厚き勅諭を蒙ふられ、如何にも御至当の御事にて、此上御辞退も奏上せられがたく、止を得ず御
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請ある事となりしなり……、
こんなことはまるで無い、関白様から是非受けるやうにと仰しやつたことはある、それから、
 斯くて将軍職御請となりしに、差当り内地の政務よりも、外国に関する事務切迫の事情ある事故、直様其事情を御奏聞ありて、兵庫開港の勅許を降さるゝ事になされ度、御参内を願はれしに……、
斯ういふことはあつたかも知れない、あつたとしても、つまり是は主上が崩御になつたについて、此事は中止になつてしまつたと思ふ、
○小林 そこらの事情が、如何にも余儀ないやうに書いてありますが
○公 多分斯うだらうと思ふ、上京の諸藩もどうかうといふことがあるのだから……、それがいつ頃になるか、ちよつと覚えない、
○小林 やはり是より少し後でございます、
○公 諸藩を呼集めるといふことは、今に何かゝら出て来るだらう、ちよつと話をすると昭徳院様の後を相続した、長州征伐といふことも是非将軍家の後を継いで遣らなければならぬ、そこで遣るといふ時分に参内して、朝廷から節刀を賜はつた、愈進発にならうといふ時に、長州の方が、細川にしろ何にしろ、皆討手の者が解兵する、皆慴えてしまつた、其報が此方に来た、そこで皆解兵してしまつては、幾ら節刀を賜はつた処で、とても功をなす訳にいかない、それから篤と熟慮して、是はどうしても征討といふことはむづかしい、ついては先づ一つ本を正さなければいけない、そこで島津だの、大蔵・伊達・良之助あゝいふ者を残らず呼寄せて、さうして篤と衆議を尽して、それで私の腹の中は、どうも是は王政に復するより外あるまいといふ腹があつた、呼寄せて公明正大に、私を棄てゝ一つ国家の為に評議を尽して見たいと斯う思つた、処が長州の方では、小倉を取る、浜田を取る、ずつと出てそれを占領して居る、それで旗下の者会桑なども、是非意地張らなければならぬ、処が私の考では、それは実は御進発で騒いで見たものゝ、能く考へて見ると、別に長州を憎む訳はない、唯錦旗に発砲したといふものゝ、決して主人の命令といふ訳ではなし、已むを得ぬ所から出たのだから、其筋さへ立てば、どのやうに寛大にしても宜い、斯ういふ考なんで、決して長州を憎むといふことではない、会桑を始め旗下の者も、彼を憎んでどこまでも彼を遣つてしまふといふのではない、なかなかそこがむづかしい、それから考へて、今占領して居る浜田や小倉を、長州の方でおとなしく還して、ずつと自分の国へ引上げてもらひたい、さうすると誠に長州もおとなしい者だといふことになる、そこから寛大にすることも出来やう、斯う密に考へた、そこでそれを一つさせやうといふ考で、勝安房…………、あれは薩州や長州の方に懇意な者がある、此役目は勝より外にないので、勝を呼んだのだね、それで天下の形勢は斯うである、決して長州を憎むといふ訳はない、行懸り上斯ういふことになつたから、どこまでも寛大の処置をしたいと思ふ、思ふけれども、何分今占領して居る処へ、此方から出て行く訳にはいかないから、あれをおとなしく引くやうになると其廉で何とか納まりがつくだらうと思ふから、一つどうか内々行つて……………、と勝に言ひ付けた、勝も誠に御尤、私が参つて計らひま
 - 第47巻 p.517 -ページ画像 
せう……、そこで一方は春岳・伊達・容堂・良之助、これらに梅沢孫太郎を使者に遣り、国家の本について相談したいことがあるから、至急上京してもらひたい……、長州の方へは、内を緩める為に、どうか兵を引いてもらひたい、此方から頼む訳ではないが、其意を汲んで何とかなると、此方が大に緩む、緩めば寛大になるからといふので、勝を遣つたんだ、そこで勝が帰つて来て、自分は談判をした処が、誠に長州では丁寧に取扱ひ、段々話を聴いて誠に喜んだ……、誰と談判したかといふと、それは広沢兵助、今一人何と言つたか、事によつたら井上侯爵かも知れぬ、井上侯爵なら、侯爵は能く知つてゐる筈だから聴けば分る、そこで兵を引きませうといふことになつて、殆ど兵を占領地から引いたんだね、それまでは大分宜かつた、処が其時分にはもう薩州あたりでは、討幕論者といふものが此方に居つたものだから、直に上京しないで大変遅れた、其中に上京はしたけれども、余程此方は公明正大と思つても、なかなかさうはいかない、早く言ふと、ちよつとした処が、「薩州の島津少将今日出京、御知らせ申す」といふやうな、届ぶりから何から皆違つて、もう向ふにはちやんと支度があるそこでどうも急に運びがつかない、処へ兵庫開港といふことが、どこから出来たか、出来た処は覚えないけれども、兵庫開港といふことがあつて、是非勅許にならなければ国家の為にならぬといふことで、上京した者も出て申上げたんだ、処が上京は四藩……、島津に伊達に春岳に良之助だつたか、どうも能く覚えないが、そこいらの人だ、兵庫開港の事は已むを得ぬから、勅許にならなければならぬといふことを皆唱へた、唯長州を寛大の処置にしろ、此二つの並び行はれるやうにしろといふのが四藩の言ひ出しだつたね、処が事柄は、長州の事と外国の事とはまるで別のものだから、何も一緒にしなければならぬといふ筋はないのだ、けれども兵庫開港と並び行はれると、それが為に長州の方も無罪として、無事に入京を許すことにするといふ腹案なんだ四藩の方の注文が……、それで兵庫は勅許とあればそれまで