デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.551-577(DK470130k) ページ画像

明治43年1月25日(1910年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第八回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK470130k-0001)
第47巻 p.551 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日 曇 寒
○上略 九時朝飧ス、江間政発父子来話ス、十一時小日向徳川公爵邸ニ抵リ、新年ヲ賀シ、豊崎氏ト談話ス、御伝記編纂ノ事ヲ協議ス○下略
  ○中略。
一月二十五日 曇又雨 寒
○上略 兜町ニ抵リ昔夢会ニ出席ス、徳川老公、阪谷・篤二・三上・萩原其他ノ諸氏来会ス、民部公子仏国行ニ関スル顛末ヲ談話ス、午後五時散会、夫ヨリ囲碁会ニ移ル、六時晩餐、畢テ又囲碁アリ、夜十一時帰宿○下略


昔夢会筆記 渋沢栄一編 中巻・第一―六三頁大正四年四月刊(DK470130k-0002)
第47巻 p.551-577 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  中巻・第一―六三頁大正四年四月刊
  第八
      明治四十三年一月二十五日兜町事務所に於て

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       興山公      男爵   渋沢栄一        豊崎信君         渋沢篤二        猪飼正為君   法学博士 阪谷芳郎                男爵                文学博士 三上参次                文学博士 萩野由之  以下p.552 ページ画像                      江間政発                     渡辺轍                     井野辺茂雄                     藤井甚太郎                     高田利吉 



○藤井 私から御伺ひ致します、安政六年八月二十七日、思召の御旨があらつしやるといふことで、御前に御隠居御慎といふ御達がありました、其御慎といふことにつきましての御前の思召は、先年承つたことがございますが、新家雑記といふものに依りますと、其時御前は唯深き思召といふ一言では甚だ御不審があらつしやつて、つきましては御家の御瑕瑾にもなることであるから、一応如何なる罪科であるかといふことを御尋ね申せといふことで、御家老の竹田豊前守に御話がございまして、豊前守が老中の松平和泉守の処へ参つて、御前の思召の所を申述べました処が、和泉守が永いことでもありますまいから、素直《スナホ》に御受けなすつた方が御為であらうといふことを御話したといふことが書いてあります、其事は外に見えませぬでございますけれども、新家雑記といふ書物だけに今までの処では見えて居ります、実際豊前守などを御遣りになりまして、和泉守との御問答があつたものでございませうか、それを御伺ひ致したうございます、新家雑記にはかやうに書いてございます、
 一昨年八月中、御登城御指扣被遊候様被仰出候節、御一室に御籠り被遊、御読書のみにて、女中等一円御近付不被遊、御簾中様御対面不被為在候由、右之御様子公辺へ相達、右様の御慎には不被為及、御登城御差扣のみにて御宜敷旨申上候由、
 一此度御慎御隠居被仰出候御書付、御家老竹田豊前守へ老中方より被相渡、則入高覧候処、思召之御旨被為在候との儀にて、如何様の罪科に可有之哉、御廉不被仰出候ては、此御家へ疵を付ること恐入候間、右之趣老中へ断り候様御意ニ付、和泉守殿へ罷出、御口上之趣申立候処、御永き事にも不被為在候間、御素直素直御請被遊候様にとの事之由、右之趣申上候処、我等義は如何様に被仰出候ても、一身之義は宜候へ共、此御家へ疵付候様にては不相済候間、右訳合得ト申立候様御意にて、又又豊前守事和泉守殿へ罷出申立候処、和泉守殿家来、家老に哉、若老歟之立場之者、豊前守一同参殿、何歟申上候由にて、御請被遊候由、
    ○
 一一橋様御慎御隠居被仰出候節、直様御下ケの御書左之通、右ニ付御家来之面々、無老少落涙に及ひ、恐入候旨申上候由、
   不肖之我等御屋形を汚し候段、幾重にも詫入候、
                       家来共へ
○公 考へたけれども、それはどうも覚がないやうだ、思召これあるについて隠居謹慎といふことは、それは御書附があつた、それで畏まつただけで、何の訳であつたかといふことは、どうも無いやうだ、ここにある不肖の我等御屋形汗《(汚)》す段幾重にも恐入るといふ書面を、出したことがあつたかどうだつたか、
 - 第47巻 p.553 -ページ画像 
○猪飼 どうもさういふことはございませぬやうに思ひます、
○公 竹田豊前守が和泉守の処へ行つて口上の趣を申した処、和泉守が永いことでもあるまいから、素直に受けた方が宜からうと言つたといふことが、これも訝《ヲカ》しな返事で、畢竟どういふ罪状だか、それを伺ひたいといふ節に、そんなに永いことでもなからうから、素直に慎んで居れといふのは、訝しな返事だ、罪があるとか無いとかいふならとにかく、少しの間だからまあ慎めといふのも、どうも閣老の答としては何だか曖昧だ、どうも無いやうに覚えて居る、
○猪飼 どうもさういふことは無いやうに思ひます、
○阪谷 どういふ本ですか、
○藤井 水戸の新家といふ人の雑記から書抜きましたものです、
○阪谷 水戸にさういふ家がありますか、
○猪飼 覚えませぬ……、私は御側に仕へて居りますから、能く御様子は伺つて居ります、御側の者が余り御慎が過ぎると思ひまして、実は切歯扼腕といふ感じもございました、誠に唯仰せの儘で、少しもどういふ事柄であるといふことの御尋もない、余りのことであるといふやうに皆申して居つたので、さういふ御詞のあつたことは、確に無いやうに思ひます、
○公 どうも素直に御受をしたやうに覚えて居るがね、
○萩野 御慎の時に、斯ういふことをしてはならぬ、幕府や御先代の御霊屋にも参詣に及ばぬといふやうなことを、細かく箇条書にしたものがありますが、一々幕府から、何をしてはならぬ、斯ういふことをしてはならぬといふことが、出ますものでございませうか、
○公 それは慎といへば何もしないことに極まつて居る、何をしろ彼をしろと、そんなことはない、先づ通常ならば、慎といへば他出もしないし、書見でもするといふくらゐで、一室に閉ぢ籠つて居るのが通常なんだけれども、私は先頃も話した通り、麻上下を著けて、雨戸をちやんと締めて、此くらゐの竹を切つて其間へ挟んで、内に慎んで居た、自分に何もないのだから、どこまでも厳格に慎むといふ積りであつたのだ、それから推して見ても、どんな訳だの何だのといふことを聴くのは、少し意気組が違ふのだ、
○三上 先例書を、或は君側の者にでも送つたといふことはありませぬか、例へば病気の時に医者をどうするといふやうなことがありますそんなことを、老公でなく、誰か君側の人に送つたといふやうなことはありませぬか、
○公 決してそんなことはない、何もないやうだつたね、
○猪飼 何もありませぬ、外の御三家の方はさういふことがありますけれども、御三卿は誠にさういふやうな規則といふものはありませぬ御慎といふことは、屋形といふものが出来てから始めてゞありますから、規則といふものもなければ、何もありませぬ、唯御素直にあらせらるゝの外ないといふくらゐのものであつて、御前の思召で雨戸を御引かせになり、御服を御正しになつて、朝からずつと御慎みで、規則でもなければ誰が申上げたでもなく、ほんの御自身の御考だけであります、
 - 第47巻 p.554 -ページ画像 
○萩野 これは一橋家の日記にあるのでございます、箇条書を読上げませう、
    八月廿七日
  一左之通
                    徳川刑部卿殿
   思召御旨有之ニ付、御隠居御慎被仰出候、
  右御書付、於土圭之間、井伊掃部頭殿始御老中方御列座ニ而、松平和泉守殿御渡ニ付、豊前守殿、田安河野対馬守殿同道ニ而御屋形江被罷出、御直ニ被入御聴之、
 一右ニ付只今迄之御領知其儘、並御付人・御抱入之者共も、一橋付と可心得との御書付、松平和泉守殿御渡之旨、右被仰出之趣、此方共江者於御用部屋豊前守殿被相達之、奥向ハ一役一人宛、於松之間御同人被相達之、侍座藤次郎・源十郎、表方之面々ハ、於席席一役一人ツヽ御同人被相達之、侍座同断、
 一右同断ニ付、御前御長髪ニ而可被遊御座候、
  但奥表勤仕之向、不及其儀候事、
 一毎朝御機嫌御伺、御差扣可被遊候事、
 一公儀並御手前御霊前向、御名代無之候事、
 一御本丸御広敷江女中被遣候儀も、御差扣可被遊候事、
 一御普譜御差扣可被遊候事、
 一御慎中勤仕之向、平服着用之事、
 一右同断之内、面々宿々物静ニ可致事、
 一此節火之元別而入念大切ニ可致候、御門出入等別而入念可申候事
 一御下屋敷住居之者、他出等先見合、入湯等無拠用事ニ而罷出候儀ハ不苦候事、
 一途中ニ而も諸事相慎、召仕之者、別而右之通可申付候、此節公辺沙汰ニ罷成候儀無之様心付可申候、
 一右ニ付今日より表御門・裏御門・〆切、裏御門ハ潜リ方引寄置、不目立様通用致し候様、且御広敷御門・御厩御門共、裏御門同様、御守殿御門ハ平日之通可相心得との口達之覚二通、御家老衆被相渡候間、留帳江記之、御目付・奥向江相達之、詰合無之同席江申遣之、
○公 それは一橋から家中へ達したんだらう、公辺の方から出したんぢやなからう、
○江間 御屋形へは勿論御屋形から御達になつたには違ひないですが其御達になりましたについて、どのくらいの程度といふことは、幕府から出ましたやうに見えまするのです、
