デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.615-634(DK470133k) ページ画像

明治43年10月18日(1910年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第十一回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一―四四頁 大正四年四月刊(DK470133k-0001)
第47巻 p.615-633 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第一―四四頁 大正四年四月刊
  第十一
      明治四十三年十月十八日兜町事務所に於て

図表を画像で表示--

   興山公        男爵   渋沢栄一 子爵   稲葉正縄君        渋沢篤二 文学博士 三島毅君    法学博士 阪谷芳郎      豊崎信君    男爵      猪飼正為君   文学博士 萩野由之                   江間政発                   渡辺轍                   井野辺茂雄                   藤井甚太郎                   高田利吉 



○井野辺 御親兵のことについて伺ひます、文久二年、三条・姉小路の両勅使が関東に下向して、御親兵の御沙汰を伝へました時に、幕府では御断りになつて居ります、其後朝廷の方で色々御評議はありましたが、まだ何とも幕府へ御沙汰の下つたことはございませぬ、然るに其御沙汰のない以前に、即ち文久三年二月二十一日に、御前から、御親兵は畿内近国の諸大名が半年交代で禁裏の御守衛を申上げ、其大名は守護職の支配の下に置きたいといふことを、朝廷へ御建白になつて居ります、御親兵を設置なされますのは、幕府の希望ではあるまいと
 - 第47巻 p.616 -ページ画像 
思ひますのに、進んで御申立になりましたのは、何かそこに御事情がありは致しませぬでしたらうか、
○公 これは三条と姉小路が勅使として関東へ来た時分に、御親兵の話があつた、いづれ取調べて御答を致さうといふことになつて、そこは曖昧で済んだのだ、それから御上洛の上と確か覚えて居る、其時、将軍が即ち御親兵である、私が即ち其職掌であるから、どのやうにも力を尽して、叡慮を安んずるやうに致しますからといふことを申してそれは其通りになつたんだ、御親兵を置くのは善いとか悪いとかいふことは、其時にはなかつた、それでそれについて、確か近畿の諸侯が交代して京都へ詰めるといふことになつたといふやうに覚えて居る、
○井野辺 此御建白を御出しになりましたのは、将軍家が御上洛になります以前でございます、
○公 それはどういふ都合でさういふことになつたか、ちよつと覚はないね、とにかく関東では親兵は固より置きたくない、御親兵の方は御止《ヤ》めになるやうにしたいといふことで、近畿の諸侯へ交代を命じた訳だらうと思ふが、そこがちよつと判然覚えない、
○井野辺 つまり御親兵のことについての御評議が一時中止になりましたのが、此御建白が出ましたので更に又やかましくなつて、其翌々日に、朝廷では公卿一般へ其可否を御下問になり、又二三日経ちまして、長州の世子長門守から御親兵を貢献致したいといふ建白が出ましたので、つまり此建白が其端緒を惹き起しましたやうな形になつて居ります、
○公 愈御親兵が出来たといふ時のことを色々考へたが、どういふ振合だつたか、どうも判然しない、又こゝにもあるが、余四麿と山内兵之助・長岡由之助が御親兵の世話をする、成程山内へ御沙汰のあつたといふことは仄に覚えて居るやうだ、全体余四麿は文久三年九月《*》に死去したのだ、それで私が上京した時に一遍も会はない、兄弟だからすぐ向ふから会ひに来さうなものと思ふが、会つた覚がない、さうするとこれが文久三年五月から九月の間に出たことゝ見えるね、
*欄外記事
[九月は十一月の御記憶誤なり
○井野辺 此御沙汰の出ました日は判然分りませぬが、五月十三日の日附で、三条中納言の署名がございます、其中に、先日松平余四麿と山内兵之助へ御世話方を言ひ付けたといふことが出て居ります、
○公 少し胡乱だが、御親兵は三条だね、あれが御親兵の頭となつて万事引受けて遣つたんだね、そこへ余四麿と兵之助と良之助へ取扱と仰しやると、どうもどういふ都合だか理窟が分らない、言つて見ればもう何も要《イ》らない筈だ、それで愈御親兵を置くと極まつた処の手続を色々考へて見たが、どうも思ひ出せない、唯記憶にあるのは、私が親兵でございますから、私がどこまでも尽力を致します、どうか叡慮を安んぜられるやうにといふ御書附が、確か出たやうに覚えて居る、それでもう御親兵のことは沙汰止になつて居る、其後に又親兵を是非拵へなければならぬといふのは、成程長州からも頻に建白が出たことは知つて居るが、それで愈置くといふことに極まつた処の手続を、どう
 - 第47巻 p.617 -ページ画像 
も思ひ出せない、さうすると此余四麿は何だらうか、九月に死去したんだから、こつちは五月といつて見ると、六七八といふ此間に、余四麿が世話役になつたものだらうか、
○井野辺 五月にはもう御世話方の御役を御勤めになつて居ります、
○公 どうも京都では余四麿に会はぬが、病気でゝもあつたか、どふいふ訳であつたか、何分分らぬ、余四麿は極幼少で水戸へ行つて、余り会はない、京都で会つたことは覚がない、どういふものかと思つて昨日も頻に考へた、併し山内兵之助へ御親兵のことについて何したといふことは、何だかそんなことがあつたやうにも覚えて居る、先づ其くらゐのことだ、何分判然分らぬ、
○萩野 長州あたりから御親兵のことについて建議が出るといふことを薄々御聞きになつて、それが出ては御都合が悪いから、向ふから出ぬ中に、関東から先に御出しになつたといふやうな御事情ではございませぬか、
○公 そんなことであつたかも知れない、外から出たについて、それぢや黙つて居られないから、こちらからも早くといふやうなことだつたかも知れない、御親兵を置くのは宜くないといふことは、関白様などに度々申上げたことは覚えて居る、
○井野辺 あの時に会津などは、一藩を挙つて御親兵の役を勤めるから、特に規定の人数を出さないといふことで、御親兵を出しませんでしたが、それと同じやうな大名は、其他にもございましたでせうか、
○公 どうも覚はないが、会津はいはゞ御親兵同様のもので、して見ると、それを勤めて居る中は別に御親兵と名の附いたものは出さぬといふ訳だらうと思ふ、
○井野辺 薩摩などは出しましたか、御記憶はございませぬか、出したといふ書物と、出さないといふ書物と、両方ございまして分りませぬのですが、
○公 多分出さなかつたらうと思ふ、併し薩摩の中にも党派があるので、事に依つたら、やはり長州党臭味の者は出るといふやうなことになつたか、そこはどうも知れない、これはほんの唯自分の考だが、取扱どう斯うといふことは、余四麿・山内・長岡、これらを用ゐたのは藩々で御親兵を出さうとか出すまいとか色々議論があつたので、若しや此三人に取扱を仰付けられると言つて、出させるやうにするといふやうなことではなかつたかと昨日考へたが、どうも能く分らない、