、長州の方は寛大といつても違ひのあることで、其時分原市之進も参内、小松帯刀も参内する、それで市之進と小松帯刀は、御所で大分議論があつたんだ、帯刀は無罪として、何もない平素の通りにしやうといふ説、又市之進の方は是も寛大は宜い、併し一体長州といふものが罪があるものか無いものかといふと、罪がある……、罪はある……、然らば寛大といつても、罪のある者の中の寛大といふのだ、小松の方は、何でもかでも罪の無いものにしやう、其議論を頻にやつたやうだが、とうとう小松の方が、まあ少し説き伏せられたやうな塩梅だね、処へ伊達伊予がはいつて来て、向ふへ皆贔屓をして、そこで無茶苦茶に議論をしてしまつて、遂に別れ別れになつてしまつたんだ、そこで長州の方も寛大といふでう、まだ寛大の程度も極まらぬのだ、兵庫の方は、許すと仰しやればそれつきりの話だ、そこで私が四藩を呼んで、どうも今の儘で置く訳にはいかない、兵庫開港は勅許にならなければならぬと思ふが、貴所方《アナタガタ》はどうでござると言つた処が、勅許になる……、許すより外ないといふのだ、なれども並び行はれるやうにしたいといふのなんだ、それでもう四藩も兵庫開港をするより外仕方がないといふ
 - 第47巻 p.518 -ページ画像 
それで私が聴届けた、聴届けたから朝廷へ、四藩も開港しなければならぬと申しますから、条約勅許になるやうに願ひたいといつた処が、愈四藩の者もさう言ふか、さやうでございます、私が承りましたと申上げたんだ、そこで時勢已むを得ざることに思召し、又上京の四藩も申すから勅許になるといふことで、勅許になつたんだね、処が四藩の方では、決してまだ兵庫開港の事は申さぬといふことになつて来た、それで申さぬのにさういふことを言ふのは、幕府で拵へるんだといつて、大変に激論が始まつた、けれどもあの時分は諸侯といふものは、つまり家来に良い者があれば賢人、家来に何もなければ愚人だ、家来次第といつたやうなもの、そこで主人がさう言つても、家来が承知しなければそれは通らない、それでまだ言はぬと言ふのだ、けれども言つたんだ、此方では当人が言つたからといふ、家来の方ではまださういふことは言はぬ、斯ういふ訳、けれども此方は、言つたんだから断然澄まして居た、それで其事はそれつきり済んでしまつた、なれどもそれが為に又一層激したことは激した、併し已むを得ぬことで……、さういふ事情があつたものだから、こゝで四藩を呼んで議さうといふことも、しつくりいかないで、とうとうそれぎりになつてしまつたものだから、長州の方へ勝を使者に遣つたことも、一向効能がない、それにもう其時分には、討幕といふことは向ふにはちやんと出来て居たのだ、出来て居たものだから、なかなか穏といふ処へ運ばなかつた、
○江間 ちよつと伺ひますが、薩長の聯合ですが、あれはもう既に初度の長州征伐で、向ふでは三大夫の首を斬りまして、さうして謝罪をしましたな、あの御扱ひぶりについては、西郷などは余程間接にあすこに干渉して居るやうに其頃から……、
○公 それは其通りだ、
○江間 聯合といふことは、書いたもので調べて見ますと、出来て居るやうです、
○公 さうだ、
○江間 幕府の方で、薩長の聯合して居るといふ端緒の御見えになりましたのは、今の兵庫開港云々の頃で、其頃はもう既に、飽くまでも彼等は聯合して居るといふことは御承知で……、
○公 それは密に分つて居る、殊にあの御進発の時に薩州が出兵しない、其時の書面がある、其末文に、「天理に背き候戦闘につき出兵仕り難し、此段御断り申候……、」もう断然と決心して居る、それを出して、大坂の方へはそれぎりになつて居る、それに全体三謀臣の首級を斬つて、向ふで謝罪をした、謝罪をすればそれで直に処置を致さなければならぬ、ついては斯く斯くの処置をするが、此処置に服するか服さぬか、服しますといふ処で兵を引上げるが当然だ、処が謝罪をしたといふ時に、もう過激派といふものが長州に起り掛つて居る、其起らぬ中に兵を引上げる西郷などの考だつた、それであの時討手に出た板倉も、御処置に服した上で引上げなさらぬではといふことを、総督に言つたさうだけれども、何でも一刻も早く取りあへず引上げたんだ過激派の起るといふことを見て、其起らぬ中に引上げるといふのは、そこに色々事情があつたものと見えて、あれは板倉が至極反対をした
 - 第47巻 p.519 -ページ画像 
○三島 あの時の再征伐の事は知らぬです、
○江間 今のは初の事です、
○三島 けれども小倉を取つたり浜田を取つたりしたといふ話だ……
○江間 それは二度目です、今の御旧主の総督を御諫めになつたといふのは初の時です、
○三島 二度目の時に勝を呼んだ話を聞いて居りますが、岩下佐次右衛門やあの連中が上つて来て、再征伐を御やめなさいといふことを言ふ、処が会津・桑名の方はどうしても聴かない、板挟になつて困つた是は薩との間を押へるには勝より外ない、それで勝を大坂へ呼んで、薩の岩下佐次右衛門などを押へて、征伐をやつたやうに聞いて居りますが、薩が押へきれなんだ……、
○江間 再征伐の時には板倉侯は御心配でしたな、
○三島 再征伐の途中からで……、御進発が始まつて、段々今の岩下等が上つて来て、御やめなさいといふことを迫る、尤だと思ふが、会津・桑名等が聴かない、其間へ板挟になつて困つた、それから勝を呼んだやうです、勝は固より薩摩と親交のある人だから、勝を遣つて押へたといふやうな話ですが、それで又再征伐と続けた、それから勝を九州では始終顧問のやうに使つた……、
