デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
2款 楽翁公伝編纂 付 楽翁公関係資料刊行
■綱文

第48巻 p.8-14(DK480003k) ページ画像

昭和6年7月-8月(1931年)

是ヨリ先、三上参次・平泉澄・中村孝也ニヨル、「楽翁公伝」ノ稿成ル。是頃栄一、自序ヲ口述ス。


■資料

楽翁公伝 渋沢栄一著 自序・第一―一六頁 昭和一二年一一月刊(DK480003k-0001)
第48巻 p.8-12 ページ画像

楽翁公伝 渋沢栄一著 自序・第一―一六頁 昭和一二年一一月刊
  自序
玆に私の名を以て楽翁公伝を刊行するに当り、聊かその由来を述べて著者としての責任を明かにして置きたい。
私は嚮に旧主徳川慶喜公の伝を編纂刊行したが、それは公の忠誠なる御心事が世に知られて居ない点を明かにして、公から受けた御恩の万分の一をも報じたく、且つ明治維新前後の史実が誤り伝へられて居るものゝ多いのを是正するの一助としようとしたのであるが、この楽翁公伝は、それとは全く異なつた事情の下に編纂したもので、私が深く
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楽翁公の徳業を欽慕するのと、現今の世態が、頗る公の如き公明忠正なる政治家を必要とする秋であると感じたからである。
抑々私が漸く楽翁公に葵傾するに至つたのは、明治六年に官を辞し第一国立銀行の経営に任じて間もなく、時の東京府知事大久保一翁氏から、江戸幕府時代からの積立金として東京府に保管せられて居る共有金、一名七分金の取締の一人に挙げられた時からである。大久保氏は幕府の重臣の一人で、徳川家が静岡藩に封ぜられた時、慶喜公の御身の上を憂慮して、その御家政の整理に務め、また静岡藩政に尽力し、私が仏蘭西から帰つて静岡で商法会所を起した時にも、大に庇護せられた人である。私に共有金の取締を嘱託せられたのは、それらの関係からであらうが、私はこれが為め今日に至るまで、引続き東京市養育院の経営に当ることゝなつた。蓋し明治初年には、首に袋を懸けたる乞丐の徒が市中を徘徊し、毎月一日・十五日などには店頭に物を乞ふ者が多数あつて、甚だ不体裁であり、随つて文明国の都市として、かかる浮浪の徒を放置することは出来ぬといふので、遂にそれらの者を一箇所に収容することになり、こゝに始めて社会的施設に手を染めたのであつて、これが即ち東京市養育院の起原である。さてそれには相当の費用を要するが、維新草創の際とて、東京府にはその費用を支出する余裕もなかつたから、大久保知事は右の共有金取締の人々と協議して、その金を充用したのである。
かく共有金は養育院の費用となつたばかりでなく、その前後に於て、東京の道路・橋梁・墓地・瓦斯等の施設を始め、種々の公共的事業に用ひられて大に効果を挙げたが、私は抑々この共有金なるものは如何なる性質の金であらうかと考へて、その後養育院幹事の安達憲忠氏をしてその由来を調査せしめたところ、これこそ天明・寛政年間に於ける幕府の老中松平越中守定信、即ち楽翁公の善政の余沢であることを明かにした、楽翁公は老中に就任するや、先づ身を以て節倹の範を示し、幕府財政の整理緊縮を実行すると共に、江戸市民に対しても節倹令を発布してこれを奨励せられたから、田沼時代の奢侈の風は忽ち一掃せられた。而して公は江戸各町町費の節約を促し、それによつて得た金額の中、二分を地主の所得とし、一分を予備費として、若しその予備費が不用に帰したる時は、これを家主の所得となさしめ、その残りの七分を、江戸町民不時の用途に充てる為め、積立金として貯蓄したもので、それが明治時代まで遺されて居たのである。その金額は、地所・金穀を合して大約百四十余万円であつたと思ふ。
天明七年公が決然首座老中に就任し、自己の信任する有為の人々と共に台閣に立ち、将軍家斉公を輔佐して政に膺られるやうになつたのは一橋治済卿・水戸治保卿等が、老中田沼意次の驕侈専横を見るに忍びず、かくては政治・風俗の紊乱遂に収拾すべからざるに至らんことを憂ひ、既に賢名の高かつた公を推薦して時艱を救はうとせられたからである。公が老中の職に在られたのは、三十歳から三十六歳に至るまで僅に六年余りに過ぎなかつたが、果して推薦者の期待に負かず、能くその経綸を行ひ、抱負を実現して、かの所謂寛政の治績を挙げられた。即ち幕府の財政を改革し、奢侈の風俗を匡正し、文武を奨励し、
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窮民を救助し、浮浪の徒をして職を得しめる等、その政治上の功績は誠に驚歎すべきものである。
楽翁公の事は、少年の頃頼山陽の日本外史を読んだ折などに、その名は聞き及んで居たが、未だその人を理解するには及ばなかつた。然るに安達氏の調査によつて、東京市養育院が成立したのも、この七分金が残されてあつたればこそで、公の遺された善政の一つであることを審にし、延いてその施政の蹟をもほゞ知ることを得て、こゝに大に公に対する景慕の心を深くするに至つたのである。然るにまた一方に於て、公が老中就任の翌春、密に霊巌島吉祥院の歓喜天に捧げられた願文が発見せられたというて、私に示した人があつた。その願文は、「天明八年正月二日、松平越中守義、奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜く、格別之高直無之、下々難義不仕、安堵静謐仕、並に金穀御融通宜く、御威信御仁恵下々江行届き候様に、越中守一命は勿論之事、妻子之一命にも奉懸候て、必死に奉心願候事。右条々不相調、下々困窮、御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、只今之内に私死去仕候様に奉願候。云々。」とあつて、執政として飽くまで身を以て天下の安危に任ぜんとする人の覚悟は、さすがに常人とは異なつて居ると感じたのであるが、たゞ自己の一身のみならず、妻子の身命までも犠牲にするといふ点が、少しく迷信家ではなからうかと疑つたのであつた。