○公 尾州にしろ何にしろ、又は旗下にしろ、蟄居とか謹慎とかいふことを申付けても、其者へ対して斯く斯く致せといふことを言つたことはない、蟄居なら蟄居致せといふだけで、何はどうする斯うするといふやうな差図は決してしない、それで不謹慎の者は、後で慎み中甚だ不謹慎だからといふことはあるが、どうもそれから推して見ても、斯ういふことを公儀から出すといふことはない筈だと思ふ、
○三上 私の考では、御三卿は知りませぬが、大名の慎といふ時は、
 - 第47巻 p.555 -ページ画像 
出るだろうと思ひます、さうでないと、慎といふものゝ標準が分らない、柳営秘鑑などにも、これに似たものがあるやうです、
○公 場合に依つては、慎み罷り在るべし、或は他人に面会を差止めるなどゝいふやうなことも随分あるやうだけれども、斯ういふことはなかつたよ、
○萩野 幕府や御先代の御霊屋へも、御参詣をしないで宜いといふやうなことは、老公御自身からでなく、他から即ち他動的に出たことのやうにも見えます、即ち「公儀並御手前御霊前向御名代無之候事」といふ箇条は、老公から御屋形へ御触れになる御詞としては、少し穏でないやうですが、
○公 家老から家中へ達したものぢやないか、御謹慎に対しては一同さう心得ろと……、
○猪飼 御家老から内意を伺つて一同へ達したものゝやつに思ひます
○公 家老が独断ぢやあ遣らない、内意は聴いたらうよ、かやうなことに仕るといへば、それが宜からうといふやうなことだつたらうと思ふ、
○江間 さういふ訳でありますと、それが能く分つて来ますな、御慎といふことを仰せ付けられたが、どのくらゐにして謹慎を表したら宜いかといふことは、どうしても伺はなければならぬ、
○公 どうしても謹慎といふことを言はれる以上は、そんなことを言ふことは出来ぬ、謹慎中は家中といへどもそんなことは言へない、だから家老がさういふ箇条を拵へて内々耳打ちをして、至極宜からうといふやうなことで遣つたんぢやないか思ふ、
○江間 それでありますと、一橋家日記も大変都合が宜くなつて参りますな、
○猪飼 此時は御附といふものは一人もないです、皆御屋形附といふので、御前の御附といふものはない訳になりましたのです、
○萩野 それも此日記の初の一箇条にございます、
○公 一橋附といふと、離れて見ると家来ではない訳になる、
○猪飼 今までは刑部卿附、今度は一橋附といふことになりましたから、御家来といふものは一人もない形になりましたのです、それで御家老が一同へ達するのに、伺つてしましたことゝ思ひます、
○江間 大変なものですな、親御様の御霊屋へも御挨拶がいらぬといふのですから、
○阪谷 御謹慎といふと、動かざる姿勢……、不動の姿勢を取らなければならぬ、
○江間 成程今までは謹慎といへば、不動の姿勢を取らなければならぬが、少しこれが緩んで見ると、其程度がなくてはならぬから、他人に面会はならぬとか、文通を差控へろとかいふことが起つて来たのではないかと思ひます、
○井野辺 生麦事件が起りました時、其報知が幕府に達しますと同時に、幕府ではこれに対する評議を致しました、其時に幕府の諸役人は島津三郎の挙動に対して非常に不快の念を抱いて、これはきつと殊更に外国人と争を開いて、幕府を困難の地位に陥らしめやうといふ策略
 - 第47巻 p.556 -ページ画像 
に相違ないといふので、大層憤激致しました、殊に御目付の服部帰一などは、速に兵を出して島津三郎を追撃しなければならぬといふ、過激の議論まで致しました、併し老中は、今の場合はさういふ過激のことをすると、却て天下の騒乱になるやうな虞があるから、先づ其儘にして、臨機の処置をするが宜からうといふやうなことでございましたが、春岳侯はそれに反対されて、島津三郎にして幕府を尊崇するだけの念慮があるならば、神奈川か程ケ谷あたりに滞在して下手人を出し公儀の御差図を待つべき筈であるのに、其手続をせずして、後始末を幕府に託し、知らぬ顔をして京都へ行つてしまふといふことは甚だ不都合であるから、速に旅行を差止めて下手人を出させるやうにしなければ、幕府の御威光が立たぬといふ意見でございましたが、老中は今申しました通り穏和の意見でございましたので、春岳侯の意見は行はれませぬでございました、其時御用部屋での御評議の際、御前の御意見はどういふことでございましたらうか、老中と同じやうな御意見でございましたらうか、
○公 あの時は実は突然に出来たことで、討つてしまふが宜いの、或はどうするが宜いのと、色々議論があつたんだね、それでつまる処、あの出来事があると三郎は急いで上京する、こちらで評議をしても今更如何とも仕方がないから、あちらへ掛け合つて下手人を出させ、それを外国人の前で処刑する、償金は償金で出す、到底それより外に手段はないといふことに結著したんだね、早く追掛けてどうするといふやうな議論もあつたのだが、結局それより外に仕方がないといふことに極まつたのだ、私も別に考といふものはない、つまりそれより外にないのだ、
○江間 さう致しますると今の春岳様の御論が行はれましたのですか
○井野辺 行はれないのです、春岳侯は三郎の旅行を差止めろといふのです、
○公 三郎を止めて置いて始末をつけろといふのだ、然るに三郎は行つてしまつたから、それはそれで構はずに、あちらへ達して、さうして下手人を出させて、外国人の前でちやんと処刑して見せて、それで償金は償金で相当に遣る、それより外はないと斯ういふことになつたんだ、それで其時分は、掛け合へば向ふで恐れ入つたといつて出すだらうといふ考であつた、処が掛け合つて見ると、供の中で誰がしたか分らぬから、是非出せといふなら、三百人とか居つた供を残らず差出すから、宜しく願ふといつたやうなことなんだ、それで此生麦一条は大変むづかしくなつた、
○井野辺 あの時に春岳侯ハ、多分英吉利といさくさが起るに相違ない、然るに京都あたりの御守衛が如何にも薄弱である……、丁度其時大原三位が関東に滞在して居りまして、生麦事件の起りました翌日立ちましたのですが、其勅使に従つて老中が一人京坂地方に上つて、御守衛に当らなければならぬといふ説でございましたが、其春岳侯の主張に対しまする御前の御意見は、どういふことでございましたらうか
○公 それは今記憶しないがね、
○井野辺 其時に神奈川奉行をして居りました阿部越前守が、其事件
 - 第47巻 p.557 -ページ画像 
が起りますと同時に、島津三郎の程ケ谷の宿舎へ、支配組頭若菜三男三郎といふ者を遣はしまして、下手人を差出せ、さうして此事件落著するまで程ケ谷に滞在して居れといふことを掛け合ひました処が、三郎は聴入れないで、其翌日立つて京都へ上つてしまひました、そこで越前守は小田原藩に対し、箱根の関を閉ぢて三郎の上洛を喰止めるやうにといふ命令を伝へました、尤も自分一己の考でしましたので、幕府の指令を待つて遣つたのではありませぬ、其知らせが幕府に達しますると、幕府の方では非常に驚きまして、さういふことを遣つては困る、今三郎の機嫌を損じては、京都の首尾を損ずるから大変だといふので、急に越前守を責罰し、小田原藩には急使を遣つて、差支なく通過させろといふ命令を発して、無事に落著を致しました、其越前守の始末なども、定めし御評議になつたことゝ思ひますが……、
○公 其評議のことは記憶しないが、今ちよつと考へるに、神奈川の奉行が島津三郎を止めるといふことは出来まいと思ふ、島津三郎に止まつて居ろといふ命令を出すといふことは、神奈川奉行には出来ない筈だが、
○井野辺 さういふ事実があつたといふことは御記憶でございませぬか、
○公 どうも記憶しない、
○井野辺 田辺蓮舟の書きました幕末外交談といふものに書いてありますが、其他には何も見えませぬので、それで伺ひました、
○公 仮に神奈川奉行が止めたのを島津三郎は聴かずに行つても、私は其方が本当だらうと思ふ、神奈川奉行の命を聴く訳がないのだから聴かずに行つた処が、なぜ聴かなかつたと咎めることは出来ない、神奈川奉行は三郎を止めるといふ何はないのだから、どうもどんなものだらうか、能く記憶しない、
○三上 それは其命令といふことは出来ないが、神奈川奉行から小田原へ言つて遣つて止めさせる、一面は幕府へ届けて、幕府で評議の結果、三郎の機嫌を損ずると宜くないから通せといふやうなことを小田原へ言つて遣る中には、時日は経過してしまふ、事実出来ないことゝ思ふ、
○公 何でもあの時は兼行して、何日とかで行つたといふことだ、止めるどころぢやない、間に合はなかつたのだ、
○江間 其時に英吉利の公使の方でも、兵隊を繰り出して島津を止めるといふ運動があつたやうに思つて居りますが、
○井野辺 さうでした、
○江間 私の考へますに、固より神奈川奉行から公然と命令は出来ませぬけれども、あの一条は実に幕府に取つては大事件である、それを命令することが出来ぬから己の職掌ではないといつて、見す見すそこへ来た機会をぼんやりして捨てゝ置くといふことも出来ますまい、越前守は成程命令する職権はありませぬが、これは実に容易ならぬ大事と認めましたからには、職権はともかくも、臨機の活動で、島津であらうが何であらうが、差止めるくらゐのことは遣つたらうと思ひます故に私は至極越前守に同情を表して居るのであります、だが併し、こ
 - 第47巻 p.558 -ページ画像 
れは田辺と小田原に一つ聴いて見るが宜しうございますな、
○阪谷 其時阿部越前守の一番心配すべき点は、島津を逸するにあらずして、英吉利の兵隊が居留地以外に出て、日本の大名を砲撃するといふことで、これは大変なんだ、さうすると国体に関するから、それをさせてはならぬ、だから横浜の居留地以外に一歩も出ちやならぬといふことは言ふかも知れない、それについては、阿部が如何なる非常手段を執つても差支ない、ついては其島津に、暫く御止まり下さいませぬかといふことは言ふかも知れぬが、止まれといふ差紙は附けられまい、だから相談はしたかも知れぬ、
○江間 私は逸速く言ふだらうと思ふ、無論止まれと言つて命令は出来ませぬが……、
○阪谷 今の関所を締めるといふこともえらいな、関所破りといふことになるのだから、
○三上 今の三郎の機嫌を損じては京都の都合が悪いといふので、小田原へ人を遣つたといふことも、想像が出来ぬですな、
○阪谷 幕府から直接に小田原へ達したのですか、
○井野辺 さう書いてあります、