○小林 それでは先程伺ひました将軍職宣下といひますことは、全く幕府の方の御都合で、余儀なく御受になりましたやうな次第で……、
○公 幕府の方から私へ、是非御引受になるやうにと、最初の約束とは違つて迫る、それと朝廷からも関白様から、斯う斯ういふ時勢であるから、将軍職といふものが無くては御心配である、是非受けるやうにといふことを仰しやられた、
○小林 叡慮ですな、
○公 叡慮などゝ言はないで、関白様から是非受けるやうにと仰しやられた、けれども御学問所で斯ういふ立派なことはないのだ、つまり朝廷からも是非受けるやうにといふ御沙汰があり、幕府からも言ふから、已むを得ず受けたと斯ういふ訳なんだ、
○小林 それにつきまして、あの時分越前・宇和島などは、初め御相続の時分から、将軍職を御継ぎになるといふことは、何か御賛成をしないやうなことを始終申上げて居つて、例へば上様と称せられることも、二条城へ入らせられることも、御止め申したといふやうなことが……、
○公 そんなことはない、黙つて見て居た、是からどうするかといふことを見て居たのだ……、様子が……、
○小松[○小林] 春岳侯は如何です、
○公 越前も別に何も言はない、
○小林 ともかくも諸侯を集めて、諸侯の人望が将軍職を御受けになるやうにといふことであれば宜しからうが、さもない中に、自ら進んで御受になるやうなことはいけないといふことを申上げたやうに、越前家の方の書類にはありますが、
○公 そんなことはない、先づ早く言ふと、どうするかといふことを観望して居つたのだね、
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○小林 そうするともう一つ伺ひますが、初め御家相続といふことを御承諾になりまして、御自分の御考では、将軍職といふものは御受けなさらない……、
○公 家を継ぐだけは継いでも宜いが、将軍職は受けない、それを承知ならば家を継ぐ、将軍職を何でも受けなければならぬといふことならば、どうあつても受けないと斯う言つた処が、それは受けるも受けないも、家御相続をなすつた上の思召だといふ、それならばとにかく受けやう……、さて受けて見ると、さうはいかないんだね、それで其時には又受けなければならぬやうに迫るのだ、
○小林 初の思召は、征夷大将軍といふ御職掌は如何なさる思召で…
○公 最初の考は、今も話した長州の方を緩め、私は家を継いで、そこで将軍職は受けずに居て、天下の事を一つ大改革をやらう、迚も是ではいかぬ、斯ういふ見込であつた、其大改革といふのは、王政復古……、所謂王政復古だが、併し是は今日王政に復すといへば何でもないやうな話だが、其当時にあつては、王政復古と口には言ふけれども又考へて見ると、あの時分の堂上方の力では迚も御出来なさらぬ、そこで諸侯等が寄集まつた処で、迚も行く訳ではない、さらばと言つてなんぼ役に立つと言つても、諸藩の者とか浪士とか、そんな者を引上げてやつた処が、迚も運びがつかない、王政復古とはいふものゝ、どう是をしたらよいか、そこに大変苦心がある、王政に復するといふと大変今日から見れば容易いやうだが、さて其王政に御復しになる手段はどうなさると言はれると、誰も其手段がつかない、又手段のつかぬことを、唯王政に復すと言つただけでは誠に仕方がない、それで豊太閤時分には、五大老・五奉行とか言つたこともあつた、あんな事も迚もいかない、幕府ではどうするが宜いのか分らない、それに余程困難をして、ちよつと王政などゝいふことは口には出せない、どうしたら宜いか、そこは大に困つたのだね、
○小林 先刻伺ひました、原市之進と王政復古云々について御相談がありましたのは、其際の事ですか、
○公 其際の事だ、受けやうといふ前だ、原も至極結構だが、そんならどうして宜いかといふことは、原にも考がない、そこでへんちくりんの事になると、却て皇国の為にならぬといふ考がある、それよりは寧ろ今まで通り遣つて見たらどうかといふまあ考なんだね、口で言ふと、王政復古だとか何とか言つて大変宜いやうだけれども、其実どうして王政復古にしやうといふことまで考へ始めると、余程むづかしい
○三島 あの時、どうして王政復古が出来るかといふことを皆疑つたものだ、豪傑等が下に居つて、自分等がやる積り、そこは目が著かぬ諸大名・お公卿さんが寄つて、どうして王政復古が出来るものか……問題だと思つた、そこで隠然と、薩長では殿様は使はないで、下の方に皆豪傑が居つたから出来た、
○公 それに又一つは外国の事があり、内外切迫の結果だ、それで其王政復古といふ立派な名にして、さうして自分が其肩を抜くやうになつてもならず、又王政になつた以上は、是までよりも国家の為に尽さなければならぬ、色々そこに考もある、とにかく諸侯を集めて、伏蔵
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なく公平な所の評議に及んだら宜からう、長州はもうどうあらうとも寛大で宜い、あれはあれで宜いといふ考を出したが、少しさういふ辺にもいかなかつたのだ……、
○江間 あの御相続になります当時、関東へ御下りといふことは、あの場合ですから、其説が出ましても勢ひそれは御出来にならぬことかと考へますが、御下りといふことはどこからも申上げませんでしたか
○公 いやそれはどこからもない、
○小林 あの節に、江戸の奥向などに御改革を御始めになつたことがありますか、
