デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.648-663(DK470135k) ページ画像

明治44年6月14日(1911年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第十三回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470135k-0001)
第47巻 p.648 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十二日 晴 暑
○上略 午前九時半小石川徳川公爵邸ニ抵リ、公爵及豊崎信氏ニ面会シテ昔夢会開催ノ事ヲ談話ス○下略
  ○中略。
六月十四日 曇 軽暑
○上略 午後二時事務所ニ抵リ、○中略 此日昔夢会ヲ開キ、老公爵・三島中洲・萩野博士、其他編纂掛員来会シ、種々老公ヘ質議ス、又原仲寧ノ遺書ヲ過日其姪百之ヨリ寄贈セラレタルヲ老公ノ御一覧ニ供ス、談話畢テ四時頃ヨリ、囲碁会ニ移リ、夜飧後夜九時半散会○下略


昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第七六―一一〇頁 大正四年四月刊(DK470135k-0002)
第47巻 p.648-662 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第七六―一一〇頁 大正四年四月刊
  第十三
      明法四十四年六月十四日兜町事務所に於て

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     興山公      男爵   渋沢栄一 公爵   徳川慶久君   法学博士 阪谷芳郎 文学博士 三島毅君    男爵      豊崎信君    文学博士 萩野由之                   江間政発                   渡辺轍                   井野辺茂雄                   藤井甚太郎                   高田利吉 



○藤井 元治元年六月下旬、長藩士が嵯峨天竜寺・山崎・伏見辺に参つて居りまする其最中に、有栖川帥宮様を攘夷別勅使として、関東へ御下しにならうといふ御評議が京都に起りました、それは単に江戸に於きまして、横浜鎖港といふことが、とかく因循に流れまするのを御催促といふ意味でございましたらうか、或は予て長州に御縁故のあります有栖川宮様を、京都外に御出しになるといふ御考などがあらつしやつたことでございませうか、
○公 これはさつぱり覚がない、長藩が山崎・嵯峨・伏見辺に皆兵を配つて居つたといふことは其通りだが、どうも有栖川宮を攘夷別勅使として関東へ下すといふやうなことは、少しも聞かぬことだ、どういふ訳だか、若し何か長藩の為に有栖川宮を別勅使として関東へ下す、さうすれば関東も混雑をする、そこで長藩の兵を何かするといふやう
 - 第47巻 p.649 -ページ画像 
な訳でゝもあるか、どうも少しも聞かぬことだ、
○萩野 あの時の事情が、有栖川宮様が京都にあらつしやることは、露骨に申せば、御前様あたりには御邪魔といふやうな御気味合はございますまいか、
○公 別にあの時分御出でになつても邪魔にもならず、又御出でにならぬと言つても別に不都合もない、早くいふと長州荷担でね、もう破裂する前だから、そんなことには到底余裕もなかつた、どうもこれは聞かぬことだ、
○藤井 大炊御門大納言など、一条家の門流あたりから、其当時やはり横浜鎖港の御催促を遊ばせといふ建白が朝廷に出て居ります、
○公 長藩の士は兵を挙げる、そこで関東の方へは別勅使を下す、こちらはこちらで遣るが宜いといふやうな策が、若しやどこにかあつてつまり発せずにしまつたといふやうな訳でゝもあるか、少しも聞かぬことだ、
○藤井 次を伺ひます、やはり其節に、長人が京都附近に参りましたのは六月の末でございまして、暴発が翌月の十九日でございます、其間殆ど一箇月程日数があります、其間に於きまして、薩州・会津・桑名などが、此度長人の上京したのは、異志を抱いて居るやうであるから、是非ともこれを討伐せねばならぬと度々申上げたのですけれども御前が容易に御許しがなかつたといふことは、何か御趣意のあらつしやることでございましたか、
○公 それは正しく討つといふことは拒んだ……、拒むといふではないが、会桑・薩州あたりから、何でも先んずれば人を制す、こちらから出て早く討つてしまへといふ論をしたのだ、それで一体長人の叛意といふものは、今度は到底穏には済まぬ、必ず血を見なければ治らぬといふのは、誰も皆覚悟して居たのだ、そこで会津あたりは、早く討つてしまへといふ論だ、それで早く討つといふ名義はどういふものだといふと、予て長州人は入京を禁じてある、其禁じてあるのを押して入京したのが一つ、又哀訴歎願といつても、兵器を携へて来たといふことが、必ず深い考のあることゝ思ふ、此二つを以て、討つて宜いといふ名義は確にあると斯う言ふのだ、処が私の考では、それは入京を御止めになつて居る処へ入京して見れば、討つてもそれだけの名はある、併しながら向ふも表向はとにかく歎願といふ名である、それで兵器を携へて入京したといふのは、重々向ふが悪い、なれども此時に堂上方を始め諸藩も、長州へ荷担する者は沢山ある、それ故に私の考では、どこまでも説諭をして、どうあつても聴かぬ暁に事が発すれば名義が立つ、唯兵器を携へて入京したからと言つて、直に兵を用ゐては少し軽卒になるから、どこまでも説得するが宜いといふ論であつた、永井主水正・戸川鉡三郎、これらとも能く談じて、どこまでも説諭するといふことにしたのだ、それで説諭した処が、どうあつても聴かない、片方は又討つといふ論が盛になつて来る、向ふは引取らぬ上に、後から追々に兵を繰出すといふことが聞えて居る、それでもうこゝに至つては已むを得ないから、期限を立てゝあちらへ達したのだ、それは確か永井と戸川鉡三郎を遣つて、引取れ、引取らなければ討つとい