○井野辺 余四麿様始め三人とも、申さば佐幕派の方々でございますから、三条様の方からいへば寧ろ邪魔になりますので……、
○公 併し水戸でも山内でも皆党派がある、片方は幕府の方へ附く、片方は長州の方へ附くといふ何があつたのだね、何かそれを出すとか出さぬとかいふやうな処から、三人へそんな御沙汰でもあつたのか、一向覚がない、
○江間 今伺ひます処で考へて見ますと、今萩野さんの御考のやうな理窟で、これらは無用の長物だ、却つて無い方が宜いといふ思召か知れませぬが、或はさういふものが長州あたりからずんずん出て来るといふ場合になると幕府でも黙つて見て居る訳にもいかぬやうです、そ
 - 第47巻 p.618 -ページ画像 
んな処から、今の先んじて御出しになつたものか知れませぬ、
○公 そんな訳かも知れないが、能く覚はない、
○江間 それは御親兵の利害より、政略上ありさうなことですな、
○公 それで此幕府の方で、将軍家始め近畿の諸侯へ言ひ付けるといふことは、向ふから見る時には、あからさまに言へば敵と見て居るのだからね、それらの者より討つてしまへといふやうな意気組で居るのだ、それで向ふで決して承知しない筈だ、こちらもさうだ、御親兵といふものが出来て見れば、まあ敵といつたやうな工合があるからね、
○江間 それから考へて見ますと、一旦さういふものが出来て、三条様が総督で激徒の方の組合が出て来る、一の御親兵といふものが組織せられました時には、幕府も亦其中へ加はつて居らなければ、とにかく工合が悪いやうですから、これは政略上、御親兵を御置きになつた方が宜からうといふ御建白は、果してそれらの処から出たものと考へます、
○井野辺 長州・薩州の過激派の方の御親兵と、幕府の譜代・親藩あたりから出しました御親兵と、軋轢しましたといふことはありませぬか、
○公 それは長州と会藩などは、御互に敵視といふも何だが、まあ敵同士のやうな塩梅で居たのだ、御親兵の中にも、決して一致してといふ訳ではない、又御親兵の中には色々訳があるのだ、
○江間 八月十八日七卿が東寺の方へ逃げました時に、御親兵が三条様を護衛して行きまして、東寺まで行つたら、そこで進退を勝手にしろといふ御沙汰があつたので、やれ嬉しやと皆京都の方へ帰つて来たそれまでは越前でも何でも、皆幕府方の御親兵といふ者は相当に出て居りますが、最後まで附いて居つたのです、附いて居ります者は大変心配をしたのです、
○井野辺 加茂行幸、引続き八幡行幸・大和行幸を長州から建白を致しましたのは、名を攘夷に藉りまして、実は幕府を討たうといふ内密の計画が、あの中に含まれて居ります、もはやあの頃には、幕府の方でも其辺の事情は御承知であつたらうと思ひますが、確に御気附になりましたのは、いつ頃からでございませうか、
○公 実は討幕といふ処まで押詰める下心だといふことは、それはもう御親兵を拵へる時分から分つて居る、併し加茂行幸の時には討幕とまでには至らぬ、加茂行幸の節には、将軍の威権を墜さう墜さうといふ処に専らなつて居たのだ、それから其次に八幡行幸、八幡行幸の時がそれより余程進んで、事に依つたら随分破裂もしやうかといふくらゐの処に至つたのだ、それから次の大和行幸の時には、もう一層昂まつて極度になつた、大和に行幸軍議を尽されてといふのが討幕だ、これが結局で、加茂の行幸・八幡の行幸・大和の行幸と三段に段々大きくなつたのだ、此加茂の時には、まだ討幕といふ処まで判然したことはない、ちよつとした処が、御鳳輦が通御になる、昭徳院様其他の人はずつと後へ下つて居る、昔のことだから将軍家も坐つて鳳輦に御辞儀をする、これはまあ其筈で分つて居る、其後から堂上方が御供で附いて来る、それらの者が将軍家の前を大手を振つて挨拶もしないで通る
 - 第47巻 p.619 -ページ画像 
といふ訳だ、昔なら関白でも将軍家の前を黙つて通るといふことはならぬのを、唯大手を振つて通る、それを大に愉快として、将軍の威権を墜したと言つて、さういふ処へ専ら力を入れるのだ、それで八幡行幸の時には、一つ間違へば破裂もしやうといふ形勢があつて、諸藩から皆御固の兵も出、長州などからも出て軍服で固めたといふ訳だ、まあ余程進んだのだね、それが済んで其次が大和行幸、で会津・薩州・中川宮様などが段々御骨折で、あゝいふことになつたのだ、行幸は三段ある、加茂行幸は一番軽いのだ、
○井野辺 加茂行幸の時に、将軍家を社頭に御召しになつて、大変優渥なる勅諚を賜はつたことがあります、御前にも何か賜はりましたでございませうか、
○公 私どもは出ない、遠く下つて居つてそれへ出なかつた、
○江間 神前で攘夷の節刀を賜はるといふことがありましたな、
○公 それは八幡だ、加茂はそんなことはない、初は唯将軍に供奉をさせて御辞儀をさせたと言へば、其時は先づ満足だつた、八幡の時はさうぢやない、趣向が違ふのだ、間違があれば宜い、それを機会にといふやうな塩梅だ、
○井野辺 八幡の行幸の時、尾張大納言と松平肥後守は、将軍家の供奉御辞退のことに反対で、肥後守は登城の上、御前に御目に掛つて諫言を申上げましたので、一時供奉遊ばされることに極まりましたが、其夜になつて再び変じたといふやうに、会津の方の記録に見えて居ります、
○公 あれは理窟に於ても出なければならぬが、此間も話した通り、何分心配する点もあつたのだ、それで結局当日御不快といふことで御断りになれば子細ないといふ訳であつた、
○井野辺 肥後守に向つて、一旦御出でになるといふことを仰しやつたことがございますか、
○公 どうも肥後守に相談したといふことは覚はない、私の覚えて居るのは、三条や何か堂上の者と、是非出なければならぬどう斯うと少しばかり論判して見たけれども、結局行幸のあるのに供奉は嫌《イヤ》だといふ理窟はないのだから、差掛り不快として御断りする積りで、さうなつたのだね、
○井野辺 文久三年三月十日に、御前から将軍家の御滞京の日数を延ばして戴きたいといふ御建白が出まして、勅許になりました、然るに又間もなく十七日になりまして、今度は関東に帰りたいといふことを御願ひになりましたが、御差止になりました、御滞京の日数を御延期の理由、並に関東に御帰りになりたいと願はせられた理由を伺ひます僅か一週間くらゐの間に、幕府の御考が変つて居りますので……、
○公 これは最初御途中にゐらつしやる中に、攘夷の期限が極まつたについて、長くは御滞京になれないからといふので、さういふことに一旦なつたんだね、然る処、御到著になつた上の閣老始めの考、又朝廷でも、折角こゝまで御出でになつたものだから、全く公武御合体といふ処まで御滞京になるやうにしたい、斯ういふ考で、朝廷の方でも其事に色々周旋をしたんだね、然る処三条始め激徒の方では、期限通
 - 第47巻 p.620 -ページ画像 
りに帰して攘夷をさせると斯ういふのだ、そこでこつちでは、何分緩りと滞京して真に御合体になるやうにしたいと、それを周旋した、然る処又長州だの三条其他の方から、今度は帰しても攘夷は出来るものではない、寧ろこつちへ留めて置いて威権を墜して困らせる、其方が宜いといふことに評議が変つて、今度は長く留まれといふ方になつたのだ、それで此参内の節、甚だ牴触のことがあり、見るにも聞くにも忍びないやうなことがあるのが分つたから、どうもこれでは真の御合体といふことにはいかぬ、いつそ早く帰るが宜からうといふので、其攘夷を借りものにして、早く帰りたいといふことになつたんだね、それで帰るといふ処までになつたのだ、処が朝廷の方で、今度は帰ることはならぬと又反対に出たんだ、それなら滞京しやうといふことになつて、攘夷を受けて私に帰るやうにといふことに結局なつて、それで下つたと斯ういふ手続になる、