○公 いや無い、手を著けてはむづかしい、
○小林 内部の方では賄賂を遣つて、やきもきして居るやうに見えて居りますが、
○公 なかなかそんな裕余はない、
○三島 一旦将軍が京都御住居といふことに極まつてしまつたことがあつたやうですな、
○公 いやさうでもない、事平和になつた時は、又平和になつた時の考で、何しろ内外の事が治まるまでは、どうしてもこゝを離れてはいけないといふだけのことである、住居と極まつた訳ではない、けれども是が二年で済むやら三年で済むやら、それは分らない、
○小林 前の原市之進の話の続に、将軍宣下の御礼参内に引続いて、再御参内の上、兵庫開港の勅許を御奏請になります筈であつたのが、主上崩御の為に其儘になつて居りました、丁度其頃仏国公使から、民部様が仏蘭西へ御出になりますについて御同行することでもあり、御註文の軍艦の事も直接に伺はなければならぬからといふので、御前に拝謁を願ひ出ますし、英国公使も、是まで幕府を日本の政府と思つて居つたのは大変な誤であるから、今度は主上に拝謁して、直接朝廷と条約を結ばなければならぬ、ついては大坂へ行つて談判するといつて居つて……、是はやめましたけれども、かたがたで四国公使を御引見になることになつて、一旦来坂するやうに御達しになりましたのを、是も崩御の為に延期せられましたが、彼等はなかなか承知しませぬ、殊に兵庫の開港も仏国の博覧会も、期日が追々切迫しますから、成るべく早く御引見になる方が宜いといふので、二条摂政などは、兵庫の事は目下諸侯の意見を御下問中であるから、其上答のあるまでは勅許にはならぬといふ意見であつたにも拘らず、御前は各国公使を御引見になりまして、幕府限り兵庫の開港を御許しになることに極まつたとありますが、
○公 民部大輔が仏国へ行く時、ロセスが同行するといふことは、是は渋沢が能く知つて居る、渋沢に聞合せると分る……、こゝが少し違ふやうだ、
 兵庫開港の時期、及び仏国博覧会の時期追々切迫に及びたれば、成るべく早く謁見を済まさるゝかた御都合なるべしとの事にて、止を得ず其次第を朝廷へ仰上られ、御応接ある事になり、此時開港の事は御伺にてはなく、御決著の御趣意なりしに、摂政殿、段々拠なき事情はあるべけれども、兵庫開否の事は、諸侯の意見御下問中なれ
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ば、意見上答に先だち勅許には至りがたしと仰られければ、幕府は開港の事斯迄遷延の上、若勅許なからんには、由々しき大事に至り徳川家の社稷は兎もあれ、宝祚の御安危に関すべし、されば幕府の職掌に対して、一日片時も閣きがたき事なりとて、罪を一人に引受け仮令勅許はあらせられずとも、上様御下坂御応接ありて、幕府限り開港を許容せらるゝに決せしなりとの事なりしが……、
是は幕府が極めてしまつて、後で罪を謝さうといふことは間違ひだ、どこまでも勅許になるやうにしたいと話した訳だ、ロセスに会つても内密に決著したといふことはどうも無い、少し是は訝しく思ふ、
○小林 今の話の中でありますか、
○公 話の中、朝廷へ伺ひもせずに、兵庫開港の事は、ロセスに向つて愈さう致すと言つた、さうすると、朝廷へ伺はずに開港をすると言つて、周防を使者に遣つたと同じことになる、是はどうも斯ういふことはない筈だ、どつちも同じ訳になる……、
 仮令勅許はあらせられずとも、上様御下坂御応接ありて、幕府限り開港を許容せらるゝに決せしなりとの事なりしが……、
斯う市之進が言つたとあるけれども、それでは松前伊豆の事と同じことである、勅許を得ずして許したといふことゝ同じ訳だが、斯ういふことはない筈だ、
○小林 慶応三年の四月に、滞坂中の英国人が敦賀へ行つたことがありましたな、
○公 夷人が敦賀へ行つたといふことはあつたよ、朝廷から出た御書附にも、成程斯ういふことはあつたやうだ、「潜伏夷人も計り難し」といふことがある、それを切つかけに覚えて居る、
○小林 其時に外人が十数人伏見街道を通行する、堂上が動揺して、夷人が京都の中に潜伏して居るかも知れぬと言つて、薩因備の諸藩に警衛を命ぜられたといふことがありますが、外人が京都に潜伏するなどゝいふことは、如何にも滑稽の事で、何か内密の事情があつたことであらうと思ひますが……、
○公 別に覚はない、
○小林 土州の浪人が滋野井・鷲尾の両家へ行つて、短銃を以て脅したといふことがありますが、其時分薩摩で何か内密に計つたといふやうなことは御聞及びはございませぬか、
○公 さういふことは聞かない、あつたかも知れないが、
○小林 さうしますと、敦賀へ行くといふことは、初め何とも言つて居ないのに、俄に英国公使が京都へ行くといふことを言ひ出して、京都へ行けなければ結局敦賀へ行くといふことを言ひ出したのは、何か幕府を苦しめる為で、其裏面には薩摩か何か密に煽動《オダ》てたといふやうな観察もあつたやうですが、そんなことは……、
○公 さうかも知れない、けれども確としたことは承知しない、
○小林 其時分さういふことは御耳にはいりませんでしたか、
○公 別に是について聞いたことは覚えない、併し実はあつたかも知れない、もう斯ういふことは屡だからね、
○江間 書きましたものは、御触とか何とかいふものは確でございま
 - 第47巻 p.523 -ページ画像 
すが、其他は上手に書きましたもの程、実際と相違が出てまゐりますな、中根が書きました本などは、実に痒い処へ手が届くやうに書いてありますが……、