 - 第47巻 p.650 -ページ画像 
ふことを達した、さうすると其期限の時に向ふから暴発した、暴発したので戦争になつて、あゝいふことになつたのだ、それで後になつて見ると、軽卒に討つたといふ論は起らなかつたのだ、早まつて遣ると人事を尽さずに兵を用ゐたといふことにならう、済んだ後が余程面倒だらうといふ考で、あすこは大変自重した訳だ、もう誰が見ても、これは結局戦争になるといふのは、皆腹の中には知つて居たのだ、それをさうでなしに、和かに説得して、已むを得ぬ処であすこに至つたと斯ういふ訳だ、
○藤井 薩州の態度につきまして、余程御前が御懸念あらしつたといふことでありますが、
○公 いや薩州はあの節は少しも疑ふことはない、全く会桑と一緒になつて、あれを討つといふ方になつて居たのだ、薩州は此時分何も怪しむべき廉はなかつた、
○藤井 其節に御前が東寺を御本営となされるといふ御予定がありましたことでございませうか、
○公 これは事実ないことだ、それはどこまでも御所の方を固めるといふので、決して東寺を本営とするといふことはない……、会津の討つてしまへといふ論は、なかなか激しいことだつたよ、
○萩野 能く御抑へ遊ばされました、其御抑へには余程御骨折のことでございましたらう、
○公 なかなか抑へきれない、成程名義に於ても、入京御差止になつて居る処へ、兵器を携へて入京して、三方へ兵を配つて、いざと言はば出ると言つて見ると、名は歎願といふでう、討つといふ論も尤だ、
○萩野 併し三方に屯して居るだけでは、入京といふ訳にも言はれませぬな、争ふ余地はある訳でございますな、
○公 それはさうだ、併しもうあの時分には、長州荷担の堂上の方へは、もう皆はいつて居たよ、
○藤井 其次を伺ひます、慶応元年九月に、兵庫開港の為に四国軍艦が摂海に参りました、あの節に、大坂の町奉行でありました井上主水正が兵庫に参りまして、十日間の決答延期談判を致しました、あの主水正の参りましたのは、御前からの御命令でございませうか、阿部豊後守からの命令を受けたのでございませうか、或は又主水正自身の考で参つたのでありませうか、
○公 あれは井上自身の考だ、あの節には、阿部豊後・松前伊豆、それに松平周防、三人であつた、段々相談した上で、到底開港延期なるものは、言つた処が通りもせず、国家には換へられぬから、断然と聴届けるといふので、それで周防が兵庫へ行つたんだ、決答を外国人に言ふ為に……、其際に丁度私が京都から大坂へ著したが、まだ夜の引明けで、登城する訳にいかないので、阿部豊後の宅へ行つた、そこで委細の話を阿部豊後から聴いた、斯う斯ういふことにしたと言ふからそれはどうもいけない、前々ハルリスの来た時にも、朝廷へ伺つて御許可のない中に、私に条約を結んだといふ議論がやかましかつた、それに今又其通りのことをしては迚も治まらぬから、どうともしてこれは日延をして、さうして朝廷の方へ申上げて、是非御許容になるやう
 - 第47巻 p.651 -ページ画像 
にしなければいかぬと言つて居る処へ、井上主水が自分で考へて、これはどうも容易ならぬことだ、私が行つて一つ外国人に直談をして、是非日延を聴届けるやうにしやうといふので、自分で全く出て行つたのだ、それで応接したのはパークスであつたか、談判した処が、どうあつても聴かない、それならば指を一本切つて上げる、これを証拠として日延を聴いてくれろと言つて、指を切ることになつた、それで外国人が、それまでの御精神ならば承知したと言つて、確か一週間だつたか十日だつたか、日延を承知したといふことになつた、其事が大坂の方へ聞えた、それは誠にどうも幸のことだから、周防を呼返せといふので、早馬で決答を言ひに出た周防を呼返して、皆で登城をして、此上は朝廷へ申上げる手続をしたら宜からうといふので、然らば私はすぐ京都へ帰ると言つて帰つた、それで後から御上洛になつて、朝廷へ申上げやうといふことになつて、其手筈で居ると、御辞職といふことになつた、中納言に後を譲つて辞職するといふことになつてそれで伏見で御出会ひ申した処のことに手続がなるのだ、それで井上主水が行つて日延を承知したんだね、して見ると、阿部豊後も松前伊豆も、自分は閣老で居ながら、主水が行つて承知したものを、二人でどうも出来ないと言つて朝廷へ申上げるといふのは、二人に於て甚だ済まぬといふことになつたのだ、それからしてあの二人は退役といふことになつた、其時は周防一人御供をして伏見へ行つたといふことになるのだ、手続がさういふ訳になるのだ、
○江間 昭徳院様の御辞職の動機といふのは、書いたもので見ますと今の阿部・松前を朝廷から罰しました、それが大変旗下の有司の感情を害しまして、幕府の老中までも朝廷から御任免といふやうなことでは、実に相済まぬ話だ、寧ろ斯う遊ばしたらといふやうな訳に、あすこが動いて来たといふことであります、
○公 それはさうだ、閣老の進退まで朝廷でなさるのでは、到底幕府は立たぬからと言つたのだね、
○江間 するとそれが事実でございますか、
○公 それが事実だ、
○江間 どうも余程怒つたものですな、将軍様に御辞職を勧めるに至つては……、
○公 予てあちらに色々論のあつた処へ、又それを当てつけるといふやうな塩梅にしたのだ、それ故に斯うすればきつと骨を折つて遣るといふ処もあつたらしい、何分いかぬから、それぢやお前に後は譲るから宜しくといへば、必ず奮発して遣るといふ処があつた様子だ、
○藤井 次を伺ひます、慶応二年の正月に、長州の処分を将軍家が御奏請になりました、毛利大膳父子悔悟謹慎の事実が明であるから、朝敵の罪名を除き、尚祖先以来の忠勤もあることであるから、格別寛大の趣意で、領地の中十万石を削り、大膳は蟄居隠居、長門は永蟄居、家督は然るべき者を選んで申付ける、それから三家老の家は永世断絶といふ御趣意であります、其節尹宮様なり二条関白あたりでは、朝敵の罪名を除くことになると、御自分たちの立場がなくなるといふやうな御議論もあつたやうでございますが……、