○井野辺 向ふが変りましたから、こちらも変つたといふ訳で……、
○公 さうだ、向ふが変つて長く滞京させるといふことになつたのだ唯滞京なら宜いが、何分実は心配の事柄がある、それに真の御合体と言つた処が、其実を言へばもう主上と将軍家は御合体だ、決して将軍家で主上をどうしやう、又主上で将軍家をどうといふ思召はないのだ唯側《ハタ》の処だ、引留めて置いて威権を堕してしまへといふ方へ策が変つたのだ、それでどうも国事掛などの者が出て色々の事を申上げる、閣老はそこへ出ることは出来ない、それで私どもは稍遠くの方に控へて聴いて居るといふだけで、実はどういふことが出て、うんと仰しやるやうなことがあつても大変だといふ心配もあり、それで威権を墜されるのも嫌だし、又仰しやつてしまつたら後へも先へもいかぬからといふやうな訳で、極秘密の話がある、つまり攘夷を受けたものだからそれを藉りて帰るといふことにした、処が今度は帰ることはならぬといふことになつたのだ、それでこゝに又実に困るといふものは、畏れ多いことだけれども、さて御参内になつて、主上と関白様と将軍家と真に御話しになると、実に何とも申上げられないことで、実に策略も何も出来ないのだ、誠に何とも申上げられない訳だ、
○井野辺 将軍家の御参内になります時は、御前などは別の間に御控になつて居りますか、
○公 こゝの間が麝香の間とすると、こゝにゐらつしやる、麝香の間の外に廊下がある、廊下の向ふの端へ行つて坐つて居る、それでこゝへ国事掛などがずんずんはいつて来て、入口の処へ来て聴いて居る、どうも色々言ふに言はれぬことがある、あからさまに話せばさうだ、
○萩野 朝廷の席では、御前は同じ中納言でゐらしつても、三条様などゝ同じ席にゐらつしやる訳にはまゐりませぬか、
○公 こちらは閣老の一つ上といふだけのことだ、小御所で関白様や何か将軍家へ御対面になるのに、廊下のずつと先へ行つて、ぴゆうぴゆう風の吹く処にちやんと坐つて居る、聞えるどころぢやない、一向分らない……、誠に真の御話になると、将軍家へ国家の為に宜しく頼む、委任するから宜しく頼む、それではどうぞ表向其事を仰しやつて下さい、それは言ふことは出来ないと仰しやるのだ、するとそれは内
 - 第47巻 p.621 -ページ画像 
証のことになる、今度表向では、早く言ふと委任は出来ぬといふやうなことになる、すると内証では分つて居て表向はいけない、こちらでも御委任がないからどう斯うなどゝ言ふことは出来ない、実に困る事情があるのだ、朝廷が国事掛に対して御遠慮がある、国事掛の方から申上げて、それはいけないと仰しやつて御承知がなければ、夜が明けても下らない、そんならさうしやうと仰しやると、それはもうちやんと叡慮といふことになつてしまふ、
○井野辺 将軍家の御参内の時に、主上自ら戦争を御好みなさらぬといふことを仰しやつたといふことは事実でございますか、
○公 それは将車へも又関白様へも度々御話はある、併しこれ以て内証だからねと仰しやるので、表向ではない、内実は衝突どころではない、全く御一致だ、それでこちらでは主上の思召は斯うだといふことを知つて居ても、それを言つてはならぬと仰しやるから言へない、真面目の御趣意は斯う、表向は斯うといふのだから遣りにくい、
○三島 八幡行幸の時分に、私は京都へ行つて居りましたが、何でも主人の参内するのを止めたことがあります、どういふ訳で止めたか思出せませぬが、ちと私ども過激の方で、主人の参内するのを止めに出ました、漸く家老が出て、さう過激のことをしてはならぬと言つて、私どもを抑へましたが、何であつたか危急の場合で、参内しては悪い止めなければならぬといふやうな事情でございました、
○公 長州などは真の軍服、兵隊服を著せて居つたが、幕府の方で歩兵などが軍服を著けると、異様の服装をしてなどゝ言つて、やかましく言つたものだ、自分の方では八幡行幸の時などは、やはり其服であつた、何か躓きがあれかしと待つて居るのだ、こつちでは穏に済まして居たが、併し物といふものは壊す方が楽なものだ、それをちやんと整へる方はむづかしいものだ、
○井野辺 生麦の償金なども、御委任の中であるから、以心伝心の処置があつても差支はないと関白様の御話があつたといふことでございますが、それは三月十九日御参内の時で……、
○公 これも主上の御話同様で、それは殿下が仰しやつても、表向斯うといふことにはならないのだ、それぎりの話だ、
○江間 あの時は鷹司様で、長州派の関白でございますね、
○公 さうだ、
○井野辺 其長州派の関白様が、内々以心伝心で遣つたら宜からうと仰しやるのは訝《ヲカ》しいと思ひます、
○公 色々御話はあるのだ、理窟の分らぬ人ではないから、
○井野辺 もう一箇条伺ひます、関東へ御帰りになることを御宣言になりました時に、水戸の武田耕雲斎《*》などが、それはいけないと言つて御前へ何か諫言を申上げたことがあります、水戸などで反対を致しますのは、どういふ関係からでございませうか、
*欄外記事
[武田耕雲斎は大場一真斎の誤なりき
○公 それは横浜を鎖港するやうに、最初水戸中納言が関東で心得て居た、水戸中納言と申合せて早々処置を致すやうにといふことなんだ
 - 第47巻 p.622 -ページ画像 
から、
○井野辺 耕雲斎には御前の御心持が能く分つて居なければならぬと思ひますが、
○公 耕雲斎の止めたことは能く覚えて居ない、あれは鎖港を喜ぶ方の側だから、其為に下るといふのに反対するのは、どういふ訳であつたか、
○藤井 文久三年の十一月、尹宮様が簒位の思召があるといふ流説が京都に専ら流布致しましたので、宮はさういふ流説が叡聞に達しては甚だ遺憾であると御心配遊ばしてゐらつしやいます中に、近衛関白・正親町中納言・徳大寺中納言あたりから叡聞に達しましたので、そこで主上は宸翰を宮に賜はりまして、さういふ流説があるさうだけれども、真実の連枝と心得て居るから、深く意にも留めぬといふ勅語が下つ《(た脱)》のであります、一説に依りますと、宮は其勅語を拝されまして、島津三郎に、斯く斯くの次第で誠に心配をして居る、何とか善後策をしてくれぬかといふ御話、そこで御前を始め松平春岳・島津三郎などが御相談になりました結果、十二月五日に宮の雪寃書を御差出になるといふことに御評議が極まつたのであるといふことでございまして、宮の雪寃といふことは、三郎に御頼みになつたのが始まりであるといふことになつて居りますが、因州家の書類に依りますと、宮は初から、此事はどうせ御前に御相談しなければいかぬことであるといふ御考から、御前はまだ其節は兵庫に御滞在中でございましたのを、そこへ使を遣はされまして、斯く斯くの流説があるから、入京の上は宜しく御頼みするといふことでございました、其御使が西の宮で御前に拝謁致しまして、其事情を申上げたといふことが書いてあります、さう致しますると、尹宮様が雪寃といふことにつきまして御相談遊ばしたのは御前の方が前でありまして、三郎に御相談になりましたのは余程後のやうになりまする、