○小林 やはり慶応三年の六月に、幕府で政令が二途になつて困るから、御前を摂政に任ぜられるやうにしたいと言つて、板倉侯と永井などゝ相談して、越前側の方に話しになつて居りますが、
○公 永井の摂政……、聞かぬことだ……、永井あたりがこんな姑息の事を言つたかも知れない、つまらない話で、早く言ふと、こびりついて居たいといふやうなものだ、
○小林 征夷大将軍を朝廷の摂政に任ずるといふことは、余り虫の宜い話ですな……、全然御承知のないことで……、
○公 全然知らぬ、
○阪谷 最上の位置に居らつしつたものですから、能く分りますな、
○小林 唯今の摂政一件などは、後世の人が推断しましたら、板倉・永井などゝいふ人が、御前の意を承けて越前に相談したといふやうなことに推定される所ですな、
○三島 此頃の御話で、大政返上が三人で御相談になつたといふことを承りました、誠に有難いことを始めて伺ひましたが、それであのくらゐ御決心で返上になつたものが、それを伏見の戦争までに斯うなつた所以は、御書きになりましたか、まだそこには至りませぬか、
○小林 伺ひは致しましたが、そこらはまだ書くまでに至りませぬ、
○三島 それくらゐのものが、あの戦争になつて来やうといふまでの運びが余程……、
○江間 今私ども考へて見ますと、抑二条へ御引取といふことは、あの文久三年の八月十八日に九門の固めを皆そつと取替へてしまつた、あれと全く同筆法ですな、同筆法で、一方は二条へ御引取になつてしまふ、それだけなら宜い、おとなしくいくのですけれども……、長州にしましてもさうです、あの時に七卿などを連れて行かずに、命を奉じてぢつとして居ればしやうがない、そこはそれ真木和泉だとか何とかいふ聴かぬ奴が居る、それと比例するではありませんけれども、事実ちやんと正比例です、二条の時分にはどうだといふと、あの通り先帝の御信頼になつた会津始め、皆其日の中に御固御免、とんと寝耳に水ですから、朝命御尤です恐入り畏まりましたとは申されぬかと思ひますな、成程上様の思召は誠に有難い思召、ちつとも変らつしやらぬですが、今日では是はどうも誠に幸福のことでございますが、あの当時は如何に上様の何でも、あれを御鎮撫になりまして、会桑其他が御尤でございますといふ所までは、どうも御手が届かなかつたであらうと恐れながら……、そこで二条にあゝして居らつしやつたならば、必ず二条で始まつたであらうと考へられます、新選組などの意気込から見ましても……、
○三島 どうしても形が、徳川閣下始め、下から脅迫されたやうに見えるですな、
○江間 それで全く騙し討です、ありやうに申しますと、あの時の御仕向が……、ですからどうも黙つては居られません、上様がどう仰し
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やつても、何でもかでも薩長はやつてしまへといふのは、至極尤もだらうと思ふのです、それが上様には、あゝいふ有難い思召がありました処で調和をして、先づあれで済んだのですが、万一それは宜いからやれなんと仰しやつたら、どこまでいくか分りませんな、
○三島 折角返上なすつたのが、無になつてしまふといふのは事実遺憾です、それで斯ういふことがあるのです、私の田舎に……、あゝいふ際でやかましい相談が始まつた、今度大政返上になつた、善後策はどうしたものだ、それから山田の考で……、是は病気がありまして、すぐ上る訳にもならず、それから策を書きまして、朱書・墨書といふものを書いて、墨書のやうに遊ばしたら徳川家万歳、朱書のやうになつたら、徳川家はばたばたいつてしまふ、此二つの策を立てゝ、其墨書の方で、折角大政を返上なすつて、どこまでも此案を貫いて、大坂にぢつとして居らつしやいまし、此方さへぢつと恭順して居らつしやれば宜いといふ策です、それから私が出る処を少し用があつて、神戸源四郎といふ者がすぐそれを持つて上りました、処が私は誠に宜いと思ふ、ついては会桑へ遊説してくれぬかといふことで、それから会津へも行きますし、肥後へも行きますし、どこへ行つても皆承知されたです、それで此方へ帰りましたのが、昔のことですから翌月の四五日丁度戦争の済んだ跡へ帰つて来た、昔のことですから戦争のあつたことが知れない、帰つて来ると、隣国から様子を聴きにちやんと来て待構へて居る、処が今の神戸源四郎が戻つて来て、九州でも尤もだといふし、会桑でも尤もだといふ、もう天下泰平、そこでめでたいといふので酒宴を開いて居つた、其酒宴半《ナカバ》へ注進が来て、伏見で戦争があつて、会桑の兵が敗北したといふことを聴いて皆驚いた、さういふことがあつたのです、つまり表向きだけ容れたものと思ふ、
○阪谷 朝鮮の新協約の時でも、余程談じ詰めて兵を解けと言つても兵が暴発するといふ訳で、命令がきかなくなつて来る、朝鮮国王の承諾を得て居るのであるが、併し何か始まる、私ども丁度政府に居つたが、何か始まるといふことを覚悟した、すると朝鮮国王が伊藤さんに会ひたいと言ふ、もう其時は形勢不穏でしたから、危からうと言つた処が、伊藤さんは、なあにといふ訳で出掛けて行つて無事に帰られたが、さういふ場合には、もう主権者は承知して居つても、命令がきかないのですな、
○小林 あの時会津の野村左兵衛などゝいふ人も、外の志士が行つて談判すると、議論には尤もだと承服して、大政奉還はいけないとは言はないけれども、あの時の事は議論では左右することは出来なかつたものか、やはり一方では其部下を押へられない、