○阪谷 それを聴くと同時に、大変だといふので、幕府から小田原藩に重ねて命令を下したといふことがあるのですな、
○井野辺 さうです、
○三上 神奈川から小田原まで何里ですか、
○阪谷 東京から三十里ですから、二十里くらゐのものでせう、
○三上 それは島津の日誌を調べて見れば分る、それから英吉利の態度は外交掛の記録がございますから、それを一遍参考の為に御覧なさると宜い、
○阪谷 島津三郎が程ケ谷へ泊つて、其次には大磯で泊つたか、或はすぐに小田原へ行つたか、一日は泊つて居る訳でせう、幾ら昼夜兼行でも……、
○江間 それは三郎の日記にあるでせう、
○井野辺 三郎の履歴書にも大久保一蔵の日記にもあります、
○江間 さうすると先づ小田原を聴いて見るのですな、
○公 小田原へ聴いたら分るだらう、
○江間 若菜三男三郎を遣つたなどゝいふことを言つて居るのですからな……、それから今の三郎を止めるといふ春岳様の議論が行はれると面白かつたのですが、不幸にして行つてしまつた、彼の機嫌に障るといかぬから、まあ自由にして置いて、どこへ行つても後から掛合が出来るからと斯ういふことになりますと、幕府がちと弱くなりますな
○阪谷 幕府の評議は止めぬというのですな、
○江間 さうです、京都へ行つてから差紙を附けたのです、事実さうなつて居ります、其止めぬといふのは、今彼に手を附けると京都の方が不首尾になるかも知れぬからと、斯ういふことに帰著するのですな
○公 それがだね、幕府に威力が十分あれば止めるにも及ばない、国へ帰つた上で、さあ下手人を出せ、出さなければこちらが勘考がある斯ういへば済むのだ、京都へ行かうと国帰へらうと子細はない、下手
 - 第47巻 p.559 -ページ画像 
人を出せと達すればそれで宜い、いや私にはございませぬ、あつたものを無い、愈かといふ訳になると、恐れ入りましたといつて出す外はない、処がこちらはさうはいかぬから、まあちよつと止めて置いてといふ中に、向ふは何も構はずにずんずん行つてしまつたといふ訳だ、こちらに威力があれば、向ふから止まる訳になる、勢がさう違ふ、彼の機嫌を損つては宜くないといふのがこちらの弱味だ、威力があれば国へ帰らうと京都へ帰らうと、一本手紙を遣ればそれで事は分る、後で掛け合ふと、誰がしたか分らぬ、出せといふなら三百人残らず出しませう、然らばそれを出せと斯ういへはば宜いのだ、処がそれがいへない、其訳だからむづかしい、
○阪谷 三百人残らず出すといふのが、既に嘲つた詞ですな、
○公 さうだ、誰か分らぬなら残らず出せ、三百人首を斬つてしまふそれで宜いのだ、けれどもそれが出来ぬのだから大変むづかしい
○江間 平たくいへば怖《コハ》いのですな、怖いといふことが公儀の方に十分ある、それで以て向ふの強い奴《ヤツ》を処分しやうといふのだから、事は面倒だらうと思ひます、
○井野辺 文久二年に将軍家が愈御上洛の御評議が纏まりました、併し当時京都の形勢は、非常に過激の攘夷論者が集まつて居る、さういふ処へ急に将軍家が御出でになるのは宜しくないから、御上洛の前に後見職か総裁かゞ先に御出でになつて、色々御交渉のあつた後に御出での方か宜からうといふので、九月五日に御前に御上京を願ふといふ御評議がありましたが、固く御辞退なさいましたので、評議が纏まりませぬでございました処が、十二日になりまして遂にこれを御受になりました、数日の後に御受になりますることを、数日前に固く御辞退になりましたのは、何か其間に御事情でもありましたのでございませうか、

○公 それは三条・姉小路が攘夷のことを持つて来た時だ、とても攘夷は出来ないから辞職するといつて引込んで、それから其後に色々何があつて、先頃も大体は話して置いたが、愈来春御上洛の上で、平たくいへば攘夷の出来ないといふことを申上げて、攘夷をやめにしやうといふのが皆の腹であつた、けれどもそれを先へ行つてするといふことは大任なんだ、どうも届かぬからといふことを一応申上げたけれども、何でも先へ出るやうにといふことで、さういふ訳なら出ませうといふことを申上げただけのことで、別に深しいどう斯うといふことがある訳ではない、早くいふと、一応は辞退したが、強ひて行けと仰しやるから畏まつたといふだけの話なんだ、
*欄外記事
 是は御記憶の誤なり両卿の著府は十月、辞表の御呈出は十一月にて御上京の議ありしは九月の事なり
○井野辺 それから引続きまして、もはや勅使が来るといふ間際でございます、十一月十一日松平肥後守が登城致しまして、勅使の待遇法を改めなければならぬといふことについて、会津の家臣が三条卿から授かりました覚書みたやうなものを幕府に呈出して、其意見を述べました、板倉周防守は非常に反対で、其時の評議が纏まりませぬでござ
 - 第47巻 p.560 -ページ画像 
いましたが、其時に御前は周防守の説に御左袒遊ばした形跡があるといふことが、越前家の記録に見えて居りますが……、
○公 成程会津の藩士が勅使より先へ来て其事を話した、それについて色々評議があつたけれども、それは評議の時には、随分ひどいことをいふとか何とかいふことは、まあ当り前のことで、つまり板倉周防でも決してそれが不同意といふ訳ではない、実は板倉や春岳など御用部屋だけの者の話に、まあどうも段々色々なことになつて来て困る、勅使の御扱などゝいふことも昔から極まつて居る、併し御尊奉といふ上から考へると、実は扱がひどい、昔東照宮が天下を取つて、其勢で実は押し附けたのだ、だから能く考へて見ると、君臣の間でひどいと思ふことは幾らもある、こちらで思ふくらゐだから、向ふから見れば尚さう思ふに相違ない、こゝは相当に改めずばなるまいといふやうな話が、極内輪の話であつて、それぢやどういふ廉を改めやう、斯ういふ処は斯うしやうといふので、待遇が色々改まつたが、板倉でも決して不同意のどうのといふことではない、
○井野辺 其時の覚書を呈出致しまする手続について、板倉が非難して居りますが……、
○公 それは確か持つて来たよ、其書附の箇条は私は能く覚えて居ないが、持つて来て、どうか改めるやうにしたいといふことを肥後守も言つた、
○井野辺 一体あの覚書と申しますものは、三条卿が京都に居りました会津の藩士の柴秀治を呼びまして、色々御相談があつて、今度愈勅使が関東へ下るについては、従前のやうな待遇では困る、若し従前の通りの待遇であるならば、登城をしても勅旨を述べずに帰るといふやうなことを御話になりました、それではどういふ風にしたら宜からうかといふ柴からの質問に対して、覚書が出ました、それを柴が持つて参つて肥後守に渡し、肥後守から幕府の方へ呈出した、其手順が悪い京都から関東へ下るべきものは、一切所司代の手を経なければならぬ然るに会津の藩士が直接に京都の方から受取り、又肥後守はそれを承知して居ながら、幕府へ呈出したのは手落であるといふやうな議論であつて、非常にやかましかつたといふことでありますが……、
○公 成程それはさうだ、理窟をいへば板倉のいふ通りだ、伝奏から所司代へ仰しやるといふのが、御極まりはさうなんだ、併しながらさう言つて見ると、以前は守護職といふものはないのだから、昔のことを考へて見ると、どうもさうばかりはいかぬことがある、といふものは、こちらの都合の宜い時には藩士を内々使ふことがある、藩士を以て堂上方へ密に願つて、都合宜くいけば黙つて居る、向ふから仰しやる時はかれこれ言ふといふのは、余り虫の宜い話だ、どうもそれまで板倉が言ひはしまいよ、これはもう皇族方にしろ、何方《ドナタ》にしろ、表向ではいけないから、お前の方から内々さう言つてといふことは、幾らもあることだから、こちらからさう言へば向ふからもさう言つたつて何も悪いことはない、だから板倉がそれを咎めたかどうか、又私はさういふことを聞きもしないが、板倉は攘夷は出来ない、攘夷は出来ないから、どうか御上洛の上でやめにしたい、併し御尊奉の処は、昔か
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らの仕来りだが、どうもちとひどい処があるから、あゝいふ処は改めずばなるまいといふやうな話はした、
○井野辺 それでは強ひて反対されたといふことではありませぬか、
○公 さういふことではあるまい、
○井野辺 越前家の記録に依りますと、其手続に御前が御反対であつたやうでありますが、
○公 そんなことは少しもない、
○井野辺 十一月二十九日に、御前が春岳侯と御一緒に、三条・姉小路の両卿を清水邸に御招待なされたことがございますが、其時席上での御話について、御記憶のあらつしやる所を御伺ひ致します、
○公 其時の談じは、此度攘夷を御受になつた旨は、速に天下へ布告しろと斯ういふのだ、処がこちらでは御受はしたけれども、尚来春大樹上洛の上で色々見込を申上げて、其上で布告するといふ考だ、といふのは、どうかそれを取戻したいといふのだ、片方はさういふことがあつてはならぬから、受けたものならすぐに布告しろと斯ういふのだこれは全体穿つた話だが、攘夷を受けたのは策略で受けたんだらうと斯う向ふからは出るんだ、其策略を聴きたいものだといふ、処がそれは今策略を言ふ訳にはならず、又こんな策略だ、あんな策略だといつて天下に知らせたら、策略にはならないといふやうな談判だつた、攘夷を受けたら早く布告しろといふのが大眼目だ、外に用はない、それで策略云々は後で揶揄半分《カラカヒ》に言つたんだね、
○江間 あの時は肥後守は江戸に居りましたかな、
○公 守護職であつた……、
○江間 田舎者が俄に京都へ行つて堂上の間に周旋して、宜い工合に順序をつけて、肥後守の地をなさうといふのですから随分困難です、それで先づ行つて趣向をさせるといふので、そこで藩士の中から働きのある連中を遣つて置いたのであります、其時の京都はどうかと申しますと、三条様の全権の時代、何でもあすこへ気脈を通じないと万事に都合が悪い、そこで色々心配をして居ります処へ、恰も三条様御東下といふことになりまして、これが幸になつて今の秘密が……、御註文などゝいふことも聞出すことが出来ましたので、そこで新任の肥後守が京都の政治をするといふについては、どうしても朝廷の要路に手寄る所がなければならぬ、殊に勢の宜い三条様其人の御註文でありますから、これこそ屈竟の方便と思つて、会津の藩士が専心に此斡旋を致しました時でありますから、肥後守はまだ上京以前で、江戸に居りましたやうに考へます、上京は其翌年でせう、