その後私は、かねての素志たる徳川慶喜公伝の編纂を始めたが、その編纂員の一人に、旧桑名松平家の藩士であつた江間政発といふ人があり、藩の関係から、楽翁公については深い知識があつて、私が公を尊崇して居るところから、機会ある毎に、公の事蹟を話してくれたから私の公に対する理解が次第に深くなつた。就中江間氏が自ら書写編次して「撥雲録」と名づけた一書は、もと松平家に於て、公が親ら厳封せられたまゝ襲蔵してあつた文書が、年月を経た為め、明治二十七年に至り自然に開封発見せられた秘書であつて、それは公が執政中の一大事件として歴史上にも有名な、かの尊号事件に関する文書・記録である。この尊号事件は、従来世には公が幕威を擁して朝廷を圧迫し奉つたかの如くいはれて居るが、実はその正反対で、公は全く大義名分の為め、皇家の御為めに、毅然として諫諍せられたものであることがこの文書によつて明かに知られる。また同じ秘書の中に、「宇下の人言」と題する書冊がある。宇下の人言とは定信の二字を分解したもので、公がその経歴の大要を自ら記述せられた所謂自叙伝である。それには、七歳から読書し、十一・二歳にて歌を詠じ詩を賦し、また「自教鑑」を著して自ら戒められたることなどを始めとし、老中に任じて天下の大政に鞅掌せられた前後の事に至るまで、その時々の心情があからさまに記されてあつたので、私はそれによつて、公が少年の頃から博く和漢の学を修め、識見高く、志操確乎として、修身斉家はいふも更なり、治国平天下の道に深く心を用ひられたこと、趣味豊かにして人情も濃かに、而も尊王の志極めて厚く、誠に古今に比類稀なる御方であつたことを知つて、益々その崇高なる人格に敬服するやうになつたのである。これを要するに、公は天賦の英傑である上に、切磋琢
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磨の功を積んで、あの大人格を玉成せられたのである。
公は老中を退いて後は、溜の間詰を命ぜられて、幕政諮詢の員に備はつて居られたのであるけれども、幕府の政治には殆ど関与せず、専ら藩治に勉められ、傍ら文学・芸術に親み、また兵事・有職故実・本草学などにも深い研究を積んで、幾多の有益なる著述をせられた。将軍家斉公は、公の退職の後、幾もなくして復た田沼の余党水野出羽守忠友を任用し、頗る驕奢に耽つて政治に荒怠せられたから、高邁なる公としては、定めて苦々しく思はれたであらうが、「かの憂国の心あるべし、憂国の語あるべからずとも聞けり。言に出だすは心の深きにはあらじとか。」と、自ら「花月草紙」に記された通り、己れを持すること倍々恭倹にして、一言も政治を是非せられるが如きことなく、超然として夫の天命を楽み、七十二年の生涯を全うせられたのは、誠に古の聖賢にも愧ぢざる御方である。かの顔淵が孔子を評して、「之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し」といはれた言は、移して以て公の讚辞とすることが出来るであらうと思ふ。
私は自分の専管する東京市養育院が、公の遺択によつて成つたのを感佩して、明治四十三年以来、毎年公の忌辰たる五月十三日に、養育院に於て記念会を催して、祭典を執行し、且つ学者を聘して講演会を開きなどして来たが、此の如き盛徳ある楽翁公でありながら、未だ詳しい伝記が世に出て居ないので、私は深くこれを遺憾に思ひ、正確なる伝記を編纂したいと考へ、数年前これを公の御子孫である松平子爵に謀つて承諾を得たので、更に楽翁公の研究者たる三上参次博士に懇談したところ、博士も早くから公を欽慕し、既に大学卒業の翌年に「楽翁公と徳川時代」なる一書を公けにし、爾来更に詳密なる公の伝記を著作せんと欲して、常に資料を蒐集しその稿本をも作製して居られたが、今は臨時帝室編修官長として、専ら明治天皇御紀の撰述に従事しつゝある為め、到底他事を顧みる暇なく、また御紀の撰述終了までは一己の著書を公けにすることを好まぬから、従来蒐集した資料と稿本とを挙げて提供する故、他に適当なる学者を選んで、これが編纂を託せられたいとのことであつたから、協議の上、平泉澄博士にその編纂を委託し、一通り草稿は出来たが、同博士は遽に欧洲に留学せられることになつたので、その後、一切を挙げて中村孝也博士に委託した。斯くて中村博士修訂し、更に三上博士校閲し、私も亦反覆熟読して意見を述べ、尚ほ深く公の事蹟を研究して居らるゝ松平子爵家の松平稲吉氏に精読を請ひ、その縝密周到なる注意を承けて訂正を加へ、こゝに漸く本書を完成したのである。かやうに三上博士が資料と第一稿本とを提供して、平泉博士これを編纂し、中村博士の修訂せられたものであるから、孰れを著者とも定め難く、已むを得ず、私の著作として世に公けにすることにした。しかし私が嚮に徳川慶喜公伝を著したのとは全く事情を異にして居り、また世には私が如何に楽翁公を私淑しその事蹟を知つて居るとしても、歴史家でもなく文学者でもない者が果して真に正しい公の伝記の著者たるを得るであらうかと訝る人もあらうと、こゝにその顛末を叙する次第である。而して本書の稿本は私が会長である財団法人楽翁公遺徳顕彰会に譲与し、同会の事業の一つ
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として出版せしめ、先づ第一にこれを公の霊前に捧げる積りである。私は九十二歳の今日、漸く多年の宿望を達したことを特に欣快とするのである。
今熟々一般社会の状態を観るに、人心漸く弛廃して浮華淫佚に流れ、且つ政治界といはず経済界といはず、私利を趁うて公利を遺れる弊が頗る多く、心ある者をして眉を顰めしむるもの枚挙に遑なきばかりである。この時に当り若し一人にてもこの書を読んで、公が一家の身命を犠牲にして能く天下の艱難を匡救せられた至忠至誠の大人格に感興する士があるならば、独り私の喜びのみに止まらぬのである。
                  子爵 渋沢栄一述