○三島 あの京都へ御上りになります時に、軍令といふものを御出しになりましたらうか、
○公 そんなことはない、
○三島 軍令状を薩州で拾つたといふことがあります、
○公 いや軍令状を出したといふやうな訳ぢやない、
○三島 確に軍令状を拾つたといふ話を聞いたですが、
○小林 それは蛤御門の時の、長州の軍令状の事ではありませぬか、
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○公 長州が暴動した時は、長州の軍令状は此方で拾つた、
○三島 軍令状があれば、君側の奸を清めるとか何とか……、
○公 軍令状も何もない、無茶苦茶だ、
○小林 あの時の討薩の表といふのは、どのくらゐ御承知でございましたらうか、
○公 前に朝廷から軽装で私に上京しろといふことであつた、軽装で行くなら残らず行けといふ勢で、そこで尚上京しろといふ命令があつたから、それを幸ひ、先供でござると言つて出て来た、処が関門があつて通ることがならぬ、是は上京するやうにといふ朝命だ、朝命に依つて上京するのだから関門を御開きなさい、いや通すことはならぬ、朝命だから御通しなさいといふのだね、そこで押問答をして居る中に其談判をして居る向ふの隊が後へ引いた、陣屋へ引いてしまふと、後から大砲を撃つた、そこで前から潰れた、すると左右に藪がある、藪の中へ予て兵がすつかり廻してあつた、それで横を撃たれたから、此方の隊が残らず潰れ掛つた、それで再び隊を整へて出た、斯ういふ訳である、其時の此方の言ひ分といふものは、上京をしろと仰しやつたから上京をするんだ、それをならぬといふのは朝命違反だといふ、向ふの方の言ひ分は、上京するなら上京するで宜いが、甲冑を著て上京するに及ばぬ、それだから撃つたと斯う言ふ、それはつまり喧嘩だ、まあさういふやうな塩梅で、唯無茶苦茶にやつたのだ、
○小林 其時の先鋒の討薩の表といふものは御承知でござりましたか
○公 それは確か見たやうだつたが、もうあの時分勢ひ仕方がない……、到底仕方がないので、実は打棄《ウツチヤ》らかして置いた、討つとか退けるとかいふ文面のものを、竹中が持つて行つたといふことだ、
○小林 無論あの時、両方干戈を交へる決心がありましたでせうから……、
○公 書面などは後の話で、大体向ふが始めてくれゝば占めたものだ向ふも亦此方で始めてくれゝば占めたものだ、何方《ドツチ》も早く始めりやあ宜い、始めりや向ふを討つてしまふといふのだ、向ふも討つてしまひたいけれども機会がない、此方も機会がないと言つたやうな訳で、両方真赤になつて逆上せ返つて居るんだ、どんなことを言つても迚も仕方がない、
○小林 先づ火蓋を切つたのは……、
○公 薩州の方だ、
○江間 藤堂ですな、
○三島 藤堂へ迫つたといふことです、
○公 談判をして居る者は、ずつと言ひ合せが出来て居る、七八人ださうだ、呼返されてずつと引くと、すぐに後ろから大砲を撃つたんだ向ふの方の吉井だつたか海江田だつたか、もう御一新になつた後、薩州の方から撃掛けたんだと斯う言つて居つた、私の方から撃掛けたに相違ないと斯う向ふの者が言つて居る、なぜかといふと、唯上京するなら宜い、具足などを著けて来たのが悪い……、兵器を携へてといふのが向ふの言ひぐさだ、
○小林 其時分関門で談判しましたのは、幕府の方では……、
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○公 あれは確か竹中丹後だつた、
○三島 撃つたといふのは藤堂ですか、
○公 さうぢやない、藤堂はまだ幕府の方に附いて居つた、さうして山崎の関門を固めて居つた、それで戦争が二日三日ぐらゐになつて、とうとう藤堂の山崎の関門の近傍まで幕府の兵隊が引いたんだ、其時に藤堂の方へ薩州の方から使者が来て、それで説いたんだ、それから藤堂が薩州の方になつて、山崎から此方を撃つたんだね、それでそこにも居られないので引いた、此方の味方と思つて居る者から、横を撃たれたといふことになつたのだ、
○三島 御屋敷に川村といふ人が居りますか、
○豊崎 今は居りませぬ、
○三島 それについて疑がある、私が旧主の碑文を書きまして、ちよつと其語を覚えませぬが、全く此方の将軍や何か、出先の喧嘩のやうに書きましたので、それで私が其篆額を願つたのです、処が今の川村が私の方に見えまして、書替へてくれ、軍令状を出してあるから、さういふことは言はれぬ……、それで私は事実を知らないものですから書直しました、それで軍令状の事を伺ひましたのです、
○江間 其軍令状といふのは御旧主から……、
○三島 軍令状が出たといふことであるが、今伺ひますと、それはないやうですが、真に軍令状を出して居るものを、出先の喧嘩のやうに書いても……、
○江間 軍令状といふものはありません、
○三上 討薩の表といふものを軍令状と認めたのでせう、
○三島 川村が其事を言つたのかも知れません、
○豊崎 ちよつと考へますと、川村が貴方《アナタ》にさういふことを申したといふことが、少し疑がありますが、
○三島 二度も来て懇々とさういふ説を述べたのです、それでは書直しませうといふので、それで始めて旧主の碑文の篆額を書いてもらつたのです、