○公 ちよつと斯ういふ風聞のあつた節に、三郎・春岳・一緒に雪寃書を出すといふやうなことが、成程あつたやうに仄に覚えて居る、出したとあれば出したのであらうが、西の宮へは御使の来たことはないよ、唯兵庫へ著いた時に、小松帯刀が使に来たことはあつた、其他には尹宮の使はどうも来ないやうであつた、
○江間 小松の御使といふのは、やはり雪寃一条についてゞございますか、
○公 これは別だ、唯いはゞ京都の変動のことを詳しく話し、並にこれから国家の為に尽すといふことで、船の中でちよつと酒でも飲まして、それで帰つたといふくらゐのことで、別に意味はない、
○藤井 次に同じく文久三年十二月に、御前を始め松平春岳・松平肥後守・伊達伊予守・島津三郎などが御連署で、当時勧修寺に幽居して居られました済範法師……、元勧修寺宮を、山階宮に御取立といふことについて御建白が出て居ります、此事は主上に於かせられましては先帝の御譴責になつて居りますものを、御自分の代になつて赦すといふのも如何であらうといふ御考で、御好みになりませぬ、又当時此宮様は、とかく長州に御荷担といふやうな傾があるといふ風聞もあるの
 - 第47巻 p.623 -ページ画像 
であります、さういふ宮様を、成程当時賢明の聞はございましたなれども、親王宣下を御願ひなさいますといふことには、何か深い御事情でもありましたことでございませうか、
○公 成程あの御方は、行状の点から言つては余り正しい方ではない併し御人物はなかなか御人物、国家が斯ういふ形勢であればといふので、春岳・宗城・三郎であつたか、皆から確か建白したよ、是非御還俗になるやうにといふことを申立てたのだ、其時分に朝廷の方でも、敢て反対でもあらつしやらぬのだが、唯あゝいふ者を、武家から言つたと言つてそれを其儘取上げたならば、又後の公卿たちの示しにならぬ、どうも宜くあるまいといふやうな訳であつたが、遂にそれが行はれたのだね、
○藤井 それでつまり宮を俗親王といふことに極まりまして、山階宮に御成りなさいましたのでございますが、其当時朝廷に於きましても非常に議論がありまして、従来の御行跡などもあることであるから、すぐに御還俗親王宣下といふことはむつかしい、臣下に御下りになつて、四位から追々関白までも御昇進といふ方が宜からうといふ議論の御方もあり、又すぐに親王宣下のあらつしやつた方が宜からうといふやうな議論もあつたのでございますが、伊達宗城の日記に依りますと其時御前は、臣下に御下りになつて逐次御昇進といふ方の説に御同意であつたといふことが見えて居ります、結局春岳・肥後守・伊予守・三郎などゝ御連署の御建白には、御還俗の上親王宣下あらせられるやうにといふ御文面になつて居りますが、親王宣下あらせられるといふことゝ、臣下に御下りなさいまして逐次御昇進といふことゝは、当時の政治に大関係があることゝ思ひますが、其辺の次第は如何のものでございませうか、
○公 唯私の記憶して居る所では、御人物だから還俗なさるが宜いといふだけの話であつた、それだけのことは覚えて居るが、臣下にどうといふことは、どうも能く覚えて居ない、
○江間 臣下に御下り遊ばして、それから追々に御昇進といふことは堂上方の説で、武家の方はどこまでも御還俗の上、親王宣下を願ふといふ説ではありませぬか、
○藤井 武家の方にも二つありまして、伊達宗城などは、正親町三条前大納言あたりの、臣下に御下りになつた方が、万事に都合が宜いといふ説に、御前も尹宮も御同意であるといふことを聞きまして、これは大に意味のあることであらう、自分はどうか俗親王にならせられるのを希望するといふことを日記に書いて居ります、御前は初は、臣下に御下りなさる方が宜からうといふ御意見でありましたやうです、
○公 するとつまり、親王宣下になるか臣下に下るかといふ手続のことだけの話だね……、どうも能く覚えない、
○萩野 親王宣下といふことになりますと、宮様が一家殖える、臣下に御下りになれば、いづれ広幡とか醍醐とかの同列になるのでありませう、然るに摂家の中で、臣下に下つて逐次昇進といふことは甚だ不同意だと申した説があります、自分の勢力に関係するといふ考でありませうが、併し臣下に下るとしても、摂家になるといふ訳にはいかな
 - 第47巻 p.624 -ページ画像 
いでありませう、
○公 それはいけない、
○萩野 さうすれば摂家の方では異議をいふ所はないやうに思ひますが、摂家の中に議論があります、どういふ訳でありますか、
○公 どうもそれは能く覚えないが、何でも御人物だから御用ゐなさるが宜いといふことは申上げたに相違ないが、後の細かいことはどういふものか、
○藤井 文久三年十二月、御前が御上京中に、春岳侯が御前の御屋敷に伺ひまして、方今の時勢に処せらるべき御方針は、創業の御考でありますか、又は中興の御考でありますかといふことを伺ひました処が御前がそれは創業の方であると御答になりましたので、然らば何方《ドナタ》と其創業の基を御立てになるのでございますか、私は目下在京の諸侯と御評議になつて、衆議一定の上で御確定になつたら宜からうと考へますがと申しました処が、御前が自分もさう思つて居ると仰せられたといふことが、越前の記録に見えて居ります、当時幕府の方に於きましても、八月十八日の政変後でございますから、柳営の昔を興すのは此時を措いて外にないといふやうな考で、非常に改革があり、京都の方に居りまする諸侯も、公武御合体といふことを言つては居りますけれども、其実、春岳・三郎なども、やはり一己の参政権を得たいといふ考があつたやうにも思はれます、其時節に当りまして、御前が創業の際の考であると仰せられましたのは、どういふ御意味でございませうか、
○公 成程さういふ話があつた、中興といふと、今までしたことは採らなければならぬ、創業といふことになると何もないのだ、規則もなければ慣例もないのだから、善いと思つたことはすぐ遣れる、まるでこれまで何もない、早く言へば、神祖が天下を何したあの通りに遣れば宜いのだ、それで旧格やなんぞに泥んではいかぬといふ心持で創業と言つたのだ、
○萩野 其創業といふ思召は、幕府の創業ですな、
○公 さうだ、幕府の創業だ、
○藤井 さう致しますると、つまる処、幕府の旧弊をまるで脱却しましたる新な政治を御立てなさるといふ御意味で……、
○公 私の考は、旧弊もない積りだ、まるで新規に事を遣つていかなければ、迚も今日はいかぬと斯ういふのだ、悪いことがあれば改めるけれども、新規に組立てるといふやうな心持なんだ、それは成程毎度春岳とそんな話をしたよ、薩州にしろ、長州にしろ、土州にしろ、どこの藩でも、始終京都の形勢がどうであるかといふことを探索させる家老の小松帯刀・大久保一蔵、皆出て来る、幕府の方からは、老中も若年寄も目付も誰も行く人はない、それぢや目付の支配を探索に出せと言つたやうな話で、もう薩州も長州もあれは一の家老だ、それが自ら出て皆探索して帰る、幕府の方は老中も若年寄も目付も出ない、先づ支配向でも出したらと斯ういふ訳だ、それでこゝに一つ非常の人物があるから、あれをと言つた処が、それは出来ない、身分が違ふの、家柄でないのと言ふ、それであの時分でも、閣老が出て行くとか言へ