○渋沢 あの勅使を御迎へ遊ばす時に、御所労で御引きか何かであらしつたのですな、それで御前が受け方について、今までの受け方が宜くないといふので御直しになつたのは、あの時ではございませぬか、
○公 あの時には御尊奉のことはそれは同意だつたが、攘夷といふことは私は不同意であつた、攘夷といふことは出来ない、それを御受をするといふことは私には出来ないから、私は辞職すると言つて辞表を出したのだ、其中にあの因州が来て、どうも攘夷が出来ないと言つては烈公へ対しても済まないから、成るべく攘夷をするやうに御受をし
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なければならぬといふことで、丁度私は不快で寝て居たが、其床の脇へ来て議論が始まつた、どうあつても出来ない、いや受けなければならぬといふやうなことであつたが、別に極まりがつかないで別れてしまつた、それから板倉だの岡部駿河だの代り代り来て、岡部などは頑固説で、是非出なければならぬ、出るには出るが迚も攘夷の御受は出来ない、それぢや御家の為にならぬ、お前それぢや攘夷が出来るか、出来ない、出来ないのに御受をするのか、さう仰しやれば誠に言ひやうがないといふやうな訳で、そこが一方はこゝで御受をして置いて、来春御上洛の時に京都の方を何とか拵へて、攘夷でないやうにしやうとにかくこゝで御受をしろ、出てくれなければ困る、いや出ないといふ押問答だ、処が和宮御下向の時のことだが、安藤対馬の何で、京都では和宮を下さらぬといふのだ、和宮も関東へ行くのは厭だと仰しやる、そこで陛下も、あれほど厭といふなら止すが宜からうといふことになつて、御やめにならうとした、抑和宮のことは井伊掃部頭の考で攘夷といふ一方の思召、攘夷を致すには人心一致しなければならぬ、国内一致でなければ攘夷といふことは出来ない、国内一致するには公武御合体でなければいかぬ、公武御合体をするには、和宮を関東へ御遣はしになるが一番宜い、さうさへすれば、七八年乃至十箇年の間には攘夷を仕るといふことが出てあるのだ、さういふ訳で、国家の為であるならば宜しいから遣らう、斯ういふことになつてあれは御下向になつたんだ、それでどうあつても攘夷といふことは、七八年か十箇年の間に遣らなければならぬことに極まつて居る、さういふ訳であるから、どうも出来ませぬといふ訳にいかず、又申上げた処で、そんなら取返すと仰しやつた処が仕方がない、それから考へて、成程さういふ理窟が極まつて居るのでは、今更受けたつて受けないたつて、ちやんと極まつて居るんだから、それならば出ませうといふことになつて、そこで御受をしたのだ、なれども来年御上洛の上で、どうかならうといふのが有司たちの考だ、そこで御受になると今の三条と姉小路が、受けた上からはすぐ布告しろと斯う出る、もう来年のことは向ふでも知つて居る、変更のならぬやつにしてしまうと斯ういふ訳だ、そこで攘夷は仕るといつて遣らない、向ふでは出来ないのを知つて遣れと斯ういふのだ、それで両方其間に何かあるのだ、
○渋沢 勅使の御扱を直さなければいかぬといつて、御前が色々御直しになつたといふことでありましたな、
○公 それは其時から直つたんだ、これまでの処では、将軍は真中で勅使は横座に斯うなつて居た、それを今度は改めて、勅使を真中にして、将軍の方で正面へ行つて、勅使へ御辞儀をして勅語を伺ふ、これはどうも其方が本当なんだ、自分が上に勅使が下に坐るといふことは全体不都合で、少し御尊奉といふ処へ気がつけば、どうも不敬な訳だそれから玄関まで送り迎へをなさるといふことになつた、それが一番大きい処で改まつたのだ、どうもあれは昔からの仕来りではあるが、実は余りひどいやうでね、
○井野辺 それから島津三郎の問題でございますが、十二月五日に勅使が登城致しました時に、三郎を守護職にすることについて、幕府に
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は異存がないといふ御受がございますが……、
○公 いやあの時分島津三郎の守護職といふことは、屡噂や何かにあつたけれども、さういふことはない、あの節の大原・板倉・水野なんぞ皆守護職にするのどうのといふ訳ぢやない、確か官位のことか何か望みであつた様子だ、これこれで上げてもらひたいといふやうな内談が大原からあつた、それは京都で騒動を鎮定した功があるから、其廉を以て官位を上げてもらひたいといふやうな談じがあつた、私は其時分には居なかつたけれども後で聞いた処が、板倉のいふには、京都の騒ぎといふものは自分の手から出したのだ、それを鎮定したからといつて、どうも位を上げることは出来まいといふやうなことであつた、とにかく鎮定したんだから、なに一段や二段進めたつて何程のこともないから、何しても宜ささうなものだと思つたこともあつたが、先例にないといふことで、それはそれつきりになつてしまつた、其談じはあつたが、守護職といふことはないやうだ、
○井野辺 十一月に朝廷から御沙汰が下つて居ります、それで色々評議の結果、十二月五日に御受になつて居りますが……、御沙汰になつたのと御受になつたのは確でございます、併し諸藩にも色々異議があるから、将軍家御上洛の後に発表するが宜からうといふやうなことでありましたけれども、其事はとうどう発表せずにしまひました、
○公 其事は能く記憶して居ないが、何しろ大原が来た時の談じは官位だけの話だつた、
○井野辺 今伺ひますのは二度目の勅使の来ました時です、三条卿が御出でになつて攘夷の勅諚の下つた時です、其勅諚も御受になりますし……、
○公 併し三条・姉小路の勅使の際に、島津を何するといふことは分らぬ話だ、
○井野辺 三条卿が江戸へ御出でになつた後に、伝奏の手を経て幕府へ御沙汰があつたのです、然し幕府からは、其事も三条卿の持参せれた勅諚も、一纏めにして御受になりましたので、御受の箇条が沢山ございます、
○渋沢 其時は会津が守護職であつたのですな、其守護職を替へやうといふのですか、
○井野辺 朝廷では二人置かうといふのです、
○公 島津が守護職になるなんていふのは……、どうもそれを御受になつて居るか、
○井野辺 さやうです、御受になつて居ります、其御受になつたといふ理由を、少し説明の出来ることがあります、それは文久三年の春に島津三郎も春岳侯も山内容堂も、打揃つて京都に上り、近衛関白と青蓮院宮と此五人が一緒になりまして、急激派即ち長州並に長州派堂上の勢力を、一度に挫いてしまはうといふ計画がございました、多分それらの為に、島津家の機嫌を損じてはならぬといふので、承諾したのではないかと思ひます、
○公 さういふことはなかなか表面上からではないと思ふ、
○井野辺 併し書面を以て御受になつて居ります、
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○江間 先づこゝで御受して置いて、さうして御上洛の上で順序をつければ宜いくらゐのことではありませぬか、
○井野辺 多分さうだつたらうと思ひます、
○公 真面目に受ける訳はない、
○井野辺 三郎の守護職については御記憶はございませぬでせうか、
○公 どうも記憶はないね、これは三条の方で島津の守護職は厭なんだ、それで島津が守護職になるといふ噂があるがどうだと聴いたんだらう、全くさうだらうよ、
○渋沢 御沙汰の通りで、三条さんが御自分で島津の勢力を保護するといふ訳もなからうと思ふ、翌年騒動があるくらゐだから……、あの騒動は薩長の軋轢から起つた、其半年ばかり前に三条さんが来て、是非島津を守護職にしたいといふことはありますまい、それは全く御沙汰の通りだらう、
○井野辺 御前が後見職をなされて居ります時分に、始終御相談相手になつた者がございませうか、
○公 家来でか、
○井野辺 さやうでございます、
○公 それは平岡円四郎・黒川嘉兵衛、それから其後に原市之進、先づ其くらゐのものだ、
○渋沢 中根長十郎といふ者は如何でございます、
○公 少しは何したが、相談相手といふ程の者ではない、
○江間 文久二年に御前が京都へ御出向の際に、武田耕雲斎などは御供をして参りましたが、あの時分から耕雲斎には御相談をなすつたことはございませぬか、
○公 あれは相談といふ程のことはないが、まあ色々相談したんだね
○江間 あの頃の一橋家日記を調べ見てますと、毎日出ました人々の名前が出て居ります、先づ十一月十一日から一番に出ましたのが、岡部駿河、それから其翌日にも岡部が参り、又其翌日も来て居ります、それから其翌日は竹本甲斐守……、大目付です、其晩に水野・井上・小笠原・三人が出て居ります、
○井野辺 其頃将軍家が官位を一等御辞退になるといふ思召で、朝廷へ御奏聞になるといふことになりましたが、折から御前は御引籠中でございましたので、十一月二十日に、御親書を似て其事を御前に御相談がございましたから、翌日御登城になつて将軍家に拝謁なされましたが、御用部屋へは御出でにならずに、すぐに御退出になりました、多分御親書に対する御返事を御申上げになつたのであらうと思ひますが、尚念の為に御伺ひ致します、
○公 それはさうだ、
○江間 今日は先づこれで一段落としまして、そこで御前にちよつと申上げて置きますが、民部公子の外国へ御渡海について、前回小林がちよつと伺ひましたことは、深い続きのことではなかつたのですけれども、それらのことは渋沢が能く知つて居るから、あれに聴いたら宜からうといふ御沙汰で、其儘になつて居りました処が、男爵が帰られましてから、あの時の速記を御覧になりまして、どうも私は其時分に