 - 第47巻 p.652 -ページ画像 
○公 成程書附の処は此通りだが、朝敵の罪名を除くといふことは余り知らぬよ、さういふことは無いやうに思つて居るがね、朝敵の罪名を除くといふのは、御所の方でさう仰しやるのか、
○藤井 将軍家から御所の方へ、さう申上げになりましたので、
○公 こつちからは申上げない、どうもそれは覚えない、これは今ここでの考だが、朝敵の罪名を御除きなすつて、さうして十万石を削つて隠居蟄居、三家老の家を断絶させるといふのは、罪名を除いた上の処置には、少し厳しいやうに思はれる、これはまだ阿部豊後の居る時分のことだ、始めて御上洛で、二条の城へ御著になつた時に、阿部のいふには、今度毛利の処置は、大膳父子を呼出して首を斬るといふのだね、どうも余り酷《ヒド》いことゝ思つた、併しそれは策略だ、唯寛大といふと、どこまでも寛大になる、先づ大膳の首を斬るといふことにして置いて、それから寛大になると、寛大も大概度があるので、どうも策のやうだ、真意ではない、今の朝敵の罪名を除くといふことはどうであつたか、どうも覚えない、
○藤井 其御奏請に依りまして、寛大の程度を朝廷から御示しなざるといふことになつて居ましたけれども、それでは又文句などに拘つて却て国中の乱を起すであらうからといふ思召で、単に寛大の処置が叡慮であるといふことをば、朝廷から仰出されました、それを小笠原壱岐守が持ちまして広島へ参りましたが、朝敵の罪名を除くといふことだけは、毛利の方に達して居りませぬ、
○公 言ふまいね、さうだらう、これはどうも覚がない、それは実は朝廷の方では、朝敵の罪名を除きたうござるといへば、誠に尤だからさうしろと仰しやるよりない、関東の方では朝敵だといふ、朝廷の方では寛大にしろといふ、そこへこちらから朝敵の罪名を除きたいといへば、誠に尤だ、ついては趣意もこれでは酷過《ヒド》ぎると、必ず出るに極まつて居る、どうもこれは覚がない、それとも関東の方の考では、朝敵の罪名を除くから、極寛大にして、十万石を削つてこれだけにする愈朝敵の罪名があるならば、もつと酷くするといふのか、そこはどうも分らぬ、何しろ朝敵の罪名を除くといふことは、外に説があつたか知らぬが、私はどうも覚えないよ、
○藤井 次を伺ひます、慶応二年の五月に、岩倉友山公が全国合同策を計画されまして、此時節はどうしても全国合同して、外夷の問題を解決しなければならぬから、先づ主上が親しく石清水に行幸になり、徳川家を始めとして、越前・会津・桑名、其他の諸藩を御召になつて主上から厚く御依頼の旨を仰出されたならば宜しからうといふ、其策を密奏致させたといふことを、川村恵十郎を通して御前に御知らせ申したといふことが見えて居りますが、其節何か……、
○公 此箇条はちつとも聞かぬことだ、まるで少しも聞かぬ、
○萩野 其事について渋沢男爵が何か御話がある御様子でしたが……(此時渋沢男爵入り来る)今丁度此間御話の岩倉さんのことを伺つて居ります、御聞込のことをどうか貴所《アナタ》から伺つて下さいまし、
○渋沢 水戸の市長をして居ります原百之といふ人が、香川氏から聞いて居つたといふ前置を以て私へ申されますに、前々代の岩倉がどこ
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かに蟄居して居りました其場合に、香川氏が……、香川は水戸の藩士でございます、諸方へ訪問致したことがある、即ち御前が御申含めで御遣はしにでもなつたやうに、原は伝へ聞いて居りまして、それで其時分に一橋公は、岩倉とは屡御往復等があつたやうに思ふが、其事はお前は詳しく知らぬかといふ原の尋でございます、どうもさういふことは詳しく知らぬと斯う答へました、
○公 岩倉と往復したことはない、丁度こゝにある石清水へ行幸で、徳川家を第一として、越前・会桑・御依頼の旨をどう斯うとあるが、少しも聞かぬことだよ、もうこれよりずつと後になつた処で、薩州や何かゞ岩倉の方へ言ひ込んだので、こゝらの時分には岩倉はまだ蟄して居て、少しも何もしなかつた、往復したこともない、
○渋沢 原百之が、此御伝記のことを私が久しく心配して居るといふことを能く存じて居りました為に、此間突然尋ねて参りまして、それについて多少参考にならうと思うて、市之進の書類、遺墨と言うてもちやんと整うたものではない、殆ど切れ切れなものではあるけれども捜し出して持つて来たから見てくれと斯う申して渡されました、見ますると、丁度あの長州の蛤御門の暴発後のことでございます、甚だ面白さうなものでございます、
○公 先程ちよつと見た、あれをゆつくり見たら、何か又考へ出すこともあらうと思ふ、
○渋沢 秘笈とある文字などは、全く自身の筆で出来て居るやうでございます、原の手蹟が明に分ります、私も尽く読んでは見ませぬが、何やら懐しいやうに思ひましたので、能く承りましたら、百之といふのは、市之進の兄の子ださうでございます、それで甥に当つて居りますから、自分の兄弟か何かゞ其市之進の家を相続したが、どうも市之進の方は御恥かしい有様でございますと申して居りました、どう成り至るか、其事は詳しく申しませぬが、自身はぽつぽつながら斯うして居りますと言うて、自らをも、原の後としては、余り名ある人間でないことを恥づる如く言うて居りました、併し先年贈位を得ました時に私ども聊力添をして祭典などをして遣りましたので、其時に書類などを送つてくれたことがございます、私も原に色々世話になつたことなどを話しましたので、大層喜んで帰りました、それで想ひ起しますと丁度私が仏蘭西へ御供を仰付けられました時に、市之進が書きまして私の旅行を送つてくれた書幅がございます、御覧に入れやうと思つて持つて参りました、これは自分の作ではなくて、八家文にございます送殷員外使回鶻序の文章を書いてくれましたのです、(家蔵の双幅を展覧す)