 - 第47巻 p.625 -ページ画像 
ばそれは大変勢が違ふ、けれどもそれは規則でならぬといふのだから遣りたくも出来ない、探索をするといふ者は軽輩な目付支配向だ、万事それなんだ、それで支配向の探索を聴いて、それぢや京都は斯ういふことだつたらうといふくらゐなことを知る訳だ、片方は斯うだといふと、すぐに其晩に諸藩を探つたり、朝廷を探つたり、時に依ればすぐに我が意見を吹き込んで帰るなどゝいふこともある、そこでさういふことは規則などに拘泥して居つてはいけない、規則も何もない、善い者はずんずん採つて使つて行くんでなければ、到底天下のことはむづかしいといふ考なんだ、
○萩野 中興と仰せられますと、寛政とか享保とかいふことになりますか、
○公 中興といへば在るものを磨くのだ、草創といへば新規に拵へるのだ、けれども勢それは出来ない、随分諸藩には非常に抜擢したのがある、先づ幕府の方では非常に抜擢といつた処が、永井主水正が若年寄になつたといふくらゐのものだ、それで幕府には人がない、人がないぢやない、採る途がないのだ、これだけの大勢の中に人のないことはない、採る途がない、あつても採れない、それで私等が考へて、若年寄くらゐには取立てたいと思つても、それをやつてはどうも折合が悪い、又一方には物が掛かるといふやうな説が出て、どうも種々の故障で出来ない、だからあれは打壊してしまつて、新規に家を立てれば立派なものが出来る、修繕では迚も出来ない、
○萩野 併し創業と仰せられましても、すつかり止《ヤ》めてしまはぬ中は色々故障があつて出来ませぬな、
○公 そこだ、人物がちやんと揃つて、愈これなら宜いといふ処で事を始めれば出来る、どうも旧例旧格ばかりに泥んで遣る訳では迚も出来ない、
○渡辺 長州征伐のことについて伺ひますが、元治元年七月二十三日に、朝廷から長州追討の命が幕府に下つて居ります、それと同じ日附を以て、紀州・土州・讚州などの八藩に、大坂・兵庫・西の宮などの警衛を命ずる幕令が出て居りますし、又阿州・筑前などの二十一藩にも、出兵の準備を命ずる幕令が出て居りますが、これらの幕令といふものは、皆京都から出て居りますのでございませうか、
○公 これは残らず関東の方だよ、関東の方で書附が出たのだ、私どもは一向心得ないのだ、後で見たには見たけれども、皆関東の方の取計であつた、京都ではない、
○萩野 さう致しますと、朝廷からの達と、朝廷の命を受けて幕府の出しましたのと、同じ日附になつて居りますのが不審でございます、
○公 「速に追討可有之事、」これは朝廷から出たのだ、これは京都で私どもから滞京の者だけへは達したと覚えて居る、これだけは京都で御出しになると、すぐに其日だか翌日だかに京都滞在の者に達したそれで紀州へ総督を仰付けられたとか、後の彦根・讚州、これらは皆関東だ、
○萩野 日附を同じにしてありますが……、
○公 これは七月二十三日、大変遅い、暴発が七月十九日だ、それで
 - 第47巻 p.626 -ページ画像 
二十三日に出て、これは滞京の諸藩へは残らず私から達した、これは間違だ、さういふことのある訳はない、余り早い、
○江間 ちよつと伺ひます、再度の長州征伐御進発で、昭徳院様が大津から京都へ御乗込み、即日御参内、閏五月の二十二日でございました、暁まで御出でになりまして、二十三日の朝二条へ御引上げ、其日は御滞在、そこで二条の御城で、御前を始め会津・桑名、並に御供閣老方の会議がございました、其会議は長州処置の御論判で、会津の記録に依つて見ますると、先づ二つの説に分れまして、其第一は、長州は無論討つべき罪がある、それで此処置は宜しく大膳を死罪に処して長門だけ助命すべしといふので、これは一橋殿の御論である、第二は会津の説で、成程長州には罪のあることは明白だが、能く輿論も考へねばならぬ、それで自分の考は、父子とも蟄居、周防一国を削るといふ辺で宜しからうと思ふといふので、大変議論はあつたが、結局議決にならずにしまつたといふことが書いてあります、此時御前の御意見は、前の通り父は死を賜はる、さうして子だけは御憐愍を以て助命するといふ思召でございましたか、
○公 それは話が違ふ、あれは会合の節に阿部豊後に、これから貴所《アナタ》はどう処置をなさると斯う言つて聴いたんだ、いや呼出して首を斬つてしまふ、それでなければ立たぬ、それぎりで話はしないのだ、それで阿部の考といふものは、まあ長州はそれこそ一国を取上げるくらゐの積りで居たのだ、けれどもこゝで至当の処置を致すと、京都に居る人は、私ども始めそれはいけないから寛大にしろと斯ういふ、そこでこつちから呼出して首を斬つてしまへと言つて置くと、それはいけない寛大にと言つた処が、其首を斬つてしまへといふに対しての寛大だ構はないからこゝは一番さう言はうといふのだ、それで私はどうもさうだらうと察したので、一言も言はないのだ、
○江間 さやうでございますか、実は御論旨が甚だ急激でありますから、如何なものであらうかと思つて居りましたが、
○公 それは其時に済んでしまつて、後で外から聞くと、阿部豊後とて決して呼出して首を斬るといふのは本心ではない、斯う言はぬと、会津や何か皆が、もつと寛大にといふに相違ない、さうすると大変寛大になるから、こつちから極度まで切出して、それで丁度程宜い処に落ちるといふ積りで遣つたんだといふことが、後で外から分つた、
○江間 それでは大膳の首を斬るといふのは阿部の話で……、
○公 さうだ、
○江間 それでは大変違つて居りますな、
○公 此くらゐに言つて置くと、後で寛大といふから丁度宜い処で片が附くといふ訳だ、
○江間 畢竟事を誤りましたのはそれなんですな、関東の大事な枢府が既に其通り、妙な騙し合騙し討を遣つて居ります、それでどうも御前の御論としては如何のものかと思つて居りました、
○公 それでどういふ訳だか知らぬが、長州贔負といふやうな少し何があるのだ、それで必ず寛大といふことを言ひ出すから、こつちから余計に言つて置かないと、恐ろしい寛大になつてしまふといふ訳なん
 - 第47巻 p.627 -ページ画像 
だ、
○江間 それで愈御進発といふことは、貴所様からも頻に……、御進発ではない、御上洛の御話があり……、処が御上洛では先度に毎々懲りて居りますから、飽くまで長州征伐といふ処へ漸く議を破つて、大方阿部などが率先して遣つたのでございませう、御進発といふことになりまして、其時に、長州は容易ならぬ企があるのみならず、とんと悔悟の実を挙げぬ、且又御所から仰越された趣もあるに依つて、御進発なさるといふことを一般へ触れ出しまして、段々御進みになつて来ました、それに対して各藩の議論が、どうも今度の軍には名がない、唯容易ならぬでは何が容易ならぬのか分らぬ、もう既に処置さへすれば宜いものを、再び征伐するなどゝいふことは宜しくない、これは幕府の為に甚だ不利益であると言つて、重なる諸藩から屡建言が出ました、皆一致に出て居ります、それにも拘らすずんずん御進発になりました、そこで御進発といつて京都へも寄らずに行くといふのは宜しくない、是非ちよつとでも御機嫌伺に京都へ御立寄がなければなりますまいといふことを、会津などからわざわざ江戸へ申出ました結果、それではさう致さう、併し唯今さういふことを言ひ出しては不都合があるから、御途中に於てちよつと御立寄といふことを触れ出すが