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はまだ役も下の方であつたから、詳しいことは一向分らぬけれども、併し其渦中に居つたのだから、其時の考で、斯ういふことでは面白くないから、斯うしたら宜からうくらゐのことはあつたといふ話でありましたから、然らば今度昔夢会の開ける折に、其時御経過になつた所の御履歴を、席上で御話し下すつたならば、御前に於かせられても所謂昔夢で、段々御趣味のあることであらうかとも思ひますからと、実は男爵に願つて置きました、先づ記憶して居る所だけ、話の済んだ後で述べて見やうといふ御許諾を得て居るのです、其事を一つこれから願ふことに致しては如何なものでございませうか、
○公 それは至極宜しからう、
○渋沢 唯今江間氏から申上げましたのは、あれは丁度慶応二年の冬のことでございました、卯年の正月に御国を出立をしまするといふ前の話ですから、慶応二年の年末に起つたことゝ覚えて居ります、私は其御議定になつた御模様などはちつとも知らないで、突然原市之進から呼ばれて、市之進の小屋へ参りましたら、内々お前に意見を聴くが今度民部公子が仏蘭西の博覧会に大使として御越しになる、其礼式が済むと凡三年、若しくは五年になるかも知れぬが、仏蘭西の学問を学んで御帰りなさる積りである、其時は即ち留学生となつて学業に従事なさる、但仏蘭西の礼問が済んだ後で、修好の為め各国を御廻りなさるといふ御都合であるのだ、其国々は判然極まつては居ないけれども先づ英吉利・独逸・伊太利・和蘭・白耳義・瑞西等の国々であらうと思ふ、それについて水戸からして七人の御附添が極まつたが、これは皆御手許の用を足すのだ、それから御傅役としては山高石見守といふ人が任命されて、此人が其七人の指揮なり、其他公子の御身に属する百事をば総轄する、但外交上のことは、外国奉行向山隼人正が行く、又組頭なり調役なり、其他の役人も相当の人々が行くであらう、其顔触れは残らず分つては居らぬ、お前に命ずるのは、つまり山高の手に属して俗事を取扱ふ、即ち会計に書記にといふやうな位置である、此水戸から御附き申すことについては少し事情があるので、それだけのことを一応言うて置かなければならぬ、元来民部公子を海外に出したら宜からうといふ評議については、本国寺の水藩士には大変議論があつて、なかなかそれを纏めるに骨が折れた、外国旅行だから、そんなに沢山連れて行かぬといふ説が外国方ではあるけれども、水藩士の方では、決してさう御手放し申す訳にはいかぬと言うて、或は二十人も三十人も御附き申さうといふ評議であつたけれども、種々の論判からやつと選つて七人といふことになつた、蓋し此人々は留学などゝいふことにはどうも同化しない、其時分は同化といふ詞はなかつたやうだが……、それでとかくまだ攘夷といふ感じを持つて居るので、それを引離して御連れ申す訳にいかない、已むを得ず附添として連れて行く訳であるから、山高も大分骨が折れるであらう、其間には丁度お前は最初は攘夷家であつて、今は攘夷ではいけないと考へついた人で、所謂中間に居るから、斯ういふ人を附けて遣つたら宜からうといふのが内々の思召なんだ、是非永く留学させたいのだから、篤太夫を附けて遣つたら宜くはないかといふことは、打明けて言ふと御沙汰があるの
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だから、愈受けるなら確定すると斯ういふ私に原市之進から御沙汰でありました、私は真に寝耳に水で、実に変つた話でありましたけれども、心密に嬉しかつたものですから、もう考もへちまもございませぬさういふことで私で間に合ふならば、即時に御受を致しまする、いつ立つのでございますか、来年の一月早々の積りであると思ふ、それから先は、愈極まれば大目付の永井主水正が掛りであるから、其指図を受けなければならぬ、尤も山高石見守が大体の指図はするやうになる斯ういふことに承知しまして、私は愈旅行の仲間に組込まれました、勿論外国方の人々は、博覧会と各国礼問が済むと帰るので、残る所は其七人にお前・山高、其他通訳等について一二の外国方で居る人を残すやうになるかも知れぬが、それも残らず留学生たるや否やは、行つてからの都合だから分らぬが、とにかく七人は行くことに極まつたのだから、其余のことは又旅行先の模様に従つて変更することもあるであらう、礼問中の通訳の人などはどうなりますかと聴くと、京都に来て居るジユリーといふ仏蘭西人、これを公子の案内に遣はすことになる、学校の教師か何かして居つた人である……、それから更に日本の詞の能く出来る、もと長崎に居つたシーボルトといふ人、これはまだ若いけれども、英仏語を能くし、又日本の詞も能く出来るからこれを遣はす、其他に外国方から仏英の通訳官が行くのだから、それらについては一向差支ない、更に御医者で高松凌雲といふ人が行くやうになる、砲術方で木村宗蔵といふ人が、やはり御附の方で召されるやうになる、而して俗事はお前の受持と斯ういふことでございまして、それから私は御受をして置きまして、翌日であつたか、翌々日であつたか日は確に覚えませぬが……、其命令を受けたのは京都であつたやうに覚えて居ります、あの時分には京都へ入らしつて御出ででございますが、それから何でも永井主水正に引合つて、それから外国奉行支配調役で杉浦愛蔵といふ人が来て居りました、これらの人に会つて、やがて山高石見守に面会致し、続いて水戸から行く御附の人々に引合ふといふやうなことで、何でも一月早々に出立するといふことに極まつたやうですが、其時分には仏国人に何等さういふことがあるといふことは、承らずにしまひました、唯其時分の評判に、頻にレオンロセスといふ人は所謂幕府方であつて、英吉利の其時の公使はパークスでございましたが、パークスはとかく幕府に対してかれこれと苦情を言ふけれども、ロセスは幕府に同情を表する方の側であつて、英仏で自ら其意思を異にして居るとは、世評もさうであつたし、外国方の人、若しくは山高あたりの認め方もさうでありました、それで民部公子の御出立といふことは、勿論幕府の中で種々評議して極めたことではあるけれども、其中には仏蘭西政府とは大分消息があるのだ、レオンロセスといふ人は、三世ナポレオンには厚く信ぜられて、種々なる内命を蒙つて居る人である、それらの話合から今度公子が御出でになるのだから、御出でになつたなら、ナポレオンは殆ど我が養子の如く思うて、深く御世話申すであらうといふやうな話は、殆ど公然の秘密と言うても宜いくらゐに、私は承知して居たのであります、併し其ロセスが一緒に行くといふことは、其時分には何等聞込はございませぬ、唯それ
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なりで旅立の仕度をしたやうに記憶して居ります、何でも差向いて困つたのが御衣服と御髪を始終上げなくてはならぬ、御附の人は一通り自分の髪は出来るけれども、其時分の髪は大きくて、なかなか月代を剃つたり髪を結うたりすることは本職でなければいかぬといふのが一つと、それから今一つは、汙れた著物の洗濯をしなければならぬ、新しい著物の仕立もしなければならぬ、あちらへ行つた上は洋服を著なければならぬが、先づ重立つた時は日本の礼服を用ゐたい、それには仕立屋もなくてはならぬ、と言つて仕立屋と髪結と二人連れて行くといふことは困る、さういふことはお前が心配しなければならぬといふことで、すぐ困つてしまつた、そこで水戸の御附の人に相談すると、丁度それまで髪を結つて居つた綱吉といふ者がある、これは仕立も出来るし髪も結へるし、至極宜からうといふことで、其男を私の手に属して連れて行くことになりました、さて其七人の人々は、菊池平八郎・井阪泉太郎・梶権三郎・大井六郎左衛門・皆川源吾・三輪端蔵・服部潤次郎、斯ういふ人々であつた、それから確には覚えませぬが、正月になつてからでした、長鯨丸で神戸から横浜へ来て、横浜に暫く御滞在で、其間にちよつと公子は小石川の御屋形へ御越しになつたかと思ひますが、其辺のことは能く覚えませぬ、横浜で御出立前の御世話をした人は、会計に関する人では小栗上野介、外国奉行では川勝近江守・成島甲子太郎……、成島は其時は騎兵頭でありました……、其他にもございましたらうが、能く記憶して居りませぬ、右等の人々と種々引合ひまして、さうして支度が整うて出立といふ順序でございました、外国方で重なる人は、向山隼人正・田辺太一・杉浦愛蔵、これらが一番重立つ人で、職分も相当の位置に居りました、それから会計方で日比野清作・生島孫太郎、徒目付といふ者は参りませぬで御小人目付の中山某、通弁では保科信太郎・山内文次郎、此保科といふ人は陸軍の人でありまして、とうとう死にました、山内といふ人は、現に宮内省に居ります山内勝明氏でございます、それから唯今大磯あたりに居ります山内六三郎、今日は堤雲と号します、それから先頃死にました名村泰蔵……、名村吾八と申しました、それに箕作麟祥、あれが箕作貞三と申しました、一行の人数は総勢二十八人でございました、多少忘れて居る者もございますが、概略其やうな顔触れで…:、
○公 ロセスは一緒に行つたんではないね、
○渋沢 一緒には参りませぬ、ロセスが一緒に行くといふ話は、どうもございませぬでした、唯其時に横須賀造船所にウイルニーといふ仏人が技師長をして居りました、其人が横須賀のことについて常に協力して居ると言うた汽船会社の役員で、グレーといふ人がありまして、此グレーもやはり同行致しました、それは御一行についての用向ではなくて、つまり横須賀との関係で、原料か何かの注文を引受けて、それを取りに参るので、途中一緒に参りました、故に此横須賀のことについては、小栗其他川勝などゝいふ人々が、仏蘭西人との間に、拡張といふことについて色々話合うて居られた様子は、外国奉行の手からも承りましたやうに覚えて居ります、旁想像致しますと、少くとも今の公子の入らつしやるのは、仏蘭西に向つて情意を繋ぎ、懇親を厚う