○豊崎 軍令といふと随分やかましいものでせうが、今日で申すと出発命令といふやうなものではないのですか、尤も入京に際して、徒に妨害を加へる、抵抗する者でもあつたらば、それは先鋒の隊長は適当な処置を執つて、打払ふべき者は打払へといふだけのことは、先鋒の隊長には許してあつたかも知れぬ、たとひ許されぬでも、先鋒の隊長はそれだけの権力はあつたものと思ふ、細かく第一に何々第二に何々といふやうな軍令状といふものは、私はあの当時の事は存じませぬけれども、古老の話にも聞かず、其書面もまだ見たこともございません尚序がありましたら聴いて見ませう、今の戦闘の場合ですが、其時分に既に先鋒になつて居つた者の話ですが、丁度今御話のあつた通り、通る通さぬと頻に掛合つて居る其中に、此方の淀の堤へ持つて行つてずつと山砲などを馬に乗せるとか、砲弾などは皆綱で括《カガ》りつけたまゝちやんと敵の方へ馬首を向けて居つた、ですから大砲などは皆後ろへ向いて居る、さういふ姿勢で談判を待つて居た、処が其間に数時間掛つたさうですが、其時に山田……、長州の山田です、あれが向ふに居
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つたさうですが、其談判の間に、ちらちら左側の方へ兵を配布するのが見えたさうです、もう向ふの配陣が整つた時分に、何でも撃出したさうですが、そら向ふから撃出したといふ、忽ちやられたさうです、
○公 何でも談判して抗論して居る間に、すつかり手配をつけて、さういふ訳なら先づ此方から御返事をしやうから、少し御待ちなさいと言つて皆後ろへ下つた、下ると正面から撃掛けた、
○豊崎 御承知の通り、淀の堤ですから、馬を振替へることは出来ない、皆土堤の下へ馬もろとも落ちたといふことで、僅に山砲の繋索を刀で切つて、さうして咄嗟に二門か三門、とにかく砲門を向け直してやつたといふことですが、それでは照準も何もつきませぬ、
○江間 向ふはちやんと用意がしてあつて、もう藪の中に兵が置いてあつたのです、
○公 自身を刺殺してもやるといふ、それでも宜いからならぬと、もう一つ上へ出たらどうなるかといふことを度々考へる、どうも始末がつかない、
○江間 今日となつて申上げますと大変恐れ入りますが、あの時の想像話を忌憚なく申上げますれば、上様がどうしてもならぬと仰しやれば、もう已むを得ぬ、非常な手段をしても薩州を討つ積りだつたのです、会桑は勿論、幕府でも竹中丹後などの戦論家は……、
○公 それで二条の城から大坂へ引上げる時、手代木が先づ遊ばして御覧遊ばすが宜うございませう、私などは拝見いたしませうといふやうなことを言つて居た、まあ是なら大きにと思つて居たら、なにどうもさうはいかない、
○江間 あの時肥後守と越中守……、即ち会桑の首脳を、そつと何とも言はずに御連出しになりましたのは誠に……、
○公 あれは残して置けば始まる、
○江間 実に危い処であります……、それで越中守に、あの時貴方がなぜ御帰りなすつた、残念な話だと申しましたら、上様がちよつと来いと仰しやるから、何か御庭廻りでもなさることゝ思つて、兄と両人無頓著に御供をした、それつきり桜門から八軒屋へ……、といふやうな話でありました、あれはもう会津は勿論、旧藩では誰一人知つて居なかつたのでございます、此方は一同の家来ども、今は進撃の号令が出るであらうと、勇み立つて刀の鯉口を寛げて待つて居る処が、誰いうとなく、御三方ともに何れへ御出でになつたか、御行方が知れぬといふ騒ぎで、幾ら力んでも、首脳なしでは何とも仕方がない、
○阪谷 薩州の兵力と会桑の兵力とはどんなものです……、
○江間 是非上様がやれと仰しやれば、叩き破つてしまふに何でもないのです、神経病が附いてしまつた、仕方がないから紀州へ遁げたのです、
○三島 あの時大坂城は御進発になつて居らぬですか、
○公 私は不快で、其前から風を引いて臥せつて居た、もういかぬといふので、寝衣のまゝで始終居た、するなら勝手にしろといふやうな少し考もあつた、
○阪谷 将軍職はまだ御持ちでしたな、
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○小林 御免になつたのです、
○三上 内大臣はまだ……、
○阪谷 平大名なら、江戸へ御帰りなすつても宜い訳ですな、
○三島 下が大変憤つて居るのだからな、
○公 名が大切なもので、名が悪いとどうも兵力は振はない、
○江間 ちよつと伺ひますが、此間三年町の島津久光公の方から、歴史を編輯して居る主任が参りまして、拝謁する折があつたら伺つてもらひたい、それは文久三年に島津三郎が出て、五日か一週間居つて帰つたことがある、其時に御屋敷に出まして、色々御話をしました時に御前から何か一つ字を書いてくれぬかといふことを御頼みになつて、承知しましたが、ともかくも帰りましてからということで、間もなく旧作の詩か何かを書いて献上をしたことがある、それは確か屏風であつたかと思ふが、さういふことは御記憶があるかどうか、伺つてくれと斯ういふことを申して来ましたが……、
○公 覚はない、日記もあつたが、上野に謹慎中、明日討入といふ前夜、残らず其書を焼いてしまつた、あれがあると少しは分る、もう書いたものは一つもない、ほんの記憶ぎりだ、今日になつては大きに早まつたやうなものゝ、其時は致し方がない、
○小林 先程伺ひましたが、最後の事項で、越前・薩州・土佐・宇和島、其四藩を召されました時分に、薩州の方から、今日上京したから御知らせするといふやうな、旧来幕府へ対する届書とは、まるで違ふものが出たといふ御話でありましたが……、