宜からうといふことになつて、駿府御宿陣の節に、始めて山城路を御通行になるについてちよつと御上京、其儘で御参内になるといふ御触が出ましたけれども、まだ容易ならぬといふことは御発表になりませぬ、それから愈京都へ御はいりになりまして御参内、其以前に京都では、関白様・近衛様あたりの考では、将軍家参内の時には、今度のことは重大の事件ぢやに依つて、軽挙してはならぬ、慎重に能く相談をして、衆議を経た上で、決行しろといふ御趣意の勅書を下さるが宜しからうといふやうな御内評、それを御前を始め会津・桑名などが聞込みまして、今勅書が下つてはちと困ることがあるから、それだけは勅語といふことにして、御書附といふものはどうか御渡しにならぬやうに願ひたい、此度のは、唯簡略に参内して御機嫌伺といふ尋常なことに願ひたい、大坂滞城の上は、私どもが度々登城しまして、朝廷の御趣意の立ちまするやうに斡旋を致しますから、今度の参内は一切簡易に願ひたいのでござる、万一こゝで彼是むつかしい御差図などがあると、又関東の有司等が暴論でも吐出すと甚だ宜しくないから、其御考で、勅書を勅語にして賜はるくらゐに願ひたい、これは会津などは頻に迫つて申上げた、それで愈御参内、二十三日の暁になりますと、肥後守が関白様に会ひまして、まだ勅語も賜はらぬ、時間も過去つてしまひまするし、此様子では何もむつかしいことは朝廷から仰しやらぬ様子、誠に喜ばしいといつて、皆が喜んだと書いたものがあります、又公卿の書附を見ますと、陛下の御前で関白を以て綸言を御伝へになつた、其時には御簾を御掲げになつて、そこで云々とあります、これには三つの箇条があります、もとは漢文で、第一箇条は、「朕長門父子を召さんと欲す、而して到らざる時は則ち之を伐て、」第二箇条は、「朕長門父子を召さんと欲す、汝糺して而して辞なくんば則ち之を誅せよ」……、最初に大膳父子を召して、召に応じなかつたならばすぐ討つて
 - 第47巻 p.628 -ページ画像 
しまへ、命に応じて京都へ出て来たら、汝が能く之を糺して、さうして向ふで申訳がないといふことになつたらばこれを誅しても宜い、それから第三箇条は、「朕群藩を召さんと欲す、汝京洛に滞り、衆言の帰する所に依つて而して誅伐を期せよ」とあります、併しこれは勅書は御断りになつて居りますから、此御意味だけを、当時昭徳院様の御耳に関白から入れたものだらうと存じます、それで其時はそれで済んでしまひましたが、これが果してあつたことでありますれば……、
○公 それは違ふと思ふ、何でも予て大樹に委任すといふことであるから、然るべく扱ふやうにと御逃げなすつた、確かさう覚えて居る、
○江間 これらは今日出来る書物では、見遁すことの出来ぬ大切の点で、これが果してあつたとなると、第一箇条などは誠に幕府に取つては利益のある勅語です、陛下が詔を以て大膳父子を召すから、若し来なかつたら貴様討つてしまへ、斯う仰しやる、極急です、
○公 どうも私考へるに、さうぢやなかつたと思ふよ、予て御委任のことであるから、然るべく取計らへ、其方だらうと思ふ、
○江間 事実は然るべく取計らへと斯う仰しやつたことにならうと思ひます、
○公 呼出して来なければ討つてしまへといふのは、それはいはゞ阿部豊後のそれと同じ訳になる、どうもさうぢやない、
○江間 今の御話の通り、予て委任してあるから、今度のことは能く大樹へ相談して、都合の宜いやうにせい、斯ういふ御沙汰であつたとしますると、誠に事実がうまく行くのです、
○公 どうも其方だらうと思ふ、
○江間 それから二十四日に昭徳院様が大坂へ御下りになりまして、間もなく御前は御機嫌伺として御下坂の上で、愈長州処分の端緒が開けまして、阿部豊後が御供をしまして、御乗切で京都へ御帰りになりさうして毛利淡路と吉川監物を呼出して糾問するといふことを御奏聞になりました、朝廷からは差支ないといふ御沙汰が下りまして、阿部は其翌朝立つて大坂へ下ります、御前は一日後れにすぐ大坂へ御引返し、それから大分長く御滞在、其御滞在中の昭徳院様の御実記を繰つて見ますと、時々一橋殿御登城御機嫌を伺はれたといふことがございます、其御滞在中は、外のことで御出でになつて居るのでありませぬから、毎日必ず御登城になつて、さうして始終緊要の国事を御評議になりましたものでございませうな、
○公 毎日だ、
○江間 御登城になりまして、御用部屋へ閣老などゝ御一緒に……、
○公 さうだ、
○江間 そこで伺ひますが、閣老だけでなくて、三奉行・大目付、或は勘定奉行、これらの連中が皆其議に列席致しましたものでございませうか、
○公 あの節は毎日登城をしたが、どういふ振合か、私どもの居る故か何か知らぬが、阿部と松前と、斯ういふ隅つこでこそこそ話をして居るだけで、決して公然たる評議は余りなかつた、二人でこそこそ何か話をして、それで何だかこつちから聴くにも少し気の毒……、とい
 - 第47巻 p.629 -ページ画像 
ふこともないけれども、聴くにも聴きにくいと言つたやうな塩梅なんだ、
○江間 さうしますと、あんなえらい勢で来ましたが、あれは例の虚喝手段で、真実大膳を呼出して、出て来たら斬つてしまへといふやうなことは……、
○公 心中にはないのだ、それで如何にも御進発に大坂までいらしつたら、一も二もなく向ふでは恐入つて、降参するに相違ないと見たのは間違だ、どうもそんなやうだ、どうも阿部豊後が自分の旅宿で打毬ばかり遣つて居た、あの人の打毬には、私も少し親しみを結ぶ積りで共に遣つて居たが、其時の様子が、向ふから何か言つて来さうなものだ、もう恐入つたとか何とか言つて来さうなものだと言つたやうな塩梅で、泰然として居れば向ふから何か言つて来るだらうと言つたやうな風で、毎日打毬をして居た、
○江間 其時に何の御評議があつたものか存じませぬが……、
○公 何もない、私の居る時には阿部などから何も話はしない、斯ういふ隅つこでひそひそ話をするから、余り工合の悪い時には、小便にでも行くといふやうな訳だ、
○江間 何か少しは手掛りになることがあらうと思ひまして、頻に調べて見ましたが、将軍様は天気の宜い時には、天主台へ御上りなすつて御遠望だとか、或は講武所・御馬場などで、近侍や御供方の武術・乗馬などを御覧になる、後には毎日のやうに行はれました、成程軍務を忘れぬといふのは宜しうございませうが、総てそれで終つて居ります、
○公 泰然とした処を見せるといふ意であつたかも知れない、併しながらさういふ訳にもいかぬやうであつた、
○江間 余り長くなりまして御迷惑に思召しませうが、今一節伺ひたう存じます、丁度其頃に小笠原図書頭の復職といふ問題が一つ出まして、それが為でもありませうか、会津が六月二十九日に京都を立つて大坂へ参りました、会津の記録を見ますと、小笠原の復職を議すといふことがあります、此小笠原の復職といふことは、余程前日に、板倉防州などが在職中に、大変熱心に発論しまして、京都の幕府へも交渉しましたけれども、独り一橋殿が御承知にならぬ、今度のことは暫く見合せて置いた方が宜からう、其中に宜い機会が来るだらうといふやうなことで、関東へ確か会津から返事が出て居ります、それで御前が御不賛成といふのは、今小笠原を出して、朝廷との調和を破るやうなことがあつてはならぬからといふ御趣意であつたらうと考へます、それで止《ヤ》めになりましたのが、此時又再燃して来たのでありませうか、今度大坂へ御出でになつてから、其議論があつたものと見えるのですが、何か其問題につきまして御記憶はございませぬか、