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し、続いて仏蘭西の力をば成るべく日本に及ぼして、場合に依つては其政治関係から、商売人に資本を造船所に入れさせるといふやうなことを、為し得べくんば進めるといふ意味まで含蓄して居たと言うても大事なからうと存じます、けれどもそれらはいはゞ内輪の意味に属することで、表面何もございませぬで参りました、それから参つて、まだ博覧会の手続中は御祭礼中のやうでございましたから、内輪にも別に物議もなくて済みましたけれども、博覧会が済みまして、八月頃から各国を公子が廻らなければならぬといふことになりますと、そこで外国方の人々と、御附と称へる水戸から参つた七人の人々との間に強い確執が起りました、其前から時々小衝突はあつて、公子の供連の相談がございますと、御附の人の希望は、外国方ではそんな馬鹿なことは出来ぬ、一方は又そんな指図に服従して堪《タマ》るものかといふやうな訳で、水戸連中は頻に国粋主義を主張して、さういふことを遣られては困ると言うて小言を言ふ……、これは今度の米国旅行などには其やうなことはありませなんだが、いつでもあることで、一体外国人が勝手次第に日本の風習に背いたことをさせるのは不都合だ、日本人として来てからに、さう国の習慣に背いたことに服従して堪るものかと言うて力む、時に或は公子は此御席に、御附の人はこゝへといふ場合に、ボーイなどが珈琲を持つて来た時に、必ず御取次でなければ珈琲を上げるといふことは出来ない、すぐさまボーイが上げれば、ボーイを呼んで、なぜ珈琲を上げたと言ふて小言を言ふといふやうな有様で、ちよつとしたことにも苦情は常にある、まさかに喧嘩はしませなんだが……、とうとう各国御巡廻中は御供連を減ずるといふ議論になつて、大衝突を起した、尤も井阪泉太郎・梶権三郎などゝいふ人はなかなかの鯁骨男子で、我々こゝへ来たのは本国寺を代表して来たのだ、さういふことを言はれては我々の面目に関はるから、刀に掛けても承知しない……、大騒動で大に弱りました、私は中間に居るので、井阪だの梶などからは、到底命令に服従が出来ぬと言うて小言を言はれる、外国方からはあの頑固連には困るといふ苦情が出る、拠なしにとうとう二人だけ置いて皆帰さうといふ評議になりました、水戸の連中の言ふには、そんなことなら我々は一同に帰る……、これは少し意地悪く言ふ詞で、よも帰しはしまい……、といふのは、公子は極御幼少から此人々が御附き申して、百事御世話をして居たから、若しも一同に帰るといふと、第一公子が御機嫌が悪い、甚しきは涙ぐむといふやうな御様子であるから、愈帰るといふことになつたら、第一に御本尊様が共に帰ると仰しやるに相違ない、さうすると目的が無くなつてしまふのだからといふことを考へて、帰る帰ると言うて威張る、それでどうしたら宜からうかといふ評議になり、私も中間に立つて弱りましたが、拠ないから帰さう、公子の御供に連れないから承知しない、一人でいかぬ二人でいかぬといふのは、御附き申す人の方が間違つて居る、外国奉行の方が尤もだから、其詞に服従せぬならば、もはや切つて離す外なからう、唯帰すといふ訳にはいかぬから私が帰る、一同を連れて帰るといふことに極めまして、それから私が双方の間の使者を再三勤めまして……、最初には何でも五人連れろといふのを、二人は連れや
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うといふやうなことで、そればかりではない、此事も気に入らぬ、あの事も気に入らぬといふやうなことで、種々押問答の末、とうとう帰すといふことになつて、私が連れて帰ると決定しました、すると御附の方の連中も、一方がさう覚悟をすると……、其前に山高とも相談をして、公子も一緒に帰ると仰しやり出すと困るから、帰しても宜しいと仰しやらなくては困る、それさへあれば私が連れて帰るといふことに極めました処が、こつちでさう確定しますと、つまり向ふが折れまして、いやそれなら已むを得ぬから二人でも宜しい、其代り交代して丁度三度の御旅行で一同に廻るからといふので、漸く折合がつきましたが、此瑞西へ御立の前の騒動といふものは、なかなかの混雑でございました、今でも其困難のことを記憶して居ります、それでつまり外国奉行の説に服従することになりました、それから八月の暑い時分、瑞西・和蘭・白耳義を一廻り廻つて帰りました、其十月頃再び立つて伊太利へ参りまして、伊太利からマルタ島へ参つて、マルタで四日か五日逗留して、あすこから英吉利の軍艦のインデミオンといふ船に乗せられて、マルセーユに参ります途中、妙なことでインデミオンのクランクシヤフトが折れてしまつて、運転の動力を失つた為に、二日ばかりで行かれる処を、一週間ばかり掛つて行きました、其時暴風に遭つて、公子始め非常に難儀したことを覚えて居ります、併し其時は向山は居りませぬ、山高も私も居りました、船中で外国人に大和魂を見せましたので、ひどく賞められたことがある、今でも愉快に思うて居ります、それはマルタを出掛けたのは昼の十二時で、夜の十二時頃に至つて、今のさういふ出来事が起つたのである……、それで船長が参つて、甚だ残念のことであるけれども、斯ういふ訳でありますから、どうしても引返す外ない、外に船の都合がつかない、まだ漸く十二時間ばかりしか来ないから、引返して他の船を以て航海する外ないからさういふことにしたいと思ふ、但今の処では、風の順がマルセーユへ行く方が宜いのだから、帆を用ゐて行けば行かれぬことはない、併し風帆で行くとすれば、三日も四日も掛かるだらうと思ふからして、余り時日が遅れるといふならば、マルタに帰つた方が宜い、但帰るからと言つても、蒸汽の力には依れぬ、だから幾日でマルタへ帰れるかといふことは確には分らぬ、何れにした方が宜からうか、一つの出来事を御報告すると同時に、向後の進退をどう致したら宜いか御指図を請ひたい、斯ういふ話です、それから何でも公子に、斯ういふ場合には成るべく勇気を出して御答にならなければなりませぬと言うて、畢竟此船に乗る時に、我々は船に生命を託してあるのだ、もうどうしやうとも、艦長が宜しいと思ふ通りになさい、こつちから指図は致しませぬ、苟も我々を乗せる以上は、それだけの御考があつて乗せたことであらうから、機関が動かぬでも何でも構はぬ、半年でも一年でも一向厭ふ所ではござらぬ、それとも帰らなければならぬといふことならば帰るが宜し、私どもの方から御註文は致しませぬ、我々の生命は艦長に全然御託しゝてあるのだと公子の御考だから、さやう御答をすると申した処が、艦長及士官一同は大変喜びまして、それならば私ども意見を申しますが、どうぞ此船で遣つて戴きたい、如何に出来事があつ
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たにした処が、別に船体に故障がある訳でないから、日が掛かるだけで、四五日の中には必ずマルセーユへ著くに相違ない、さうして戴けば我々は本望である、此船でいかぬといふことになると、実に此上もない不名誉であるけれども、強ひてさう申上げるのも恐入るから伺つたのだが、任せると仰しやればさう願ひたい、勿論宜しいと答へまして、それから其後、夜分は水夫などにいろいろ印度の踊などをさせて毎晩御饗応になつたのですが、其中に海が荒れて、私などは船に弱いものですから、止《ヨ》せば宜かつたと思つたやうなこともあつたと覚えて居ります、これらは一つの旅行の余談でありますが、それから致しまして伊太利の旅行をしまひ、其年の十二月に英吉利に参りました処が英吉利でも大層丁寧に待遇をしてくれました、ポルツモースなどへも案内をしまして……、
○公 其時分英吉利の方では、待遇上に少しも変りはなかつたかね、
○渋沢 少しもございませぬ、やはり全くプリンスとしての待遇で、それらの礼式は有栖川宮様が御出でになつた時と同じやうでございました、マルタ島のレセプションなどは、今考へて見ても全く君上に対するレセプションでございました、別に高い処へ公子を御置き申して其時には向山は居ませなんだが、山高とそこの司令長官が附いて居りまして、さうして来た士官其他の人々に握手の礼をさせる、全く君臣の格でございました、それから倫敦へ参つた時も、旅宿は別に改めて取つてくれなかつたやうに思ひます、故にそれ程の取扱ではないか知れませぬが、やはりウインゾルで謁見があつたやうです、私は御供が出来ませなんだが、何でもポルツモースの軍艦訪問の時などは、十七発の礼砲を打つたやうに覚えて居ります、ですから礼遇等は鄭重でございました、唯英吉利の方では、商売人の待遇は日本に対して甚だ悪うございました、外国方もそれは大に心配しました、どういふ訳であつたか、それで拠なく為替金等のことは、仏蘭西の方から取扱をしたやうに覚えて居ります、仏蘭西の公子に対する待遇は、博覧会のことが済み、他の国々の旅行及英吉利の訪問が済みましたら、丁度十二月の末になりました、それでこれから留学といふことになる、其前からしてウイレットといふ騎兵大佐が全く御附き申して、学業其他平素の御挙動について御世話をする、これはナポレオン三世の指図で、其時の有力なる陸軍大臣の大層贔負の軍人であるとかいふことでありました、これからはもう全く完全なる留学生に御成りなさいました、其中に段々内国の種々なる騒動が聞えて参るといふやうなことになりまして、翌年の何月頃であつたか確に覚えませぬが、伏見・鳥羽の騒動の仏国へ知れて来たのが、多分一月の中頃かと思ひます、それから続いて三月の何日頃でありましたか、東久世・伊達・両公の名前で、民部公子に帰国しろといふことの通知が参りました、併し私ども其時の考は、周章てゝ帰つた処が仕方がないと思ひましたから、其命令にはどこへ返事を出して宜しいか分らぬくらゐですから、其時の外国方の方に、今帰つた処が仕方がないやうに思ふ、斯かる御沙汰であるけれども、其通りには出来かねるといふことを言うて寄越したやうに覚えて居ります、其時に多分御直書と思ひました、御前から民部様への御手