○渡辺 私から一つ御伺致します、慶応元年のことでございますが、幕府では長州処分について、是非大膳父子と五卿とを江戸へ呼寄せやうと致して居りますが、同じ頃に諸大名へは、参勤交代が復旧せられたことであるから、当年其番に当つて居る者は、参府の期を後れぬやうにと伝へました、それについて薩州が非常に反対を致しまして、朝廷の力で其命令を止めやうと計つて、小松帯刀と大久保一蔵とが、尹宮様と二条関白へ強制的に願ひ出ましたけれども、朝廷では容易に御
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用ゐになりませんでしたが、小松と大久保とが尚も迫つて、幕府に伝へる勅命の案文まで差出しましたので、関白様も非常に当惑遊ばしてとうとう薩州の言ふ通り、朝命を以て所司代まで伝へられました、そこで御前が其勅命を御覧遊ばしてから、肥後守・越中守と御相談の上暫くそれを関東へ伝へるのを止《ヤ》めたいといふことを朝廷へ申上げられまして、其時分に松平伯耆守が大坂へ参つて居りましたのを、わざわざ御呼寄せになつて、其朝命を奉じて関東へ下るやうにといふことを御申付になり、朝廷もそれを許されまして、伯耆守は関東へ下るやうになりましたのでございますが、其伯耆守をわざわざ御呼寄せになつて、関東へ御下しになつたといふことは、何か御事情があることではないかと察せられますが、其辺の御記憶は如何でございませうか、
○公 どうもこれは能く覚はないが此時は阿部豊後と二人で来た時だ
○渡辺 二人参りまして、阿部豊後の方は先に関東へ帰りました、
○公 確《シカ》と記憶がないけれども、豊後・伯耆・両人へ、大樹早々上洛するやうに、関東へ行つたら其事を通じろといふことのあつたことは仄に覚えて居る、それから又、毛利大膳父子に出府を命じ、五卿を呼出すの命が、関東へ発せられたといふことも仄に覚えて居る、それから諸大名の参勤・妻子出府の儀、これを文久二年の例に復するといふこともあつたやうに覚えて居る、けれどもそれは唯関東では斯う、朝廷では斯ういふ思召といふだけのことで、又大膳父子・五卿を関東へ呼下すことは、それは京都でそんなことを言つても、迚も出来ないと思つただけのことで、それがどこで立消になつて御進発となつたか、どうも其手続が能く覚がないがね、此伯耆の大坂へ行つたのは、判然《ハキ》とは言はれないけれども、もう伯耆が関東へ下るについて、大坂へ何か用事があつて行つたものだらう、それで斯ういふことが出たから、伯耆を呼んで、関東へ行くならそれを伯耆に何しろといふだけのことだらうと思ふ、
○渡辺 伯耆の大坂へ下りましたのは、長州其他の浮浪の徒が大坂辺を徘徊するといふことで、それを取締の為でございます、
○公 さうかね、どうもはつきりと言ひかねる、
○萩野 あの勅諚は所司代の方へ御出しになつたのでございますが、所司代からと申しますと、所司代の家臣を江戸へ下すといふのが手順でございませうか、
○公 さうだ、
○萩野 それを御前の御説に依つて、所司代から達することを止《ヤ》めて伯耆守を呼んでわざわざそれに御命じになるといふのは、所司代の属吏よりは、何かと京都の事情を話すにも都合が宜いといふやうなことでもございませうか、
○公 覚はないけれども、ちよつと考へる処が、伯耆も関東へ下るものだから、幸だから伯耆を呼んで其書附を渡し、御趣意も能く言ひ含めて関東へ下すが宜からうといふだけのことぢやないかと思はれる、併しそれは今こゝでの考で、少しも覚はない、さうだとは言はれぬ、さういふことでもあつたかと考へるだけのことだ、
○江間 伯耆は豊後と二人で来まして、御前や会津などに頻に責めら
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れまして、結局関白様に大層叱られて、そこで速に将軍を上洛させるといふことを言つて、豊後は早速帰つた、伯耆にはなぜ兵隊を連れて来たといふ御下問があり、大分摂海の辺へ外国人が来るといふ噂でありますから、禁闕に近い処であり、人心が動揺してはなりませぬからかたがた用意の為に兵を連れて参りました、それは幸だから、速に大坂へ行つて摂海の防禦をしろといふことを、関白様から言はれたやうに承知して居りますが、
○公 記憶はない、今の大膳父子を呼出すといふことも、さう言つたつて迚もさうはいくまいと思つたことを仄に覚えて居るが、何分はつきり言へない、
○渡辺 もう一つ、そこには書いて差上げてはございませぬが、将軍様が御進発になりまして、二条城へ御はいりになつてからのことでございます、御前を始め会津・桑名などゝ御評議がありました時に、御前が大膳を助命し長門を死罪にしやうと仰せられたとありますが、さういふ御詞が実際ありましたものでございませうか、
○公 それは先程もちよつと言つた通り、御参内が済んでから阿部豊後へ向つて、さて長州をどうなさる思召だと尋ねた、なに大膳父子を呼寄せて首を斬る……、それで先づ愕然として暫く詞がなかつた、それから其日には格別のことがなくして済んで、後で聞くと、なにあれは真にさういふ訳ではない、初から寛大といへば、向ふは寛大に過ぎるから、あゝ言つて丁度宜い処に落ちるのだといふのだね、其時はまだ大膳をどうしやう斯うしやうといふ処には至らないのだ、
○萩野 御話を伺ひますと、今の大膳の首を斬るといふ説は豊後の考此本には御前が長門を死罪にせよと仰しやつたと書いてございます、
○公 いやさうではない、阿部豊後が言つて皆もう驚いたのだ、まあさういふ考かと言つて……、それで其日はいづれ銘々もとくと勘考しやうと言つて別れてしまつて、後で聞いて初から寛大といふと寛大過ぎる、斯う言つて置いて丁度宜い処へ折合ふといふ腹が分つたのだね