右の序文は、今を距ること七年前、昭和六年七・八月の交に、祖父栄一が中村博士から修訂の成るに随つて送られる稿本を読みつゝ、家人に口授して筆記せしめたものであります。この文中にもある如く、祖父は遠からずこの書を世に公けにすることの出来るのを心から喜んで稿本を反覆熟読し、この点を今少し深く調べたい、こゝをもつと力強く書きたいなどと、種々中村博士に注文し、また或る時は自ら筆を執つて雌黄を加へたりして居りましたが、祖父が楽翁公に傾倒して居りましたことは、全く想像に余りあります程で、この公を後世に伝へるには、その徳に愧ぢぬだけの典雅な文字を以てしなければならぬと常に申して居り、随つて字句の上には、尚ほ一層の推敲を加へたい希望があつたやうでありますが、そのうちに不治の大患に罹つて、未だ脱稿といふまでに至らず、同年十一月十一日遂に不帰の客となりましたのは、如何ばかりか残念であつたであらうと推察せらるゝのであります。それでこの書は実は未定稿でありますけれども、文章の点はともかくも、祖父が公について言はんと欲する所は、もはや十分悉されて居るものと思はれ、また既に松平子爵の序までも乞ひ得てありますのでこのまゝ束閣するに忍びず、今度三上・平泉・中村三博士とも御相談の上、更に校訂を加へ、祖父の遺志に従つて稿本を楽翁公遺徳顕彰会に贈遺し、こゝに同会に於てこれを刊行せらるゝに至つたのであります。
  昭和十二年十一月
                   子爵 渋沢敬三