○公 あれは阿部豊後・松前が、外国の条約一件で退役になつた其後だらう、確か後へ残つた人は周防たつた一人だ、どうも仕方がないといふやうなことであつたかと覚えて居る、
○江間 御意ではございますが、其時はまだ阿部も松前も無事な時でございますから、何か議論の出ましたことゝ考へられるのでございま
 - 第47巻 p.630 -ページ画像 
す、如何にも再任は阿部・松前、二人の免職が機会になつたのでございませう、とにかく小笠原といふ人は役に立つといふことは、凡そ幕府の方の輿論だつたと見えますが……、
○公 なかなか役に立つ人であつた、学問も出来るしね、
○江間 先づ大坂御滞在中の御登城といふものは毎日で、今の長州を討つとか処分をするとかいふ緊急の問題といふものは……、
○公 それは全く無い、
○渋沢 御前が例の一時長州征伐の総督に御任じ遊ばしましたことがございましたが、あれはいつでありましたか、
○江間 昭徳院様の御他界の少し前です、
○渋沢 何でも少し暑い時分だと思つて居る、あれはどういふ縁故であゝいふことになつたのでございますか、あれは尾州に代つたのでございませう、
○江間 あの時は紀州が総督です、
○渋沢 前が紀州かな、
○公 紀州が変つて尾州になつたのだらう、
○江間 紀州が尾州に代つたのです、
○渋沢 前に紀州といふ説があつたのだ、初度の追討の時に紀州といふ説があつたので、尾州が何でも受けずに居つた、それで屡公爵から御説諭の御手紙が行つた、
○公 紀州が先だらう、
○江間 紀州が初め総督であつたのを、何故か尾張の前老侯に命ぜられましたので、あれは前征伐の時です、再征には尾張の玄同侯が辞退して、紀州が引受けました、
 ○公 三謀臣の首を斬つた、あれが前年だ、それから其翌年が御進発と斯うなる、
○渋沢 確か大坂で其命を御受になつて御帰りになりますと、御家来総てに御達が出ました、私はもと勘定組頭であつたのを、御使番格といふのを言ひ付かつた、御使番になつて戦争の御供を命ぜられた、長州へ行つたら、どうしても向ふが強い、こつちが弱いのだから死ぬに限つて居る、死ぬ覚悟をして国へ贈つた手紙がある、不思議なものだ自分が長州征伐の御供をすることになつて、討死をするに相違ないがと言うて家へ出しました、其手紙を此間見ました、どうしてもあすこで本当に追討してしまはなければ、幕府の威信は立たぬ、幕府の立つ立たぬはこゝで決するといふ御覚悟であるといふことに、原市之進から私は承つて居ります、どうしてもこゝで長州を討たなければ、幕府を回すことは出来ぬ、又事実さうであつたらしい、あの時に長州を討つてしまへば、御一新は急には出来なかつたのです、あれがいけなかつたのは、今日から言うたら其方が宜いでせうが、幕府の為には不幸であつた、あれがどういふ動機で、長州の御征伐を貴所様《アナタサマ》が御引受遊ばすことになりましたか、
○公 あれは相続しない前だ、やはり御不快について、到底征伐も何も出来ないといふことからだ、
○渋沢 何でも御名代といふことでしたな、
 - 第47巻 p.631 -ページ画像 
○公 さうだ、それで愈行くといふことになつた処で、昭徳院様が薨去になつたので模様が変つたのだ、それからして長州征伐の方は、討つと申上げたけれども御見合を願つて、こゝで天下の諸侯を会して、大会議を開いて決しやうといふことになつたと確か覚えて居る、それで昭徳院様が薨去になつて相続をした、相続をした後に勝を呼んで……、あれは大分長州に知る人があるので、勝を使に遣つたのだ、其節に小倉と浜田とを向ふで取つて、兵を引かずに居る、そこでこんな長州との戦争は馬鹿げて居るから、こんなことは大概にして、一つ国家の為に大会議をしやう、それで相続といふ時に将軍職は受けぬといふのは、考があつて受けぬといふのだ、長州は寛大にしてしまふ、ついては向ふも浜田と小倉の兵を引いて貰ひたい、さうしないと会津を始め承知しない、それで向ふも緩め、こつちも和げるといふ考だつた、確かさうだと覚えて居る、
○渋沢 さうすると、其前は御名代といふものを御立て遊ばすといふことが、一旦極まつたのですけれども、それは御大切の場合の御遣言から、又変化したのですな、
○公 長州の方も大敗したんだね、あつちも戦争をして回復はむづかしい、こつちも昭徳院様が薨去になつたので、そこで戦争を止めて、向ふも兵を引き、こつちも寛大にして、後は国家のことをしやう、斯ういふのだね、処が薩長の方は討幕の約束が出来たものだから、迚もこつちの考のやうにはいかぬ、さういふ大体の訳なんだ、
○渋沢 あれがどんなものでございませうか、其時の御事態が、私ども一向さういふやうな枢機に携はらぬから心得ませぬが、御名代として御出掛けなさる時には、殆どもう死を決した御覚悟のやうに皆申して居りました、御床几廻の人々なども、今度行つたらもう一人も生きては還らぬといふやうな意気込であつたやうに覚えて居りますが、猪飼さんなどは御覚がありませう、
○猪飼 私も覚えて居ります、何でも御床几廻は皆討死の覚悟でございました、
○渋沢 どうも紀州といひ彦根といひ、余り意気地がない、一橋も余り兵気の振ふ家ではなかつたけれども、皆覚悟して、一人も生きて還らぬといふやうな意気込であつたことを覚えて居る、
○江間 今一つ伺ひますが、昭徳院様が貴所様に御対し遊ばす表面の御待遇は如何でございますか、何となく貴所様を煙たく思召すとか何とかいふやうな御模様はございませぬでしたか、丁度御進発で京都へいらしつた頃です、そんな様子は御見えになりませぬでしたか、
○公 そんなことはとんとあらつしやらない、とんと御邪気といふやうなことはあらつしやらない、結構な御方であつた、
○江間 これも会津の記録でございますが、閏五月二十三日、即ち昭徳院様御参内の翌日、二条城で会議があつて、それから後に昭徳院様が肥後守を召して、病気の御慰問から総てのこと段々打解けての御話があつて、何となく貴所様に御対し遊ばして、御疑惑とか御注意とかいふやうな御詞を伺つた、そこで肥後守は、それは誠に御考違であつて、一橋殿は誠に誠実無二の方で、決してそんな御疑念には及びませ
 - 第47巻 p.632 -ページ画像 
ぬからといふことを厚く申上げました、さうであつたかと仰しやつて其後は御様子が宜かつたと斯ういふことがあります、成程さうかと思ひますのは、昭徳院様の御膝元に附いて京都まで出て来ました連中、其時の左右は、豊後守でも伯耆守でも、あからさまに申しますると、皆貴所様に信服して居らなかつたらうと考へます、甚だ失礼のことを申しますが、さういふ処の者が御傅《オモリ》をして出て来たのですから、成程さうあらつしやつたかも知れませぬ、肥後守が誠心を打明けて御話ししたので、大層御打解になりまして、既に其時に御差料の御短刀を御拝領でありました、其以後は極御親しくあらつしやつたやうに伺はれますが、
○公 どうだらうといふ御考は決してありはしない、
○江間 いづれに致しましても、あの将軍様は実に御可哀さうですな
○公 さうだ、将軍になつてから始終御心配のことばかり、誠に御気の毒だ、