○井野辺 慶応三年でございますが、亜米利加と仏蘭西が兵を朝鮮に加へるといふ出来事が、将に起らうと致しました時に、其事が幕府へ聞えましたので、隣国の好で仲裁したら宜からうといふ思召で、平山図書頭と古賀謹一郎の二人を朝鮮へ御遣はしになることになり、既に御命令まで御発しになりましたが、間もなく御一新になりましたので中止致しました、其二人を朝鮮に御遣はしになるといふことにつきまして、後の人々が斯ういふことを想像致して居るのでございます、幕府では此時日本の将来を非常に慮られまして、海外に向つて大発展をしなければならぬから、これを機会に朝鮮を救つて恩を施して置き、更にそれを踏台にして、今度は支那の方へも手をつけ、支那と朝鮮と日本と三国合従の策を講じ、つまり東洋の勢力を以て西洋と拮抗しやうといふ計画であつた、それで幕府が此二人を御遣はしになつたものであらうと申すのでございますが、果してさやうな遠大の御計画がございましたものでございませうか、
○公 実は覚はない、併し何かそれはあつたらうが、何分にも此節は京都の一条で大混雑であつたから、朝鮮のことなども、あつたかも知
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れないが、能く覚えない、
○井野辺 御前から朝鮮へ御遣はしになりました国書とも見るべきものがございましたので、御手許まで其写を差上げて置きました、
○公 江戸で留守の者や何か議して、それを聞いたかは知れないが、どうも忘れた、先づそれで宜からうと言つたかも知れないが、片方に大事があるので、さう言つては済まぬが、何分はつきりと覚がない、
○井野辺 丁度此問題は政権返上を仰出された間際でございます、平山は対馬まで行つて、対馬から引返して参りました、
○三島 あれは露西亜が対馬を占領しまして、あの時分から聯絡した問題で、それに関聯して朝鮮経営といふ問題が起つたのです、あの時に対州の家老の大島友之允、あれが朝鮮征伐のことを言ひ出したのです、あれは山田方谷が策を授けたのだ、
○井野辺 山田先生の御議論といふのは、書物にございますか、
○三島 それは書物にもありませうし、私は書いたことがあります、宗家は朝鮮と始終交易の約があつた、処が段々朝鮮が違約して、交易をしてくれぬのです、対州は交易で立つて居つた処が、それがないから大に疲弊して、主人(板倉周防守)に就いて公辺へ御救ひ願ひに出たのです、処が今公辺も斯ういふ訳だから、迚も御救ひが出る訳にいかぬ、お前こゝで討つたらどうだと山田が勧めたのです、それは討てますとも、それぢやあといふので策を書いて其書面を御老中へ出したことを覚えて居る、長いものであつた、大層喜んで討つなら訳はない討つて取るが宜いぢやあないか……、其底意は、内がやかましいものですから、長州始めを先方へ向けて、分捕にさせやうといふ山田の策で、それを授けたのです、主人も固より聴いて承知しましたが、戻つてから主人が退役したものですから、それで遂に出来ずじまひです、さういふことは能く知つて居ります、それは丁度前の御上洛の時です
○阪谷 明治五年の征韓論が、やはりそれから出て来たのです、
○公 さうかね、どうも内の方が混雑だから、正直朝鮮などのことには力が及ばないのだ、
○井野辺 次を伺ひます、大政を御奉還になりました時に、其後の御処分は如何遊ばさるべき御考でございましたらうか、将来に於ける徳川家の御立場についての其時の御決心を伺ひたうございます、
○公 それは真の考は、大政を返上して、それで自分が俗に言ふ肩を抜くとか、安を偸むとかいふことになつて済まない、大政を返上した上は、実は飽くまでも国家の為に尽さうといふ精神であつた、併し返上した上からは、朝廷の御差図を受けて国家の為に尽すといふのだね精神は、それで旗本などの始末をどうするとか斯うするとかいふことまでには、考が及ばない、唯返上した上からは、これまでの通りに一層皇国の為に尽さぬではならぬ、肩を抜いたやうになつては済まぬといふのが真の精神であつた、後で家来をどうしやうとか斯うしやうとかいふことまでには、考がまだ及ばなかつた、
○井野辺 あの頃山内容堂などの計画では、議政府といふものを設けまして、諸大名・旗本・諸藩士さういふ者から俊才を抜擢して、会議制度で政治を遣つて行かうといふ案でございます、容堂の腹の底では
 - 第47巻 p.657 -ページ画像 
議政府の議長みたやうなものを御前に願つて、やはり徳川家が政治の中心であるかの如き形で遣つて行きたいといふやうな計画を致して居りました、何かそんな風の事柄につきまして……、
○公 何かあつたか知らぬが、併しそれは容堂の方にあるのだ、こちらにはない、総て返上した以上は、朝廷の命を奉じて何でも遣らう、斯ういふだけの精神だ、それまでのことだ、他には色々何もあつたらうけれども、それは他の方の話で、関係のないことだ、
○井野辺 後の二箇条は、御手許へ差上げて置きましたが、ほんの些細なことではございますが、念の為に伺ひます、慶応二年八月十六日に御参内になりまして、従来将軍家の御名代で以て長州へ御出陣になるといふことを申上げて置かれましたのを、俄に御出陣中止のことを申上げられました、そこで二条関白が、先達て中は頻に長州を討たなければならぬといふことを申上げて置きながら、幾日も経たぬ中に、手の裏を返す如く解兵のことを申上げるのは、如何にも不都合であるといふことを申して、御前を御責め申上げた、其時御前は、丁度八月七日が暴風雨でございましたが、其暴風雨の事に譬へて婉曲に御答弁になりました趣が、岩倉公実記に見えて居ります、
○公 それは成程真の処は、最前に征伐に出るといふことを申上げた処がこれにもある通り失敗ご《(にカ)》なつたのだね、それで、もう到底これを討つといふ訳にもいかず、先づ兵を止めて、諸侯を呼集めて議したら宜からうといふことになつて、其事を申上げた節に、別に関白様がそれをどうといふこともなかつた、さういふ訳なら已むを得ぬから、さうするが宜からうと仰しやつただけのことだ、譬を申上げたことはない、最初に討つと申上げて、さうして出来ないからと申上げるのは、朝廷に対して恐入る、申上げにくい訳だ、そこへ譬などを引いて喋々するやうなことはない訳だ、これは面白く書いたのだ、