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紙がございました、それはいつぞ伺つて見たいと思つて居りましたが其御直書の趣旨は、政権を返上したのみならず、斯ういふことになつたといふ、大坂の顛末を概略御書き遊ばして、さうして此日本の将来を思ふに、内輪の騒動をして居つてはいけないから、それで拠なく斯ういふことにしたのだから、誤解をしてはいかぬぞ、折角其地へ出掛けたことであるから、是非お前は留学の目的を十分達するやうにしたい、私も次第に依れば丁度ペートルの故事に倣うて、海外へ出掛けるといふくらゐまでの希望を持つて居る、故に内国の騒動に依つて、周章てゝ帰るといふやうな考をしてくれては困るといふやうな、尊書のあらしつたことを覚えて居ります、もう其頃には江戸の方からの指図に依つて、外国方の人々は皆帰つてしまひます、それから前に申上げた七人の人々も段々帰つて、漸く菊池平八郎・三輪端蔵・二人だけになりました、それに私と小出俑之助といふ少年と、唯四人だけ御附き申すことになりましてのことです、さういふ御手紙が、多分江戸から御発しになつたので、三月頃でもございませうか、著きましたのが五月か六月と覚えて居ります、其少し後に、かの駐日公使ロセスも巴里に帰つて参りました、即ち御一新の翌年で、辰の年に帰つて参りました、上野の騒動の後でございませう、ロセスが帰つて参つた時分にはまだボワデブロンの近傍なるリュードヘルゴレーズといふ処の、五十三番地の御旅館に御住居になつて居る頃です、そこへロセスが参りました、其時分には御附き申す人も沢山居りませぬから私どもがロセスに接遇致しました、ロセスの申すには、どうも御一新といふことにはなつたけれども、つまり申すと薩摩と長州が力を合せたからとうとうあゝいふことになつたのだ……、其時の詞を能く判然と覚ませぬけれども、どういふ思召か知らぬが、大君の隠退したのは少し御弱いやうだ、あんなことをなさらぬでも、もう少し主張を強くなされば、決してあんな場合にならぬで行けるのであつた、それは如何にも残念であるが、決してあのまゝで日本が無事に治まるものではない、更に種々なる騒動が起るであらう、此場合に貴所《アナタ》が学問もせずに此まゝ御帰りなさつても、何たる利益はない、どうか相当の学問をなさつて、さうして此仏蘭西の軍制なり、或は政治なり、さういふやうなことを十分に会得して、仏蘭西に相当な信用を持つて御帰りになれば、必ず貴所の御身に自然御身柄だけの利益は附くに相違ない、或は機会に依つては、貴所は宜い順序で迎へられるといふことが無いでもなからうと思ふからして、周章てゝ帰るといふことは宜しくございませぬ、決してあのまゝ都合宜く行くものではないと私は思ふといふことを、頻に申しましたやうに記憶して居ります、何でも昨夜帰つたと言うて、翌日御旅館に参りまして、頻に前に申した趣意を述べたやうに思ひます、名誉領事のフロリヘラルトといふ人と一緒に参つて色々話をしました併し其後に度々参つてさういふ話をするといふことはなかつた、察する処、どうもナポレオン三世が、ロセスの意見を十分採用して、日本に対して尚引続いて力を入れる考が、余り無かつたやうに思はれた、前にはあつたか知らぬが、其頃には少かつた、当初ロセスは民部公子を一の奇貨として、何か日本に向つての政治関係をつけるといふ意念
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は、日本を去る時には計画してあつたか知らぬが、仏蘭西へ帰つてからは少し其目論見が齟齬して、それで初め帰国して御目に掛つた時は今のやうなことを申したけれども、後は引続いて其情を以て御世話を申上げなかつた、斯ういふ次第のやうに承つて居ります、或はそれが事実かと思ふのであります、併しさういふ場合で、私も今公子を御帰し申してはいけないから、是非とも御止め申す方が宜いと考へましたので、甚だ恐入つたことでありますが、帰りまして後、駿河へ出て拝謁をしました時にも、一体御前の遊ばされ方が間違つて居るといふことを、申上げたことを記憶して居ります、私ども仏蘭西に居る中は、民部公子と共に、一体大君のなされ方がつまらぬ……、甚だ恐入つた申分だが、さういふことを頻に申して居りました、なに今にどうか変化するだらうといふやうな念慮は、始終持つて居りましたのです、旁ロセスなどに於てもさういふ意見で、御前が負けぬ気象を御持ちならそれを頼りに十分働かうといふ意念は、必ずあつたらうと思ひます、其時のことを極丁寧には覚えて居りませぬが、行掛り上さういふ念を持つて居つたやうに思はれました、其くらゐですから、公子も其時の御直書に対しては、如何にも情ない思召である、露西亜のペートルと今の徳川は時代が違ふではありませぬか、さやうな解釈を以て海外へでも足を踏出さうと仰しやるが、日本をどうなさる思召か、それならなぜ御世継を遊ばしたなどゝ、公子の御手紙で御諫言を申上げた、其下書は私が致したのですが、それらは皆既往の空想でありました、それで多分其時の想像は、誠に邪推でございますけれども、ナポレオン三世の考がなかなか東洋に手を著けるといふことはむつかしいといふ意念で、前の勢とは違つて来た為に、ロセスは帰つて来てから、公子を擁護するといふやうな思案が変つたのではないか思ひます、そこへ持つて行つて、多分七月頃でもございましたか、井阪泉太郎と服部潤次郎が、是非御帰りなさらにやいかぬといふので、再び御迎ひに参つた、それは丁度前中納言様が御逝去になつたについて、是非水戸の御家の相続を民部公子にといふことで、前中納言様に対しては、其時の水戸の激党が、怪しからぬ御方だといふやうな観念を持つて居ましたから、其世子がすぐさま御相続といふことは皆不承知であつた、そこで公子といふことに極まつて、それで前に御供をして先へ帰つた連中が、公子はあちらで永く学問をするといふ深い御考を持つて居る、殊に渋沢は頻にそれを主張して居るといふことを知つて居るものですから、唯の手紙ではいかぬといふので、わざわざ御迎ひに来た、其時に井阪などが、若し貴所が妨をしたら、貴所を殺す積りであつたといふことを申して居りました、或は仏蘭西人と申合せて妨げるかも知れぬレオンロセスも帰つて居るから、或はさういふ計画をせぬとも限らぬ故に唯優長の人を遣つたのでは、迚も御連れ申すことは出来ぬから、まかり間違つたら腕力で連れて帰れといふことで、二人の者を特に派出されたのだといふことは、井阪などは打明けて申して居りました、私もさういふことを承知しましたから、初は御止め申したく思ひましたけれども、もうさうなつた以上は、迚も私の微力では御止め申す訳にいかぬと思ひましたから、仏蘭西の外務省では頻に止めましたし、
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それからコロネルウイレツトといふ人も、切歯して極言抑留しましたが、斯ういふ訳だから是非とも帰るといふので、後の始末をして帰つたといふやうな訳でございました、斯う申上げますと誠に短いやうですが、なかなか入組んだ事情があつたやうに覚えて居ります、何でも其頃旧政府の方の別の用向で参つた栗本鋤雲、それから先達て死にました三田葆光、これらの人は他の談判で暫く巴里に滞留して居りました、伏見のことが聞えて参つて、大に心配したことがございました、さういふやうなことでございまして、ロセスが最初公子の御供をするといふことは、多分どうも無かつたでございませう、併しロセスの斡旋で公子が仏国行になつたといふことは事実に相違ない、それからウイルニーといふ横須賀に関係を持つた人と、グレーといふ商人が申合せて行つたといふのは、横須賀造船所の為に、更に資金を仏国より入れるといふやうな下談判があつたやうに思はれるのです、併し其事も色々の騒動の為に運びませんで、唯レオンロセスの帰つた時分には、まだ若し機会があつたらといふ考が、まんざら無いではなかつたやうに思はれますが、ナポレオン三世は、今頃そんな考を持つて東洋に手を著けることは宜しくあるまい、余り立入つてはいかぬといつたのではないかと思ひます、これは全く私の推測でございます、果して事実如何であつたか分りませぬ、それ故にロセスといふ人は、自分が帰国した後でございますけれども、公子の御帰りの時には至つて冷淡で、それでは拠ございませぬから、御帰りなさいといふくらゐのことであつたやうに覚えて居ります、今の尊書を御出しになりましたことについて、御記憶はあらつしやいませぬか、多分五月頃にあちらへ著きました、
○公 さういへば遣つたやうにも思ふが、どうも能く覚はない、
○渋沢 あれは公子は持つてござるに相違ございませぬ、余程綺麗な御書で、余り小さくない、大きな文字でございました、奉書の巻紙に書いてあつたのです、或は御直筆であつたかも知れませぬ、
○萩野 民部様に伺ひましたら其御手紙が……、
○渋沢 ありませうと思ひます、
○萩野 其御手紙が拝見が出来ますと大変仕合です、
○渋沢 随分色々の失策などもございました、前に申しました仕立屋が頑固の奴でございまして、ボーイや何かと度々の喧嘩がございました、可笑しかつたことは、蘇士からアレキサンドリヤへ来る途中、汽車の中で外国人と喧嘩を始めました、これは後で聴くとどつちも尤もなんです、汽車に乗つて居つて、仕立屋先生硝子に気がつかない、蜜柑を買つて食べては皮を投げる、硝子に打附かつて隣に居る人の顔へ弾返《ハネ》つた、隣の人は、硝子を知りつゝ自分を馬鹿にして悪戯《イタヅラ》をするんだと言うて怒つた、こつちは言ひ掛りをすると言うて怒つた、能く聴いて見ると、硝子に気がつかなかつたといふことが分つて、始めて大笑をしました、さういふ弥次喜多のやうな話が度々ございました、公子外七人の荷物の世話と、それから日々の筆記と勘定と、それを私一人で遣つて居りましたが、なかなかに苦しうございました、そこへ持つて来て、例の仕立屋といふのがやゝもすると喧嘩をする、一度など