○三島 旧主人が始終御褒め申して居りました、真に国家を憂へてござつたと言うて……、
○公 御不快だから御帰りになると仰しやる、どう遊ばしたといふと実はね、老中が病気だといへといふからと正直に仰しやる、少しも悪い処はあらつしやらない、
○江間 あの時の将軍辞職一件も、前後の御話を伺つて考へますと、やはりあれも一つの虚喝ですな、あれで朝廷が喫驚《ビツクリ》せられるといふ考もあつたらうと思はれますな、さうでなければ、軍艦もありますし、今帰りますと先触を置いて、のそのそ陸路を帰つて来なくても宜い訳です、
○公 あれはさういふことを言つては甚だ何だが、あの真意といふものは、内には長州があり、外には条約のことがあり、迚も何だからと言つて、私の名を出して、何もかも心得て居るから、此者に軍職を譲るといふことになるのだね、そこで私は帰ると仰しやる、勢どうあつても条約のことを必死に骨を折らなければならぬ、骨を折らせる策略なんだ、実はそれより外はない、
○渋沢 一橋がもう一つ骨を折つてくれゝば宜い、どうか早く御帰りなさいと言うて、窮地に陥れたといふやうな訳ですな、
○江間 あの時の辞表の文は向山黄村が書いたのです、今向山が居りますなら、一つ議論して見たいと思ふのですが、唯今の御話で消息が誠によく分りまして、有難う存じます、
○渋沢 あの御名代として出掛ける時の御決心と、それが打つて変つて昭徳院様の薨去後は、長州に対する寛厳が僅の間に変化した、私の想像には、前には薩摩が十分密著して居ないといふ次第だらうと思ひました、
○公 いや前にもう薩摩は密著して居つた、
○渋沢 薩長を一緒にするのは、徳川家の為にいけませぬといふことは、始終言つて居つたのです、薩長は討幕といふことを常に言つて居つたのですから、併しあの時分には薩長は別でせう、終始行動が違つて居りました、子年の七月十九日が京都の変事でございました、あす
 - 第47巻 p.633 -ページ画像 
こらは段々材料に依つて調べて見たら、大抵分りさうなものですな、殆ど私は、幕府の興廃は伏見・鳥羽にあらず長州征伐にあり、幕府の衰へた原因はあすこにある、長州征伐が出来なければ幕府の維持は出来ない、そこで御前が、仕方がない徳川家の為に犠牲になるの御覚悟をなすつたと思つて、私も馬鹿の話と言つては済まないが、死ぬ供をするのは気がきかないけれども、今更遁げては所謂武士の恥になると思うて、死ぬ覚悟をして居りましたが、最初徳川を倒さうとした、其徳川の為に死なゝければならぬといふことになつたから、世の中は妙なものだと感じたのです、
○江間 唯今、中興・創業といふ御説がありましたが、此歴史なども少しく創業的に遣りませぬと、余りこつちにも書附がある、こつちにも書附があるといふと、其書附が果して、事実密著したものならば千金でございますが、中には事実を生み出さんが為に拵へたものもあるので、其選択については、私どもの最も苦心致しますことでございます、
○公 こゝに一箇所、こゝに一箇所、それを見て後は繋ぐのだね、其間に色々ちよいちよいしたことがある、



〔参考〕昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一六九―一七三頁 大正四年四月刊(DK470133k-0002)
第47巻 p.633-634 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第一六九―一七三頁 大正四年四月刊
  第二十二
      明治四十四年三月一日小日向公爵邸に於て


図表を画像で表示--

     興山公     文学博士 萩野由之      豊崎信君        井野辺茂雄 



    昭徳公の御遺命の事
昭徳公が御進発の前夜、○慶応元年五月十五日。跡目には田安亀之助○後の家達公。を立つべしと仰せ置かれしとの事、○宰相典侍嗣子記・溝口勝如談話等によりて記せるなり。天璋院様○家定公夫人。などは御承知ありつらんも、予は少しも知らざりき。他の人々も同様なりしなるべし。予にして当時之を知り居たらば、亀之助を立てて後見をするとか、何とかせんやうもありしならんに、全く其事を知らざりしより、遂に自ら相続するに至りしなり。
    宗家相続御辞退の事
宗家相続の議起りし時、○慶応二年七月。予は大奥・諸有司などに対し大に懸念する所ありて、予が相続して折合ふや否やといふことをばいたく憂慮したり、是も辞退の重なる原因の一つなりき。
    宗家相続には見込の人ありと仰せられし事
板倉が相続の事を頻に勧めたる時、予が「自分には見込の人もあり」といへりとあれども、○続再夢紀事によりて記せるなり。記憶に存せず。されど紀州に相続を勧めたることあれば、恐らくは同中納言を指したるものなるべし
    相続を諾して将軍職を辞し給ひし事
予が相続を諾して将軍職を辞したることは、嚮にも話したるが如く、初板倉などより、「将軍になるとならぬとは思召次第なり、ともかくも御相続だけは御請遊ばさるべし」と申せし故、さらばとて相続したるにて、相続の上は広く天下の諸大名を会して国是を議し、公論の帰
 - 第47巻 p.634 -ページ画像 
する所に従ひて去就進退せんとの考なりしかば、さてこそ将軍職をば固く辞退せしなり。
    原忠成が諸大名をして公を将軍に推薦せしめんとせし事
原市之進が諸大名をして予を将軍に推薦せしめんとて周旋せりとの事なるが、○続再夢紀事によりて記せるなり。是は何も聞きたることなし。若し其事ありとせば、市之進一己の考ならんが、其頃は朝廷の模様も大坂の評議も、予を将軍となさんとするにありしかば、さる周旋をなすの必要はなかりしならんと覚ゆるなり。
    大藩中其人を選びて将軍に任ぜられたしと奏聞し給ひし事
御名代出陣につき、参内して節刀を賜はりたる時、○慶応二年八月八日。予が駑鈍大任に堪へずとて将軍職を固辞し、「徳川に限らず、他の大藩中其人を選びて将軍に任ぜられたし」と奏上したりとあれども、○岩倉公実記によりて記せるなり。記憶なし。或はさることを申し上げしかも知れざれども、全く忘却せり。
    紀州藩の家老将軍職御請を勧め申せし事
紀州の家老渡辺主水が、諸大名召集以前に将軍職を御請するやう予に勧めたる時、○慶応二年九月。予が「其事については深意あることなれど、其方へは申し聞け難し、其中中納言殿へ対面の折もあらば、伏蔵なく御話に及ぶべし」といへりとの事なれど、○続再夢紀事によりて記せるなり。是亦少しも記憶せず。されど相続の話のありし頃、予は紀州こそ然るべけれとて、其意を同中納言に伝へたるに、中納言は固く辞退して予が言に従はず使者を以て其由を申し越したることあれば、或は其事を誤り伝へしにはあらざるか。若し其事とせば、予は使者に面会せず、原市之進・榎本亨造○道章、後に対馬守と称す。等が応接したるやう覚え居れり。
    御名代御出陣の事
御名代として長州へ出陣せんとせしことは、別に成算のあるにあらず又京都をば去り難き事情なきにあらざりしも、当時の勢、それらの事を考ふるに遑なく、出陣して長州を屈伏せしむるか、予が討死するか二つに一つを選ぶ決心なりしなり。間もなく小倉表の解兵などありて形勢一変したるにより、遂に中止したれど、初は全く出陣の覚悟なりしこといふまでもなく、決して出陣を装ひしにはあらざるなり。