○井野辺 今一箇条は慶応二年十月二十三日のことでございます、御参内になりました時に、国事に尽力するといふことを御褒めになりまして、官服三領に御沙汰書を添へて頂戴なされたといふことが、長防追討録に見えて居ります、其御沙汰書の写を御手許へ差上げて置きましたが、どうも其御沙汰書の文面の上から考へて見ますると、どうかと思はれる節もございますが、実際斯ういふことがありましたものでございませうか、
○公 どうもこんなことは無い、官服三領……、これは全く無い、
○井野辺 御相続の後で、将軍職におなりなさいます一月前でございます、御沙汰書に、今般其方儀などゝ認めてございますが、さやうの文句は、書式の上から申しまして如何なものでございませうか、
○公 それはある、それは無いではないけれども、どうも……、
○萩野 公方様にはおなりでございませんでも、上様の時でございますのに、それを朝廷から其方儀といふのは、余り詞が如何のやうに思はれますが、
○公 それは随分あるやうに覚えて居る、官衣一領づゝ肥後守・越中守へ……、目立たざるやう……、どうも覚がない、朝廷から斯ういふ功労があるといふのに、目立たざるやうに、極の御内証だといふのも
 - 第47巻 p.658 -ページ画像 
ちよつと訝《ヲカ》しいやうだ、第一官服三領とあるが、何もさういふものを拝領したことはない、
○萩野 官服と申しますれば衣冠でございませうか、
○公 さうだらう、
○井野辺 今一箇条、民部様の御旅行のことでございますが、あのことにつきましては、既に伺つたこともございますが、民部様を仏蘭西へ御遣はしになりました御趣意につきましては、世の中で色々申して居ります、或は仏蘭西の歓心を求める為であるとか、或は民部様が仏蘭西で種々学術・制度を御研究なされて、其御覚えになつたことを日本に実行しやうといふ御考であるとか、或はあの頃英国公使などは、幕府は日本の政府でないなどゝ申して居りましたので、それでは誠に困るから、幕府が実際の主権者であるといふことを、外国に示すが為に御遣はしになつたとも申して居ります、其辺の事情は如何のものでございませう、表向は博覧会へ御遣はしと申すことになつては居りますが、
○公 あれは渋沢も能く心得て居るが、別に深しいどうといふ意味のある訳ではない、
○渋沢 関東の方では、貴所の今伺ひ上げることを、御老中までの間に、銘々の意中にそれらのことを確に意味したことはあつたかと思ふのです、けれどもそれをちやんと君公まで申上げて、御評議一決といふまでになつたことではないと私どもは確に思つて居ります、御発しになります前に、今丁度御覧に入れました書類の原氏ですが、突然其原氏から呼ばれて旅宿へ参りました、其時原から、民部公子が仏蘭西へ行くといふ御用は斯う斯うだ、それについて一通りの表向の御用は斯う斯うであるけれども、更にまだ御幼年であつて、将来に望を属してござる方であり、殊に御親弟である、甚だ末頼母しい青年の方であるから、これを立派に仕立てたいといふことを上様が思召される、諸有司が皆属望して居る、それで使節の用向が済めば、其後は仏蘭西に学ぶ、唯普通の留学でなしに、三世ナポレオンに特に書面を遣はして御依頼になる、学問上の監督は三世ナポレオンが選んで附けられることになるのだ、これらは唯普通の留学でなしに、自ら国交に関係して居るといふことも記憶して宜い、斯ういふやうな意味は、確に申付けられたことを覚えて居ります、併しながら外国へ行くのに、さう大勢附添うて行く訳にはいかない、それで御傅役《オモリヤク》として、山高石見守が一人仰付けられた、併し此人は計算のことに熟達して居るとはいへないお前は其方に専ら用立つ人と思ふ、且勉めて学んだならば、年も若し相当な修学も出来るだらうと思ふ、かたがた抜擢を以て仰付けられることである、幕府の方にもそれそれ人があらうけれども、成るべくあれならばと思ふ人を申付けたい思召で、篤太夫が宜からういふことに御考を定めて、自分を以て其内命を伝へられるのであるからさう思へ喜んで行くならば、誠に自分もお前に其命を伝へた面目があると斯う言はれたので、それで私は誠に喜ばしい、元来私は攘夷説を唱へた人間であるから、こゝで外国行の命を喜んで奉ずるといふのは、少し変節といふやうな嫌があるか知れませぬが、数年前のやうに、もうどこ
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までも攘夷が出来るだらうとは思ひませぬ、海外のことを学ばせて戴くといふことは、此上もなく嬉しうございます、政治向のことなどは何も存じませぬが、江戸から外国奉行が行くなら、これは自ら其人がございませう、又御身辺の御輔佐を申すのは山高石見守があり、御身の廻りの細かなことを取扱ふ者は、水戸から七人行くといふから、私は唯所謂俗事と会計を取扱つて、傍ら学問をするといふことなら、五年でも七年でも少しも厭ひませぬ、私一人では出来ませぬが、必ず御幼君を立派な方に仕上げて帰国することに、十分覚悟を致して罷出ますといふことを御挨拶したのです、それで誠に咄嗟に御挨拶をしたものですから、さうか、君は又かれこれ躊躇しやしないかと思つて、少し心配したけれども、それは定めし御満足であらうから、早速復命しやうといふことであつたのです、それで送別の為に此殷員外を送るの序を書いてくれた、それから御供をして行つたのが、向山隼人正、組頭田辺太一、通訳方で保科信太郎・山内文次郎・英の方の通訳方が山内六三郎、翻訳方が箕作禎一郎、俗事役は日々野清作《(日比野清作)》・生島孫太郎、其他御小人目付だの諸役人だの数名ありましたが、其連中が総体で殆ど三十人だつたと思ひます、水戸から行つた人が七人、京都で仰付けられたのが山高石見守・木村宗蔵・高松凌雲、今一人誰であつたか、都合四人でございます、