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は和蘭から来る時に、とうとう汽車に乗後れてしまつたので、仕方なしに自分も汽車から降りまして、仕立屋を連れて……、曲りなりにも仏蘭西語が出来るものですから……、一汽車後れて遣つて来ました、それで旅行の時には、荷物方の者を一人頼んで、それに荷物の世話をさせました、此荷物などの部屋に入れろ、どうせいあゝせいといふ世話をしなければならぬ、事に依ると自分で其荷物を部屋まで持つて行つたり何かしたくらゐです、随分人手の無い処で大勢の荷物を世話をするといふことは、うるさいものです、さうしておまけに会計を遣らなければならず、日常の日記をつけねばならず、殆ど一人で遣りました、私は出納は余程正確に且つ明細に遣つた積りです、それで静岡で平岡準造といふ人が私を目して、此男は大変綿密の人だと見たのですどうもあゝいふ時の後始末について、計算書を判然と出した人は滅多にない、海外へ出た者は、経費が足らなければ足らないと言うて来るが、余れば持つて来るといふ人はないのに、誠に明瞭に調べて……、且巴里の御旅館になかなかの品物があつたものですから、それを種々心配をして、売るものは売り、掛け合つて返すものは返して、何でも金額で三万円余り持つて帰りました、前に一万六千円ばかりの金を持つて帰つて、其中で公子が水戸を御相続なさるについて、何か水戸へ御土産にといふので、スナイドル銃を一小隊分か買つて上げました、六七千円の金を其方へ使ひまして、一万円余りの金を駿河の方へ持つて帰りました、それから後へ頼んで置いた道具が売れて其金が還つて来た、それが一万五六千円の金でございました、処が其金は自分が持つて帰らぬので、あちらから名誉領事が送つて来たものですから、外務省で、これは新政府のものだ、取らうといふ論です、それからこれを取られては困る、政府のものではない、民部大輔一身に属して居るものだと、多少強弁もあつたかも知れませぬけれども、段々説明して其金はこつちへ貰ひまして、併せて三万円ばかりの金が残つたのです其残つた中で、今のスナイドル銃を六七千円出して買つて、二万円ばかりは駿河の方の計算に残つたのです、余程明瞭に調べて、細かい道具なども、方々へ進上をされた後の残りが、茶碗が幾つ、茶托が幾つ盆が幾つと、皆明細に調べて御引渡をしました、それらのことから、私は静岡の勘定組頭といふ職を言ひ付かつたのです、それで民部公子に向つては、永い間御世話を致しまして、日本へ帰る時には、もう山高といふ人も先に帰つてしまふし、御附の人は菊池平八郎・三輪端蔵・小出俑之助と私と、これだけで帰つて来たのですから、旅行中若しくは其他でも、人数の少くなつた際には、万事を私が御世話を申上げて居つたものですから、大層御馴染みなすつて、公子は帰つた上は水戸を相続するのだが、若しも出来るならば、水戸へ来て働いてくれぬかなどゝいふ御話もありましたが、私の一身はどうなるか分りませぬから、いづれ日本へ帰つた暁に、静岡の方の仰せを伺つて、其模様に依つてといふやうなことで、それに対して御受もしなければ、御断もせぬといふやうなことでありました、初は井阪だの服部だのといふ人は私が帰国を大に反対するだらうと思つて居たのに、さうでなく都合宜く帰つて来たものですから、これらの人々も多少私の方に同情をして
 - 第47巻 p.575 -ページ画像 
共に旅行をして来たのです、そんなことから、帰り早々小石川の御屋敷へ行きまして、公子に御目通りをして、老公は宝台院に御蟄居になつてゐらつしやるから、迚も公子の御対面は出来ぬ、それなら手紙を差上げたいからといふので、私が下書を拵へて上げまして、御直書でそれを持つて、とにかく御返書を下さるであらうから、其御返書を頂戴したらお前は水戸へ来てくれ、まだ水戸へ来たことはないといふし永い間世話を受けたから、水戸へ来て休んだら宜からうといふ仰せ、委細承知仕りました、御返書を頂戴しましたら、早速水戸へ参りますと言うて、丁度著船が十一月三日で、それから私は郷里へも参りなどして、十二月の二十三日と覚えて居ります、駿河へ伺つて其御書状を大久保一翁に取次いで貰つて、事情を申上げた処が、宝台院に今御謹慎中であるから、書面は早速取次がう、尚拝謁が願へるなら、どうか拝謁を願ひたいと申して置きました処が、其翌晩でございましたか、夜来いといふことで、そこで宝台院で久々で拝謁を得たのです、其時に私は、全体老公の遊ばされ方が間違つて居るといふやうなことを申上げましたら、そんなことを言うてくれては困る、もうそんなことは言ひつこなしだといふやうな御沙汰を蒙つたことを覚えて居ります、さう長い間でもございませぬが、色々御話を致して下りました、それで水戸への御返事が出るだらうと思つて待つて居つた処が、二日経つても三日経つても其御返事がないのです、ぐづぐづして居る中に、或る日静岡の藩庁から出て来いといふ喚出しが来た、行つて見ると、勘定組頭を言ひ付けるといふこと、それから水戸の方への御返書はどうしましたかといふと、それはこつちから別に飛脚を出すから、お前が心配せぬで宜しい、お前はこつちの御用を言ひ付けたのだから、こつちで役所の事務を取扱へば宜い、斯ういふことでありました、それで私がひどく立腹をしたのです、一体どうも恐入つた申分だけれども、老公といへどもなされ方が余りひどいぢやないか、御兄弟の間柄で、斯ういふ場合になり、永らく海外へ行つて居つて、さうして大層に御慕ひ申上げて、丁寧に御手紙まで認めて、其許が出て申上げろと仰せ付かつて来たのだから、とにかく此返事を遣るから持つて行け、さうして世の中が斯うなつたのだから仕方がない、心得違のないやうに勉強しろとでも仰せられさうなものだのに、唯手紙は飛脚で遣るから貴様は用はない、貴様はこつちで用を言ひ付かつたのだから働け……、それは私が衣食に窮して、駿河に食禄を求めにでも来たのなら知らぬこと、余り藩庁の役人の仕方も、又老公のなされ方も人情に背いて居る、折角の仰せだが、さういふことなら御受け申すことは出来ぬ、これから国へ帰つて百姓でもするか、他の方向を立てる方が宜いと、心で大に立腹したのです、それでこんな書附は要《イ》りませぬと言うて、平岡に突返して帰つて来た、処が一体なんぼ世の中が変つたと言うても役所で与へた書附を突戻すなんといふことは、失礼の話ぢやないかといふことで、何でも大坪本左衛門とかいふ人が来て、頻に私に意見をしてくれた、余り乱暴だ、乱暴だつて役人などは厭《イヤ》だから厭だ、そんなことを言うて威張つて見た処が、今日の場合どうすることも出来ぬぢやないか、私は役人にならうと思つて来たんぢやない、一体なされ
 - 第47巻 p.576 -ページ画像 
方が余り分らぬと、頻に蔭で威張つて居たのです、すると其翌日であつたか翌々日であつたか、大久保一翁が藩の役所まで来てくれといふことで、それから行つた処が、大変お前は見当違の話で怒つて居るといふが、それは藩庁の話ぢやない、宝台院様の方で、どうも此手紙を渋沢に持たして水戸へ遣るのは宜しくない、別に届けるが宜い、さうして渋沢は藩の方で使うて、水戸へ遣らぬ方が宜いと斯う仰しやつたそれだからこつちで用を言ひ付けないと、水戸の方へ遣らなければならぬ、既に水戸の方から、お前をこつちへくれろといふ掛合が来て居るくらゐだから……、それでこつちで用向を言ひ付けたのだ、それから手紙もこつちから届けるといふことにしたのだと斯ういふ話であつた、然らばどういふ訳でさういふことに宝台院様が思召されたでありませうか、それが一体分らぬ話だと言うた処が、一翁の言ふには、どうも詳しいことは分らぬけれども、水戸へ行くのは余りお前の為に宜くないといふ思召だらう、併しこれは想像だからといふ話、そこで私は再び考へて見ると、はゝあそれでは私が水戸へ行つて、水戸に抱へられるといふやうな身になると、水戸の連中はあゝいふ人々だから、渋沢の為にならぬから寧ろ水戸へ遣らぬ方が宜いといふ深い思召で、それとなしに御止め下すつたのであらう、能くそこまで考へずに、徒に唯尋常一様の情誼だけを思うて、余り行き走つて、御不人情だなどと思うたのは私の方が誤つたのだと斯う考へて、さてはさういふ次第かと大久保に聴いて見ると、全くさうだらうと思ふから、お前が大変立腹したといふが、其立腹は分らぬ話で、少し見当違だ、さういふ意味合から、こつちでも適当の人なら使つたら宜からうといふので、丁度平岡と小栗尚三が是非渋沢を勘定所の方へ取りたいといふことになつたのだ、斯う詳細なる話を聴いて始めて私は成程と思つたのです、其時に水戸へ行つたら、私の身の上には悪かつたに相違ない、あのことは幾らか御記憶にあらつしやいまするか、
○公 あるよ、
○渋沢 為にならない、どうかこつちに置く方が宜いと思つたから扱つたのに、藩庁の者が悪いとか、人情を知らないとか言うて威張るのは、間違つて居るといふことを大久保に言はれて、恥入つたことを記憶して居ります、
○公 仏蘭西で水戸の者と余程どうも衝突して居るといふことを聞いた、なかなか頑固の連中だから其筈だ……、始めて詳しい話を聴いたロセスのことはさういふ訳であつたか、それでロセスは殺されたか、
○渋沢 いえさういふことはございませぬ……、それともう一つは、御前の御面前で申上げますのは甚だ恐入りますが、武田耕雲斎のことです、あれは丁度子年です、元治元年の冬、武田耕雲斎・藤田小四郎・田丸稲之衛門などゝいふ連中の御処分は、御察し申上げても御困難であつたらうと思ひます、丁度闕下に訴へるといふのが、申さば中納言様に泣き附かうといふのですから、さうして表面は大に官規に触れるどころぢやない、殆ど人を斬り財を奪ひ、乱暴を遣つて来たのです、さらばというて、其心は真に強盗又は賊徒などではないのですから、それの処分には随分御困りなさつたらうと思ひます、厳にすれば酷だ
 - 第47巻 p.577 -ページ画像 
と言はれるし、寛にすれば幕吏の宜い口実になる、併しあの時すぐさま田沼へ御引渡になつたについては、時の巷説は、全体一橋は自分さへ宜ければそれで宜いのかといふやうな批評が沢山あつたのです、現に後に東京府知事になつた高崎猪太郎などは、私は其頃一橋家の周旋方で常に附合つて居りましたが、一体分らないとか言うて御批評を申上げた一人でございました、
○公 何でもこゝは一つ踏張つて遣れといふことを、ひどく説いた様子だ、
○渋沢 悪く言へば煽動する方になるのです、何とか苦しめる位置に立たせる訳です、あの時には、平岡はあの年の六月水戸の人に殺されまして、黒川が専ら任じて、私は黒川の秘書役見たやうな位置に居りました……、
○江間 あの時原は……、
○渋沢 原はまだ御屋形へははいりませぬ、
○公 いや居た、やはり原と梅沢と敦賀の方へ行つた、
  ○慶喜、武田耕雲斎鎮撫ノ兵ヲ出スヤ、栄一、渋沢喜作ト共ニコレニ従ヘリ(本資料第一巻、元治元年十二月ノ条)。尚渡仏ニツイテハ本資料第一巻・第二巻参照。