竜門雑誌 第五一九号・第三八―四六頁 昭和六年一二月 青淵先生と白河楽翁公とに就て 文学博士 三上参次(DK480003k-0002)
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竜門雑誌 第五一九号・第三八―四六頁 昭和六年一二月
    青淵先生と白河楽翁公とに就て
                 文学博士 三上参次
○上略
 斯う云ふ次第でありますから楽翁公を第二の恩人と致しまして、丁度慶喜公に対する慶喜公伝の出来ましたが如く楽翁公の伝を拵へて、此如き偉大なる人物であり、善政美績の多い方であるに拘らず、まだ日本の人には能く分つてゐないのである故に之を世の中に能く紹介し一つは以て自分の楽翁公に負ふ所の徳に報ひたい、と云ふ意味で伝記を書くと云ふお企がありました。それを大正十五年に――其御希望は
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もつと前からあつたのでありますが、大正十五年に私に一つやらないかと云ふお話があつたのであります。それは私が丁度大学を出ました翌年、即ち明治二十三年でありましたが、楽翁公に関する小さな書物を出しました、其書名は白河楽翁公と徳川時代と云ふ書物であつた。それは当時の人々、吾々の同輩の人達も、偉人の伝記を読むと申せば大抵マコーレーの書いた西洋人の書を読むとか云ふやうな有様でありまして、支那人や日本人の中に学ぶべき人があつても殆ど顧みられないと云ふやうな有様であつたのであります。丁度まだ書生の頃で頗る血の多い時代でありましたから、憤慨しまして一つ日本人にもこんな人があるぞと云ふことを知らせやうと云ふやうな考で、楽翁公に関する小さなものを書いた、それを青淵先生御記憶して下さつたのであります。其後私は楽翁公の事蹟を引継ぎ注意をして居ると云ふことを御承知でありましてお話になりましたのであります。それも亦私は大に心が動いたのであります。早速お受したいと思つたのでありますけれども、丁度其際私は大学を停年制の申合せで退きまして、それで自分の好きな研究をしやうと思ひました所へ、宮内省の方で帝室編修官長と云ふものになつて、明治天皇の御事蹟を是非明かに纏めて置く仕事をやれと云ふことでありまして、謹でそれをお受けしましたのでもう余裕が少いのみならず、明治天皇の御伝記を編修することを承つて置きながら、それのまだ出来ませぬ中に、青淵先生の委嘱これ亦軽く見ることは出来ない。又自分の平常師事して居る楽翁公の伝、之を書くと云ふことに付ては頗る食指が動いた訳でありますけれども、何分今やつて居る所の公務の果せぬ中に他の人の伝を書くと云ふことは出来難い関係がありますので、甚だ自分に取つても遺憾であり、青淵先生に対しても之に反対することは恐縮したのでありますけれども、事情を申して辞退を致しました。其代りに私が数年に亘つて多少集めて居りました所の楽翁公の伝記に関する材料及極て蕪雑なる第一草稿とでも言へば言ふべきものを持つて居りますので、それを総て青淵先生に提供をする、さうして之を誰か他の人に御委嘱下さいと云ふことを申上げたのであります。そこで青淵先生更に然らば誰が宜からうかと云ふことでありましたので、帝大の助教授の平泉澄博士が最も宜しからうと云ふので推薦致しまして、其人が新に伝を起草されたのであります。さうしますると青淵先生は又前に慶喜公伝に就て御熱心であらせられたと同様に、出来ました所の楽翁公伝の草稿をば御覧になりまして、御自分の批評も致し、此事柄は斯う云ふ風に見たい、云ふやうな御批評もあり、又他の材料から御自身で御見聞になつて居つたことに付きまして、此点はどうであらうと云ふやうな御批評もありました。殊に又平泉博士がそれを口語体に書いて居りました為に、楽翁公伝としては矢張文章体の方が荘重で好いやうに思ふと云ふやうな御意見もありました。そこでそれ等の御意見御註文は更に平泉氏が継続しやうとしましたときに、平泉氏は少し長く欧羅巴の方へ行くことになりましたに付て一寸頓挫を致したのであります。更に大学の史料編纂官でありました所の中村孝也博士に其事を頼みまして、孝也博士が熱心に文章を書き改め、且つ青淵先生の御意見のある所を参酌して又新に書
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上げたのであります。それを先生が此度の御病気になられます前、それから御病気になられて後まで、或は御自分でお読みになり或は他の人に読ませてお聴きになりましたのが全体の七分通りであるのです、もう後三分と云ふ所で此度の悲むべき出来事になりましたのは非常に遺憾な事と存ずるのであります。是は丁度慶喜公伝の出来ましたときに既に其前年に慶喜公が御薨去になつて居りました為に、青淵先生が若し此書物が慶喜公の生前に捧呈することが出来たならば如何に尚ほ此上喜びであつたらうか、と言はれて述懐されましたが、今日楽翁公の伝が余す所僅かにして溘焉として逝かれたと云ふことに付ては、其時と同じやうな遺憾、歎息の声を洩さゞるを得ないのであります。
○下略