○井野辺 あの時民部様が英国へ御出でになりましたが、あの時にやはり貴所様も……、
○渋沢 御供を致しました、
○井野辺 あの時に向山が英国の外務大臣に向つて、パークスが将軍家のことをハイネスと申上げることについて、抗議を申込んだといふことを聞きましたが、何か御聞及びはございませぬか、
○渋沢 向ふはマゼステーと言はぬといふのです、それは将軍であつて、もう一つ上があるのだから、どうしても殿下といふ外ないといふことを頻に主張したのです、けれどもこちらは国君だから、外国へ対しては他と対等の権利を持つのだから、マゼステーと言はれて宜いと言うて、頻に外国方の人々は主張したのです、それで大君といふ名を附けて、大君即ち陛下と斯うしたのですが、向ふはさうしなかつたのです、
○井野辺 英国で其談判のあつたのは事実でございますか、
○渋沢 其為に特に談判を開いたといふことは覚えませぬ、私どもは地位が大変低かつたので、其事について公然たる参与は出来ませぬが併し外国のことで、僅の人数で話合ふのですから、役目のことは知りませぬけれども、さう秘密にして一切外の人から聞かれぬといふ程ではなかつたのですから、今のことも確に聞いたことを覚えて居りますそれより前に田辺太一が、薩摩を政府と認める認めないの議論が大変にあつて、とうとう其事は向山隼人正が名代になつて、薩摩から岩下佐次右衛門に五代才助だつたか出て、薩摩の方の為に心配するのはモンブランといふ人で、それが仏蘭西の外務省で談判したことがある、
○公 ハイネスといふと、どういふことになるのかね、
○阪谷 皇族殿下になります、マゼステーといふと陛下になります、
 - 第47巻 p.660 -ページ画像 
○公 あの時分ロセスはマゼステー、それからパークスはハイネスと言つた、それで板倉が、斯ういふ議がある、どちらに極めると私に尋ねたことがある、上に天子がある、天子のある以上はハイネスの方が相当と思ふと言つた処が、板倉が大分不承知だつた、其中に各国の公使が逢ふといふことがあつた、それで仏が先へ出るとか英が先へ出るとか、大分先を争つた、其時分にロセスの方では、色々日本の為になることを密に申上げたいから、どうぞ内謁をしたいと斯ういふことであつた、宜しいと言つて、内謁でロセスに逢つた、色々話をして居ると、パークスがずつと遣つて来たんだね、どうもどういふものか、私も外国のことには慣れぬから、喧嘩でも出来なければ宜いと思つて居ると、頻にロセスとパークスと議論を始めたのだね、けれども私は議論は分らないから黙つて居たが、それが済んでから、塩田三郎……ロセスの通辞に、あれは何だと尋ねた処が、一向沙汰もなくて、お前が先へ出て挨拶をするといふ理由はないとパークスが言う、それからロスセは斯う斯うと頻に論じ詰めた、処がなかなか激しくなつて、一番しまひに、さすがにロセスは才物で、パークスに、お前こゝを何の場処と思ふ、大君へ拝謁する場処ではないか、拝謁の場処でさういう議論は甚だ失敬だと言つたんだ、それでパークスがついと止《ヤ》めてしまつた、斯ういふことを塩田から聴いた、それでロセスは、やはりパークスを置いてマゼステーと言ふのだ、片方はハイネス、さういふことがあつたよ、
○渋沢 外国に対すると大変に苦しむ、若しハイネスとすると、向ふに向つては一級下の御交際をするやうになるから、国交上何だか工合の悪いやうになる、さればと言つて、又国君がもう一つあるといふ訳ですから……、
○公 それにハイネスといふことになつてしまふと、ロセスの顔が立たぬといふやうな訳になつて来る、
○阪谷 全体大変朝廷と幕府の間が面倒になりましたのは、やはり条約の勅許を幕府から請うたのが始めでございますか、それより前に何か朝廷の方から干渉があつて……、
○公 それより前は、朝廷では総て政治のことは口を御出しなさらずに居ればそれで宜い、口を出すと面倒だといふので総てのことは黙つて御出でなされば宜いといふのが、まあ関東の方の希望だ、処で井伊掃部頭、あの暴断が始まつて志士を殺した、それで四方の有志が皆憤激したのだ、あゝいふことはないと言つて総てが皆首を持上げたのだ
○阪谷 すると幕府の方から条約の勅許を請うたのが始まりで……、
○公 それがあすこに論がある、もと関東へ御任せになつて居る、御任せになつて居るのだから、こゝは国を開かなければならぬといへば国を開いてしまつて宜いのだ、国を開いてしまつて、朝廷へ斯う斯う致したと言へばそれで宜い、然る処が幕府が弱かつたのだね、外のことゝは違ふ、皇国一体に係ることで、もうどういふことがあつては我我が済まぬから、朝廷の思召を伺ひたい、それは朝廷の許可を得た上ですれば人心も折合ふし、又何かあつても我々の言訳も立つといふやうな、弱い処から伺つたのだね、伺へば朝廷で以て善いとか悪いとか
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仰有る訳だ、それを仰しやらない中に……、ひどく迫られたから、御差図のない中に許してしまつたのだ、そこで先づ違勅として起り立つたんだね、それで掃部頭はあゝいふやうになつて見ると、外の者が首を持上げて来た、処がそれをひどく押すと、又掃部頭に附くといふやうになるから、今度はひどく遣つてはいけない、そこで愈力を出すことが出来ぬといふやうな釣合になつたのだ、
○阪谷 すると政権返上は其以前にあつたのですな、
○渋沢 事実の政権返上は、阿部伊勢守が端緒を開いたのだ、阿部伊勢守の取扱の結果、堀田備中守が上京して許可を得る積りであつたのが、要領を得ずに帰つた、そこで堀田が引込んで掃部頭が出て、さうして間部を遣つたのでせう、あれが大変苛察のことを遣つて、志士を残らず縛つたのだ、
○阪谷 諸藩士京師へ集まつて、堂上方へ出たり入《ハイ》つたりするやうになつたり、密勅が出たりするのは、一番初は幕府が勅許を請うたといふことが端を開いたのですな、其以前にはないことですな、