○公 それは成程考へたが、其時だつたか、どうも態度の違つたものが……、先づ並の諸侯へ知らせを出す振合で出した、
○小松[○小林] 其時以後は上京といふことはございますまいな、
○公 其以後なかつたら其時だつたらう、何でも一番おしまひの時だ
○江間 土佐は全く薩長聯合の当時から加盟して居らぬやうですな、
○公 加盟して居ない、容堂は又あの人の見識があつた、
○三島 肥前の閑叟も観望家のやうで……、
○公 俗に言つたらこすい人、善く言へば利口才子といふ人だ、
○小林 閑叟といふので思ひ出しましたが、慶応三年六月、長州の処分を議せらるゝ時に当りまして、伊達宗城が越前の毛受鹿之介への話の中に、大蔵大輔殿も自分も帰国したならば、長防の処置は、肥前などへ御依頼になつて決せられるやうになるであらうとありますが、是は如何でございませう、
○公 それは成程閑叟が出京するなら、閑叟の見込も尋ねて見やうといふことはあつたが、併し出るから見込を尋ねて見やうといふだけで閑叟に依頼するといふことではないやうだ、
○小林 幕府の内意で上京せしめたといふことではございませぬか、
○公 さういふことぢやないやうに思ふ、
○小林 其時分肥前の態度は、薩長とも違ひますし、どふいふ風な態度でございましたか、
○公 やはり今言ふ所の態度だ、下手な処へ顔を出さぬといふ風の人だ、
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○小林 形勢を観望する……、
○公 まあさうだ、なかなか利口な人だ、
○江間 御一新の際は少し立ち後れましたな、
○小林 肥前は割拠の世の中になると思つたか、其用意ばかりして居つたやうで……、先程小松帯刀と原市之進の二人が参内をして、議論をしたといふ御話でありましたが、陪臣が参内をして堂上方と話をするといふやうなことは、ずつと末のことでございませうな、
○公 諸大夫の間といつて、そこへは陪臣でも何でも用があると出られる、
○小林 ずつと以前からですか、
○公 私が知つてからはさうだ、極昔《ゴク》はないやうだ、
○小林 そこで堂上方と話をするので……、
○公 堂上方とそこで話をするといふことはない、それで内々小松や何かは堂上方へ話をしたい時は、御台所口といふ処で堂上方へ話をしたことがある、さういふことは昔は諸大名でさへもないから、藩士などには無論ないことであつた、けれども追々国事があゝいふことになつて、御仮建が出来た、それは諸大夫の間と名が附いて、そこへは皆出る、そこへ陪臣が落合つて、随分議論することなどがある、
○小林 すると唯今の御話は、そこへ二人落合つて……、
○公 さうだ、
○江間 御勤め中に、折々親しく勅語を賜はつたことがありますが、七月十九日の時分などは、特別に主上が、早速参内をして防禦も能く行届いた、満足に思ふといふやうな勅語を賜はつたといふことでありますが、実際どういふ御詞で仰しやるものです、
○公 御学問所へ、陛下が御上の間にあらつしやる、それから其次の間に堂上方、其御次の間に進んだる時勅語を賜はる、それで下ると、御書附を伝奏から御渡しになる、
○江間 それでは御当人様からは何も仰しやらぬで……、
○公 御口上は誠に御軽いことだ、
○江間 あの御拝領になりました所謂恩賜の御衣・御太刀、あれは御保存になつて居りますか、
○公 えゝあります、陛下の御召古しだから、すつかり陛下の御汗染御垢が附いて居る、それを拝領したんだ、今でもちやんと昔の通り保存して居る、毎年念入に虫干をして、今でも何ともない、
○江間 御太刀は……、
○公 束帯の時や何かに用ゐる品だ、
○江間 中身は……、
○公 中身も随分結構だけれども、別に特別といふでもない、
○江間 七月十九日に召されました御陣羽織は……、
○公 それがどうも無い、小具足をどうかしてと思つたが、それは大坂へ残して置いた様子だ、どうも無い、
○江間 恩賜の御太刀・御衣などは、写真にでも一つ願つて置きまして、他日御伝記の出来ました時には……、
○公 それは宜しいな、
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○豊崎 どちらか知りませぬが御太刀は大原真守……、余程結構なものですな、
○萩野 幕府への下され物は誰が致しますか、幕府の奏者番のやうな役目は伝秦でせうか、
○公 伝奏がやります、それから御剣だの御衣だの、御前へ持運びをする者は、是はずつと卑い、何であるか赤い著物を著て居る、ずつと位の下つたものが持運びをする、
○三島 先刻御話した、飲んで居る処へ伏見の知らせが来たといふのは、九日であつたと思ひます、
○小林 原市之進が越前の方へ話しました事柄、あれは根もないことだと致しましても、昭徳院様の時、或は御前の時に、先帝から何か御聴きになつたことは……、つまり幕府はいつまでも幕府でなければならぬとか、或は政権を奉還するには及ばぬとか、其類のやうなことを何か御聴きになつたことは、前後に一度もありませんでございましたらうか、
○公 政権のどう斯うといふことはまだ出ない中で、そんなことはないが、唯どうあつても幕府へ委任しなければ治まらぬから、委任をするといふ御沙汰はあらしつた、それは昭徳院様の時だつた……、私はまだ一橋に居る時に……、それはあらしつた、それは長人の暴発があつて、其後に御上洛になつた時と覚えて居る、
○小林 すると御前の御相続後にそんなやうなことは……、
○公 相続後にはさういふことは伺はなかつた、