○渋沢 さういへば手続だけの議論になる、形の上から論ずればさうだが、もう其時分に、外国に対する処置は如何にしたら宜からうかといふ処に於て、幕府がとにかくに天下の粋を集めるだけの議論をちやんと持つて居れば宜いが、それがないから事情は通ぜず、力は弱し、それで或は疑つたり、或は策を弄したりするものだから、そこで問題が段々広くなつて来たのだ、
○阪谷 そこでマゼステーとハイネスが分らなくなつて来た訳ですなハイネスとマゼステーと二つある所以ですな、
○渋沢 伺はなければ徳川の権力が保つかといへば、なに伺はぬでも保ちはせぬ、

○公 何の本に書いてあるか、小さい中から人の言ふことを耳にして居るが、板倉内膳が所司代の時に、どこかへ行幸遊ばしたいといふことがあつた、それは御規則に違ふから出来ませぬといふことを言つたんだね、処が是非どこかへいらつしやりたいといふのだ、そこで内膳が、若し行幸を遊ばすなら、恐れながら、鳳輦に向つて一矢仕る、定めし私は黒血を吐いて死ぬるでござらう、これが関東への御奉公でござる……、それで驚いて御止《ヤ》めになつたといふ昔話があつた、何の本に書いてあるか知らぬが、それであゝいふ人が居れば天下泰平だと頻に言つたものだ、それは朝廷を抑へつける方で昔の話、又今日になつては世界のことも国内のことも皆変れば、それに従つて変革しなければならぬこともあるだらう、ちよつとした処がさうなんだからね、
*欄外記事
是は鳩巣小説に見えたる仙洞(後水尾上皇)附高木伊勢守久延の事を誤り伝へられたるものなるべし
○渋沢 板倉勝重でせう、美談になつて居る袴を捩つて穿《ハ》いたといふ話のあるのは、
○萩野 あれは多賀豊後守のことですが、勝重の話になつて居ります……、寛永二十年三代様の時に、禁裏附役人に遣はしました書附を見ますと、御所の御座の間と表の方とは、昼夜ともに錠をおろして締め
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て置け、昼でも御用のある時だけ明けよと、ちやんと書いてあります宮中は常々附武家で出入を見張つて居ります、其上に表の方とはまるで交通遮断でございますから、大名も浪人も勿論縋る途がないやうにしてあるのでございます、それまでに無理をしましたから、まあ幕府があれだけ続きましたのでせう、
○江間 有徳院様の時に逸話があります、京都で都鳥を見たいと仰しやる、命が所司代に伝はりましたから、すぐに畏まつて送つた、関東から都鳥が著いたから、立派な鳥籠に入れてあるだらうと思つて見ますと、大きな箱に都鳥献上と書いてある、それから蓋を取つて見ましたら、白羽の矢か何かで、すつかり翼を縫つてあつた、都鳥といふものは、京都では歌枕か何かに使はれて、大層風流に言ひ做されて居るが、歌のことは武門では知らぬ、故に武道を以て手づから射留めて献上するといふ御口上で、それを林述斎が話しまして、此御勢であればもう天下は泰平、さすがは有徳院様であると言つて、大変称揚して居ります、ちよつとのことですけれども、其時の様子が知れます、もう慎徳院様時代になつては、そんなことは迚も出来ませぬ、


昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一七四―一七六頁 大正四年四月刊(DK470135k-0003)
第47巻 p.662-663 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第一七四―一七六頁 大正四年四月刊
  第二十三
      明治四十四年六月二十九日小日向公爵邸に於て

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   興山公     文学博士 萩野由之    豊崎信君        渡辺轍                藤井甚太郎                高田利吉 



    幕政改革の復旧と水戸の紛擾との事
文久三年衣服の制を旧に復したることについて思ひ出せることあり。そは同二年の改革前までは何事も手重にして、たとへば将軍家の厠に赴かるゝにも、数十人御供し、一人は水を取り、一人は手水盥を持ち一人は手拭を捧ぐといふが如き有様なりしを、厠くらゐは御一人にて赴かるゝが宜しからんとて、二年よりは御一人の事となり、稀に御供申す者ありても、一人くらゐに過ぎざるまでに改め、其外万事之に準じて簡便に改正したるに、三年に及びそれを止めて、又元の手重に復し、厠の御供が百人にもなりたり、是等は衣服の制の旧復と同じく、江戸の老中太田道淳○資始。諏訪因幡○忠誠。、若年寄にては酒井飛騨○忠毗。等が取り計らへるにて、予は在京中にて与り知らざる所なり。江戸の老中は斯く万事を復旧すると共に、又水戸の奸党をも庇護したれば、奸党は此に勢を得て藩府を更迭し、かの天狗党を調べもせずして殺戮しければ、是より水戸の紛擾は益甚しく、遂に武田耕雲斎等をして、名を攘夷に仮りて兵を挙げしむるに至れり。
 按ずるに、公は老中太田道淳に続けて、諏訪因幡、若年寄にては酒井飛騨等がと仰せられたれども、太田は文久三年五月十四日老中を罷め、諏訪は元治元年六月二十九日老中格になり、七月二十三日老中になりたれば、諏訪は太田と同時の老中にあらず、酒井は元治元年七月十九日若年寄になれり。さて衣服の制の復旧は文久三年十二
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月、参勤交代の復旧は元治元年九月なれば、此復旧の際の当局者は諏訪・酒井などにて太田は与らざるか。但水戸との関係は太田なるべく思はるれば、今暫く御談話のまゝに記す。
    貞芳院太夫人を文明夫人と称せし事
 貞芳院太夫人を文明夫人と申せしは、いつ頃の事に候や。
予が母登美宮は、烈公薨去の時より貞芳院と申せしが、幾もなくして登美宮に復せられ、明治二十六年逝去の時より文明夫人と称へまつれり。こは予て烈公の仰せ置かれたるによれるなり。